「生産管理闘争の意義と挫折」





(参考文献、長谷川浩著「2.1スト前後と日本共産党」)

 日帝の敗北直後に日本人民大衆による「日本版バスチーユ監獄解放運動」は起らなかった。して、らしきものが何も起らなかったのかというとそういう訳でもない。被抑圧者階級によるそれなりの「反乱決起的生産管理闘争」が為されている。これをうまく組織できなかった。企業内運動にとどまり地域的なソビエトないしコミューンの樹立までに至らなかった。しかし貴重な経験である。しかるに、この史実が伝えられていない。

 もし、かの時に優秀な現地指導者がおり、それを理論的にも実践的にも更に高みへ引っ張り、列島全域に展開させる前衛党派が居たら、日本の戦後は大いに変わっていた可能性がある。しかし、この当時を指導した徳球系党中央はそこまでの能力は持たなかった。やや情勢の流動化にひきずられた気配がある。しかしながられんだいこが思うに、徳球系運動は、至らないまでも至ろうとして賢明に立ち働く真紅の精神としては紛れ無いものがあった。GHQの干渉が無ければ政権奪取の機会が2.1ゼネスト時にあった。1949年の9月革命呼号期にもその可能性があった。しかし、流産した。

 その根本的理由として、「ソビエト、コミューンの創出から始まる暴力的政権奪取に至ったロシア10月革命」を手本とする気概までは持ち得なかったことが考えられる。もう一つ、野坂ライン、宮顕ラインその他その他の獅子心中の内通者をあまりにも抱えすぎていたことに無自覚過ぎたことが考えられる。しかし、それもこれも含めて能力であろう。

 そういう意味で、戦後直後に立ち現れた「生産管理闘争」は蜃気楼の如くに費えていった。しかし、この経験は貴重であり、この経験と思想を陶冶していかなかったことが日本左派運動の致命的な欠陥となり、この欠陥が今に至るも悪影響を与えている、左派運動の原資となるものが蓄積されていない、と観ずるのはれんだいこだけだろうか。考えように拠れば、動労千葉はこの系譜を今に継承復権させており、それが魅力となっているように思われる。同じく、もう一つの動労が如何に捻じ曲げているのかいないのかも興趣の湧く考察課題であろう。

 2003.9.21日 れんだいこ拝


 長谷川浩著「2.1スト前後と日本共産党」は次のように記している。「書記長徳田は、最初から『資本家が意識的に生産サボをやっている時にストライキなんかやってもダメだ。生産管理をやれ』と強調していた。それが彼自身の発想だったのか、あるいは読売新聞の動きなどを早くとらえてそう云ったのか、今は確かめるすべもない。しかしいずれにしろ生産管理は当時の共産党の労働者闘争の基本戦術、ストライキに代わる戦術であった」。

 「生産管理の闘争は戦時中の軍事的労務管理を崩壊させ、民主主義のブルジョア的通念を突破し、労働者の日常的利益を守るとの労働組合の一般的概念を越える革命的要員を内包するものであった。その半面、運動は自然発生的であり、政治的思想的には未熟なものを多分に内包していた」。

 「しかし、それは単なる戦術として評価されるべきものではなかった。なぜなら、それは敗戦という資本家階級にとって決定的とも云うべき政治的経済的危機に際して、階級闘争の過程で必然的に生み出された戦術であり、例え短期間であっても、これによって労働者は資本家・経営者抜きで立派に生産を管理運営することができることを実証し、また確信したからである」。概要「それだけではない。職場における労働組合活動、政治活動の自由を実現いるとともに、経営協議会を通して経営に対する一定の発言権、介入権をも承認させたのである。その意味で、一般的な民主主義の範囲を越えて、生産・業務の場における労働者の人間としての尊厳を擁護し、そこでの労働者階級の指導権を実現してゆく第一歩を実践した。それは資本の存立をも脅かす労働者の闘争の発展を約束するものであった。労働者階級は占領下という特殊な条件の生み出した微妙にして複雑な政治情勢のもとで、社会主義革命を目指す前進を開始したのである。戦後労働運動における生産管理闘争の意義はまさにこの点にあった。いろいろ反省点はあるにしても」。


 1945.10月の読売新聞の業務・生産管理闘争を契機に、生産管理闘争が当時の労働組合運動の左派的戦術として発展していった。読売の闘争が突破口となり12.11日に京成電鉄に波及し、12.15日三井三池美唄炭鉱、46.1.10日、日本鋼管鶴見製鉄、1.15日、日立精機、1.17日関東配電群馬、1.26日沖電気、続いて江戸川化学、東京光学、東宝、東芝、東北配電、鉄道機器へと拡大されていった。生産管理は、1945.10月読売争議の一件、1946.1月には13件、3月39件と拡大していっている。

 生産管理の拡大は、支配階級を恐怖に叩き込んだ。それは同時にプロレタリア革命の主体的条件を一挙に切り開いていった。実際は読売新聞争議の例を除き、ストライキに意味があったというよりは、賃金が支払えない資本家に代わって労働者が生産を管理することにより経営に当たるという必要から生まれたものであった。これを当時の徳球党中央が支援し次のような檄を飛ばしている。「資本家は一切合財全部サボタージュしている。なぜならば彼らは軍部や官僚と結合して戦時中しこたま儲けたし、食料も十分持っている。それにインフレによって物価はますます急速に騰貴するから、時を遅らせて生産するほうが彼らには利益である」、「我々はこの破滅から逃れるためには、即座にこの資本家のサボを克服する方法をとらねばならぬ。それは労働者の産業管理を外にしてはありえない」。

 つまり、生産管理闘争は、労働者が生きるために止むを得ずとった防衛的な闘争手段であったということになる。このことは、労働者側は工場を占拠したが、これにより資本家が譲歩し要求が受け入れられると打ち切られ、企業内解決を見せていくことにもなったことを意味している。個別資本に対する闘いは所詮それ以上の力を持たなかった。「だが、争議手段としてのみ位置付けられ、また争議手段に終始していた生産管理闘争の拡大の中から、4月危機の爆発に備える階級的戦列の強化をはかる革命党の組織的指導の媒介はゼロに等しかった。つまり、反革命に打ち克つ準備がゼロのまま、生産管理、個別資本の譲歩による要求獲得に酔っていたのである」(田川和夫「戦後日本革命運動史1」)。

 仮に、生産管理が、労働者による恒常的なものに発展していき普遍化するとなると資本家は不要となる。体制側はこれを恐れた。幣原内閣崩壊後における戦後最大の政治危機が訪れたとき、GHQは生産管理の弾圧に向かった。この頃から、資本家側の巻き返しが始まった。経営団体の創設と労働者の生産管理闘争を資本家と提携した生産復興闘争への取り込みが為されていくことになった。これがその後の労使協調路線のはしりとなっていく。

 この間、共産党は、生産管理闘争が孕む階級闘争的意義を認識しえず、為にその指導も地域人民闘争戦術と結合させこれに有効な限りにおいて利用するという程度から出ることが出来なかった。個別資本から産業資本との対決へと闘いを発展させていく方針を示しえなかった。

 労働組合の急速な組織化と生産管理闘争の爆発は、続いて食糧の自主管理闘争へと発展していった。戦時中の隠匿物資の摘発及び自主管理や米よこせ闘争を通じて市民食糧管理委員会の結成へと続いていった。東京の杉並区や世田谷区で先端的闘争が切り開かれていった。46.2.11日関東食糧民主協議会が労組を中心に結成されたが、「労働組合の生産管理、農民組織の供出米管理、市民の配給管理を結合した食糧の人民管理の実現こそ、我々が飢餓を突破する唯一の活路である」との方針を決定していた。

 今日、この生産管理闘争が見直されねばならない。ご丁寧なことに、民同=社民派の「総評10年史」はこれを語らず、共産党も意図的に隠蔽している。生産管理闘争は、これをうまく結合して行けばプロレタリアートによる社会主義革命への物質的基礎としての橋頭堡足り得る可能性があったのではなかったか、この観点からの意義と限界が分析されねばならない。

 安斎庫治・海野幸隆共著「終戦後における我が国の労働運動」では次のように述べている。概要「生産管理は、労働者に資本家の管理がいかに不合理を極め、無能であるかを教えた。またそれは、生産を担うものが労働者以外には無いということと、生産に対する資本の支配を排除することは、少しも社会的生産を妨げないということを、生産管理に参加したすべての労働者に現実の経験を通じて教えた」。

 棚橋泰助氏の「戦後労働運動史」は次のように述べている。概要「共産党の規定は、当面する革命コースに直結し、天皇制権力にとって代わるとしたところに大きな飛躍があった。それ故、この中に含まれていた経営民主化や、生産復興の要求も正しく発展せしめることができなかったのである。経営民主化は、経営協議会の確立とその法制化による権限の定着化という方向に発展せしめられるべきであったが、それは放棄された」。

 芝寛・海野幸隆共著「戦後日本労働運動史」では次のように述べている。概要「この管理闘争も一時的なものから恒常的なものに転換させ、経営協議会内での活動を政党と労働組合の指導で工場委員会活動に転換させることが必要であった。すなわち一方で労働者階級の民主的要求に基づく統一行動を通じて産業別単一労働組合を強化すると共に、それを通じて経営、企業の民主化を維持し、改善させめための工場委員会活動を強化し、経営協議会法、もしくは工場委員会の立法化を勝ち取ることが必要だったのである」。

 田川和夫氏は「戦後日本革命運動史1」の中で次のように述べている。概要「資本主義の危機が鋭く露呈し、労働者大衆の闘争が爆発し、革命が現実の問題となっているときに、経営協議会法の成立などというブルジョア法体系に属する問題を論じるとはまことにのんびりとした話だ。戦後革命の爆発に対し、このような驚くべきことを教訓として引き出すとしたら、自らが資本主義の救済者としての立場を鮮明にさせただけなのである」。

(私論.私観)「生産管理」闘争の歴史的評価について
 
 「生産管理闘争」は徳球系共産党中央の指示によるものなのかも自然発生的に生まれたものなのか判然としない。この時期一定広がり最終的に流産した。1946.10.25日アカハタによると「労働者はその生活を擁護するために部分的に生産管理をしているけれど、これとて永続する希望は無い」とあるように、1946.10月頃の党中央は指導性を発揮する能力を持たなかったようである。これは、直接的には当時の労働者階級の左派成熟レベルを示しており、運動論的には徳球委員長を始め当時の指導部の指導能力の問題であり、あたら惜しい経験であったように思われる。れんだいこ史観によれば、野坂を迎え入れて以来の右派化の影響が大きいと見る。その後の日本左派運動が、この時期の「生産管理闘争」の意義を認めないままに推移したのは、かえすがえすも大きな損失となっているように思われる。(「生産管理闘争の意義と挫折」参照)

 れんだいこは、この頃の徳球系党中央が懸命に能力全開していたことを認めるのに吝かではないが、明らかに決定的な欠陥があった。それは一つに、「天皇制打倒」、「民主人民政府の樹立」を標榜していたものの社会主義革命の展望を明確に打ち出すことに躊躇していたことである。このことが生産管理闘争の発展を阻害させている。生産管理闘争を通じての工場委員会の不動の確立をバネにしての地域ソビエト、コミューンの確立へと向う道筋を遂に提起し得なかった。つまり、「政治的獲得物として正しく運用する指導も充分に為し得なかった」(長谷川浩「2.1ゼネストと日本共産党」)。この指導的弱さが、次第に生産管理闘争を雲散霧消させていくことになった、という経過が認められねばならないだろう。以来、日本階級闘争から生産管理闘争が久しく途絶え、はるか今日まで未完の大器として課題化されている。












(私論.私見)




"日本的労資関係"確立を促進した諸要因を考察したい。大河内一男によって、闘いの激しさ、支援体制の広がり、期間の長さ、そして、社会問題として全国的な注目を浴びたことにおいて、日鋼室蘭争議(1954年)、三池争議(1960年)とともに「戦後の争議史」を形づくる「山脈の三つの高峰」とされている王子製紙争議(1957〜60年)は格好例。経営側も労働側もイデオロギッシュ。

 1958年発表の総評組織綱領草案(それは三井三池炭鉱、北陸鉄道の職場闘争を模範としていた)に示された、職場闘争を通じた組合強化の路線。その挫折の結果、"日本的労資関係"が確立される。

 若手経営陣の代表。田中慎一郎(47歳)、浅田平八郎(43歳、慶応経済卒)ら者であった。かなり開明的な履歴。旧経営陣の封建的諸政策の改良に取り組む。「平和的民主革命を経営体制に実現する」というスローガンの下に工員、職員の「身分制」を廃止。賃金増額の実施。経済同友会に加入。「田中労政」は、「経営権」の「蚕食」まで許容するものではなかった。対共産党対策。組合との間に人事権の行使に関する同意約款を締結すべきではないと提唱した。王子製紙においても解雇に関する同意約款締結の組合要求を拒否。

 1950年代(争議前)に王子製紙の労政を立案、実行したのは、田中の「弟子」浅田平八郎本社勤労部副部長。浅田は、王子製紙本社従業員組合創立の中心人物であり、1948年にはその組合長を勤めた。そして、非組合員となった後も、組合幹部達との間に友好的な人間関係を保ち続けた。浅田は「アメリカの労使関係」を「理想」として「労使対等」の原則の下に労働組合を「尊重」し、労働条件の引上によって労使の協調関係を築き上げようと努力した。彼は、「生産性向上」のためには、労働運動に対する抑圧や労働強化は必要でなく、労働者の「納得」をとりつけつつ設備の自動化と労務管理上の諸制度の「近代化」によって「能率増進」を達成できると構想していた。古典的な労働強化、長時間労働、低賃金によって利潤増大をはかることは「経営者の恥」であり、そうした政策をとったのでは労使関係を悪化させ、かえって会社に損失をもたらすことになると考えていた。浅田が率いる争議前の勤労部は、組合との対決を通じて組合の体質を変革しようとする政策をとらず、「合理化」に反対し賃金の大幅増額を要求する組合の存在を前提として、労使関係の安定を追求した。その結果、能率増進は滞り、賃金水準は急上昇していった。

 田中、浅田は、「経営の日本的特質」を批判し、「近代化」することを目指した。その思考様式は、欧米に、“個の確立”を基礎とする社会すなわち近代の規範を求め、それを尺度として日本の「前近代性」を批判、克服しようとするもの(近代主義)であった。ただし、大河内一男、藤田若雄等の労働問題研究者が「近代」のモデルを主としてイギリスに求めたのに対し、田中の「近代的労使関係」の具体像はニューディール政策以降のアメリカであった。彼は個人の自立に肯定的価値を置きながらも、"契約の自由"の名の下に労働者団結を否認する立場はとらず、団体交渉を媒介とした"集団的労資関係"をあるべき労資関係とした。

 田中の"弟子"だと言われた、王子製紙本社従業員組合初代組合長(1946年)、その後、田中の下で十条製紙の工場長等を歴任した小野豊明(後に上智大学教授)は、「日本的経営」の特質を「稟議制度」に求めている。「だれも真の責任をとらない体制、全体としての責任の所在が不明確」な"無責任体制"を漸次克服=近代化し、最終的には稟議制度を「廃止」することを展望していた。

 浅田は、個人の職務権限、責任の明確化、客観化が、労働者の権利の尊重という点からも望ましいと考えた。重役、管理職、職制の「権限がはっきりしてくるとそこにはなんら暗いものもない」という状況が成立する。職務給制度とは、職務分析による職務権限、責任の明確化を前提とする賃金制度であり、個人としての権利意識の高い労働者にとっては「納得」されやすい制度であった。

 戦後の王子製紙の労務政策は1947年の「身分制」廃止、1949年の職務給導入、と常に先駆的であった。

 田中は、1949年「同一労働同一賃金」のスローガンの下、職務給制度を実施した。当時職務給は「職階制賃金」とも呼ばれた。1949年当時の平均基準内賃金の45.8%は「生活補完給」とその比例部分であり、「生活補完給」は「本人分」と「家族加算」から成っていた。「本人分」は職務、年齢、勤続、学歴に関係なく「一律」で「家族加算」は家族数だけによって決められた。残りの54.2%が職務給とその比例部分であった。366の職務は、その遂行に必要な習熟、知識、肉体的負荷等について点数をつけられ、その点数によって25の「職級」に分けられた。職務昇進は成績査定によって行われた。ひとつの職級には15〜17の「号俸」があり、査定によって号俸の昇給が行われる「レンジレート」の職務給(第5表)であった(10)。

 田中、浅田は「合理的」「科学的」な職務給は労働者の「納得」を得るだろうと考えたが、組合はこれに反対した。第1に、組合は企業に生活保障的機能を求める立場から、すなわち、昇給が頭打ちとなり中高年層が「生活できない」と批判した。

 田中は不完全な職務給を漸次完全な職務給に近づけ「年功序列」的要素を払拭すべきだと主張していた。しかし、王子では毎年組合要求への譲歩を重ねた結果、「年功給的」色彩がさらに強められていった。職務給導入に際しても組合との合意を重視する立場から要員削減がたいして進められなかった。こうして職務給は、職務昇進しない者の昇給の頭打ち、要員削減を徹底しえず、また、実際の労働の細分化=単能工化、個人作業化に着手することなく、1954年、早くも廃止された。

 職務給実施。雇用-解雇。団体交渉制度。福利厚生施設。「年功序列賃金」。「生産性向上」。

 田中は渋沢栄一の親戚に当り、さらに王子製紙のかつての最高責任者(専務、当時専務が最高位)大川平三郎の甥であった。田中慎一郎は欧米指向の"エリート=インテリ経営者"の極みであった。

 浅田は、労働問題に関する学問的議論に詳しいことを鼻にかける「インテリぶった」「高慢な」、しかも「冷たい」人間だと見られていた。

 経営路線の根本的革新を意図したのが、争議対策の中心的担い手である市村修平苫小牧工場管理部副部長(42歳、慶応経済卒、1981年王子製紙社長)と田中文雄取締役本社山林部長(48歳、1968年社長、1988年現在日経連副会長)であった。田中文雄は40代で取締役となり役員会でも大きな発言力を有していた。市村はまだ副部長にすぎなかったが、中島社長を辞任させ自らが社長となることをめざしていた熊沢貞夫副社長を後楯に争議対策および"合理化"を主導した。熊沢副社長は老齢(60歳)であったが、他の高齢の役員達とは違って社長の退嬰的政策に批判的であった。

 企業の将来に不安を抱き、経営拡大が遅く管理職のポストの増加が緩慢であることによる昇進の閉塞に不満を持った若手管理職、第二組合結成の中心となった大学卒は彼らの支持基盤であった。

 アメリカ式の管理会計制度導入。1952年組合幹部の感情を害する発言をし、ストによる停止損失の回避を望んでいた中島社長によって労務担当から外され、失意の底に沈んでいた熊沢に、市村は厳密な原価計算を基礎に資金調達、生産、販売等すべてのプランを網羅する「総合計画」の立案を勧め、熊沢は「総合計画」策定者として再浮上した。

 1953年3月21日、王子製紙取締役会は「総合計画委員会」設置を決定し、その委員長に熊沢が就任した。さらに1954年管理会計に基づく「総合計画」の要、コントローラーとして本社管理部が創設された。次に、市村は苫小牧工場の実地監査を実施し、IEによる「生産過程のむだ」の排除の必要を意識し、工場管理部設置を提案し、1956年10月、苫小牧工場管理部が発足すると自らがその副部長として赴任した。また、ほぼ同時に春日井工場管理部も改組され本格的なコントローラーとしての機能を備えるようになった(当時の王子製紙の工場は苫小牧、春日井の2工場のみ)。苫小牧工場管理部長を兼任した原質部長は名目的存在で実質的には市村が最高責任者であった。標準原価計算、予算統制、生産管理の要である工場管理部は従来とは異なる厳密な原価計算を実施し、機械設備、原料の取扱、労働者の作業遂行等操業実態の総合的把握に務めた(2)。そして、連操、要員削減、賃金抑制への道を探し始めた。その道に立ち塞がる障害は、「合理化」に反対する労働組合の存在、および、これを許容してきた勤労部の対組合政策であった。なお、こうした管理会計制度は、王子製紙に留まらず、日本の大企業各社に急速に普及しつつあった(3)。

 1960年1月従業員の大多数を吸収した第二組合(新労)の協力の下に能率増進策を推進した。1961年8月、完全操業を開始し、それとほぼ同時に大規模な配置転換、要員削減を実施した。市村は1960年6月より日本能率協会の指導の下「操業動態調査」(労働内容を運転、整備、情報、試験、待機、休憩に分けてそれぞれの時間を計測し、要員をどこまで削減できるかを確定するもの)を行い、完全操業実施のための休日追加要員、新設のクラフト紙生産部門(春日井工場)への150名の配転人員を、各職場の要員削減によって捻出した。

 要員不足が生じ死亡災害を含む労働災害が激増し、「労働負担が増大」。以上のような賃金増額の抑制、生産過程の"合理化"の結果、労働生産性は飛躍的に上昇し、労働分配率は急落した(第9図、第10図)。

 企業近代化に即応する従業員の資質向上のための体制を確立するために」1960年5月「苫小牧工場教育基本要綱」が制定された。そして、1962年8月、新設された「人事部」の中に「教育訓練課」が設けられ組織的な技能教育が本格的に開始されることになった。

 2.強圧的対組合政策

 「第一組合の良識化、第二組合への統合策の促進」は会社の基本戦略」。市村修平、田中文雄は争議対策の最先頭に立った。

 市村は、第一組合によって、苫小牧工場における組合分裂の影の「首謀者」であるとされている。彼が「工作」した苫小牧工場の新労(第二組合)。三事業所に新労が結成されると、8月14日、会社は「新組合の誕生に当って──会社は全面的に協力する」と題する「会社声明」を全従業員に配布し、苫小牧工場で新労結成の翌日(春日井工場では当日)夏期ボーナスについて回答を示し、これを支給する一方、第一組合の団交申し入れを拒否し続けた。したがって、当時、第一組合員はボーナスを受けとることができず、新労は、ボーナスについて「新労加入と同時に支払われています」と宣伝し、第一組合切崩しのために利用した。

 一方、田中文雄についても『王子製紙社史、戦後三十年の歩み』366頁に「長期ストライキに当っては畑違いの労使紛争対策に尽力」したとあり、また、彼は、第一組合によって本社および春日井工場における組合分裂の「影の指揮者」だとされている。そして、そのことは、本社の新労結成の公然面での指導者中村英雄によっても次のように語られている(9)。田中の第1の功績は「本社」で争議を「指導」したことである。自分は田中の部下(本社山林部員)であり、新組合結成に当って田中の「応援」を受けた。田中は取締役山林部長から常務取締役春日井工場長(1959年1月)、そして同年専務取締役に異例の昇進を遂げたが、それは田中が新組合結成に「深入り」したことの「結果」である。なお、中村は、東大経済学部在学中、共産党員として活動した経歴を有していた(10)。また、『週刊東洋経済』(1968年11月23日号、94頁)にも、田中は「春日井工場の争議対策を背後から指揮し……新労結成を支援した」とある。

 さらに、田中と市村は、戦前の共産党委員長田中清玄を使って王子労組内に「右派勢力」を育成した。田中文雄自身が、「九大林学科の同級生」である田中敏文北海道知事から「こうした争議は実戦経験のある専門家を頼まないと解決が難しい」と言われ「社長の了解をとって協力を受けることにした。ただ、田中清玄氏らとの関係は表ざたになってはまずいと思い、長い間、中島社長、早川苫小牧工場長、市村修平君と私だけの秘密にしていた」と日本経済新聞紙上で語っている(「私の履歴書」1983年10月24日)。

 以上のように、彼らの労務政策の要には、組合内部への介入による「右派勢力」の育成、組合分裂の「支援」という不当労働行為が存在していた。このような不当労働行為は、近代主義的労務担当者浅田らの労政の中には見出すことができない。争議前に、不当労働行為がほとんど存在しなかったことについては、第一組合の幹部達も認めている(11)。また、市村達の対組合「工作」においては、田中清玄等元共産党員が重要な役割を果たした。市村は、元共産党員をも活用した「工作」遂行能力を次のようにして身につけたのである。市村は、第2次世界大戦中、中国河北省で戦闘に参加した独立混成第1旅団、第73大隊の情報主任であった。彼の上官は沼田稲次郎であり沼田は戦地においてマルクスの著作を本棚に並べていた。情報将校である沼田や市村の任務は、中国共産党に対抗するための「政治工作」だったからである。市村は沼田から学んだ「謀略」のやり方が争議で役立ったと語っている。

 3.企業共同体意識の強化



 市村修平、田中文雄は、管理会計、IEというアメリカ的手法に学びながらも企業共同体意識の強化を目指した。近代主義的労務派が、経営における"個の確立"を目指し、日本の企業社会の文化的変革を指向したのとは対照的であった。そして、彼らの政策は彼らだけの発想ではなく、波多野鼎元農林大臣(片山内閣)主宰の労働文化研究所(社会党右派系、三池争議にも深く関与)、日本能率協会、田中清玄、佐野博、鍋山貞親ら元共産党員等数多くの"コンサルタント"と市村達の経験および知恵の結晶であった。

 市村達は職務給について「余りに理論に走り」(2)現実を軽視したものだと批判的であった。そして、職務給を破綻させた事情、すなわち、労働の共同的多能工的あり方を能率向上に利用した。1960年代にはさらなる多能工化(3)によって要員を削減し、共同作業の基礎の上に職場自主管理活動を組織し、また、彼らが職務給化の路線をとらなかったことによって、属人的な年功賃金を通じた企業の生活保障的機能も維持されることになった。

 @「終身雇用」の社是の確立

 1961年4月、"大合理化"を前に会社は新労(事業所別組織である各工場の新労とそれによって構成される企業連である連合会)との間に「従業員としての地位の保障」を前提として「近代化」=能率増進を進めることを明文化した次のような「近代化協定」を締結した。「会社と連合会および新労組は、労働協約に謳われた五原則に基づき、これを具体的に推進するため、長期的展望に立って合理的操業体制の確立、新設備新技術の導入、企業規模の拡大など企業全般に亙る近代化を実現し、以って従業員としての地位の保証の上に立って、生産性の向上による企業の発展と労働条件の向上を図ることを相互に確認する。なお、この近代化の推進に当たり、@労使は必要事項につき事前に誠意をもって十分話し合う。A会社は要員の査定に当り、安全操業及び労働負荷の適正化に十分留意する。B会社は配置転換に伴う諸問題を円滑に解決するため、必要により配員委員会を設ける」(4)。この協定は「従業員としての地位の保証」の一文に示される通り首切りをなくし終身雇用を保障するものとして宣伝された。王子製紙では、戦前より職員に関しては「終身雇用」の慣行が「確立」(5)しており、中島社長は戦後樺太等外地工場からの引揚者の内、職員についてはほぼ全員を再雇用した。しかし、工員で再雇用された者は3分の1にすぎなかった(6)。(旧)工員をも包括する形での"終身雇用"は、市村達によって王子製紙史上初めて社是として確立した。「近代化協定」は新労の要求に会社が応じる形で締結された。しかし、新労の要求書提出は1961年4月12日、執行委員会における「完全雇用」要求の決定は、1960年9月28日(7)だったのに対して、その1年も前の1959年11月16日発行の会社側の秘密文書(8)には、「合理化」が「首切りにつながるという不安」に対して会社がとるべき「解消策」としては「完全雇用協定という手段がある」と記されていた。新労は会社のシナリオ通りに要求して成果を"獲得"し「日本の労働運動史上未曾有の大成果」(9)と宣伝したのである。

 A学歴差別解消への指向

 B職場"自主管理"活動の組織化

 彼らは、近代主義者が職務給の論理に従って"職場共同体"の個人への解体を意図したのとは違い、作業の共同的多能工的性格を維持、再編しつつ職場自主管理活動を組織した。"職場共同体"への帰属意識の強化は「運命共同体」に擬せられた企業への帰属意識の強化につながった。

 C企業への情緒的一体化の追求

 スポーツの振興、宗教的感情の活用、労働者との直接的接触を通じた、労働者の企業への情緒的一体化が指向された。

 また、田中文雄は長期ストの直後、従業員統合のシンボルとして春日井工場内に神社を新設し熱田神宮と秩父の安全の神、出雲大社の生産の神の「三つの御神体」を祭った。すなわち、企業帰属意識の強化のために労働者の宗教的感情をも活用しようとしたのである。さらに、彼は争議中(1959年)の伊勢湾台風(春日井工場は愛知県)に際しては従業員の内の被災者の救済活動を「大々的」に行い労使関係は「愛情と信頼」の関係だと宣伝した。ま

 そして、こうした経営者の姿勢に呼応するように、新労(全労会議加盟)は、全労のスローガンである「生産協力、分配対立」を掲げながらも、「資本蓄積」における労使の「利害」の「基本的一致」を認め「労働者が経営者の気持」になり「経営者が労働者の気持になって物を考え」るべきだと呼びかけた。このような表現においては、労働力商品の売手と買手との間のエゴイスティックで打算的な関係など存在しないかのようである。

 終身雇用の社是の確立にしても、単に、高度成長期という当時の経済的環境に還元することはできず、争議の教訓化という側面をもつものである。経済的環境は条件のひとつにすぎない。高度成長期の成長産業においても熟練の陳腐化した中高年労働者の解雇、若年労働者への代替が考えられうるからである。また、「完全操業」体制の下でも各労働者の週休日を確保しようとしたことも、「左派分子」の再度の台頭を恐れてのことであった。前掲の文書には次のようにある。「左派イデオロギーの再浸透」を防ぎ「労使の安定関係」を「維持」するためには「労働条件の安定的長期的引上げ」が「必要」である。休日返上の「13日連操」は「生産性向上という進歩的意義のものではなく」「保守的意義のもの」である(戦前は王子製紙も休日返上の13日連操、各労働者の休日は月2日)。「組合員がもっている連操否定の感情をほりくずしていく」ためには、週1日の休日の確保は「なんとしても実現してゆかねばならない」そうしなければ労働者は「左派分子の宣伝攻勢にまきこまれていくことになる」「凡ての従業員に厳密に8時間労働をさせ」「労働における無駄を省」き「過剰要員」を浮び上らせ「この過剰要員」を「休日に稼働」させれば「労働日の延長」なしに連操を「現在の労働者数」で「実行」できるはずである(20)。

 王子争議における労働者の闘いの原動力の一つは、「首切り」そして、「戦前の状況」への回帰に対する危機意識であった。王子争議では、労働協約改訂(ユニオンショップ制廃止)が労使間の対立点の一つとなったが、王子労組執行部は「会社の協約改訂」の「目的」は「首切り」(21) だと訴え、過半数の一般労働者もそれを受け入れていた。沼田稲次郎都立大教授(当時)が、苫小牧工場の現場労働者575名を対象に行ったアンケート調査(1958年12月)では、56%が「首切りをふせぐ」ためにユニオンショップが必要だと答えた(22)。また、第一組合のビラである『闘争ニュース』は第2次世界大戦前、戦中の状況を思い出せと訴えた。「安い日給で、十二時間労働で、コキツカワレ、イジメラレ、ナグられながら」「歯をくいしばって頑張ってきた、昔の時代をもう一度考えてみよう」再び「会社はいまその状態を我々におしつけようとしている」「職場をカンゴク部屋にしようとしている」戦後「我々の組合」が生まれ「反民主的」職制を「追放」した「あの輝かしい時代」「ミジメナ、ジメジメした毎日が『カラット』晴れあがり「共によろこび泣いた、あの時のこと」を思い起こせ(23)。そして、組合結成の最大の「動機」であり、結成されたばかりの組合が最初に勝ちとったものは、工員、職員の「身分制」の廃止であった(24)。第一組合は、協約改訂、組合組織の破壊が「首切り」に直結し、「戦前の状況」への回帰すなわち「低賃金」、長時間労働(戦前は12時間労働、休日は月2日)(25)、「身分制」の復活を結果すると宣伝したのである。そして、市村達の労務政策は、このような宣伝の受け皿となった労働者意識を踏まえ、それを包摂することを意図して立案された。

 以上のように彼らの政策は企業を「愛情と信頼」を絆とする「共同体」として押し出し、労働力の売り手と買い手との間の利害対立、および、管理者と一般労働者の間の支配−服従関係を少なくとも表面的には曖昧にようとするものであった。王子製紙におけるこうした政策の本格的開始の約2年後、日経連は「日本的」労務管理の「再評価」(26)を宣言(1963年)する。この変化は、各企業における「近代主義」的施策の失敗、および、いくつかの争議の中で表出された労働者のメンタリティに対する対応であるとともに、高度成長の展開の中で経営者が得た「日本的」なるものについての自信と深く関わっていたのではないだろうか。ただし、市村達の労政は、旧工員をも包括する"終身雇用"の宣言、旧工、職間の「機会均等政策」、生産過程における支配−服従関係の"緩和"の追及、経営者も労働者も「対等」な企業の構成員であることの強調という点で、職員、職工の「身分制」、庇護−服従の親子関係への労使関係の擬制に特徴づけられる戦前(1920、30年代)の藤原銀次郎の「家族主義」とは著しく異なっていた。すなわち、戦前への単純な回帰ではなく、戦後における社会変化や労働組合運動を経験し権利意識を高めた労働者をも包摂しうる新たな労務政策であった。雇用を保障したとされる「近代化協定」も会社の温情としてではなく、成文化された協定として、少なくとも形式上は労働組合の要求に会社が応じる形をとって締結されたのである。

 こうした「日本的」なるものの活用は、近代主義者田中慎一郎とは著しく異質な市村達の個人的性格と関わっていたのかもしれない。田中慎一郎が財界でもトップレベルの名門の出自だったのに対して、市村は長野県の造り酒屋、田中文雄も長野県の小学校教師の息子でしかなかった。市村は「謙遜な態度」の「縁の下の力持ち」として上司をさしおいて前面に立つことを避けつつも必要とされる場面で適切な方法により上司を助けた。「それだけに、上司は市村を信頼し、会合、会議には好んで市村を同伴した。」また、部下に対しては親分肌で面倒見が良かった。争議中に負傷した新労組員の家族の前で土下座したり、第一組合苫小牧支部支部長市川年雄の説得に当っては「はだかで話合おう」と一緒に入浴する等、体当たりの浪花節的行動で人の心をつかんだ。一方、田中文雄は一見、柔和で温厚な紳士で、自己の主張を述べるよりも聞き役であろうと努めた。彼は自分の意見、立場を明確にすることを慎重に避け、中島社長と熊沢副社長の対立に際しても、市村が熊沢派としての立場を鮮明にしていたのに対し、田中は両者との友好関係を保った。熊沢は田中文雄の社長就任時に田中を指して「人を手玉にとるのは当社随一」と語った。つまり、田中文雄は、近代主義者田中慎一郎の言う「陰湿」な「サラリーマン社会」の体質を地で行くような人間であった(27)。


   第2章 争議前半期───労働者の「基本的勝利」───



王子争議は、1957年11月の「慰霊スト」実施から1958年12月145日間の長期ストライキの解除までの"前半期"、すなわち、争議開始から労働者の「基本的勝利」に至るまでの時期と、1958年12月から1960年1月の"後半期"、すなわち、第一組合のスト解除、就労時から第一組合の雪崩のごとき崩壊に至るまでの時期に時期区分される。

この第2章では、その内、前半期を分析する。

  第1節 王子争議の開始

 1.社長、組合攻撃を決断



 会社の争議対策の中心人物である市村修平の言葉によれば、宥和的対組合政策を清算し、組合の「体質変革」のために強硬な手段を採ることを、中島慶次社長が決定したのは、1957年9月頃であった。そして、その決定に当っては「社外」からの「社長に対するアドバイス」(1) が大きな意味をもったという。この「アドバイス」の主体、その内容は、市村の言葉からは明らかではないが、争議当時、現場に密着して分析を試み、組合幹部や経営者とも接触していた藤田若雄によれば、事情は次の通りであった。1957年4月、勤労部は、王子労組からの、「レッド・パージ」による被解雇者の「復職」要求に対して、「従業員並の生活の保障」のための資金を被解雇者に供与することを認め、このことは全国的注目を浴びた。すなわち、同年の総評大会でも紙パ労連の提案により「各単産が権利を守る闘いの一環として復職闘争を組織する」ことが決議された。これに関して、日経連は中島社長に対して批判的要請を突き付け、そして、中島を追落し自らが社長になることを狙っていた熊沢貞夫副社長が、この時、中島を批判したという(2)。

 また、1957年9月とは、「レッド・パージ復職闘争」の提案者であった市川年雄が、組合員の7割を占める苫小牧支部の支部長選挙で、現職候補戸部卯吉を破って当選した月でもあった。市川の当選は、特に、中島社長にとって、自己の面子、進退に関わる由々しき事態だったと考えられる。なぜなら、「復職闘争」の問題は、戦前、戦中、日本の財界に君臨した藤原銀次郎の直系の後継者として、極めて高いプライドを持っていた中島社長にとっては、他企業の経営者から組合に対する弱腰を後指さされ、日経連から批判されたという点で耐えがたい屈辱だったと思われるからである。

 そればかりではない、この事態は、中島の追落しを策する熊沢副社長にとって、絶好のチャンスだったに違いない。その「復職闘争」の「旗手」市川が支部長に当選したのである。これまで労務政策にほとんどタッチしてこなかった中島社長も、重い腰を上げざるをえない所に追い込まれたというべきであろう。さらに、市川の当選は、連操を中心とする「合理化」の必要性という点からも、王子経営者にとって不都合な事態であった。市川が強硬な連操反対派だったからである。

 市川年雄は、生産現場出身(汽力部のボイラーマン)の社会党員で、向坂逸郎の社会主義理論を学ぶための「社会科学研究会」に所属していた。彼は、当時、連操に対して妥協的態度を示し始めていた、現職候補戸部卯吉に対抗するために、社会党王子労組党員協議会の決定に基づいて立候補した(3)。市川の中心的推薦者は、同じ汽力部の職場の荒田俊夫(当時苫小牧市教育委員、ただし荒田は社会党員ではない)で、荒田は市川を、連操による「労働強化」を被る現場労働者の利益を守る候補として推し出し選挙運動を進めた(4)。これに対する現職の戸部は、王子労組中央執行委員長等を歴任した経歴を持ち、下馬評では「当選確実」とされていた。市川がレッド・パージ復職闘争によって俄に名を知られるようになったばかりの「新人」だったからである。そこで、戸部は選挙運動期間中、紙パ労連代表としてソビエト連邦に「外遊」し、留守であった。しかし、戸部の連操に対する態度、そして、「料亭」で会社重役と飲む等の行為は次第に労働者の反感を買うようになり、彼が所属する原質部(パルプ製造部門、ブルーカラーの職場で戸部も現場労働者)の組合職場組織が戸部の推薦を拒否するに至った。そこで、戸部の「外遊」中、中央大学卒のホワイトカラー遠山五十二が副支部長に立候補して事務系職場の力を借りて戸部の選挙運動を進めた(5)。結果は市川が当選(1498対1229)、副支部長選でも、市川とペアとなった山内義衛(社会党員)が遠山を1398対1377で破った(6)。破れた戸部卯吉と遠山五十二は、翌年第二組合結成の中心人物となった。

 当時の王子製紙が、企業間競争の状況、シェアの急落から言って、連操を中心とする「合理化」を迫られていたことについては第1章で詳述した。市川の当選が、「合理化」推進の必要を強く意識してきた、市村修平苫小牧工場管理部副部長、田中文雄本社山林部長、また、老齢の役員ながら社長の退嬰的経営政策に不満を抱き市村の後盾となってきた熊沢副社長に、組合との闘いの開始の必要を意識させたことも間違いないであろう。そして、勤労部について「弱腰」「ことなかれ主義」「勤労が花形になるためには強い組合が必要だから、勤労は強い組合を育成している」(7)等と不満を高めていた若手管理職、いまだ組合員である大学卒業者達は、市村達に追随していったのである。

 

  《補足》レッド・パージ復職闘争

 1950年のレッド・パージで解雇(形式は依願退職)された苫小牧工場労働者10名のすべては生産現場の労働者で、20歳台の「新進気鋭」(8)の活動家が多く10名中4名が組合の執行委員であった。そして、彼らのその後の生活は「悲惨の一語に尽きる」ものであった。佐藤正義は、結核のために、「家財道具」の殆どを売りつくして「布団一枚」で「愛児」(6歳)と2人で暮らしていたが「生活の不安が死期を早めたのか」「枯れるように死んでいった」。木村保は「僅かな退職金と組合員のカンパを資本にして」「おかず屋」を始めたが「人の良さ」から「詐欺」にかかって破産した。その後室蘭の富士製鉄等の臨時工として働いていたが、レッド・パージの焼印はついてまわり、前歴が知られると解雇され、転々として日雇仕事をしなければならなかった。5人の家族をかかえていたので妻が馴れない仕事に出たが「指を切断」するという惨事にあった。そして、その後も不安定な生活は続いた。室田英雄は、実兄の下で一時農業を手伝っていたが「兄の世話のみに頼ってはいられない」と運転免許をとり日通に臨時工として入った。しかし、本工採用の直前、レッド・パージの「前歴詐称」を理由として解雇された。その後親類の経営する小工場その他に勤めたが営業不振で退職を余儀なくされ、1956年当時は毎日職業安定所の窓口に並ぶ有様であった。レッド・パージ該当者の内、就職に成功し復職を希望していなかった者も居たが、大部分が不安定な生活を強いられており、復職を強く希望していた(9)。

 レッド・パージ該当者を復職させるための闘争=レッド・パージ復職闘争を提起したのは、社会党王子労組党員協議会であった。この闘争は、1956年11月の定期大会で、市川年雄代議員が緊急動議として提案し満場一致で可決されたものである。復職闘争は、執行部が提案したものではなく、その頃執行部内では、この闘争に関する意志統一がとれていなかった(10)。王子製紙労働者、組合役員の政党所属については第3章で詳述するが、共産党員及びその支持者は極めて少なかった。したがって、労働者が「復職闘争」を支持したのも、イデオロギーからではなくかつての職場の仲間の「窮状」を見かねての「素朴な人情」からであった。

 復職要求に関する団体交渉は、1956年末から1957年初めにかけて行われ、組合は春闘の賃上げ要求と一緒にしてスト権一般投票を行い、3月30日、賛成2876反対922(組合総数4382)でスト権を確立した(11)。交渉の結果、会社が譲歩し、復職は認めないが、会社が資金を与え従業員なみの生活を可能にすることとなった。具体的には、ある者には、会社が自動車を与え社宅内のゴミ集めをさせ、他の者には、資金が与えられ食料品販売に従事させた(12)。

 この頃、全国的にレッド・パージで解雇された者の闘争が広がりつつあったが、そのほとんどが当該本人と企業の間の法廷での争いであり、労働組合が機関決定により復職闘争を進めることはほとんどなかった。このような状況の中で、王子労組が復職闘争において一定の成果をあげたことは、広く注目されることとなった。

 

 2.労働災害と「合理化」反対の意識

 以上のように、経営者は対組合強硬策の断行を決定したのであるが、他方、労働者側にもまた、「合理化」に対する態度を硬化させる"引くに引けない"事情が存在した。それは死亡労働災害の続発(1957年1年間に5名死亡)であった。王子製紙は他の年においては同業他社に比べ労災の多い企業ではなかったが、この年は特に労災強度率が上昇したのである(第1章第12表参照)。死亡災害は、生産現場の労働者に、「合理化」に対する強い危機感を植えつけ、会社に対する怒りを燃え上がらせる結果をもたらした。

 労働者の反「合理化」感情を、ベテランと新人の対決である前述の支部長選挙の得票数(1498対1229)によって判断してはならない。翌1958年4月に行われた一般投票(苫小牧、春日井両工場、東京本社の3事業所合計すなわち王子労組全体)では連操反対3281、賛成625であり、連操の影響を受けないホワイトカラー等を除く労働者は、ほぼ100%反対票を投じたのである(13)。この反対者数は、2年前の1956年に行われた連操に関する一般投票の結果(連操反対2040、賛成1980)に比べると、著しく多いものであった(14)。この高い反対率は、1956年提案の連操が指定休日制の13日連操(装置は13日間連続運転、労働者は7日に1日の休日)だったのに対して、1958年争議中の連操提案が12日連操(労働者も設備もともに12日間連続操業し2日まとめて休む)であり、各労働者が12日間連続勤務を強いられ「番方交代時」には退勤から次の出勤までに7時間しかないという状態も生じることの結果であったと推測される。しかし、同時に、当時、組合執行部は、労働災害の急増の影響であるとも考えていた(15)。なぜならば、死亡災害以降、他の一般投票においても、労働者大衆の会社に対する怒りの高まりが、歴然としていたからである。すなわち、1957年6月22日の夏期一時金要求に関するスト権一般投票のスト賛成者は3106名(反対840名)で組合史上最高、11月11日の年末一時金、安全衛生問題の団交事項化をめぐるスト権一般投票では、スト賛成3051、反対586と、スト反対者は組合史上最低の票数であった(第3表)。

 5名を死亡に至らしめた重大災害3件の内第1件目(3名死亡、1名重傷)は、1957年3月1日、春日井工場(愛知県名古屋市近郊)で発生した。これは、工場休転日に、クラフトパルプ蒸解廃液中から薬品を回収する係の者が、コンデンサーウェル内に準備作業に入ったところ、内部に滞留、充満していた高濃度の有毒ガス(硫化水素、メルカプタン)のために倒れ、さらに救いに入った者が相次いで倒れ、傍に監督していた職制がこのガスを吸入して重傷を負った事故であった(16)。クラフト法と呼ばれる春日井工場のパルプ製造法は、特有の悪臭を伴い、付近住民からは公害発生源とされたが、この悪臭源は硫化水素等の有毒ガス成分であった。こうした有毒ガスが滞留しやすい場所で、ガス検知器による測定、ガスマスク着用等の対策が全く無いまま作業させたことは、会社のミスであった。

 この災害による殉職者は、数年前苫小牧工場から転勤した者であったため、旧知の多い苫小牧の労働者の間に、大きな悲しみと怒りを呼び起こした(17)。これを契機に組合は、業務上の死亡、傷病による退職者に対する、退職金への特別退職手当の加算を要求し獲得するとともに、1957年6月の労働協約更新期に当って、安全衛生問題を団交事項に変更することを要求した。従来会社の諮問機関であった安全衛生委員会を、労使の協議機関に変え、協議整わない時は団交に持ち込むという内容に労働協約を改訂することを要求した。従来の諮問機関では、組合が会社の方針に反対しても、"そうですか、一応聞いておきます"で片づけられ得るからであった。一方、会社側は「安全衛生管理」は本来経営者が自らの責任において実施する事項であり、「組合案の如く団体交渉」において「その具体的施策を決定するような事柄とは考えない」(18)と組合の要求を拒否した。

 8月12日、今度は苫小牧工場の変電所で、充電テスト中に、持っていた検電器に短絡し、重傷を負った末、翌日病院で死亡するという事故が起こった(19)。その原因は、作業合図の誤認と電圧確認の不充分であり、その限りでは本人の不注意に責任がある事故であった。しかし、この災害は、部長および課長の立合いの下における事故であったので、組合は「作業監督にあたって、安全対策の徹底を欠いた職制、即ち管理の立場にある会社に重大な責任がある」(20) として、さらに厳しく会社を非難した。そして、年末一時金要求に、安全衛生問題を団交事項にせよとの要求を加え、かつてない断固たる態度で交渉に臨んだ。

 その攻めぎ合いのさ中、またもや死亡災害が発生した。11月3日苫小牧工場抄造部で、抄紙機を休止して、ドライヤーカンバスの取替作業をしている途中、始動合図の不徹底から1名がカンバスロールに巻き込まれ死亡した。連絡合図の不徹底のまま、始動スイッチを押した職長代理は、過失致死による罰金1万円の刑事罰を受けた(21)。

 こうした状況において、11月14日、組合は炭労の例に習って「慰霊スト」を実施した。組合が、安全衛生問題の団交事項化を要求したのは、団交決裂の際にはストを実施して闘うためであったが、協約よりも事実が先行したことになる。

 ここに、1957年11月〜60年1月の足かけ4年、約2年間の長期にわたる大争議の火蓋が切って落されたのである。

  補論T. 苫小牧工場の労働過程

この補論Tは、集中排除による3社分割後の王子製紙(ただし、分割直後は「財閥の商号使用禁止」により苫小牧製紙と称した)の唯一の工場であり、1952年春日井工場(愛知県)稼働後も従業員の約70%(1958年)を占める主力工場であった苫小牧工場(北海道)の労働過程について記したものである(1)。同工場の労働者数は組合員のみで3212名であった。苫小牧工場は1910年に完成した「東洋一」の規模を誇るパルプ、製紙一貫工場であり、「スケールメリット」を必要とする新聞用紙を主製品としていた。この工場が、戦前、戦後を通じて、日本最大の製紙工場であったことは言うまでもない。

 その「直接」的生産工程は、大きく分けて、パルプ製造工程(会社組織上の名称は原質部)と製紙(抄紙)工程(抄造部)の二つの工程から成る。この補論Tでは、原質部、抄造部を中心に考察したい。この直接工程を補助する「間接」的部分として、水力発電所および火力発電所、変電所等を担当する電気部、操業用蒸汽発生に従事するボイラーマンを主とする汽力部、設備の建設及び保全、修繕に従事する設計工作部、その他、原料となる木材の運搬、製品の包装、出荷に当たる様々な部門が存在した。

 1958年の各部門の労働者(組合員)数は、原質部691名、抄造部454名、設計工作部417名(約90名の設計技師等のホワイトカラーを含む)、電気部および汽力部488名であり、原質部が最大の人数を占めていた。原質部は主として重筋肉労働に従事する調木課、砕木課(394名)と監視労働を主とするその他の部分(297名)に分けられる。

 設計工作部を除く、すべての生産部門(電気部、汽力部を含む)の大部分の労働者が3直3交替制の勤務形態であった。設計工作部の保全、修繕労働者は、夜間労働には従事しなかったが、その代わり、日曜休日に出勤することが非常に多く、多額の休日出勤手当を入手していた。連操実施後は、この休日出勤手当が相当減少することになったが、かえって労働時間は短縮されることになった。連操による疲労の蓄積ゆえに、強く連操に反対した原質部、抄造部、電気部、汽力部の労働者と違って、設計工作部の労働者が連操に対する明確な態度をとりえなかった理由はここに存在した。

@原質部調木課

 この工程は197名の労働者を擁し、原木(太く長い丸太)の皮を剥ぎ、短く、また、ほそく切断し、あるいは、細かい木片(チップ)にする工程である。

 原木はすべて、ベルトコンベアーによって、それぞれの機械の前に運ばれる。しかし、原木には様々な形状のものがあり、節や枝の位置も異なっている。特にパルプ用原木には、建設用木材とは違って、まがりくねった木材が多い。したがって、ベルトコンベアーによって自動的に機械の中までそのまま流し込むことは1990年現在ですら不可能である。人間が腕力によって、機械の入口まで流れてきた原木を、機械の中へ投入しなければならないのはそのためである。「鳶」(長い棒の先に鋭い刃物のようなものが付いた道具)を使って重い原木をころがすのは重筋肉労働であり、"カンとコツ"をつかまなければ腰を痛めることがあった。また、この工程には労働災害の多い危険な作業が多く、吉住秀雄王子労組中央執行委員長(争議時)と、加賀谷昭夫苫小牧支部書記長は、この工程における作業中、指を切断した。調木には、職務昇進の序列がなく、ひとつの作業に同じ労働者が一生従事することが普通であり、必要経験年数も短いとは言われていたが、危険性を切り抜けつつ作業を進めるためにも、ある程度の熟練が不可欠だったことは否定しえない。なお、調木工程は1960年代すべて下請外注化され社外工の職場となった。

 調木では、まず、自動回転する「バンドソー」(帯状の鋸切り)によつて、2〜3mくらいの原木が60pか120p程度の長さに切断される。原木はコンベアーによって運ばれるが、労働者は「バンドソー」の刃が原木の節に当たらないように、鳶で丸太の位置を調節しなければならなかった。1950年代の「バンドソー」の金属の質はいまだ劣悪だったため、稼働時の熱による膨張と休転時の冷却による収縮のくり返しによって、ひびが入り、作業中に割れて蛇のようにくねりながら飛んで来ることがあり、作業者は切断時の音を聞き分けて、刃を取替えるべき時期を判断する必要があった。加賀谷支部書記長はこのバンドソーの刃が割れて飛んで来たことによって指を切断した。

 また、直径1m〜80pくらいの丸太は「スプリッター」によって割られ、細くされる。スプリッターとは電力によって上下するギロチンのような斧で、吉住秀雄委員長はこの作業で指を切断した。

 また、パルプ用原木はすべて皮をむく必要があるが、自動回転する円筒の中に入れ、木材どうし、および、木材と機械の鉄骨との摩擦によって皮をはぐ機械がドラムバーカーである。

 このようにして、皮をはがれ適当な大きさに切断された原木は、「機械パルプ」用および「化学パルプ」用原木に二分される。「化学パルプ」とはチップ(細かい木片)を薬液の中で煮て繊維以外の部分を溶かして繊維を取出して造るパルプであるが、そのために木材をこなごなにくだいてチップを作る機械がチッパーである。チッパーはちょうど鉛筆削りのようなものである。 また、調木課では木材の粉塵、原木切断時の騒音等、作業環境も劣悪であった。

A原質部砕木課

 この工程は「機械パルプ」のみに関係し、そこには197名の労働者が存在した。「機械パルプ」は今日(1990年)でも主たる新聞用紙原料である。なぜなら、「化学パルプ」が主として繊維だけ(木材重量の約50%)を取出したものであるのに対して、「機械パルプ」は繊維以外のリグニン等の物質をも含み、同量の原木からはるかに多量のパルプを生産しうるため、安価だからである。ただし、多量のリグニンを含むため時間の経過とともに"黄ばむ"ことが不可避であり、「上質紙」の生産には使用できない。機械パルプは、薬品による化学変化を加えることなく、「砕木砥石」によって"大根おろし"のようにすりつぶすという物理的変化のみによって生産される。すりつぶされて作られるので「グラウンド・パルプ」(GP)とも呼ばれる。

 王子争議当時、砕木工程には、旧式で小型の「ポケット・グラインダー」と新式で大型の「マガジン・グラインダー」の2種の機械があり、職務の序列は、ベルトコンベアーで運ばれてきた木材を機械の中につめる重筋肉労働を行う「給材係」、機械の操作に従事する「機械係」、そこからさらに昇進した者がつく「スクリーン係」および「目立係」となっていた。スクリーン係とは、パルプの質を肉眼、触覚、機械の回転音によって判断、調節する高度な熟練労働者であり、目立係は木材をすりつぶす「グラインダー」(砥石)の「目立」(鋭く研ぐこと)を行う、これもまた高い熟練を身につけた労働者であった。砥石の大きさは直径1,5m、厚さ75p〜1,7mくらいのものが多く、表面は"ザラザラ"で砂粒による凹凸があり、この凹凸によって木材が削られすりつぶされる。しかし、砥石の表面は次第にすりへり、滑らかになってくるので、「目立車」によって目をたて再び砂粒の凹凸を作らなければならない。そうしなければ、パルプの生産量や品質が低下するからである。目立係の多くは組長であった。そして、この上に管理だけに従事する職長、常昼勤務の係長が位置していた。

 調木課の平社員の間には職務の序列がなく、ひとつの作業に就いた者はほぼ一生それに従事するのが通例だったのに対して、砕木労働者の場合は企業内、職場内の経験を通じて熟練を体得して昇進していく「半熟練工」としての性格が明瞭である。

 なお、すりつぶされたパルプの温度は70度にもなり、砕木課は著しく高温多湿な職場であった。そして、新入社員の仕事であり重筋肉労働であった給材係の作業は1960年代には社外工の担当となった。

Bその他の原質部

 製薬蒸解課と抄取調成課が中心で297名の労働者が働いていた。チップを薬液で煮て「化学パルプ」を作るのが「蒸解」、その薬液(重亜硫酸石灰液)を作るのが「製薬」である。「抄取」は液体状のパルプからゴミ等を除いて精選する工程、「調成」は、砕木課で作られた「機械パルプ」と、製薬蒸解課の「化学パルプ」を混合するプロセスである。当時の新聞用紙の場合、機械パルプ80%、化学パルプ20%の割合で配合された。リグニン等の比率の小さい化学パルプの割合が、高ければ高いほど紙は上質となり、またそれだけ高価になる。このようにして、紙の原質(パルプ)が完成され、いよいよ、抄紙工程へ送られるのである。

 製薬蒸解課、抄取調成課の労働の主要部分は監視労働であり、その点で他の化学工業とほとんど変わりはなかった。作業環境は、亜硫酸ガス(製薬工程)、塩素ガス(抄取)の充満、高い湿度(調成)というように劣悪であった。

C抄造部

 本来の製紙工程はここだけであり、454名の労働者を擁していた。抄造部は、原質部でつくられたパルプから、紙を抄く工程である。パルプは、水に溶けてどろどろの液体状になっている繊維であるが、そのパルプの水分を高速回転によってふり切ったり、熱で乾燥させたりして取り去り、紙を作る。その機械が抄紙機である。抄紙機の大きさは大小様々だが、争議当時、苫小牧工場には幅5m、全長100mに及ぶ巨大な抄紙機を中心に、10台の抄紙機があった。苫小牧工場の紙生産トン数の90%以上が新聞用紙であり、新聞用紙製造用の抄紙機は、巨大な機械で、大量生産するために高速度で回転し、その速度は毎分600m以上に達した。これに対して、上質紙を抄く抄紙機は規模も小さく、速度も毎分90m〜180mであった。

 抄紙機の速度が速いと、紙が途中で切れた時出る紙くずが短時間に膨大な量になり、それを原質部のウエストビーター(紙くずを再び溶かしてパルプにもどし、原料として再利用するための機械)に運ぶのがたいへんな重労働になる。この作業は1960年代には社外工の担当となった。紙が切れた時は、紙くずを破ってとり出して、紙くずでない方の紙の破った切り口を、次のロールとロールの間に入れて、紙をつながなければならない。この時、抄紙機を回転させたまま行うため、「紙つなぎ」は、非常に危険な作業であった。紙だけでなく、指まで、高速度で回転する2本のロールの間に、はさまれる事故も少なくなかった。指をロールにはさまれれば、1ヶ月間はまともな仕事はできず、指の機能回復にはそれ以上を要した。指をロールにはさまれた労働災害を自らが体験したことのある者は、抄造労働者の過半数に達していたという。通常、かたい鉄のロールには、指の第1関節までしか入らないので、指の爪がはがれて、肉の裂傷程度のけがですむが、ゴム製の柔らかいロール(プレスロール)や紙の巻取の場合には、指がはさまれる瞬間に、ロールが変形してへこむので、ひじや肩まで引き込まれることがあり、相当ひどいけがになる。一生ひじが伸びなくなった者もあった。また、骨がくだけ手首を切断することになった者もいた。このように危険な労働であったが、危険を綱渡りのように切抜けて、作業をこなすのが、職人はだの抄造労働者の誇りであった。

 抄造は、紙パルプ製造工程の中で、最も高度な職人的熟練を必要とする工程であった。1950年代には、「計装化」がほとんど進んでいなかったため、その作業は「カンとコツ」に頼る部分が大部分であった。また、調木、砕木とは違い、抄造の労働は、「紙切れ」の時や、機械の停止および運転再開時等の作業の他は、基本的に監視労働であり、筋力を必要とする場合は少なかった。しかし、他方、神経の集中を非常に必要とした。「紙つなぎ」にも熟練が必要であるが、これは運動神経に依存する所も大きく、長年の経験に裏うちされた熟練をさらに必要とするのは、微妙に変化するパルプの状況を見て、その変化の原因を推察し、機械や原料を調節することであった。

 抄造部の職務序列は次の通りである。新入社員は、最も簡単なワインダー係の職務に就き、経験年数を経るに従って、ドライ係→ウエット係→マシン調整係→組長→職長代理→職長→係長という階梯を昇進していく。ドライ係かウエット係に達していれば、抄造では一応一人前と見なされ、個人差や、その職場の上位のポストの空きぐあいによっても異なるが、10年の経験を経ればたいていドライ係かウエット係になることができたという。

 新入社員が最初に担当する仕事はワインダー係である。ワインダー係とは抄紙工程の最終部分であるワインダー付近を担当する職務である。抄き終えられた紙はワインダーによって、ドラム缶程度の大きさの円筒状の形に巻き取られ、その後包装されて製品として出荷される。

 ワインダー係を終えた労働者は次にドライ係となる。ドライ係は、ドライヤー・パート(乾燥部)およびキャレンダー(光沢機)を担当する。ドライヤー・パートでは、鉄の鋳物で作られた乾燥ロールが数十本回転しており、このロールの中には高熱の蒸気が入れられ、その熱によって、既に紙の形をとっている原料が乾燥される。紙はロールとロールの間を縫うように通されて高熱のロールに接触して乾燥されるのである。キャレンダーは、まだざらついている紙の表面を平らにする機械である。キャレンダーには約10段に積まれた小型の鉄のロールがあり、その間に紙がこれもまた縫うように通されて、ロールの圧力と、紙との摩擦によって紙の上の"デコボコ"や"ザラザラ"が押しつぶされたり、削り取られたりして、紙の両面が滑らかにされ、「光沢」がつけられるのである。こうして滑らかにされた紙は次にワインダーによって巻き取られて完成に至る。

 その上のウエット係は、その名の通り、パルプがいまだ水分を多量に含んでいる状態にある段階、すなわち、ワイヤー・パート(金網部)およびプレス・パート(圧搾部)を担当する。原質部から送られてきた液体状のパルプは、最初に高速で回転するワイヤー(金網)の上に流し込まれる。この部分で、かなりの量の水がふり切られ、取り除かれる。ワイヤーからは滝のように水が下に落ちる。そして、パルプは幅約5mのワイヤー全体に均一に広げられ、また、同時に繊維と繊維がからみあわされる。この"からみあい"によって縦、横の紙の強さがつくられるのである。次に、純毛の「製紙用毛布」をかぶった2本のロールの間を通され、ロールの圧力によって水分を搾り取られる。ここまでが、ウエット係の担当範囲である。ただし、以上のような職務の範囲はラフものでしかなく、抄紙機の状況に応じて、個々の労働者が相当広い範囲の作業を行うことが通常であったことは、第1章に記した。こうした共同的、多能工的な作業のあり方は、職務給導入の妨げとなったのである。

 これらの職務より上に位置するマシン調整係は、抄紙機の特定部分ではなく、抄紙工程全体の状況に目を配ることを職務としていた。そして、これより上の職務は、組長→職長代理→職長→係長→課長→部長と役付の職制となる。係長までが組合員であり、課長以上は非組合員の管理職であった。

 マシン調整係はもちろんのことドライ係等他の職務の者も、高速で回転する紙に直接指で触れることにより、その厚みの片寄り、滑らかさの具合、その他製品の質を適確に察知し、原料や機械のあり方を調節しなければならなかった。前述のように、それは長年の経験によって身につけられた「カンとコツ」がものを言う"職人芸"の世界であった。

 このような抄紙労働者の賃金は、第2次世界大戦前においては、紙パルプ産業における他職種の労働者より格段に高く抄紙工達は自らの仕事に対する誇りを持ちエリート意識を有していた。そして、後で述べるように、抄造部は職員への昇進可能性が最も高い職場であった。すなわち、下級職員はもちろんのこと上級職員にも多くの"職工からのタタキ上げ"の者が存在した。1930年代の苫小牧工場長は抄紙工出身であり、職工からの「登格職員」であった。戦前の抄紙工は、後輩に対して自らの技能をわかりやすく教えようとはせず、若年労働者は、機会を窺って、先輩の「カンとコツ」を「盗む」必要があった。古参労働者が若年者を殴り付けることは日常茶飯事であり、古参労働者(下級職員)の職場支配力は極めて強力であった。そして、このような状況の中に蓄積された不満が、敗戦直後の「職制吊上げ」、および、抄紙労働者が、"職員と混合の組合をつくるな"と「連判状」を沿えて要請したことにつながった。抄紙における職工と職員の "キャリアの連続"が工職混合組合の結成に直結したわけではなかったのである。

 また、抄造部の職場は、パルプがいまだ水分を含んでおり、かつ60度〜70度という高温であること、また、高熱の蒸気が入った乾燥ロールが1抄紙機に数十本もあることから、高温多湿であった。気温は30度以上が普通であり、50度に達する場所もあった。したがって、たいていの労働者は足に"水虫"をつくっていた。主として監視労働に従事するとはいえ、以上のように作業環境は厳しく、しかも、3直3交替制で夜勤をも行わなければならないため、抄紙労働者には相当な体力が必要であった。原質部や間接部門の電気部、汽力部の労働者とともに、抄造部の労働者が連続操業に強く反対したのは、それゆえであった。

   第2節 闘争目標の確立過程



 1.1957年年末闘争

 王子争議が開始された(その頃の当事者はそれが足かけ4年に及ぶ大争議になるとは思わなったというが)11月は年末一時金闘争の月であった。一時金に関する会社回答は平均58,400円(妥協額も同じ、要求70,380円)で、前年の61,284円より大幅に低額だったがゆえに組合側は不満を抱いた。しかし、この金額は、十条製紙(55,539円)、本州製紙(45,560円)、他産業の大手各社平均 - 鉄鋼(39,583円)、造船(45,709円)、自動車(27,255円)(すべて妥協額) - と比べれば高額であり(1)、必ずしも悲壮な闘いを必然化するものではなかった。闘いの焦点は安全衛生問題にあったのである。

 安全衛生問題の団交事項化を待たずして「慰霊スト」が実施されたことが示すように、団交事項化の要求は実質において重大な意味を持っていたわけではない。にもかかわらず、この要求が労働者の感情の激昂の結集軸となり、他方、経営者側も「ここで譲歩したら、とり返しのつかないことになる」(2) との危機意識から非妥協的姿勢を貫き通した所に、労資激突の根拠があった。経営者は、譲歩が「合理化」に対する組合のさらに強硬な抵抗姿勢を結果すると考え、労働者は、会社への妥協がさらなる労働災害の増加、生命の危険をもたらすと意識した。こうした攻めぎ合いの中では、労働協約改訂(安全衛生問題の団交事項化)が実質的意味をどれだけ持つかということは、さしたる問題ではなくなるのである。

 会社は従来の妥協的姿勢とは打って変わって強硬な態度を示して安全衛生問題に関する要求を拒否し、ストの反復(合計408時間)にもかかわらず全く譲歩しなかった。執行部は一時「越年長期闘争」を考えた。しかし、12月24、25日の中央闘争委員会(中闘)で、東京本社のホワイトカラーが闘争反対を主張したため、執行部は組合内部の亀裂の深まりを恐れて闘いを収拾した。そして、収拾後12月29日の苫小牧支部委員会では、現場労働者の代表から執行部の「弱腰」を非難する戦闘的な主張が続出した(3)。

 2.連操、労働協約改訂の提案

 会社の強硬姿勢は翌1958年の春闘でも示された。会社は回答を引き延ばした末、3月24日過去5年間で最低(第4表)の増額回答を突きつけた。しかも、この回答は前述の12日連操の実施を増額の条件としていた。また、退職金、結婚祝金の引上げ、退職金の最低保障額新設の要求も拒否した。そこで、組合はストを反復した。

第4表 王子製紙の春闘賃金増額実績
  1次回答 妥協額
1954(年)
1955
1956
1957
1958
780(円)
864
1,334
1,072
727
1,197
1,451
1,724
1,912
1,053
(2次回答)

 すなわち、4月24日、25日、苫小牧支部が41時間部分スト、4月26日春日井支部が23時間の部分ストおよび翌27日一斉24時間スト、東京支部が28日、一斉24時間ストを実施した。王子労組が部分スト戦術を採ったのは、初めてであり、これは、最小限の組合員の賃金喪失によって最大限の打撃を会社に与えることを意図したものであった。なぜなら、紙パルプ工場のような一貫工程においては一部の工程が停止すると、関連する数多くの工程が作業停止を余儀なくされるからである。そこで、会社は4月24日、25日、「対人部分ロックアウト」すなわち、79名の部分ストに対して関連職場285名の出勤停止、賃金カットを行い、対抗手段とした。これに対して組合は会社の対抗措置を封ずるため、スト突入30分〜12、3分前に通告する方法を採り、5月4日、5日、6日苫小牧工場で様々な職場の部分ストを連続的に実施し、工場の製造機能を寸断、麻痺せしめた。そこで、会社は、6日苫小牧工場の「全面ロックアウト」を実施した。また、春日井工場でも5月6日、7日に部分ストが打ち抜かれた。

 このようなストの反復にもかかわらず、会社は譲歩せず、5月17日「最終回答」として賃金増額の若干の上乗せとともに、ユニオンショップ制(尻抜け)の廃止を主たる内容とする労働協約の改訂を提案した。すなわち、賃金増額(定期昇給こみ)は第1次回答より326円増の1053円、連操手当は151円増の477円となり、依然として12日連操実施が賃上げの前提条件であった。そして、労働協約改訂は、回答のプラスを減殺して余りある反対提案であった。

 会社の協約改訂案の主要点は次の通りである。

@組合被除名者解雇(「業務に支障を来す場合は協議する」との但し書きがある) の条項を削除する。すなわち、「尻抜けユニオンショップ制」の廃止。

A就業時間中の組合活動の制限、一部の例外(勤務地における団体交渉、その他 労働協約で決められた協議会等)を除いて賃金を支払わないようにする。

Bチェックオフ項目の制限、チェックオフ対象項目を「定額組合費」に制限し  「闘争資金」等の徴収は行わない。

C争議行為の具体的事前通告(48時間前まで)の義務づけ、これは部分ストに 対する対抗措置を講ずるため。(4)

 執行部は闘争方針を審議するために中央闘争委員会を招集(5月27〜29日)した。ここでも、現場労働者と大学卒を中心とするホワイトカラーは鋭く対立した。執行部は賃金等に関する要求の貫徹、12日連操絶対反対、労働協約について組合側の対抗改訂案を提出するという方針を提起した。いわゆる「尻抜け」ユニオンショップの「完全ユニオン」への変更が組合側改訂案の主な内容であった。現場の代表の多くはこの方針を全面的に支持した。他方、本社および工場のホワイトカラーは、連操や賃金等の問題では譲歩すべきだと主張した。そこで、最も強硬に連操に反対してきた苫小牧工場の三交替労働者(原質部、抄造部、電気部、汽力部)の代表達は、あらかじめ執行部の了承を得た後、修正案を提出した。それは、連操、賃金等に関する譲歩の可能性を明示し、労働協約の対抗改訂案を提出する方針を、「現行協約」の「更新」を要求するという内容に改めるものであった。そして、この提案によって修正された方針案は満場一致(賛成45、反対0)で可決された(5)。本社のホワイトカラーの代表も、この時、「現行協約」の「更新」のために闘うという方針については賛成を表明した。現場の代表および執行部が連操絶対反対等の方針を撤回したのは、組合の「統一と団結を守る」(6) ためであった。可決された方針は「最も弱い層」「最も組合分裂を引起こしそうな層」も「一致しうる方針」(7) だったのである。

 協約失効の前日の6月17日、組合は連操、賃金等に関する回答を呑むから「現行協約」を「更新」してほしいと申し入れた。これに対して、この交渉に出席していた江田信二郎副社長は「非常に嬉しそうな顔」をし、了承しうるかのような態度を示した(8)。江田副社長(1901年生まれ、東大機械卒)は、中島社長と同世代の老齢の“退嬰的経営首脳”で勤労部の宥和的労政の後盾となってきた人物である。こうした江田の態度は、この時期になっても、経営者内部の対組合路線に関する対立が根強く存在していたことを示している。しかし、「休憩」時間の後、会社側は全く譲歩しないことを組合に通告し、翌18日、「無協約」となるに至った。連操問題は現場労働者にとって切実な問題であった。他方、ホワイトカラーの勤務方式は連操実施によっても変わらなかった。また、王子のシェア低下を憂慮し「合理化」の必要性を痛感していた大学卒が連操に賛成したのは当然であろう。このように、旧工員と旧職員の間には利害、立場の相違が存在した(次節にて詳述)。にもかかわらず、組合は旧職員をも「同じ労働者」と見なし彼らとの「統一と団結」を最優先し、その結果「合理化」反対闘争を放棄することになったのである。

 3.第二組合の結成

 旧職員層(ホワイトカラーと現場職制)は組合が連操等を受諾すると、今度は「協約更新」のための闘いをも中止すべきだと主張し始めた。そして、彼らは執行部批判を展開しつつ組合からの脱退を開始した。協約失効と同時に、苫小牧工場の職長高橋一郎は組合を脱退し、彼個人名義の「組合執行部は闘争至上主義であり、ついていけない」というビラが数万枚も配布された(9)。会社は、その波紋を見定めながら6月25日、勤労部ニュース「無協約について」を全従業員に配布した。それは「たとえ組合を除名されても従業員たる地位になんら影響しないことになりました」と宣伝するものであった。7月4日、東京支部は組合脱退を決議し本社の組合員は8名を除きすべてが脱退していった。苫小牧工場でも7月1日ホワイトカラーは「事務部門大会」を開き執行部不信任を決議し、7月21日には「係長会議」が開かれ「即時スト中止」を決議した(10)。協約失効後、脱退者が続出する一方、他方ではまだ組合内に留まっていた現場職制、ホワイトカラーによって執行部のリコールが追求された。そして、前年の支部長選で落選した戸部卯吉は、8月1日、吉住秀雄中央執行委員長に対し、即時スト中止、現執行部の辞任、その後の執行部の「人選」については戸部達に「一任」することを要求した(11)。この退陣要請に執行部が屈していたならば、その時点で争議は終結していたであろう。こうした事態は、前年国策パルプで起こっていた。

 1957年の春闘で、国策パルプ経営者は労働協約改訂を申し入れ、これに対して組合は反対した。そして、一部の組合員が脱退し、自信を失った執行部はリコール要求を受け入れて総辞職した。新執行部には「合理化」に協力的な者が選ばれた(12)。この争議を主導したのは、水野成夫国策パルプ社長と南喜一副社長であった。彼らは、戦前の日本共産党の幹部である。国策パルプと王子製紙は、国策パルプの経営難に当って王子が援助する等の協力関係(13) にあり、水野成夫は王子争議で会社側の「参謀」の役割を果たしたと言われている(14)。

 王子の争議対策を主導した田中文雄も、「『財界四天王』と呼ばれた水野さんと当社の中島さんは、互いに尊敬しあう仲であった。三十八年には中島社長が国策パルプの相談役に就任したり、株式の持ち合いをやったりしたほどだ」(15) と記している。

 しかし、王子労組は屈服せず、無期限スト(7月18日開始)を継続した。そこで、まだ組合内に残っていた反執行部勢力も執行部リコールをあきらめ、既に脱退していた者とともに第二組合(新労)を結成した。すなわち、8月4日本社、8日苫小牧工場、11日春日井工場の新労がそれぞれ結成大会を開いた。新労は、企業別単一組織の王子労組とは違って形式上は事業所別組合として結成され、王子製紙本社労働組合(本社新労)、王子製紙工業所新労働組合(苫小牧新労)、王子製紙春日井工場労働組合(春日井新労)の三労組は後に企業連王子製紙新労働組合連合会を結成(1958年12月12日)した。ただし、この三新労の間に路線対立は存在せず、事実上単一組織であるかのように行動した。

 新労は“パイの理論”に基づく「うんと働いて、うんと獲ろう」のスローガンを掲げ、労働者への分配をふやすためには「うんと働いて」自分達の企業の繁栄を図り“パイ”を大きくしなければならず、「無責任」な「外部団体」すなわち王子従業員以外の者の「扇動」にふりまわされてはならないと訴えた。

 「新労は組合としての立脚点を王子製紙という企業内に置いているのに対して、旧労は王子製紙という企業体とは別個に、それと対立した独自の存在であると考えている。」「新労は、王子製紙の景況が直ちに組合員各自の日常生活に大きく影響するものと考える。」「『うんと働いて、うんと獲ろう』という新労の掲げるスローガンは端的にこの様な新労の考え方を表現するものだ。」したがって「敵は会社である」「会社はつぶれても工場や機械が残る」という「旧労の考え方」はまちがいだ。王子労組を支援している「総評は全国の組織労働者の半数近い300万という勢力を誇称している。しかしその内の3分の2は所謂親方日の丸の官公労に属している人達であって、これらの人達は吾々民間産業に従事している者が抱いている様な企業意識というものは持ち合わす必要もないし、まして世間の景気、不景気という吾々に切実な事柄も実際にその関心とはならないはずである。」「総評は一王子などを問題にしていないから、こんな無責任きわまる闘争方針を指令することが出来るのだ。しかし、会社がつぶれると本社、春日井を含む4千人の従業員と1万人の家族はたちまち路頭に迷うことになる。全国労働者の先頭に立って、何故王子だけが会社をつぶす為に総評のモルモットにならなければならないのだろうか。」そして、王子製紙は独占資本であり、ストや高い労働条件にも充分耐えることができ安泰だとする風潮に対しては、次のように批判した。「今でも王子は独占資本と思っている人もいる様だ。事実共産党は苫小牧をその城下町と言っている。たった人口5万の市が独占資本の城下町とはお笑いだ。大王子の夢は終戦の時になくなっているのを御存知ではありませんか? 戦前は確かに独占資本の大王子だったかも知れないが戦後マッカーサーによる集排法によって王子、十条、本州の3社に分かれ、樺太、満州、朝鮮にある大工場を失ってまだ大王子だと思っている人は、8千万人口の中で旧労に残っているアカの宣伝に迷わされている人間以外にはない。資本金はたった32億……しかない会社が大王子とは情けない。今の日本には資本金百億以上の会社はゴロゴロはきだめにはいて捨てる程ある。諸君が東京に行ってみればよく解ることだが、銀座のドマン中で一番ウスギタナイ貧乏建物が我等の王子本社である。井の中の蛙は大海を知らない。苫小牧でこそ……王子と言えば街の人が頭を下げるかも知れないが、東京大阪は勿論、日本全国の各都市で王子と言っても知らない人が多い。たまに知っている人は『ああ、年中ストをやっている所ですね。』と言うくらいがやっとの所とは本当の話しだ。……我々の視野を広げる必要がある。一方的なアカ宣伝をうのみにして、独占資本の城下町気取りでいる間は君達は闘争に勝てない。」(16)

 こうして新労が結成されると王子労組は、ユニオンショップ再獲得による新労の解体、吸収を闘争目標として掲げるようになった(17)。では、このユニオンショップ条項には、新労を解体するほどの効力があったのであろうか。条項自体にそうした効力がないことは明らかであった。王子製紙の「ショップ条項」は、いわゆる「尻抜けユニオン」であった。他企業における過去の判例を見ても、「完全ユニオンショップ」の場合でも会社が被除名者、脱退者の解雇を拒否した時に、裁判所が解雇を強制する可能性が非常に小さいことは明らかであり、さらに、脱退者が第二組合を結成する場合には、その可能性がほぼ皆無であることも明白であった。そして、王子労組(第一組合)の指導者はそのことを理解していた。ただし、当時の状況で、協約失効と同時に、組合を脱退しても、あるいは「たとえ組合を除名されても」解雇されないことになったと宣伝することは、脱退促進に大きな効果をもった。組合がユニオンショップを維持しようとしたのはそれゆえであった。また、王子労組は、条項自体の法的効力によってではなく、ストによって会社を窮地に追い込み、会社に新労を解散させようと意図していた。そして、「ユニオン再獲得」は、新労解体の「象徴」であった(18)。

 会社側が国策パルプの事態をモデルとしたのに対して、王子労組側は、紀州製紙パルプの「ユニオンショップ確保闘争」の先例をモデルとした。紀州製紙パルプでは、1956年第二組合が結成され、第一組合はユニオンショップ条項(尻抜け)に基づいて「分裂首謀者」の除名を決議し、その解雇を要求した。そして、5波に及ぶストの末、第二組合の解散、そのメンバーの第一組合への再加入、第二組合幹部1名を出向させ復職させる場合は組合と協議が整った後にすることを会社に認めさせた(19)。

  第3節 旧職員層に対する近親憎悪的感情

1.第二組合員に対する憎しみ



 争議当時、苫小牧現地に密着して争議の分析を試みた藤田若雄は、王子労組が闘争遂行に当って、新労に対する「ニクシミ」を「唯一の精神的支柱」(1)としていたと記している。そして、その憎悪は新労組員に対する暴力行為、「イヤガラセ」を結果した。

 組合脱退者に対する王子労組員の「イヤガラセ」行為は7月18日の無期限スト突入以降頻発した。夜間、脱退者宅に対しては、デモが行われ、糞尿をまく、ペンキで「裏切者」「犬小屋」「会社の犬」、あるいは「公表を憚る卑猥な書画」を書く等の行為が行われた。また、住宅の窓ガラスの投石による破壊、表札の奪取、爆竹の投げ込みも頻繁であった。そして、白昼公然と「洗たくデモ」と称する暴力行為も行われた。これは、対象となるべき人物を発見すると笛をならして多数でスクラムを組み3重、4重に包囲し、内側1列目のスクラムは対象人物に密着して駆足で前後、左右に移動し電気洗たく機のように翻奔し、2列目の者が1列目のスクラムの間から手足を出して撲る、蹴る、衣服を裂く等の暴行を加え、3列目、4列目が外部からその状態が見えないように遮蔽するというものであった。こうした状況に耐えきれず、30世帯が社宅街から避難することもあり、新労は、1958年7月〜59年2月までの間に41件の告訴を行った。また、生産再開=スト破りのために新労が苫小牧工場内に入構した1958年9月15日には、投石やレンガ、鉄管による殴打によって、新労側は頭蓋骨の切開手術を必要とする重傷者を含む48名の負傷者を出した(2)。

 苫小牧工場の新労組員の主要部分は、スト終了後に至るまで第3図、第4図のように旧職員層(職長以上の現場職制は旧職員)であった。また、新労組員の比率は、大学、旧専門学校卒では99%、旧職員である現場職制では係長99%、職長39%であった(第5図、第6図)。ただし、新労を結成した旧職員層に対する労働者の憎悪は、単に経営の末端機構の担い手、自分達を支配、搾取してきた者に対する憎しみだとは言いきれない側面を有していた。

 各職場では、次のような決議が新労組員に対してつきつけられた。1958年8月10日の抄造部第4抄造係の「職場組合員大会」の「決議」は次の通りである。「今次闘争に於ける我々第四抄造班より全組合員の意志を無視して脱退した係長松本三喜男及高橋一郎、森芳雄、津島光夫君以上四名は部下及び同僚を裏切った行為は誠に遺憾に堪えない。ここに於いて職場全員討議の結果四名の脱退者に対しては指導者として不適当であり同僚としては信義を裏切った行為は許せない、今後我々一同協力する事が出来ないことを確認の上職場より追放する」

 また8月14日の原質部調成係、8月11日の原質部抄取係、8月15日の原質部蒸解係、17日の設計工作部木工係の職場大会の決議は以下の通りである。

第3図 苫小牧工場第二組合の構成
大学卒
11%
現場職制
17%
男子ホワイトカラー
(大学卒を除く) 30%
女子(内98%が
事務員と看護婦)21%
ブルーカラー
(男子平社員) 21%

 「組織の興廃をかけた今次闘争のさ中に於て、自己の信念をも主張し得ず、王子労組の組織を無視して調成班より脱落し、会社の走狗と化した係長大場直を始め係長佐々木久猶、中村勝義、勝又文雄、組長佐々木富次郎、池田宏悦及び能登信義の七名の行為は、最も恥ずべき行為であり、誠に遺憾に堪えない。又職場における指導者、同僚としても信義と友情を、いとも、た易く裏切った行為は職場における作業の面、家族における親睦の面に於ても、大なる悪影響を与えた行動であると断ぜざるを得ない」(調成係)。

 「我々抄取班より中野匡雄係長を先頭に……十二名の脱退者を出したことは誠に遺憾に堪えない次第である。この段階において、我々は組合の基本線に沿い、友愛と信義のもとに、最後の手段として(係長を除く)全員に再度の反省を求めるべく、各々個別的に訪問し、我々の真の気持を訴えた。然るに彼等は、我々の誠意を全く無視した。ここに至っては、我々同志のにくしみと怒りは一段と加えるに至った。この状態から、脱落者に対する今後いかなる処置をとるかについて、職場全員大会を開き慎重審議し、その結論として、又同僚として誠に不適任であり、我が抄取班より脱落者全員追放することを、今回の大会において全員満場一致署名の上右決議す」(抄取係)。

 「王子労組の組織を無視して脱落した係長林敏正を始め……の十二名は、我々部下を振り捨て、同僚を裏切った行動は、組織労働者として最も恥ずべき行為である。相互に理解し信頼しあうことが明朗な職場をつくることである。我々は、ここに指導者として、又同僚として信頼できず不適任であると判断し、本大会において協力しないことに決議す」(蒸解係)。

 「我々は今次闘争に際し職場大会を開き、話し合いの中から会社の悪らつな攻撃に対し、我々の生活と組織を守るために、総力をあげて闘っている。しかるに我々の信義と友愛を否定して、組合脱退を表明した片貝寅吉、斎藤久松の両君を出したことは誠に遺憾の極みであり、我々の職場の係長、職長としては不適任とみとめ、今後の協力はできないとともに職場より追放を決議する」(3)(木工係)。

 これらの決議を概括して言えることは、労働者が同じ職場の王子労組脱退、新労加入者を、「仲間」の「友愛」「信義」を踏みにじった「裏切り者」、「相互に理解して信頼しあう」ことによって維持される「明朗な職場」の破壊者、すなわち、職場における調和的な人間関係、“職場の和”を破壊した者として把えていることである。以上の「職場追放決議」はあたかも農村の“村八分”のごとき観を呈している。それは、後述の検討によって、より明白になると思われるが、争議前の職場における労働者と現場職制の情緒的一体化の“裏返し”であった。

 注意すべき点は、このような「仲間同士」の「信頼関係」、“職場の和”の破壊者として憎悪の対象になった者の多くが、一般労働者とは利害、立場を異にする現場職制だったことである。こうした「同じ仲間」の「裏切り」に対する憎しみは、いわば“近親憎悪的感情”だったとも言いうるであろうが、“近親”だと把握された対象が、“近親”、“仲間”と呼べるか否かが必ずしも判然としない所に、事情の複雑さが存在した。

 連続操業による“しわ寄せ”とも労働災害の危険とも無縁なホワイトカラーはもちろんのこと、3交替職場においても常昼勤務であり第1次成績査定の担当者である係長、その下で各交替番の管理、監督だけに従事し通常の作業を行わない職長(双方ともに旧職員)ですら、一般労働者とは明らかに異なる立場にあったと言える。したがって、王子における組合分裂は、会社組織上の地位、立場、利害の相違を反映したものであった。にもかかわらず、労働者は、旧職員層の新労結成を、彼らの職務、立場に決定づけられた行動として“ドライ”に受けとめることができず、各個人の道徳的罪悪、「仲間」に対する「背信行為」として近親憎悪的感情を抱いたのである。

 そして、王子労組は、旧職員層を中心とする新労組員に対して、「君たち」も我々と同じ「一介の労働者」にすぎず、王子労組に復帰して「元の仲間」と団結しなければ「君たち」の権利を守ることができないと訴えた(4)。

 王子労組は、これら旧職員層を再び自らの下に吸収することを目標として、長期ストを闘った。確かに、新労は、旧職員を中心としながらも旧職員層独自の利害に基づく運動を進めるために結成されたのではなく、また、自らの組織を職員組合として規定していたわけでもなかった。新労は、王子労組を解体し、「合理化」に対する障害を取り除くことを目指していた。したがって、王子労組が、自らの組織を解体しようとする新労の存在を認めるわけにはいかなかったのは、その意味では当然であった。しかし、以上のように、王子労組の新労解体方針の背後に、旧工員、職員間の立場、利害の相違についての認識の欠如が存在したことも事実なのである。

 

 2.職制と労働者の癒着関係



 では、“裏返されて”“近親憎悪的感情”と化した所の情緒的一体化状況とはいかなるものであり、そうした状況を存立せしめていた諸事情とはどのようなものだったのであろうか。

 「同じ労働者」の「仲間」だという情緒的一体化および“近親憎悪”の対象となったのは、ホワイトカラーよりも主として現場職制であった。したがって、ここでは労働者と現場職制の関係について検討したい。

 争議前の王子製紙の生産現場における現場職制と労働者の間の関係は、“対立関係”ではなく“癒着関係”と言いうるものであった。現場労働者(原質部砕木課)で苫小牧支部執行委員(争議中)の小山喜代治は、「職制との対立はなかった。和気あいあいとした馴れ合いの関係」であり、現場職制は部下の「生活上の相談にのる」等、暖かく面倒見の良い「良き親父」(5)だったと語っている。こうした職制と労働者の癒着関係は、他の職場の労働者からの“聞き取り”によっても裏づけられる(6)。

 このような「仲の良い」癒着関係は、争議前の王子製紙に職場闘争がほとんど存在しなかったことと深く関わっていた。なぜなら、現場職制と労働者の間において、労働条件等の問題をめぐる対立が職場の中で顕在化すれば、こうした癒着関係は維持しがたいからである。

 1956年苫小牧工場を調査した藤田若雄は、「労働組合の機能」が「職場にまで」、「浸透」しておらず、職場闘争がほとんど存在していないことを明らかにした(7)。数少ない職場闘争の事例として組合史が記している要員補充を求める抄造部門「人よこせ闘争」(8) も、組合執行部が取上げ会社と交渉して解決したものであり、職場大会が開かれ決議が行われただけで、職場組織による会社職制との交渉は行われなかった(9)。

 王子製紙には北海道の苫小牧工場(10)(組合員3,212名)、愛知県の春日井工場(1,059名)、東京の本社(277名)の三事業所があり、組合は企業別単一組合で各事業所に「支部」が置かれていた(11)。主力工場の苫小牧工場には1954年職場組織が基本的には会社組織の「部」に対して「部門」、「係」に対して「班」として設置された。部門は原質部門(691名)、抄造部門(454名)、原動部門(会社組織上の電気部、汽力部、488名)、設計工作部門(417名)と、かなり大規模であった。「班」は同じ職場の3直(王子では一般に3直3交替)の合計であり、最大の班が197名、通常70〜80名であった。班は3交替制ゆえに直ごとに勤務時間は違うものの、ほぼ同じ労働に従事し同じ休憩室を使う面接集団であった。執行機関として「部門」には「部門委員会」、「班」には「職場委員会」が置かれていた(12)。

 しかし、これらの職場組織はほとんど機能していなかった。王子労組の職場組織は「英雄なき113日の闘い」に勝利した三鉱連をモデルとして、1954年模倣的に設置されたもので王子製紙に内在する必要によって作られたものではなかった。王子の労働者は、職場組織とは何なのかほとんど理解しないままこれを組織したのではないだろうか。

 それでは、なぜ職場闘争が存在しなかったのか。第1に職場闘争が存在しなかったことは、経営者による労務管理のあり方と深く関わっていたことに注目すべきである。

 王子の賃金制度は、賃金体系としては職能給、賃金形態としては時間給であり、能率給(出来高賃金)は存在しなかった。そして、職制による査定によって昇進、昇給が行われていた。では、恣意的な査定、組合活動家に対する差別を防ぐための職場闘争の必要はなかったのか。査定に関する苦情は、本人と職制との間に話し合いが持たれることがあったとはいえ、制度的には職場組織ではなく支部(事業所組織)の機関である苦情処理委員会が扱っていた(13)。また、争議後も王子労組(第一組合)に留まった活動家は次のように記している。「反抗的な者や組合活動家は煙がられ査定や昇給、昇進面での差別は多少ありました。私自身、成績査定、昇給で課長と個人交渉しました。その結果、争議直前の成績査定は最高(それまでは平均)でした」(14) この事例は、会社側が組織的、系統的に活動家差別を行うことによって職制支配を強化しようとしてはいなかったことを示している。また、組織的、系統的な活動家差別が、争議前の宥和的対組合政策の下で行われたとは信じがたい。したがって、査定を通じた組合弱体化政策を阻止するための職場闘争の必要性は小さかったはずである。

 しかしながら、このことよりも重要な、労務管理上のポイントは次の点にあった。操業要員数、職場ごとの残業時間も中央または工場=事業所レベルの協議、交渉で決定されていた。また、作業方法、設備や作業環境の改善等、今日では職場小集団活動の中で扱われているような問題も工場協議会で処理されていた。そして、それらの要求の7〜8割が実現されていた。支部執行部が工場協議会に提出した要求(1955〜57年)を列挙してみよう。

 第三抄造階下排水溝改良(排水不良のため危険)、第四抄紙機天井走行機の電動化、100インチマシン第2プレスの改造(機械の回転速度を早め生産性を上げるため)、第五抄紙機リール用ホイスト改造(旧式で損耗しているから)、抄紙室換気装置の設置、メーター等予備格納庫新設(モーターにほこりが入らないようにしたい)、北土場各事務所および休憩所の暖房設備の完備、第一発電所の人員補充、土場の人員補充、砕木工程の技術革新に伴う配転に関する要求、抄紙機紙粉防止装置の取付、第三抄紙休憩室の増築、抄紙機の騒音防止、蒸解飛散液対策(15)。

 当時、組合の活動家であり大争議後も王子労組に留まった労働者は、異口同音に、職場独自の細かな問題まで事業所レベルの協議で扱われ、しかもその大部分が実現していたので争議前は職場闘争の必要を感じなかったと語っている(16)。

 第2に、このような王子製紙の中央集権的な労務管理様式が、当時職場闘争が隆盛を示した炭鉱と比較すれば、装置工業である紙パルプ産業の技術的特質と深く関わっていたことが明白である。

 炭鉱では機械の回転速度によって労働能率を統制することが困難だったことの影響により、一般に出来高賃金形態(能率給)を採用していた。しかも、作業の進展、出炭量が自然条件によって日々変化するので、賃金額を変化に応じて再決定しなければならなかった。例えば、出水等の自然条件の変化によって出炭量が減少した場合、能率給ゆえにそのままではその日の日給が大幅に減少するため、当該職場の状況に応じてその補償措置を講じる必要があった。そこに、職場で賃金が決定されなければならない理由があった。また、炭鉱では作業遂行における職場作業集団の自律性が極めて高く、経営者は出来高賃金制と職場交渉を通じて労働者を間接的に管理していた(17)。それとは対照的に、紙パルプ工業の基幹工程は、@ベルトコンベアーの速度によって能率をコントロールされる重筋肉労働を主とする工程(調木、砕木)と、A監視労働を主とする工程(調木、砕木以外のパルプ製造工程および抄紙工程)から成り、作業能率は基本的には機械の回転速度に依存していた(18)。そして、能率給は存在せず自然条件によって生産が日々左右されることもなかった。

 第3に、こうした労務管理様式の経営者による選択が、労働者の闘争によって促されつつ、行われたことに注目すべきである。後で、会社側が、職制の部下に対する掌握力の脆弱さの理由として、職制の責任、権限が不明確であることを挙げていたことを記すが、しかしながら、第2次世界大戦前(1930年代)の王子製紙でも職制の権限、責任は形式上極めて不明確であった。例えば、一つの交替番の責任者に当る職務は制度上つまり文書化された規則の上では存在しなかった。戦前の現場監督者には、自らも他の労働者と同様の作業に従事する工頭身分の者(職工に含まれる)と、管理、監督のみに従事する職員身分の者が存在した。主任、係長等、管理者としての職務は戦後の部長、課長(非組合員)に相当し、一つの職場の統括者およびその下に位置する一つの交替番の統括者(いずれも管理、監督のみに従事する職員)は名目上、監督者としての名称を与えられていなかった(19)。しかし、現場監督者の職場支配力が弱かったわけではない。労働者は彼の職場の監督者に私生活上の様々な問題について「世話」になると同時に、監督者の指示に従って職員の家のまき割り、雪かき等を行わなければならない等、現場監督者の支配力はきわめて大きかった。

 ところが、戦後、現場監督者に対する「吊上げ」を伴った闘いを通じて現場監督者や管理職の権威は著しく失墜した。抄紙部門では青年労働者が現場職制を殴ることもしばしばあった。また、ある保全労働者は、この頃、工場内の浴場で職制から「背中を流せ」と言われたが「お前の背中を流すために入社したんじゃない」と怒鳴りつけ、それ以後、彼の職場では職制の背中を流すことは行われなくなったという(20)。

 そして、こうした事態と並行して進んだのが、労務担当部門への権限の集中であった。1941年新設の労務課が43年拡大、改組されてできた勤労部は、戦後、労働組合結成後は、社内における地位を飛躍的に高め、これに職場の諸問題を解決する権限が集中されるようになった(21)。労働者の闘いによる職制の権威失墜が、労務管理の中央集権化を促進したのである。

 以上のように、職場闘争が存在しないという状況は、@中央集権的な労務管理様式、A紙パルプ産業の技術的特質、B労働者の闘い、という諸事情と深く関わっていた。

 これまで述べたように、王子製紙には、職場闘争が基本的には存在しなかった。しかし、かといって、現場職制が経営の末端の管理者であると同時に部下である職場労働者の利益代表者でもあるという“二重性”を持ち、それゆえに、強力な職場支配力を有するという状況が存在したわけでもない。『王子製紙社史、戦後三十年の歩み』188頁にはこう記されている。「会社の側にも、なぜこれだけの労働争議が起きたのか、今後いかに処理すべきかときびしい反省があった」、「労務管理は、勤労部、人事部任せという管理体制のあり方に問題があった。各職場の長は、部下の人事管理、労務管理を自らの重大な職責の一つとして考えることなく、日常の人事管理をおろそかにして表面を糊塗してきたのではないか。会社もそうした教育に意を用いることなく、管理監督者には部下の管理にも必要な権限が与えられていないため、部下から希望、意見、苦情が述べられても自ら処理できない。そこで部下は次善の策として、組合に話をもっていくと意外に早く要求が通る。これが日常化しては上司の権威は地におち、逆に組合の威信を高めることになる」。また、争議中執筆の労務政策のシナリオに当る文書(22) はこう述べている。「現場労務管理制度としては、(1) 勤労部が直接行うもの、(2) 勤労部から部員を現場に配置しこれを通じて行うもの、(3) 現場管理者を勤労部が直接指導して行うもの及び、(4) 勤労部は現場に直接接触せず、現場労務管理の権限と責任」を現場職制に課し「これを通じて行うもの」に分類できるが王子製紙では「(1)の方法」がとられている。そして、職制の「権限責任共に不明確で慣行さえも確立されていない」ため、職制には「その責任と権限に基づく事案処理能力がないため部下の信頼がなく」、「下意上達は停滞勝ちであり」、「上下を通ずる血の流れが疏通せず結滞し、偏流するために部下の把握指導が不徹底となり」、「最も悪いことは職務職制を通じての処理が途中で停滞し、消滅し或いは不可能とされた事案が、組合を通じて団交によって要求されれば早急に明確に措置される場合が多くなり、部下従業員は職務職制より組合を信頼するようになっている」。

 以上のように、王子の管理体制は、職場の諸問題が経営管理機構のライン系列を通じて解決されず、職制の現場掌握力が弱く、スタッフ部門である勤労部が組合との中央または事業所レベルの協議、交渉を通じて職場独自の小さな問題をも処理するというものであった。現場職制を通じた個々の労働者に対する直接的な管理、掌握は半ば空洞化し、スタッフ部門が労働組合を介して炭鉱とは別の形で間接的に管理していたのである。

 たしかに、苫小牧工場生産現場(1957年春闘時)では、職場組織「班」の長である「職場闘争委員長」35名中係長が18名、職長7名、組長2名であった(23)。では、職制のヘゲモニーが確立していたのか。そうではない。ヘゲモニーが貫徹していたか否かを検討する場合には、職制が就いていた組合の役職が組合の機能上重要な意味を持つ役職なのか、それとも、たいして意味のないものだったのかについて、充分に検討しなければならない。職制が就いていた組合役職が組合機能上重要でないものだった場合、それをもって、職場労働者集団や企業別組合における、職制の強力な掌握力の証拠とすることはできない。

 苫小牧工場では、前述のように、職場組織は、ほぼ無機能状態であり職場闘争委員長と職制(24)との重複を重視することはできない。先に記した通り、王子労組の職場組織は「英雄なき113日の闘い」に勝利した三鉱連をモデルとして、1954年模倣的に設置されたもので王子に内在する必要によって作られたものではなかった。当時の組合執行委員は「職場闘争委員長と言っても、ほとんど役割がなかった」ので「係の代表だということで係長に適当に決めた」(25) と語っている。

 では、実際に機能していた組合機関ではどうだったのか。特別の事情がない限り、それぞれ年一回しか開かれない、支部および中央の大会に代わる常設の議決機関が中央委員会(中央)と支部委員会(事業所レベル)である。中央委員は支部委員の中から直接無記名投票で選ばれる。支部委員は各職場から組合員50名に1名の割合で選出される(26)。支部および単組執行部は、この支部委員を介して職場労働者の要求を吸上げていた。1958年春(組合分裂以前)の苫小牧支部の支部委員70名中平社員が59名、組長5名、職長5名、係長1名であり、大部分が平社員(27) であった。また、苫小牧支部執行委員10名(すべて生産現場出身)中平社員が8名、組長2名であった(28)。しかし、組長には職制としての実質的権限がなく、一般労働者と同じ作業に従事していた。すなわち、職制が組合のリーダーシップを掌握していたわけではない。現場職制は、現場労働者の利害の、管理機構のライン系列を通じた処理も、組合組織を通じた処理も果しえていなかった。職場労働者に対する掌握力が弱かったのは当然であろう。

 そして、会社の末端管理者かつ職場労働者の利益代表者であるという「二重性」に基づく強力な職場掌握力を職制が持つようになったのは、争議後すなわち新労が従業員の圧倒多数を吸収した後のことである。王子の「合理化」の指南役を勤めた日本能率協会の機関誌『マネジメント』(1962年7月号)は「係長、職長、組長が多くのばあい、職場における新労のリーダーでもあるため、会社は容易にこの2重組織にオンブしたままで過して行くことができた」と述べている。

 こうした職制の権威の低さは、職制への昇進に対する労働者の意欲を弱めていた。そして、組合が労働者の不満、要求の解決に当って重要な役割を果たしていたことは、組合役員の権威を高め、組合役員の地位を労働者にとって魅力的なものにしていた。職制への昇進をめぐる労働者間競争は「けっして激しくなく」、「それよりも組合役員になりたい者が多く、選挙ではしのぎをけずり」、「職制は組合役員にこびへつらっていた」(29) という。労働者にとって職制が羨望の的であり、職制への昇進を熱望するあまり上司の査定に神経質になるという状況においては、職制の権威、職場掌握力の確立は容易である。しかし、争議前の王子の状況はその反対であった。

 さらに、職制の力は、労働者の「社会的上昇志向」が企業外への「出世コース」に吸収されていたことによっても弱体化されていた。戦後の労働組合と社会主義政党の飛躍的拡大は、低学歴にもかかわらず強烈な立身出世志向を持つ労働者に、組合幹部から市会議員、道議会議員、そして国会議員へと「出世」する機会を大きく開いた。

 当時の第一組合指導者(30) によれば、王子製紙には組合役員から社会党の議員となる「出世コース」が確立しており、それが「学歴の低い」組合活動家が組合運動に参加した「最大の動機」であり、また、王子の企業城下町である苫小牧市では組合役員は「名士」であったという。1950年代半ばの王子労働者の中には、五藤義正北海道議会議員を「出世頭」として苫小牧市議会議員(5名)、公選の苫小牧市教育委員、苫小牧地区労書記長、紙パ北海道労連委員長等が存在した(31)。学歴が低ければたとえ刻苦奮闘あるいは上司の機嫌を伺った所で昇進の程度はしれており、定年前にやっと職長や係長になれたとしても、工場長や重役は「雲の上」である。他方、組合役員になれば、戦前においては「神様以上」(32)の存在だったという工場長や社長とも「対等」に口がきけた。また、50年代後半は総評、社会党の勢力拡張期であり、社会党政権が成立し学歴の低い労働者が「大臣」になることも夢ではないと受けとられていた。「戦後民主主義」とは、出世よりも信念の貫徹を望み左翼的イデオロギーに生きる少数の活動家を除く、50年代の一般的組合活動家にとっては、何よりもまず、低学歴で財産もない労働者でも町の「名士」になり代議士や大臣になれるということだったのではないか。そして、日本社会党とは、「企業内昇進」に満足しえない労働者の立身出世志向の物質化、制度化としての一面を有していたのではなかろうか。もちろん、組合活動家の中でも議員になれる者は限られていた。しかし、上は議員から下は職場の代表である支部委員まで、企業外への出世コースの人脈が形成され、それが労働者の上昇志向を吸収していたことは否定しえない。

 苫小牧新労結成の指導者も、王子労組幹部の多くは、組合役員から社会党議員という「企業外への出世コース」を歩もうとしていた人々であり、それゆえに彼らは王子の「従業員としての立場を踏みはずした」と語っている(33)。そして、新労組(第二組合)は、「職業的活動家」の階層ができて「旧労」のような体質になることを防ぐために、組合執行委員への就任を「2〜3選」に制限した。王子労組の執行委員(支部、中央)には、分裂前においても5年以上勤める者が多く、分裂後は10年以上が普通だったのに対して、新労の役員は細川英香を除いてすべて2〜3年で入れ替わっている(34)。細川は争議対策のために争議中に王子の子会社に入社した全労会議の職業的活動家である。さらに、こうした傾向を企業内昇進の閉塞が加速していた。ただし、職制の地位が魅力に乏しいものだったので、昇進閉塞が企業外への出世コースを生み出したとは考えられない。立身出世を望む労働者は、昇進が閉塞していなくても、職制への昇進よりも組合役員になることに魅力を感じたであろう。

 このように、末端管理者かつ部下の利益代表者としての「二重性」に基づく強力な職制支配が、いまだ未確立だったことは1950年代の大企業に共通する状況だったようである。

 いくつかの実証研究は、1940年代の「戦後危機」の時代のみならず1950年代にも、職制の職場掌握力が脆弱だったことを明らかにしている。三菱造船長崎造船所の職制は「経営の末端機構としてもまた職場集団の利益代表者としても十分に機能していなかった」(35)。また、日本鋼管鶴見製鉄所では「役付工は殆んど処理権限をもっていないから、絶えず平工員の苦情や要求が、一面では役付工に対する不満として残され」、現場職制には「管理権限の大部分が与えられず、上部の管理部門に中央集権的に吸上げられ」ており、職制の「労働者統轄力を弱めて」いた(36)。

 日本鋼管川崎製鉄所に関する調査も、職制と組合職場組織役員との重複、職場組織の「労務管理機構化」を指摘しているものの、同時に「職制支配」の弱体化、「職場組織の労務管理機構からの独立化の傾向」をも明らかにしている(37)。現場職制が職員組合に属し、一般鉱員との利害、立場の相違がかなり明確だった炭鉱を除外した重化学工業でも、1950年代には職制の職場掌握力は、60年代以降に比して著しく弱いものだったと考えられる。総評組織綱領草案が「職制支配排除」の必要性を強調したことは、50年代に職制の職場掌握力が既に充分強かったことではなく、「戦後危機」の時代のような職場秩序の「麻痺」状況こそドッジ・ライン、レッド・パージを通じて克服しえていたものの、50年代にはいまだ弱体だった職制の力が飛躍的に強化されつつあったことの反映だったのではないか。

 以上のような職制支配の脆弱さは、先に挙げた敗戦直後における労働者の闘い、そして、それを背景として経営者によって選択された中央集権的な管理様式の結果としての側面を有していた。能率増進のためには、スタッフ部門の拡充が、現場職制に対するスタッフ部門による指導、統制、助言→現場職制の機能の強化のプロセスを促進するのでなければならない。しかし、王子におけるスタッフ部門の強化は職制の弱体化を結果していたのである(日本鋼管鶴見製鉄所でも「管理部門」への権限の集中が職制の「労働者統轄力」を弱めていた。管理部門、労務担当部門等スタッフ部門への権限の集中→職制の力の弱体化という状況は1950年代の大企業では一般的だったのではないか)。

 これまで述べてきたように、王子における職制──労働者関係は、職場闘争が存在せず親密な人間関係で結ばれているにもかかわらず、職制による職場支配力が著しく脆弱であるというものであった。それは、戦前における“ヒエラルヒッシュ”な性格が明確な支配──服従関係が、戦争直後の労働者の闘いによる「身分制」廃止、労働条件格差の縮小をも一つの要因として、弱められ、一見すると“フラット”な“ベタベタ”した“人間関係”に変質させられた結果であった。筆者が“癒着関係”と呼ぶのは、こうした“フラット”であるかのような観を呈する親密な“人間関係”に他ならない。

 では、そうした“親密な人間関係”とキャリアの連続との関係はいかなるものだったのであろうか。

 確かに、職制の多くが高小卒の現場労働者からの「タタキ上げ」だったこと(補論U参照)も労働者と職制の癒着の一因だったと推測される。苫小牧工場基幹工程および保全修繕の職長65名中57名、係長20名中14名、非組合員の課長でも9名中4名(4名大学旧高専卒、1名旧中卒)が高小卒であった。ただし、こうしたキャリアの連続だけで一体感が生じたわけではない。王子製紙では1930年代に既に下級職員の大部分は高小卒の職工からの登用者だった(“補足”参照)。しかし、にもかかわらず、苫小牧工場の組合結成時(1946年2月)には、職員である現場監督者(戦後の職長に当る階層以上が職員)に対する工員層の「敵対意識は激しく」抄紙工達は連判状をそえて職員と混合の組合を作るなと要求した。抄紙は最高の熟練を要するキャリアの深い職種であり、工員の職員への登用の可能性が最も高い職種であった。そして、抄紙工達を説得し混合組合結成を主導したのは東大卒のホワイトカラ−中井進であった。こうして成立した工職混合組合は「身分制」廃止を要求、実現し、「身分制」廃止によって初めて労働者と職制の癒着が完成した。すなわち、労働者と職制の癒着は、労働者の闘いによって促進されて初めて完成したのである。

 《補足》

 1930年代の職員身分は上から正社員、准社員、雇員、准雇員となっており1934年〜36年の王子製紙全工場(本社を除く全事業所)の社員(主任、係長、課長等の役職者を除く)614名の内119名が職工からの「登格者」であり、准社員では188名中105名、雇員187名中136名、准雇員495名中389名が「登格者」であった(前掲田中慎一郎『戦前労務管理の実態』図表4)。また、抄紙(抄造)工程では“カンとコツ”に基づく高度な熟練を要するため、特に職工からの「タタキ上げ」=「登格者」の比率が高かった。例えば、1934、35年の王子製紙十条工場抄紙工程の正社員5名中4名、准社員3名中2名、雇員1名中1名、准雇員4名中4名が「登格者」であった。また、当時の苫小牧工場長、長谷川源六も職工(抄紙工程)からの「登格者」であり、職工出身者でも東洋で最大の工場の工場長にさえ昇進しうることを示す「シンボル的存在」であった(『戦前労務管理の実態』63頁)。

 戦後、大学卒の職員が主導した工職混合組合の結成は、現場職制のみならず、将来重役になる可能性をも持つ大学卒のエリート達に対する労働者の「職員は即資本家」だという認識(38) をも著しく変化させた。といっても、労働者は、現場職制に対して持っていたような「親近感」や「仲間意識」を職場で顔を合わせることが少ない大学卒に対しては持っていなかったという。しかし、王子労組が、公式には、大学卒をも「同じ労働者」と呼び彼らを再吸収しようとしたことも事実である。当時の苫小牧新労書記長石川晴樹は、労働者達が、東大卒の紙パ労連委員長池ノ谷吉春(王子労組出身)に対して、「同じ仲間」ということではなく「情報が豊か」で「指導力」もあり「工場で働く人々より一段上で指導している人」という「感覚」で「尊敬」の念を抱いていたと述べている(39)。王子労組が、大学卒をも「同じ労働者」と見なしたのは、第2次世界大戦後一貫して少数の大学卒が組合の指導者として重要な役割を果たしてきたからであろう。

 現場職制および、大学卒等ホワイトカラー、すなわち旧職員層に対する労働者の感情、認識の変化は、「職工」「職員」等の呼称の廃止や、労働条件格差の縮小とも深く関わっていたと考えられる。このことについては、補論Uを参照されたい。

 しかし、新労の主要構成部分である旧職員層すなわちホワイトカラーおよび現場職制が、一般労働者と完全に同一の利害、立場を有するに至ったわけではない。ホワイトカラーの場合、連続操業によって勤務形態が変わることもなく、労働災害の危険をも免れていた。そして、大学卒は重役にもなれる昇進可能性を持っていた。また、現場職制にしても、一般労働者とは異なる立場にあった。組合員である職制は、上から係長、職長、組長(職長以上が旧職員)であり、組長は一般労働者と同様の労働を行うが、職長は管理、監督のみに従事し、係長は3交替職場においても常昼勤務であるとともに第1次成績査定の担当者であった(40)。したがって、旧職員をも「同じ労働者」と呼び彼らの再統合を意図した王子労組の路線は、労働者大衆の感情、認識を反映したものではあれ、相当な無理を孕むものだったのである。

 《補足》−「身分制」の廃止

 第2次世界大戦後、日本全国で続々と結成された労働組合が掲げた主要な要求の一つは、工員、職員の「身分制」廃止であった。1946年2月10日結成の王子製紙苫小牧工場労働組合が最初に提出した要求書の中で筆頭に掲げられたのも「封建的差別待遇ノ改訂」すなわち「身分制ノ撤廃」、「月給制ヲ目標トスル諸給与規定の一元化」であった(41)。

 労働者が「身分制」廃止を要求した理由は、後述のような賃金を初めとする極めて大きな労働条件格差に対して不満を抱いていたことばかりではなかった。当時、組合の要求を受け入れて「身分制」を廃止した労務担当者である田中慎一郎によれば事情は次の通りである。

 「過去の日本の労使関係というものは非常に身分臭が強くて封建的なものだったわけですね。一例をいえば、労働者が入る門と職員が入る門とは違うとか、要するに非常に妙な差別があって、また労働者にも非常に卑屈な気持がうわっている」、「当時は御承知のように職、工員の身分撤廃ということがスローガンだったわけです。ところが連中の身分撤廃というのは、通用門を別にするのはけしからぬ……とかいう非常に素朴なものです」(42)。すなわち、賃金格差等労働条件の問題に解消しえない性質の不満がそこに存在したのである。

 また、『王子製紙労働組合運動史』73頁には苫小牧工場労働者の次のような言葉が記されている。「昔の職員は神様扱いだった。カードを捺さなくても良かったから、いつ会社へ出て来ていつ帰ったのか、われわれは」知らなかった。「時々番方の工頭」(職工身分の古参労働者で他の職工と同様の作業に従事)から「誰々の家へ行って手伝って来いと言われて、いやいやながら薪割り、煙筒掃除、雪はねをやらされたものです。職員の私的生活に下男のように使われることはあたり前のことでした。十二時間の夜勤明けに使役にやらされるのは全く嫌になったものです。しかし中には会社の仕事よりも、そっちの方を一生懸命やる人がいるんですよ、こういう人は可愛がられて昇給もグントいいんです。職員に口答えでもしようものなら『明日から会社へ出て来なくてもよい』と一ぺんに怒鳴られたものです。……配給所の通帳も色で区別してあるんです。職員は赤、職工は黒でした。配給所からの購入は職員は制限がないんですが、職工は身元保障金の積立高によって、十五円、二十円と証明書を出してその制限内しか買えないんです」。

 さらに「職工は品性が悪く物を盗んだりするとされていたため、軍隊式の守衛所、門鑑で厳しく出退勤をチェックするとともに物品の持出しを取り締まっていた。実際に軍隊の下士官あがりの者が巡査か警官のような役まわりをしていたのである」(43)。なお、守衛は職員であり、その内の准雇員であった(職員は上から社員、准社員、雇員、准雇員に分かれていた)。

 以上のような職員、職工の「身分制度」は、第2次世界大戦中の1943年改訂されることとなった。これは、1916年の「職工規則」改訂以来従業員制度における初めての変化であった。すなわち、「皇国勤労観に基づく新産業労働体制への切替」という「時勢」の下で、格差縮小が意図されたのである。従来蔑視を伴う名称であった「職工」は「工員」に改められ、古参労働者である「上級工員」(旧工頭の一部がそれに任命された)には「月給制」が適用されることになった(44)。

 そして、戦後、組合の要求に応じて、工員、職員の名称も廃止され、1947年5月、全従業員が「一律」に「社員」とされた。この時、旧工員、職員ともに日給月給制(1日の欠勤につき月給の25分の1を控除)となった。従来、職員は完全月給制(欠勤しても控除なし)、工員は日給制(上級工員を除く)であったが、これによって、両者の条件が同一化されたのである。 このような「身分制」廃止を勝ちとった苫小牧工場労働組合は、工職混合組合であった。しかし、何の抵抗もなく混合組合が結成されたわけではない。「当時の工員層の職員に対する敵対意識は激しく、抄造では連判状をそえて、絶対職員と一緒にならないでくれと申し入れてきたほどであった」。抄造は、最も高度な熟練を必要とする最もキャリアの深い職種であるため、上級職員である(正)社員にも職工からの「登格者」が少なくなく、キャリアが連続しているにもかかわらず、工員層は職員層に対して激しい敵対意識を抱いていたのである。

 このように、工職別組合を主張する工員層を説得することによって、混合組合としての結成を主導したのが東大卒の職員中井進であった。中井は「争議の手段として、生産管理がとられた場合、その時は職員の協力がなければ難かしい」、「職員の中には組合のため有益な人がすくなくないのに、クズと一緒に閉め出すのは惜しい」と主張し、労働者を説得したのである。ただし、それでも、労働者の職員層に対する不信は根強く、(正)社員の中の係長、主任が組合役員になることは組合規約によって禁止された(後に撤廃)(45)。

 以上のように、職工(工員)、職員の「身分制」の問題は、単に賃金、労働時間等の労働条件の問題に解消しえないものであった。しかし、戦後における現場職制との労働者の癒着について考える場合には、労働条件格差の縮小の問題も看過しえないであろう。それについては、補論Uを参照されたい。

  《補論U》 旧工員、職員間格差の推移

 では、王子労組側が「同じ労働者」と呼んだ旧職員層と労働者の間の労働条件の格差はいかなるものだったのであろうか。まず、第2次世界大戦前に比べて戦後の格差が著しく縮小したことに注目しなければならない。

〔イ〕月額給与

 戦前、職員は月給制であり、欠勤控除、残業手当等の諸手当はつかず、月々の給与は月給一本であった。ただし、1943年以降、残業手当、生活補完的な諸手当が新設されていった。一方、職工は日給制で、戦前から残業手当がついた。戦後、労働者は月給制の適用を要求し、1947年「身分制」廃止と同時に日給月給制が適用された。それは1日の欠勤につき25分の1を控除するという制度であり、この制度が旧職員にも適用された(1)。そして、この方式は1950年代以降も変わらなかった。月額給与は、毎月同じ額が支払われる基準内給与と、金額が変動する基準外給与(残業手当等)から成る。基準内給与は、基本給(職員は月給、工員は辞令面日給×出勤日数)と、生活給、地域給、物価手当等に区分される(第7図参照)。

 まず、基本給格差の推移について検討する。1936年には、職工の実収(賞与を除く)の86%が基本給であり、樺太在勤手当等の諸手当や基準外給与は14%(2) にすぎなかった。第5表は、最高位の管理職(その上には役員が居るのみ)である本社課長(大戦末期以降の部長)を初めとする本社の上級管理職、苫小牧工場の現場職制と労働者の基本給を比較したものである。この表によれば、大戦中に格差がある程度縮小したことが判る。しかし、1944年5月の本社部長の平均491円に対して、戦後の1945年9月の全従業員平均は85円であり、戦後まで相当な格差が残されていたのである。

 しかし、給与格差を考察する場合は、生活給等をも含めた基準内給与合計について検討しなければならない。この時期、基本給の比率が急低下したからである(第8図)。年齢と家族数、居住条件のみによって決定される生活給部分は、敗戦までに17%に拡大した。戦後、インフレの昂進に伴って、会社は1945年11月、12月、46年1月の3回にわたり給与の引上げを行った。これは「臨時手当を職員は2倍に工員は4倍に改訂」する等、上に薄く下に厚い増額であった。そして、1946年2月以降は労働組合が給与体系の「生活給化」を要求し、これを実現していった。1947年4月、組合は従来からの基本給を廃止し、いわゆる「電産型賃金体系」をモデルとする給与体系の採用を要求した。これに対して、会社は強く抵抗し、基本給を残すことによって格差縮小に歯止めをかけようとした。そして、労使双方が妥協し、基準内給与の62%が「生活給化」する一方、従来の基本給も残されることになった(3)。また、大戦中に、工員や下級職員の場合は生活補完的な手当が増加したが、上級職員には手当がほとんどつかなかった。例えば、1943年以降においても、家族手当は月給350円未満の者、住宅手当は300円未満、食事手当は250円未満の者に対してのみ支給された。したがって、大戦中に、基準内給与の格差は基本給格差よりも急速に縮小した。

 ただし、1945年9月においても、全従業員の平均基準内給与が合計135円(4) でしかなかったのに対して、1944年5月の本社部長の平均が491円だったという事実は、敗戦直後でも、上級職員と工員の間には基準内合計においてさえ、約4倍の格差がのこされていたことを示している。しかし、その格差も、その後、さらに縮小していった。1948年4月1日には、本社部長平均は全従業員平均の1.8倍になった(第6表)。部長の平均年齢は53歳、全従業員は32歳である。したがって、部長の給与と50歳台の労働者の給与の差は、ほぼ消滅していたものと推定される。

 1949年、王子製紙では職務給が導入され、管理職、職制と一般労働者の給与格差が一挙に拡大された。しかし、部長の給与は、1950年代でも、従業員平均の3倍程度でしかなかった(第7表)。この倍率は、1935年の8倍、敗戦直後の4倍に比べ低い数値である。第9図と第10図は1935年、1957年の各階層の給与を年齢別に比較したものであり、格差の縮小は一目瞭然である。


〔ロ〕賞与、退職手当

 戦後、組合は「身分制」廃止を要求するに当って退職金格差の是正を強く求めた。

〔ハ〕労働時間、休日 

 「封建的差別待遇」の撤廃という要求項目の中の小項目として、週休制の実施、有給休暇の拡充、8時間労働制の実施を要求した。労働基準法制定が避けがたいと判断した会社は、この要求を受け入れ、苫小牧工場では1946年4月から3直3交替8時間労働制が実施された。また、すべての従業員に週休制(毎日曜日)が実施され、「身分制」廃止と同時に、旧工員、職員を問わず同一日数の有給休暇が与えられることになった。

〔ニ〕解消されなかった格差

 第1に、学歴格差。第2に、3交替労働者とホワイトカラー格差。現場労働者と内勤格差。

  第4節 “ストライキ労働者”対“スト破り”の攻防



 1.巨大な共闘体制

 王子労組の闘いは、道炭労(日本炭鉱労働組合北海道地方本部)と紙パ労連を中心とする「共闘体制」に支えられて初めて可能となった。当時の道炭労は、職場闘争を基礎として戦闘的な労働運動を展開し日本労働運動を牽引、指導せんとする気概を有していた。道炭労に「王子闘争支援」を決定させた道炭労事務局長対馬孝且(三井美唄炭鉱出身)は、1953年三鉱連の「英雄なき113日の闘い」を勝利に導いた指導者であった。「113日の闘い」の時に被解雇者の強行入坑や職場闘争の遂行能力を持たず弱体であった三池労組に対して、対馬が指導する北三連(北海道三井炭鉱労働組合連合会)は三池へ250名の「オルグ」を送って闘争を指導した(1)。また、北三連は1954年日鋼室蘭争議でも共闘体制の主力となった。1958年発表の総評組織綱領草案も北海道に始まった炭労の職場闘争を日本全体に広げることを意図していた。また、道炭労を核とする全道労協(全北海道労働組合協議会)の幹部達も、総評全体の指導者としての自覚を持っていた。当時の多くの大単産すなわち炭労(原茂)、国労(吉田忠三郎)、日教組(小林武)、私鉄総連(堀井利勝)の委員長は、北海道の組織から選出されており、道出身の元委員長、書記長に至っては枚挙にいとまがなかった(2)。

 こうした北海道労働界の状況は共闘体制構築にきわめて好都合であった。対馬孝且は1958年6月以降総評、全道労協に働きかけ共闘体制を確立し、9月以降は連日千名以上のオルグを現地に派遣した(3)。オルグは王子労組員の教育やピケ、デモの指導に当たり警官隊との衝突の最先頭に立った。現地で闘争を指導したのは対馬と同じく三井美唄出身の若松不二男三鉱連総務部長(三池争議でも第一組合側のピケ隊長)であった(4)。炭労オルグは自分達の経験から社宅街に地区組織を作った。スト中は職場を離れ社宅での生活の比重が高まるため、切崩し防止には地区組織が不可欠であった。そして、王子争議は50年代総評の代表的争議戦術であった「家族ぐるみ、町ぐるみ」闘争の典型例となった(5)。


 他方、資金面では紙パ労連(全国紙パルプ産業労働組合連合会)が重要な役割を担った。労連傘下の各労組は、1958年11月30日までに約7千万円をカンパし翌年3月までにカンパは総計9,090万円にのぼった。また、王子労組は労働金庫から3億100万円の融資を受けたが、これも紙パ各労組が担保を提供することにより実現した(6)。さらに、紙パ労連は10月21日、11月17日の2波にわたる「連帯スト」を実施した。連帯ストは1時間程度のものにすぎなかったが、王子労働者にとって大きな励ましとなった。また、王子争議における王子労組側の「暴力」をも理由の一つとして岸内閣によって提案された警察官職務執行法の改正に反対する闘いである「警職法闘争」の高揚も彼らを勇気づけた。

 こうした共闘体制を他の争議と比較してみよう。第13表によれば、王子争議の闘争資金が他に比べて潤沢だったことが判る。日鋼室蘭争議では、米が買えず、「麦を主食」とし「ナッパ1枚買う金さえ」なく「明けてもくれてもタンポポ」を食べるという状況が続き(7)、スト終了後わずか3ヶ月にして第一組合が半数を割った。これに対して王子の労働者は、こうした生活の困窮なしに闘うことができた。また、益田哲夫元全自動車日産分会委員長は「僕たちの弱みは、王子とちがうのは、上部組織(全自)が紙パ労連より弱い」(8) ことにあったと語った。日鋼室蘭争議でも、鉄鋼労連は「富士鉄室蘭労組を除いては積極的支援をしぶ」った(9)。さらに、企業連の日鋼労連は室蘭労組を除名し第二組合の加入を承認したのである。地域共闘は日産争議では基本的に存在せず(10)、日鋼室蘭争議では北三連の「独走支援」プラス富士製鉄室蘭労組の共闘にすぎなかった。他方、王子争議では道炭労全体が支援部隊を派遣し「警職法闘争」の高揚の中で支援の輪は全国に広がった。60年安保闘争が三池闘争を包んだように、「警職法闘争」は王子労働者の闘いを包みこんだのである。

 以上のように、王子の闘いは「恵まれた闘争」であった。会社側は、こうした共闘体制の成立を全く予想していなかった。経営者達は「王子労組だけを相手」として考え「共闘」を計算に入れず「全国的な大争議」に発展するとは予想せず、短期間で勝利できると考えていた(11)。ある経営者は、この争議は王子労組本来の「力の10倍以上」(12) の闘いだったと語っている。

 2.第二組合の強行就労

 会社は、新労に対して、就労=生産再開を要請し、1958年8月17日から、新労は「就労デモ」を始めた。これは、裁判所の仮処分決定を促進するための行動であり、日鋼室蘭争議でも使われた戦術であった。王子労組側はピケを張り工場内への入構を阻止し続けたが、「就労デモ」は、生産再開の意志を強く社会にアピールし、それが王子労組によって実力で阻止されているために、仮処分執行が必要であることを示すために行われたのである。会社は、既に8月13日に、札幌地裁に対し、工場等会社施設内立入禁止、出入妨害排除仮処分命令の申請を行っていた。8月の初め、一挙に大量の王子労組からの脱退者が現れたが、その後は、頭打ちになった。そこで、生産再開は、脱退者をふやし、王子労組に決定打を与えるための戦術として採用された。労働者には「俺達が入らなきゃ紙は出せないんだ」という誇りがある。それがストライキを支える自信にもなる。そこを、組合から脱退した職制や事務職場の者を使って生産を再開し、工場の煙突から煙をあげて誇示する。「それは王子労組の組合員にとって最大の苦痛である」(13)。

 ここで注目すべきは「スト終結後の諸問題及び対策」と題する文書である。この文書は、9月20日頃、春日井工場内に入った王子労組員が、発見したものである。この「対策」文書の内容は、日産争議、日鋼室蘭争議の例を参考に、具体的緻密にたてられた王子労組破壊の方針であった。それには「スト終結後の対策」のみならず、「当面の行動要領」も添付されていて「新労組勢力増強の方法」「スト中の生産再開」「スト長期化の場合」の方針の骨子が指示されている。この「対策」は、いずれも会社の基本戦略に沿い、会社と新労幹部が相談した上でまとめられたものであることが内容自体から明白である。事実、会社が争議対策として実施した各種の戦術はこの方針に沿って進められた。同文書の7頁には「勢力優劣の決定的動機となるものは生産再開である」とある。就労デモ、仮処分申請、強行就労と「教科書通り」に積み重ねられた会社の争議戦術は、生産再開による新労増強を意図したものであった。しかもこの文書は苫小牧の仮処分が決定された9月6日付になっている。既にこの日、会社と新労幹部は、仮処分→生産再開によって新労が増強され、王子労組が降伏してストを解くことを前提として、「スト終結後」の具体的対策を練り上げていたのである。

 札幌地裁の入出構妨害排除仮処分の決定は、9月6日午後3時30分に下された。そして、同日、警視庁公安二課は、王子労組中央執行委員会の吉住秀雄委員長、田原賢蔵書記長、服部治男執行委員、東京支部役員の中でただ一人脱退しなかった安原昭三東京支部書記長等の逮捕状をとり、9月7日、8日の2日間で、これら5名を逮捕した。その容疑は、約1ヶ月も前の8月13日、15日、本社で新労組員に対して彼らが「暴行」(14) をはたらいたというもので、しかも、5名はその後「なんら起訴されることもなく」釈放されたのであった。これは、闘争指導部を一括逮捕することによって、重大な段階を迎えた王子労組の闘争体制を麻痺させ、仮処分執行を円滑化することを意図したものであったと考えられる。こうして、9月15日の苫小牧工場の新労の強行入構、9月14日の春日井工場のそれは、主だった組合役員逮捕の内に実行された。

 札幌地裁の仮処分決定が近日に迫ったことを察知し、9月1日の現地共闘会議は、連日千名の炭労を中心とする支援オルグの動員を決定し、断固として仮処分執行を実力阻止する態勢を強化した。そして、9月6日仮処分決定が下りてからも、新労の就労を実力によって阻止し続けた。「会社にとって操業の自由はある。しかし、会社には第二組合をつくったり、第二組合を育成したりする自由は不当労働行為として禁じられている。」「第二組合は会社の違法行為によって組織されたものである。そのような脱退者集団をつかった操業は許されない。その結果、会社の操業の自由は大きく制約されているのである」。(15) これが、王子労組側の主張であった。

 警察および新労は、1日の内でピケの最も手薄な夜明け前、不意を突いて入構した。9月15日午前5時15分、新労の先発隊55名はバス2台に分乗し、武装警官約千名に守られて苫小牧工場正門に向い、約百名のピケ隊を排除し、正門付近の柵を乗り越えて入構した。「警官のふり廻す棍棒がビュンビュンと音をたて」、王子労組側は何の抵抗もできなかった。その後、午前6時、会社はロックアウトを宣言した。王子労組側は直ちに、2千名を動員し、ロックアウト宣言を無視して、800名が工場構内になだれこみデモ行進した。午前7時頃、新労の第2隊514名が、警官隊1500名を先頭にして正門に向い、7時10分、正門前50mでピケ隊に阻止されたが、執行吏、警察側と全道労協川上教宣部長の話し合いが続けられている内に、7時50分突然コースを変更し、東北門からピケの手薄間隙を突いて強行入構した。これに気づいた工場構内の王子労組側が入構を阻止しようとして新労側部隊に襲いかかり、新労側は48名の重軽傷者を出し、この負傷者の内、20名が入院し、その内3名は瀕死の重傷を負い、さらにその内の1名は頭部切開手術によって一命を取止めるほどであった。春日井工場でも、9月14日、新労組員146名が入構し、生産を再開した。 苫小牧工場の新労組合員は、9月15日負傷者を除き全員が、工場長以下会社幹部出席の下に就労式を行い、鷲津新労委員長より560余名が労務提供のため入構したとの挨拶があり、次いで工場長から感謝の言葉が述べられ、翌16日から生産が再開された。王子労組側が、各門のピケを強化したため、入構した新労組合員はそのまま構内に籠城して生産に従事せざるをえなくなり、その後10月6日に一部入出構、11月8日に臨時休業による一斉出構、11月12日に一斉再入構が夫々その都度警官隊の大量動員を得て行われはしたものの、12月9日の無期限スト終結時まで、延べ83日間にわたって籠城状態を強いられた。会社は、工場内の休憩所や就寝設備を改造して、寝具も当初の紙ブトンに毛布といった応急のものからベッド式の半恒久的な施設に改め、医療室、理髪所、簡易食堂を設置したり、娯楽としては毎休日の夜映画を上映したりした(16)。また、王子労組側が食糧の搬入を認めたものの、酒類の持込は実力で阻止したため、会社は酒等の慰問品をヘリコプターで空輸した(17)。

 日鋼室蘭争議では、第一組合は新労の入構、生産再開の14日後ピケを解除し(18)、その後、組合員の中に敗北感がひろがっていった(19)。そこで王子の経営者は「日鋼室蘭争議の例」から「籠城状態」より「通勤体制」に「次第に移行」でき、王子労組員の「精神的動揺」が「深刻化」して「スト終結の契機」となるだろうとの「観測」を行っていた(20)。しかし、その予測に反して、王子労組は、共闘体制に支えられて強靱な抵抗力を示し、トラック、工場内への国鉄の引込線、原木を流送するための「送木水路」を通じた製品、原材料の入出荷を実力によって阻止あるいは遅延させ続けた。また、王子労組側は連日連夜、宣伝カーのスピーカーのアンプの出力を最高にし、流行歌等のレコードを流したり、ドラム缶をたたき、かんしゃく玉を鳴らす等騒音をたて、構内の新労組合員の睡眠を妨害した(21)。

 

 3.警察、裁判所の動向と暴力団の投入

 前述のように、生産再開後も原料、製品の入出荷の妨害が続けられたのに対して、会社側は、9月22日札幌地裁に対し仮処分申請を行い、10月9日札幌地裁は入出荷妨害を禁止する命令を下した。しかし、この決定においては、入出荷妨害の取締を裁判所任命の執行吏に委ねることを求めた会社の申請は認められなかった。

 そこで、会社は再度執行吏による「妨害排除」を求める申請を行った。しかし、10月18日札幌地裁はこの申請を却下した。そして、王子労組側が、線路から1.8mの距離を置いてピケを張り「言論による説得ならびに団結による示威」を続けることを認めた。1.8mとは3.6mの半分であり、3.6mとは国有鉄道建設規程第21条の「停車場外ニ於テハ軌道の中心間隔ハ三米六〇以上……タルコトヲ要ス」に基づくものであった。この規程は列車がすれ違う場合の安全のための間隔を示したものである。そして、裁判所はピケが列車通行の障害にならない(?)ギリギリの線を線路から1.8mの距離としたのである。ただし、後述の「フクラミ戦術」に示されたように、この1.8mのラインは必ずしも列車通行の妨げとならない距離ではなかった。また、さらに、札幌地裁は、王子労組側が「人力による抵抗」で「不作為義務」(入出荷を妨害しない義務)に違反した場合に、「その人体に対し、直接的な強制を加えてその違反行為を除去することは許されない」という見解を示した。すなわち、王子労組側がピケの実力によって入出荷を妨害したとしても、警官隊がピケ労働者を実力によって排除することは許されず、会社側は損害賠償の請求等によって対処すべきだとしたのである。

 ただし、この決定の効力の及ぶ範囲は、争議当事者である会社、王子労組の間に限定され、当事者ではない国鉄の業務を妨害することは「威力業務妨害」として警察による実力排除、検挙の対象となりえた。したがって、警官隊の実力行使が完全に不可能になったわけではないが、札幌地裁決定によって著しく制限されるに至ったことは否定しえない。

 では、なぜ、裁判所は、王子労組側に有利な決定を下したのであろうか。まず、我々は、「静止的権利関係をコトとしている裁判官にとっては、相手の出方によって変化し、それが日によってあるいは時間によって激しく変貌する労働争議の流動性を、どの点においてとらえ、且つ真実としてつかみ出すかは、極言すれば裁判官のその場その場の脳三寸にあるとすらいい得るかもしれない」ということに着目しなければならない(22)。そして、この時の王子労組側の弁護士渡辺正雄は、「スト破り」による生産に対する実力阻止についてはすべて違法だとする見解と、「暴力以外」のあらゆる行動は適法だとする見解があり、当時の裁判所は、このふたつの見解の間を揺れ動いていたと語っている(23)。

 さらに、王子労組側の実力行使は、警官隊の弱体さによっても、かなりの程度取締を免れることになった。現地における警官の動員の特徴は、北海道警察本部発行の「王子争議に伴う警備措置上の問題点について」(1958年10月28日)という文書によれば次の通りである。第1に、人数不足のため、警官隊は争議対策の訓練を受けた部隊を核としながらも、第14表のように農村部の市町村の「駐在」をも多数動員して編成されていた。したがって、訓練の行き届いた部隊だとは言いがたかった。それでも警官の人数は不足していた。「多数の警察官を動員する場合は遠く函館、釧路、北見等の警察官を招集しなければなら」ず、「格別急速に多数の動員を要する場合は已むなくその数が限定され」人数不足のため「警察学校の生徒」まで動員した。第2に、9月15日(苫小牧工場への新労の入構)の仮処分執行時の動員は自衛隊の協力の下に行われた。警察には「機動力」が不足していたため警官隊は「自衛隊の車輛10輛」によって出動した。また、遠方から動員された者は「恵庭及び島松の自衛隊宿舎」に宿泊した。

 王子労組側は、9月15日の事件により多数の逮捕者を出した経験から、警官隊の手薄に乗じて実力阻止の行動をとった後、警察の実力行使が予想されるとその直前のところで中止もしくは戦術転換を行うように配慮しながらも、入出荷妨害を継続した。すなわち、多数のピケ隊員が、線路の両側1.8mの地点に並び、貨車が運行を試みると、最前列の者が上半身を大きく前傾させる波状スクラムを打ち、貨車の運行を危険ならしめ停止させた。これは「フクラミ戦術」と呼ばれた。そのため、警官隊500名から700名がその都度実力を行使し、貨車を通した。こうした戦術によって王子労組は、貨車の出入りを阻止ないし遅延させた。このような「フクラミ戦術」による貨車の運行の妨害は、長期スト解除の12月6日まで続けられ、貨車は最低1時間半、最高5時間遅れて入構し、製品を搬出した(24)。これは、極力工場の生産出荷を妨害し、会社に打撃を与えつつ、中労委の斡旋乗り出しのための条件、また会社がこれに応ずるための条件を生み出し、それによって争議における有利な解決を図ろうとする方針に基づくものであった。

 そこで、会社は、先に述べたような、警察、裁判所による取締の不充分さを、私的暴力装置の駆使によって補完しなければならなかった。前述のように裁判所が会社に都合の良い決定を出さなくなった直後、会社は暴力団を投入した。10月13日、苫小牧工場の送木水路における原木流送作業を王子労組側が阻止しようとしていた所へ約30名の一団が襲いかかった。「入墨」の腕をまくりあげ「おれは室蘭の笹谷一家だ。なめられてたまるか」と「棍棒」をふりまわしてピケ隊にとびこみ、多くの組合員を負傷させた。さらに、10月20日にも「暴力団スタイルの者」約200名が、スコップ、つるはしなどをかざし、薪をふりまわす等の暴力をふるい重軽傷者24名を出した(24)。

 会社による暴力団の投入については、新聞も次のように報じた。「函館労働会議では去る21日、40人、23日、47人の暴力団が王子争議で会社側に雇われるため苫小牧に向かったと問題にしている」(朝日新聞11月2日)、「24日午後」「警視庁公安課」が「確認した情報によると東京江東区深川のバク徒高橋某は『争議中の王子製紙苫小牧工場から工場警備を依頼された』といって、都内のヤクザの親分たちに協力を求め……二隊に分かれて去る21、2両日、午後八時半上野発の列車で北海道に向かった」(毎日新聞都内版10月25日)。この報道の真ぴょう性を裏づけるかのように、この記事の2日後、苫小牧工場に、「王子の従業員とは縁もゆかりもない」「見ず知らずの顔振れ」によって「自警団」が編成された(25)。また、「自警団員」を自称する者は一般市民に対する恐喝も行った。そこで、新労はビラによって、王子労組が「悪質な集団イヤガラセ」を行わなければ「このような自警組織を必要とするものではない」とした上で、「自警団」を自称する者が「金銭の強要やドスをちらつかせてオドシ、或は乱暴を働く等のイヤガラセをしておる模様」であるが「新労とは何等関係ないということを念の為御注意申し上げます」と釈明した(26)。

  第5節 長期ストライキの終結



 中山伊知郎中労委会長は、11月8日、王子争議に関する職権斡旋を開始した。中山会長を斡旋に引き出したのは、争議の長期化が翌年の北海道知事選挙における社会党公認候補の落選につながることを恐れた知事および社会党道連の幹部達である。社会党幹部は、知事選挙に勝つためには、争議に拘束されている炭労の支援部隊を選挙運動に投入することが不可欠であり、マスコミによって「暴力スト」として報道されていたこの争議が、得票減を結果すると判断したのである。

 中山会長は、二段構えの争議解決を提案した。すなわち、まず初めに王子労組が新労の存在を承認し、一時ユニオンショップ問題を棚上げすることが先決であるとした。次に、冷却期間(スト終結時〜翌年3月31日)を設定し、この期間中に会社、第一、第二の両組合が平和回復に向けて努力し、ユニオンショップ協定を結ぶための前提条件(両労組の統一、労使間の平和回復)を作り出すべきだとした。また、冷却期間中は、両組合間の組合員の移動がないようにすること、そして、争議に関する訴訟、不当労働行為救済の申立を労使双方が全部取り下げることを提案した。これに対して、王子労組は「ユニオンショップ棚上げ」に反対し、冷却期間中に王子労組を除名された者を会社が解雇するという条項を斡旋案に盛りこむことを強く求めた。両組合間の引抜き防止策として組合間の協定の締結も提案されたが、王子労組は、切崩し防止の保障としては弱すぎると主張しこれを一蹴した。一方、会社も「除名即解雇」の条項を認めることは、ユニオンショップを認めることと同じだとして、絶対承認できないと主張した。したがって、斡旋は暗礁にのりあげ、11月13日夜、中山会長は斡旋の一時中断を決定した(1)。

 しかし、11月15日、事態を王子労組に有利に展開させる事件が発生した。苫小牧工場内で、1人の新労組員が作業中にチップサイロに転落し、スクリューコンベアーの研ぎすまされた羽に巻きこまれて死亡したのである。死亡者は新制高校卒のホワイトカラーであり、スト以前に現場作業に従事したことはなく、作業に不慣れであった。しかも、単独作業だったため、転落時の目撃者もおらずコンベアーに血まみれのチップが出てきて初めて発見されたのである。こうした事故の可能性は、不慣れな作業を強いられていた多数のホワイトカラーにも該当するものであった。事実、この頃、その他にも労災による重傷者が続出していた。10月31日には1名が骨折、11月16日には1名が負傷(右手を7針ぬう)、26日には2名が入院(ねんざ、肋間神経症)し、1名が指を切断した(2)。

 死亡災害は、会社、新労に深刻な衝撃を与えた。こうした状況下に王子労組は会社を追撃するとともに、中断状態にあった斡旋を有利な方向に運び冷却期間中の除名即解雇を明記した斡旋案を引き出すために、11月18日発電所の占拠、発電停止を決行した。苫小牧工場の消費電力の9割は王子製紙所有の発電所によって供給されていたが、その内最も重要なものが支笏湖畔の山中にある千歳第1発電所であった。300名の部隊は、会社、警察の不意をついてこれを占拠し発電スイッチを切り、警官隊によって排除されるまでの間苫小牧工場の操業を停止させた。中労委は発電所占拠の後(11月21日)ついに除名即解雇の条項を含む斡旋案を提示した(3)。

〈 中労委あっせん案 〉

 今次の争議について職権あっせんの形をとらざるを得なかったのは遺憾であるが、これは各般の事情から止むを得ない結果であったので、労使双方ともこの間の事情を諒解して下記によって紛争の解決を図られたい。



1.今回の争議の焦点はユニオンショップ制であるが、現在の王子の労使関係に は、本来この制度の基本条件たる相互の信頼感が欠けているので、直ちにこの 制度を全面的に容認することは出来ない。将来この点が改善せられ、組合の組 織が安定した時には、従来のようなユニオンショップを結ぶことが望ましい。

2.当面の一つの重要な問題は現在組合が二つに分裂しているという事情である が、これは事実として認めざるを得ないので、労使双方ともこの事実の上に立 って紛争の収束を図るよう努力されたい。

3.このような状態の下で事態を収束するためには、差当り明年3月31日を期 限として平和回復への努力の期間をもつことが必要且つ妥当であると考える。 この期間については、旧協約第五条によって会社は組合を除名された者は解雇 するものとする。但し同条覚書はそのまま適用する。

4.その他の協約事項については、争のあった条項を除いてなるべく従来の慣行 によることとし、必要なものについてはこれを協定化すること。右協定期間は 第三項の期間とする。

5.上記期間中に会社は異動及び役付の任免はこれを行わない。

6.昇給、賞与、福利厚生その他従業員の労働条件、待遇については、本組合の 組合員たると否とによって差別的取扱いをしない。

7.今次争議に関連して労使双方とも現に行っている告訴、告発、訴訟及び不当 労働行為の申立は、全部これをとりさげる。なお、正当なる争議行為の責任は これを追及しない。

8.あっせん案が双方に受諾されたときは直ちに就労の協議に入ること。

9.もともと本争議の中心は経済問題ではないが、長期の争議を終結して生産を   (一人一律五千円)を支給すること。

10.本争議の終結について紛争が生じ、当事者間で解決がつかないときは、中 労委のあっせんによって解決をはかるよう努力すること。

  昭和33年11月21日

               中央労働委員会
                  王子製紙争議 
                    あっせん員 中山伊知郎
                    同     藤林敬三 

 しかし、一般にショップ条項自体が法的効力をほとんど持たないことは明らかであり、力関係次第では会社が被除名者の解雇を拒否することも充分可能であった。にもかかわらず、会社が執拗に除名即解雇の条項に反対してきたのは、それが王子労組に勝利感と自信を与え、新労側に敗北感と強い不安を与えるものだったからである。しかし、会社は次のような事情のため11月22日斡旋案を受諾した。受諾の最大の理由は死亡災害の発生であった。戸部卯吉苫小牧新労副委員長(当時)は、中島社長が彼に次のように語ったと述べている。社長が受諾を決意した「一番大きな」理由は、「争議によって人を殺したこと」に社長が「ものすごくショック」を受け「これ以上死者を出すわけにはいかない」と考えたことにあった(4)。第2の理由は全国新聞用紙在庫の枯渇であった。多数の事務員を含む新労の籠城生産は思うような成果をあげることができなかった。また、無期限スト突入後、同業他社は新聞用紙を増産したが、王子製紙のシェアは全国生産高の3割を占め、設備が新設されない限り、増産には限界があった。したがって、全国の在庫は8,577万ポンド(6月)から1,766万ポンド(12月)にまで激減した。そして、年末には需要に応じえなくなることが予測され、通産省は11月15日新聞用紙の緊急輸入を決定した(5)。第3の理由は、会社の不当労働行為に関して11月7日北海道地労委が「会社側に不当労働行為があったとの結論」(6) を出したことである。救済申立の内容は、不当労働行為を「二度とくりかえさないこと」「陳謝文を掲示すること」(7) だけだったが、救済命令が会社にとって不利なものであることに変わりはなかった。斡旋案には不当労働行為の申立の取下が謳われており会社は、この斡旋案によるスト収拾によって、不当労働行為救済命令が公式の命令として出される前にこれを消滅させることを意図したのである。第4に、王子労組からの脱退が11月に入るとほぼ停止したこともその理由であろう。 一方、新労組員の内現場職制、現場の平社員は、新労が現場で少数のままストが終結すれば王子労組側による「吊し上げ」が始まると予想し恐怖を感じていた。新労幹部は、除名即解雇の条項が新労組合員に敗北感を与えるものだということに不安を感じていただけでなく、生産現場の新労組織が「吊し上げ」によって危機にさらされることをも憂慮していたのである。したがって、彼らは籠城の疲労、死亡災害の衝撃にもかかわらずストが長びくことを願っていた。戸部卯吉苫小牧新労副委員長は、争議において「負けた」と考え、斡旋案受諾について会社に「抗議」した(8)。中村英雄本社新労副委員長も「正直言って敗北だと思い、がく然とした」(9) と語っている。すなわち、斡旋案受諾は新労側に敗北を意識させたのである。そして、王子労組側の就労が予定されていた12月15日春日井新労は「就労式」への参加を拒否することによって、会社に対する抗議の意志を示した。また、苫小牧工場における会社側の争議戦術の立案、実行の中心人物市村修平も、中山斡旋案受諾に反対した(10)。中島社長は、経営者内強硬派および新労幹部の反対を押切って争議収拾を決定したのである。

 他方、王子労組は、春日井支部(11月23、24日)、苫小牧支部(25日)の全員大会で斡旋案受諾を決定(満場一致)した(11)。王子労組は新労の解体、吸収を目標としてきたが、当時の労使間の力関係の下で、会社が新労を解散させることを呑む可能性がないことは明白だったからである。

 以上のように、スト終結が確定されたのであるが、直ちにストが解除されたわけではなかった。就労方法をめぐる対立が残されていたからである。日鋼室蘭争議では、第二組合員が工場内で態勢を固めていた所へ、第一組合員が3分割されてそれぞれ2週間の間隔で入構、就労させられたため、職制による切崩しが容易になり、職場闘争も1週間で潰え去り第一組合は急速に崩壊した。王子の経営者も「スト解除後、明春3月31日まで」の期間に王子労組を4回に分けて「分割入構」させる方針を発表した。これに対して、王子労組は、労使双方の斡旋案受諾後、製品、原材料の搬出入の阻止等の実力行使を強化し、「分割就労絶対反対」の態度を示した(12)。他方、会社も「分割就労」に固執したため、中労委会長は「仲裁」を申し入れ、仲裁の結果には異議を唱えないことを要請した。労使ともに仲裁を受け入れたが、王子労組は組合員に対しては「中労委がどのような仲裁裁定を出そうとも実力をもって突破する」との方針を示し、12月9日午前7時を期して無期限ストを解除し「職場確保闘争」に入ることを宣言した。

 全組合員は12月8日夜7時より工場を包囲し町は緊張に包まれた。しかし、組合員は「不安」を全く感じなかったという。百数十日の激闘を共に闘った仲間への信頼、団結の力と「勝利」への確信がみなぎっていた。焚火の炎がまっ暗な北海道の冬空を焦がし、労働歌が暗闇に静まりかえった工場の巨大な建物にこだました。緊張と抑えられた興奮の中で誰もが一体感に浸っていた。焚火は絶え間なく燃え続け会社が工場の周囲に張りめぐらせたバリケードの丸太が壊されて次々に炎の中に投げこまれた。後は夜明けを待つだけであった。12月9日午前2時10分、中労委は「一斉就労」を仲裁裁定によって決定し、会社もこれに従った。会社の意図した「分割就労」は「粉砕」されたのである。市川年雄苫小牧支部長は「我々の主張は通った。この勝利感をかみしめて今後脱落集団の吸収統一と職場闘争に入る。闘いは終わったわけではない。さらにさらにがんばろう」とあいさつを送り、割れんばかりの拍手に包まれた(13)。この輝ける英雄市川年雄支部長が、その後、会社の意を受けた田中清玄の信奉者となり、王子労組崩壊に決定的役割を果たすことを、この時歓喜に浸っていた労働者の中でいったい誰が予想しえたであろうか。

 王子労組側の戦術の特徴は、中労委を利用しながらもそれに「ゲタ」を預けて実力闘争を放棄することなく、発電所占拠、職場確保闘争等常に実力行使を前面に押し出すことによって、中労委の態度を変化させ会社に譲歩を強要した点にある。そして、その背景には、日産の益田哲夫のアドバイスがあった。全自動車日産分会は中労委が斡旋にのり出すと安心し、また「職場闘争はお手のもの」で争議を「おさめて生産に入れば」闘いを有利に進めることができるという自信があったため、早期に闘争を収拾してしまった。そして生産が再開されると「労働者はホット」して「生産再開」が同時に「闘争体型の解除」となり「職制の力でガタガタ」に崩された。益田は「スト中にすべてのものを、勝ちとるという、原則を崩してはだめだ」と忠告した(14)。王子労組は「すべて」を「勝ちとる」ことはできなかったにせよ、この忠告に従い、その時点での力関係の許す最大限のものをスト中の実力行使によって獲得したのである。


第3章 争議後半期  ───第一組合の崩壊───



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 第3章では、145日間の長期ストライキ解除、第一組合員の就労(1958年12月)から、第一組合の雪崩のごとき崩壊(1960年1月)までの時期、すなわち、争議“後半期”を分析する。ただし、本章は第2章と違って時系列的叙述にはなっていない。その点で事実の前後関係がわかりにくいかもしれないが、そこは年表を見ることによって補なっていただきたい。

  第1節 王子労組崩壊の直接的契機



 本章の課題は、第一組合である王子労組が一挙に大量の脱退者を出して労働者数の1割に満たない少数派に転落し、第二組合(新労)が労働者の大多数を吸収した根拠を検討することにある。

 新労が労働者の多数を吸収した理由について、新労や、これを支援した全日本労働組合会議は、労働者が、新労の「方針」の「正しさ」を認識し、これを支持するようになったからだと主張している(1)。もし、それが真実なら、組合分裂の指導者達は、なぜ、組合を分裂させず従来の組合内に留まって、労働者の支持をとりつけ組合の路線転換をはかる道を選択しなかったのであろうか。

 一方、王子労組側の公式の文書は、新労の組織拡大は、王子労組組合員に対する「差別待遇」等「脅迫」および「利益誘導」の結果だとしている。大多数の労働者は、新労指導者の主張を支持せず、支持するようになる見込もなかった。会社が、組合の体質変革のために、組合を分裂させ、「脅迫」や「利益誘導」(2) に訴えて第二組合(新労)を「育成」せざるをえなかったのは、それゆえであると主張している。しかし、そうした「差別待遇」が事実であったとしても、それに抗して組合組織を維持しえなかった王子労組側の問題を看過することはできない。

 労働運動史家である斎藤一郎は、闘争の敗北における労働者側の根拠について、労働者政党の「情けないほどの無理論」、組合幹部の「たえまない原則からの逸脱と、公然たるとりひき」のために「ほとんどの闘争は敗北に追いやられた」(3) と指摘している。しかし、たとえ指導者の方針が誤まっていたとしても、それをくつがえし「正しい」方針を幹部に採用させることができなかった一般労働者の問題を見落としてはならない。指導者の誤まった方針自体、一般労働者の意識の反映としての側面を持つのではないだろうか。

 以上のように、第二組合側、第一組合側、そして、斎藤の主張のいずれもが一面的である。第一組合の凋落の根拠を考察するためには、会社による「差別待遇」等の影響、第一組合指導者の方針、一般労働者の意識を総合的に検討しなければならない。

 第1図のように、王子労組は、スト終了1年後の1960年1月、一挙に多数の脱退者を出して崩壊し、新労が全従業員の約9割を傘下に収めた。この事態の直接の引金となったのは、1月15日の「第三勢力」と呼ばれた集団に属する5名の執行委員の辞任であった。当時、王子労組は、懲戒処分の撤回とりわけ4名の被解雇者の復職を目的とした闘争の再開を決定した直後であった。第三勢力はこの闘争再開に反対した。そして、1959年12月24日の支部臨時大会で、第三勢力の内現職の執行委員でなかったメンバーは、スト権一般投票の実施に執拗に反対した。しかし、当時、組合員の8割を占めていた苫小牧支部では、採決の結果、スト権集約賛成34、反対29(白紙1)の僅少差(春日井支部では22対6、白紙1)で第三勢力は敗れた。王子労組はこの決定に基づき、12月30日一般投票によってスト権を確立した(4)。これに対して、第三勢力である一部執行委員は「闘う方針には従えない」として辞任し、これに続いて大量脱退が起こったのである。

 会社側の争議記録はこの事態を次のように記述している。一般組合員は会社、新労との「平和」の回復を目指していた「穏健派」である第三勢力を支持していた。大量脱退が起こったのは、第三勢力の主張が敗れ、「極左勢力」の指導の下に闘争が再開されることになり、第三勢力に託していた「望みが絶たれた」ためである(5)。新労の「組織拡大」は、その「指導理念」と「実績」が「多くの従業員」の「理解」と「共鳴」を得た結果である(6)。また、新労によれば、それは、王子労組指導者の闘争再開方針に対する労働者の拒絶、労働者が新労の路線の「正しさ」(7) を認識し始めたことの結果であった。

 しかし、この解釈は次の点で事実に反している。第1に、第三勢力の主張は、苫小牧支部大会ではかなりの賛成を得たが、一般投票ではスト賛成が圧倒的多数(組合員数1,767、賛成1,406、反対191)を占めた(8)。すなわち、大多数の組合員は、第三勢力の主張を拒絶し闘争再開に賛成したのである。第2に、1960年11月の衆議院議員選挙の際、新労が推した民社党候補は、王子の企業城下町である苫小牧市で約3千票しか獲得しなかったのに対して、王子労組が推した社会党候補は1万票を獲得した。当時の苫小牧工場における組合員数は、新労が約2,700名、その家族と下請企業の労働者の票を合わせれば7〜8千票に達するが、王子労組員は400名にすぎなかった(9)。すなわち、王子労組の推薦候補に新労組員からも大量の票が流れたのである。また、苫小牧市議会議員選挙でも、分裂前の王子労組が4〜5名を当選させていたのに対して、1963年、200名(新労2,800名)にすぎない王子労組が4名の組合員を当選させ、合計約5,900票(新労側は合計5千票)を集めた(10)。

 労働者はたとえ脱退しても王子労組を「支持」し続け「その気持は、会社のきびしい統制下では表現できないが、投票の秘密の守られる公職選挙において、ようやく表現できた」のである。この事態は「身は新労、心は王労」(11) の言葉を生んだ。これらの事実は、労働者が合理化に反対する「極左的」な王子労組を見放し、「生産性向上」への「積極的協力」を公言する新労を支持するようになったという会社、新労側の解釈と背反するものである。 では、労働者はストに賛成し、脱退後も胸中では王子労組を支持し続けたにもかかわらず、なぜ脱退し新労に加入したのか。王子労組側は、脱退の原因は幹部への不信だと述べているが、確かに直接的にはそう解釈する他はない。中央執行委員長兼苫小牧支部長である岩崎俊雄、前年の長期スト時の苫小牧支部長であった支部執行委員市川年雄ら名だたる幹部5名が、闘争再開を目前にして辞任し、その内のいく人かはまもなく組合を脱退したのである。組合員が強い衝撃を受け執行部への不信によって動揺したのは当然であろう。また、臨時大会で執行部方針として提出された闘争再開方針に対して反対の論陣を張ったのは、元執行委員を中心とする者であり、執行部は組合員に対して「執行委員は全員闘う方針で意志統一している」と強調していた。したがって、第三勢力に対して一面では反発しながらも、それなりの「信頼」を寄せていた組合員は、第三勢力の執行委員も組合の決定に従って闘争を遂行すると信じていたのである。また、この頃、第三勢力である執行委員が秘密裏に会社幹部と会い、組合内の情報を提供してきた事実も明らかにされ、幹部不信に拍車をかけた(12)。

 しかしながら、幹部不信がいかに深刻なものであったにせよ、なぜ、それが大量脱退、新労への加入を結果したかについて疑問が残る。会社側と「内通」し闘争を前にして「逃亡」するような幹部に対し「不信」を抱いたのであれば、なぜ、新しい信頼しうる執行部を選出して闘争体制を再確立しストを実施する道を選ばなかったのであろうか。

 この時の脱退者達は、王子労組の指導者の所へ来て「涙」を流しながら、王子労組に残っていれば「将来が不安だ。本当にすまないと思うが脱退させてもらう」(13) と丁寧にあいさつしていった。すなわち、組合員は、闘いの見通しと自己の将来に対する不安を抱き、敗北感に打ちひしがれ、闘う自信、勇気を喪失していたのである。この敗北感と自信喪失は、執行委員の辞任によって新たに生み出されたものではなかった。圧倒的多数でスト権が確立されたスト権投票時にも、同時に脱退届を出していった者もあったという。さらに、辞任以前にも脱退者が増加しつつあったことも見落とせない。組合員は、闘争再開を支持し闘うべきだと考えながらも、自らが王子労組に留まって闘いを遂行するための勇気と自信を、辞任以前にかなりの程度萎縮させていたのである。闘わなければならない、闘うことが正しいことだと考えることと、自らが闘争を遂行すること、闘争のために必要な気力と自信を有していることとは必ずしも同じではない。では、組合員は、なぜ、闘いを遂行する気力を既に失っていたのであろうか。

  第2節 会社による処分、差別待遇の影響



 王子労組側は、その理由として「処分」および「差別待遇」を挙げている。職場闘争(詳しくは後述)に対する懲戒処分(1月31日)は、最も戦闘的な職場活動家を対象とするものであり、職場闘争推進への壁となった。また、1959年夏期賞与支給(7月)の際、王子労組員と新労組員との間にストによる不就業を理由とする平均約2万円の差がつけられた(1)。

 また、4月17日、春日井工場で35名の配置転換が発令されたが、対象者の内新労組員は全員が「昇進」したのに対し、王子労組側はすべて「格下げ」か「横すべり」であった。ある王子労組員の組長はワインダー係に格下げされた。入社後1〜4年の者の職務であるワインダー係に、勤続16年の組長が落されることは、通常では考えられないことであった。また、2号、3号抄紙機に配転された2名は戦傷者等で、それゆえ他の抄紙機よりも仕事が楽な1号機に配属されていたのである。彼らには、他の抄紙機では体が「もたない」のではないかという心配があった(2)。

 さらに、3月の「子弟採用差別」は、就職を間近に控えた子供を持つ年齢層の脱退を促進した。王子の労働者にとって、子供を王子製紙に就職させることは切実な願いであった。当時、王子の賃金水準は日本全国でトップクラスであり、また、子供が就職すればひき続き社宅を利用できるからであった。(3)。労働協約付随の「諒解事項」第4項では、停年退職者の子弟を「優先的に採用する」とされていたが、実際には、例年、まだ退職していない者の子弟をも優先的に採用していた。しかし、1959年3月の新規採用では、管理職(非組合員)、新労組員の子弟を中心に採用され、王子労組員の子弟の採用はゼロであった。すなわち、高校卒では、王子労組側は64名が受験し12名が学科試験に合格したが、面接で全員不合格となった。他方、非組合員、新労の側は37名が受験、20名が学科試験に合格し面接で18名が最終合格した。この事態について、北海道高等学校教職員組合は、道教育委員会に調査を要求し、それに対して教育委員会は「学校長の意見書と学業成績その他の資料に基づき検討した結果、公正を欠いた採用と言わなければならない」(4) と回答した。3月から4月にかけて、この年の8月までの他の月に比べれば多くの脱退者が出たのは、この子弟採用の結果であると考えられる。

 しかし、この時の脱退増は少数かつ一時的なものでしかなかった。それは、王子労組員の63%(分裂前)が40歳未満(5)であり、就職を間近に控えた子弟を持つ者が少なかったからかもしれない。また、その他の会社による「攻撃」も脱退増をもたらしたが、それらも少数で一時的なものであった。しかも、会社の攻撃が、かえって組合員の闘志を高揚させ、「切崩し」が「労多くして効果が少ない」(6) 状況を生み出したことについて、会社側の文書が指摘していることも見落せない。特に、前述の春日井工場の配転の場合はその典型である。4月20日から23日まで関係職場で部分ストが実施され(7)、ワインダー係への組長の降格、健康上問題のある者の配転は撤回(8) された。この「勝利」が組合員に自信を与えたため、春日井工場における脱退は、これ以降2ヶ月にわたってほぼ停止した(9)。

 第1図を見れば、懲戒処分、「子弟採用差別」「賞与差別」等の攻撃にもかかわらず、1959年8月までは、脱退増が抑制されていることが判る。また、7月末か8月執筆の会社側の文書(10) には、紛争を再開しその中で王子労組の「崩壊」「第二組合の育成」をはかることは「不可能」であると記されている。当時、会社は、王子労組がかなりの程度の闘争遂行能力を維持していると判断していたのである。したがって、執行委員辞任の時点に、組合員が既に闘志を失っていたことが、処分や「差別待遇」の結果であると直ちに断定することには無理がある。では、なぜ、8月までは闘争意欲をそれなりに維持していた組合員が、翌年1月には闘志を喪失していたのであろうか。第2表のように、脱退者数は、1月にピークに達するが、それ以前にも緩やかながらも増加している。そして、脱退増が、はっきりした上昇カーブを描くようになったのは9月以降である。9月以降の時期に、組合員の闘志を著しく減殺するようなことがあったに違いない。

  第3節 平和路線



 1.吉住執行部の路線

 9月は、第三勢力のメンバーである岩崎俊雄を中央執行委員長兼苫小牧支部長とする新執行部(岩崎執行部)が発足した月である。岩崎執行部は、新労および会社との「平和」回復を目指し、闘争放棄、会社への譲歩を内容とする「平和路線」を採用した。

 前年、長期ストを指導した吉住秀雄を委員長とする旧執行部は、第三勢力の台頭、闘争中止を求める社会党道連(日本社会党北海道支部連合会)の圧力の下で動揺しつつも、会社による攻撃に対してはストによって反撃してきた。例えば、懲戒処分、「子弟採用差別」の撤回等の要求のために、3月24日2時間の時限スト、24、25日には「安全遵法闘争」による生産停止(労働安全衛生規則が禁止していた無資格者による10馬力以上のモーターの操作を執行部の了承の下に王子労組職場組織が拒否)を実行した。さらに、4月8日には24時間ストを実施した(1)。

 また、4月、社会党道連のストを中止せよとの圧力によって、会社との「平和的交渉」に入ることを余儀なくされたが、会社が「互譲の精神」「江戸城あけ渡しの西郷と勝のような腹がまえ」(2) などの言葉で、譲歩の可能性を示唆しつつ、2ヶ月間にわたって交渉を引延したことに対しては、次のような態度をとった。すなわち、子弟採用、処分撤回、王子労組の切崩しの中止等の諸問題が、6月18日までに「解決」しない場合にはストを反復することを、執行部内の第三勢力の反対を押し切って決定した(3)。そして、6月19日、会社から「両組合に対し中立の立場をとり、差別待遇を行わない」という「覚書」、「懲戒処分の問題については、組合の希望について、年内に解決するよう、誠意をもって努力する」「新規採用については組合の希望を考慮し、引続き話し合う」という「メモ」をとりつけた(4)。また、処分による被解雇者の復職については、会社側の代表である田中文雄春日井工場長から「復職について田中前知事と力を合せ社長を説得すれば出来るという自信もある」(5) という口頭の約束を得た。

 さらに、「夏期賞与差別」に対しても、7月9日2時間のストを実施した。そこで、田中春日井工場長は、賞与の格差分1人当り2万円を貸しつけること、連操実施と引きかえに、貸付金の内「僅少の額」(6) 以外は返済を免除することを認め、労使は了解点に達した。しかし、「僅少の額」だけを返済すればいいということは口約束で、しかも、対外的には秘密とされた。また、貸付金返済の期限や貸付の条件とされた連操実施の日程、および、条件(連操手当、要員補充等)の確定も先に延ばされた。このように、妥結内容は極めて曖昧なものであった。しかし、これらの会社の譲歩がストを背景に勝ちとった成果であったことは否定しえない。吉住執行部は前年のストの時の借金がまだ残っていた(7) こと、あるいはその他の事情により、長期ストこそ実施しなかったが、基本的には闘う姿勢を維持していたのである。

 

 2.岩崎執行部の平和路線

 吉住執行部は、処分撤回、子弟採用、貸付金返済の額、期日等の懸案諸事項についての要求が実現しない限り連操を拒否し続ける方針であった。これに対して、岩崎執行部は、懸案事項についての会社の譲歩が無くても、連操に「踏切る」(8) ことを決定し、討論のため下部機関に降しこれを可決した。この時(11月8日開始)実施された連操は、日曜休日を2日に1日返上する13日連操であり、労働時間の延長を伴うものであった(王子労組崩壊後の1960年5月指定休日制の13日連操に切替えられ、さらに1961年8月完全操業に移行)。連操に関する交渉では、連操手当の支給、労働負荷を軽減するための要員補充、休日返上による疲労の蓄積に伴う労働災害の増加を防ぐための措置等の問題が重要な交渉点となるのが一般的であった。しかし、岩崎執行部は、これらの点に関する会社の提案をそのまま受け入れた(9)。そのため、「会社の言いなり」になった組合に失望する労働者も多く、闘争に対して消極的な「弱い」組合員ではなく、闘うことを欲している「強い層」が、王子労組が「新労のような組織になりつつある」ことに絶望して脱退することも少なくなかったという(10)。連操受諾は、王子労組の弱さを印象づけ、一般労働者に敗北感を抱かせたのである。

 さらに、岩崎執行部は職場闘争を抑制しようとした。王子労組は、スト終了後、職制による切崩しを防ぎ組合組織を守ることを主たる目的として職場闘争を展開した。すなわち、脱退の勧誘を行った職制に対する追及行動を行いつつ、職場組織の団結を固めることを目指した。職場闘争は処分発表以降それまでの勢いを失ったが、それでも、吉住執行部の下では継続され、職場組織による実力行使も、就業規則違反として処分されることを防ぐため、「安全遵法闘争」または執行部指令の部分ストの形をとって実行され続けた。吉住執行部は「中央交渉」で「柔軟」な態度をとる場合も、職場「生産点」では「常に闘う姿勢」を保つことを「基本路線」としていた。これに対して、岩崎執行部は「中央交渉でも生産点でも闘わぬ姿勢」(11) をとったのである。例えば、10月19日の苫小牧工場汽力部の配転に対して、組合員が「差別待遇」だとして抗議行動を起し、また10月末には職制による切崩しが憤激を呼び起こしたが、岩崎執行部は職場におけるこれらの動きを抑えつけた(12)。このような職場闘争の抑制は、組合員を意気消沈させ組合組織の武装解除、切崩しの助長を結果した。

 当時の一般組合員の状況については、紙パ労連オルグによって次のように報告されている。「組合員」は「孤立感に疲れている」「執行部は組合員の日常と感情を把握すべきである」「組合員は実に圧迫に抗し、がんばっている」にもかかわらず「執行部は、落ちる者は落ちろというきらいがある」「執行部」は「会社との交渉」に埋没し「組織づくり」「組合員の把握」「日常活動」が疎かになっている(13)。

 そして、このような状況の中で、王子労組は力を失った、これ以上王子労組に留まっていると「お前の将来はまっ暗」だという脱退勧誘は、不安を拡大した。その結果脱退者数が累進的に増加し、10月22日、全社(3事業所合計)では、王子労組、新労の勢力比が逆転した。第三勢力は、闘いをやめ会社への譲歩を重ねれば労使間の「平和」が回復され脱退も止むと主張していたが、事態は逆の経過をたどったのである。そして、12月8日、苫小牧工場においても新労が過半数を制し、12月17日、会社は最終回答として処分を撤回しないことを宣言した(14)。これに対して、王子労組は前述のように闘争再開を決定したのであるが、会社は、もはや王子労組に闘争遂行能力が無いことを確信した上でこのような回答をつきつけたのである(15)。そして、この判断は正しかったと言える。

 以上のような事実経過から、執行委員の辞任の時点で、組合員が既に闘志を喪失していたことは、岩崎執行部の平和路線の結果であると考えられる。第三勢力は、闘争放棄によって組合員の闘志を萎縮させ、最終的には自分達の辞任によって組織を崩壊させたのである。

 一方、平和路線に反発していた王子労組左派幹部(第三勢力以外の幹部)は、岩崎執行部内でもかなりの人数を占め発言力を維持していたにもかかわらず、処分の不撤回が宣言された12月に至るまで、組織的に第三勢力と対決しその路線をくつがえそうとはしなかった。岩崎執行部内の第三勢力と左派の比率は、会社側の認識によれば、中央執行委員会では4名(第三勢力)対3名、苫小牧支部執行委員会では8名対7名であった(16)。ただし、執行委員の中には動揺的な者もあり、状況次第で態度を変えた者も含まれていた。12月に左派主導の下に、闘争再開を執行部方針として決定できたのは、そのためであった。すなわち、左派は、岩崎執行部内でも、状況によっては平和路線をくつがえしうる力を持っていたのである。にもかかわらず、左派が12月まで本気になってそうしようとしなかったのは、「平和路線には反対であったが、執行委員の多忙な業務に疲れ」ていたため「今までの方針を貫こうとする気概に欠け」(17)、また、闘争が「弾圧」を招来し脱退者を増加させるのではないかという不安を感じていたからである。また、後で見るように左派の吉住秀雄自身が一面では社長の「誠意」に期待をかけていたからであった。

 

 

  《補足》

 1959年末の王子労組脱退者数の増加。次に、「王子労組が左派組合と右派組合に分裂」、右派組合と新労の組織人員の合計が全従業員の3/4以上に達」する可能性。

 王子労組の左右両組織の分裂が期待できないとしたら、次善の策として、王子労組─新労の統一を行ないその後左派を少数派として追出し、新労と王子労組右派で3/4組合を作るという構想が生まれてくる。しかし、これとても、現在の新労員や王労員の感情から判断して6ヶ月以内に統一が達成できるという条件は殆ど見当らない。

 第1に王子労組内部の右派勢力−連操協力派を拡大すること、第2に−左派勢力−連操反対派を連操延長にふみきらざるを得ない窮地に追い込むことの二点にしぼられる。」 

 少なくとも、大会代議員、支部委員の過半数を確保し連操延長で左派と五分以上に闘える状態を作らねばならない。

 「王労苫小牧支部の中に、右派を中心とした連操延長派を作りあげてゆくのと平行して、反対勢力である左派への工作を進めねばならない。その工作とは脅かしと懐柔の両面作戦で、これにより左派の分断をねらうべきである。残念ながら具体的な作戦を記述することは出来ないのでこの点は各関係者に研究してもらうことにしたい。

 唯、一つの材料として『吉住氏が貸付金2万円と13日連操とを取引した具体的事実を公表する(会社声明のように抽象的なものでなく、もっと事実を具体的に述べたもの)』ということが、左派勢力に対して大きな圧力となることはたしかである。この材料が来年4月末に再度脅迫材料として使用できるか、どうかという点については各人によって判断が違うであろう。しかし、この材料は使い方によって、左派の親分を組合運動から失脚させるだけの影響力を持っている筈である。

 従って、この材料を活用して吉住氏をおどすだけおどし、彼とその一派が連操延長に積極的な反対ができない状態──いいかえれば消極的に賛成させる状態を作り出してゆくことも一つの方法であろう。もっと欲をいえば6ヶ月の間に左派勢力をオドすことが出来る決定的な材料を二つ、三つくらい作り出しておくことが必要かも知れない。」

 「王労左派勢力に対する脅迫と懐柔によって、その勢力の分断をはかることには、連操延長問題と同時に、懲戒問題を有利に解決しようとする伏線が秘められている。王労左派が懲戒処分の撤回をもっとも重視していることは衆知の通りである。従って彼等は最後までこの問題の解決と連操延長とをカラミ合わす作戦をとるであろう。というのは、王労の現状は、懲戒問題を解決するために実力行使がおこなえるような体制にないからだ。(註、イヤガラセ的なサミダレストは出来るかも知れないが、それは長期的なものではなかろう。)その為に最後の手段としては『連操延長の拒否権』をかかげて会社に圧力をかける道しか残されていない。これを反対からいうと、懲戒処分の問題は、王労左派を連操延長にまきこんでゆく有力な材料であることを示している。いうなれば切札である。

D最後の切札として懲戒問題をとりあげる。」

  第4節 第三勢力



 1.第三勢力の性格

 では、「平和路線」を推し進めるという意味で「平和グループ」、争議以降の第一組合、第二組合の路線を否定し第三の道を進むという意味で「第三勢力」と名のった、王子労組幹部の集団とは、いかなる性格の集団だったのであろうか。新労幹部の多くが大学卒。また、新労には、結成当初政党のメンバーは全く存在しなかったが、新労が全労会議に加盟したため一部の幹部は民社党に加入した。左派幹部の多くは、高学歴で、将来の「出世」が約束されていたにもかかわらず、王子労組に留まることによって、その可能性を棒に振った者、あるいは、そうでなければ、共産党員等強固な左翼思想を持つ現場労働者であった(王子労組内の共産党員は5名のみであった。彼らに対する組合運動の進め方に関する党の指導はほとんどなく、組合運動についての党細胞独自の路線も無いも同然であった(1))。

 第三勢力の多くは、高等小学校卒の生産現場の平社員であり、大学卒は一人もいなかった。また、彼らは無党派または社会党員であり共産党員は全く存在しなかった。王子労組内の社会党員のほとんどは、明確かつ強固な左翼思想の持ち主ではなかった(社会党員は約50名存在した。王子労組内の社会党員が、日本社会党の左右分裂に際し左派に属したのは、政治的立場の主体的選択の結果ではなく、単に社会党道連が左派に所属したからでしかなかった。当時の社会党は、学歴が低く企業内での昇進を期待しえなかった者に対して、組合幹部の地位を足がかりに市会議員、道議会議員になるという「出世コース」を提供していた(2))。以上のように、第三勢力は、学歴、出身職場、あるいは強固な左翼思想の欠如という点で、左派や新労幹部と比べて、平均的な王子製紙労働者(3) に近い体質を有していたと言える。

 第三勢力は左派と対立しつつ平和路線を進めたが、彼らも長期スト時には左派と異なる派閥を形成していたわけではない。彼らの中には、市川年雄支部長(苫小牧支部)、今田勝義支部執行委員のように、最も戦闘的な指導者であると会社側から思われていた者(4) も少なくなかった。彼らが第三勢力を形成したのは、スト終了後、職場闘争が展開されていた1959年1月から2月にかけてである(5)。彼らが第三勢力となり、組合を平和路線に導いた理由は、彼ら自身の言葉(6) によれば次の通りであった。

 @彼らは、吉住執行部の路線について、それが「無謀」かつ「極左的」な方針であり、徒に会社の「弾圧」を招き王子労組からの脱退を促進する結果をもたらしていると考えた。そして、闘争を控え会社に対して譲歩することによって「平和」を回復しなければならないと考えた。A長期スト、スト後の職場闘争の中で、第一、第二の両組合員は憎しみ合い、多くの暴力的衝突も発生したのであるが、彼らは、このような、かつては同じ組合の組合員であった「同じ従業員」「仲間同士」の対立を否定的に把え、特に、王子労組の就労後、現場では圧倒的多数を占めていた王子労組側が、少数の新労組員を「吊上げ」たことについて「反省」した。B新労との暴力的衝突を伴うスト中の闘争戦術、新労組員との憎しみ合いの増幅を結果した職場闘争を王子製紙に持ち込んだ炭労活動家を中心とする総評派遣のオルグに対して反感を抱いた。そして、「無責任」な「外部勢力」の「介入」は、王子の従業員にとって「有害無益」だと考えるようになった。また、オルグの横山春雄紙パ労連副委員長の出身企業である東北パルプが、王子のストに乗じてシェアを伸ばしたことについても憤慨し、同業他社出身のオルグは「口先」では「産業別統一闘争」を叫んではいても、実際には自分の企業の利害に従って行動するものだと認識した。そして、地域共闘、産業別統一闘争等超企業的共闘を否定し、総評、紙パ労連からの脱退を指向し始めた。

 これに対して、左派は、合理化反対闘争を推進すべきだと考えるとともに、第三勢力とは違って職場闘争や超企業的共闘についても肯定的であった。そして、争議前の王子労組が超企業的共闘や職場闘争に消極的だったことを反省し、王子労組を「企業内的」な「殿様組合」から「階級的」な労働組合に脱皮させなければならないと考えていた(7)。

 他方、新労幹部もまた職場闘争や超企業的共闘を否定していた。しかし、次のような点で第三勢力の考え方は新労幹部のそれとは異なっていたという。新労幹部は、製品市場における王子のシェア低下を憂慮し「独り当社のみが、昔の王者の夢をむさぼっていられなくなって」(8) いると訴えた。「企業の繁栄」が「労働条件向上」の前提条件だと主張し、積極的に「生産性向上に協力しよう」「分配率の増大よりは生産量の増大を」(9) と呼びかけた。そして、連続操業、要員削減等の合理化に対して「全幅の協力と努力を傾注」(10) した。さらに「安定賃金協定」を進んで受け入れ賃金増額の抑制についても協力した。第三勢力は、このような新労幹部の態度に反発し次のように考えていたという。新労は「御用組合」であり労働者の利益を「代表」するものではなく、多くの新労組員は、その「幹部のやり方」に不満を持っている。王子労組も、今後は、合理化に対して、ある程度は協力していかなければならない。また、連操受諾は、労使間の「平和」を回復し、組合からの脱退を防ぎ、処分撤回等会社の譲歩を引出すための配慮として妥当な施策である。しかし、労働運動の基本的なあり方としては、合理化に歯止めをかけ続けることを忘れてはならず、合理化に全面的に協力しようとする新労の態度は行き過ぎである。したがって、争議前の王子労組の合理化反対の姿勢については、基本的には継承すべきである。また、賃金増額についても新労のように会社の「言うなり」になってはならない。王子労組は職場闘争や超企業的共闘の路線と訣別し、新労と「対等合併」し「御用組合」でも「超企業的」でもない従業員の利益を真に実現する組合をつくるべきである。そして、争議前の「企業内的」な王子労組「本来」の姿に帰るべきである。もし、これらの言葉が真実なら、合理化反対路線を真向から否定していた新労幹部とは著しく異なっていたと言える(新労幹部と第三勢力の考え方に相違が生じたのは、新労幹部の多くが大学卒だったのに対して、第三勢力の多くが高小卒の現場労働者だったからだと考えられる。第三勢力は現場労働者の合理化に対する反発をよく理解しており、彼らの支持基盤も現場にあった)。

 しかし、第三勢力のこれらの言葉は単なる自己弁護であり本音を伝えていないのではないかという疑問が生じる余地はある。そこで次に左派が第三勢力をどのように見ていたかを検討しよう。第三勢力による闘争放棄や執行委員辞任は王子労組の崩壊を結果したのであるが、左派は、第三勢力のメンバーの多くが目的意識的に王子労組を破壊し組合員を新労に送りこむことを目指していたのではないと述べている(11)。王子労組の目的意識的破壊者が、彼らの内少数でしかなかったことは、次の事実からも明白である。今田勝義らが執行委員の辞任による動揺に乗じて「今、脱退して新労に入れば将来の地位は保証される」と脱退を勧誘してまわったのに対して、岩崎俊雄や市川年雄達第三勢力の多数は、この頃、呆然自失の状態にあったのである(12)。

 また、王子労組の目的意識的破壊者とそうでない者との相違は、王子労組脱退、新労加入の時期、および、その後の彼らの経歴に現われている。例えば、“目的意識的破壊者”の今田が、1960年1月王子労組の雪崩的崩壊と同時に直ちに新労に加入したのに対して、加賀谷昭夫の加入は同年2月30日であり、市川年雄、瀬川忠男は退職するまで新労には加入しなかった。そして、今田勝義がその後新労の推薦で苫小牧市議会議員(民社党)に当選するという“出世コース”を歩んだのに対し、市川年雄は1960年8月会社から退職を勧告され(拒否した場合は違法な争議行為を指導した責任により懲戒解雇処分に処すと通告)これに応じて退職し、加賀谷昭夫は春日井工場転勤、苫小牧工場に残った瀬川忠男、岩崎俊雄も、新労幹部等の重職に就くことなく“生涯不遇”であった。

 では、王子労組の組織を維持しようと努力していたメンバーは、なぜ第三勢力を形成したのであろうか。左派の服部治男中央執行委員(1958年)は、彼らの中には自己保身のために第三勢力となった者もあると述べている。すなわち、彼らが新労との対等合併を指向したのは、王子労組が切崩されて新労に吸収される場合には組合幹部としての地位を保つことが不可能であり、彼らの「面子」も立たないからであったという(13)。しかし、服部や同じく左派の田原賢蔵書記長は同時に、第三勢力が少数の例外を除いて単に私的利害のみに基づいて行動したのではなく、組合の「将来」を「良心的」に考えていたことを認めている(14)。そして、服部は、第三勢力の考えが、単に闘いの見通しについての悲観論や戦術的慎重論に留まるものではなく、第三勢力は、「同じ従業員同士」の対立を「反省」し、かつての「仲間」であった者どうしの間における“和”の回復を真剣に追求していたと記している(15)。なお、この文書は服部によって王子争議直後の1960年に書かれたものであり、長い年月を経た後の回顧録ではないという点でも信頼に値するものである。そして、第三勢力のメンバーの気質、性格を長年の付き合いによって熟知しており、しかも、彼らと対立していた左派ですらこう書いていることから、第三勢力の言葉が単に自己弁護の虚構であるとは考えられない。さらに、第三勢力が「従業員同士」の対立について「反省」していたことは、次のような岩崎俊雄の発言にも示されている。1959年5月17日午後1時より、東京大学社会科学研究所講師藤田若雄を交えて、王子労組幹部8名による会議が開かれたが、その席で岩崎は「青ボウに敵意がむきすぎていたのではないか、また親しみをもっていくべきではないか」(16) と主張した(青ボウとは新労組員を指す、長期ストライキ中彼らは青い帽子をかぶった)。

 2.会社による第三勢力の育成

 このように第三勢力の多くは、王子労組の目的意識的破壊者ではなかったが、第三勢力の育成に当って会社による「工作」が重要な役割を果たしたことも事実である。会社の対組合工作のシナリオとも言うべき文書(1)には、1959年9月の役員選挙における第三勢力(右派勢力)の「進出」計画が次のように記されている。

 「次期王子労組の役員の選出」について、これを「放任」すれば「現在の左派役員が殆んど全部当選することは略々明確」である。この「左派役員」は「今次争議」について「何等反省がなく」その「再選」は「紛争再発の素因を醸成する禍根」となる。左派の打倒のためには「現在の左派役員を再選」させ闘争を再開させた方が得策だとする「意見」もあるが、それは誤りである。なぜなら、王子労組の「組合員大衆」には、再開された紛争の中で、第三勢力が左派を打倒しようとする時、これに「追随する基盤」が無いからである。また、会社にも闘争に耐えうる「体力」が無いので、この「左派再選の方策」による「左派勢力の打倒」は「不可能」である。したがって、採用すべき方策は「凡ゆる方途を尽して」「右派勢力」の「進出を図り」「左派勢力」の「独走を制約しその行動を阻害し混乱せしめる」ことである。以上の「目的達成のため両工場長を中心とする動きがあるが、この方策を強力に推進するためには会社の役員会に於いてこの方針で行く旨を打合決定し、会社幹部の意志統一を行い、管理者層を通じ強力に施策を実行する決定を下部に督励することが焦眉の急務である」。

 そして、直接に、第三勢力を組織化したのは、戦前の日本共産党委員長である田中清玄であり、彼を王子製紙の経営者に紹介したのは、元北海道庁職員組合委員長である社会党系の北海道知事田中敏文であった(2)。知事が田中清玄を王子の経営者に紹介した理由は次の通りである。1959年は統一地方選挙の年で、4月23日には北海道知事、道議会議員、4月30日には市町村議会議員の選挙が予定されており、特に、当時の社会党道連幹部にとって、田中敏文の後継者として横路節雄候補を当選させることは「至上命令」であった。1959年3月、王子労組は「懲戒処分撤回」「子弟採用差別撤回」のために闘いを再開したばかりであったが、社会党道連、全道労協(全北海道労働組合協議会)幹部、田中知事は、選挙戦を有利に運ぶためにスト再発を阻止しようとした。それは、スト再開によって選挙運動のための人員(全道労協傘下の労組員)を王子の闘争の支援のために割かれること、また、マスコミが「暴力スト」として報道していたストの再発による得票の減少を恐れたためであった(3)。知事は、田中清玄の働きによってスト再発が阻止されることを期待していたのである。

 また、社会党道連、全道労協幹部は、4月8日に予定されていた24時間ストが迫ると市川年雄苫小牧支部長を札幌に呼び出してスト中止を要請した。前日の4月7日に、市川支部長は「朝から」札幌に呼び出されストを中止せよと「ギュウギュウやられ」たため、「メンツもあるので、せいぜい3時間くらいの時限ストをやってお茶をにごすから」と「約束」して「7日夜もおそくなって、解放され」帰途についた。そして、東京駐在の中央執行委員会とかけあったが、彼らは、この頃既に第三勢力に組織化されつつあった市川支部長とは違って闘争推進の決意を有していたため、24時間ストの変更を認めず、8日のストは予定通り実施された。これに対して、社会党道連幹部は「これはかんべんならぬ」と、市川支部長、加賀谷昭夫苫小牧支部書記長を札幌に呼び出して厳しく叱責した。さらに、田中知事は、自らが仲介者となって王子労組、新労、会社の「三者会談」を斡旋した。4月13日東京において、知事は電話で社会党道連幹部と翌14日のストを中止させる方針を確認し合った後、スト中止や平和的交渉に難色を示した吉住中央執行委員長らを強く説得し、「三者会談」に臨むことを承諾させた。そして、14日、17日に予定されていたストは中止されることになった(4)。

 知事は、田中清玄をまず王子製紙春日井工場長田中文雄に紹介した。知事は田中文雄とは九州帝大林学科の同級生で「こうした争議は、実戦経験のある専門家を頼まないと解決が難しい」と田中文雄に勧め田中清玄を紹介した。それ以来彼ら3人は、その風貌から「ハゲ田中」(工場長)、「ヒゲ田中」(知事)、「キチガイ田中」(田中清玄)の「三田中」と呼ばれ、相互に親交を深めることになった(5)。1959年1月、田中清玄と知事は、まず、苫小牧地区労書記長今田勝義(スト中は王子労組苫小牧支部執行委員)に働きかけ(6)、その後、今田勝義を通じて他の幹部達を第三勢力に組織化していった(7)。その結果、市川年雄支部長は、田中清玄を「生涯の師」として尊敬しその熱烈な信奉者となるに至った(8)。

 このように、第三勢力の組織者が田中清玄だと述べると、彼らのすべてが会社の「スパイ」、組合の目的意識的破壊者であるかのような印象を受けるかもしれない。しかし、それは前述のように誤りである。田中清玄の説得の内容は、「同じ労働者同士」が「憎み合ってはだめだ」と両組合の再統一を勧め、経営者の態度についても、労働者の主張に耳を傾けていないとして批判し、会社、王子労組の双方が自己の誤まりを改めて新しい労使関係を築くことを勧めたものであった(9)。彼の説得が、「スパイ」となって破壊工作を担うことを勧めたものでなかったからこそ、真面目に組合の将来を案じていた市川支部長らの心を把えることができたのであろう。以上の検討から明らかなように、第三勢力の中には王子労組の破壊を目的意識的に追求した者も含まれていたが、その多くは主観的意図において、王子労組の維持、発展を願いつつ「良心的」に行動したのである。

 ここで、会社の労務政策における第三勢力の位置づけについてふれておこう。経営者側にも内部対立が存在した。社長とその意を受けた田中清玄は、第三勢力の育成を通じて王子労組を「穏健」な組合に変質させ、総評から脱退させた上で新労と対等合併させることによって労使関係の安定を実現しようとしていた。そして、彼らは王子労組幹部の心を和らげ第三勢力への共鳴者を増やすために、新労による切崩しを抑制しようとした。例えば、「赤坂の料亭」で田中清玄は、苫小牧工場における争議対策の事実上の最高責任者であった市村修平管理部長(争議中に副部長から昇進)に対して「社長の命令」だとして「直ちに」王子労組の「切崩しをやめろ」と叫んだこともあった(10)。他方、反社長派であり社長の座を狙っていた熊沢貞夫副社長の輩下であった市村は、第三勢力を、王子労組を切崩し新労を拡大するための手段として位置づけていた。会社の労務政策は、この両派の反発と妥協の内に揺れ動きながら、具体的には「冷却──刺激」戦術として進められた。

 会社側の秘密文書にはこう記されている。「これまでの報告では冷却―刺激―混乱の反復が組織の分化を促進する効果的な方法であることを繰り返しのべてきた。そしてその成果は次第に実を結んできたとみてよいであろう」(11) この文書の発行日である1959年8月5日までの期間における会社の対応は、懲戒処分、子弟採用差別(刺激)―北海道知事仲介の「三者会談」(冷却)―春日井工場の配置転換発表―その基本的撤回(冷却)―「ボーナス差別」(刺激)―ボーナス差額分平均2万円貸付(冷却)と、まさに「冷却―刺激」の「反復」そのものであった。王子労組が闘争を再開しようとすると、譲歩を示唆して闘争を先送りさせ組合幹部の心を和らげて第三勢力に組織化するとともに、組合員の闘志を意気消沈させ「冷却」する。その上で、再び「ボーナス差別」等の攻撃をかけて切崩し、組合脱退者を増加させる。もちろん、前述のように、切崩しと第三勢力育成が相互に阻害し合うこともあった。会社の政策は矛盾を孕みながら展開され、最終的には市村修平管理部長の王子労組解体路線が勝利を収めたのである。

 なお、市村と同じく、争議対策および争議後の「経営合理化」の中心人物であった田中文雄春日井工場長は、中島社長=田中清玄、熊沢副社長=市村管理部長の対立する二つの路線の狭間にあって、調停者的な役割を果たしたと推測される。なぜなら、前述のように田中文雄が中島社長、熊沢副社長の双方と“良好”な人間関係を保ち続けたからであり、また、退嬰的経営政策の払拭の意図をもっていたという点において、経営路線としては熊沢派の市村と同一のものを持ちながら、1959年の王子労組との交渉、協議においては、常に自らを中島社長の意志の代弁者として押し出している(後述)からである。 

 3.第三勢力の“日本的精神構造”

 第三勢力が労資間の「平和」の回復、第一、第二の両組合の対等合併を目指していたことについては先に記した。その箇所では、それ以上掘り下げて論じなかったが、彼らがそうした路線を選択し第三勢力を形成するようになるに当っては“日本的”だと推測される精神構造が決定的な意味をもっていた。ここでは、そのことを第三勢力の形成過程、組合内の会議および労使交渉、協議の席における彼らの発言から明らかにしたい。

 第三勢力の形成に当っては、田中北海道知事、そして、田中知事の私設秘書であり、社会党道連常任執行委員であった平野晁、そして、全電通出身で社会党苫小牧支部長、元苫小牧地区労議長、市議会議員の合坪正三が重要な役割を果たした。彼ら社会党幹部達は、田中清玄とともに、王子労組幹部を説得し「第三勢力」に組織化した(1)。

 社会党道連による説得の論理は、次の文章(社会新報論説)に如実に表現されている。「王子労組と第二組合の組合員同士、同じ従業員同士が日本人同士の同じ労働者階層が感情のもつれから来る血で血を洗う状態は会社百年の大計上決して有益でない事は衆知の通りである。衆知の事実でありながら、労資、第一、第二の両労組の間に『和』の精神の生まれないのは何故だろう、円満解決への進展を見ないのは何故だろう。」「王子製紙の如く、化学産業であり連続的職場において操業態勢の確立こそ極めて重要、真の解決はこの操業態勢の確立である。操業態勢の確立は従業員、組合員同士の『和』の精神であり、組合の完全統一である。果たしてこの重要課題を会社側も第一第二組合の幹部、組合員が考えているのだろうか。力による解決は解決ではない。操業態勢の確立でもない。此処に日本人特有の面子にとらわれる事なく、道民、市民の声に静かに耳を傾けるべきである。」(2)。

 ここに見られる論理の特徴は第1に、王子労組と第二組合のどちらが正しいか悪いかを問題にしていない点にある。第2に、「日本人同士」の「同じ従業員同士」の「和」の提唱である。そして、この「和」は“善悪の論理を超えた和”であった。こうした考え方が、平野晁、合坪正三ら社会党幹部、および、田中清玄による説得の主たる内容だったことは、第三勢力メンバー(今田勝義、加賀谷昭夫、瀬川忠男)および、当時の社会党苫小牧支部長合坪正三からの聞きとりによっても確かめられた(3)。

 彼らの説得によって、田中清玄の熱烈な信奉者となったのが、レッド・パージ復職闘争、連操反対闘争の旗手であり、145日のストにおける“輝ける苫小牧支部長”であった市川年雄であった。市村修平苫小牧工場管理部長は、市川「支部長が常時白さやの短刀をふところにしのばせているという風聞を耳にし、その浪曲じみた性格を分析し」「裸同士で話合おう」と「一緒に入浴して見せ」情緒的な方向からの和解を追求した(4)。こうして、市川は会社側の「誠意」を信じるようになった。そのことは、執行委員会内の議論(1959年6月8日)における、市川の「組合が心から誠意をつくして諸問題の解決に当っているのに、会社が誠意を示さないわけがない」(5) という主張に現われている。王子労組の闘争再開に対する社会党道連、全道労協による圧力、北海道知事の仲介によって実現した「三者会談」(1959年4月) 以降、王子労組と会社は「平和交渉」を続けたが、会社は譲歩を匂わせながら交渉を引延し、王子労組側にとっては成果が得られなかった。そのため、王子労組は、6月、闘いを再開しようとしたのであるが、市川年雄は先のように主張して闘争再開に強く反対したのである。

 1959年4月、除名解雇、職場闘争に対する懲戒処分、子弟採用差別の問題で、王子労組が闘争を再開しようとした時の、田中敏文北海道知事および中島慶次社長による説得内容も、対立点を棚上して情緒的和解を図ろうとするものであった。

 4月14日東京で、田中知事の仲介の下に、王子労組、新労、会社は「三者会談」を開始したのであるが、「三者会談にのぞむ条件としては、旧労は色々出して、団交でやる様なことを、皆三者会談に持込むというようなやり方を主張したが、そういうことでは、現在平和的空気を作り出すために三者会談をやろうとしているので、具体的な条件が何かあろうと、それは三者会談の問題ではないから、すっきり割切りなさいと田中知事に言われて、結局諒承した」。すなわち、除名解雇、処分、子弟採用等の問題は棚上されたまま、「平和解決」のための「三者会談」が進められたのである。この「三者会談」で、既にこの頃第三勢力に組織化されつつあった市川苫小牧支部長が知事および会社が進める「平和解決」の方向に好意的な態度を示したことは言うまでもない。市川は、既に4月10日、苫小牧で合坪正三社会党苫小牧支部長の仲介の下に、戸部卯吉苫小牧新労副委員長、石川晴樹書記長と非公式に会談し、翌4月11日、市川と石川新労書記長は「仲良く二人で上京」(6) した。

 また、中島社長は「三者会談」の席で、次のように発言した。「会社も色々と反省しているし組合にも反省をお願いしたい。……当社の最高責任者として自分としては一身を投げ出してこの問題を解決したい。誠心誠意これに当りたい。自分は体の都合で代わりの人を出すが責任根本は私にある。信を相手方の腹中におくつもりである。」(7) これまで団交、協議の席にほとんど出席したことがない中島社長の、しかも、異例の低姿勢だと受けとることのできるこの言葉は、第三勢力のみならず、左派の吉住秀雄中央執行委員長の心をも強くゆさぶった。戦後1946年頃共産党シンパとなった吉住秀雄(入党は1965年)は、1919年直属の監督者を排斥するための運動を行い解雇処分を受けた千葉喜三郎の実弟で、解雇された兄の生活苦を間近に見て、「社会の矛盾」に対する怒りを形成した(8)。また、生産現場(調木)の労働者であった吉住は労働災害によって指を切断していた。こうした経歴から吉住は、「筋金入り」の「労働者魂」と、インテリ層に対する強い反感を持っていたという(9)。そうした吉住であったが、社長の挨拶に心を動かされ、同日4月14日午後9時、東京、苫小牧間の電話連絡において、「我々も腹中に入って行くという心構えで進めて行きたい」(10) と語った。 このように、第三勢力、そして、左派の吉住委員長も半ばこれに同調して、4月から6月にかけて「平和交渉」が進められたが、会社側は交渉を引延すだけで具体的譲歩を示さなかった。そこで、前述のように左派主導の吉住執行部は第三勢力の反対を押し切って闘争再開を決定したのであるが、この時の会社回答は、またしても、“具体的”譲歩を示すものではなく“玉虫色”のものであった(前述)。田中清玄を使って第三勢力を育成した田中文雄春日井工場長は、労使間の諒解事項が曖昧で玉虫色の文章に表現されたことに対する王子労組側の不満に対しては、田中文雄個人および中島社長の「腹」「誠意」を「信頼してくれ」と迫ることにより、説得しようとした。

 田中工場長は次のように語った。職場闘争に対する懲戒処分の撤回は「今ならダメだ。ストをやっても撤回出来ない。しかし今後に向って解決する自信を持っている。」「復職については田中前知事と力を合わせ社長を説得すれば出来るという自信もある。」(11) しかし、「年内に解決するといっても新労もあり、会社の方だってわからない人間もいるんだし、足をひっぱられるおそれもある。また重役間でも色々内部的な問題が沢山あるわけだ。又日経連もあるわけだ。そういう処から、一たん発表した処分というものをなんらかの形で撤回する、復職させるということをいま出した、今労使で話を進めたとなれば横やり、じゃまが入るということなんだ。将来この解決については絶対自信を持ってやるから」(12)

 さらに、1959年7月、スト参加者とそうでない者のボーナスに出勤日数に応じた差がつけられたことに関する団体交渉(7月11日午後8時10分〜10時50分)の席で、会社代表の田中文雄はこう発言した。「前にも言ったがね、そういう筋だとか主張という所から始まるから、まとまらない。」「争議をしなくてはならないという観点から離れないと出発しない、あなた方だってストをやりたくないわけでしょう」(13) 田中文雄は、ボーナス問題における具体的妥協案を示すことなく、王子労組に対して「筋」や「主張」を棚上し、当面するストライキを中止することを求めた。

 また、1959年9月10日午後3時〜6時30分の団体交渉では、同年夏期ボーナス差額分を補填するための貸付金返済問題等を具体的に解決することなしに、王子労組に休日返上の13日連操を呑ませるために(王子労組側は連操承認の代わりに貸付金返済を免除せよと要求)、田中文雄はこう説得した。貸付金問題解決の具体的条件を「ハッキリさせるならぶちこわしになる、交渉は労使の信頼の中に出来たもので、私(田中)や社長を信頼しないのか」、労使間に「これまで欠けていたのは信頼」であり「絶対に悪いようにしない、信頼してくれ」「素直にかけてもらいたい」(14)。こうした説得に応じて、第三勢力の岩崎俊雄を中央執行委員長兼苫小牧支部長とする新執行部は連操実施を承諾したのである。

 連操問題等に関する岩崎執行部の考え方は、1959年10月4日の東京での会議における次のような結論に如実に表現されている。貸付金問題の解決は「労資間又は労々間の感情の如何にかかる」。職場闘争に対する懲戒処分の撤回のためには「新労の感情緩和が必要となってくる」。そのためには「過去のわだかまりをすてること」、「相互に信義と信頼を確立する努力に踏切ること」が不可欠である。「会社は組合の態度に不信を内蔵しているので組合の態度があいまいな場合には信頼回復に疑問を持っており組合としては少々難点があっても組合員に理解させる事に責任を持たなければ」ならない。「社長及重役会に対して充分に組合の態度を理解させ組合の真意を示す必要がある」(15)。そして、「感情緩和」「信頼回復」のために岩崎執行部が行ったのが、休日返上の13日連操の受諾であった。会社側からの譲歩が何もないのに、王子労組側から“先んじて”譲歩し、会社側の「感情」を和らげ、「信頼」を回復しようとしたのである。

 これは、もはや、“バーゲニング”とは呼びえないものである。なぜならば、ギヴ・アンド・テイクの関係となっていないからである。もちろん、岩崎委員長らは、王子労組側の“一方的譲歩”によって会社がその「感情」を和らげ、その結果として貸付金、処分等の問題について譲歩することを期待していた。しかし、人間関係を良好に維持するための中元、歳暮のやり取りがバーゲニングとは異質なものであるならば、岩崎執行部の連操受諾もバーゲニングとは呼びえないであろう。

 そして、前述のように、田中文雄の口約束、曖昧な表現による譲歩の示唆は、すべて反故にされ、懲戒処分は撤回されず、ボーナス差額分の貸付金は全額、月々の賃金から天引、徴収された。また、子弟採用差別の補正措置として1959年12月および翌1月、王子労組員の子弟5名(採用者は全部で31名)の採用が行われたが(16)、この子弟採用はその父親を王子労組から脱退させるための手段として利用された。

 以上のように、第三勢力は、善悪の論理的判断、対立点の解決の具体的内容を常に曖昧にし棚上し、労資間および労労間(第一、第二両組合間)の「感情融和」「和解」の自己目的的追求を勧める会社側および社会党幹部、田中清玄の説得を受け入れ、それに従って行動した。その「和解」の前提条件は、対立点を棚上したまま、中島社長、田中文雄工場長の「誠意」、「腹」を「信じる」ことであった。さらに、信頼関係の回復のためには、対立点の具体的解決ではなく、「一緒に入浴」し「裸」になって「腹を割って」話し合うという情緒的一体化が追求されたのである。そして、対立点を棚上したまま情緒的一体化を図ろうとする会社側の説得には、左派の吉住秀雄ですら心を“半ば”動かされた。

 しかし、皆川光男中央執行委員会副委員長(1957〜1960年、東京本社出身、東大経済学部大塚久雄ゼミナール出身)のように、玉虫色の“解決”とは対立する資質を持つリーダーも存在した。145日のスト収拾に関与した太田薫総評議長(当時)はこう記している。「流血の惨をまじえながらも、この大闘争は最後に中労委にかかったが、その収拾のために私もたいへん苦労した。このときの王子の副委員長は、名まえは忘れたが、なかなか頭がよかった。中労委の斡旋にかかっているとき『テニヲハ』の一つ一つに因縁をつけてねばったものである。私は中労委四階の委員室におり、中山会長が三階で斡旋にあたっていたが、私は一晩のうちに三階と四階とを四十回も上がったり下ったりした。そのために、すっかり心臓がわるくなったと思うくらいだ。」「たしかに中山さんも、あの副委員長の頭のよかったことを、ずっとあとで中労委会長を辞任されるときの会で話しておられた(17)」。

 この太田の文章を見れば、「テニヲハ」の「一つ一つに因縁」をつける者、すなわち、玉虫色ではなく一義的に解釈しうる論理的に明確な妥結案を求める組合幹部は、王子に限らず一般的にもよほど少なかったものと思われる。そして、王子労組においても、皆川副委員長は特殊な存在であった。大部分の一般組合員と、第三勢力の多くや、左派であるにもかかわらず中島社長の「誠意」に心を半ば動かされた吉住秀雄が、同じく高等小学校卒の現場労働者であり、かなり似かよった心情を有していたのに対して、そうした心情から無縁であった東大卒の皆川は相当異質な存在だったと言える。高学歴の者は、その長期にわたる学校生活によって、「我々がしばしば口にする日本人らしさ、それがひしひしと身につき肉となり、自分と共に成長する機会」(18)を、通常の人々に比べてより多く喪失している。それゆえに、皆川は“日本的心情”が結果する陥穽を免れてはいたが、それだけに、その影響力は、王子労組執行委員会内部においてさえ、限られたものでしかなかったのである。 したがって、このような皆川の努力によっても、145日のストの収拾は、“玉虫色”であることを免れなかった。確かに、中山斡旋案は約3ヶ月の暫定期間に「組合を除名された者」を会社が「解雇」することを謳っていた。しかし、斡旋案は同時に第2項で「当面一つの重要な問題は現在組合が二つに分裂しているという事情であるが、これは事実として認めざるを得ないので労使双方ともこの事実の上に立って紛争の収拾を図るように努力されたい」としており、新労は、この第2項を「二つの組合の併存」を認めたものとして宣伝した。二つの組合の内どちらに加入するかは個人の自由(憲法に保障された結社の自由)であり、「脱退と除名とは関係ない」、「個人は自由に新、旧いずれかの組合に加入できるので、新労に加入するために旧労を脱退しても除名することはできない」と主張した。そして、「会社が旧労の圧力に屈して解雇したら」その解雇は「第一に二つの組合を自由に選択する権利を無視したこと。第二に新労の団結権を無視する会社の不当介入、不当労働行為であることによって、法的にも無効である。」(19) とした。このように、暫定期間中の脱退者を王子労組が除名すれば会社は解雇しなければならないことを、斡旋案が意味しているとする王子労組側と、それを「結社の自由」および「団結権」によって否定する新労側との二つの解釈が対立することになった。しかし、中山伊知郎中労委会長は、自らが出した斡旋案について明確な解釈を示さなかった。確かに、中山斡旋案による収拾は、王子労組側に勝利感を、新労側に敗北感を抱かせた。だからこそ、会社は、被除名者解雇の条項に執拗に反対し、新労幹部は会社による中山斡旋案受諾に抗議したのである。したがって、145日のストはおよそ6対4の差で王子労組の「基本的勝利」に終わったと言っても過言ではあるまい。しかし、それが、あくまでも“玉虫色”の収拾という側面を有していたことも事実である。1959年2月13日、暫定期間中最初の脱退者(新労に加入)が出現し、王子労組が斡旋案に基づいてその解雇を要求したにもかかわらず、会社は拒否した。そして、暫定期間中の王子労組脱退者は苫小牧工場63名、春日井工場61名に達した。こうした事態に対して、3月18日、王子労組は、この除名解雇問題を、職場闘争に対する懲戒処分問題等とともに、中労委の斡旋に付したのであるが、3月28日中山会長は斡旋打切りを通告した(20)。すなわち、中山伊知郎会長は、自らが提示した斡旋案についての解釈の具体化を、労資間の現実の力関係の推移に任せてしまったのである。

  第5節 一般組合員の意識



 1.第二組合員との対立の忌避

 では、王子労組崩壊の主要な根拠は、左派幹部の動揺によっても許容された第三勢力の闘争放棄にあったと結論づけ、ここで分析を終えていいのであろうか。そうではない。岩崎執行部は、組合員が直接投票によって選出したものである。また、連操受け入れも、それに対して反対が少なくなく討議が「難航」し、また、苫小牧支部では「但し会社側に誠意が認められない場合には断乎闘う」という但し書をつけはしたものの、結局は修正可決(10月26日支部大会63対13)され、また、同日の春日井支部大会でも39対0で可決されたものであった(1)。組合員は平和路線を基本的には受け入れていったのである。したがって、一般労働者は「戦闘的」であったにもかかわらず、指導部が闘争を放棄し組合を崩壊に導いたという図式は当てはまらない。

 一般組合員は、なぜ第三勢力の岩崎を委員長に選出し、彼による闘争放棄を受け入れたのであろうか。それについて検討する前に、第三勢力の主張や行動の内、組合員に知られていたことと、隠されていたこととを分けなければならない。第1に、彼らが会社幹部と秘密裏に会合を持っていたこと(2)は、彼らの辞任直前まで大部分の組合員には知られていなかった。第2に、総評、紙パ労連からの脱退を指向し新労との対等合併を目指していたことも、ほとんど知られていなかった(3)。組合員が理解していた方針は、会社に対して譲歩しつつ、労資間、両組合間の「和解」を推し進めることでしかなかった(4)。したがって、第三勢力の考えの内で組合員が受け入れた部分はこの限りに留まっていたと考えられる。

 ここで、まず、労働者大衆の意識の分析の方法について述べておきたい。争議分析において、最も容易かつ明確に把握しやすいのが、リーダーの行動、そして、その行動およびそのリーダーが記した日誌、回顧録、等の文章から明らかにしうるリーダーの思想、思考様式である。そのリーダーが存命中であれば面接調査も可能である。また、リーダーの行動は、ビラ、組合日誌、会社側が記した争議記録、新聞記事、裁判記録によって、相当確実に把握することができる。

 他方、労働者大衆の行動となると、その把握がリーダーの行動に比べかなり困難になる。数人のリーダーとは異なり、労働者大衆は数千、数万人にのぼる。その多数の人々それぞれが毎日、極めて多様な行動を展開する。組合の指令によって行われた行動だけを追っていたのでは争議の核心に迫ることができないかもしれない。面接調査にしても、数人あるいは数十人の調査対象でもって全体を代表しうるか否かという問題がある。もちろん、争議期間中の大衆の行動についての文書は存在する。しかし、それは、あくまでも、特定の争議観に基づく認識のフレーム・ワークによって抽出された“事実”でしかない。立場、イデオロギーが異なれば、自ずと、いかなる事実をどのような形で取り上げるかが違ってくる。

 しかし、さらに認識が困難なのが、労働者大衆の意識である。外に現われた行動よりも内面の意識に関する分析の方が難しいのは自明である。行動の場合は、様々な“証拠”によって、そうした事実が存在したか否かを確定的に証明することもできよう。他方、意識の場合は、労働者の様々な行動をもとに特定の立場に立つ認識主体が解釈するしかない。したがって、不確かさはより大きな比重を占める。

 @リーダーの行動、意識、A大衆の行動、B大衆の意識と並べれば、あとに行くほど事実の確定が困難になるのである。しかし、労働者大衆の意識に迫ることなくしては、争議研究の意味がない。そこで、我々は、労働者大衆の意識に関して、対立し異なる様々な立場からの解釈をつき合わせ、それぞれの妥当性を検討するという分析方法を採らなければならない。すなわち、新労幹部、第三勢力、王子労組左派幹部のそれぞれが労働者大衆の意識をどう把握しているかをつき合わせつつ検討を進めなければならないのである。

 石川晴樹苫小牧新労書記長(1959年)によれば、王子労組員が平和路線を受け入れた理由は次の通りであった(5)。ストライキ中、両組合員間には「たいへんな」「憎しみ合い」が存在した。しかし、ストが終わって就労すると次第に「異常な興奮がさめ」王子労組員も「争議」を「さめた目」で見はじめた。そして、「平常心」が「よみがえってくる」と、スト中に「人殺しよりも悪い」と考えた新労組員についても長年にわたり世話になり仲良くつきあってきた「同じ職場の仲間」だと再認識し始めた。そうなると、スト中に自分達が「悪夢」の中に居たように感じられ、「労働者同士の憎しみ合い」についての「反省」が広がっていった。また、戸部卯吉苫小牧新労副委員長(1959年)も、スト中に激しく「対立」した人間関係は「全部」「後で元にもどった」「闘いが終わったら仲間」であり「不思議」なものだと語っている(6)。第三勢力であった加賀谷昭夫王子労組苫小牧支部書記長(1959年)も、新労組員である現場職制との関係は、争議前には「正月だ、盆だといっしょに酒を飲んだ間柄」で「敵、味方に分けて考えられない」ものであったと述べている(7)。

 以上のように、新労、第三勢力側は、組合員の平和路線受容の主たる理由は、「同じ労働者同士」の「対立」についての「反省」であったと語っている。しかし、平和路線への傾斜の根拠が、会社による処分や差別待遇に対する恐怖、不安ではなく、「憎しみ合い」についての「反省」だとすることは、新労側が自らの立場を正当化するに当って都合のよい解釈であり、したがって、それを直ちに真実とするわけにはいかない。

 では、左派はどう考えていたのであろうか。田原賢蔵王子労組中央執行委員会書記長(1959年)は、専ら「差別待遇」の下での「苦しみ」や闘争の「疲労」による厭戦気分を挙げている(8)。しかし、左派の中にも「憎しみ合い」についての「反省」、「対立」への忌避感情を重視する見方があることに注目すべきである。服部治男王子労組中央執行委員(1958年)は次のように記している。新労組員に対する「敵対感情」が「ストライキ中」のみならず「就労後」も持続され、「敵対感情」は職場闘争の「エネルギー」となった。しかし、それは長続きせず、生産現場では少数の新労組員を多数でとり囲み「彼らの非を強調」し弾劾したことについての「批判」が広がり、それが平和路線受容の「一つの原因」となった(9)。なお、この記述は争議直後の1960年に執筆されたものである。

 新労、第三勢力、左派すべての立場から指摘されているがゆえに、新労組員との対立忌避の感情が「平和路線」受容の重要な要因だったということは、かなりの妥当性を持つのではなかろうか。また、先に、第三勢力に対する社会党幹部や田中清玄の説得内容、および、第三勢力の主張が「同じ従業員」が対立してはならないとするものだったことを見た。第三勢力が学歴、出身職場、共産党員等強固な左翼思想の持主ではないこと等の点において、王子の平均的労働者に最も近い体質を有していたがゆえに、そのメンタリティにおいても共有部分が大であっても不思議はない。この点からも、一般労働者の中に職場における対立を忌避する感情が存在したことは確かであろうと推測される。

 旧職員層を中心とする新労組員に対する“近親増悪的感情”が145日の長期ストの原動力になったことについては第2章で検討した。新労組員の住宅の窓ガラスは投石によって割られ、爆竹が投げ込まれ、ペンキで「ウラギリ者」「会社の犬」等の文字が書かれた。そして、このような増悪は、スト終了後、職場闘争の中に持ち込まれた。

 王子労組の職場闘争は、炭労、特に、三井美唄炭鉱のそれをモデル(10)とするものであり、長期スト中に炭労オルグから教えられたものであった。ただし、それは炭労の職場闘争には無かった課題を抱えていた。王子労組は、職場闘争によって職制による切崩しからの組織防衛をはかるとともに、新労の解体、吸収を意図していた(11)。そのため王子労組の職場闘争は、組織問題を中心とする闘いとなった。1958年12月15日、王子労組は、当初の要求に照して不充分なものであったが、斡旋案第3項により「ユニオンショップ」を「勝ちとった」として勝利感をもって「凱旋将軍」のように苫小牧工場内に入構した。この日以降、新労組員に対しては、王子労組に復帰させるための執拗な「説得」が続けられた。この「説得」は、しばしば「仲間」に対する「裏切り」への怒りによって数十人でとり囲んで罵声を浴びせる「吊上げ」にエスカレートした。生産現場で「村八分」にされ毎日「吊上げ」られる新労組員は、出勤するにも「悲壮」な覚悟を固めなければならないほどであった。新労組員は「腕や肩、胸ぐら等」をつかまれ「小突き」まわされ「後から木ッパや鳶がとんできても責任をもたんぞ」「組織をわったものは殺人罪より重い。殺されても仕方ないぞ」等の言葉を浴びせられた(12)。

 中村英雄本社新労副委員長(1958年)は、王子労組の職場闘争について「日本社会の中で村八分にされたら、どんなにその人間が苦しむだろうかということを計算に入れた、極めて陰湿な闘争形態」であり「今の中学生のイジメと本質的には同じ」(13)ものだと語っている。「反省」の対象となったのは、こうした「憎しみ合い」であった。

 これまで、当時の労働者の意識について、争議時の労働者の行動や、様々な立場のリーダーによる労働者意識についての解釈をもとに考察を進めてきたのであるが、いま一つ説得力に欠ける感があることも否定しえないように思われる。そこで、筆者は争議当時の苫小牧工場労働者(停年退職者)1027名を対象に郵送によるアンケート調査を実施した(1990年10月実施)。この1027名は、苫小牧工場退職者のほとんどが加入する「王友会」メンバーの内住所の判明する者のすべてであり、そのほぼ全員が、1990年現在より33年前に始まった大争議の体験者である。回収できたのは1027枚中398枚であり、回収率は39%と、通常の郵送によるアンケート調査に比べ高い回収率である。

 第三勢力が、同じ従業員同士の対立を忌避し、善悪の論理的な判断を超えた和解を目指したことについては先に検討した。「同じ職場の人間どうしが憎しみ合ったこと」に強い苦しみを感じ、後にはその対立を“水に流して”「また、もとのように仲良く」なる労働者大衆も、この点においては第三勢力と極めて似かよった精神構造を有していたと考えられる。“善悪を超えた和解”の指向は、一般労働者の心情でもあったと見て間違いはなかろう。

 ところで、通常、日本の大企業本工の意識として挙げられる「従業員意識」すなわち、自分達の生活の安定、向上は、企業の繁栄如何にかかっているがゆえに、「生産性向上」に協力すべきであるとする意識、そして、企業の「構成員」、「生産の主体」としての意識は、王子労組の帰趨にいかなる影響を与えたのであろうか。

 先に、第三勢力が、「無責任」な「外部勢力」すなわち炭労、紙パ労連等他企業の「オルグ」に対する従業員意識的な反感を抱いていたことを見た。また、争議対策および争議後の「合理化」の中心人物市村修平、田中文雄が、労働者の中に企業の「構成員」「生産の主体」としての意識を喚起する方策をとり、それに呼応して、新労も従業員の組合としての立場を明確に打出したことについては第1章、第2章で詳述した。

 では、王子労組が闘争放棄に傾斜するに当って、このような従業員意識はいかなる意味を持ったのであろうか。先のアンケートの結果から考察してみよう。同業他社および他産業の労働者との、企業の枠を超えた共闘、そして、経営側が打出す様々な能率増進策に対する「合理化反対闘争」、こうした王子労組の路線に対して、反対の立場をとる者は、「5」の「旧労幹部への不信感」にマルをつけたはずである。事実、この5の項目にマルがつけられ、その横に、「企業の将来の展望」に「不安」を感じた、「旧労幹部が炭労等外部オルグに振り回され完全に自主性を失った」、「争議で組合が勝利を得ても、組合員の生活保障が出来るのか不安が大きかった」等の文が付加されている回答用紙も少なくなかった。ただし、「5」にマルを付けた者の中には組合分裂の初期の段階で新労に加入した者も多いと考えられ、そうした人々はスト終了後王子労組が「平和路線」に傾斜した時には既に王子労組の組合員ではなく、王子労組の闘争放棄とは関係が薄いということを忘れてはならない(15)。「同じ職場の人間どうしが憎しみ合ったこと」が297、「旧労幹部への不信感」が167と、「憎しみ合い」の忌避の方がはるかに多いのであるが、この167から、新労への早期加入者を差引けばその差はさらに拡大するはずである。組合が、「従業員的立場」をとるか否かという労働運動の路線選択の問題は、一般労働者によって、切迫感をもって受けとられていたとはいいがたいのではなかろうか。

 もちろん、この程度の論拠をもって、王子労働者の従業員意識の存在を否定あるいは希薄なものとして把えることには無理があろう。しかしながら、労働運動の路線および労資関係の転換に当って、企業の繁栄を労働条件の安定、向上の前提と考え、企業の「構成員」「生産の主体」たる自覚をもって「生産性向上」に能動的に協力しようとする「従業員意識」が大きな意味を持ったことが、たとえ仮に事実であったとしても、その明確さ、強さの程度においては、将来の経営者である大学卒の第二組合幹部、現場労働者出身の組合幹部、一般労働者のそれぞれの間に相当な相違があることも看過してはならないであろう。アンケートの結果から推測すれば、王子労組の闘争放棄への傾斜に当っては、上記のような意味における「従業員意識」よりも職場における「人間関係」にまつわる心情の方がより大きな意味を持ったと考えられる。

 王子製紙に限らず一般的にどうであったかについて検討することは、本稿の課題を超えることではあるが、一般的にも、戦後労資関係の転換、“日本的労資関係”の確立に当っては、前述のごとき意味での「従業員意識」などというはっきりした、そして、組合の路線を明確に指し示す意識ではなく、例えば、まわりの人間関係に対する配慮等の、ある意味では曖昧模糊とした心情が、少なくとも一般労働者(幹部ではなく)においては、より重要な役割を果したとは考えられないだろうか。組合が発行する文書、大会等における議論に目を配る程度であれば、ともすれば、先の「従業員意識」「生産の主体」意識のみの検出に終わってしまう可能性があるが、さらに深く分析を続ければそれに留まらない何かが発見できるのではなかろうか。以上、問題提起として記しておきたい。

 以上のような現場職制を中心とする新労組員との対立忌避の感情が、新労との和解を目指す第三勢力への共感となったとしても不思議はない。そして、新労組員である現場職制との対立の忌避は、職制との日常的対立を意味する職場闘争に対する消極性の原因となった。切崩しから組織を守るために職場闘争が必要不可欠であったことからすれば、職場闘争の放棄は王子労組にとって致命的なマイナスであったが、放棄を促す原因が一般組合員の中に存在していたのである。また、労資対立の激化は、職制による切崩しの強化、それに対する職場労働者の反撃のくり返しを結果するため、職制との対立を忌避するならば、労資対立の回避を求めざるをえなかった。

 ただし、処分、差別待遇に対する恐怖、不安が、平和路線受容のひとつの要因だったことも間違いない。なぜなら、会社による攻撃の直後に、少数かつ一時的ではあれ脱退者が増加しているからである。そして、恐怖、不安と新労との対立への忌避感情は入り混りひとつの厭戦気分となって平和路線受容の基盤となったのである。

 しかしながら、労働者大衆の考え方と第三勢力のそれとをイコールとすることはできない。労働者達は、同時に平和路線に反発を感じていたからである。それは、12月のスト権投票の結果や、連操受諾方針が修正を経て初めて可決されたこと等から明白である。労働者は平和路線に誘引されながらも、他方ではそれに不満を持ち焦燥感を抱いていた。そして、連操受諾等の「屈辱的」な譲歩は、不満、焦りを敗北感に発展させ闘争意欲を喪失させていった。事態は、組合員が半ば反発を抱く平和路線が彼ら自身によって許容、助長され、その平和路線によって組合員が敗北感を植えつけられていくという循環過程をたどったのである。

 

 2.職場闘争の挫折

 王子労組の職場闘争方針は、会社、新労側の秘密文書「スト終結後の諸問題及び対策」(前出、第2章)に記された戦術に対抗することを意識して立案された。そこには、こう記されている。「旧労は職場闘争組織を作って対抗して来ているが、実際に日鋼の経験上からいうと出来るものではない。会社の職制、末端の職制が強く毅然たる態度を示していればよい」「部下の信頼のない職場は今もって切崩しは出来ないが、平常人の使い方がうまく信望のある人は殆んど全部を新労に吸収し得る」「今スト中の下部職制は弱いが操業すれば三倍以上の力を発揮する事から、操業のリーダーシップをいち早くにぎることである」「末端職制が能率評定において新労を有利に取扱うのは止むを得ない」「組合事務所の貸与、掲示板の貸与等の便宜供与については積極的な新労優先主義をとる」。さらに、この文書には「分割就労」の方針(王子労組が粉砕)も記されていた。「スト終了後の生産再開には新労を先ず入れる事を考える」「旧労については分割就労を計画」。

 王子労組の職場闘争方針は、職制による切崩しに対抗して組織を防衛すること、新労を解体、吸収。作業環境、安全衛生、手袋、工具等の支給(いわゆる物取り要求)の問題についても職場交渉を行うことが謳われ、実際の職場闘争においても、こうした要求が突きつけられた。そして、王子労組は第2図のような職場交渉のシステムを作り上げ、長期的に労働の質および量を規制することを展望していた。それは、同年1958年に発表された総評組織綱領草案の路線に従ったものであった。

 1958年12月15日、就労と同時に、職場闘争は、上記の方針に従って開始された。会社側は次のような指針をもって対処した。「部課長、係長」には組合の職場組織と交渉する権限はない、「従ってかかる無権限の行為はなすべきではない」「つまり、交渉権限はあくまで工場長にあり、部課長、係長等には右の権限を委譲していないのである」「たとえその要求が些細な事項であっても」交渉に応じてはならない。「この申入れを無意識のうちに受けつけると、組合の職場組織と会社の職制との間に部長交渉、課長交渉、係長交渉という『交渉の窓口』を認めた形になる。一度これを認めると、これを実績としてその次に再び同様の交渉方式を執拗に要求してくることが考えられる。即ち組合の『職場闘争の場』を認めたことになる。従って職場における職制は組合に対して職場闘争の場を与えないことが大切である」(1)。こうした指示に基づいて、職制は職場交渉を拒否しようとした。そこで、王子労組側は、しばしば、職場交渉に応じるよう、職制を取囲んで吊し上げ、「職場要求」を突き付けた。しかし、王子製紙においては、ついに安定的に存続する職場交渉のシステムは構築されることなく、職場闘争は消沈していくことになるのである。

 しかし、職場組織による作業放棄の続発は、会社に攻撃再開を決意させた。1959年1月23日、苫小牧工場調木職場で「吊し上げ」に疲労困憊して欠勤した新労組員を係長が出勤扱い(3)にしたことに対する抗議として実行された作業放棄は、工場の全工程を約24時間にわたって停止させた(4)。1月26日にも抄取職場で作業放棄が実施された。当時、多くの炭鉱では、組合執行部の具体的指令に基づかない、職場組織の自主的決定による作業放棄が頻発(5) しており王子労組の作業放棄はこれに倣ったものであった。しかし、炭鉱では、ひとつの切羽で作業が停止しても、他の多くの職場の作業には影響がないが、ベルトコンベアーと装置によって結合された一貫工程である紙パルプ工場においては、一職場の作業放棄は他の工程をも停止させることになる。したがって、紙パルプ工場における職場ストは、炭鉱のそれに比べて著しく甚大な損害を会社に与えざるをえない。こうした問題について、ストの「勝利」に有頂天になっていた王子労組側は、執行部も一般組合員も全く考慮していなかった。また、三池労組のように、職場ストが山猫ストとして処分の対象となることを防ぐために、スト権を職場組織に移譲するという工夫もしていなかった。王子製紙の労働者は、処分の危険を顧慮することなく、炭労の経験を機械的に模倣して作業放棄を実施したのである。そして、作業放棄が始まった後、事態の重大さに気づいた苫小牧支部執行部は、一度は作業放棄の中止を指示したが「口出しするな」(6) と追い返され、対処の方法に困って10時間以上もの間姿を隠し、会社の追及から逃げまわった(7)。このような職場労働者の安易な作業放棄、それに対して指導力の欠如を露わにした執行部の狼狽は、争議前には職場闘争の経験がほとんど無く、俄仕込みで職場闘争を始めたことの結果であった。

 1月31日に発表された、作業放棄および「吊上げ」を理由とする懲戒処分(対象者35名、内解雇4名)は、労働者に大きな衝撃を与えた。しかし、それによって、職場闘争が直ちに不可能になったわけではない。王子労組員は、闘争戦術を緻密化することによって処分されることを防ぎつつ職場闘争を継続し、「安全遵法闘争」の名の下に職場組織の自主的判断による生産停止も続けられた。そして、会社はこれを「山猫スト」として処分することができなかったのである。

 王子労組の職場闘争戦術の緻密化に大きな役割を果したのが藤田若雄東大社会科学研究所講師(当時)であった。藤田若雄による苫小牧工場の職場闘争に関する「調査報告書」(1959年1月) には、「現場(職場)、部門レベル、執行部レベルの主体的関連および部門相互の関連が確立していない、すなわち、職場闘争の体制が確立していない、例えば、調木、抄取の職場闘争は部門相互にも、執行部とも意思統一が形成されないままで行われている」とある。

 このように王子労組は失敗を教訓として、1月29日、下記の「職闘3原則」を示し、今後の職場闘争は常に執行部と連絡をとりつつ行う様に指導した。

(イ)“職場で解決出来るものは出来るだけ職場でする”ことは職場闘争の原則であることは論をまたない。だからといって、なんでもかんでも職場闘争で解決出来るということにはならない。従って問題が職場に起きた場合、部門担当執行委員を入れて解決の方途を協議し、その内容は必ず執行部に連絡すること。

(ロ)職場で解決出来るものは職場闘争に持ち込み、どうしても解決できない場合、職場の大衆検討の意向に基づき職場代表の参加を得て支部団交に持ち込む。

(ハ)職場の要求が工場全体の共通問題の場合は支部団交で行う事を原則とするが、この場合の統一行動は大衆討議の中で決める。

  145日のストライキ終結後、時がたつにつれて、そして、組合幹部の中に第三勢力が形成、拡大されていくのと並行して、王子労組の職場闘争は下火になっていった。スト中は、非日常的な興奮の中で警官隊との衝突、対峙をくりかえす毎日であり、それが5ヶ月間も続いたのであるが、定時刻に出勤し通常の労働に従事するという日常生活への復帰による興奮の冷却も職場における対立についての「反省」の広がる原因となったという。

 高度経済成長期、民間大企業諸労組は、「鉄鋼一発回答」定着=賃金抑制体制の構築、要員削減、労働時間制度の能率化等、経営者の能率増進策に対する協力の度合を深めていった。それは、労働組合が“合理化”に対する規制力を喪失し企業が国際競争力を高めていく過程であった。こうした動向は、1958年発表の総評組織綱領草案に示された職場闘争を通じた組合強化の路線の挫折によって初めて現実化した。職場闘争路線が成功していれば、能率増進に対する大きな障害となったことであろう。

 総評組織綱領草案の骨格部分の執筆者(12)藤田若雄は、「職制支配」の打破を目指していた。ただし、「草案」や藤田が目指した「職制支配の打破」とは、労働強度、時間、昇進、昇給等の決定に当って「職場交渉」を介在させ職制支配を制限し客観化することであった。すなわち、契約的関係の確立を目指していた。したがって、藤田は職制支配の消滅=労働者による自主管理を目指す方向を否定し、「職場の主人公」なる表現に対しては「事大主義的表現」(13)だと批判していた。このように、藤田は、職場闘争を通じて、職場に契約的関係を確立し職場社会を「近代化」することを目標としていた。

 最後に、前述のように王子の職場闘争に“コンサルタント”的立場で関与していた藤田若雄の認識について言及したい。藤田は王子労組の職場闘争の挫折の根拠について、苫小牧支部執行部と職場組織との間の連携の欠如、執行部に、「巨大な共闘体制」の中で戦闘的になった組合員の意識を「リードする能力にかけるところがあった」こと、すなわち、145日のストの中で支部執行部が「自己成長をなしとげること」ができなかったことを挙げている。しかし、彼は、職場闘争挫折の根拠になった一般労働者の意識については深く検討しなかった(15)。すなわち、藤田は王子労組側が新労に対する「ニクシミの感情をかきたてることを唯一の精神的支柱」にしていたことを指摘(16) しながらも、その憎しみの感情の性格についてそれ以上深く考察していない。そして、その憎悪が裏返されて職場闘争忌避の感情になったことについても指摘していない。このことは、王子争議の場合も含めて藤田の争議分析の力点が「年功制度」とその「矛盾」、すなわち、「労働力構成」の「内部矛盾」に置かれ、それに直結しない労働意識が看過される傾向があったことの結果であったと考えられる。

 以上のように、王子製紙における“妥結”は常に玉虫色の色彩にいろどられていた。また、中島社長と田中文雄工場長が常に提唱したのは、「腹」および「誠意」を信じることであった。これは、相互の利害対立、および、相手に対する不信を前提とする契約的思想とは正反対のものである。そして、会社側が示した、対立し合った者同士の和解のあるべきモデルは、「江戸城あけ渡しの西郷と勝のような腹がまえ」であった。西郷隆盛・勝海舟の会談は「絶対にヨーロッパ的意味における交渉ではない」、なぜなら、西郷が「いろいろむずかしい議論もありましようが、私が一身をかけてお引受けします」と言ったのに対し、「勝はなにもいわずに一任」したからだという(21)。これは「腹でわかりあう」ということであろう。腹芸の語を「形式や論理を超えて、度胸や経験で物事を処理すること」(広辞苑)と解すれば、田中文雄工場長は腹芸の名人だったと言えよう。第三勢力の精神構造は、こうした腹芸を通じた策動によって、からめとられやすい性格のものだったのである。





1.要約

 戦前の王子製紙の独占体制は、国家との結合に基づいた原料独占に基盤を置くものであり、「初期独占」的側面を有するものであった。こうした性格は他の日本の巨大企業の多くにも共通していた。しかし、王子の独占体制は、戦時期から戦後にかけての後発メーカーの進出、戦後の集中排除政策による王子製紙3分割によって急速に崩壊した。このような企業間競争の激化にもかかわらず、老齢の重役達は戦前の独占体制下で身につけた退嬰的経営姿勢を基本的には変えようとしなかった。

 こうした退嬰的経営首脳から労務政策を任されていたのが若手管理職である近代主義的労務担当者であった。彼らは、ニューディール期以降のアメリカの労資関係を理想として労働組合を尊重し、宥和的労務政策を展開した。他社よりも大幅の賃金増額を認め、操業要員、労働時間制度においても組合の要求に対して妥協的であり続けた。また、彼らは、日本の経営における個人の職務権限、責任の不明確さ(稟議制度、集団作業)、福利厚生施設や生活給的性格の濃厚な「年功賃金」への生活の依存(会社に対する個人の「もたれかかり」)、縁故関係等恣意的要素が混入した成績査定、そして、企業別に封鎖された労働市場──すなわち、企業への個人の埋没状況を「日本的特質」だと捉え、これを克服し「近代化」することを目指した。彼らの思考様式は、欧米に“個の確立”を基礎とする社会すなわち“近代”の規範を求め、それを尺度として日本の「前近代性」を批判、克服しようとする近代主義であった。こうした近代主義的指向は1950年代の日本の大企業に広く一般的に見られたものであった。ただし、我々は、王子製紙の近代主義的労務政策が戦前の独占体制の戦後における残滓の上に存立していたこと、また、その近代主義が移植観念的、直訳模倣的な底の浅いものでしかなかったことに注意する必要がある。そして、この近代主義的労政に許容されることによって成立しえた王子労組の“戦闘性”なるものも、極めて脆弱な基盤しか持たなかったことを忘れてはならない。王子の近代主義的労政は、“低能率高賃金”しか結果しえず、後発メーカーのシェア蚕食を助長することとなったのである。

 こうした退嬰的経営政策、その上に成立した近代主義的労務政策を払拭したのが、王子のシェア低下に危機感を抱いた管理部、山林部の若手管理職であった。そして、彼らは、強圧的対組合政策を前提に、原価引下の徹底、攻勢的経営拡大を遂行した。また、争議の経験を教訓化することによって“終身雇用”の社是を確立し、“職場自主管理活動”を組織するとともに、“玉虫色”の回答、“腹芸”によって労働者の“日本的”心情を活用した。このような彼らを、筆者は“日本的”経営者と呼ぶことにする。

 以上のように、王子製紙の経営政策の立案、実行の主なる担い手は老齢の経営首脳ではなく若手管理職であり、こうした事情は日本の官僚制についてしばしば指摘される「下剋上」、旧日本陸軍の「佐官政治」と共通するものであった。ただし、トップの老年層は“お御輿”となりながらも重大な局面においては一任をとりつけた後、自ら決定を下す「腹」をも持たなければならなかった。大争議の開始、長期ストライキの収拾を最終的に決定したのが中島社長だったことは、日本の組織におけるそうした性格の端的な現われであった。

 1957年9月、レッド・パージ復職闘争および連続操業反対闘争の旗手であった市川年雄が苫小牧支部長に当選した時、中島社長は組合攻撃を決断するに至った。そして、同年11月14日、組合が死亡事故に抗議して「慰霊スト」を実施した時、足かけ4年約2年間にわたる大争議が開始されたのである。

 1958年の145日の長期ストライキの公式の目標は現行労働協約の更新(主としてユニオンショップ制の維持)にあったが、闘いの主たる原動力となったのは、王子労組を脱退して第二組合に加入した現場職制層に対する労働者の“近親憎悪的感情”であった。そして、それは、争議前における職制と労働者の情緒的一体化状況の“裏返し”であった。

 当時、しばしば、王子争議は、協約闘争であるがゆえに「権利闘争」であり、賃金闘争や解雇反対闘争に比べて「質の高い」闘いだと言われた。また、145日の長期スト終結後の職場闘争も、職場を「近代化」し「契約的関係」を確立するための「近代的な闘い」として言及された。そして、当事者である王子労組も、そうした言葉によって自分達の闘いを表現していた。しかし、それらは、労働者の内部において、闘いの原動力をなすものではなかった。

 我々は、組合が掲げるスローガン、公式の方針だけによって、労働者意識について速断を下してはならないのである。

 王子製紙の長期ストライキは、ひとまずは、炭労を主力とする巨大な共闘体制に支えられることにより、王子労組側の「基本的勝利」として収拾された。しかし、その後の王子労組は崩壊への一途をたどることになる。スト中の“近親憎悪的感情”は、再び“そのまた裏返し”である職制との対立の忌避感情に転化し、それが労働者大衆を闘争放棄へと傾斜させていったのである。この闘争放棄へのプロセスをリードしたのが、田中清玄によって組織された「第三勢力」であった。「第三勢力」は善悪の論理的判断、対立点の解決の具体的内容を常に曖昧にし棚上し、経営者の「腹」「誠意」を信じて行動することを主張し、労資間および第一、第二の両組合間の“和”の回復を最優先課題とした。それは「腹芸」による解決を意図する姿勢であった。

 他方、一般組合員は「同じ職場の人間どうし」の対立に耐えられないがゆえに、第三勢力による闘争放棄を“半ば”受け入れていったが、一方では、闘争放棄の中で焦りと不安をつのらせ、最終的には、第三勢力執行委員の辞任にショックを受けて王子労組から雪崩のごとく脱退していくことになった。そして、この脱退は、会社や第二組合を支持するようになったためではなく、またかといって、単に会社による差別待遇等に対する恐怖ゆえのものでもなかった。しかも、彼らは「涙を流しながら」王子労組を脱退していったのである。こうした状況に労働者を追込んだ要因の一つは、近親憎悪的感情、“村八分のイジメ”の裏返しとして、“善悪の論理的判断を超えて”職場の“和”を回復しようとした、労働者の精神構造であった。

 企業の繁栄を労働条件の安定、向上の前提と考え、企業の「構成員」、「生産の主体」たる自覚をもって「生産性向上」に能動的に協力しようとする「従業員意識」とは、王子製紙の“日本的”経営者が“日本的労資関係”を確立させるに当って労働者の中に喚起しようとした意識であった。

 「あるべきあり方としての“和”の内実を積極的に問うことなく、ただ、望ましいのは“和”であると考えてきた」。また、もともと「特殊な人間関係を超越」することを教えるものである「普遍的宗教」の仏教においてさえ、日本では「人間と人間との関係を重視して、閉鎖的な人間結合組織を形成することを愛好し、それに所属する人々のあいだではたがいに全面的信頼を要求する傾向」が濃厚である(2)。そして、こうした儒教、仏教の受容における特殊性は日本古来の神道の性格と切り離しては考えられないものであろう。もちろん、筆者は単純な文化・宗教決定論者ではないが、王子労働者の意識・行動様式は、以上のような日本における宗教意識・倫理意識のあり方と無関係ではありえないと考えられる。

2.展望

 1960年1月、王子争議は、労働者側の敗北に終わった。その結果としてのアメとムチ。要員削減、配置転換、労働災害の激増。対するに“終身雇用”の宣言、“職場自主管理活動”の組織化、スポーツの対外試合や労働者の宗教的感情をも利用した情緒的統合の追求であった。 

 王子争議は、戦後日本最大の労働争議であった1960年三井三池争議の前哨戦だと言われている。王子争議の敗北は、同年60年三池闘争における北三連(北海道三井炭鉱労働組合連合会)の闘争放棄に大きな影響を与えた。そして、三池争議の敗北は、総評組織綱領草案の採択中止、すなわち、総評指導部における職場闘争路線の放棄に直結した。指導部ばかりではない。こうした事態は、広く各産業の職場活動家に、職場闘争遂行に向けての意欲を喪失させ、生産過程の「合理化」を円滑ならしめる結果をもたらしたのである。

 「春闘」の高揚。国際競争力を飛躍的に強化するために不可欠な労資関係の「安定」を実現し“日本的労資関係”を確立させることに成功した。

 こうした日本全体における労資抗争のプロセスにおいて、宗教的倫理意識を基層に持つ”日本的精神構造”がいかなる役割を果たしたのかを検討することは今後の課題である。とりわけ、序章の日鋼室蘭争議の例に示したように、神道と深く関わった天皇制と労働者の意識、行動様式の関係の解明も今後の研究課題として強く意識されなければならないであろう。