第54部 1992(平成4)年当時の動き、主なできごと.事件年表

 更新日/2019(平成31→5.1日より栄和元).5.10日

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2002.10.20日 れんだいこ拝


 1.8日、副総裁に金丸(竹下派)が就任。
 1.13日、阿部文男元北海道沖縄開発庁長官(自民党)を受託収賄容疑で逮捕。
 1.14日、東京佐川急便の渡辺広康元社長らを特別背任事件で逮捕。
 1.17日、国会対策委員長が増岡博之(宮澤派)から梶山静六(竹下派)に交代するなど竹下派への依存が強まる。
 1.24日、第123回国会(常会)召集。
 2.7日、EC12カ国がマーストリヒト条約に調印。
 2.14日、東京佐川急便の前社長ら逮捕。
 2.22日、宮澤首相、官邸に識者を呼び「政治改革合宿」(23日まで)。
 2.26日、政治改革推進協議会準備会主催「政治改革推進のつどい」開催(住友会館)。
 3月、金丸自民党副総裁が銃撃される。
【ロシアが、北方領土「二島先行返還」を秘密提案】
 3.20ー21日、ソ連が崩壊し新生ロシアとなった直後の92年3月、コーズィレフ外相が初来日し、外務省の飯倉公館で渡辺美智雄外相と会談した。日本側は、渡辺外相のほか、外務省の小和田恒事務次官、斉藤邦彦外務審議官、兵藤長雄欧亜局長らが出席した。この外相会談で、ソ連側が北方領土問題での秘密提案をしていたことがわかった。1・日ロ平和条約を締結して歯舞、色丹の二島を日本に返還する。2・国後、択捉の二島については平和条約締結後も協議を継続するとの「二島先行返還」案を秘密提案した。日本側は対応を検討し、提案を受け入れる前提として、「国後、択捉の将来の引き渡しが確約されないと条約は締結できない」と主張した為、交渉は決裂に終わった。複数の日ロ外交筋が明かした。

 当時、ロシア外務省の一部には将来の四島返還に前向きな意見もあった。日本側は秘密提案を受け、「国後、択捉を日本の領土と確認し、何年か後に還してもらうことが可能だと思った」(日本外務省高官)という。

 しかし、その後ロシア国内の政情が不安定になり、エリツィン大統領の政権基盤が弱まったことなどから、交渉は難航。93年秋に大統領の来日が実現したときには、すでに提案をめぐる交渉は決裂していた。

 ソ連政府は、「二島引き渡し」を明示した56年の日ソ共同宣言の後、冷戦を背景に領土問題の存在すら認めなくなった。が、ロシア政府は冷戦終結を受けて西側諸国との新たな関係を模索。対日関係でも従来の方針を転換し、譲歩できる限界の妥協点として秘密提案を示した。提案は、交渉が実らなかったため、「存在しなかったことになっている」(日ロ外交筋)という。(2002.5.21日付け朝日コム参照)

 3月、読売新聞発行の月刊誌「ディスイズ読売4月号」が、評論家の屋山太郎氏のコラム「マフィア化するJR東日本労組」を掲載。屋山氏は、松田昌士副社長らJR東日本経営陣とJR東日本労組を率いる松崎との癒着を批判していた。
 4月、 中日国交正常化20周年を記念するため、江沢民総書記が訪日、宮沢喜一首相と会談、NHKホールで講演。
 4、7日、江沢民中国共産党総書記が田中角栄宅を訪問。
 4.9日、英総選挙で与党保守党が勝利。
 4.20日、政治改革推進協議会(民間政治臨調)発足(東京全日空ホテル)。
 4.29日、米ロサンゼルスで警官による黒人暴行事件の無罪評決に反発した黒人が暴動化。
【細川護熙前熊本県知事が「日本新党」結成】
 細川護ひろ前熊本県知事・自民党衆議院議員が、月刊文芸春秋誌上に新党結成を宣言し、次のように述べた。
 概略「国際情勢が激動している中で日本の政治は鎖国の中で惰眠をむさぼっていた幕末の状況と酷似している。新しい分権的、開放的な国家システムを創造する為の抜本的な政治改革を断行しない限り、世界的転換に対応することはできない。(中略)新党結成は途方もない書生論だと笑われよう。しかし、私は荒海にこぎ出していく小船の舳先(へさき)に立ち上がり、難破することを恐れずに、今や失われかけている理想主義の旗を掲げて、あえて確たる見通しもないままに船出したいと思う。同志たちが、必ずや全国津々浦々から海鳴りのように呼応して立ち上がり、やがて大きな船団が形作られると確信している」。

 5.7日、細川護ひろ前熊本県知事・自民党衆議院議員が一人で記者会見に臨んだ。5.22日、細川護熙前熊本県知事が自民党を離党し「日本新党」を結成。

 5.28日、民間政治臨調「超党派議員決起弁論大会」開催(東京全日空ホテル)。
 5.30日、フィリピン大統領選でラモス候補が当選。
 5.18日、先の1987.2月に結成された国鉄改革労働組合協議会→JR総連内で動労と鉄労の二大労組の主導権争いが起こり、結局鉄労色の強いJR東海労組・JR西労組・JR四国労組・JR九州労組の4組合が総連を離脱した。これらの会社のJR総連支持派組合員はこれに反撥し、新組合JR東海労、JR西労、JR九州労(後に解散。JR九州ユニオンに合流)を結成して総連に加盟し分裂。これらの会社では総連系の組合は少数派に転落した。この日、JR総連から脱退していたJR東海、西日本、九州に国労から分離発足した旧日本鉄道産業労働組合総連合(旧鉄産総連)労働組合が合流し、日本鉄道労働組合連合会(JR連合)を結成する。これにより、JR総連7万、JR連合7万の勢力二分体制に入った。
 6.5日、PKO協力法の採決めぐり、社会・共産が牛歩戦術。
 6.14日、国連環境開発会議がリオ宣言などを採択して閉幕。
 6.15日、国連平和維持活動を行う国際平和協力法(pko協力法)成立。社会・社民連の全衆議院議員141名が議員辞職願提出。
 6月、国際緊急援助隊法改正。これにより、自衛隊の海外派兵が可能になった。
 6.24日、イスラエル総選挙で労働党勝利。
 6.25日、民間政治臨調「政治改革・中部フォーラム」開催。6.29日、民間政治臨調「政治改革・関西フォーラム」開催。
 7.6日、ミュンヘンで第18回先進国首脳会議。
 7.15日、日本共産党(行動派)はインタナショナルの再建めざし、第9回全国協議会開催。
 7.22日、民間政治臨調「参院選挙立候補者に対する緊急アンケート」公表。
 7.26日、 第16回参議院議員通常選挙(自民68、社会22、公明14、共産6、民社4、日本新4、二院1、スポーツ平和1、諸派2、無所属5)。宮沢喜一首相、金丸信自民党副総裁。自民党は勝利したが、この時離党した細川護ひろが日本新党を結成し、全国で361万票余を集め注目された。
 7.25日、バルセロナ五輪開幕。
【金丸副総裁の佐川急便献金事件】
 金丸信副総裁が佐川急便から5億円を受け取っていたことが報じられる。8.27日金丸副総裁が、佐川急便からの5億円献金問題で事実関係を認めて、副総裁と経世会会長を辞任。9月、政治資金規制法違反で略式起訴、罰金20万円。10月、議員辞職。

 週刊ポスト2019年5月3・10日号、●聞き手・レポート/武冨薫(ジャーナリスト)の「小沢一郎氏「宮沢喜一さんなんか選ぶんじゃなかった」の真意」。
 権力闘争の舞台裏を明かした

 小沢一郎氏は47歳で自民党幹事長に就任、政治改革を掲げて党を飛び出すと、自民党と対決して細川連立政権、民主党政権と2回の政権交代の立役者となった。これまで決して政治史の舞台裏を語ることがなかった小沢氏が、平成日本を変えた数々の場面で何が行なわれ、どんな葛藤があったのかを「歴史の証言者」として初めて明らかにした。(文中一部敬称略)

 ◆金丸逮捕と経世会支配の崩壊(1992年8月)

 〈宮沢(喜一)内閣が発足してから10か月、政界に激震が走る。東京地検特捜部が政治資金規正法違反で金丸信に対する強制捜査に乗り出したのだ。最大派閥・経世会は一気に分裂に向かって走り出した。〉

小沢

 その時になって“だから宮沢さんなんか選ぶんじゃなかった”って僕は言ったんです。当時の政治資金規正法では、政治団体の代表者は政治家本人ではなくて、ほぼ秘書がやっていた。だから絶対に政治家が捜査対象にならないようになっていた。ところが金丸さん本人に捜査が伸びるというので、僕は官邸に電話して「おかしいじゃないか! なんで金丸さんだけが対象になるのか」って。でも、宮沢さんが電話に出なかったから、官房長官だった加藤紘一に猛抗議した。宮沢さんは見て見ぬ振りをしたんです。

武冨  宮沢政権が捜査を黙認した。
小沢  経世会がまとまってノーといえば、そうはならなかったと思います。宮沢さんも言うことを聞くしかない。だけど宮沢さんは、竹下さんや梶さん(梶山静六)たちが捜査を止める気はないようだと察知していたから、僕が抗議しても聞かなかった。
武冨  その頃の金丸―竹下の関係は微妙だったのか。
小沢  最初は僕も全然わからなかったけど、竹下さんは金丸さんが面白くなかったんです。金丸さんが一番上と思われていたけれど、“俺だ”っていう思いがあったんじゃないかな。だけど、竹下さんは金丸さんをある意味利用して総理になった経緯があるから、表立っては言えない。金丸さんに忸怩たる思いを感じていたんでしょう。そして金丸さんに目をかけられていた僕に対しても。
武冨  竹下は金丸事件を利用したのか。
小沢  そこまでは思わないけれど、まぁ静観したということ。僕は、「これはおかしい」って(竹下にも)連絡したけれど、梨の礫だった。官邸、検察、そして竹下、梶山と、何らかの連携があったんでしょう。

 8.7日、第124回国会(臨時会)召集。
 8.24日、中韓外相が国交樹立の共同声明。
 8.27日、東京佐川急便からの5億円資金提供をめぐり、金丸信自民党副総裁が辞任。
 8.27日、田中角栄、日中国交回復20周年を記念して訪中。
 読売憲法問題調査会が第一次提言。
 9月、 中日国交正常化20周年を祝い、北京で記念パーティーが行われ、中日両国の4000人が出席。
【自衛隊初の海外派兵】
 9.17日、宮沢政府は、自衛隊(陸上自衛隊施設部隊)をカンボジアの国連平和維持活動軍に派兵した。自衛隊の海外を越しての初の派兵となった。国連カンボジア暫定統治機構(untac)の明石康特別代表が手引きした。

【週刊文春が野坂参三疑惑レポート連載】
 1992年ソ連崩壊1年後、ソ連共産党の保管文書からソ連共産党・コミンテルン秘密資料が発掘され、野坂が戦前、山本懸蔵同志らを密告し、銃殺に至らしめたとされる手紙が見つかった。小林俊一・加藤昭らによる「野坂ファイル」の発掘・分析の成果であった。

 9月、「週刊文春」は、モスクワで発掘した資料に基づいて、野坂参三疑惑レポート「同士を売った密告の手紙」を10回にわたって連載した。翌93年に「闇の男・野坂参三の百年」(文芸春秋社)が出版されている。この連載によって、野坂がコミンテルン時代に同志の山本懸蔵を密告し、スターリン粛清に供した張本人であること、またアメリカ経由で入ソした日本人6名の銃殺にも直接関係していたこと、さらに山本の妻の関マツらがシベリア流刑にされたのを見捨てて顧みなかっただけでなく、その事実の発覚を恐れて関マツの帰国を妨害しつづけ、遂に故国の土を踏ませぬまま狂死に近い悲惨な最後に追いやったことなど、衝撃的な事実が暴露された。伊藤律幽閉問題にも発展していくことになった。

 9.17日、党中央委員会は、党創立70周年の式典が終わってまもなく野坂氏の名誉議長解任を決定。


 9.28日、金丸前自民党副総裁を政治資金規正法違反で略式起訴。
 宮顕議長の下で、「不破委員長−志位書記局長」体制確立。
【天皇皇后が中国を公式訪問】
 10月、 天皇、皇后両陛下が、国交回復20周年を記念して、中国を初めて公式訪問した。歓迎晩餐会で「我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります」と発言した。

 10.7日、最高裁、ロッキード丸紅ルートの審理を大法廷に回付。
 10.14日、金丸信が東京佐川急便事件で衆議院議員を辞職。
 10.22日、連合、中央執行委員会で中選挙区制廃止方針を正式決定。
 10.22日、自民党竹下派分裂。
 10.25日、民間政治臨調「政治改革に関する国会議員・国民各界アンケート」公表。
 10.28日、小沢一郎・羽田孜氏ら「改革フォーラム21」結成(12月18日羽田派に)。
 10.30日、第125回国会(臨時会)召集。
 11.1日、民間政治臨調が、「日本政治の危機と政治改革の道筋」、「政治資金制度改革と腐敗防止に関する緊急提言」公表。
 11.3日、江田五月社民連代表ら27名が政策集団「シリウス」結成。
 11.3日、米大統領選で民主党のクリントン候補が当選。
 11.7日、民間政治臨調「国会改革に関する緊急提言」公表。
 11.10日、民間政治臨調、日比谷野外音楽堂に4千人を集め、「政治改革を求める国民集会」を開催(超党派の国会議員約80名が出席)。集会の壇上で、超党派議員188名が署名を連ねる「中選挙区制度廃止宣言」が公表される。
 11.12日、自民党「若手議員の会」、日比谷公会堂で政治改革国民集会開催。
 11.18日、社会党衆院1年生23名が政策集団「リーダーシップ21」結成。
 11.25日、大前研一らが「平成維新の会」を結成。
【竹下元首相を東京佐川急便事件で証人喚問】
 11.26日、衆議院予算委員会が、竹下元首相を東京佐川急便事件、皇民党ほろ殺し事件で証人喚問。最後の質問で、中野寛成に「青木をはじめ、竹下の周囲の人物に起こる悲劇と竹下の政治的な体質についてどのように思うか」(「相次ぐ秘書の自殺にあなたは責任を感じないのか」)と質問を浴びせられた竹下は次のように答えている。
 「今おっしゃいました、私という人間の持つ一つの体質が今論理構成されましたような悲劇を生んでおる。これは私自身顧みて罪万死に値するというふうに私思うわけでございます」。
 この時の「罪万死に値する」発言が、岩瀬達哉の評伝「われ万死に値す―ドキュメント竹下登」 (新潮文庫、2002.3.1日頃初版)に使われている。同書の内容紹介で次のように記されている。
 「『私自身顧みて、罪万死に値する』。国会でそう証言した元首相、竹下登。国のキングメーカーにまで登りつめ、今なおその残影は永田町を覆う。前妻の自殺、実父との確執、巧妙な錬金術、そして秘書たちの死…。にこやかな仮面の下に隠された彼の罪と業とは何か。出身地・島根で囁かれるタブーから疑惑の皇民党事件まで、ひとりの政治家の一生を辿りながら、日本社会の闇を抉る」。

 12.10日、改正公職選挙法、改正政治資金規正法成立(緊急政治改革関連法、衆議院定数の9増10減など)。
 12.11日、宮澤内閣改造。
 12.11日、民間政治臨調 公開討論会「地方分権をどう進めるか」開催。
 12.12日、宮澤改造内閣。首相・宮澤喜一(宮澤)、官房長官・河野洋平。幹事長・梶山静六(竹下派が小渕派(小渕恵三)と羽田派(羽田孜)に分裂、小渕派)、総務会長・佐藤孝行(渡辺)、政調会長・三塚博(三塚)。

 12.19日、韓国大統領選で金泳三民自党候補が当選。
 12.22日、自民党「政治改革の基本方針」党議決定。
 12月、竹下派分裂。小渕恵三氏が会長に就任。 
 12.24日、社会党委員長の田辺氏が突然辞意表明。田辺氏は党内左右の対立を克服できずに任期半ばで退陣する事になった。12.26日、田辺氏がテレビ朝日系列の番組に出演し、山花氏に期待感を表明。12.28日、委員長選挙告示。各党派、グループとも会合を開いて協議したがいずれも明確な結論は出ず、山花氏を軸にした調整は年明けに持ち越された。12.31日、山花氏立候補の意向を固める。
【野坂名誉議長解任される】
 小林俊一・加藤昭らによる「週刊文春」誌上での野坂参三疑惑レポート「同士を売った密告の手紙」連載記事により、動かぬ事実が突きつけられた結果、9.17日、党創立70周年の式典が終わってまもなく、党中央委員会は野坂氏の名誉議長解任を決定、12.27日、除名処分を決議、除名された。
 概要「山本懸蔵を根拠なく告発することで、長年の同志であった山本懸蔵を裏切り、スターリンの大量弾圧に加担した。それは共産主義者として許されない行為であることはもちろん、人間的にも恥ずべき行為といわなければならない。アメリカにあった野坂がスターリンの粛清指針に積極的に呼応するために問題の書簡を送ったことが、野坂に対する党の調査で明らかになった。スターリンの不当な弾圧に積極的に加担する立場に身をおき、これを実行した。このような行為はけっして許されるものではない」。

 野坂は、翌93.11月に101歳で亡くなった。
(れんだいこ私論.私見)「野坂失脚の杜撰さ考」
 野坂は失脚したが、氏の過去の指導理論や政治的立場が与えた影響又は役割、宮顕との連携プレーに関する宮顕の責任問題等々についての解明を行なっていない。この方面に対する総括無しに除名で済ましている現状は大いに問題が有るというべきであろう。

 ここで容易に問題となることは、先の袴田査問の過程で、袴田は、「野坂議長をスパイとしておとしいれる陰謀を、1970年から7年間にわたって、日系米人ジェームズ・小田なるあやしげな人物(元米軍情報部員)と組んですすめてきた事実」を指摘していたが、党中央はこの指摘に対して規律違反容疑に挙げていたことである。結局袴田の指摘が正しかったことになるが、これに対する責任については口拭いしたままである。

 12.27日付の「野坂参三にかんする調査結果と措置について」という第8回中央委員会総会決議では、「山本懸蔵を根拠なく告発することで、長年の同志であった山本懸蔵を裏切り、スターリンの大量弾圧に加担した」とし、それを「共産主義者として許されない行為であることはもちろん、人間的にも恥ずべき行為といわなければならない」とか、「アメリカにあった野坂がスターリンの粛清指針に積極的に呼応するために問題の書簡を送ったことが、野坂に対する党の調査で明らかになった」として、「スターリンの不当な弾圧に積極的に加担する立場に身をおき、これを実行した」とし、「このような行為はけっして許されるものではない」と断罪して、野坂参三を除名処分にしたと総括ならぬ総括らしきものをしてはいるが。

【「北朝鮮覇権主義への反撃」(赤旗編集局、新日本出版社、1992年)の史実歪曲考】
 「北朝鮮覇権主義への反撃」(赤旗編集局、新日本出版社、1992年)が次のように批判されている。興味深いので転載しておく。
 「取り上げる本はいろいろあるかもしれないけれど、まず『北朝鮮覇権主義への反撃』(赤旗編集局、新日本出版社、1992年)が手ごろかと思います。詳しくは青瓦台事件についての僕の投稿を見て頂いたら分かると思うけれど、ちちょっと説明してみます。1968年に、北朝鮮が韓国の大統領を殺害する目的で武装ゲリラ(要はテロ集団)を南に送りこんだことがありました。当時の赤旗が言うにはそれはデマであり、南の人民の武装集団が立ち上がり革命を起こしているんだと主張していました。共産党は、北の肩を持ち、武装集団(要するにテロリスト)イケイケの新聞記事を書いていたのです。ところが、時代が変わり、『北朝鮮覇権主義への反撃』では、そのような記事を書いた日本共産党を振り返ることもせず、『その事件は北朝鮮の仕業であることは、当時の状況から容易に推察できることでした』と云ってのけています。つまり、日本共産党は、『我が党は当時から北朝鮮の横暴を批判している立場だもんね。当時から筋が通ってるもんね』という大嘘をついていることになります。当時は北朝鮮の仲間だったということを隠したいから、こんなことを書いたのでしょうか。日本共産党の身を守るために、後で都合良く総括したのでしょうね。僕がこんなことを言うと、不勉強な共産党支持者の人は、『日本共産党は北朝鮮の味方のはずがないだろ。ちゃんと調べろ』と言う人がいます。大変哀れに思います。彼らが誤りを犯すのは、『北朝鮮覇権主義への反撃』のような史実を歪曲するような間違った本のせいです。それにしても、不破さんは、どうしてこんなバレバレの嘘の本を書くのでしょう。まあ、不勉強な人を騙すことは出来るかもしれませんが、当時の赤旗の資料も残っているのです。いずれ嘘は証明されます。千年も二千年も前の歴史の解釈をするなら、資料が残っていなかったり、証拠がなかったりでいろいろ違った主張も生まれて来るかもしれません。ですが、たかだか40年ほど前のことについて、まして、思いっきり公的な資料が残っているのに、こういったことを書くなんて、信じられません。よほど度胸があるのか、恥知らずなのか」。








(私論.私見)