1945年3、敗戦まで 終戦への動き(天皇聖断への流れ)

 更新日/2017(平成29).4.25日 「玄峰老師の活躍」

 (参考文献)
「Household Industries」の日本占領期年表 石川寛仁
「戦後占領史」 竹前栄治 岩波書店
「昭和の歴史8」 神田文人 小学館
「昭和天皇の終戦史」 吉田裕 岩波新書 1992.12.21
 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「終戦への動き(天皇聖断への流れ)」を確認する。

 2002.10.20日 れんだいこ拝


 敗戦必至の形成になってから、終戦工作が目立たぬように進行していった。その流れを追跡して見たい。
 1.25日、近衛文麿、岡田啓介、米内光政、京都の仁和寺の問跡岡本慈航らが会合、敗戦後の処理を協議している。この場で、天皇の退位と出家が話し合われ、「天皇を法皇とさせ、問跡として仁和寺にお住みいただく」計画が練られたと伝えられている。
 2月、この頃、平沼騏一郎、広田弘毅、近衛文麿、若槻礼次郎、牧野伸顕、岡田啓介、東条英機らの重臣が各々天皇に拝謁して、戦局に対する見通しを上奏している。この時、明確な政治的方向性をもって天皇に上奏したのは近衛一人であった。
【「近衛上奏文」】
 2.14日、近衛は天皇に以下のごとく奏上した。この時の近衛の上奏文は次の通り。
 「敗戦は遺憾ながら最早必死なりと存じ候−−−−敗戦は我が国体の瑕きんたるべきも、英米の与論は今までのところ、国体の変更とまでは進みおらず、随って、敗戦だけならば、国体上さまで憂うる要なしと存じ候。国体護持の立前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に候」。
 「翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件具備せられゆく観有之候、すなはち生活の窮乏、労働者発言度の増大、英米に対する敵愾心の昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、これに便乗する新官僚の運動、およびこれを背後より操りつゝある左翼分子の暗躍に御座候」。
 「昨今戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声、次第に勢いを加えつつありと存じ候。かかる主張をなす者は、いわゆる右翼者風なるも、背後よりこれを扇動しつつあるは、これによりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達っせんとする共産分子なりと睨みおり候」
 「軍隊内一味の者の革新論の狙いは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取り巻く一部官僚および民間有志は(これを右翼といふも可、左翼といふも可なり、いわゆる右翼は国体の衣を着けた共産主義者なり)意識的に共産革命まで引きずらんとする意図を包蔵しおり、無知単純なる軍人これに踊らされたりと見て大過なしと存候」。

 という、共産分子の策動と共産革命への危機感が縷々述べられていた。つまり、天皇の「聖断」の背景理由として、「当時の支配者は敗戦に伴う共産革命の危機を恐れていた」ということが存在していたということが踏まえられねばならないことになる。この危機が如何に推移していくことになるかが戦後史の一つのベクトルとなる。

 近衛のこの上奏に対し天皇は、「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と述べられており、戦局の挽回に一縷の望みを繋いでいたことが分かる。こうして、近衛提案は形の上では却下されることとなった。
(私論.私観) 共産革命危機説について
 ところで、「近衛文麿上奏文」による「共産革命の危機」はどの程度現実味があったのであろうか。私は、その後の推移から見て、一種のマヌーバーではないかと受け止めている。まったく根拠がないというわけではないが、今日でも支配当局が自己撞着的な窮地に陥った場合にその方針を転回させる際の常用策として容易に利用されている「共産党を利する、共産主義者を台頭せしめる」という言い回しの一つであって、単に格好の大義名分的な警句でしかないのではなかろうか、と穿つ。従って、実際に充分な根拠があったとはみなせず、又その言い回しでもって、あたかも革命の情勢が到来していたと左翼が我田引水するのは当たらないように思われる。

【「近衛上奏文」】
 「近衛上奏文」が「戦争責任論」にサイトアップされていたので転載しておく。(読み易くする為、れんだいこ文法に則り編集替えする)
 敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存じ候。以下この前提の下に申し述べ候。

  敗戦は我が国体の一大瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までのところ国体の変更とまでは進み居らず(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)。随って敗戦だけならば、国体上はさまで憂ふる要なしと存じ候。

 国体護持の立前より最も憂ふべきは、敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に候。つらつら思うに、我が国内外の状勢は、今や共産革命に向かって急速度に進行しつつありと存じ候。即ち国外に於てはソ連の異常なる進出に御座候。我が国民はソ連の意図を的確に把握しおらず、かの1935年人民戦線戦術、即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相安易なる見方と存じ候。

 ソ連が、窮極に於て世界赤化政策を捨てざることは、最近欧州諸国に対する露骨なる策動により、明瞭となりつつある次第に御座候。ソ連は欧州に於て、その周辺諸国にはソヴィエット的政権を、爾余の諸国には少くも親ソ容共政権を樹立せんとて、着々その工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之候。

 ユーゴーのチトー政権は、その最典型的なる具体表現に御座候。波蘭(ポーランド)に対しては、予めソ連内に準備せるポーランド愛国者聯盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切り候。羅馬尼(ルーマニア)、勃牙利(ブルガリア)、芬欄(フィンランド)に対する休戦条約を見るに、内政不干渉の原則に立ちつつも、ヒットラー支持団体の解散を要求し、実際上ソヴィエット政権に非ざれば存在し得ざる如く強要致し候。イランに対しては石油利権の要求に応ぜざるの故を以って、内閣総辞職を強要いたし候。瑞西(スイス)がソ連との国交開始を提議せるに対し、ソ連はスイス政府を以って親枢軸的なりとて一蹴し、之が為外相の辞職を余儀なくせしめ候。

 米英占領下の仏蘭西(フランス)、白耳義(ベルギー)、和蘭(オランダ)に於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と政府との間に深刻なる闘争続けられ、これら諸国は何れも政治的危機に見舞はれつつあり。而してこれら武装団を指導しつつあるものは、主として共産系に御座候。独乙(ドイツ)に対してはポーランドに於けると同じく、已に準備せる自由独乙委員会を中心に新政権を樹立せんとする意図あるべく、これは英米に取り、今は頭痛の種なりと存ぜられ候。

 ソ連は、かくの如く、欧州諸国に対し、表面は内政不干渉の立場を取るも、事実に於ては極度の内政干渉をなし、国内政治を親ソ的方向に引きずらんと致しおり候。ソ連のこの意図は、東亜に対しても亦同様にして、現に延安にはモスコウより来れる岡野を中心に、日本解放聯盟組織せられ、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連携、日本に呼びかけおり候。

 かくの如き形勢より推して考ふるに、ソ連はやがて日本の内政にも干渉し来る危険十分ありと存ぜられ候(即ち共産党公認、共産主義者入閣・・・ドゴール政府、バドリオ政府に要求せし如く・・・治安維持法及び防共協定の廃止等々)。

 翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられ行く観有之候。即ち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、これに便乗する所謂新官僚の運動及び之を背後より操る左翼分子の暗躍等々に御座候。右の内特に憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に有之候。少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じおるものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存じ候。皇族方の中にもこの主張に耳傾けらるる方ありと仄聞いたし候。

 職業軍人の大部分は、中以下の家庭出身者にして、その多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり、只彼らは軍隊教育に於て、国体観念丈は徹底的に叩き込まれ居るを以って、共産分子は国体と共産主義の両立論を以って彼らを引きずらんとしつつあるものに御座候。

 そもそも満州事変、支那事変を起こし、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来たれるは、これら軍部一味の意識的計画なりし事今や明瞭なりと存じ候。満州事変当時、彼らが事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。支那事変当時も、「事変は永引くがよろし、事変解決せば国内革新は出来なくなる」と公言せしは、この一味の中心人物に御座候。これら軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵しおり、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存じ候。

 このことは過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亙り交友を有せし不肖が、最近静かに反省して到達したる結論にして、この結論の鏡にかけて過去十年間の動きを照し見るとき、そこに思い当たる節々頗る多きを感ずる次第に御座候。不肖はこの間二度まで組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんが為、できるだけこれら革新論者の主張を採り入れて、挙国一体の実を挙げんと焦慮せる結果、彼らの主張の背後に潜める意図を十分看取する能はざりしは、全く不明の致す所にして、何とも申訳無之、深く責任を感ずる次第に御座候。

 昨今戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加えつつありと存じ候。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。一方に於て徹底的英米撃滅を唱ふる反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座候。軍部の一部には、いかなる犠牲を払ひてもソ連と手を握るべしとさへ論ずる者あり、又延安との提携を考へ居る者もありとの事に御座候。

 以上の如く国の内外を通じ共産革命に進むべきあらゆる好条件が、日一日と成長致しつつあり、今後戦局益々不利ともならば、この形勢は急速に進展可致と存じ候。

 戦局の前途に付き、何らか一縷でも打開の望みありと云ふならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争を之以上継続する事は、全く共産党の手に乗るものと存じ候。随って国体護持の立場よりすれば、一日も速かに戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。

 戦争終結に対する最大の障害は、満州事変以来、今日の事態にまで時局を推進し来りし軍部内のかの一味の存在なりと存じ候。彼らは已に戦争遂行の自信を失い居るも、今迄の面目上、あくまで抵抗可致者と存ぜられ候。もしこの一味を一掃せずして、早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼、左翼の民間有志この一味と饗応して、国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成致し難き恐れ有之候。従って戦争を終結せんとすれば、先づその前提として、この一味の一掃が肝要に御座候。この一味さへ一掃せらるれば、便乗の官僚並びに右翼、左翼の民間分子も声を潜むべく候。蓋し彼らは未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとするものに外ならざるが故に、その本を絶てば枝葉は自ら枯るるものと存じ候。

 尚これは少々希望的観測かは知れず候へども、もしこれら一味が一掃せらるる時は、軍部の相貌は一変し、英米及び重慶の空気或は緩和するに非ざるか。元来英米及び重慶の目標は日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変わり、その政策が改まらば、彼らとしても戦争継続に付き考慮する様になりはせずやと思われ候。それは兎も角として、この一味を一掃し、軍部の建て直しを実行する事は、共産革命より日本を救ふ前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく奉存じ候。

 4月、終戦工作を密かに進めていた吉田茂が憲兵に捕まり、投獄された。
 5.7日(〜8日)、ドイツ軍が無条件降伏した。
 5. 9日、日本政府、ドイツ降伏後も日本の戦争遂行決意は不変である旨の声明を出す。
 5.28日、第三回モスクワ会談。この会談で、ソ連の8.8日までの参戦が明らかにされた。
 5.30日、重臣会議。米内海相が突然、講話問題について発言した。会議終了後、東条陸軍大将は、陸軍省に出向き、「海軍大臣及び東郷外務大臣の話を聞くと、我が国は今にも降伏しそうだが、今こそ陸軍はしっかりしないと困る」と阿南陸軍大臣を叱責している。
 6.8日、天皇臨席の最高戦争指導会議が宮内庁で開かれ、「今後採るべき戦争指導の基本大綱」を定め、「すみやかに皇土(日本本土)の戦場態勢を強化し、皇軍の主戦力をこれに集中する」と決定し、「本土決戦」の方針を打ち出す。
 6.22日、天皇臨席の最高戦争指導会議で、天皇が終戦を目標とする「時局収拾」方策の具体化を次のように指示した。

 「戦争の終結に就きてもこの際従来の観念に囚われることなく、速やかに具体的研究を遂げ、之が実現に努力せしむことを望む」。

 これを受けて対日戦に参加していないソ連を仲介にして和平交渉を開始することが決定された。

 (解説)
 この対ソ交渉のための特使に近衛が選ばれ、この時ブレーンと共に作成された「和平交渉の要綱」は、和平交渉の基本方針として、概要「国体の護持=天皇制の維持を絶対条件とするも、最悪の場合御譲位も止む無し」、領土は「固有本土をもって満足とす」、「民本政治」への復帰のため「若干法規の改正、教育の刷新」、「最小限度の軍備の保持が認められない場合は、一時完全なる武装解除に同意する」などを骨子としていた。但し、天皇の合意を取り付けていたのかどうかはっきりしない。

 6.23日、沖縄本島の日本守備隊が全滅。
 7月、本土空襲がますます激しくなった。
【日米秘密和平工作】
 2002.3.17日付け山陽新聞は次のような記事を載せている。7.4日から8月初旬まで約1ヶ月以上、スイスで「日米秘密和平工作」交渉が為されていた。ペール・ヤコブソン国際決済銀行(BIS)経済顧問の仲介で、米側責任者・アレン・ダラス戦略事務局(OSS)欧州支局長と日本側・横浜正金銀行の北村孝次郎BIS理事、吉村BIS為替部長の間で続けられた。会談の眼目は、終戦に応ずるに当たって「天皇制と明治憲法の維持」の確約を求める日本側の提案を廻ってであった。ダレス氏は、「ヤコブソン工作を、現段階で最も重要な案件」と位置付け、7.15日のヤコブソン氏との第一回目の正式会談の時に「危険を冒すことが最も安全な方策だ」として、事実上天皇制の維持を容認するメッセージを送っていた。

 秦郁彦・日大教授は次のようにコメントしている。「危険を冒せ」とは、降伏交渉で最大の問題だった天皇制の維持について、非公式な形で「日本側の希望に沿うよう、好意的に努める」とのニュアンスを伝えたものだろう。ダレス氏が当時どれだけの権限を、トルーマン大統領から与えられていたのかは疑問が残るが、終戦工作の全容を知る上で非常に興味深い資料だ、以上。してみれば、「ダレス氏の示唆を受けて迅速な対応をすれば、原爆投下も含めて終戦前後の展開が大きく変わっていた可能性が有る」ことになる。

 ダレス氏は、ポツダム会談開催中の7.23日にヤコブソン氏との第二回目の正式会談を行い、@・和平工作はヤコブソンルートに限定すべきだ、A・これ以上の戦死者を防ぐ為に、工作を進めなければならない、と語り、強い意欲を見せていた。しかし、日本側の対応が弱く、スイスに政府代表を送るかどうかなどでもたつき、結局8月に入って原爆投下、ソ連参戦を迎えることになった。

 終戦直後、ダレス氏は、ヤコブソン氏に書簡を送付、これを見るに、「交渉が、日本の最新情勢を判断するに当たり有益だった」として、米国が日本の降伏条件を判断する際に役立ったことを指摘している。

【ポツダム会談1】
 7.7日、トルーマンが、チャーチル.スターリンとの東ベルリンの郊外のポツダムでの会談に向かう。チャーチル.スターリン.トルーマンが東ベルリンの郊外のポツダムで会談。

 7.16日、会談前日のこの日、米アラモゴードで原爆実験成功。トルーマンは、原爆実験成功の一報を受け、チャーチル、スターリンとの米英ソ3巨頭会談の状況が一変する。
【ポツダム会談2】
 7.17日(〜26日)、ベルリン近郊のポツダムで会談が開かれた。米国は、トルーマン大統領、バーンズ国務長官。バーンズ国務長官は、大統領補佐として参加。外交経験のなかったトルーマンのアドバイザーとなった。トルーマン大統領、チャーチル首相、蒋介石総統が対ドイツ問題の処理、ヨーロッパの戦後秩序、日本に対する降伏勧告について協議した。

 米国声明案は、米政府のスチムソン陸軍長官、フォケスタル海軍長官、グルー国務長官代理からなる3人委員会が作り上げ、7.2日までにトルーマン提出していた。そこには、概要「戦後日本の国家体制が再び侵略略戦争を起こす危険性がなくなれば、現皇室の下における立憲君主制も認める」と明記していた。だが、マクリーシュ国務次官補らは、概要「米国が封建制度の維持に手を貸す必要がない。ドイツに対する降伏政策と整合させるためには無条件降伏でなければならない」と強硬に反対した。声明案は、天皇制容認のくだりを残したまま最終判断をポツダムでの調整に委ねていた。結果的にバーンズの判断で、「現皇室の下における立憲君主制を認める」部分を削除した。

 米英中3国の共同宣言としてポツダム宣言発表。ソ連は対日参戦と共に参加する。「連合国によって降伏の条件と戦後の対日政策の基本が定められ、米.英.ソ連.中国の4カ国が署名したポツダム宣言が発せられた」ともある。

 東郷外相は、「無条件降伏を求めたものではない」として受諾を主張した。陸海軍から見れば想像を越えた苛酷な条件であり反発した。7.28日、鈴木首相は、記者会見で、「日本政府としては何ら重大な価値あるものとは思わない。ただ黙殺して戦争に邁進するのみである」との談話を発表した。 
7.10日  最高戦争指導会議が、近衛文麿のソ連派遣を決定し、ソ連に申し入れたが、7.18日拒否され、この目論みも潰えることになった。
7.16日  米、ニューメキシコで世界最初のプルトニウム型原爆の実験成功。     
7.17日  (〜8.2日)ポツダム会談が開かれる。
7.26日  トルーマン大統領は、サイパン島の戦略航空隊司令官・カール・スパーツ将軍に原爆投下命令を下す。概要「小倉、広島、新潟、広島の4都市ならどこでも良い。8.3日以降の天候が目視爆撃を可能とする日に行え」と指示されていた。

【ポツダム宣言】
 7.26日、米英中3国の共同宣言としてポツダム宣言発表。ソ連には通告されなかった。日本に無条件降伏を呼びかける。ソ連は対日参戦と共に参加する。

 原文

 Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender
 Issued, at Potsdam, July 26, 1945

1.We-the President of the United States, the President of the National Government of the Republic of China, and the Prime Minister of Great Britain, representing the hundreds of millions of our countrymen, have conferred and agree that Japan shall be given an opportunity to end this war.

2.The prodigious land, sea and air forces of the United States, the British Empire and of China, many times reinforced by their armies and air fleets from the west, are poised to strike the final blows upon Japan. This military power is sustained and inspired by the determination of all the Allied Nations to prosecute the war against Japan until she ceases to resist.

3.The result of the futile and senseless German resistance to the might of the aroused free peoples of the world stands forth in awful clarity as an example to the people of Japan. The might that now converges on Japan is immeasurably greater than that which, when applied to the resisting Nazis, necessarily laid waste to the lands, the industry and the method of life of the whole German people. The full application of our military power, backed by our resolve, will mean the inevitable and complete destruction of the Japanese armed forces and just as inevitably the utter devastation of the Japanese homeland.

4.The time has come for Japan to decide whether she will continue to be controlled by those self-willed militaristic advisers whose unintelligent calculations have brought the Empire of Japan to the threshold of annihilation, or whether she will follow the path of reason.

5.Following are our terms. We will not deviate from them. There are no alternatives. We shall brook no delay.

6.There must be eliminated for all time the authority and influence of those who have deceived and misled the people of Japan into embarking on world conquest, for we insist that a new order of peace, security and justice will be impossible until irresponsible militarism is driven from the world.

7.Until such a new order is established and until there is convincing proof that Japan's war-making power is destroyed, points in Japanese territory to be designated by the Allies shall be occupied to secure the achievement of the basic objectives we are here setting forth.

8.The terms of the Cairo Declaration shall be carried out and Japanese sovereignty shall be limited to the islands of Honshu, Hokkaido, Kyushu, Shikoku and such minor islands as we determine.

9.The Japanese military forces, after being completely disarmed, shall be permitted to return to their homes with the opportunity to lead peaceful and productive lives.

10.We do not intend that the Japanese shall be enslaved as a race or destroyed as a nation, but stern justice shall be meted out to all war criminals, including those who have visited cruelties upon our prisoners. The Japanese Government shall remove all obstacles to the revival and strengthening of democratic tendencies among the Japanese people. Freedom of speech, of religion, and of thought, as well as respect for the fundamental human rights shall be established.

11.Japan shall be permitted to maintain such industries as will sustain her economy and permit the exaction of just reparations in kind, but not those which would enable her to re-arm for war. To this end, access to, as distinguished from control of, raw materials shall be permitted. Eventual Japanese participation in world trade relations shall be permitted.

12.The occupying forces of the Allies shall be withdrawn from Japan as soon as these objectives have been accomplished and there has been established in accordance with the freely expressed will of the Japanese people a peacefully inclined and responsible government.

13.We call upon the government of Japan to proclaim now the unconditional surrender of all Japanese armed forces, and to provide proper and adequate assurances of their good faith in such action. The alternative for Japan is prompt and utter destruction.

 (出典:国立国会図書館>Birth of the Construction ofJapan>The Constitution and Other Documents

 ポツダム宣言

 千九百四十五年七月二十六日 米、英、支三国宣言 (千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ)

 一、吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及「グレート・ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ。

 二、合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自国ノ陸軍及空軍ニ依ル数倍ノ増強ヲ受ケ日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本国カ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ一切ノ連合国ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ。

 三、蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本国国民ニ対スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ現在日本国ニ対シ集結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」ニ対シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」国人民ノ土地、産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタル力ニ比シ測リ知レサル程更ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本国軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スヘク又同様必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破壊ヲ意味スヘシ。

 四、無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ日本国カ引続キ統御セラルヘキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国カ履ムヘキカヲ日本国カ決意スヘキ時期ハ到来セリ 。

 五、吾等ノ条件ハ左ノ如シ。吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルヘシ右ニ代ル条件存在セス吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ス 。

 六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス。

 七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ。

 八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ 。

 九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ 。

 十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ。

 十一、日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルカ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルヘシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルカ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラス右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許可サルヘシ日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルヘシ。

 十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ。

 十三、吾等ハ日本国政府カ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス。

 (出典:外務省編『日本外交年表並主要文書』下巻 1966年刊)

 現代語訳

 日本の降伏のための定義および規約 1945年7月26日、ポツダムにおける宣言

 1.我々(合衆国大統領、中華民国政府主席、及び英国総理大臣)は、我々の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し戦争を終結する機会を与えることで一致した。

 2.3ヶ国の軍隊は増強を受け、日本に最後の打撃を加える用意を既に整えた。この軍事力は、日本国の抵抗が止まるまで、同国に対する戦争を遂行する一切の連合国の決意により支持され且つ鼓舞される。

 3.世界の自由な人民に支持されたこの軍事力行使は、ナチス・ドイツに対して適用された場合にドイツとドイツ軍に完全に破壊をもたらしたことが示すように、日本と日本軍が完全に壊滅することを意味する。

 4.日本が、無分別な打算により自国を滅亡の淵に追い詰めた軍国主義者の指導を引き続き受けるか、それとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。

 5.我々の条件は以下の条文で示すとおりであり、これについては譲歩せず、我々がここから外れることも又ない。執行の遅れは認めない。

 6.日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れ得ないからである。

 7.第6条の新秩序が確立され、戦争能力が失われたことが確認される時までは、我々の指示する基本的目的の達成を確保するため、日本国領域内の諸地点は占領されるべきものとする。

 8.カイロ宣言の条項は履行されるべきであり、又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られなければならない。

 9.日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る機会を与えられる。

 10.我々の意志は日本人を民族として奴隷化しまた日本国民を滅亡させようとするものではないが、日本における捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されるべきである。日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきであり、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである。

 11.日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段、戦争と再軍備に関わらないものが保有出来る。また将来的には国際貿易に復帰が許可される。

 12.日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤退するべきである。

 13.我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅があるのみである。


 ポツダム宣言の内容を見るのに、連合国軍による保障占領、侵略した領土(植民地、占領地()の放棄、天皇制の専制支配の除去、軍の武装解除、戦争犯罪人の処罰、軍国主義勢力の除去、国民の間の民主的傾向の復活・強化、平和的民主的な日本の建設などの要求が突きつけられていた。この時、天皇制の取り扱いに対して、知日派は「天皇制の存続を保障することが日本の早期降伏につながる」として存続を主張し、対日強硬派がこれに反対した為、戦後の日本の政体に関する宣言の表現は抽象的になっていた。12項「日本国民の自由に表明する意思に従って平和的傾向を有し責任ある政府が樹立された場合は、連合国の占領軍は直ちに日本から撤退されなければならない」。

 ポツダム宣言によって日本の降伏が呼びかけられた。日本政府は「黙殺」した。大本営参謀本部は、戦争継続による徹底抗戦−玉砕の道(本土決戦派と呼ばれた)か無条件降伏(和平派と呼ばれた)かの二股の道のいずれに針路を取るべきか最後の決断が迫られることになった。日帝支配層にとって「国体(天皇制)護持」こそが死守すべき望みであったが、「ポツダム宣言」は天皇制の専制支配の除去を明確にしており、隠密の外交交渉によってもその確約は得られず困惑を深めていった。 受諾条件を廻って政府内で対立が発生し、最終的に天皇の聖断を仰いでいくことになる。

 こうした緊迫した情勢の中で、政府の内部の足並みが乱れた。ポツダム宣言受諾派(東郷茂徳外相、米内光政海相、鈴木貫太郎首相)が木戸右大臣と連携しながら軍部の強硬派と対立した。この動きに、近衛、重光葵、高松宮宣仁のぶひと(昭和天皇の二番目の弟)、一部の官僚グループが列なった。

 これに対抗したのが徹底抗戦派(阿南惟畿あなみこれちか陸相、梅津美治郎よしじろう参謀総長、豊田副武そえむ軍令部総長)で、@・国体護持、A・軍隊の武装解除は日本側が自主的に行う、B・戦争犯罪人の処罰は日本側で行う、C・保障占領は行わないの4条件を主張した。
 7.27日、東郷茂徳外相が、ポツダム宣言について内奏した。
 7.28日、鈴木首相は、内閣記者団との会見で、「この宣言は重視する要なきものと思う」と発言した。「鈴木貫太郎自伝」は、次のように記している。
 「この一言は後々に至るまで、余の誠に遺憾と思う点であり、この一言を余に無理強いに答弁させたところに、当時の軍部の極端なところの抗戦意識が、いかに冷静な判断を欠いていたかが分かるのである」。
 「ところで余の談話はたちまち外国に報道され、我が方の宣言拒絶を外字紙は大々的に取り扱ったのである。そして、このことはまた後日ソ連をして参戦せしめる絶好の理由を作ったのであった」。

 8月、この頃にまとめられた内務省警保局の内部文書は次のように記述されている。
 概要「国民の間の『不敬言動』を質的に検討するに、その言動の内容及び動機において著しき悪化の傾向が窺われる」として、天皇に対する『不敬言動』の内容を次のように類別していた。@・敗戦必至を前提として、陛下の御将来に不吉なる憶測を為す者、A・敗戦後、戦争の責任は当然、陛下が負い奉るべきものなりと為す者、B・戦争悪化の責任を畏くも陛下の無能力にありと為し奉る者、C・戦争の惨禍を国民に与えたるものは陛下なりとして、これを呪詛し奉る者、D・陛下は戦争圏外に遊情安逸の生活を為しおるとして、これを怨嗟し奉る者。(「日本終戦史・上」、「昭和天皇の終戦史より引用」)。

 宮中も、こうした治安情勢の悪化を酸く実に把握していた。この時期の「木戸幸一日記」を見ると、内大臣の木戸が内務省の警保局長や警視総監といった治安関係の責任者と頻繁に接触していたことが分かる。また、「日本憲兵正史」によれば、太平洋戦争の開戦後、内大臣と憲兵司令官との間には極秘の連絡ルートが設定され、内大臣は直接憲兵司令官を通じて各種の情報を収集していたと伝えられている。
【広島に原爆投下】
 8.6日午前8時15分、広島に原爆投下される。原爆を搭載したB29「エノラ・ゲイ号」は、グアム島の戦略爆撃司令部から「午前8時から9時にかけて、目標とする都市の上空で原爆を投下せよ」との命令を受け、マリアナ諸島テニアン島から飛び立った。広島に侵入し、「リトル・ボーイ」が投下された。

【ソ連が対日参戦布告で参戦】
 8.8日、ソ連が対日参戦布告し、翌日、参戦、赤軍が満州に侵攻した。モンゴル南東部国境から沿海州地方、樺太国境に至る全戦線で一斉に攻撃を開始し、越境を始めた。8.9日朝、主力が満州(現中国北東部)内部に侵攻を始めた。150万のソ連軍に対し、士気を阻喪せしめられた関東軍は各所で敗退を重ね、満州国は一気に崩壊した。

 日ソ中立条約は役に立たなかった。裕仁天皇は、木戸幸一内大臣に謁見し、「本日よりソ連と交戦状態に入った。戦局の収集につき急速に研究、決定の必要があると思う。首相と十分に懇談して欲しい」旨申し渡した。

 急遽「最高戦争指導者会議」が開かれ、鈴木首相、東郷茂徳外相、阿南惟幾陸相、米内光政海相、梅津美次郎陸軍参謀総長、豊田副武海軍軍令部総長で、ポツダム宣言受諾を前提として、どのような条件をつけるかを論議した。条件に挙げられたのは、@・国体の護持、A・自社的な撤兵、B・日本による戦争責任者の処理、C・保障占領をしないことの四点であった。ポツダム宣言受諾派と条件付受諾派と徹底抗戦論調が交叉し、容易に結論が得られなかった。論議はまとまらず白熱しているうちにも長崎への原爆投下の報が伝えられ、何ら結論を出せぬまま会議は中止となった。

【長崎に原爆投下】
 8.9日午前11時1分、長崎に原子爆弾が投下された。原子爆弾の威力は凄まじく民族抹殺の危機を募らせた。こうして大日本帝国は「進むも地獄、引くも地獄の」体制危機に陥った。

【御前会議で小田原評定】
 8.9日午後11時50分、御前会議が開かれ、先のメンバーのほか平沼騏一郎枢密院議長が列席を許され会議が始まった。東郷茂徳外相、米内光政海相、平沼騏一郎枢密院議長が国体維持だけを条件にポツダム宣言受諾を主張した。阿南惟幾陸相、梅津美次郎陸軍参謀総長、豊田副武海軍軍令部総長が四条件の固守を主張し、議論は3対3に分かれ決しなかった。

 鈴木首相は、陛下の御前に進み出て、次のように述べた。
 「 議を尽くすこと、既に数時間に及びまするが議決せず、しかも事態はもはや一刻の遷延(せんえん)をも許しませぬ。まことに畏れ多いことながら、この際は聖断を拝して会議の結論と致したく存じます」。

 昭和天皇は、首相を席に就かせてから次のように宣べた。
 「このような状態で本土決戦へ突入したらどうなるか。私は非常に心配である。あるいは、日本民族はみんな死んでしまわねばならなくなるのではなかろうかと思う。そうなったら、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることが出来るのか。私の任務は、祖先から受け継いだこの日本という国を子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本国民に生き残ってもらい、その人たちに将来再び起ち上がってもらうほかにこの日本を子孫に伝える方法はないと思う」。

 8.10日、トルーマン大統領は次のように声明している。「我々は、予告もなしにパール・ハーバーで我々を攻撃した者達に対し、また、米国人捕虜を餓死させ、殴打し、処刑した者達や、戦争に関する国際法規に従うりをする態度すらもかなぐり捨てた者達に対して、原爆を使用したのである。我々は、戦争の苦悶を早く終わらせるために、何千何万もの米国青年の生命を救う為にそれを使用したのである」。
 8.10日、日本政府は、中立国スイスを通じ、原爆投下や東京大空襲のような無差別都市爆撃は国際法違反であるとする抗議文を送った。
【御前会議でポツダム宣言受諾を決定】
 8.10日、御前会議で「国体護持」条件にポツダム宣言受諾を決定。政府は、「天皇の国家統治の大権を変更することがない」という条件付与付で連合国側に通報した。

 2002.8.16日付け朝日新聞は、「中国の北京青年報は15日付で、元新華社記者(89)の話として、中国共産党の毛沢東主席は、日本で降伏が正式に発表される5日前の45年8月10日に日本の降伏を知ったという事実を紹介した」と記事にしている。「日本の敗戦当時、呉氏は中国共産党の本拠地、陜西省延安に通信機を持ち込み、世界中の通信社の情報を集めていた。10日午後9時すぎ、ロイター通信の電文用紙に『flash(特急電)』とあり、『日本降伏』とだけ記載されていた。呉氏は党本部に電話して直接毛主席へ取り次いでもらい、本人に伝えた。『よかった。引き続き何かあったらまた私たちに知らせなさい』と毛主席は答えたという。10日は日本で天皇臨席の御前会議が開かれ、ポツダム宣言受諾を決めた日」。

 8.12日、連合国側から回答がもたらされた。6か条の返書となっており、「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす」となっていた。「制限の下に置かるる」は、外務省の意図的な配慮訳で原文には従属を意味するsubjectとあった。平沼枢密院議長も、「これでは国体は維持できない」と宣言受諾反対を進言した。徹底抗戦派はこの回答文の受諾に反対した。
 8.13日、御前会議とそれに続く閣議が開かれ、受諾慎重論が台頭し、紛糾。

【天皇の御聖断】
 8.14日最後の御前会議が開かれ、ポツダム宣言の受諾を最終的に決定、「御聖断」した。この決定は直ちに連合国に通告された。

 場所は宮中の防空壕の中であった。まず東郷外相が宣言受諾やむなしを述べた。これに対し、阿南陸相が本土決戦を呼号して次のように述べた。
 「今降伏することは、満州を始め日本と共に戦った大東亜諸国に申し訳ありません。最後まで戦うことにより、日本の道義と勇気は永遠に残るのであります」。
 「ソ連は不信の国であり、アメリカは非人道な国であります。このような国に対して自主的保証なくして我が皇室を敵の手に渡して、しかも国体を護持し得るとは考えることができません」。

反対した。米内海相は東郷外相説に賛成。平沼枢密院相は40分近く詮議した後外相説に賛成。梅津参謀総長.豊田軍令部総長は陸相説に賛成した。

 こうして抗戦派と和平派の比率は3対3、御前会議は紛糾した。鈴木首相は自己の意見を述べぬまま次のように諮った。
 「かくなる上は、甚だ畏れ多いことでありますが、これより私が御前に出て思し召しをお伺いし、聖断を拝して会議の結論と致したく存じます」、。

 こうして最後の決が天皇によってしか決められない事態となった。天皇は次のように宣べられた。
 概要「自分は外務大臣の意見に賛成する。自分の意見は、9日の会議の時と少しも変わらない。我が問い合わせに対する先方の回答は、あれでよろしいと思う」。
 「自分の戦争終結に対する決心は、世界の大勢と、わが国力判断によっている。自分自らの熟慮検討の結果である」。
 概要「念のためにその理由を言っておく。従来、勝利獲得の自信ありと聞いているが、今まで計画と実行が一致しないことが多過ぎる。陸軍大臣の云うところによれば、九十九里浜の築城が8月中旬に出来上がるとのことであったが、まだ出来ていない。又新設師団が出来ても、渡すべき兵器が整っていないとのことである。これでは、あの機械力を誇る米英軍に対して勝算の見込みはないと思う。このような状態で本土決戦に突入したならば、この日本はどうなるか、あるいは日本民族は皆死んでしまわなければなるまい。こうにれば、皇祖皇室から受け継いできた日本という国を子孫に伝えることができなくなる」。
 概要「このような状態に於いて戦争を終結することについては、さぞ、皇軍将兵、戦没者その遺家族、戦災者らの心中はいかがであろうと思えば、胸奥の張り裂ける心地がする。しかも時運の赴くところいかんともし難い。よって、我らは耐え難きを耐え忍び難きを忍びーーー(以下、嗚咽)大局上、明治天皇の三国干渉の際のご決断の例にならい、人民を破局より救い、世界人類の為に、この戦争を止める決心をした。自分の事は、どうなっても構わない」。
 
 かく述べ、「進むも地獄、引くも地獄の」体制危機に際して、「引く地獄」=無条件降伏の道の方のカードを「聖断」することとなった。
(私論.私観) 天皇の聖断について
 今日から思えば、天皇の判断は大英断であったとされている。もし、この聖断がなかりせば、米軍の焦土作戦が展開され、本土上陸が為されていたであろう。そうすれば国土は焼け野原になり、戦後復興に重大な支障を与えたに相違ない。ベルリンの二の舞であり、連合国軍による分割占領統治が敷かれたことが予想される。つまり、収拾すべからざる情勢のみが待ち受けていたことになる。この考察は興味あるところであるが割愛する。

【「終戦の詔書」】
 8.14日午後8時30分、鈴木首相は、昭和天皇に拝謁して、「終戦の詔書」案を説明し、裁可を得た。原案は、迫水内閣書記官長が、漢学者の安岡正篤(まさひろ)、川田瑞穂(みずほ)の手を借り、三日かけて草稿が練り上げられた。戦争終結の大英断の背景には「近衛文麿上奏文」の影響もあったと思われる。「終戦の詔勅、その他詔勅」で別稿で検証する。

 明治の政府と重臣達は、戦争しつつ引き際を考えていた節があるのに比して、天皇と最も近い立場にいた木戸内府は、「衆知を集めて熟慮すれども断行せず」。そうこうするうちにもこの間吉田一派の和平工作が進行していた。
 8.14日、鈴木貫太郎内閣は、降伏決定の手続き終了後、戦後対策委員会を内閣に設置し、「軍需用保管物資の緊急処分」を指示した。
 8.15日、マッカーサー(当時65歳)が連合国軍最高司令官に任命される。
 国体の護持と天皇制の存続の両面確保。近衛の「国体の否認ということと、陛下の御責任ということとは、必ずしも同一事項ではないと思う」(「高木海軍少将覚書」)。戦争犯罪人の処罰に対する危惧。 
【関東軍の動き】
 玉音放送を聞いた関東軍総司令部では、抗戦を廻って激論となった。翌8.16日、秦彦三参謀長が「我ら軍人は天皇陛下の勅令に従う以外に忠節の道はない。これに従わない者は永久に乱臣賊子だ」と叱責し、徹底抗戦派もこれに屈した。次いで、山田総司令官が「聖旨を奉戴し、終戦に全力を尽すのみ」との最終判断を下した。

 8.17日、関東軍は、ソ連側に対し、山田総司令官名義で軍事行動の即時停止と武器の引渡しを関東軍全部隊に命令したことを伝えた。しかし、ソ連側は、「天皇の15日の布告は一般的な宣言に過ぎず、軍隊に対する戦闘停止命令を明確に発布していない。実際、日本軍はまだ降伏せずに抵抗を続けている。それゆえ、天皇が軍隊に降伏命令を出し、それが確実に実行されるまで、我が軍が攻撃を止めることはない」と返答している。

 8.19日、日ソの軍事的戦闘中止確認が行われ、これ以降ソ連軍が満州国の主要都市に先遣隊を送ってきた。「虎頭要塞」をはじめいくつかの拠点では依然として日本軍の戦闘が続いていたが、8月下旬までには銃を捨て、投降が完了した。

 鬼塚英昭氏の著書は次のように記している。
 「天皇は国際決済銀行とスイス国立銀行に今日でも世界トップクラスの秘密資金を持っている。ポール・マニングの『米従軍記者の見た昭和天皇』にも、シーグレーヴ夫妻の『ゴールド・ウオリアーズ』にもそのことが詳しく明記されている。横浜正金銀行(管理人注:天皇の銀行)が一九四四年九月にスイス国立銀行に開設した「第一特別勘定」と「第二特別勘定」も、天皇の資産隠しのために使われたとみる。しかし天皇は、自らの秘密口座と、皇后名義の秘密口座をスイス国立銀行に持っていた」。

 工藤美代子の「香淳皇后」(2000年)は次のように記している。
 「日本でも、外面的には、あくまで戦争を続け、本土決戦に臨むという態度ではあったが、その実、敗戦を予測してのそれなりの動きはあったようだ。木戸幸一をはじめ、当時の日本の首脳部にいた人々の日記は、すでにいくつか刊行されているのだが、不思議なことに、敗戦を予測しての具体的な準備について触れた記述は全く見あたらない。しかし、実は何者かによって着々と手は打たれていた。そう思わせる証拠の一端が、ロンドンの公文書館に保存されている。それはスイスの赤十字国際委員会とイギリス外務省との間で、昭和二十一年八月から昭和二十三年九月にかけて交わされた一連の外交文書である。(Fo 369/3969, Fo 369/3970)。これらの文書によると、昭和二十年の四月に、日本の皇后が赤十字国際委員会に一千万スイスフランの寄付を申し出たというのである。一千万スイスフランといえば、現在のレートで換金しても約七億円近い金額である。まして、当時のレートで換算したら、莫大な金額だったはずである。まず興味深いのは、四月の時点で、すでにこの寄付の申し出がなされていたことである。これは日本の敗戦を予測して、皇室の財産を処分しておこうとする動きではなかったかという見方ができる。それ以外に、こんな莫大な金額を寄付する理由はかんがえられないというのが、スイスやイギリス側の見解だ」。

 2001.8.13日、「ジュネーブ十三日共同=藤井靖」で、工藤美代子の『香淳皇后』の内容を追認する次のような記事が掲載された。
 「日本が一九四五年八月の終戦直前、スイスの赤十字委員会(ICRC)に対し、昭和天皇の皇后名で一千万スイスフランの巨額寄付を提示。連合国の対日政策決定機関である極東委員会が禁止決定を出したものの、赤十字がこれを覆して戦後の四九年、秘密裡に送金が実行された経過が十三日、スイス政府やICRCの公文書で分った。寄付は横浜正金銀行(旧東京銀行)がスイス国際銀行に保有し「日本の秘密口座」と呼ばれた「特別勘定」から拠出された。日本が皇后名の寄付を申し出た事実は英公文書で確認されているが、その動機は不明(管理人注:公文書館でのFo369には驚いた様子が書かれている)。公文書は米英両国にスイス、ICRCを巻き込んだ送金実行までの四年間にわたる「攻防」の詳細を明らかにしている。一千万フランは現在のレートで約七億円。当時と現在のスイスフランの購買力を単純に比較すると約三十三億円に上る」。

 この後に驚くべきことが書かれている。東郷茂徳は原爆が投下された翌日に、赤十字の駐日代表に一千万スイスフランの寄付決定を伝達する。駐日代表は九日、受諾すると答えたが、通信事情が悪く、ジュネーブの赤十字本部に伝えたのは所詮直後の八月十七日となった。その前日の十六日、英米はスイス政府と合意し、スイス国内の日本資産を凍結していた。結果、天皇の資産のほとんどは国際決済銀行(BIS)の秘密口座を通じて運用された。その金は、いかなる政府の干渉も受けないという超法規条項を持っていた。その為に殆ど無事であった。天皇はスイス国立銀行(ほとんどの役員が国際決済銀行の役員)に「特別勘定口座」をつくり国際的な商取引をしていた。公的な二口座と天皇名と后名の二口座が確認されているが他にもある可能性がある。工藤美代子が指摘したように、天皇は終戦工作をしていた。ヨハンセングループから原爆投下の日を知らせてもらってからは、スイス、アルゼンチン、スウエーデンの各国の秘密口座にも資産を移した。それを”陰の政府”が支えた。

 「ジュネーブ十三日共同=藤井靖」記事の最後は次のようになっている。
 「寄付の形で動かすことを阻もうとする米英と、寄付の正当化を主張するスイス政府、ICRCが対立した。この紛争は四六年六月、極東委員会と連合国総司令部(GHQ)に委ねられた。極東委員会は同年十月「ICRCの主張に根拠はない」として送金禁止を決定。しかしICRCは米国の弁護士を雇い、巻き返しに成功。米国務相は四九年三月、スイス政府の裁量を認めて送金に同意。英国も四九年五月「所有権の主張」を撤回した。送金は四九年五月末。スイスが横浜正金の資産凍結を解除して実行された。ICRCは英国への配慮から一連のプロセスを「極秘」扱いとし、日本にも細かい経過を知らせなかった」。

 この文章に見えてくるのは、一千万スイスフランの数十倍か数百倍の金が天皇と皇后の秘密口座の中にあり、凍結されかかっているので赤十字国際委員会(ICRC)に依頼し、凍結を解除し、他の銀行の秘密口座に移そうとする天皇の壮絶なる闘いである。

 工藤美代子の『香淳皇后』は更に次のように記している。
 「ある時期、日本赤十字社の総裁の座は空席となっていた。四十三年間にわたって総裁を務めていた閑院宮戴仁親王が、昭和二十年五月二十日に亡くなっていたのである。その後を承けて総裁となったのは、高松宮だった。第五代総裁に高松宮が就任するのを宮内省が許可したのは、七月一日だった。この日の高松宮の日記には何も記されていないが、七月四日には「速ニ戦争終末ノ仕事ニ準備セネバ間ニ合ワヌ」といった記述が見える。高松宮も天皇と同じく、戦争を終わらせる方向を見据えていたのが分る」。

 ここで、国際決済銀行(BIS)について確認する。この銀行を設立し背後で支えているのがロスチャイルド、オッペンハイマー、ウオーバーグのユダヤ財閥であり、また、この財閥の支配下にあるのがアメリカのロックフェラー、モルガンンらの財閥である。彼らは国家を背後から動かす力を持っていて、実際に動かしてきた。原子爆弾製造の計画は「マンハッタン計画」を立てたのは、イギリスのユダヤ財閥の王ヴィクター・ロスチャイルドである。彼は多くのユダヤ研究者をルーズベルト大統領のもとに送りつけると同時に、密かに世界中のウラン鉱を買い漁った。原子爆弾を駆使してユダヤ財閥の王ロスチャイルドは世界制覇を狙っていた。彼らは日本に目標を定めた。そして研究・開発を急いだ。それまでは、なんとしても日本との戦争を長びかさなければならない。彼らは国際決済銀行を使い、戦争をいかに長びかせるかを研究した。その甘い汁のひとつが天皇の貯蓄した金や銀やダイヤ・・・の貴金属をドルかスイス・フランにかえて、スイスの国際決済銀行かスイス国立銀行(この銀行の役員のほとんどが国際決済銀行の役員を兼任する)の天皇の秘密口座に入れてやることであった。従って、一九四四年から一九四五年にかけて天皇は、自分の財産の移しかえに専心するのである。その過程と原爆製造の過程が見事に一致する。

 或る書に終戦の裏舞台が次のように記されている。
 「元駐日大使グルー(その陰にはユージン・ドーマンがいた)とステイムソン陸軍長官が日本のヨハンセン・グループと深く結ばれて情報の交換をし続けていた可能性が高い。ヨハンセン・グループというのは、「吉田反戦」という言葉から作られた日本とアメリカを結ぶ秘密組織である。このグループの首魁は牧野伸顕、そして吉田茂と樺山愛輔の三人である。三人のほかに少数の人々の姿が見え隠れする。上海にいたサッスーン、ジャーデイン・マデイソンというロスチャイルド財閥から援助され財をなした吉田健一は、ある長崎の女郎が生んだ子供を養子にする。吉田茂その人である。その子が長じて東大法科に裏口入学し、牧野伸顕の娘雪子と結婚する(管理人注:その女郎の父親はおそらく吉田健一であろう。吉田茂の子どもに吉田健一がいる)。満州利権を守るため、田布施の一族(管理人注:田布施とは朝鮮人部落のこと)と血の契りを結ぶ。のちにヨハンセン・グループを作り、天皇の承認のもとに、アメリカ大使のジョセフ・グルーに極秘情報を流し続ける。樺山愛輔(伯爵・貴族院議員)を確認する。秩父宮勢津子の『銀のボンボニエー』には樺山家と秩父宮の深い関係が書かれている。秩父宮勢津子の父は松平恒雄である。彼は自分から認めたフリーメーソン会員である。この松平恒雄と樺山愛輔は古い友人である。樺山愛輔の父は樺山資輔(元台湾総督)。ヨハンセン・グループの使者は、グルー元アメリカ大使と商売の面でも結ばれていた。樺山資輔はJ.P.モルガンのラモント(ロスチャイルド財閥からモルガンへ派遣された支配人)と親しく、J.P.モルガンの血族の一人がグルー元大使である。グルーはアメリカ大使であると同時に、隠れた政府の一員であった、というわけである。樺山愛輔は貞明皇后と深い因縁にある。貞明皇后が松平恒雄の娘勢津子を見染め秩父宮の后とした。これには深い因縁がある。貞明皇后は自分の過去を知る長州罰を憎悪していた。それゆえ、会津の松平恒雄の娘を秩父宮后に迎えた。樺山愛輔の娘正子は白州次郎と結婚している。秩父宮勢津子と樺山愛輔の娘正子は学習院初等科時代からの親友である。白州次郎はかくて必然的にヨハンセン・グループの一員となる。白州次郎は欧米で、どうやって生活していたのか?彼はユダヤ財閥のウオーバーグから生活の糧をもらって生きてきた過去を隠しに、隠し続けた男だ。モルガンとウオーバーグの手下が、ヨハンセン・グループにいた。ヨハンセン・グループに近い人に関屋貞三郎がいる。この関屋貞三郎もクリスチャン。樺山愛輔もクリスチャン。彼らは貞明皇后と深く結びついている。彼らが、牧野伸顕(元内大臣)、吉田茂(元外務大臣)を含めて、ヨハンセン・グループの秘密名で、太平洋戦争開戦の翌年の六月にグルー大使がアメリカに帰国するまで情報を流していた可能性が高い。そしてグルーが国務次官になった後も、このルートが守られていた可能性大である。太平洋戦争が始まった後に、すでに和平交渉が宮中と重臣たちのルート(ヨハンセン・グループ)により行われていた可能性がある。従って、このグループに参加した人々は戦犯に指定されていない。牧野伸顕、吉田茂、岡田啓介元首相、米内光政元首相たちである」。

 「日米開戦と戦後日本(講談社)」に次のような記述があるので転載しておく。
 日米開戦と戦後日本(講談社)

 「ではどうして八月六日なのか。それはこの日までに、スイスの赤十字経由で天皇の貯蓄が無事処理をつけられる見通しがたったからである。東郷茂徳も天皇から”急げ”と告げられ赤十字との交渉を急いだ。東郷茂徳は八日、天皇に会い、最初に『無事にスイスの件はうまく処理できました。当分資産は凍結されますが、遅くとも三〜五年後には凍結を解除してくれるとステイムソンが申しています・・・』と言ったはずである。それから天皇と原爆を”天佑”として終戦工作に入るべく相談したにちがいない。ではどうして広島だったのか。有末精三の『終戦秘史 有末機関長の手記』の中に、その謎を解く鍵が見えてくる。有末精三は原爆投下のあった翌日、参謀本部第二部長として、部下十名、理化学研究所の仁科芳雄博士たちと広島に視察に行っている。広島には第二総軍司令部があった。八月六日朝ごろ、多数の第二総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。この日、間違いなく、第二総軍の全員は、八時ごろに集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第二総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。ひとり畑元帥のみが理由はともあれ、この総司令部に行っていないのである。『山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥』と有末精三は書いている。

 私は東郷茂徳外相の依頼か、他のヨハンセン・グループの依頼を受けた松本俊一次官が原爆投下前のある日、密かに畑元帥と会談し、八月六日午前八時すぎごろの広島に原爆を落とす計画を打ち明けたと思う。そのときに松本俊一次官は、この日の八時すぎに、第二総軍の全員が集合するようにして欲しいと依頼したとみえる。この第二総軍を全滅状態におけば、陸軍の反乱の半分は防げるからである。

 八月初旬に広島県庁に入った畑元帥は、高野源進広島県知事と中国地方を総監を説得した。第二総軍を動員し、八月三日から連日、義勇隊三万人、学徒隊一万五〇〇〇人を出動させよと命じた。畑は密かに、高野知事に真相を打ち明けた。高野知事は広島を去った。こうした中で、八月六日の朝八時十五分を迎えた。第二総軍の軍人たち、義勇隊、学徒隊の多くが死んだのである。私の説を誤謬とする人は、これに反論する説を述べられよ。すべてが偶然と言いはるつもりなら、もう何も言うべき言葉はない。

 一九九七年に国立国会図書館は『政治談話録音』なるものを一般公開した。木戸はその中で『原子爆弾も大変お役に立っているんですよ。ソ連の参戦もお役に立っているんです・・・』と語っていた。天皇は原子爆弾の悪口を一生語らず、生涯を終えた。一九七五年十月三十一日、日本記者クラブとの会見のとき、アメリカ軍の広島への原爆投下に関する質問が出た。天皇『エ・・・この・・・エ・・・エ・・・投下、された、ことに対しては、エ・・・エ・・・こういう戦争中で、あることですから、どうも、エー、広島・・市民に対しては、気の毒で、あるが、やむをえないこと,と私は思っています』。もうひとりの記者が戦争責任について質問した。『そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学的方面をあまり研究していないので、よく分りませんから、そのような問題については答えかねます』。これについては批評の書きようもない。『日本のいちばん醜い言葉』の一つであるとのみ書いておく。

 原爆投下と深く結びついたヨハンセン・グループのすべては、戦後、一人として戦犯とならなかった。(731細菌部隊もそうだった) 東郷は太平洋戦争そのものに反対した。しかし敗戦処理内閣の外相になったがために戦犯となった。二十年の禁固刑。獄中死した。どうしてか。ここで明確にしよう。国際検事局に密告し続けた二つの秘密ルートがあった。一つは天皇ルートであり、も一つはYルートであった。ヨハンセン・グループ吉田反戦グループである。戦後首相となった吉田は多くの人々をこの検察局に売った。東郷は原爆の秘密と、天皇の財宝の処理について知りすぎていた。それゆえに消されたのである。第二総軍司令官畑俊六元帥はどうなったか。彼も戦犯となり、終身刑の判決を受けた。彼は広島に原爆を投下させた功労者ではあった。しかしヨハンセン・グループと深く結びついていなかった。天皇はもう一人の知りすぎた男、有末精三を検察局に売ろうとしていたことが後に判明する。『有末精三はどうして戦犯にならんのか』、側近に語っているのである。
 
 私はここで私なりの結論を書くことにする。原爆投下は完全に避けられた。少なくとも、ポツダム宣言が出たときに、天皇がマイクの前に立ち、国民に詫びの言葉を述べ、『わが身がどうなろうとも、この戦争を敗北と認め終戦としたい。ポツダム宣言を無条件で受け入れる』と言えばよかった。どうして言えなかったのか。天皇と上流階級はその甘い生活をやめられなかった。それでステイムソン陸軍長官らの”陰の政府”と交渉した。天皇制護持を条件に原爆投下を受け入れた。彼らの条件の最大のものは、天皇・皇室、上流階級および重臣たちが、原爆投下の非難の声をあげないこと、および日本国民をそのように誘導することであった。数々の交渉がヨハンセン・ルートでなされた。天皇と重臣は第一の原爆投下の地を広島と決定した。多分米内光政のルートで、畑第二総軍司令官のもとに依頼が入った。八月三日から、学徒、兵隊を入れた大動員がなされた。八月六日、第二総軍は壊滅した。ここに、終戦反対を叫ぶ最も恐れた第二総軍は消えた。残すのは第一総軍(杉山元司令官)のみとなった。天皇と皇室と上流階級は偽造クーデターを起こし、第一総軍を中心とする反乱を未然に防いだ。かくて鶴の一声が全国津々浦々まで鳴り響き渡る時を迎えることができた。原爆投下は天皇・皇室・上流階級にとってまさに”天佑”そのものであった。

 8月15日は言わずと知れた大東亜戦争敗戦の日である。厳密にいうと、敗戦の手続きが完了した時点がどうたら言うが、それはともかく、鬼塚英昭氏の新著『日本のいちばん醜い日』(成甲書房)は、そのとき起きた宮城事件を追い、あの陸軍抗戦派(継戦派)将校による一種クーデターとされるものが、実は昭和天皇とその重臣(木戸幸一ら)による偽装騒乱事件だったことを見事に検証した本である。わずか10人たらずの陸軍将校は、事後にほとんどが自決しているが、彼ら実行部隊を率いたのが昭和天皇の弟にあたる三笠宮(当時、陸軍中佐)であったことを、鬼塚氏は突きとめている。それを検証したのが、この『日本のいちばん醜い日』である。この事件が、昭和天皇の策謀による三笠宮主導の偽装クーデターであり、それが見事に成功したことは、単に昭和20年8月15日の出来事にとどまらない。今日まで醜悪な死臭を放ちながら続く問題である。

 昭和天皇は、戦争をユダヤ=国際金融資本勢力と呼応するかのように、大規模に始め、延々と続けた。延々続けられたのは、ユダヤ資本が協力したからだが、その問題は後日取り上げたい。その目的も鬼塚氏は暴いているが、すべては金儲けのため、蓄財のためであった。戦争はある種のマネーゲーム、とは見事に本質を突いている。天皇はカネ儲けのために満州に侵出し、支那事変に乗り、太平洋で米国とまで戦争をやった。アメリカに引きずり込まれた面と、昭和天皇自らが積極的に撃ってでた面とがある。

 戦争を始めたのは昭和天皇の責任である。命令を下したのは裕仁である。陣頭指揮をとったのも彼であった。しかし、敗戦間近となって、戦争や麻薬、人身売買で蓄財した巨額の資金を、スイスの口座に保ち、かつ天皇一族の生命を保障してもらうべく連合国=ユダヤ勢力と交渉し、成功するのだ。天皇は財産保全と生命保障の代償として、沖縄を戦後も米軍基地にして差し出し、原爆実験を引き受け、日本国憲法も認め、陸軍将兵から戦犯も出し、ソ連には捕虜(100万人説もある)をシベリアでただで酷使させるために差し出した。唯一マッカーサーが企図した日本のカソリック化だけが失敗した(それを描いたのが、鬼塚氏の前著『天皇のロザリオ』)。

 敗戦によって、当然天皇の責任は問われるのだから、それを回避するために8・15の宮城事件=偽装クーデターは仕組まれた。天皇は開戦にも反対だったし、早期に終戦もしたかったのに、陸軍が戦争をやりたがり、戦争を継続したがったのだという偽装をしたかったのだ。『だからほら、終戦時に陸軍が継戦を主張してクーデターまでおこしたでしょ』と言いたかったのだ。なんたる卑劣!

 ユダヤ権力から、戦争末期に財産保全と生命の保障は得てはいたものの、世界の表舞台(マスコミで取り上げる世界)と、国民には芝居を打たねば納得してくれない。だから、すべては陸軍が悪く、陸軍が戦争を仕掛けたのであって、天皇に責任はなくむしろ被害者だったという大芝居を打たねばならなかったのである。昭和天皇は、絶対君主だったのであるが、それを隠蔽する工作があの8・15宮城事件だった。それをまことしやかに演出するために、森赳近衛師団長は三笠宮の命令で惨殺されたし、阿南陸相も自決させられた。天皇の指示であった。

 昭和天皇は、後年(1975年)、日本記者クラブの会見で戦争責任を問われると、『私はそういう言葉のアヤについては、私はそういう文学的方面をあまり研究していないので、よく分かりませんから、そのような問題について答えかねます』とイケ図々しく答えたものだった。これを鬼塚氏は『』日本のいちばん醜い言葉』と表現した。まったくそのとおりである。

 『日本のいちばん醜い日』に、昭和天皇が開戦1年後に内大臣木戸幸一に語った言葉が紹介されている。『この大戦後には、ソ連とアメリカのみが傷まずして、他の列国はみな疲労することとなるは、ほとんど疑いなきところなり。さすれば、この両国間に挟まれたる我が国はけだし非常に苦心せざるべからざる環境に置かるるものと信ず。しかし、さりとて必ずしも悲観するを要せず。これら両国も付近に強大なる競争国を失えば自然に気がゆるみてやがて腐敗するは必至なれば、我が国にしていわゆる臥薪嘗胆の10年を覚悟し、質実剛健なる気風を作興すれば、有終の美を挙ぐるは困難ならずと信ず云々』。

 これは昭和天皇が、まだあと2年半は続く日米戦争の結末と、その大戦後の世界をあらかじめ知っていたことを意味する。鬼塚氏は言う『天皇は太平洋戦争の前から、闇の権力者たちが創作した、世界のグランド・デザインをどうやら知っていたらしい。近々日本が“非常に苦心せざるべからざる環境に置かれる”とは、戦争以外のなにものでもない。大戦後に、まさしくアメリカとソ連が世界を二分する大帝国となることも知っていたらしい』と。鬼塚氏も今回の著書で、ついに『闇の権力者』の存在に言及している。鬼塚氏はフリーメースン、イルミナティとは呼ばずに国際金融同盟と呼ぶと言っているが。

 そういえば林秀彦氏もいちばん新しい著書『この国の終わり』(成甲書房)で、ついにユダヤ闇権力の策謀を全面的に記述するようになった。彼ら国際金融同盟が、フランス革命も第一次世界大戦も、意図的に引き起こしたこと、その彼らがBIS(国際決済銀行)を創って第二次世界大戦を引き起こすのだが、昭和天皇もどうやらそうしたユダヤの動きを承知していたらしいのである。例えば第一次世界大戦でたいして戦果をあげていない日本に、ユダヤは南洋の島々(サイパンやトラックなど)を委任統治領としてくれてやるのだ。それがあったればこそ、日本は南進政策をとり、(対ソ連戦争をやめて)アメリカとの戦争を選択する。南洋の委任統治領を日本がユダヤからもらったのは、次はアメリカやイギリスと戦争をやってユダヤの儲けに協力するんだよ、という指令であったのである。そして最後は日本が負けるシナリオも押しつけられたのであり、それでも天皇一家の蓄財と生命は助けてやるから、と言われて始めたのであろう。だから日本は勝てる戦争を、なぜか海軍のミスまたミス(に見せかける作戦)で意図的に敗戦に導かれていった(管理人注:ミッドウエイ海戦)。

 大東亜戦争で亡くなった方々には、気の毒で言葉も出ない。支那事変直前の2・26事件は、北進(対ソ連戦)を主張する陸軍皇道派をはめて壊滅させ、南進を企図する陸軍統制派を登用するための天皇の陰謀=ヤラセだったのである。昭和20年8月15日に終わったあの戦争が、なぜ起きたか、なぜ日本が負けたのか、その歴史の真実がまた鬼塚氏の労作によって一段と明らかになった」。(管理人注:ザビエルが日本に着いた日は8月15日、終戦も8月15日。8月15日はカトリックの聖母被昇天祭でもあるのは偶然とは思えない。なぜなら1534年8月15日はイエズス会結成の日でもあるからだ)







(私論.私見)