2002年代当時 |
3.29日、リクルート事件の判決。江副元社長が東京地裁で懲役4年の求刑を受けた。リクルート事件東京地裁での公判で、検察側は、「企業利益追求のため、わいろ提供を通して国政や公共的事業を私物化しようとし、国民の信頼を著しく失墜させた」と指摘し、「被告は贈賄の首謀者で事件の元凶。刑事責任は極めて重い」として元リ社会長江副浩正被告(65)に懲役4年を求刑していた。 9.21日付け赤旗は、「リクルート事件裁判が示した政治の課題」として次のように述べている。 リクルート事件の贈賄側中心人物、元同社会長、江副浩正被告(66)の十三年近くに及んだ公判が十九日、結審し、来年三月四日に判決が言い渡されることになりました。故竹下登首相の退陣など、政権中枢を揺るがした同事件は、いま何を日本政治に提起しているのか――。 一九八八年に発覚したリクルート事件は、竹下氏はじめ、中曽根康弘元首相、宮沢喜一元首相、故安倍晋太郎元幹事長などの派閥領袖や、加藤紘一元幹事長、森喜朗前首相など当時の自民党首脳からニューリーダーなどの政界、文部、労働両省(当時)の事務次官、NTTの会長、マスコミ幹部などに「値上がり確実」な未公開株をばらまいた空前の一大疑獄事件でした。公明、民社、社会各党の幹部にも未公開株が譲渡され、まさに「政界総汚染」の状況を示しました。 十九日の最終陳述で江副被告自身が、「(多くの方々が)未公開株を取得したことで、その立場や名誉を失い、政治の混乱を招いた」とのべたとおりです。 ところが、政界にかぎっていえば、受託収賄罪で起訴されたのは、自民党の藤波孝生元官房長官と、公明党の池田克也元衆院議員の二人だけでした。多くの政治家は、未公開株を公開直後に売りぬけ、文字通り「ぬれ手であわ」の大もうけをしながら刑事責任の追及を免れました。中曽根氏のように、いまでも小泉政権の「後見人」のような顔をしている政治家もいます。蔵相を辞任した宮沢氏は首相になるなど「復権」し、三万株の譲渡を受けた森氏も首相になり、いまでも総裁派閥の領袖として影響力を誇示しています。加藤氏も派閥領袖になり、「もっとも首相に近い」とまでいわれ、金庫番秘書の前事務所代表の口利き疑惑で議員辞職したものの再起を期しています。 リクルート事件後の、ゼネコン汚職、佐川・暴力団疑惑、ムネオ疑惑など相次ぐ金権腐敗事件は、ワイロで政治を動かす自民党型政治がなんら変わっていないことを示しています。リクルート事件の最終弁論で、弁護側は未公開株の譲渡は、「定期的な政治献金の一環」などとワイロ性を否定しようとしましたが、このことは逆に企業・団体献金の禁止こそ緊急に求められていることを改めて浮き彫りにしました。(藤沢忠明記者) |
5.28日初代会長に奥田氏を選任 日本経済団体連合会スタート |
経団連と日経連が統合する日本経済団体連合会の設立総会が28日午後、東京都内で開かれ、初代会長に、日経連会長だった奥田碩・トヨタ自動車会長を選任した。奥田新会長は「個人、企業が十分に活力を発揮できるような環境整備に全力を傾注する」とあいさつした。
統合は、政策提言能力の強化と、「財界」の地盤沈下に歯止めをかけるのがねらいだ。経済政策、税制のほか、医療、年金など社会保障、雇用対策などについて経済界の考えを反映させる総合的な提言団体を目指す。 役員人事では、副会長15人のうち、9人が経団連、4人が日経連のそれぞれの副会長が就いたほか、御手洗冨士夫・キヤノン社長、柴田昌治・日本ガイシ社長を選んだ。また、日経連を支えてきた都道府県の経営者協会をまとめていくため新たに設けた地方団体長会議の議長に浜田広・副会長(リコー会長)を選んだ。 説立総会に先立ち、日経連は最後の定時総会を開き、解散を承認し、55年の歴史を閉じた。(朝日15:57) |
登紀子さんと獄中結婚 元全学連委員長の藤本敏夫氏死去 |
元反帝全学連委員長で、環境問題にも取り組んだ藤本敏夫氏が31日午後3時、肺炎で死去した。58歳だった。通夜・葬儀は親族のみで行う。「お別れ会」は18日午後1時から東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所で。喪主は妻で歌手の加藤登紀子さん。連絡先は渋谷区千駄ケ谷5の16の10の1001の「トキコ・プランニング」。
68年、反帝全学連委員長として、防衛庁や国会に突入を図り、逮捕された。交際中の加藤さんは、その時の寂しさを「ひとり寝の子守唄(うた)」で歌った。2人は72年に「獄中結婚」し、話題を呼んだ。有機農業などに取り組み、92年の参院選に立候補したが落選した。 加藤さんは「彼が必死の思いで残した未来への夢を受け継ぎ、やり遂げたい」とのコメントを発表した。 (朝日新聞21:58) |
元全共闘リーダー、民主参院議員の今井澄氏死去 |
民主党参院議員の今井澄(いまい・きよし)氏が1日、胃がんのため長野県茅野市宮川11112の3の自宅で死去した。62歳だった。葬儀は8日午後2時から同市仲町1の22の茅野市民会館で。喪主は長男拓(たく)氏。
旧満州(中国東北部)のハルビン生まれで、東大医学部卒。学生時代に学生自治会中央委員会議長に選ばれ、全共闘リーダーとして東大闘争を指導。安田講堂事件では最後まで講堂に立てこもった。卒業後は医師となり、諏訪中央病院院長などを務めた。92年、参院長野選挙区から旧社会党公認で初当選。98年、参院比例区に転じ、民主党で当選、2期目だった。 |
反軍拡・利権阻止の石井紘基議員はなぜ刺殺されたのか。 2002・10・25 |
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12.3日、民主党の鳩山由紀夫代表が辞任表明。後任は、代表選挙のやり直しで菅直人に。