自由党の代表・小沢一郎氏。47歳で自民党幹事長に就任、政治改革を掲げて党を飛び出すと、自民党と対決して細川連立政権、民主党政権と2回の政権交代の立役者となった。これまで決して政治史の舞台裏を語ることがなかった小沢が、平成日本を変えた数々の場面で何が行なわれ、どんな葛藤があったのかを「歴史の証言者」として初めて明らかにした。(文中一部敬称略)
◆萎んだ海部首相の「重大な決意」(1991年9月)
〈政権発足から約2年、倒閣運動に追い詰められた海部俊樹首相は、「重大な決意」と口にする。解散・総選挙を打つという意味だ。ところが閣議を招集しようとした直後に、突然断念し、総辞職の道を選ぶ。この翻意については、これまで「金丸、竹下、小沢が話し合い、土壇場で解散を諦めさせた」といわれてきた。が、小沢は「それは違う」と明かす。〉
小沢 |
その件で3人で集まったことはない。そもそも僕は政治改革を進めたかったから、むしろ「解散すればいい」と思っていました。だが、あの時に北海道かどっかにいた金丸さんが電話で「冗談を言うな」というようなことを言ってきて、海部さんがびびった。 |
武冨 |
総理が決断していたら、尊重するつもりだったのか。 |
小沢 |
綸言(りんげん)汗のごとし。あそこまで喋った以上は突っ走るべきでした。総理が決断したら、もう誰が何を言おうが止められない。ところが、海部さんがびびっちゃって、それで辞めちゃったんでしょう。 |
武冨 |
金丸は「やりたいなら、やればいいじゃないか」と語ったとされる。 |
小沢 |
僕が第一報を聞いた時は、“そんなふうに金丸さんが話すだろうか”と疑問に思ったんだけれどもね。でも、海部さんは“非常に怒っている”という意味にとらえたんでしょう。自分を総理にしてくれた御大が怒っている。これはもう(総理であることを)否定された──みたいに受け止めたんじゃないかな。でも、海部さんが強く出ていたら、金丸さんも言葉通り、「どうしてもやりたいなら、やれ」ってなっていたかもしれない。
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