1945年2、敗戦まで 第二次世界大戦の帰趨

 (最新見直し2006.1.13日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2002.10.20日 れんだいこ拝


【経過】
 この戦争を日本帝国主義の錦の御旗から見れば、大東亜共栄圏の確立を大義として太平洋の覇権をめぐって連合国軍と争ったことから大東亜戦争とみなすことになる。これをアメリカ帝国主義の錦の御旗から見れば、対ドイツ.イタリアの大西洋戦域に対して太平洋戦域で争われた戦争であったことから太平洋戦争とみなすことになるようである。この戦争はほぼ15年の長きにわたったが、1945年に至って日本帝国主義の戦局は日増しに不利となっていった。


1941(昭和16)年の動き

【太平洋戦争開始、陸海による電撃作戦突入】
12.8日  【日本海軍の連合艦隊がハワイ真珠湾攻撃】
 ホノルル時間7日午前6時45分、米駆逐艦ウォードが真珠湾港外で特殊潜航艇を撃沈。
 ホノルル時間午前7時55分、第一次攻撃隊が真珠湾攻撃を開始。
 ワシントン時間午後2時20分(ホノルル時間午前8時50分)野村、来栖両大使、ハル国務長官に日本政府の最後通牒を渡す。
 日本時間午後4時、米英に宣戦布告の詔勅を発表。陸軍はマレー半島への上陸開始。対米英蘭に宣戦布告。
 米議会で対日宣戦布告決議を可決。

【対米英宣戦の詔書】
 「芝蘭堂」氏の「太平洋戦争 対米英宣戦の詔書」 が「対米英宣戦の詔書」を紹介しているのでこれを転載しておく。
詔書

天佑を保有し萬世一系の皇祚を踐たる大日本帝国天皇は昭に忠誠勇武なる汝有衆に示す。

朕茲に米国及英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は全力を奮て交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶は各々其の本分を尽し、億兆一心国家の総力を挙げて征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ。

抑々東亜の安定を確保し、以て世界の平和に寄与するは丕顕なる皇祖考丕承なる皇考の作述せる遠猷にして、朕が挙々措かざる所、而して列国との交誼を篤くし、万邦共栄の楽を偕にするは、之亦帝国が常に国交の要義と為す所なり。今や不幸にして米英両国と釁端を開くに至る、洵に巳むを得ざるものあり。豈朕が志ならむや。

中華民国政府、曩に帝国の真意を解せず、濫に事を構へて東亜の平和を攪乱し、遂に帝国をして干戈を執るに至らしめ、茲に四年有余を経たり。幸に国民政府更新するあり、帝国は之と善隣の誼を結び相提携するに至れるも、重慶に残存する政権は、米英の庇蔭を恃みて兄弟尚未だ牆に相鬩くを悛めず。米英両国は、残存政権を支援して東亜の禍乱を助長し、平和の美名に匿れて東洋制覇の非望を逞うせむとす。剰へ与国を誘ひ、帝国の周辺に於て武備を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有らゆる妨害を与へ、遂に経済断交を敢てし、帝国の生存に重大なる脅威を加ふ。朕は政府をして事態を平和の裡に回復せしめんとし、隠忍久しきに彌りたるも、彼は毫も交譲の精神なく、徒に時局の解決を遷延せしめて、此の間却つて益々経済上軍事上の脅威を増大し、以て我を屈従せしめむとす。斯の如くにして推移せむか、東亜安定に関する帝国積年の努力は、悉く水泡に帰し、帝国の存立亦正に危殆に瀕せり。事既に此に至る。帝国は今や自存自衛の為、蹶然起つて一切の障礙を破砕するの外なきなり。

皇祖皇宗の神霊上に在り。朕は汝有衆の忠誠勇武に信倚し、祖宗の遺業を恢弘し、速に禍根を芟除して東亜永遠の平和を確立し、以て帝国の光栄を保全せむことを期す。

 御 名 御 璽  昭和十六年十二月八日 各国務大臣副書

12.9日  【日英海軍によるマレー沖海戦】
 日本海軍の陸上攻撃隊が、英国東洋艦隊の旗艦「プリンス・オブ・ウェールズ」(3万5千トン)と巡洋戦艦「レパルス」(3万2千トン)の二隻を撃沈。このマレー沖海戦により、日本軍が南方地域の制空権と制海権を確保することになった。
12.10日  【日英陸軍による南方資源地帯占領作戦開始される】
 
第一次比島作戦により、ルソン島上陸。石油資源確保の為、破竹の勢いで進撃を続ける。
12.11日  独伊、対米宣戦布告。

【真珠湾攻撃概略】
 時局の赴くところ、日帝は日独伊ブロック形成を選択し、米英仏を始めとする連合国軍との正面戦争に向かっていくことになった。これが第二次世界大戦の簡略な構図である。1941.12.8日現地時間12.7日午前7時55分、99式爆撃(急降下爆撃機)が、第一弾を投下した。7.57分、97式艦攻(雷撃機)が攻撃を開始した。奇襲が成功であると確信した淵田美津雄隊長は、「トラ、トラ、トラ」と発信した。こうして山本五十六連合艦隊司令長官の作戦は成功した。

 日本軍のハワイ真珠湾攻撃によって、日本とアメリカは戦争に突入した。「大本営陸海軍部午前6時発表、帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」とラジオの臨時ニュースが告げた。正午、ラジオを通じて「開戦の詔書」が発表された。「(米英両国は)帝国の生存に重大なる脅威を加う」、「帝国は今や自存自衛の為、厥然(けつぜん)起って一切の障碍(しょうがい)を粉砕するのほかなきなり」。

 この時、外務官僚の不手際で宣戦布告が1時間20分後に為されるという失態を見せており、「卑怯」として反日気運が高まる原因となった。この時、日本政府より通達された最後通牒が真珠湾攻撃の直前後で発せられたことがアメリカ国民の憤激を呼び、後日極東裁判所審議の際に厳しく糾弾されることになる。

 この報を聞いた、石原莞爾はこう語ったという、「負けますな。だいいち鉄砲玉がありません。」

 開戦二日後の10日、読売.朝日.東京日日など在京8社の新聞.通信社が「米英撃滅国民大会」を共催している。

 開戦の年、昭和16年ににおける重要戦略物資の生産力の、アメリカとの差は実に77.9対1である。またこの年の国家財政は、一般会計支出81億円、臨時軍事支出94億円、公債発行額は87億円(そのほとんどが日銀引き受けによる発行)、公債未償還額の累積は373億円に達していた。「運命に導かれるように日本と米国は開戦に至った。」

「米国及び英国に対する宣戦の詔書」(昭和十六年十二月八日)】
 天佑を保有し万世一系の皇祚を践める大日本帝国天皇は、昭(あきらか)に忠誠勇武なる汝有衆(いうしゆう)に示す。朕(ちん)茲に米国及英国に対して戦を宣(せん)す。朕か陸海将兵は、全力を奮て交戦に従事し、朕か百僚有司(ひやくれういうし)は、励精職務(れいせいしょくむ)を奉行し、朕か衆庶(しゅうしょ)は、各々其の本分を尽し、億兆一心、国家の総力を挙けて、征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ。

 抑々東亜の安定を確保し、以て世界の平和に寄与するは、不顕なる皇祖考、丕承(ひしょう)なる皇考の作述せる遠猷にして、朕か拳々措かさる所、而して列国との交誼を篤くし、万邦共栄の楽を偕にするは、之亦帝国か常に国交の要義と為す所なに。今や不幸にして米英両国と釁端(きんたん)を開くに至る、洵に巳むを得さるものあり。豈朕か志ならむや。

 中華民国政府、曩に帝国の真意を解せす、濫(みだり)に事を構へて東亜の平和を攪乱し、遂に帝国をして干支(かんくわ)を執るに至らしめ、茲に四年有余を経たり。幸に国民政府更新するあり、帝国は之と善隣の誼(よしみ)を結ひ相提携するに至れるも、重慶に残存する政権は、米英の庇蔭(ひいん)を恃(たの)みて兄弟尚未た牆(かき)に相鬩(あひせめ)くを悛(あらた)めす。米英両国は、残存政権を支援して東亜の禍乱を助長し、平和の美名に匿れて東洋制覇の非望を逞うせむとす。剰(あまつさ)へ与国を誘ひ、帝国の周辺に於て武備を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有らゆる妨害を与へ、遂に経済断交を敢てし、帝国の生存に重大なる脅威を加(くは)ふ。朕は政府をして事態を平和の裡に回復せしめんとし、隠忍久しきに彌(わた)りたるも、彼は毫も交譲の精神なく、徒(いたづら)に時局の解決を遷延せしめて、此の間却つて益々経済上軍事上の脅威を増大し、以て我を屈従せしめむとす。斯の如くにして推移せむか、東亜安定に関する帝国積年の努力は、悉く水泡に帰し、帝国の存立亦正に危殆に瀕せり。事既に此に至る。帝国は今や自存自衛の為、蹶然起つて一切の障礙を破砕するの外なきなり。

 皇祖皇宗の神霊上に在り。朕は汝有衆の忠誠勇武に信倚し、祖宗の遺業を恢弘(くわいこう)し、速に禍根を芟除(さんぢょ)して東亜永遠の平和を確立し、以て帝国の光栄を保全せむことを期す。

外務官僚の失態
 「最終通牒を遅らせた大使館員は戦後大出世」を参照する。真珠湾攻撃には幾つかの不可解な事が起こっているが、宣戦布告の通知が遅れた事もその一つである。日米開戦の最後通牒の通知が遅れたことは、真珠湾攻撃が”卑怯な欺し討ち”になり、米国の世論は一気に開戦へとまとまっていった。そういう意味でも、日本の外務省と大使館の責任はまことに大きいと言わざるを得ないが、「通知が遅れた件に関しては此れは最初からそう仕組まれたものであったと云う他は無い」という説もある。

 日本から発せられた最後通牒は時間的にも充分間に合う物であった。東郷外相の訓令は対米宣戦布告の最後通牒の手交をワシントン時間、12月7日、午後1時に行うものであった。ところが野村、栗栖大使が実際に其れをハル国務長官に手交したのは午後2時であり、其の時真珠湾は既に猛火と黒煙に包まれていた。

 最後通牒の手交が何故遅れたかに就いては尤もらしい説明が付けられている。対米最後通牒の電報は14通から成り、其の内の13通は米国の12月6日中に日本大使館に到着し、既に電信課に依って暗号解読され、其の日の内に書記官に提出されていた。残り、即ち最後の14通目は翌7日早朝(ワシントン時間)に大使館に到着、同時に最後通牒の覚書を7日午後1時に手交すべく訓令した電報も大使館には届いていた。

 其の時の大使館員の様子は次の如くであったとされる。◆14通の電報は2種類の暗号を重ねた2重暗号であり、最初の13通は12月6日午後1時から入電を開始、粗同時に専門の電信官に依って暗号解読が始まった。午後8時半あ事務総括の井口貞夫参事官が解読作業中の若手外交官達を誘って行き付けの中華料理店”チャイニーズ・ランターン”の一室で夕食会を開く。此れは寺崎英成1等書記官の中南米転任送別会を兼ねていた。◆7日、早朝13通分の電文タイプを開始、寺崎一等書記官は妻グエンと娘のマリコ、及び妻の母と共に郊外に車旅行、連絡も付かない状況であった。◆7日の朝、大使館の電信課宿泊員で若い熱心な基督教徒である藤山楢一は14通目の電報ともう一通の「最後通牒」の手交時間訓令の電報を入手したが、其の日は日曜日であった為、教会の礼拝に出掛け、電信課の責任者であり前夜宿直していた奥村勝蔵首席一等書記官及び松平康東一等書記官に対し連絡を怠った。

 14通目の電報が7日の何時から暗号解読され始めたかの公式記録は無い。だが前日に受信した13通の電報が既に解読されており、事の重大性に大使館全員が気付かぬ筈は無い。重大であればこそ大使館員全員が待機して14通目の到来を待ち、其れ以前の13通分に就いても事前にタイプを済ませて何時でもハル国務長官に提出出来る様にして置くのが当然であったろう。だが実際にタイプが始まったのは7日午前7時半あからであり、14通目の暗号解読が終ったと推定される午前10時あ迄は奥村一等書記官に依るのんびりした調子(ペース)であった。

 ところが午前11時過ぎに最後通牒の手交時間が午後1時である事が解り、大使館は騒然と成った。だが日本の外務省から秘密保持の為タイピストを使わぬ様指示されていた日本大使館では慣れない奥村がタイプを打ち続け、終了したのが真珠湾攻撃開始後の1時25分、ハル長官に野村、栗栖大使が手交しスのは1時55分であった。

 此の外務省、日本大使館の動きは全く理解に苦しむのである。先ず外務省であるが、僅か残り数行に過ぎない14通目と最後通牒文である第901号電を何故態々其れ迄の13通より遥かに遅れて発信したのか。更に此の重要な時期に何故寺崎一等書記官を転任させる処置を取ったのか。又何故秘密保持と称して専門のタイピストを使用禁止にしたのか等である。

 大使館側にも深い疑惑は残る。大使館員十数人全員が丸で事の重大性を弁えぬ無神経、且つ怠慢な動きを取っている事である。此れは一体何を物語るものであろうか。答は二つ、外務省の大使館員は天下一の無能集団であるか、差もなくば確信犯であったと云う事である。真相は恐らく後者であろう。

 戦後ポルトガル駐在公使だった森島守人が帰国するなり吉田茂外相に此の最後通牒手交遅延の責任を明らかにする様進言したが、吉田は結局此の件をうやむやに葬り去ってしまった。「吉田茂こそ日本を敗北に導いた元凶の一人フリーメーソンであった。当時の日本大使館員達は戦後何れも「功労者」として外務次官や駐米、国連大使となり栄進した」とある。

「1941.12.8真珠湾事件疑惑」
 真珠湾の失態により、キンメル米国海軍大将とハワイ駐留陸軍司令官ショート陸軍中将は、それぞれ少将に降格された。他方、太田龍・氏は、「2006.1.12日付け時事寸評」の「F・D・ルーズベルト米大統領暗殺疑惑と、そしてその意味」で次のように述べている。(れんだいこ責任で編集替えする)
○「操られたルーズベルト」カーチス・B・ドール著、馬野周二(訳・解説)、プレジデント社、一九九一年十月刊
○この本の英文原題は、FDR: My Exploited Father-in-Law By Curtis B Dall(一九六八年)。本書の著者、カーチス・B・ドールは、F・D・ルーズベルト米大統領の娘と結婚して居る。従って、F・D・ルーズベルトは、ドールの義父であり、エレノア・ルーズベルトは、ドールの義母にあたる。そしてずっと後になって、ドールは、ウイリス・カートの主宰するリバティー・ロビーと言う政治団体の代表に就任した。

○本書は、シオニストユダヤ、ADLの一味に不法に乗っ取られる以前のIHR(歴史修正研究所)によって発行された。

○一九四一年十二月八日(七日)当時の米真珠湾海軍艦隊司令官であった、キンメル海軍大将と、ドールは、一九六七年二月三日、対談した。そこでキンメル提督は、前任のリチャードソン提督が解任された、その後任として任命された、一九四一年晩秋、ワシントン(米海軍省)は、主力艦数隻、輸送船を他の地域に派遣せよ、と命令してきた。更に、日本軍のパールハーバー攻撃の少し前、ワシントンの海軍省は、パールハーバーの航空母艦五隻を他地域に移せ、と命令して来る(前出、二百九十一頁)。つまり、そこで、パールハーバー米艦隊は、空母はゼロ、と成ったわけである。

○キンメル大将も、カーチス・ドールも、これは、ルーズベルト政権による日本を対米英戦争に引きずり込む大謀略の一部であることを明確に認識して居る。米国では、一九四一年十二月八日(七日)の「日本のパールハーバー奇襲」説が、米国政府によるペテンであることについて、無数の暴露と論評がなされて居る。

○にも拘わらず、日本では、このペテンにもとづく「東京裁判史観」が、ますます強国に日本人の意識を支配しつつある。朝日新聞社の月刊誌「論座」の平成十八年二月号に、朝日新聞論説主幹・若宮啓文、讀賣新聞主筆・渡辺恒雄。この二人の「対談」なるものが掲載され、東京裁判の全面肯定にもとづく日本の軍、政府首脳の「戦争責任」なるものについて、売国奴的発言が展開されて居る。

○カーチス・B・ドールは、一九四五年四月十二日のF・D・ルーズベルトの病死は、何者かによる「暗殺」(毒殺)ではないか、と疑って居る。このF・D・R暗殺疑惑は、米国では、かなり広範に、反陰謀陣営に流布されて居るにも拘わらず、日本人には、まったく、知らされて居ない。

○要するに敗戦後六十年来、日本人は、米国そして、世界の、まともな情報から、完璧に遮断されたままなのである。我々は、まさに、一から、やり直すしかないのだ。(了)

【「マレー沖海戦」の衝撃】
 マレー沖海戦。海軍の陸上攻撃隊が、英国東洋艦隊の旗艦「プリンス・オブ・ウェールズ」(3万5千トン)と巡洋戦艦「レパルス」(3万2千トン)の二隻を撃沈。チャーチルは、「すべての戦争を通じて、これほど衝撃を受けたことはなかった」、「今やインド洋にも太平洋にも、イギリス、アメリカの主力艦隊は一隻もいなくなった。この広大な海域に於いて、日本は絶対的名力を誇り、我々は至るところで弱くなり、裸になってしまったのである」(「チャーチル日記」)と記している。

 このマレー沖海戦により、日本軍が南方地域の制空権と制海権を確保することになった。

12.25日  香港島占領。

1942(昭和17)年の動き

 「華人労務者移入」の閣議決定。
 1月  「繊維製品配給消費統制規則」の公布、次いで「衣料切符制」が実施される等繊維関係の統制機構が敷設されていった。海運機構の国家管理も進められ、戦時海運管理令も発布されていくことになる。
 1. 2日  首都マニラ占領。
 1.14日  日本軍ビルマに進撃開始。
 1.19日  香港占領1ヵ月後、香港総督府(初代総督・磯谷廉介陸軍中将)設置。
 1.21日  第79帝国議会の劈頭で、東条首相が施政方針演説。
 2.15日  シンガポール占領。バタビヤ沖海戦勝利。その後ビルマ占領に向かい掌握する。
 2月  【インパール作戦】第15軍3個師団とインド国民軍の総計約10万人が、東部の要衝インパールを占領する目的で、ビルマ・インド国境の3000メートル級のアランカン山系の険阻な道越えを目指した。第15軍の小畑信良参謀長らは補給困難を理由に反対したが、発案者の牟田口廉也司令官が参謀長を更迭して強行。英軍と激しく交戦するが、武器弾薬に事欠き、食料が無く、赤痢の発生により、7割の軍を失う。佐藤孝徳師団長は日本軍初の独断撤退を強行。「撤退道は白骨街道となった」。最終撤退は10月。しかし、牟田口司令官は全師団長を解任し責任追及。
 3月  スティルウェル中将が蒋介石の軍事顧問として、南京から重慶に移転していた国民党本部に到着。
 3. 1日  ジャワ島上陸。
 3. 8日  ラングーン占領。日本海軍はジャワ沖海戦で蘭印艦隊主力を壊滅させた。
 3. 9日  インドネシアのオランダ軍から全面無条件降伏。マッカーサー元帥はフィリピンを脱出し、オーストラリアに逃れ、そこで西南太平洋連合軍司令部を作って作戦の建て直しを図った。
 4. 1日  ニューギニア上陸。
 4.11日  4.9日、日本軍がパターン半島総攻撃、占領。この時投降してきた米軍やフイリピン軍兵士7万6千名近くをパターン半島南端マリべレスからマニラの北方サンフェルナンドまでの90キロを炎天下で徒歩で移動させたのが「パターン死の行進」(推定死傷者2万5千名)といわれるものであり、戦後東京裁判で捕虜虐待として問題にされた。
 この時期は連戦連勝の歓呼の渦巻いて国民が有頂天になっていた時期である。ここが日本戦勝の頂点と考えられる。
 4.18日  真珠湾攻撃で無傷となった空母「ホーネット」から発進した米軍機B25の16機が飛来し、米陸軍機が日本本土初空襲。
 4.30日  翼賛選挙。この時東条内閣は貴族院議員18名をはじめ33名の協力議員を集めて、翼賛政治体制協議会を作り、この「翼協」が466名、定員一杯の候補を推薦し、臨時軍事費から500万円の資金を配り、選挙に臨んだ。それでも、非推薦候補が85名も当選している。その中には、鳩山一郎、芦田均、河野一郎、三木武吉、尾崎行雄、三木武夫など、戦後の与党政治を担う党人派の猛者達が居た。西尾末広、水谷長三郎、三宅正一など、戦後の社会党を担う運動家達も居た。この後敗戦まで選挙が行われておらず、衆議院はこの陣容で続いていくことになる。
 5. 7日  コレヒドール島占領。【珊瑚海海戦】ニューギニアのポートモレスビー攻略のため珊瑚海に入った日本機動隊はアメリカ第17機動部隊と遭遇、「翔鶴」・「瑞鶴」対「レキシントン」・「ヨークタウン」が闘い、大戦史上初の空母戦の火蓋が切って落とされた。
 6月  日本基督教団第六部 (元日本聖教会)、同第九部(元きよめ教会)、宗教結社・東洋宣教会きよめ教会に対する 一斉検挙が行われ、合計134名の教職が投獄され、7名の牧師が殉職した。特高警察は、「ホーリネス系三派は、我国体を否定し、神宮の尊厳を冒涜すべき内容の教理を信奉宣布し 来れる不穏結社」とみなしていた。日本基督教団の富田満統理は、伊勢神宮に参拝し、天照大神に教団の成立を報告し、その発展を祈らざるを得ない立場に追い込まれた。翌1943(昭和18)年、三派教会は、神宮への不敬、国体変革を企図せる罪によって宗教結社禁止となった。また、聖公会の牧師の中にも投獄される人もおり、セブンスデー・アドベンチスト教会は解散を命ぜられた。

【ミッドウェー海戦】
 1942(昭和17).6.5日、日本連合艦隊司令部は、米軍の空母をおびきだし致命的な打撃を与えるべく日本海軍の総力を結集してこの戦いに挑んだ。山本五十六(いそろく)連合艦隊司令長官が自ら指揮し、旗艦「大和」に座乗し臨んだが、米軍機動部隊の逆奇襲によって敗退させられた。日本軍は、2日間の海戦で、加賀、赤城など虎の子の主力空母(航空母艦)4隻、重巡洋艦2隻、搭載機322機を失った他1.万3千5百名が犠牲者となった。他方、米軍は空母、駆逐艦各1、兵員307名、航空機150機の損害にとどまった。

 この戦いが戦局転換となり、日本軍の緒戦の勢いが止まった。米側が制海権と制空権を手にし、戦局の主導権を握られていくことになった。大本営は敗北の真相を隠蔽し、大本営は、海戦での損害を「一隻喪失、一隻大破」と発表した。(「ミッドウェー海戦」参照)

【アメリカがOSSを発足させる】
 6月、中央情報機構COIが改組され、OSS(office of strategic service)が組織された。ルーズベルト大統領は、ウィリアム・ドノヴァンを長官とし、1・学問的及び非公式の情報活動の継続、2・謀略的宣伝、3.正規軍と協力しての破壊活動の任務を与え、予算1億1554万ドル、要員1万2718名で発足した。終戦までに工作員と補助工作員合わせ3万人を越える大組織になった。

 8.7日  【死闘のガダルカナル戦】米軍がガダルカナル島上陸、攻防戦開始。日本軍は南太平洋において着実に占領地域を広げて行った。一方アメリカ軍は反撃の足場をガダルカナル島に固めた。米軍のガダルカナル島上陸が連合軍反抗の口火を切るエポックとなった。アメリカ軍に占拠された飛行場奪回のため、一木支隊900名の日本軍が正面から突撃開始し、死闘戦となった。日本軍は奪回を目指して以降数次にわたって突撃することになるが、功を奏せず翌43.2月に作戦終了となる。
これ以降、日米が対等に闘う条件は無く、戦局の帰趨が明らかになっていった。
 8.8日  第一次ソロモン海戦。開戦後一年も経たぬうちに、なんとなく風向きが変わりつつある気配を示していた。
 9月  米国で原爆開発のマンハッタン計画が始まる。
 11月  大東亜省発足。
 11月  ソ連軍のスターリングラードでの大反抗が開始され、成功する。

1943(昭和18)年の動き

 日本国内への中国人強制連行始まる。
 1月  米英首脳がカサブランカ会談。ドイツに無条件降伏要求を声明する。
 2月  ガダルカナル島で敗退。日本軍は川口支隊4000名の突撃、丸山師団の総攻撃にも関わらず敗退した。大本営は、あくまでガダルカナルの奪回を目指すのか撤退するのか重大な岐路に立たされ、撤退を余儀なくされた。
 4.18日  【連合艦隊司令長官山本五十六、ソロモン上空で戦死】この間日本軍は、ラバウルに進出し、この地に司令部を設け、山本司令長官は陣頭指揮で米軍優勢の航空兵力に対抗せんとしていたが、最前線視察途中撃墜された。
 (解説)

 米軍はこの頃既に日本軍の暗号解読に成功しており、山本長官の乗った一式陸上攻撃機の飛行計画を割り出し、P38戦闘機16機がソロモン諸島上空で待ち伏せ、撃墜した。米軍は、レックス・バーバーさんが尾翼部分を炎上させ、トーマス・ランフィアさんとの共同攻撃によるものと認定したが、バーバーさんはあくまで自分が単独で撃墜したと主張していた(2001.7.27日死去、84歳)。
 4.29日  【アッツ島日本軍全滅】千島列島に近いアリューシャン列島は、ここに航空基地を置かせてはならない北方の備えであったが、米軍1万1000名に対する日本軍2500名の山崎部隊は必死の防戦をするも耐え切れず全員突撃玉砕した。
 (解説)

 この頃、裕仁天皇は、杉山参謀総長に対し次のように伝えている。「我が軍がこのような定見のない戦略をとったのは遺憾なことだ。今後は部隊を動かす前によく先を見通すように---陸海軍が真に協力しあっているかどうか疑わしい。−−−我々は敵の妨害によって、我々と前線との連絡が断たれて困ることがしばしば起ってきている。今後の作戦に際してこのことを銘記しておくように」。



 4月、5月、毎月開かれる陸軍報道部主催の雑誌懇談会の席上で、陸軍報道部の杉本和朗少佐が次のように述べている。

 「中央公論は、再三再四の注意にも拘らず、依然として戦争傍観の態度をとっている。連載の谷崎潤一郎『細雪』の如きは国民の戦意を阻喪させる無用の小説である。又、戦局重大の折から共産主義思想の抱懐者ないし思想傾向の甚だ危険な人物に紙面を提供しているのは許しえない。我々陸軍当局はこの3月号の全表紙に『撃ちてし止まむ』の陸軍記念日標語を掲載するようお願いしたところ、ただある一誌を除く全雑誌ともこれにご協力いただいたことを改めて厚くお礼申し上げる。ところがこれを拒否したある総合雑誌のその態度こそ、まさに反軍的、軍への挑戦と断ぜざるを得ない。我々軍は、これに対し何らかの措置をもって臨む所存である」。

 「撃ちてし止まむ」を表紙に載せなかった中央公論は、大本営陸軍報道部から出入り禁止にされた。同社は、畑中繁雄編集長以下の編集部を解体し、全面降伏した。


 6.5日  山本五十六の国葬が盛大に執り行われた。
 7月  ニュージョージア島日本軍全滅。
 10.2日  学生、生徒の徴兵猶予を停止.学徒出陣.(94年党史年表)満20歳に達している学生はすべて徴兵。10.21日、神宮外苑.雨中の学徒壮行大会。

【中野正剛が自決】
 10.27日、中野正剛が自決する。前日の10.26日、憲兵隊の取調べから解放され、自邸に戻ってきていたが、同深夜自決した模様で、翌午前6時頃遺骸が発見された。10.31日、青山斎場で葬儀が行われ、緒方竹虎が葬儀委員長を務めた。弔辞を許されたのは徳富蘇峰一人という規制の中で執り行われた。

【中野正剛が自決】
 11.5日、東京で大東亜会議が開催された。日本、中華民国(南京、汪兆銘)、満州国の張首相、ビルマのバー・モウ、(華東の王)、タイのワン・ワイタヤコン殿下、フィリピンのホセ・ラウレル、インドネシア、インドのチャンドラ・ボースらが参集した。東条が議長となり、重光葵外相の根回しで、「大東亜戦争はアジア解放の為の戦争である」として「アジア人のためのアジア論」をぶちあげ、民族自決権を与えると言明した。

 大東亜宣言の要旨は次の通り。
 「大東亜各国は、相提携して大東亜戦争を完遂し、大東亜を米英の桎梏より解放して、その自存自衛を全うし、左の綱領に基づき、大東亜を建設し、以て世界平和の確立に寄与せんことを期す。以下云々」。

 11.25日  マキン.タラワ両島日本軍守備隊全滅。アメリカ太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将は、ハワイ真珠湾を基点とする日本の本土攻撃を想定し、その最短距離である中部太平洋を直接横断する出撃基地としてギルバート諸島のタラワ島を手に入れんとして、攻め落とした。
イタリア降伏。既にこの頃戦局は明らかな敗退期に入りつつあった。
 11.27日  【カイロ会談】米英中連合国首脳会談(ルーズベルト、チャーチル、蒋介石)によりカイロ会談が行われ、カイロ宣言を発表。日本に対し侵略地放棄を迫った。
 11.28日  【テヘラン会談】カイロ会談に引き続き米英ソ(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)間のテヘラン会談。この時、スターリンが、ドイツ降伏後に対日戦に参戦するとの密約をしている。その参戦時期の駆け引きが陰に陽に重要性を帯びていったのが、もうひとつの第二次世界絵巻であった。
 12.4日  第二回カイロ会談。

1944(昭和19)年の動き

 鹿島組花岡出張所へ中国人連行開始。
 2月  連合艦隊の根拠地トラック島壊滅。
 4.12  ルーズベルトの後を継いだトルーマン大統領がOSSの解散を命じた。戦後、CIAに発展的解消される。
 6月  米軍の駐ソ軍事代表団が、ソ連軍参謀総長・ワシレフスキーに対日戦への早急参加を要望する打診をしている。ワシレフスキーは、「対独戦争終結後」との姿勢を崩さず。
 6.15日  米軍サイパン島に上陸。
 6.18日  日本軍長沙占領。
 6.19日  【マリアナ沖海戦】海軍の決定的な敗北となり、空母の大半を失った(空母部隊壊滅)。
 7月  勝利を確信した連合国44カ国が、米国のニューハンプシャー州のブレトン・ウッズに集まり、第二次世界大戦後の国際通貨体制に関する会議を開き、国際通貨基金(IMF)協定、世界銀行(国際復興開発銀行)創設などを決定した。その結果、国際通貨制度の再構築や、安定した為替レートに基づいた自由貿易に関する取り決めが行われました。この体制をブレトンウッズ体制または、IMF体制という。米国の圧倒的優位の下に会議が運ばれ、米ドルを機軸通過として各国の交換比率が確定されることになった。
 7. 7日  【サイパン島陥落。日本軍玉砕、占領される】サイパン島の陥落は、政局を一気に流動化させ、米軍は飛行場を整備して本土爆撃を本格化させるための基地とした。
 7.18日  東條内閣総辞職。
 7.21日  米軍海兵隊がグアム島上陸。
 7.22日  東条英機内閣総辞職を受け、小磯国昭陸軍大将が内閣を組織、小磯内閣が発足。
 7.22日  中国で、バレット大佐を団長とする米軍事顧問団が延安の共産党勢力を視察訪問。この時随行したアメリカ政府外交官は「もし国民党が政治的・経済的な改革を行うことに失敗したならば、共産党は比較的短い歳月のうちに、中国における支配的勢力となるであろう」と報告書に記している。
 8月  学童疎開始まる。
 8.1日  地下に潜伏していた抵抗組織を先頭にワルシャワ市民がナチスに対して蜂起(「ワルシャワ蜂起」)、戦闘は63日間に及んだが鎮圧され、死者18万人にのぼったとされている。当時、ワルシャワの目前まで進軍していたソ連軍はスターリンの命令により進軍を停止。米英軍も救援を求めた蜂起の市民を見殺しにした。
 8.5日  大本営政府連絡会議が最高戦争指導会議に発展解消。会議の構成員が、両統帥部総長・首相・外相・陸相・海相と定められた。
 8.19日  午前会議が開かれ、「世界情勢判断」及び「今後採るべき戦争指導大綱」を策定決定し、「機を失せずにソ連を利用して情勢を好転させるよう努める」との政策が決定された。これに沿って対ソ特派使節派遣、対重慶政治工作が決まり、外交と戦争指導がどうにか噛み合い始めた。
 9月  スターリンが、ドイツの敗北を見極め、「対日戦を想定した部隊移送と補給整備についての研究」を指示している。10月初旬に報告書が届けられている。
 9.29日  グアム.テニアン日本軍全滅。
 10. 9日  モスクワ会談。
 10.17日  ソ連が米国に対日参戦の為の物資援助を要請。ルーズベルト大統領が直ちに援助物資と4万両のトラックを送る。
 10.20日  【レイテ激戦、米軍レイテ島上陸】アメリカ軍の怒涛の進撃が始まっており、日本軍はこれを阻止せんと必勝を期して「捷1号作戦」を発動した。戦艦「大和」・「武蔵」を中心とした日本連合艦隊がレイテ湾に突入した。この作戦のときから「神風特別攻撃隊」(カミカゼ特攻隊)が出現し、零戦でアメリカ空母めがけての体当たり攻撃が始まった。この戦闘が歴史上最後の最大の海戦となった。

 特攻戦術は以降エスカレートし、「桜花」(=人間爆弾)「回天」(人間魚雷)などの特攻兵器も開発された。一九四五年に入ると「全軍特攻の精神」が強調された、などとある。対米戦が続くにつれ、圧倒的な戦力の差を見せつけられた日本の軍人が考え出したのが特攻戦術であった。
 (解説)

 この時中央部隊の司令官栗田健男中将が、仕官たちを集めて旗艦である重巡洋艦愛宕の甲板で次のような檄を飛ばしている。「我が国が亡びる時、艦隊が関わり無く生き延びることは恥ずべきことだ。本官が信ずるに、大本営は我らに光栄ある機会を与えてくれているのだ。諸君は須らく奇蹟に類することが必ずや起る事を肝に命ずべきである。何人が我らに流れを変える何の機会も非ずと云い得るや?」。海戦敗退後の栗田に宛てられた大本営からの電文指令も「天佑を確信し、全軍突撃せよ」。
 10.24日  【フイリピン沖海戦、ルソン島の攻防】第14方面軍司令官山下泰文大将は、レイテ戦の敗北によって戦局の帰趨を知らされ、これまでの戦術を転換させ、持久戦構想を打ち立てた。アメリカ軍を出来るだけルソン島に釘付けさせ、日本本土攻撃を少しでも遅らせようとした。
 11月  サイパン島からのB29による空襲が激化
 11.7日  リヒァルト・ゾルゲと尾崎がロシア革命記念日に東京巣鴨の拘置所で絞首刑を執行されている。
 11.24日  B29東京大空襲。
 11.27日
 12月頃より  米ソ両国の間で、ソ連の対日参戦に関する具体的交渉が始まる。米側は、日帝の最精鋭部隊関東軍を対ソ連戦で釘付けさせることを狙い、ソ連側は、日帝の大陸権益の収奪と樺太・千島列島領土の取り込みを狙った。この両者の思惑がヤルタ協定へ結びついていくことになる。 
 復活節の日、日本のキリスト教会は、「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」を送り、この戦争こそアジア諸民族の解放をめざすものであり、神の聖なる意志であると説くことを余儀なくされた。空襲が激化すると、東京は焼け野原となり、多数の教会が罹災した。こうした非常事態の中、キリスト教団は「信仰問答」の作製に努め、文部省に草案を提出したが、文部省は、キリストの復活信仰は幼稚な迷信であるとして改正を要望した。

1945(昭和20)年の動き

 花岡事件(秋田県大館市に強制連行されていた中国人が蜂起し、多数の犠牲者を出したもの)発生。2000.11.30「歴史的和解」となる。
 1.20日  大本営、「帝国陸海軍作戦計画大綱」を上奏し裁可を受ける。
 1.25日  近衛文麿、岡田啓介、米内光政、京都の仁和寺の問跡岡本慈航らが会合、昭和天皇の廃位問題、敗戦後の処理を協議している。この場で、天皇の退位と出家が話し合われ、「天皇を法皇とさせ、問跡として仁和寺にお住みいただく」計画が練られたと伝えられている。

【「ヤルタ協定」と「第一回世界労働組合会議」】
 2.4日(〜11日) 、「ヤルタ会談」始まる。 米国ルーズベルト.英国チャーチル.ソ連スターリンが南ロシア・クリミヤ半島の保養地ヤルタで会談。中国の蒋介石は欠席。ソ連の対日参戦が議題にされた。米英は、日本の関東軍の世界に冠たる最強軍隊としての潜在能力を脅威に思っており、その活動を抑制するためにソ連軍の参戦が必要であった。

 ソ連は既に大量の援助物資とトラック1万台を受け取っており、参戦密約を交わす。この時、スターリンは、「わかりました。日本の占領は、百年の夢やから云々」と述べたと伝えられている。かくて、連合国とソ連共同の対日占領計画が敷かれることになった。

 但し、その見返りとして、モンゴルの承認、日露戦争で日本が取得した一切の権益(旅順港等々)と満州における鉄道権益の譲渡、帝政ロシア時代に失った各種利権(樺太、千島列島の領有権等々)をソ連が取得することがその条件であった。その他、国際連合の設置が討議され、ドイツ占領の目的とその管理方式、対独賠償などを取り決めた。

 この時、コミンテルン解散が打ち合わせされており、ソ連が帝国主義諸国の「革命の輸出」を行わないとの誓約をさせられている。つまり、露骨なパワーポリテックスが演ぜられたことになる。 「帝国主義とスターリン主義と複合的分割支配たるヤルタ協定を基軸とする戦後世界体制の成立」(田川和夫「戦後日本革命運動史1」)とみなすことができる。

 田川氏は、このソ連の取引に対しても次のように批判している。
 「このようなヤルタ協定の締結は、反ファッショ戦争の美名のもとに、米英仏帝国主義と野合し、帝国主義戦争に対するレーニン主義的原則をかなぐり捨てたスターリン主義の反革命的本質をますます露骨にさせていくことを意味していたのである。だからこそ、帝国主義国におけるプロレタリア革命の高揚に有機的に自己を結びつけることなど、何の恥じらいもなしに投げ捨てて、日露戦争敗北の報復とも云えるロシア民族主義を臆面も無く正面に掲げた要求をもって、帝国主義との取引を行ったのだった。そこには、無賠償・無併合を原則とするレーニン主義の革命性の一片すらもはや見出すことはできない。そして、このような領土拡張の要求は、日本に対するアメリカ帝国主義の軍事占領を、連合国の占領として承認を与えていくことにも通じていくのであった」(田川和夫「戦後日本革命運動史1」)。

 注目すべきは、2.6日〜17日までヤルタ会談と並行してロンドンで第一回世界労働組合会議が51カ国の労働者を代表する204名の代議員を集めて開かれ、世界労連結成の端緒をつくったことである。田川和夫「戦後日本革命運動史1」は次のように記している。
 「会議の準備には、ソ連労組中央評議会、アメリカ産業別労組会議、イギリス労働組合会議の英米ソ三組織があたったが、そこで討議されたことは、連合国の戦力増強に関する宣言であり、『戦後の再建と労働組合が直ちに取り上げるべき要求』にどについてのアッピールであった。つまり、英米帝国主義とソ連との連合戦線形成に伴う帝国主義とスターリン主義の分割支配の実現を労働組合運動の分野においても保障せんとしたのが、第一回世界労組会議であり、世界労連の結成なのであった」。
 この「ヤルタ協定」の成立により、連合国側にとってソ連の対日参戦は既定方針として位置付けられるようになり、ドイツの降伏を待つのみとなった。しかし、この密約について日本政府は知る由も無かった、とされている。

 2月  この頃、平沼騏一郎、広田弘毅、近衛文麿、若槻礼次郎、牧野伸顕、岡田啓介、東条英機らの重臣が各々天皇に拝謁して、戦局に対する見通しを上奏している。この時、明確な政治的方向性をもって天皇に上奏したのは近衛一人であった。
 2.14日  近衛文麿が「敗戦は必死」、「共産革命に備える敗戦対策の必要」を天皇に上奏。天皇、戦争継続を主張。
 2.19日  米軍、硫黄島に上陸開始。
 3. 1日  【硫黄島激戦】アメリカ軍は、B29による本土爆撃と沖縄作戦遂行の便宜からサイパンと東京の中間に位置する硫黄島攻略に目をつけ攻撃を開始した。栗林中将指揮する日本軍は洞窟陣地にたてこもり、抗戦した。3.17日二本軍守備隊全滅。この結果、B29の数百機の編隊が、日本の内地をいつでも好きなように空襲できることになった。
 3. 3日  【マニラ市攻防戦、米軍がマニラを完全占領】山下泰文大将はマニラ市を戦場から外そうとしたが、軍内部の反対により、2万人の兵士で玉砕死守戦に挑んだ。大将から元帥に昇進して意気軒昂のマッカーサー軍と闘ったが、撃滅された。
 3. 6日  「国民勤労動員令」公布。
 3.9日  【東京大空襲】3.9日夜から10日にかけて東京大空襲。米戦略爆撃機B29を主力とする150機の大編隊が東京上空に飛来し、100キロ爆弾6個と油脂焼夷弾45キロ級8500発、2.8キロ級18万発、エレクトロン1.7キロ級700発を投下した。東京の4割が廃塵と化し、死者8万8700名、負傷者4万を越える大惨事となった。
 3.21日  大本営、「硫黄島部隊の玉砕」を発表。捕虜となった210人を除いて全員戦死する。
 3.30日  「大日本政治会」結成。

【沖縄戦】
 4. 1日  米軍が沖縄本島に上陸を開始した。牛島中将指揮する日本軍は住民共々の防衛体制を敷き、6.23日まで沖縄戦が続いた。住民の集団自決も生み、一般県民の死者約9万4千名、軍属.軍人もほぼ同数が死亡した。

 4. 5日  小磯国昭内閣、沖縄戦最中に総辞職。
 4. 5日  ソ連、日本に日ソ中立条約不延長(廃棄)を通告。ソ連のモロトフ外相が、モスクワで日本の佐藤尚武駐ソ大使に対し、「日ソ中立条約は、その意義を喪失し、その存続は不可能となった」とのメッセージを読み上げた。日本側は、「翌46.4月の条約満期後、延長しないとの意思表示」と受け止めたが、ソ連側は、「日ソ中立条約の破棄を通告」したとしている。
 4. 6日  大本営が「菊水作戦」発動。 菊水作戦とは、第3、5、10航空艦隊の航空兵力をもって沖縄来攻の米軍に対し、大挙特攻攻撃を加えた作戦で、4月6日の1号作戦から6月22日の10号作戦にわたった。都合約1500機の特攻機が参加し、約二千人の兵士が沖縄の空に散った。この間、台湾の第1航空艦隊はこれに呼応し、陸軍の第6航空軍、第8飛行師団も策応した。

 4.1日、沖縄に上陸した米軍はその日のうちに北・中飛行場を占領する。飛行場が整備されたら機動部隊が作戦に参加する必要性は低下し、我が航空部隊による機動部隊の補足撃滅の機会もなくなってしまう。戦機はここ数日である。ここに沖縄を最後の決戦場とする海軍の総反撃と、本土決戦の時間を稼ぐ陸軍の反撃が開始された。「菊水1号作戦」は、特攻機が鹿児島・知覧飛行場から飛び立ち敢行された。これは参加機数・作戦期間とともに大東亜戦争中、最大規模の航空作戦であった。 
 4. 7日  鈴木貫太郎海軍大将が内閣を発足。
 4.13日  米国第32代大統領ルーズベルト(民主党)が急死し、ハリー.トルーマンが第33代大統領就任した。

 鈴木貫太郎首相は、同盟通信の海外向け英語放送を通じ、「大統領の逝去がアメリカ国民にとって非常なる損失であることが理解できる」云々と述べ、「深甚なる弔意」を米国民に表明した。一方、ヒトラーは、「運命が史上最大の戦争犯罪人を地上から取り除いた」との声明を発表した(五百旗真「日米戦争と戦後日本」)。

 チャーチルは、トルーマンと打ち合わせして、ソ連の日本上陸阻止政策に向うことになる。ソ連を満州に釘付けして、アメリカと英国で日本占領をやるということで合意した。トルーマンは、ルーズベルトが約束していたソ連への上陸用舟艇贈与を反故にした。ソ連は上陸用舟艇で北海道から東北を占領する計画を持っていたが、為に日本占領戦に乗り遅れることになった。
 4.15日  吉田茂が「近衛上奏文」関連容疑で憲兵隊に逮捕される。吉田は、45日間の勾留を経て釈放される。
 4.30日  ヒトラーが自殺。
 5. 7日 (〜8日)。ドイツ軍が無条件降伏した。
 5. 9日  日本政府、ドイツ降伏後も日本の戦争遂行決意は不変である旨の声明を出す。
 5.11日 「最高戦争指導会議」(総理大臣、陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣、参謀総長、軍令部総長の6名からなる)が開かれ、ソ連による調停で戦争終結を図る案が検討されている。5.14日、正式にソ連に対し和平仲介依頼の申し込みを決定した。
 5.24日  大本営が「義号作戦」発動。 沖縄の北・中飛行場に空挺隊を強行着陸させ、一時的に両飛行場を制圧し、その機に乗じて陸海航空兵力で沖縄周辺艦艇に総攻撃を行うことを企図した、陸軍による作戦。昭和20年5月24日 1850 熊本飛行場を離陸した重爆12機は沖縄に向かった。北飛行場に6機、中飛行場に2機、着陸成功が報告されたが4機が目的地に達せず引き返した。空挺隊員の決死の奮闘により飛行場は大混乱に陥り、作戦は概ね成功した。米軍戦史によると、飛行機9機破壊炎上、29損傷、7万ガロンのガソリンが炎上した。米軍の死傷約20名、義烈空挺隊の死体は69名が確認されている。なお空挺隊員の1名が敵中を突破し、6月12日頃島尻南部に到着、軍司令部に状況報告をした。 
 5.24日  (〜25日)。東京南部や横浜などが絨毯爆撃された。以降も続くことになった。
 5.28日  第三回モスクワ会談。この会談で、ソ連の8.8日までの参戦が明らかにされた。
 6.3日  広田弘毅が、ソ連のマリク駐日大使(スメターニンの後任)を疎開先の箱根に訪ね、対米和平の仲介役になってくれるよう依頼している。しかし、マリク駐日大使の返事は曖昧だっため、徒労に終わる。
 6. 8日  天皇臨席の最高戦争指導会議で、「本土決戦」の方針が打ち出される。
 6.13日  「大政翼賛会」解散。
 6.22日  天皇、終戦を目標とする「時局収拾」方策の具体化を指示。これを受けて対日戦に参加していないソ連を仲介にして和平交渉を開始することが決定された。
 (解説)
 この対ソ交渉のための特使に近衛が選ばれ、この時ブレーンと共に作成された「和平交渉の要綱」は、和平交渉の基本方針として、概要「国体の護持=天皇制の維持を絶対条件とするも、最悪の場合御譲位も止む無し」、領土は「固有本土をもって満足とす」、「民本政治」への復帰のため「若干法規の改正、教育の刷新」、「最小限度の軍備の保持が認められない場合は、一時完全なる武装解除に同意する」などを骨子としていた。但し、天皇の合意を取り付けていたのかどうかはっきりしない。
 6.23日  沖縄の日本軍が玉砕。「義勇兵役法」公布。
 6.29日  天皇からスターリン宛に、米英との戦争終結についての話し合いのため近衛文麿元首相を派遣したいとの密電を打電。ソ連は色よい返事せず。
 6.30日  秋田の花岡鉱山で、強制連行の中国人労働者が蜂起する(花岡事件)。

【「ポツダム会談」】(「終戦への動き」)
 7. 7日、トルーマンが、チャーチル.スターリンとの東ベルリンの郊外のポツダムでの会談に向かう。
 (解説)

 連合国によって降伏の条件と戦後の対日政策の基本が定められ、米.英.ソ連.中国の4カ国が署名した「ポツダム宣言」が発せられた。宣言には、侵略した領土の放棄.天皇制の専制支配の除去.平和的民主的な日本の建設が要点網羅されていた。こうしてポツダム宣言によって日本の降伏が呼びかけられた。大本営参謀本部は、戦争継続による徹底抗戦−玉砕の道(本土決戦派と呼ばれた)か無条件降伏(和平派と呼ばれた)かの二股の道のいずれに針路を取るべきか最後の決断が迫られることになった。日帝支配層にとって「国体(天皇制)護持」こそが死守すべき望みであったが、「ポツダム宣言」は天皇制の専制支配の除去を明確にしており、隠密の外交交渉によってもその確約は得られず困惑を深めていった。
 7.10  最高戦争指導会議が、近衛文麿のソ連派遣を決定し、ソ連に申し入れたが、7.18日拒否され、この目論みも潰えることになった。
 7.16日  米、ニューメキシコで世界最初のプルトニウム型原爆の実験成功。     
 7.17日  (〜8.2日)ポツダム会談が開かれ、米英中3国の共同宣言として7.26日、ポツダム宣言発表。ソ連には通告されなかった。日本に無条件降伏を呼びかける。ソ連は対日参戦と共に参加する。
 (解説)
 ポツダム宣言の内容を見るのに、軍国主義勢力の除去、連合国軍による保障占領、植民地・占領地の放棄、軍の武装解除、戦争犯罪人の処罰、国民の間の民主的傾向の復活・強化などの要求が突きつけられていた。

 東郷外相は、「無条件降伏を求めたものではない」として受諾を主張した。陸海軍から見れば想像を越えた苛酷な条件であり反発した。7.28日、鈴木首相は、記者会見で、「日本政府としては何ら重大な価値あるものとは思わない。ただ黙殺して戦争に邁進するのみである」との談話を発表した。

【広島へ原爆投下される】
 7.25日  原爆実験の成功を知ったトルーマンは、ソ連の対日参戦前までに原爆投下が必要と判断し、「広島、小倉、長崎、新潟いずれかの都市」への投下を命じた。
 8. 6日  広島に原子爆弾投下される。投下したのは米陸軍航空隊のB29型重爆撃機エノラ・ゲイ号(同機の機長・ポール・ティベッツの母親のファーストネームから命名、全長30.2m、翼幅43m)で、原子爆弾リトル・ボーイを搭載し、12名の搭乗員と共に太平洋西部のマリアナ諸島テニアン島の基地から飛び立った。原爆投下時の科学観測と写真撮影を行う2機を従えていた。日本時間午前8時15分、高度約9600mから原爆を投下、上空約600mで爆発した。同号は一線を退いた後、解体し保存され、胴体部分が1995年に米国スミソニアン博物館に展示されている。

 トルーマンは、次のように述べている。「原爆をどこでいつ使うか。その決定は私に一任されていた。誤解が無いようにしてもらいたい。私は原爆を一つの武器だとみなしていた。その使用に疑念を持ったことはない。私がチャーチルに話したとき、彼も躊躇せず答えた。戦争を終わらせるのに役に立つであろうから、使用に賛成だと」。

【ソ連参戦の駆け引き】
 スターリンは、45.5月のドイツ降伏後より3ヵ月後の8月下旬よりの対日攻撃計画を立てていた。しかし、7.16日にアメリカが原子爆弾実験成功の報を受けるや、急遽対日攻撃計画の日程切り上げを命令した。

 日本側は、シベリア鉄道の輸送能力から推定し、ソ連軍の対日攻撃を早くても8月末、通常9月か10月まで開始できないと想定していた。ならば3ヶ月を乗り切れば、酷寒の季節が到来するので、翌年春までに防御施設の構築を進めれば関東軍は持ちこたえられると読んでいた。

 しかし、広島への原爆投下を見て、ソ連は佐藤駐ソ日本大使に「明日、モロトフ外相が大使と会見する」との通知を行い、8.8日、佐藤駐ソ日本大使が出かけると、「ソ連政府は、7.26日に発表された『ポツダム宣言』(日本への無条件降伏要求)に加入しました。ソ連と日本は、現地時間の8.9日以降、戦争状態に入ります」の通告が為された。こうして、ソ連の対日参戦布告が為された。結局、虚虚実実の駆け引きの下で、日ソ中立条約は役に立たなかった。

 8.9日、予告通りに、ソ連の赤軍が満州、朝鮮(8.13日)、南樺太に侵攻を開始した。しかし、不意打ちをくらったとはいえ、関東軍は頑強に抵抗し続けた。

【長崎へ原爆投下される】
8. 9日午前11時2分 長崎に原子爆弾が投下された。米国のB29爆撃機「ボックスカー」が、広島を焼き尽くしたウラン型原爆より協力なプルトニウム型原爆を投下した。
 (解説)

 原子爆弾の威力は凄まじく民族抹殺の危機を募らせた。こうして大日本帝国は「進むも地獄、引くも地獄の」体制危機に陥った。

【御前会議(最高戦争指導会議)が開かれるも小田原評定繰り返す】
 8. 9日  御前会議(最高戦争指導会議)が開かれ、鈴木首相は、「これ以上の戦争継続は不可能だ」と初めて宣言受諾の意思を明言した。軍部は、1・国体維持(天皇制の存続)、戦犯処理に日本を加える、3・武装解除は日本が行う、4・占領の地域、兵力、期間を限定するの4条件が必要と述べ、、ポツダム宣言受諾派と条件付受諾派と徹底抗戦論調が交叉し、小田原評定の場となり容易に結論が得られなかった。
 8.10日  御前会議で「国体護持」条件にポツダム宣言受諾を決定。政府は、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に、帝国政府は右宣言を受諾する」とスイスとスウェーデンに電報を打った。
 (解説)

 鈴木首相が「かくなる上は異例の措置で恐懼に堪えないが、聖断を仰ぎ、それをもって本会議の結論としたい」と上奏し、「それならば自分の意見を云う。ポツダム宣言を受諾することに賛成である。---かくの如き状況で本土決戦をしてどうして勝てようか。国民全部が玉砕するとならば国を後世に伝えることが出来ない。どうしてもこの際は終戦の決心をしなければならぬ。---後世の為に平和な道を開くには、忍び難いものも忍ばねばならぬ。自分の一身のことや、皇室のことは心配せぬでよろしい」と仰せられたと伝えられている。

 8.12日  バーンズ長官名で、「降伏の瞬間から天皇と日本政府の国家統治の権限は連合国最高司令官に従属する(subject to)」との回答が為された。外務省は、「subject to」を「制限下におかれる」と訳したが、軍部は「隷属する」との意であるとして反発した。政府内は再び堂々巡りの議論に陥った。
 8.12日  北村サヨが「天照皇大神宮教(踊る宗教)」を開教。  
 8.13日  御前会議とそれに続く閣議が開かれ、受諾慎重論が台頭し、紛糾。

【御前会議がポツダム宣言の受諾を最終的に決定】
 8.14日  最後の御前会議。聖断は、「この際、先方の回答をそのまま受諾してよろしい」。午後11時、ポツダム宣言の受諾を最終的に決定、連合国に通告。
 (解説)

 場所は宮中の防空壕の中であった。まず東郷外相が宣言受諾やむなしを述べた。これに対し、阿南陸相が本土決戦を呼号して反対した。米内海相は外相説に賛成。平沼枢密院相は40分近く詮議した後外相説に賛成。梅津.豊田両参謀総長は陸相説に賛成。こうして抗戦派と和平派の比率は3対3。鈴木首相は事故の意見を述べず、陛下の御前に進み出て「この際は聖断を拝して会議の結論と致したく存じます」。こうして最後の決が天皇によってしか決められない事態となった。

 明治の政府と重臣達は、戦争しつつ引き際を考えていた節があるのに比して、天皇と最も近い立場にいた木戸内府は、「衆知を集めて熟慮すれども断行せず」。そうこうするうちにもこの間吉田一派の和平工作が進行していた。
 8.14日  阿南惟幾陸相が陸相官邸で割腹自殺。遺書には「一死をもって謝し奉る」と記されていた。


【花岡事件】
 中国から強制連行されて秋田県北の花岡鉱山の鹿島組花岡出張所で下請け仕事をしていた986名が、重労働や鹿島組補導員らの暴行・虐待・食糧不足などに抗議し、死を覚悟して6.30日深夜に蜂起した。しかし憲兵隊(秋田・青森地区)や地元の在郷軍人によって鎮圧された。日本の敗戦で帰国するまでに418名が死亡している。


【戦争犠牲者数】
 延べ1000万人の兵士が戦争に参加し、失われた兵対数は約200万、非戦闘員まで含めると約300万の人命が失われた。焼失住宅戸数は310万戸、戦費2200億円と云われている。


太平洋戦争における日本側の死者の数字
・陸軍戦死者数:約144万人
・海軍戦死者数:約 42万人
・軍属    :約  9万5千人
・一般国民  :約 69万人
・合計    :約250万人
このうち注目するのは、陸軍の死者が戦闘による戦死者より戦病死者数が上回っていたことです。戦病死者の多くはガダルカナル島での戦闘や、インパール作戦に見られる兵站を無視した作戦により、飢餓に陥り伝染病・風土病にかかり死んでいった兵隊達であります。いかに旧日本軍が無謀な作戦を行って無駄に兵隊の命を散らしていたか如実に示す実例であります。これでは既にまともな戦争をやっていたとさえ言えない。


【本土爆撃の実態】
 建設省が57年刊行した「戦災復興史」によると、全国の被災地は215都市計約645平方キロ.メートル、犠牲者は47年1月結成の全国戦災都市連盟が113都市を調べた分だけで51万人、被災人口は964万人に達していた。

当初は、飛行機製作所、軍需工場が専ら狙われたが、45.3.10日の東京大空襲以降は、中低空で大量の焼夷弾を投下し市街地を焼き尽くす無差別爆撃が始まった。東京は45.3.10日の東京大空襲で約27万戸を焼き、約8万4000人が死亡した。日本政府は、45.8.10日付けで東京大空襲を始めとする都市爆撃は国際法違反にあたるとして米国政府に抗議している。この問題は未解決となっている。

 <1000人以上の死者を出した都市一覧表>(全国戦災都市連盟調査)

都市 死者数
広島 260000
東京 94225
長崎 74604
大阪 10388
名古屋 7802
神戸 6235
横浜 4616
浜松 3239
鹿児島 2427
富山 2275
2062
1876
青森 1767
岡山 1737
静岡 1603
福井 1600
1600
明石 1464
高松 1316
大牟田 1291
日立 1266
千葉 1173
長岡 1167
八幡 1130
和歌山 1101
佐世保 1030


【原爆投下直後の米軍ビラ】
 米軍は、原爆投下直後に全国で「即刻都市より非難せよ。日本国民に告ぐ」の見出しビラを大量散布した。ビラには次のように書かれていた。「米国は今や何人もなし得なかった極めて強力な爆薬を発明するに至った。今回発明せられた原子爆弾は只その一個を以ってしても優にあの巨大なB29二千機が一回に搭載し得た爆弾に匹敵する。---もし諸君がなお疑いがあるならば、この原子爆弾がただ一個広島に投下された際いかなる状態を惹起したか調べて御覧なさい---」などと書かれていた。







(私論.私見)