マッカーサーと昭和天皇会談録考



 (最新見直し2013.5.28日)

【マッカーサーと昭和天皇会談録考】
 「昭和天皇・マッカーサー会見」を転載する。
 本書の表紙にあまりにも著名な写真を掲載させていただきました.1945年9月27日の昭和天皇とマッカーサーの第一回会見当日の写真です.敗戦から約一ヶ月後に始まった両者の会見は,全部で11回に及びました.その場で何が語られたのかは,今までごく断片的にしか明らかにされてきませんでした.

 2002年8月5日の朝日新聞は,昭和天皇・マッカーサー会見の通訳を務めた故松井明氏(1908〜1994)が書き残した「天皇の通訳」(400字246枚)の写しを朝日新聞社が入手したことを報道しました.松井氏は第8回から第11回の通訳を担当,マッカーサーの後任であるリッジウェイ中将(後に大将)との全会見に同席して,一問一答方式で会見の記録を残していたのです.またこの年,第一回会見の会見記録が外務省と宮内庁によって公表されたことも重要なことでした.

 長年,昭和天皇・マッカーサー会見,そして占領期において昭和天皇が果たした「政治的役割」を実証的に解明してきた著者は,本書の「はじめに」の冒頭で,本書執筆の前提とも言うべき問題状況について以下のように述べています.
 昭和から平成に元号が変わって,早くも二〇年という歳月が流れた.しかし,戦前・戦後を通して六〇年以上にわたって昭和という時代に「君臨」した昭和天皇に対する関心は薄れるどころか,ますます高まるばかりである.そこには,いくつかの理由が考えられる.

 まず,昭和天皇にかかわる資料が国の内外において続々と発掘されていることである.本書でも詳しく紹介するように,天皇の「肉声を記録」したとされる『昭和天皇独白録』を始め,かつて天皇の側近として仕えた侍従長,侍従次長,侍従,さらには宮内庁長官などのメモや日記が公開され,あるいは研究者によって専門的な分析が加えられてきた.また,昭和天皇とマッカーサーとの第一回会見(一九四五年九月二七日)の会見記録が外務省と宮内庁によって公表され,さらに,それ以降の主要な会見の記録も新たに見出された.

 こうした新資料の発掘は国内に止まらない.米国の国立公文書館を始め各地の大学や研究所の文書資料館などにおいて,外交関係資料の探索過程の“副産物”として,これまで全く知られてこなかった昭和天皇に関する数々の重要資料が発見されてきた.かくして,以上のように新たに発掘された膨大な資料に基づいて,昭和天皇に関する研究が,日本はもちろんのこと米国など外国の研究者の手によっても飛躍的に進むことになったのである.

 ただ,昭和天皇への関心の高まりは,実は資料や研究の側面に限られるものではない.天皇の在位中における言動が,今日の政治過程にも大きな影響を及ぼしているからなのである.その契機は,何よりも小泉純一郎元首相の靖国参拝であり,繰り返された「公式参拝」は国内政治に止まらず,近隣諸国との深刻な外交問題にも発展した.さらに,小泉を引き継いだ安倍晋三前首相が掲げた「戦後レジームからの脱却」というスローガンは,昭和史への関心を改めて高めるとともに,昭和という時代の戦前と戦後のあり方を問い直す機運を生み出した.

 こうした状況を背景に,そもそも昭和天皇は東京裁判をいかに評価していたのか,処刑されたA級戦犯にいかなる「思い」を抱いていたのか,あるいは,なぜ靖国神社への参拝を中止することになったのか,といった諸々の問題への関心が高まっていった.同時に,こうした「靖国問題」は詰まるところ,アジア・太平洋戦争をいかに“総括”するかという問題であり,かくして戦争と昭和天皇との関わりが改めて根本的に問い直されようとしているのである.

 とはいえ,筆者の問題関心は何よりも,戦後史,なかでも日本が米国の占領下におかれていた時代に昭和天皇が果たした「政治的役割」の分析に注がれている.なぜなら,この“特異な環境”のもとにおける昭和天皇の言動を具体的に明らかにすることによって初めて,天皇と憲法との関係は言うまでもなく,昭和天皇にかかわる本質的な問題が鮮明に浮き彫りになってくるからである.つまり分析の焦点は,当時の内外情勢の構造的な枠組みの析出と,「政治家」としての昭和天皇がそれにいかに対応したのか,という課題にある.本書は,実質的には二〇年近くにわたって取り組んできた昭和天皇研究の,筆者なりの“総決算”である.
 以上のように,敗戦直後の昭和天皇の言行を解明していくことは,極めて今日的な意義をもっているものと思われます.そして人柄温厚な生物学者という側面だけでは語れない昭和天皇の歴史的役割,戦後日本の新たな「国体」である安保体制の構築に決定的な役割を果たした「天皇外交」の内実が本書では明らかにされます.その意味で本書は従来の昭和天皇像と戦後史観を根底から覆す衝撃力を有していると思われます.

 本書の第一章は『世界』1990年2月号,3月号に掲載された論文,第三章は『論座』2002年11月号,12月号に掲載された論文ですが,第二章と第四章は今回書き下ろされた内容で,本書は文字通り岩波現代文庫オリジナル版として初めて読者の皆様にお届けするものです.ぜひ本書をご一読ください.
著者紹介
(とよした ならひこ)
 1945年兵庫県生まれ.京都大学法学部卒業.現在,関西学院大学法学部教授.
専攻=国際政治論・外交史.主著『イタリア占領史序説』(有斐閣)『日本占領管理体制の成立――比較占領史序説』(岩波書店)『安保条約の成立――吉田外交と天皇外交』『集団的自衛権とは何か』(岩波新書)『安保条約の論理』(編著,柏書房)他.
目次
第一章 「昭和天皇・マッカーサー会見」の歴史的位置
 I 第一回会見の検証
“史実”となった『回想記』/「東条問題」とその背景/内務省による会談内容の「説明」/フェラーズの覚書/マッカーサーの「回答」/キーナンと田中隆吉/ヴァイニング「日記」と重光「手記」/藤田尚徳の『侍従長の回想』/奥村勝蔵の「手記」/英国王への「親書」/一つの「結論」
 II 「空白」の戦後史
ワシントンとの対立/占領管理体制の特異性/マッカーサーの権限問題/アイゼンハワーとイタリア国王/第四回会見と「沖縄メッセージ」/天皇の憲法感覚/同時代史の特異な“空白”
第二章 昭和天皇と「東条非難」
『マッカーサー回想記』への疑問/松尾尊~論文の「推測」/公開された「御会見録」/クルックホーンへの「回答正文」/昭和天皇の“リアリズム”
第三章 「松井文書」の会見記録を読み解く
「松井文書」とその背景/第一回会見(45年9月27日)/第二回会見(46年5月31日)/第三回会見(46年10月16日)/第四回会見(47年5月6日)/松井の通訳への抜擢/第九回会見(49年11月26日)/第一○回会見(50年4月18日)/第一一回会見(51年4月15日)/天皇・リッジウェイ会見/「松井文書」が明らかにした天皇像
第四章 戦後体制の形成と昭和天皇
イタリア占領と昭和天皇/極東委員会設置の背景/『安保条約の成立』をめぐって/「天皇外交」の展開/「松井文書」と会見記録/昭和天皇の憲法認識/昭和天皇と「靖国問題」
 あとがき
 主要参考文献
 人名索引
 「読書日記」の「昭和天皇・マッカーサー会見(2)」、「昭和天皇・マッカーサー会見(3)」、「昭和天皇・マッカーサー会見(4)」を参照転載する。(れんだいこ責で編集替えした)
 ★戦後の「国体」としての安保体制  (128p〜) 

 ・・・東京裁判に「謝意」を表しつつその地位を守りぬいた天皇にとって、独立後の日本の安全保障体制がいかに枠組まれるかということは、「国家元首」として自ら乗り出すべき最大のイッシューとみなされたのであろう。なぜなら、天皇制にとって最も重大な脅威とは内外からの共産主義の侵略であると認識されていたからである。結果として天皇の行った「外交」は、米軍駐留問題でも沖縄問題でも講和問題でも、政府外務省の政策決定を見事に、〔先取り〕するものであった。そこには、共産主義の脅威から天皇制を守り切るためには無条件的に米軍に依存する外はなく、それを確実にするためには吉田であれマッカーサーであれ〔バイパス〕し、侵略に対してはあらゆる手段の行使を米軍に求めるという、〔天皇リアリズム〕とも言うべき冷徹さが見られる。要するに、天皇にとって安保体制こそが戦後の「国体」として位置づけられたはずなのである。

 しかし、こうした〔リアリズム〕は戦後の日本外交に、〔安保の呪縛〕を押し付けた。仮に天皇が、中国における共産政権の成立を日本の独立にむけて米国に対して切ることのできる絶好の、〔カード〕とみなした、白洲次郎の如きしたたかなパワー・ポリティクスのセンスを持ち合わせていたならば、日本外交は選択肢の幅を広げつつ、より柔軟なダイナミズムを発揮し得たかも知れないのである。

 この問題に関わって驚かされることは・「松井文書」で明らかとなったマッカーサーとリッジウェイとの全会見記録を通して、日本の戦争がアジアの国々や民衆に及ぼしたであろう多大の犠牲や惨禍について天皇からただの一言も発せられていない、という事実である。民衆レベルヘの言及は、日本の国民の食糧問題やシベリア拘留者の問題など、〔被害者〕としての日本人(沖縄は含まれていない)についてであり、それ以外には、共産主義の侵略や抑圧にさらされている地域の民衆についてのみである。マッカーサーとの第一回会見で天皇が「全責任発言」をしていたとするならば、それは誰に対するいかなる罪について「責任」を負う決意を表明していたのであろうか。

 たしかに天皇は、例えば教科書問題が深刻化した八二年当時、入江侍従長に対し、「朝鮮に対しても本当にわるいことをしたのだから」(『入江相政日記』第十一巻)と個人的には述懐していたが、戦争責任問題から講和問題にいたる時期の「トップ会談」における、〔アジアの不在〕は、これまた戦後日本外交を、〔象徴〕するものと言えるであろう。

 もっとも、以上に見たような天皇の「外交」については、その。〔先見の明〕を評価する見方も出てくるであろう。とはいえ、政治的責任を負えないもの、公に説明責任を果たし得ないものが政治過程に介入し影響力を発揮するということは、日本の政治と民主主義の根幹を突き崩すことを意味している。仮に、この状況を評価せざるを得ないとすれば、日本の政治の持つ病根は限りなく深く、日本の民主主義は救いがたく末成熟である、と言わざるを得ないであろう。・・・
 ★米軍撤退は「不可なり」   (214p〜) 
 
 以上のように、共産側の「平和攻勢」を深刻に危惧していた昭和天皇にとって、五四年末に日本民主党の総裁・鳩山一郎が政権の座についたことは、新たな危機の到来と感じられたことであろう。なぜなら、同党は憲法改正や「自衛隊の整備」を唱える一方で、「逐次駐留軍の撤退を可能ならしめること」をめざし、さらにソ連や中国を念頭においた「積極的自主外交」を推進することを中心課題として掲げていたからである。こうして、翌五五年六月から国交回復をめざした日ソ交渉が開始される一方で、八月には重光葵外相が訪米してダレス国務長官との会談に臨むこととなった。 

 この会談に向けて重光は、安保改定を企図した「日米相互防衛条約(試案)」を準備したが、その第五条では、「日本国内に配備されたアメリカ合衆国の軍隊は、この条約の効力発生とともに、撤退を開始するものとする」「アメリカ合衆国の陸軍及び海軍の一切の地上部隊は、日本国の防衛六箇年計画の完遂年度の終了後おそくも九十日以内に、日本国よりの撤退を完了するものとする」と明記されていたのである。まさに対米交渉に向けた重光の眼目は、米軍の全面撤退にあったのである(豊下著『集団的自衛権とは何か』)。

 ところで重光は、訪米する三日前の八月二〇日に昭和天皇に「内奏」したが、彼の日記には、「渡米の使命に付て縷々内奏、陛下より日米協力反共の必要、駐屯軍の撤退は不可なり」と記されているのである(『続 重光葵手記』)。その後訪米を果たした重光はダレスとの会談で、集団的自衛権をめぐって激しい議論を展開したが、結局、米軍〔撤退論〕を提起することはなかった。その背景に、右(↑)の天皇の発言が影響を及ぼしていたか否かは不明である。 
 
 そもそも、訪米直前の多忙を極めている時に、なぜ重光は那須の御用邸まで「内奏」に赴いたのであろうか。かつて芦田が「内奏」に憲法上の疑義を感じていたにもかかわらず、繰り返しの要請を受けて結局昭和天皇のもとに行かざるを得なかったと同様の事態が重光にも生じたのであろうか。重光が「渡米の使命」について縷々説明したと記しているところを見れば、彼が米軍撤退構想をも持ち出し、それに対して昭和天皇が「不可なり」と「御下命」した可能性も否定できないであろう。

 いずれにせよ、昭和天皇はいかなる政治的責任において、「駐屯軍の撤退は不可なり」といった「高度に政治的判断」にたった発言を行ったのであろうか。この天皇発言が新憲法の規定に照らしていかに重大な意味をもっているかということは、仮に天皇が所轄の大臣に対し全く逆に、「米軍の撤退を推進せよ」とか「安保条約を改定せよ」とか、あるいは「共産中国と直ちに国交回復せよ」と言明した場合を想定するならば、きわめて明瞭であろう。とはいえ、天皇制の打倒をはかる内外の共産主義の脅威に危機感を募らせる昭和天皇の感覚からすれば、米軍の全面撤退の可能性を阻むということは、〔超憲法的〕な課題に他ならなかったはずなのである。
 
 昭和天皇がソ連や中国など共産主義の脅威にいかに深刻な危機感を抱いていたかということは、沖縄国際大学の吉次公介准教授がアメリカ国立公文書館で発掘した資料によっても確認することができる。吉次によれば、五八年一〇月に来日したニール・マケルロイ国防長官は同六日に昭和天皇と会見したという。そこで天皇は真っ先に、「強力なソ連の軍事力に鑑みて、北海道の脆弱性に懸念をもっている」と述べて意見を求めた。

 これに対しマケルロイは、「ソ連の支援を受けて共産中国は台湾海峡地域で武力を用い、また武力の脅しを行っている。それは、その地域での自由世界の撤退を目論むものだ。自由世界が国際共産主義による武力行使や武力による脅しに強い姿勢で臨むことがきわめて重要だ。・・・この意味で我々は、沿岸島嶼を天皇が北海道を見るような眼で見ている」「アメリカ政府は、この地域〔アジア太平洋〕の平和と安定のために日米協力がとくに重要だと考えている」と答えた。天皇は直ちに、「日米協力が極めて重要だということに同意」し、「軍民両方の領域におけるアメリカの日本に対する心からの援助に深い感謝」を示したという(吉次公介「昭和天皇と冷戦」『世界』二〇〇六年八月号)。

 昭和天皇が「深い感謝】を表明した背景には、五七年一〇月のソ連による人工衛星スプートニクー号の打ち上げ成功が米ソの軍事バランスに及ぼした「スプートニク・ショック」や、五七年には約十二万一千人であった在日米軍が五八年には約半数の六万八千人にまで削減されたという在日米軍をめぐる情勢変化もあった。いずれにせよ、強力なソ連軍が脆弱な北海道に侵攻するのではないかという昭和天皇の危機感は、八○年代の「ソ連侵攻論」を、〔先取り〕するかのようである。

 吉次が発掘した別の資料によれば、キューバ危機が終息を迎えて二日後の六二年一〇月三〇日、昭和天皇は園遊会の場でスマート在日米軍司令官に直接語りかけ、「アメリカの力と、アメリカがその力を平和に使った事実に対して個人的に大いに賞賛し、尊敬している」と述べ、さらに「世界平和のためにアメリカが力を使い続けることへの希望を表明した」という。

 この天皇の発言についてライシャワー米大使は、「キューバでの基本的問題に対する優れた理解を示している。また、アメリカの確固たる対ソ政策を責任ある日本人が強く支持している証拠である。しかし、この出来事の真の重要性は、・・・天皇やその側近が在日米軍に対する評価と感謝を表明するのにこの時期がふさわしい、と判断したことだ。プレスから常に批判され、その死活的役割が政府高官から公的にはほとんど認められない米軍が、このような並外れた評価をうけたことは喜ばしい」と絶賛した。つまり、ライシャワーにあっては、昭和天皇は安保体制の、〔最大の守護者〕と評価されたのである。

 以上のように、一九五一年に安保条約が調印されて以降も昭和天皇は、安保体制や日本の防衛体制の枠組みがいささかなりとも揺らぐことに強い危機感を抱き、然るべきタイミングに然るべき場を使って、チェックを入れていた、と言って間違いはないであろう。従って、第四次防衛計画をめぐって国会の内外で激しい議論が戦わされていた一九七三年五月に、「内奏」した増原恵吉防衛庁長官に対し昭和天皇が、「近隣諸国に比べ自衛隊がそんなに大きいとは思えない。国会でなぜ問題になっているのか」「防衛問題はむずかしいだろうが、国の守りは大事なので、旧軍の悪いところは真似せず、いいところを取入れてしっかりやってほしい」と発言し、「政治的行為」ではないかと大問題になったような例は、いわば、〔氷山の一角〕と言うべきであろう。・・・ 続く。  
 第四章 戦後体制の形成と昭和天皇 は、次の一節で一区切りとして、「松井文書」へ進むことにする。 
 
 ★「内乱と侵略への恐怖」 
 
 それでは昭和天皇は、おそらくはいかなる政治家よりも、なぜこれほどまでに安保体制の、〔揺らぎ〕に対して強烈な危機感を抱いていたのだろうか。実は、二〇〇七年になって公刊された、天皇の最後の側近であった元侍従・卜部亮吾が残した日記の短い記述に、問題のありかを理解する手掛かりが隠されているようである。それは、一九七一年四月十二日付の日記である。前日の一一日に統一地方選挙が行われ、東京では美濃部亮吉が、大阪では黒田了一がそれぞれ知事に当選し、さらに横浜市長選では飛鳥田一雄が選ばれ、革新勢力の躍進という結果に終った(前年四月に、京都では蜷川虎三知事が六選を果していた)。その翌日の日記でト部は、「統一地方選挙の結果につきお尋ねあり、調べて奉答す」と記し、この事態について「東京・京都・大阪の三府を革新に奪われしは政府ショックならん」と感想を述べているのであるが、それに続いて「政変があるかと御下問あり」と、天皇の反応を書き残しているのである(『昭和天皇最後の側近 卜部亮吾侍従日記』第一巻)。

 明治学院大学教授の原武史は、作家の半藤一利、東大教授御厨貴との鼎談で、「二・二六事件に限らないのですけれども、昭和天皇には常に「内乱への恐怖」というものがあったと思うんですよね。戦後、象徴としての地位が安定したあともなお、革命が起きるかもしれないという恐怖を、ずっと持ち続けていたのではないか」と述べて、右(↑)のト部の記述を例として挙げているのである(半藤一利・御厨貴・原武史『ト部日記・富田メモで読む 人間・昭和天皇』)。

 たしかに原も指摘するように、議会制民主主義の枠組みがそれとして定着している中で行われている選挙、しかも地方選挙の結果について、いかに革新勢力が躍進したとはいえ、それを「政変」と結びつけて危惧を表明するとは、尋常の感覚ではないと言わざるを得ない。まさに「内乱への恐怖」「革命が起きるかもしれないという恐怖」というものが、若い時代の体験を背景に、昭和天皇の考え方を呪縛し続けていたのであろう。

 こうした「恐怖」は、戦後体制のもとにおいては、ソ連や中国という共産国家による直接侵略と国内共産主義者による間接侵略という新たな脅威にむけて収斂されたと言える。例えば、次節で触れるマッカーサーとの第十一回会見(一九五一年四月十五日)でマッカーサーが東京裁判をめぐり、「天皇裁判を主張しているソ連と中共」を批判したのを受けて昭和天皇は、「共産主義思想の当然の結果でありましょう。日本の安定を破壊し国内治安を乱して革命へ持って行かんとするものでありましょう」と、脅威のありかについて自らの認識を明確に述べていたのである。

 この会見から約二年を経て、先に見たようにマーフィ−米大使との会見で昭和天皇は、朝鮮戦争が休戦に向かうという緊張が緩和され始めた時期にあっても、日本が共産主義の「ターゲット」になっているという危機意識を訴えたのである。ここにも示されているように、天皇は常に変わることなく、内外の共産主義が天皇制の打倒をざして侵略してくるであろうという恐怖感にさいなまされていたのであろう。そして、こうした脅威を阻む最大の防波堤が、米軍のプレゼンスに他ならなかった。

 すでに第三章や本章で詳細に検討してきたように、この安保体制の枠組みを確保するために天皇は、新憲法の施行後もなりふり構わぬ「天皇外交」を展開した。天皇の認識からすれば、戦後政治における最大の「事態の重要さ」は共産主義の脅威であり、この脅威に対して「皇祖皇宗よりお預かりしている三種の神器」を守り天皇制を防衛することこそが最上位に位置づけられるべき使命であり、そこにおいて憲法は自らの「政治的行為」に伴うはずの政治責任を免れさせてくれる、〔ヴェール〕であった。天皇がしばしば、自らは戦前も戦後も変わることなく立憲君主であったと自己規定する内実は、「事態の重要さ」に立ち向かうべく〔超憲法的〕に自らがイニシアティブをとった場合を除いては、という意味に他ならないのである。

 以上の検討からも明らかなように、天皇の憲法認識を把握するためには、『独白録』が提示している二・二六事件と終戦の「聖断」という戦前・戦中の、〔二つの例外論〕の周辺を論じているだけでは本質に迫れないのであって、戦後の新憲法下における天皇の「政治的行為」を正面から分析することが不可欠の作業なのである。
 ●昭和天皇と「靖国問題」
 
 ★東京裁判に「謝意」
 
 第三章で触れたように、「松井文書」は、昭和天皇とマッカーサーとの最後の会見となった第十一回会見の内容を初めて明らかにした。改めて引用しておくならば、昭和天皇は離任するマッカーサーに対し、「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度に付、此機会に謝意を表したいと思います」と述べたのである。つまり、自らは免訴されたが、東条英機を始めA級戦犯七名が処刑された東京裁判に関して、天皇は明確に「謝意」を表したのである。ここにも、個人感情を排した昭和天皇の、〔リアリズム〕を見ることができるであろう。
 「松井文書」へ進むことにする。少し長くなりますが、引用・紹介をして、後に補・註を記して行こうと思います。 
 
 ●第三章 「松井文書」の会見記録を読み解く 
  
 ★「松井文書」とその背景 
 
 占領期、昭和天皇と連合国最高司令官マッカーサー及びリッジウェイとの会見は計一八回に及んだが、これまでマッカーサー会見の一部を除いて会見内容は全くのベールにつつまれてきた。しかし、一九四九年七月の第八回天皇・マッカーサー会見からリッジウェイの離日会見まで通訳を務めた故松井明が、担当した会見の記録はもとより、それ以外の会見の経緯や政治的背景についても詳細に記述した「天皇の通訳」と題する文書(以下、「松井文書」)を残していた。彼は外務省政務局第五課長として情報関係の仕事をしていたが、当時の吉田茂首相に命じられて通訳を担当することとなったのである。

 これまで天皇・マッカーサー会見について「公式記録」として明らかになっていたのは、第一、三回と第四回の前半部だけであった。ところが「松井文書」には、日本の安全保障問題に重要な意味をもつ第四回の後半部の記録が転載されており、さらには講和問題に密接にかかかる第九、十回会見の記録がすべて書き記され、またマッカーサーの離日に際する会見での天皇の実に興味深い発言も記録されているのである。これに加えて、全くの空白であった天皇とリッジウェイとの七回にわたる会見記録もすべて記載されており、そこでは再軍備問題や朝鮮戦争をめぐる軍事問題、内外の政治問題に関する天皇の情勢認識などが具体的な発言の形で詳しく書き残されているのである。

 この度、『朝日新聞』がこの「松井文書」の写しを入手し、去る八月五日付の紙面で特集記事としてその概要を紹介した。筆者はこの文書の全文を閲読する機会を与えられたが、数々の新たな発見に知的興奮をかきたてられる一方で、戦後史の空白を埋めるであろうこの一級資料に研究者としてただ一人向き合っていることの〔居心地の悪さ〕を感じざるを得なかった。本来であれば、重要な資料であればあるほど、誰もがアクセスできることで活発な論争が展開され歴史認識が高められていく、ということでなければならない。しか し「松井文書」については、なお著作権の問題がクリアーされていないため、上記の『朝日新聞』の特集記事も、「著作権法上の「正当な範囲内」」にとどめられたのである。

 ただ、実は松井自身にあっては、八十年にこの文書をまとめたのは、あくまでそれを出版することを目的としていたのである。翌八十一年十月二日付の侍従長入江相政の『日記』(第十一巻)には、「松井明君がマッカーサー及びリッジウェイの御通訳の顛末を出版したいとのこと。とんでもないこと。コッピーを渡される」と記されている。さらに三週間を経た同二十二日付の『日記』には、宮内庁長官の報告として「この間からの懸案の松井明君の通訳の記録の出版。侍従長、次長、官長すべて反対と告げ思ひとまって(ママ)もらった由。そして侍従長の秘庫に入れておいてくれとのこと」と出版を抑えきった「顛末」が記されている。

 しかし松井はそれでも諦めきれず、八九年、天皇の逝去を経て文書の概要をフランス語版として出版し、さらに九四年一月、自らが没する四ヵ月前に『産経新聞』紙上で断片的ではあるが文書のごく一部を公に語ったのである。上部からの拒否にもかかわらず松井をここまで突き動かしたのは、「昭和天皇が占領期に果たされた役割について後世の人たちに知ってもらうため」であり、何よりも「歴史を綴る必要」というところにあったのであろう。

 ただいずれにせよ、天皇と最高司令官との会見は事実上の「トップ会談」としての性格をもっており、だからこそ「公式記録」もまとめられたのであった以上、それを所管する宮内庁や外務省が正式の資料公開に踏み切るべきである。とはいえ、現状においては上記のような著作権の問題があるため、本稿においてはその、〔制約〕のなかで、できる限り研究者や一般読者が、〔生の資料〕として利用できるような形で叙述するように努めたい。なお「松井文書」は天皇・マッカーサーの第一回会見から順次記述されているため、ここでもそれに従い、政冶的にきわめて重要な意味をもつ天皇・マッカーサー会見を中心に、これまでの研究史をふまえつつ分析を加えていきたい。
 ★第十一回会見(*1951年4月15日 戦争裁判への「謝意」
 
 天皇とマッカーサーとの会見は、第二回会見以来ほぼ半年に一回のペース(四十九年だけは三回)で行われてきた。しかし、第十回会見(*1950年4月18日)以降は、朝鮮戦争勃発のためか、天皇が★ダレスへのアプローチを重視したためか実情は不明であるが一度も持たれることはなく、結局マッカーサーが戦争の指揮をめぐって解任され帰米する前日が、両者にとって最後の会見となった。「松井文書」は実に興味深い両者の会話を生々しく再現している。

 別れを惜しむ挨拶が交わされた後、ここでも天皇はすぐに朝鮮戦争の戦況に話題を移し、マッカーサーが交代しても米国の戦争政策が変わらないか否かを問いただしている。これに続いて天皇は、「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度に付、此機会に謝意を表したいと思います」と述べたのである。これに対するマッカーサーの応答は、「私はワシントンから天皇裁判に付いて意見を求められましたが勿論反対致しました。英ソ両国は裁判を主張(英国に付いては意外に思った)していたが、米国はその間違いを主張し、遂に裁判問題は提起されなかった。現在尚天皇裁判を主張しているのはソ連と中共のみであります。世界中の国が反対しているのにソ連は法的根拠も示さず之を主張しているのであります」というものであった。これに対して天皇はただちに、「共産主義思想の当然の結果でありましょう。日本の安定を破壊し国内治安を乱して革命へ持って行かんとするものでありましょう」と応じた。

 マッカーサーの発言については、当初に英国やソ連が天皇を戦犯として訴追することを求めていた、といった事実関係の誤りが含まれている。とはいえ、「日本人に戦争は罪であったと思い込ませようとした」「戦後日本の思考空間を支配してきた」(江藤淳)として「東京裁判史観」の名で非難が浴びせられてきた東京裁判について、天皇自らの発言として「謝意」を表していたことは誠に興味深いものがある。さらに、それに応えてマッカーがサーが自らの〔尽力〕を語ったことによって、はしなくも東京裁判が、東条らに全責任を負わせる一方で天皇の不訴追をはかるという「日米合作の政治裁判」であったことが当事者同士の会話によって確認されることになった。同時に重要なことは、両者の議論において、本来は天皇の戦争責任に関する問題が、いつのまにか共産主義の脅威の問題に見事にすり替わっている、ということなのである。
 ★天皇・リッジウェイ会見 「一衣帯水論」
 
 マッカーサーの後任であるリッジウェイと天皇との全七回にわたる会見の全容が「松井文書」によって明らかになった。もっとも、最初の会見(五一年五月二日)が講和・安保条約をめぐる第一次日米交渉の山を越えた後であり、政治的には天皇がダレスヘのアプローチを重視したためであろうか、両者の会談内容は朝鮮戦争をめぐる軍事情勢に集中した。それは、例えば天皇が、「兵員の交替」問題、ゲリラ戦への対応策、制空権の問題、「中共軍の戦略」、「避難民」対策等々を詳細に問いただすなど「高度に軍事的」であり、かつて大元帥として軍の責任者に下問する姿を彷彿とさせるものである。

 したがってここでは、政治的に重要と思われる諸問題に絞って検討しておきたい。まず特徴的なことは、天皇の情勢認識が鮮明に現われていることであり、その核心は「朝鮮有事」と「日本有事」の直結である。すでに最初の会見から天皇は、朝鮮戦線における国連軍が「極東の防衛」に果たしている役割に「感謝」の意を表明し、「日本にとっては釜山が一衣帯水であると同時に北海道も一衣帯水の関係にあるわけであります]と明言した。

 こういう「一衣帯水」論の背景にあるのは、第二回会見(五十一年八月二七日)で述べているように、ソ連が「大きな過ちを犯す可能性」への危機感、つまりはリッジウェイが引き取って具体的に言及した「第三次世界大戦を惹き起こす」可能性への強い危惧であった。
 ★「原子兵器」発言 
 
 第四回会見(五十二年三月二七日)でも天皇は、朝鮮戦争に「ソ連が直接介入するような兆候はないか?」と改めて問うたが、これに続く議論の中で、「〔共産側が〕仮に大攻勢に転じた場合、米軍は★原子兵器を使用されるお考えはあるか? この問題に対しては恐らく貴司令官も答弁する立場に無いと言われるかも知れないが?」との質問を発したのである。リッジウェイは直ちに「原子兵器の使用の権限は米国大統領にしかない」と答えたが、こうした回答を当然のごとく予測しながら、なぜ天皇は「原子兵器」発言を行ったのであろうか。もちろん、マッカーサーの解任問題と関係させつつ、使用されないであろう確認を求めたという解釈も成り立つであろう。しかし、この質問のまさに直前にリッジウェイが共産中国の宣伝戦に触れて、「大量虐殺手段の武器禁止の大々的宣伝を開始し、延いては原子兵器の禁止へ持って行こうとの一つの布石」との見方を披瀝していることを考えると、ソ連が介入するような大攻勢の場合に中国の「使用禁止」の、〔策略〕をこえて「原子兵器を使用する」覚悟があるか否かを問いただした、と見ることもできるであろう。いずれにせよ、被爆国としての〔琴線〕に触れる問題での大胆な発言にただ驚かされるばかりである。

 以上のように天皇は朝鮮戦争を、「天皇制打倒」をめざして日本にも進撃してくるであろう国際共産主義の攻勢の始まりと見ていた。この点で、「大陸の政治動乱がわが島国を直接に脅かさなかったことは歴史の事実」であり、「ソ連は断じて日本に侵入しない」と確信して、「日本有事」と「朝鮮有事」を峻別していた吉田の情勢認識とは明らかに食い違うものであった。
 ★安保条約の認識 
 
 さて、以上の情勢認識を持っていた天皇にとって、安保条約の成立は当然待ち望まれたことであった。講和・安保条約の調印後に皇居で行われた第三回会見(五十一年九月一八日)で天皇は、「有史以来未だ嘗て見たことのない公正寛大な条約〔講和条約〕が締結せられた」ことを喜ぶとともに、「日米安全保障条約の成立ちも日本の防衛上慶賀すべきことである」と率直に述べた。そして、つづく第四回会見でリッジウェイが行政協定をめぐって、「防衛費」(防衛分担金)や占領期の施設返還の問題などで日本側に不満が出ていることについて「日本国民も辛抱してもらいたい」と述べたのに対し天皇は、「吉田内閣によって国民の啓蒙の有効な措置がとられるものと信じる。私としては良く了解できるし、大多数の国民も理解しているものと思う」と答えた。

 行政協定の交渉を担当した岡崎勝男さえ「反米感情の温床」になることを危惧した不平等な行政協定を「良く了解できる」と評価するほどに、天皇にとっては安保条約が結ばれたこと自体が「慶賀すべき」ことであったのであろう。ただその際注目すべきは、条約発効を目前に控えた第五回会見(五十二年四月二六日)で天皇が、「日米安全保障条約に基づき貴司令官の統率の下に米軍が条約に規定された防衛義務を担当される訳であります」と述べている点である。当時の西村条約局長も、「〔米軍による〕日本防衛の確実性が条約文面から消えうせた」と嘆いたように、この条約は米軍による日本防衛を義務づけていないにもかかわらず、なぜ天皇は右のような発言を行ったのであろうか。前回の会見でリッジウェイが、米軍駐留の目的が米国の「政治的野心」や日本政治への「干渉」にあるのではなく、あくまで「日本の独立を保障する」ことにあると力説したためであろうか。

 なお天皇は再軍備問題について第二回会見で、「もちろん国が独立した以上、その防衛を考えることは当然の責務であります。問題はいつの時点ていかなる形で実行するかと言うことになると思います」と述べ、漸進的な再軍備の必要性を明言していた。

 以上に見てきたように、「松井文書」によって、天皇がリッジウェイとの会見で、マッカーサーとの場合よりもはるかに直裁に生き生きと自らの情勢認識や主張を語っていることを知ることができたことは、大きな収穫と言える。 
 ★「松井文書」が明らかにした天皇像 『独白録』の論理の否定 
 
 「松井文書」が明らかにした占領期における天皇の言動から何が言えるであろうか。まず明白なことは、戦争責任にかかわる「弁明書」としての『独白録』で展開された論理それ自体の否定、ということであろう。『独白録』を貫く論理は、内閣が機能しなかった二・二六事件と終戦時を例外として天皇は、「閣議の決定」については「仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる」という、「立憲政治下に於る立憲君主」としての立場に徹した、ということである。つまり、「余りに立憲的な」と述べるほどに憲法に忠実に従った結果、戦争への道を阻止できなかった、ということなのである。

 しかし、「松井文書」が生々しく描き出したように天皇は、戦後の新憲法の施行後も、「象徴天皇」という憲法上の規定に何ら縛られていないかのように「政治的行為」を展開した。七十五年に天皇・マッカーサー第三回会見(46年10月16日)の記録を掲載した『サンケイ新聞』において担当記者は、「〔会見から〕半年後の〔昭和〕二十二年五月三日(憲法施行)以後は元首から象徴と変わって現実の政治から、まったく離れられる」と記した。当時はまだ、第四回会見の前半部の記録も「沖縄メッセージ」も明らかになっていなかったからであろうが、現実の天皇の行為は、こうしたサンケイ記者の〔期待〕をものの見事に裏切るものであった。 
 ★『独白録』の論理と現実 
 
 天皇の、〔憲法感覚〕がこうしたものであるとすれば、はたして『独白録』で展開された論理は正しいのであろうか。第一回会見を前後して焦点となった「東条問題」について検討してみると、天皇は開戦を決定した四十一年十二月一日の御前会議について、「政府と統師部との一致した意見は認めなければならぬ」「その時は反対しても無駄だと思ったから、一言も云はなかった」「東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於る立憲君主として已むを得ぬ事である。若し己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専制君主と何等異る所はない」と述べ、あくまで「立憲君主」としての立場を貫いた旨を強調した。

 しかし『木戸幸一日記(下)』によれば、御前会議前日の十一月三〇日に、高松宮が海軍の〔厭戦気分〕を伝えたため海軍大臣らを呼んで事情を聞いた天皇は、「相当の確信」をもった返答を確認したうえで、「予定の通り進むる様首相〔東条〕に伝へよとの御下命あり」との決断に踏み切り、木戸は「直に右の趣を首相に電話を以て伝達」したのであった。

 「予定の通り進むる様」とは、翌日の御前会議で開戦を決定せよということであり、「彼程、朕の意見を直ちに実行に移したものはない」と天皇自ら評価するような東条が、こうした「御下命」に忠実に従ったことは言うまでもない。

 つまり、御前会議では「一言も云はなかった」と述べるように「立憲君主」として振る舞った天皇は、〔裏舞台〕では、東条に強制されたのではなく、逆に天皇が東条に「下命」して御前会議の最終方針を事実上決していたのである。ここには、いわゆる「専制君主」(あるいは「親政」の担い手)と「立憲君主」との間を巧みに行き来する天皇の姿が象徴的に示されている。とすれば、新憲法下において「象徴天皇」でありつつ「己が好む所」に従って「政治的行為」に勤しんだ天皇の言動は、むしろ戦前以来の行動パターンにおいて〔一貫性〕を持っていた、と言うべきであろう。 
 ★「靖国問題」をめぐる〔ねじれ〕 
 
 こうした天皇の言動における建前と実態との乖離は、戦争責任問題を考える際の国民レベルの議論に大きな、〔ねじれ〕をもたらすことになった。その典型例が「靖国問題」であろう。本来靖国神社には「聖戦」で倒れた「英霊」の御霊が祀られるのであり、「聖戦」とは「天皇の意を体した戦争」を意味する。他方『独白録』で展開された天皇の立場は戦争に反対した平和主義者としてのそれであり、その逝去の際もメディアの大半はそうした基調で戦前の天皇像を描き出した。つまり、「宣戦の詔書」の問題はともかくとして、実態においてあの戦争は「天皇の意に反した戦争」であった、ということである。

 ところが、天皇は平和主義者であったと主張する立場と、あの戦争は「自存自衛の戦争」であり、そこで倒れた「英霊」のために首相は靖国神社に公式参拝すべきであると主張する立場とが、何ら自己矛盾を惹き起こすこともなく〔共存〕するという、まことに奇妙な、〔ねじれ〕現象が長く続いてきたのである。そして、戦後の日本は今日に至るまで、この、〔ねじれ〕の問題を正面から突き詰めてこなかった。その背景としては、人間個人としては退位問題などで苦悩したであろうが、結果的には法的にも道義的にも戦争責任を明示的にとることのなかった天皇がその在位を継続したことで重大な、〔タブー〕が形成された、という問題を挙げることができるであろう。いずれにせよ、この間、天皇が開戦の決定を「下命」した東条の合祀問題が「靖国問題」の焦点となっていることは歴史の皮肉としか言いようがない。
 ★戦後の「国体」としての安保体制 
 
 東京裁判に「謝意」を表しつつその地位を守りぬいた天皇にとって、独立後の日本の安全保障体制がいかに枠組まれるかということは、「国家元首」として自ら乗り出すべき最大のイシューとみなされたのであろう。なぜなら、天皇制にとって最も重大な脅威とは内外からの共産主義の侵略であると認識されていたからである。・・・
 
 これで、●『昭和天皇・マッカーサー会見』(3)へ繋がりました。

 以下、他著も参考にしながら、註記・補記を書き記していきます。 
 
    続く。
(私論.私見)
 れんだいこは、「松井文書」を読んでいないので断定はできないが、本サイトから窺える昭和天皇の戦前戦後にまたがる政治的行為は唖然とさせられることばかりである。恐らく、この方面の研究はタブー視されているのであろう。いつか、この分野の検証をきちっとしておかねばなるまい。気に掛かるのは、昭和天皇のロキード事件の際の田中角栄訴追に関わる後押しの線である。れんだいこは同様の示唆があったと読む。

 2013.5.28日 れんだいこ拝
 日本政策研究センターの「昭和天皇・マッカーサー会談の「事実」」を転載する。
 投稿者:operatorA 投稿日時:2006/06/29(木) 00:00
 昭和天皇・マッカーサー会談の「事実」 敵将を心服させた昭和天皇の御聖徳


 戦後六十回目の八月十五日が近づくにつれて、自ずと想起されるのは、終戦前後に示された昭和天皇の御聖徳である。昭和生まれの日本人として、記者は「終戦のご聖断」「マッカーサーとのご会見」「終戦後のご巡幸」はしっかりわが子らに伝えたいと常々願っている。言うまでもなく、これらのご行動に脈打つ「捨て身」のご精神により、戦後の日本と日本人は救われたと思うからだ。


  ところが、である。来年から使用される中学校の歴史教科書で、昭和天皇のご事績を記しているのは扶桑社のみである。他の大部分の教科書には、「昭和天皇」のお名前自体が出てこない。お名前は出てきても、悪意が感じられるものもある。

 とりわけ唖然とさせられたのは、東京書籍である。「占領と日本の民主化」という項目に「マッカーサーと昭和天皇」と解説した写真が新たに載っている。腰に手をやって構える開襟シャツにノーネクタイのマッカーサーの隣にモーニング姿で直立不動の昭和天皇が並んでいる、お馴染みの写真である。昭和二十年九月二十七日、天皇が初めてマッカーサーを訪問された際に写されたものだ。

  この写真が当時、全国民に大きなショックを与えたことはよく知られている。これを見た歌人の斎藤茂吉は日記に、「ウヌ!マッカーサーノ野郎」と記し、また内務省は不敬に当たるとして、各新聞に発表を控えさせた(GHQの指令で九月二十九日公表された)。東京書籍の教科書は、肝腎のご会見の中身には何も触れないで、GHQの宣伝臭の強い問題写真だけを掲載したのである。

  一方、扶桑社の教科書は、ご会見の中身をこう記している。「終戦直後、天皇と初めて会見したマッカーサーは、天皇が命乞いをするためにやって来たと思った。ところが、天皇の口から語られた言葉は、『私は、国民が戦争遂行にあたって行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためお訪ねした』というものだった」と。

  さらに、「私は大きい感動にゆすぶられた。(中略)この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした」という『マッカーサー回想記』の有名な一文も載せている。かかる重大な史実を扶桑社以外の教科書が記述しない真意は測りかねるが、『マッカーサー回想記』が伝える戦争の「全責任を負う」との天皇のご発言については、その信憑性を疑う向きもあるのは事実である。

 その主な原因は、昭和五十年に児島襄氏が公表した「御会見録」である。九月二十七日の会見に同席した通訳官が記したというこの「御会見録」には、マッカーサーが伝えたような天皇のご発言がなかった。もともと児島氏は天皇の戦争責任を否定する立場から、ご発言の信憑性に疑問を発していたのだが、これで児島氏の疑念はいよいよ深まった。

 さらに三年前、それとほぼ同一の「公式記録」を外務省が公開するに至り、マッカーサー発言を「作り話」と否定したり、「天皇はむしろ国民に責任を転嫁しようとした」という声さえ上がる始末となったのだ。

 結論からいえば、天皇が戦争の「全責任を負う」と述べられたのは事実であり、この「捨て身」のご精神によって、戦後の日本と日本人は救われたことは間違いない。

 以下、この歴史的会見における昭和天皇のご発言について、様々な証言を整理・再検証してみたい。
 ◆十年後に明かされた「歴史的事実」

 昭和二十年八月三十日、連合国軍最高司令官ダグラズ・マッカーサー元帥は神奈川県の厚木飛行場に到着した。九月二日、横須賀沖に停泊する米戦艦ミズリー号上で降伏文書の調印が済むと、マッカーサーはGHQ総司令部を横浜から皇居の真向かいに位置する第一生命ビルに移し、占領政策に本格的に着手した。 

 昭和天皇が米国大使館の大使公邸にマッカーサーを初めて訪問されたのは九月二十七日のことである。この会見がもたれるに至った経緯については種々の推測があるが、「天皇御自身の発意であり、マッカーサーの側ではそれを待っていたとばかりに歓迎したというのが実相だった」(小堀桂一郎『昭和天皇』)といってよさそうだ。

 天皇にお供したのは、石渡荘太郎宮内大臣、藤田尚徳侍従長、筧素彦行幸主務官、通訳の奥村勝蔵外務省参事官など六名。が、会見に同席したのは奥村参事官のみだった。

 会見後、奥村は会見の内容についてのメモを作成した。それは、外務省から藤田侍従長のもとへ届けられ、侍従長から天皇へ手渡された。通常であれば、その種の文書は侍従長の元に戻されるが、そのメモは戻されなかった。会見の内容は公表しないというマッカーサーとの約束を守るための措置だったと思われる。

 日本人が会見の内容を初めて知り、深い感動に包まれるのは、それから十年後のことだ。すなわち、「天皇陛下を賛えるマ元帥――新日本産みの親、御自身の運命問題とせず」という読売新聞(昭和三十年九月十四日)に載った寄稿が最初の機会となる。執筆者は、訪米から帰国したばかりの重光葵外務大臣であった。

 重光外相は、安保条約改定に向けてダレス国務長官と会談するために訪米したのであるが、この時マッカーサーを訪ね、約一時間会談した。先の外相の寄稿は、その際のマッカーサーの発言を紹介したものだ。

 次に、その寄稿の一部を紹介したい。重光によれば、マッカーサーは、「私は陛下にお出会いして以来、戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに憚らないのである」と述べた後、陛下との初の会見に言及。「どんな態度で、陛下が私に会われるかと好奇心をもってお出会いしました。しかるに実に驚きました。陛下は、まず戦争責任の問題を自ら持ち出され、つぎのようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました」として、次のような天皇のご発言を紹介したというのである。

 「私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題ではない。構わずに総ての事を進めていただきたい。私は全責任を負います」。

 そしてマッカーサーは、このご発言に関する感想をこう述べたという。

 「私は、これを聞いて、興奮の余り、陛下にキスしようとした位です。もし国の罪をあがのうことが出来れば進んで絞首台に上がることを申し出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした」。

  この天皇のご発言を知らされた重光外相は、次の感想を記している。

 「この歴史的事実は陛下御自身はもちろん宮中からも今日まで少しももらされたことはなかった。それがちょうど十年経った今日当時の敵将占領軍司令官自身の口から語られたのである。私は何というすばらしいことであるかと思った」。

 扶桑社の歴史教科書が引用している『マッカーサー回想記』が出版されたのは、それから九年後の昭和三十九年のことである。
 ◆GHQ側の「証言」

 ところで、会見のお供の一人の筧氏は、重光外相の寄稿を読んだ感想を、「十年来の疑問が一瞬に氷解した」と記している。氏の「疑問」とは、会見の前後でのマッカーサーの態度の急激な変化である。会見の時間はわずか三十七分であった。が、「先刻までは傲然とふん反りかえっているように見えた元帥が、まるで侍従長のような、鞠躬如として、とでも申したいように敬虔な態度で、陛下のやや斜めうしろと覚しき位置で現れた」という。会見前後の場の雰囲気を知る当事者として、筧氏は「あの陛下の御言葉を抜きにしては、当初傲然とふんぞり返っていたマッカーサー元帥が、僅か三十数分のあと、あれ程柔和に、敬虔な態度になったことの説明がつかない」(『今上陛下と母宮貞明皇后』)と証言している。これは、マッカーサーが伝えた天皇のご発言を裏付けるいわば状況証拠といえよう。

 とはいえ、むろんこれはマッカーサーの発言を裏付ける決め手とはなり得ない。会見の内容についてGHQ側に記録はない。とすれば、重光外相との面会までに十年の月日が流れており、マッカーサーの記憶を信頼できるのか、やはり疑問なしとしない。また『マッカーサー回想記』については、回想記全体が自己宣伝調で、その信頼性を疑う向きが一部にあるのも事実であろう。

 しかし、幸いにもというべきか、あの会見の直後、マッカーサーはその内容を断片的に複数の側近などに漏らしている。そこには創作が入り込む余地は考えにくい。しかもそれらは大筋で、その後のマッカーサーの発言を裏付けているといってよい。

 例えば会見の時に大使公邸にいたマッカーサーの幕僚の証言だ。軍事秘書のボナ・フェラーズ准将は、会見が行われた九月二十七日に自分の家族に宛てた私信で、天皇が帰られた直後にマッカーサーから聞いた話として、こう伝えているという。

 「マッカーサーは感激しつつこういった。『……天皇は、困惑した様子だったが、言葉を選んでしっかりと話をした』。『天皇は処刑を恐れているのですよ』と私がいうと、マッカーサーは答えた。『そうだな。彼は覚悟ができている。首が飛んでも仕方がないと考えているようだ』」(升味準之助『昭和天皇とその時代』)。

 また、会見から一カ月後の十月二十七日、ジョージ・アチソン政治顧問代理は国務省宛てに、マッカーサーから聞いた天皇のご発言について次のように打電した。

 「天皇は握手が終ると、開戦通告の前に真珠湾を攻撃したのは、まったく自分の意図ではなく、東条のトリックにかけられたからである。しかし、それがゆえに責任を回避しようとするつもりはない。天皇は、日本国民の指導者として、臣民のとったあらゆる行動に責任を持つつもりだと述べた」。

 この文書を最初にアメリカ国立公文書館で発見した秦郁彦氏は、「決め手と言ってよい文書」「天皇が全戦争責任を負うつもりであったのは明らかである」と指摘する。また氏は、次のような根拠も挙げている。

 「このことは、八月二十九日天皇が木戸内大臣に、『戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引受けて、退位でもして納める訳には行かないだろうか』(木戸日記)と語ったところや、九月十二日東久邇宮首相が、連合国の追及に先立って、戦争犯罪人を日本側で自主的に処罰する方針を奏上すると、即座に反対して撤回させた事実と首尾一貫してくる」(『裕仁天皇五つの決断』)。

 なお、「東条のトリック云々」のご発言にひっかかる向きがあるかもしれないが、秦氏はこう解釈する。

 「天皇がこだわったのもむりはない。東郷外相ですら無通告攻撃に傾いていたのを『事前通告は必ずやるように』と厳命したにもかかわらず、奥村在米大使館書記官のタイプミスで結果的に通告がおくれてしまったのだから、痛恨の思いは誰よりも深かったであろう。しかも、この時点では天皇は真相を知らされていなかったので、東条に欺かれたと信じこんでいたのが、言い訳めいた言動になったと思われる」(『文藝春秋』平成16年1月号)。
 ◆日本側の二つの「証言」

 次に、ご会見についての日本側の情報を整理してみたい。

 むろん、最も重要なのは、通訳の奥村氏が会見当日に作成したメモである。これについては冒頭で触れたように、まず昭和五十年、「『マッカーサー』元帥トノ御会見録」(以下、会見録と略)なるものが、『文藝春秋』(昭和50年11月号)で児島襄氏によって公表された。そこで児島氏は、資料の入手先を明らかにしないまま、「奥村勝蔵が手記した会見記録は次のとおりである」と記している。

 また平成十四年十月、外務省は第一回天皇・マッカーサー会見の「公式記録」を公開した。先にも記したように、その内容は児島氏が公表した会見録とほぼ同一の内容だった。

 会見録によると、マッカーサーが約二十分、「相当力強き語調」で雄弁をふるった後、陛下が、「この戦争については、自分としては極力これを避けたい考でありましたが、戦争となるの結果を見ましたことは、自分の最も遺憾とする所であります」と述べている。が、マッカーサーが伝えた戦争の「全責任を負う」とのご発言は出てこない。つまり日本側の公的記録によっては、マッカーサーの発言は裏付けられない結果となったのだ。

 しかし一方、日本側にもマッカーサーの発言を裏付ける重要な情報がある。奥村氏のメモを天皇に届けた藤田侍従長が記した回想録である。職掌上、そのメモに目を通した同侍従長は、昭和三十六年十月、当時の記憶に基づき、陛下のご発言の内容を公表した。問題のメモについて、同侍従長は「宮内省の用箋に五枚ほどあったと思う」と述べ、陛下は次の意味のことをマ元帥に伝えたと記している。

 「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼等には責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」。

 この天皇のご発言に続けて、同侍従長は、「一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露はマ元帥を強く感動させたようだ」と述べ、次のようなマッカーサーの発言を記している。

 「かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終ったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これ総て陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい」(『侍従長の回想』)。

 先に見たマッカーサーの発言では、天皇が日本国民のために「連合国の援助」をお願いしたことについては触れていない。しかし高田万亀子氏によれば、天皇が「自分はどうなってもいいが、国民を食わせてやってくれ」という発言をなされたという事実を、マッカーサーも雑談の中で語っているという(「昭和天皇についての二つの新証言」)。

 このように、藤田侍従長の回想とマッカーサー側の発言とは、肝腎の部分でほぼ一致するのである。
 ◆「重大さを顧慮し削除した」

 以上の事実が示唆しているのは、奥村氏の手になる会見録は二種類あるということであろう。事実、昭和天皇の元に届けられたものと、外務省が保管したものと二種類の会見録があるのではないかとの推測が専門家の間でもささやかれてきた。

 例えば升味氏は、「奥村は、それ(「全責任を負う」とのご発言)を御会見録に記した。吉田外相は、それを二九日侍従長に送った。それから奥村は、自分の手控えから肝腎の部分を削除した。……削られたのは、外務省の保存記録かもしれない」(前掲書)との推測を記している。

 そして、その後、平成十四年八月五日付朝日新聞は、この推測を傍証する重大な文書を紹介した。それは、奥村氏の後任通訳を務めた元外交官の松井明氏が記した「天皇の通訳」と題する文書である。その文書で松井氏は、こう記している。

 「天皇が一切の戦争責任を一身に負われる旨の発言は、通訳に当られた奥村氏に依れば余りの重大さを顧慮し記録から削除したが、マ元帥が滔々と戦争哲学を語った直後に述べられたとのことである」。

 この松井証言については、「松井がいつどの時点でどういう形で彼から聞いたのかが不明確であるし、機密保持を前提としていた『記録』から、なぜあえて『削除』する必要があったのか疑問とせざるをえない」(豊下楢彦氏)との指摘もある。

 しかし、こうした疑問に対して秦氏は、「東京裁判を控えて『天皇有罪の証拠』とされかねないこのくだりを、奥村があえて削除したのは当然と私は考える」と述べている。

 以上、マッカーサー側と日本側の情報を検討してきたが、昭和天皇の「全責任発言」はまぎれもない事実と結論付けてよいのではなかろうか。
 ◆国家国民を救った捨て身の御精神

 ところで、この歴史的会見の意義を、例えば高橋紘氏は、「『知日派』の総帥は、いまやマッカーサーであった」との象徴的な言葉で評している。どういうことかといえば、当時のマッカーサーには軍事秘書として、日本文化に造詣が深かったボナ・フェラーズ准将、副官には歌舞伎役者の口真似までできる日本通のフォービアン・バワーズなどの知日派軍人が仕えていた。だが九月二十七日を機に、マッカーサーが突如として知日派米国人の最たる存在になったということだ。そして、このことは、その後の占領政策にきわめて重要な影響を及ぼすことになるのである。

 当時、天皇制をめぐって米国務省内では議論が続いており、昭和二十年十月二十二日のSWNCC(国務・陸・海軍三省調整委員会)の会議では、マッカーサーに対し、天皇に戦争責任があるかどうか証拠を収集せよ、との電報を打つことが承認された。これに対してマッカーサーは翌二十一年一月二十五日、アイゼンハワー陸軍参謀総長に対し、次のような回答の手紙を送ったという。

 「過去一〇年間、天皇は日本の政治決断に大きく関与した明白な証拠となるものはなかった。天皇は日本国民を統合する象徴である。天皇制を破壊すれば日本も崩壊する。……(もし天皇を裁けば)行政は停止し、ゲリラ戦が各地で起こり共産主義の組織的活動が生まれる。これには一〇〇万人の軍隊と数十万人の行政官と戦時補給体制が必要である」(高橋紘『象徴天皇』)。

 この手紙を高橋氏は、「天皇の終戦直後の働き」の「結実」とみなしている。つまり、天皇との会見などを通してマッカーサーが抱くに至った天皇へのプラスの認識が、先のマッカーサーの判断をもたらしたというのである。これによって天皇は戦争犯罪人としての不当な訴追を免れ、戦後も天皇制が――象徴という不本意な形にしろ――維持されることになったといえる。そのことが戦後の日本の復興と安定に寄与した意義は計り知れず大きい。

 むろん、こうしたマッカーサーの対応の背景には、占領政策を成功させるために天皇の力を政略的に利用しようとする意図があったともいえよう。しかしマッカーサー回想記などのその後の発言を踏まえれば、マッカーサーが「心から天皇に心服し」、「九月二十七日の会見を以て、彼の対天皇関係は、初めに敬愛ありき、とでも言うべき鋳型が出来てしまった」(小堀氏・前掲書)ことも、また否定できない事実というべきなのである。

 そして、マッカーサーと昭和天皇との間に「初めに敬愛ありき」とでもいうべき鋳型が出来たことにより、実は戦後の多数の日本人の命が救われたともいえるのである。その点については、当時の農林大臣であった松村謙三氏の『三代回顧録』に詳しく書き留められている。ここではその要点のみを記しておく。

 終戦直後の日本は食糧事情の悪化に直面しており、昭和二十年十二月頃、天皇は松村氏に対して、「多数の餓死者を出すようなことはどうしても自分にはたえがたい」と述べられ、皇室の御物の目録を氏に渡され、「これを代償としてアメリカに渡し、食糧にかえて国民の飢餓を一日でもしのぐようにしたい」と伝えられた。

 そこで当時の幣原首相がマッカーサーを訪ね、御物の目録を差し出すと、非常に感動したマッカーサーは、「自分が現在の任務についている以上は、断じて日本の国民の中に餓死者を出すようなことはさせぬ。かならず食糧を本国から移入する方法を講ずる」と請け合ったという。

 松村氏は記している。「これまで責任者の私はもちろん、総理大臣、外務大臣がお百度を踏んで、文字どおり一生懸命に懇請したが、けっして承諾の色を見せなかったのに、陛下の国民を思うお心持ち打たれて、即刻、絶対に餓死者を出さぬから、陛下も御安心されるように……≠ニいうのだ。……それからはどんどんアメリカ本国からの食糧が移入され、日本の食糧危機はようやく解除されたのであった」と。

 これは、やはり「捨て身」のご精神によって敵将を心服せしめた昭和天皇の御聖徳の賜物というしかない。(日本政策研究センター研究員 小坂実)

 〈『明日への選択』平成17年7月号〉













(私論.私見)