第54部 | 1992(平成4)年当時の動き、主なできごと.事件年表 |
更新日/2019(平成31→5.1日より栄和元).5.10日
(れんだいこのショートメッセージ) |
2002.10.20日 れんだいこ拝 |
【ロシアが、北方領土「二島先行返還」を秘密提案】 |
3.20ー21日、ソ連が崩壊し新生ロシアとなった直後の92年3月、コーズィレフ外相が初来日し、外務省の飯倉公館で渡辺美智雄外相と会談した。日本側は、渡辺外相のほか、外務省の小和田恒事務次官、斉藤邦彦外務審議官、兵藤長雄欧亜局長らが出席した。この外相会談で、ソ連側が北方領土問題での秘密提案をしていたことがわかった。1・日ロ平和条約を締結して歯舞、色丹の二島を日本に返還する。2・国後、択捉の二島については平和条約締結後も協議を継続するとの「二島先行返還」案を秘密提案した。日本側は対応を検討し、提案を受け入れる前提として、「国後、択捉の将来の引き渡しが確約されないと条約は締結できない」と主張した為、交渉は決裂に終わった。複数の日ロ外交筋が明かした。 当時、ロシア外務省の一部には将来の四島返還に前向きな意見もあった。日本側は秘密提案を受け、「国後、択捉を日本の領土と確認し、何年か後に還してもらうことが可能だと思った」(日本外務省高官)という。 しかし、その後ロシア国内の政情が不安定になり、エリツィン大統領の政権基盤が弱まったことなどから、交渉は難航。93年秋に大統領の来日が実現したときには、すでに提案をめぐる交渉は決裂していた。 ソ連政府は、「二島引き渡し」を明示した56年の日ソ共同宣言の後、冷戦を背景に領土問題の存在すら認めなくなった。が、ロシア政府は冷戦終結を受けて西側諸国との新たな関係を模索。対日関係でも従来の方針を転換し、譲歩できる限界の妥協点として秘密提案を示した。提案は、交渉が実らなかったため、「存在しなかったことになっている」(日ロ外交筋)という。(2002.5.21日付け朝日コム参照) |
【細川護熙前熊本県知事が「日本新党」結成】 | |
細川護ひろ前熊本県知事・自民党衆議院議員が、月刊文芸春秋誌上に新党結成を宣言し、次のように述べた。
5.7日、細川護ひろ前熊本県知事・自民党衆議院議員が一人で記者会見に臨んだ。5.22日、細川護熙前熊本県知事が自民党を離党し「日本新党」を結成。 |
【金丸副総裁の佐川急便献金事件】 |
金丸信副総裁が佐川急便から5億円を受け取っていたことが報じられる。8.27日金丸副総裁が、佐川急便からの5億円献金問題で事実関係を認めて、副総裁と経世会会長を辞任。9月、政治資金規制法違反で略式起訴、罰金20万円。10月、議員辞職。 |
週刊ポスト2019年5月3・10日号、●聞き手・レポート/武冨薫(ジャーナリスト)の「小沢一郎氏「宮沢喜一さんなんか選ぶんじゃなかった」の真意」。
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【自衛隊初の海外派兵】 |
9.17日、宮沢政府は、自衛隊(陸上自衛隊施設部隊)をカンボジアの国連平和維持活動軍に派兵した。自衛隊の海外を越しての初の派兵となった。国連カンボジア暫定統治機構(untac)の明石康特別代表が手引きした。 |
【週刊文春が野坂参三疑惑レポート連載】 |
1992年ソ連崩壊1年後、ソ連共産党の保管文書からソ連共産党・コミンテルン秘密資料が発掘され、野坂が戦前、山本懸蔵同志らを密告し、銃殺に至らしめたとされる手紙が見つかった。小林俊一・加藤昭らによる「野坂ファイル」の発掘・分析の成果であった。 9月、「週刊文春」は、モスクワで発掘した資料に基づいて、野坂参三疑惑レポート「同士を売った密告の手紙」を10回にわたって連載した。翌93年に「闇の男・野坂参三の百年」(文芸春秋社)が出版されている。この連載によって、野坂がコミンテルン時代に同志の山本懸蔵を密告し、スターリン粛清に供した張本人であること、またアメリカ経由で入ソした日本人6名の銃殺にも直接関係していたこと、さらに山本の妻の関マツらがシベリア流刑にされたのを見捨てて顧みなかっただけでなく、その事実の発覚を恐れて関マツの帰国を妨害しつづけ、遂に故国の土を踏ませぬまま狂死に近い悲惨な最後に追いやったことなど、衝撃的な事実が暴露された。伊藤律幽閉問題にも発展していくことになった。 |
9.17日、党中央委員会は、党創立70周年の式典が終わってまもなく野坂氏の名誉議長解任を決定。 |
【天皇皇后が中国を公式訪問】 |
10月、 天皇、皇后両陛下が、国交回復20周年を記念して、中国を初めて公式訪問した。歓迎晩餐会で「我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります」と発言した。 |
【竹下元首相を東京佐川急便事件で証人喚問】 | |
11.26日、衆議院予算委員会が、竹下元首相を東京佐川急便事件、皇民党ほろ殺し事件で証人喚問。最後の質問で、中野寛成に「青木をはじめ、竹下の周囲の人物に起こる悲劇と竹下の政治的な体質についてどのように思うか」(「相次ぐ秘書の自殺にあなたは責任を感じないのか」)と質問を浴びせられた竹下は次のように答えている。
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この時の「罪万死に値する」発言が、岩瀬達哉の評伝「われ万死に値す―ドキュメント竹下登」 (新潮文庫、2002.3.1日頃初版)に使われている。同書の内容紹介で次のように記されている。
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12.12日、宮澤改造内閣。首相・宮澤喜一(宮澤)、官房長官・河野洋平。幹事長・梶山静六(竹下派が小渕派(小渕恵三)と羽田派(羽田孜)に分裂、小渕派)、総務会長・佐藤孝行(渡辺)、政調会長・三塚博(三塚)。 |
【野坂名誉議長解任される】 | |
小林俊一・加藤昭らによる「週刊文春」誌上での野坂参三疑惑レポート「同士を売った密告の手紙」連載記事により、動かぬ事実が突きつけられた結果、9.17日、党創立70周年の式典が終わってまもなく、党中央委員会は野坂氏の名誉議長解任を決定、12.27日、除名処分を決議、除名された。
野坂は、翌93.11月に101歳で亡くなった。 |
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野坂は失脚したが、氏の過去の指導理論や政治的立場が与えた影響又は役割、宮顕との連携プレーに関する宮顕の責任問題等々についての解明を行なっていない。この方面に対する総括無しに除名で済ましている現状は大いに問題が有るというべきであろう。 ここで容易に問題となることは、先の袴田査問の過程で、袴田は、「野坂議長をスパイとしておとしいれる陰謀を、1970年から7年間にわたって、日系米人ジェームズ・小田なるあやしげな人物(元米軍情報部員)と組んですすめてきた事実」を指摘していたが、党中央はこの指摘に対して規律違反容疑に挙げていたことである。結局袴田の指摘が正しかったことになるが、これに対する責任については口拭いしたままである。 12.27日付の「野坂参三にかんする調査結果と措置について」という第8回中央委員会総会決議では、「山本懸蔵を根拠なく告発することで、長年の同志であった山本懸蔵を裏切り、スターリンの大量弾圧に加担した」とし、それを「共産主義者として許されない行為であることはもちろん、人間的にも恥ずべき行為といわなければならない」とか、「アメリカにあった野坂がスターリンの粛清指針に積極的に呼応するために問題の書簡を送ったことが、野坂に対する党の調査で明らかになった」として、「スターリンの不当な弾圧に積極的に加担する立場に身をおき、これを実行した」とし、「このような行為はけっして許されるものではない」と断罪して、野坂参三を除名処分にしたと総括ならぬ総括らしきものをしてはいるが。 |
【「北朝鮮覇権主義への反撃」(赤旗編集局、新日本出版社、1992年)の史実歪曲考】 | |
「北朝鮮覇権主義への反撃」(赤旗編集局、新日本出版社、1992年)が次のように批判されている。興味深いので転載しておく。
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