第55部 | 1993(平成5)年当時の動き、主なできごと.事件年表 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
2002.10.20日 れんだいこ拝 |
【社会党の山花委員長、赤松書記長体制が発足】 |
1.4日、社会党委員長選に山花氏が立候補表明。党内一本化の方向右派の「政権構想研究会」と「水曜会」、中間派の「社会民主主義フォーラム」の幹部から支持を取り付けたのを受け、立候補を正式表明した。1.6日、立候補受け付けで山花氏のほかに届け出はなく、山花貞夫氏が社会党委員長に無投票当選。1.19日、社会党第59回臨時大会で山花執行部正式発足。書記長は当選1回の赤松氏(右派系「政構研」)を抜擢した。副委員長・久保亘。 |
【宮澤内閣不信任案が可決され衆院解散】 |
6.17日、社会、公明、民社の3党が宮澤内閣不信任案を提出した。 6.18日、自民党竹下派から羽田.小沢派の43名が離脱。自民党羽田派34名、他派閥議員5名が賛成、病欠を除く16名が採決に欠席し、内閣不信任案が可決される。これにより、大平内閣以来13年ぶりとなる衆院解散となる。「政治改革解散」と云われる。自民党宮澤総裁退陣=自民党第15代総裁で崩壊=徳川政権と類似。改革国会=「実らぬ論議80間」→国会予算'93 年度977億円(1日=2億6千万円×83日=200億円の「無駄遣い」)。 |
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羽田、小沢グループが宮沢内閣不信任案に賛成し、自民党を離党することになる。これが政界再編の動きを本格化する。小沢は、1980年代後半から常に党運営の中枢に携わり、特に、海部内閣時代には幹事長として政権運営の中心にあった。その小沢が自民党を脱党するには相当の理由があったと云わねばなるまい。事実、その後の紆余曲折、辛酸苦労を思えば利権的なものを求めての遊泳論など児戯的と云うべきであろう。評者がいろいろに論じているが、まともなものに出会ったことがない。れんだいこが見るところ、ズバリ自民党の変質に対する反発をバネにしていると解すべきであろう。政治改革、政界再編を眼目とするが、その本質は全てここにある。 では、「自民党の変質」とは何か。れんだいこの評するところ、1970年代まで主流派を形成していた戦後ハト派政治から1980年代初頭より転換したタカ派政治、その一層のネオシオニズム化政治を指している。ネオシオニズム化政治との協調と転換こそが小沢政治の眼目となる。これに触れない政治評論は、これを誤魔化す為の駄弁的作為理論に他ならない。こう解するべきであろう。 2009.9.9日 れんだいこ拝 |
【「新党さきがけ」、新生党結成】 |
6.18日、竹村正義自民党政治改革本部事務局長、鳩山由紀夫ら10名も自民党を離党、6.21日、「新党さきがけ」を旗揚げする。 6.23日、羽田派44名が自民党を離党し「新生党」を結成する。これにより、自民党は分裂選挙で過半数割れし、非自民連立の細川政権誕生劇を生むことになる。 |
【第40回衆議院議員総選挙】 |
7.18日、第40回衆議院議員総選挙→自民党過半数割れ、社会党惨敗(社会党選挙戦で小選挙区比例代表制を含めて小選挙区制に反対のスローガンを有権者に訴えた。この選挙で小選挙区比例代表並立制を選挙公約に掲げた政党は皆無。(自民233、社会70、新生55、公明51、日本新35、共産15、民社15、さきがけ13、社民連4、無所属30)。 自民党を離党した羽田派が結成した新生党、同じく武村正義らのグループが結成した新党さきがけ、前熊本県知事の細川護煕が前年に結成した日本新党の3新党は計100議席余りを獲得した。その煽りを受けた社会党は、1989年の土井委員長の下での総選挙では消費税への反対票を吸収して139議席の勝利を勝ち取ったものの、その後の「政権を担いうる現実政党への脱皮」という名目での右傾化により労働者から見放され、再び77議席へと半減する。社会党は以降、漸減し始め、遂に解党に追い込まれることになる。 |
【「河野談話」】 | |
8.4日、河野洋平官房長官(当時)が歴代内閣が継承してきた日本軍「慰安婦」問題についての日本政府の公式見解として「慰安婦関係調査結果に関する河野内閣官房長官談話」を発表した。これを「河野談話」と云う。この流れが1995.8.15日の「村山談話」に続く。
「河野談話」は、「従軍慰安婦」問題について日本の国家的責任と謝罪と賠償を引き受けることを声明している。その論理は、「当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である」として「軍の関与」を認め、これにより「政府の責任は避けられない」とし、このため「元慰安婦の方々に心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」と謝罪している。強制について、「本人たちの意思に反して行われた」こととし、「慰安所における生活は強制的な状況の下での痛ましいものであった」としている。慰安所の設置・管理と慰安婦の移送についても、日本軍が「直接あるいは間接に」関与したとしている。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当ったが、その場合も「甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例」が数多くあり、「官憲等がこれに加担したこともあったことが明らかになった」として軍・官憲の加担による責任を認めている。歴史研究・歴史教育に関して、「われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい」とし、「われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する」と内外に宣言している。 |
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既に宮澤首相が退陣表明し、「河野談話」の三日後に細川政権が誕生すると云う政治局面で、「河野談話」が出されていることが解せない。中身以前のこととして、いわゆる「死に体内閣」の下で出せるような性質のものではなかろう。そこが臭いと思う。 2014.6.21日 れんだいこ拝 |
【細川連立政権成立】 | |
8.5日、第127回国会(特別会)召集。8.6日、衆参両院の首班指名選挙で細川護煕日本新党代表を選出、細川護煕が第79代首相に就任した。 8.9日、細川内閣が組閣された。細川政権は、日本新党、日本社会党、新生党、公明党、民社党、さきがけ、社民連の「7党1会派」で、日本新党の党首を首班、社会党を与党第一党とする非自民8党派の連立内閣となった(「細川連立政権成立」)。内閣のキャッチフレーズを「責任ある変革」とし、自らの政権の性格を「政治改革政権」と規定した。細川政権は、1993(平成5).8.9日−1994(平成6).4.25日までの約8ヶ月間の短命内閣となる。 この内閣の成立で、38年間続いた自民党一党支配体制が切断され、55年体制が崩壊した。新しい時代の幕開けを感じさせる画期的な役割を果たした。細川氏は、2010.1.1日の日経新聞「私の履歴書」で次のように述懐している。
内閣総理大臣・細川護煕、官房長官・武村正義。内閣官房副長官・鳩山由紀夫、内閣官房副長官・石原信雄、内閣法制局長官・大出峻郎。法務大臣・三ヶ月章、外務大臣・羽田孜、大蔵大臣・藤井裕久、文部大臣・赤松良子、厚生大臣・大内啓伍、農林水産大臣・畑英次郎、通商産業大臣・熊谷弘、運輸大臣・伊藤茂、郵政大臣・神崎武法、労働大臣・坂口力、建設大臣・五十嵐広三、自治大臣・佐藤観樹(兼任) 、内閣官房長官・武村正義、国家公安委員会委員長・佐藤観樹(兼任)、総務庁長官・石田幸四郎、北海道開発庁長官・上原康助(兼任)、防衛庁長官・中西啓介、愛知和男(平5.12.2−)、経済企画庁長官・久保田真苗、科学技術庁長官・江田五月、環境庁長官・広中和歌子、沖縄開発庁長官・上原康助(兼任)、国土庁長官・上原康助(兼任)、国務大臣・羽田孜(兼任・副総理) 、国務大臣・山花貞夫。社会党の土井党首が憲政史上初の女性としての衆院議長に就任。 |
【細川首相声明】 |
8.10日、細川首相が初閣議後の記者会見で、年内に政治改革が不成立なら政治責任を取ると言明→細川内閣の支持率、各社の調査で軒並み70%を越え、田中内閣を上回る戦後最高を記録した。 |
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細川政権の誕生の史的意義は、「自社の対立と協調による両建て支配による55年体制」を崩壊せしめたことにあった。「政・財・官癒着的既成政治、政治腐敗、金権政治の打破」を目指して一連の政治改革に向かう。これが細川政権の内治政策の筆頭課題となった。外治政策として「コメ問題の現実的処理」、国際的貢献における軍事貢献が問われていくことになった。 しかし、連立与党内は与党第一党・社会党の与党的政治能力の欠如もあって、「船頭多くして、船、丘に上る」式の亀裂が付きまとった。これに、新生党(代表幹事・小沢一郎)の「国際的軍事貢献を含む普通の国」路線、新党さきがけ(党首・竹村正義)の「憲法尊重、反大国主義」路線が衝突し政権の舵取りが混迷を深めていった。 |
週刊ポスト2019年5月3・10日号、●聞き手・レポート/武冨薫(ジャーナリスト)の「小沢一郎氏が振り返る「宮沢倒閣」から細川護熙政権まで」。
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