樺太戦史

 更新日/2020(平成31→5.1日より栄和元/栄和2).8.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「樺太戦史考」をものしておく。1945.8.15日、日本はポツダム宣言を受諾し無条件降伏し武装解除した。ところがソ連軍は攻撃の手をゆるめなかった。これを確認しておく。

 2020.08.17日 れんだいこ拝


【樺太戦史】
 8.9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦。
 8.16日、ソ連軍は樺太でも満洲と同様の非道を繰り返した。
 8.17日、太平炭鉱病院の看護婦たちが逃げ場を失い集団自決する悲劇も起こった。

【千島列島占守島(しゅむしゅとう)戦史】
 「ウィキペディア占守島の戦い」その他参照。

 8.17日深夜-8.18日未明、ソ連軍先遣隊の海軍歩兵大隊が千島列島東端の占守島(しゅむしゅとう)竹田浜から上陸し侵攻を始めた。3時30分頃、ソ連軍上陸部隊の主力第一梯団(第138狙撃連隊基幹)が上陸を開始した。

 占守島は千島列島のほぼ最北端にあり、北東は千島海峡(ロシア名「第1クリル海峡」)を挟んでカムチャツカ半島ロパトカ岬に面する。南には幌筵海峡(ロシア名「第2クリル海峡」)を挟んで幌筵島がある。面積は230平方キロメートルで、海抜200メートルくらいの緩やかな丘陵が続き、沼地と草原である。オホーツク海と太平洋に囲まれ、夏季でも摂氏15度くらいで濃霧が覆い、冬季はマイナス15度の極寒の上に吹雪となる。

 日本側は、陸軍第5方面軍(司令官:樋口季一郎中将)隷下の諸部隊が、対アメリカ戦を予想して占守島・幌筵島の要塞化を進めていた。1945年(昭和20年)になると本土決戦や北海道本島防衛のため兵力が引き抜かれたが、終戦時点でも第91師団(2個旅団基幹)を擁していた。また、これまで北方方面はほとんど戦闘がなかったため、食糧・弾薬の備蓄が比較的豊富であった。さらに、満州から転進した精鋭の戦車第11連隊も置かれていた。海軍は千島方面特別根拠地隊を置いていたが、陸軍同様に主力を北海道へ移転して解隊してしまい、南部の片岡基地を中心に第51、第52警備隊などを配置している程度だった。航空戦力は陸軍飛行戦隊と海軍航空隊を合わせても、わずか8機の旧型機が残っていただけであった。日本軍は直接戦闘に加わったのは在占守島の8,500人のみで、残りの兵力は幌筵島にあった。

 以降21日まで、「士魂部隊」と呼ばれた戦車第十一連隊の精鋭彼らをはじめとする占守島守備隊の奮闘はソ連軍ソ連労農赤軍と大日本帝国陸軍が戦った。これを「占守島(しむしゅとう)の戦い」と云う。

 日本軍はソ連軍に大打撃を与え、敵を海際に追い詰めた。ところが、軍命により21日に日本軍が降伏して停戦が成立、23日に日本軍は武装解除された。ソ連軍の死傷者は約3,000人。しかし、日本軍死傷者約600人。捕虜となった日本兵はその後大勢がシベリアへ抑留された。

 ソ連軍は北海道侵攻を諦めた。この戦闘により、当初ソ連軍がもくろんでいた北海道占領が達成できず、日本の分断が防がれた。もし、この戦いで奮戦した方々がいなければ、今の朝鮮半島のように同じ民族が分断され未だに争っていたかもしれません。我々はこう言った陰に隠れて日本を護って頂いた人達の事も心に刻んでいかなければなりません。

 日本軍は第91師団部隊を掩護すべく陸海軍の飛行部隊も出撃させたが、対空砲火で九七式艦上攻撃機1機を失い、ソ連側によると特に戦果はなかった(ただし、日本軍側の証言によれば、未帰還となった艦攻1機は、ソ連軍艦艇を攻撃中に対空砲火により被弾し、別のソ連軍艦艇1隻に体当たり攻撃して自爆したとされている)。一式戦は九七艦攻を掩護するとともに掃海艇を攻撃している。なお、翌19日にも九七艦攻がソ連軍艦艇を攻撃し、その中の1機が赤軍掃海艇КТ-152に特攻し、これを撃沈した。生還した九七艦攻のうち着陸時に1機が損傷した。上陸したソ連軍部隊は、日本軍の激しい抵抗を受けたが、午前4時頃には四嶺山に接近。四嶺山をめぐってソ連軍と日本軍の間で激戦が行われた。悪天候のため、ソ連軍は航空機により陸上部隊を直接支援することは出来なかった。

 当初、日本側は上陸してきたのはソ連軍と断定できず国籍不明としていたが、次第にソ連軍と認識するに至った。ソ連軍が占守島に上陸したとの報を受け、第5方面軍司令官の樋口季一郎中将は、第91師団に「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と指令を出した。師団長の堤中将は、射撃可能な砲兵に上陸地点への射撃を命ずるとともに、池田末男大佐(死後、少将へ進級)率いる戦車第11連隊に対し師団工兵隊の一部とともに国端方面に進出して敵を撃滅するように命じた。同時に他の第73旅団隷下部隊に対してもできる限りの兵力を集結して全力でこの敵に当たるように命じ、幌筵島の第74旅団にも船舶工兵の舟艇による占守島への移動を命じた。これを受けて戦車第11連隊は直ちに出撃し、第73旅団でも沼尻に配備されていた独立歩兵第283大隊(大隊長:竹下三代二少佐)をソ連軍の東翼へ差し向け、その他の隷下部隊を国端崎へ前進しようとした。

 戦車第11連隊は、18日午前5時半頃から連隊長車を先頭に四嶺山のソ連軍に突撃を行って撃退し、四嶺山北斜面のソ連軍も後退させた。ソ連軍は対戦車火器(対戦車砲4門のほか対戦車銃約100挺)を結集して激しく抵抗を始め、日本戦車を次々と擱座・撃破したが、四嶺山南東の日本軍高射砲の砲撃を受け、駆け付けてきた独歩第283大隊も残存戦車を先頭に参戦すると、多数の遺棄死体を残して竹田浜方面に撤退した。戦車第11連隊は27両の戦車を失い、池田連隊長以下、将校多数を含む96名の戦死者を出した。

 その後、日本側の独歩第283大隊は国端崎に向け前進し、ソ連軍が既に占領していた防備の要所を奪還した。ソ連軍はこの地の再奪取を目指して攻撃を開始し、激しい戦闘となった。独歩第283大隊は大隊長が重傷を負い、副官以下50名余が戦死しながらも、要地を確保して第73旅団主力の四嶺山南側への集結を援護することに成功した。この戦闘の間、ロパトカ岬からソ連軍130mm砲4門が射撃を行ったのに対し、四嶺山の日本陸軍の九六式十五糎加農1門が応戦して全門の制圧を報じている。

 18日午後には、国端崎の拠点を確保し、戦車第11連隊と歩兵第73旅団主力が四嶺山の東南に、歩兵第74旅団の一部がその左翼及び後方に展開し、日本軍がソ連軍を殲滅できる有利な態勢となった。昼ごろに第5方面軍司令官から、戦闘停止・自衛戦闘移行の命令があったため、第91師団はそれに従い、18日16時をもって積極戦闘を停止することとした。しかし、実際には戦闘は続いた。夜までには、幌筵島の第74旅団も主力の占守島転進を終えた。ソ連軍は霧の晴れ間に航空機を飛ばして海上輸送の攻撃を行ったが、阻止するには至らなかった。 樋口は大本営に現状を報告。大本営は米軍を率いるマッカーサーにスターリンへの停戦の働きかけを依頼したが、スターリンはこれを黙殺した。

 18日16時は停戦時間であったが、なおもソ連軍上陸部隊(狙撃連隊2個と海軍歩兵大隊)は、日本軍に対して攻撃を仕掛けた。艦隊とロパトカ岬からの砲撃も手伝い、幅4km、深さ5~6kmにわたって橋頭堡を確保した。すでに反撃行動を停止していた日本軍は、無用の損害を避けるため後退した。ソ連軍航空部隊は間欠的に夜間爆撃を行った。ソ連軍の重砲・自動車など重量のある貨物の荷降ろしが完了したのは、翌日に日本側沿岸拠点に停戦命令が届き、その砲撃が無くなってからだった。

 第91師団司令部は、反撃を命じた当初から軍使派遣を考えており、18日15時、日本側は長島厚大尉を軍使として随員2名と護衛兵10名を付け、停戦交渉のため濃霧の中を派遣した。途中から長島大尉が単独で進んだが、ソ連軍に拘束されてしまい、両軍の連絡は確立されなかった。

 このため、翌19日朝、山田秀雄大尉らの新たな軍使を派遣し、今度は接触を確認できた。しかし、ソ連側は日本側の最高指揮官の出頭を要求して交渉に応じなかったため、柳岡師団参謀長や歩兵第73旅団長の杉野少将らが3度目の軍使として送られた。会談でソ連側は、停戦のみでなく武装解除などを要求し、日本側軍使は最終的にこれに同意した。報告を受けた堤師団長は、停戦以外の武装解除などについては授権していないとして、柳岡参謀長を再派遣し、交渉を行わせた。

 翌20日8時10分、片岡湾を目指すソ連艦隊6隻が幌筵海峡に進入を試みた。ソ連艦隊を発見した日本海軍第51警備隊の幌筵島潮見崎砲台は、高角砲により進路上への警告射撃を行った。これに対してソ連艦隊は一斉に砲撃を開始し、戦闘状態となった。日本側の砲台が応戦し、さらに艦攻2機を離陸させて威嚇飛行を行わせたため、ソ連艦隊は煙幕を展開して退却した。ソ連軍は、敷設艦「オホーツク」が戦死2人、負傷13人の損害を受けるなどした。ソ連側は、海峡への進入は前日の停戦合意に基づく行為であったと主張し、日本軍の行為を停戦合意を無視した奇襲攻撃だとしている。

 20日、地上でも戦闘は再開した。ソ連側は、幌筵海峡での日本側の背信があったため、攻撃に移ったとしている。

 20日夕、堤師団長は軍使を通じてソ連軍に降伏することを確約したが、その後も、武装解除を遅らせようとした。21日7時、ソ連軍司令官グネチコ少将は代理を通じて、堤師団長に対して、日本軍の降伏・武装解除の最後通牒を渡した。21日21時、日本軍から回答が得られ、ソ連艦上で、堤師団長は日本軍の降伏文書に調印した。23日にはソ連軍の監視の下で武装解除された。

 ソ連軍は大きな損害を受けながら、日本軍の武装解除にたどりついた。『戦史叢書』によれば、『イズヴェスチヤ』紙は「占守島の戦いは、満洲、朝鮮における戦闘より、はるかに損害は甚大であった。八月十九日はソ連人民の悲しみの日である」と述べている、という。また、ソ連側司令官[誰?]は後に「甚大な犠牲に見合わない、全く無駄な作戦だった」と回顧録を残している。両軍の損害は、ソ連側の数値によれば、日本軍の死傷者1000名、ソ連軍の死傷者1567名である。日本軍は武装解除後分散されたため、死傷者の正確な数をつかめなかった。ただし、日本軍人による推定値として、日本軍の死傷者は600名程度、ソ連軍の死傷者は3000名程度との数値もある。9月半ばまで両軍の戦死体は放置されたままであった。

 日本軍の被害が少なかった理由はいくつかある。

  • ソ連軍が上陸できる砂浜が狭い竹田浜しかなく、上陸地点が予想され、効果的に攻撃する事ができた。
  • 天候不良のため、ソ連軍は航空兵力による効果的な援護ができなかった。
  • 上陸前の強力な艦砲射撃や爆撃がなく、陣地の破壊が充分ではなかった。
  • 北方方面はほとんど戦場にならなかったため、日本軍の食料・弾薬があり、1日の戦闘には十分であった。

 占守島と幌筵島の日本軍を武装解除したソ連軍は、北部北千島の残部にデニーソフ海軍少佐指揮下の第一偵察部隊を派遣し、27日までに捨子古丹島までの日本軍を武装解除した。日本軍の抵抗はなかった。また、南部北千島の松輪島から新知島には、ウォローノフ大佐指揮下の第二偵察部隊を派遣した。ここでも日本軍の抵抗はなく、武装解除は順調に進んだ。このため、27日にウルップ島日本軍の武装解除の任務が新たに加えられ、31日までに任務を完了した。なお、択捉島以南の南千島の武装解除は、樺太を占領した部隊の任務だった。 武装解除され捕虜となった日本兵は、しばらくの間、兵舎の整備、越冬準備の薪の収集作業に使役されていたが、10月中旬に目的地も告げられぬままソ連船に乗船させられシベリアへ抑留された。

 民間人

 太平洋戦争期には、占守島には常住の民間人は別所二郎蔵氏一家をはじめ数家族のみであったが、夏季にだけ缶詰工場が稼働するため多数の工員が島を訪れていた。1945年8月15日時点では、日魯漁業の缶詰工場が稼動しており、女子工員400 - 500人を含む漁業関係者が在島していた。さらに、会社経営の慰安婦も50名ほど取り残されていた。また、海軍施設の建設を請け負った民間作業員も残っており、民間人の総数は2,000人を超えていた。

 8月15日以降、日魯漁業により、独航船(30トン級)を使って、早急に送還する計画が作られた。しかし、日本軍の許可が取れずに、占守島に留まっていた。戦火が小康状態となった8月19日16時、かねてからの計画通り、26隻の独航船に分乗し、ソ連軍機の爆撃を受けながら濃霧に紛れて脱出し、1隻を除いて北海道に帰還した。1隻は中部千島で難破して女工20人が現地のソ連軍に収容され、1948年(昭和23年)まで抑留された後に帰還した。女子工員以外でも、ソ連軍が日本軍を武装解除している隙に、独航船等を使って脱出したものも多かった。

 最終的には1,600名ほどの民間人が占守島に取り残された。その後、島にはソ連各地から移住して来る者が現れ、彼らと共に、漁業・建設労働に従事した。1947年(昭和22年)9月20日、日本に帰国を希望する日本人民間人全員は島を離れ、樺太・真岡に渡り、その後、北海道に帰還した。ソ連人と結婚した等の理由で島に残留した日本人も極少数存在したが、やがて島を離れた。






(私論.私見)