「生産管理闘争の意義と挫折」 |
日帝の敗北直後に日本人民大衆による「日本版バスチーユ監獄解放運動」は起らなかった。して、らしきものが何も起らなかったのかというとそういう訳でもない。被抑圧者階級によるそれなりの「反乱決起的生産管理闘争」が為されている。これをうまく組織できなかった。企業内運動にとどまり地域的なソビエトないしコミューンの樹立までに至らなかった。しかし貴重な経験である。しかるに、この史実が伝えられていない。 もし、かの時に優秀な現地指導者がおり、それを理論的にも実践的にも更に高みへ引っ張り、列島全域に展開させる前衛党派が居たら、日本の戦後は大いに変わっていた可能性がある。しかし、この当時を指導した徳球系党中央はそこまでの能力は持たなかった。やや情勢の流動化にひきずられた気配がある。しかしながられんだいこが思うに、徳球系運動は、至らないまでも至ろうとして賢明に立ち働く真紅の精神としては紛れ無いものがあった。GHQの干渉が無ければ政権奪取の機会が2.1ゼネスト時にあった。1949年の9月革命呼号期にもその可能性があった。しかし、流産した。 その根本的理由として、「ソビエト、コミューンの創出から始まる暴力的政権奪取に至ったロシア10月革命」を手本とする気概までは持ち得なかったことが考えられる。もう一つ、野坂ライン、宮顕ラインその他その他の獅子心中の内通者をあまりにも抱えすぎていたことに無自覚過ぎたことが考えられる。しかし、それもこれも含めて能力であろう。 そういう意味で、戦後直後に立ち現れた「生産管理闘争」は蜃気楼の如くに費えていった。しかし、この経験は貴重であり、この経験と思想を陶冶していかなかったことが日本左派運動の致命的な欠陥となり、この欠陥が今に至るも悪影響を与えている、左派運動の原資となるものが蓄積されていない、と観ずるのはれんだいこだけだろうか。考えように拠れば、動労千葉はこの系譜を今に継承復権させており、それが魅力となっているように思われる。同じく、もう一つの動労が如何に捻じ曲げているのかいないのかも興趣の湧く考察課題であろう。 2003.9.21日 れんだいこ拝 |
長谷川浩著「2.1スト前後と日本共産党」は次のように記している。「書記長徳田は、最初から『資本家が意識的に生産サボをやっている時にストライキなんかやってもダメだ。生産管理をやれ』と強調していた。それが彼自身の発想だったのか、あるいは読売新聞の動きなどを早くとらえてそう云ったのか、今は確かめるすべもない。しかしいずれにしろ生産管理は当時の共産党の労働者闘争の基本戦術、ストライキに代わる戦術であった」。 「生産管理の闘争は戦時中の軍事的労務管理を崩壊させ、民主主義のブルジョア的通念を突破し、労働者の日常的利益を守るとの労働組合の一般的概念を越える革命的要員を内包するものであった。その半面、運動は自然発生的であり、政治的思想的には未熟なものを多分に内包していた」。 「しかし、それは単なる戦術として評価されるべきものではなかった。なぜなら、それは敗戦という資本家階級にとって決定的とも云うべき政治的経済的危機に際して、階級闘争の過程で必然的に生み出された戦術であり、例え短期間であっても、これによって労働者は資本家・経営者抜きで立派に生産を管理運営することができることを実証し、また確信したからである」。概要「それだけではない。職場における労働組合活動、政治活動の自由を実現いるとともに、経営協議会を通して経営に対する一定の発言権、介入権をも承認させたのである。その意味で、一般的な民主主義の範囲を越えて、生産・業務の場における労働者の人間としての尊厳を擁護し、そこでの労働者階級の指導権を実現してゆく第一歩を実践した。それは資本の存立をも脅かす労働者の闘争の発展を約束するものであった。労働者階級は占領下という特殊な条件の生み出した微妙にして複雑な政治情勢のもとで、社会主義革命を目指す前進を開始したのである。戦後労働運動における生産管理闘争の意義はまさにこの点にあった。いろいろ反省点はあるにしても」。 |
1945.10月の読売新聞の業務・生産管理闘争を契機に、生産管理闘争が当時の労働組合運動の左派的戦術として発展していった。読売の闘争が突破口となり12.11日に京成電鉄に波及し、12.15日三井三池美唄炭鉱、46.1.10日、日本鋼管鶴見製鉄、1.15日、日立精機、1.17日関東配電群馬、1.26日沖電気、続いて江戸川化学、東京光学、東宝、東芝、東北配電、鉄道機器へと拡大されていった。生産管理は、1945.10月読売争議の一件、1946.1月には13件、3月39件と拡大していっている。 生産管理の拡大は、支配階級を恐怖に叩き込んだ。それは同時にプロレタリア革命の主体的条件を一挙に切り開いていった。実際は読売新聞争議の例を除き、ストライキに意味があったというよりは、賃金が支払えない資本家に代わって労働者が生産を管理することにより経営に当たるという必要から生まれたものであった。これを当時の徳球党中央が支援し次のような檄を飛ばしている。「資本家は一切合財全部サボタージュしている。なぜならば彼らは軍部や官僚と結合して戦時中しこたま儲けたし、食料も十分持っている。それにインフレによって物価はますます急速に騰貴するから、時を遅らせて生産するほうが彼らには利益である」、「我々はこの破滅から逃れるためには、即座にこの資本家のサボを克服する方法をとらねばならぬ。それは労働者の産業管理を外にしてはありえない」。 つまり、生産管理闘争は、労働者が生きるために止むを得ずとった防衛的な闘争手段であったということになる。このことは、労働者側は工場を占拠したが、これにより資本家が譲歩し要求が受け入れられると打ち切られ、企業内解決を見せていくことにもなったことを意味している。個別資本に対する闘いは所詮それ以上の力を持たなかった。「だが、争議手段としてのみ位置付けられ、また争議手段に終始していた生産管理闘争の拡大の中から、4月危機の爆発に備える階級的戦列の強化をはかる革命党の組織的指導の媒介はゼロに等しかった。つまり、反革命に打ち克つ準備がゼロのまま、生産管理、個別資本の譲歩による要求獲得に酔っていたのである」(田川和夫「戦後日本革命運動史1」)。 仮に、生産管理が、労働者による恒常的なものに発展していき普遍化するとなると資本家は不要となる。体制側はこれを恐れた。幣原内閣崩壊後における戦後最大の政治危機が訪れたとき、GHQは生産管理の弾圧に向かった。この頃から、資本家側の巻き返しが始まった。経営団体の創設と労働者の生産管理闘争を資本家と提携した生産復興闘争への取り込みが為されていくことになった。これがその後の労使協調路線のはしりとなっていく。 この間、共産党は、生産管理闘争が孕む階級闘争的意義を認識しえず、為にその指導も地域人民闘争戦術と結合させこれに有効な限りにおいて利用するという程度から出ることが出来なかった。個別資本から産業資本との対決へと闘いを発展させていく方針を示しえなかった。 労働組合の急速な組織化と生産管理闘争の爆発は、続いて食糧の自主管理闘争へと発展していった。戦時中の隠匿物資の摘発及び自主管理や米よこせ闘争を通じて市民食糧管理委員会の結成へと続いていった。東京の杉並区や世田谷区で先端的闘争が切り開かれていった。46.2.11日関東食糧民主協議会が労組を中心に結成されたが、「労働組合の生産管理、農民組織の供出米管理、市民の配給管理を結合した食糧の人民管理の実現こそ、我々が飢餓を突破する唯一の活路である」との方針を決定していた。 今日、この生産管理闘争が見直されねばならない。ご丁寧なことに、民同=社民派の「総評10年史」はこれを語らず、共産党も意図的に隠蔽している。生産管理闘争は、これをうまく結合して行けばプロレタリアートによる社会主義革命への物質的基礎としての橋頭堡足り得る可能性があったのではなかったか、この観点からの意義と限界が分析されねばならない。 安斎庫治・海野幸隆共著「終戦後における我が国の労働運動」では次のように述べている。概要「生産管理は、労働者に資本家の管理がいかに不合理を極め、無能であるかを教えた。またそれは、生産を担うものが労働者以外には無いということと、生産に対する資本の支配を排除することは、少しも社会的生産を妨げないということを、生産管理に参加したすべての労働者に現実の経験を通じて教えた」。 棚橋泰助氏の「戦後労働運動史」は次のように述べている。概要「共産党の規定は、当面する革命コースに直結し、天皇制権力にとって代わるとしたところに大きな飛躍があった。それ故、この中に含まれていた経営民主化や、生産復興の要求も正しく発展せしめることができなかったのである。経営民主化は、経営協議会の確立とその法制化による権限の定着化という方向に発展せしめられるべきであったが、それは放棄された」。 芝寛・海野幸隆共著「戦後日本労働運動史」では次のように述べている。概要「この管理闘争も一時的なものから恒常的なものに転換させ、経営協議会内での活動を政党と労働組合の指導で工場委員会活動に転換させることが必要であった。すなわち一方で労働者階級の民主的要求に基づく統一行動を通じて産業別単一労働組合を強化すると共に、それを通じて経営、企業の民主化を維持し、改善させめための工場委員会活動を強化し、経営協議会法、もしくは工場委員会の立法化を勝ち取ることが必要だったのである」。 田川和夫氏は「戦後日本革命運動史1」の中で次のように述べている。概要「資本主義の危機が鋭く露呈し、労働者大衆の闘争が爆発し、革命が現実の問題となっているときに、経営協議会法の成立などというブルジョア法体系に属する問題を論じるとはまことにのんびりとした話だ。戦後革命の爆発に対し、このような驚くべきことを教訓として引き出すとしたら、自らが資本主義の救済者としての立場を鮮明にさせただけなのである」。 |
![]() 「生産管理闘争」は徳球系共産党中央の指示によるものなのかも自然発生的に生まれたものなのか判然としない。この時期一定広がり最終的に流産した。1946.10.25日アカハタによると「労働者はその生活を擁護するために部分的に生産管理をしているけれど、これとて永続する希望は無い」とあるように、1946.10月頃の党中央は指導性を発揮する能力を持たなかったようである。これは、直接的には当時の労働者階級の左派成熟レベルを示しており、運動論的には徳球委員長を始め当時の指導部の指導能力の問題であり、あたら惜しい経験であったように思われる。れんだいこ史観によれば、野坂を迎え入れて以来の右派化の影響が大きいと見る。その後の日本左派運動が、この時期の「生産管理闘争」の意義を認めないままに推移したのは、かえすがえすも大きな損失となっているように思われる。(「生産管理闘争の意義と挫折」参照) |
れんだいこは、この頃の徳球系党中央が懸命に能力全開していたことを認めるのに吝かではないが、明らかに決定的な欠陥があった。それは一つに、「天皇制打倒」、「民主人民政府の樹立」を標榜していたものの社会主義革命の展望を明確に打ち出すことに躊躇していたことである。このことが生産管理闘争の発展を阻害させている。生産管理闘争を通じての工場委員会の不動の確立をバネにしての地域ソビエト、コミューンの確立へと向う道筋を遂に提起し得なかった。つまり、「政治的獲得物として正しく運用する指導も充分に為し得なかった」(長谷川浩「2.1ゼネストと日本共産党」)。この指導的弱さが、次第に生産管理闘争を雲散霧消させていくことになった、という経過が認められねばならないだろう。以来、日本階級闘争から生産管理闘争が久しく途絶え、はるか今日まで未完の大器として課題化されている。 |
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第4表 王子製紙の春闘賃金増額実績 | ||
1次回答 | 妥協額 | |
1954(年) 1955 1956 1957 1958 |
780(円) 864 1,334 1,072 727 |
1,197 1,451 1,724 1,912 1,053 (2次回答) |
第3図 苫小牧工場第二組合の構成 | ||||
大学卒 11% |
現場職制 17% |
男子ホワイトカラー (大学卒を除く) 30% |
女子(内98%が 事務員と看護婦)21% |
ブルーカラー (男子平社員) 21% |
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