武装闘争路線考、背景事情考その2

 更新日/2021(平成31→5.1日より栄和元/栄和3).5.20日

【武装闘争路線考、背景事情考その2】
 宮地健一氏の「共産党、社会主義問題を考える」所収の伊藤晃・氏の「抵抗権と武装権の今日的意味」(脇田憲一著「朝鮮戦争と吹田・枚方事件」解説 武装闘争方針の実態と実践レベル)に触発され、これを下敷きにしながられんだいこコメントしておく。
 脇田憲一氏は、「50年党分裂」時代に徳球系党中央が呼びかけた武装闘争に参加した経験を持つ。かの武装闘争は、日本左派運動が武力闘争に取り組んだ史上初の経験として意義を持っている。結果的に戯画的な運動しか展開できなかったにせよ、この経験から何を総括するのかにつき真剣に議論されてしかるべきであろう。なぜ議論が封殺されたのか。それは、その後党中央に登壇した宮顕系党中央の逆指導による。宮顕は、「50年党分裂時代の武装闘争」の意義を全否定し、「武力闘争は党の実権を不法に独占した一派が勝手にやったことで党が正式に採用した方針ではない」として責任回避し、これがその後の党の決定となった。

 宮顕系党中央の出現以来、「50年党分裂」時代の武装闘争派は冷や飯を食わされることになった。そういう事情にも規定され、伊藤晃・氏は次のように述べている。
 「今日でもこれを肯定的に語る人はほとんどいない。これを研究しようとする人も現れなかった。そこでこの時期の諸事件、そのなかの事実・経験が全体として歴史から抹殺された形になっている。共産党自身、むしろ率先して隠蔽を作為したのである」。

 この時の武力闘争は、折から戦われていた朝鮮戦争に対し実力阻止を目的としていたが、当時の宮顕派の関心はこういうところには向かわなかった。むしろその間隙を縫って奪権闘争に精出し人事抗争に熱中していた。れんだいこは、凡そ意図的とみなしている。この闇を解明せねばならない。その手始めに、武力闘争に従事した当事者たちが口を開くことである。彼らの発言はこれまであまり聞かれなかった。かくて、「50年党分裂時代の武装闘争」は「歴史に封印」され、かの時代の武装闘争を検証する者がいない。

 けれども史実は消せない。そういう状況の中、脇田氏は、「朝鮮戦争と吹田・枚方事件」を著し、「50年党分裂時代の武装闘争」の意味と意義の見直しに着手した。「当時の青年たちが抱いていた社会変革の意志の妥当性、それが本当はどういう運動に実現されるべきだったのか」を問おうとしている。
問題となるのは、「人民の抵抗権・武装権問題」である。脇田氏の観点の良さは、凡百の武装批判論に陥ることなく、「50年前後、米軍権力・日本国家権力に大衆的実力で抵抗しょうという情熱が広く存在したとすれば、それほどういう方向へ発展させるべきだったのか」と問うていることに認められる。

 実際の武力闘争は企画倒れで、軍事方針は分散的で矮小な行動・組織に具体化されたにすぎなかった。中核自衛隊、独立遊撃隊が組織され、これを地下組織Y機関が指導したが、情勢分析も不十分なものであり、指導に首尾一貫性がなく、経験から学ぶこともなかった。どうしてこういうことになったのか。そもそも武力闘争とは何であったのか。その軍事方針を国内で指導したのは志田重男一派であった。志田派は、やがて所感派内でのヘゲモニー争いに興じ、伊藤律派を駆逐していった。この闇は別途考察を要する。 

 在日朝鮮人活動家問題も考察を要する。彼らは、自らの祖国問題も絡んでいたこともあって積極的に武力闘争に呼応した。民戦-在日朝鮮統一民主戦線に結集し、その指導組織ないし行動組織として祖国防衛委員会、祖国防衛隊を創設し闘った。それは日朝共同の闘争として闘われた。日本革命なしに祖国の問題は解決しないとの認識の下で、祖国防衛運動をも日本への米軍支配との闘争、基地反対、再軍備反対、全面講和運動に結合すべきだ、という論理に立っていた。

 人民が本来持つ抵抗権、武装権の思想も理論化されねばならない。抵抗権は、枚方・吹田事件などでの裁判闘争で、被告・弁護団が憲法上の人民の権利の範囲内にあるものとして主張された。但しそれは無罪をかちとるための論証に使われたのであって、それ自体の意義の理論化を求めたものではない。著者はさらに武装権を主張している。本書は、大衆的実力闘争への情熱にその思想がどう発現したかを検証している。 

 武装権に伴う武器使用の理論化も要する。これは軍事行動としての武器使用、大衆的示威行動における武器使用の場合に分かれる。確認すべきは、ある局面での武装の正当性であろう。武装の段階、形態はさまざまであり、もたらされる結果にも幅がある。問題は現実化した武装闘争の評価如何である。あれこれの武器を手にとる人民的武装を、人民が選択の権利を有する政治運動上の一般的概念として理論化されなければならない。

 朝鮮戦争のなかで、活動家たちは、当時のアメリカ・日本の支配勢力の有する格段に高い軍事力に対し、自分たちの格段に低い「力」を対置した。それを正面からにせよゲリラ的形態でにせよ、効果的に機能させる手段として大衆的な実力による抵抗闘争を企画した。こうして大衆的示威、米軍基地への行動、軍需生産・軍需輸送阻止行動に向かった。この時の、人民的武装に対する歴史的評価基準も理論化されなければならない。著者は右の評価基準で吹田事件を研究した。この事件で人びとに武器を握らせたのは実在した情熱である。その武器を軍事行動でなく大衆的示威行動として生かすことで政治的成功を見たのだ、と述べている。

 宮顕派の共産党は、いわば「戦後責任」の拒否によって、黙秘によって党を守った党員を実際上見放した。彼らは当時の方針に生命がけで挑み、起訴されており、今後は自力で闘わなければならないことになった。彼らは、武力行動を指示ないし煽動しながら実際の行動に一揆主義等の冷罵を浴せる態度に耐えた。奥吉野・奥有田の「独立遊撃隊」は数カ月で補給を断たれた。この無責任は各地の山村工作隊に共通している。また1952.8月、徳田球一「日本共産党三〇周年記念に際して」なる文章の発表を機として武器の直接行使を引込めたとき、その転換が党員に明示されなかっただけではない。ある大衆集会で、川上貫一が、「今後火炎ビンを投げた党員はただちに除名されるだろう」と演説し、その集会防衛のために党の指令で火炎ビンを隠し持って参加していた著者が唖然とさせられている。別のある人は、党の指示した行動で被告になったとき、党員弁護士から「君、党はテロをやらないことになっているんだよ」と冷然と言われたという(「運動史研究」第四号七一頁、吉野亨)。彼らは、党の冷淡な視線の下でその闘いを全うした。本書の著者もその一人である。

 著者は六全協に際して、武力闘争事件被告であるという理由で党機関要員から外された。誤謬の訂正の「権限」を党指導部が独占し、当事者を、誤った方針におどらされたまったく受動的な存在として冷笑的に扱った。これが武力闘争の一つのしめくくりの仕方であった。





(私論.私見)