第53部 1991(平成3)年当時の動き、主なできごと.事件年表


 更新日/2020(平成31→5.1日より栄和改元/栄和2).10.15日

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2002.10.20日 れんだいこ拝


【湾岸戦争勃発】
 1.17日、米軍など多国籍軍がイラクを爆撃し、湾岸戦争勃発。2.24日、地上戦に突入。

 1.18日、自民党「制度改革に伴う党基本問題委員会」設置。
 1.24日、湾岸戦争で90億ドルの追加支援決定。海部首相、小沢幹事長−アマコスト大使。政府、追加支援決定、総額130億ドルに。総額600億ドル。サウジやクウェートも負担を捻出させられた。
 2.7日、東京都知事選にNHK報道局長・NHK特別主幹・磯村尚徳氏が立候補する。2.8日、磯村氏がが同日付けで38年間勤めたNHKを退職。
 2.20日、社会経済国民会議「自民党若手議員とニューウェーブの会との懇談会」開催(石破茂、赤城徳彦、岡田克也、佐藤謙一郎、簗瀬進、仙谷由人、筒井信隆、松原脩雄、吉岡賢治他が出席)
 イラク軍15万が白旗を掲げて敗走し始めた。多国籍軍は、背後から国際条約で禁止されているナパーム弾戦や術核兵器DU弾を投入して焼き殺した。
 2.27日、ブッシュ米大統領がホワイトハウスで全米国民に向けて演説しクウェートが解放され湾岸戦争の「軍事目的は達成された」と湾岸戦争の勝利を宣言。28日午前零時を期して多国籍軍は攻撃を停止すると言明、戦闘停止を命令。湾岸戦争終結。
 3.1日、社会経済国民会議「自民党と報道各社論説委員長との懇談会」開催。(伊東正義、後藤田正晴、羽田孜、野田毅、森山真弓他が出席)
 3.6日、社会経済国民会議「自民党若手議員と民社党有志との懇談会」開催。(赤城徳彦、岩屋毅、岡田克也、佐藤謙一郎、簗瀬進、中野寛成、寺崎昭久他が出席)
 3.6日、海部政権は、90億ドル支援のための平成2年度第二次補正予算と、増税を含む財源一括法案を自公民3党の賛成で可決、成立。
 3.26日、社会経済国民会議「自民党若手議員と伊藤茂社会党政審会長の懇談会」開催(石破茂、赤城徳彦、岩屋毅、岡田克也、簗瀬進他が出席)
 3.28日、社会経済国民会議「自民党若手議員と二見伸明公明党政審会長の懇談会」開催(石破茂、岩屋毅、岡田克也、渡海紀三朗、簗瀬進他が出席)
 4.1日、牛肉、オレンジ輸入自由化。
 4.7日、 第12回統一地方選挙(知事)。東京都知事選挙で現職の鈴木俊一を公認せず、磯村尚徳を公認。自民党東京都連が磯村公認に反発し、事実上の分裂選挙。都知事選は鈴木が当選。4.8日、小沢一郎幹事長が辞任。後任には同じ竹下派の小渕恵三。
 4.16日、ソ連のゴルバチョフ大統領がライサ夫人とともにハバロフスクから羽田空港着の特別機でソ連最高首脳として初めての来日。夫人はゴルビーの首脳会談の時間を利用して海部首相夫人とともに銀ぶらや歌舞伎見物を堪能。街角で握手をして歩きお菓子屋では従業員の労働条件を調査するなど気さくで好奇心旺盛なファーストレディ振りをアピール。翌日は築地の中央卸売市場や東京・杉並区の民家を訪問するなどライサ外交フル回転。
 4.22日、社会経済国民会議「羽田孜自民党選挙制度調査会長と二見伸明公明党政審会長との懇談会」開催。4.23日、社会経済国民会議「羽田孜自民党選挙制度調査会長と中野寛成民社党政審会長との懇談会」開催。
【海上自衛隊のペルシャ湾派遣】
 4.24日、自衛隊初の海外派遣(ペルシャ湾に掃海艇)。 4.26日、海上自衛隊の掃海部隊が派遣され、機雷除去の為に掃海艇とともにペルシャ湾へ赴く。

 この背景に、米国のジョージ・ブッシュ大統領(パパ・ブッシュ)の要請があった。日本は、湾岸戦争支援策として90億ドル(約1兆2000億円)を追加支出した。だが、米国は、これに満足せず自衛隊の派遣を求めてきた。小沢一郎幹事長は自衛隊派遣に意欲的だったが、日本国憲法の規定上、自衛隊の海外派遣は難しく、海部首相の反対もあり見合わせることになった。政府は、避難民輸送のための自衛隊機派遣だけを決め、湾岸戦争終結の後、海上自衛隊の掃海艇をペルシャ湾に派遣するのに止めた。これが「カネは出すが人を出さない」批判となり、自民党内はその後「カネも人も出す」方向に舵を切り始めて行くことになる。これが、小泉政権で全面展開することになる。

 4.26日、社会経済国民会議「羽田孜自民党選挙制度調査会長と伊藤茂社会党政審会長との懇談会」 開催。4.26日、社会経済国民会議「自民党若手議員とニューウェーブの会との懇談会」開催(石破茂、赤城徳彦、岩屋毅、岡田克也、簗瀬進、筒井信隆、松原脩雄、吉岡賢治他が出席)
 5.8日、社会経済国民会議「政治改革に関する緊急提言」を海部首相に提出。
 5.16日、連合加盟労組有志「NPUC」結成。
 5.23日、社会党議員有志、「アクション・ニュー・デモクラシー」(AND)結成。
 5.19日、ルポライター・竹中労が肝臓がんで死去。(60歳)
 5.21日、インドのラジブ・ガンジー元首相が遊説中暗殺。
 5.31日、自民党「政治改革関連法案要綱骨子案」「制度改革に伴う党運営方針」を党議決定。
 5月、中日青年交流センターがオープン。竹下登元首相が同センターのオープンセレモニーに列席。
 国労組合員でJRに採用されなかった1047人の採用差別闘争の判決が下され、JR側が彼らを採用しなかったのは不当労働行為であるとして、地方労働委員会が訴えを認めてJRへの採用を命じた。しかし、命令を受けたJR北海道、JR東日本、JR東海、JR貨物(いずれも旧動労系が多数派を占める)はこれを拒否し、JR総連もこれまでの経緯から反対の姿勢をとった。さらに旧動労系が多数を占めるJR東労組などでは「国労の再採用絶対反対」を掲げて集会が開かれ、さらに民営化の際の労使協調宣言を無視して、再採用反対のために「スト権の再確立」を打ち出した。これにより旧動労の「再武装」に反対する旧鉄労系と旧動労系との対立が決定的となった。 

 5月、鉄労系が多数派を占めるJR西労組から動労派が脱退した。8月、同じくJR東海労組から動労派が脱退。同労組は組織を維持できない状況に陥り、ついには崩壊してしまう(この時の旧・JR東海労組が現・JR東海ユニオンである)。さらにJR西労組、JR四国労組、JR九州労組がJR総連を脱退し、JR東海ユニオンと合流した。

 6.12日、ソ連ロシア共和国の大統領選でエリツィン当選。
 6.17日、南アフリカがアパルトヘイト終結宣言。
 6.17日、小沢一郎幹事長は、湾岸戦争をきっかけに、自民党内に「国際社会における日本の役割に関する特別調査会」(別名、小沢調査会)を設けて、会長に就任、日本の国際貢献の仕方について議論、検討を開始する。この結果は平成5年2月3日、「国際社会における日本の役割−安全保障問題に関する提言」という報告書にまとめられ、小沢一郎会長が当時の総裁である宮沢喜一首相に提出した。
 6.20日、連合、連合組織機内議員懇、連合政治フォーラムを組織。
 6.25日、第8次選挙制度審議会「衆議院の選挙区の区割りについての答申」「選挙の腐敗行為防止に対する制裁強化の新たな措置についての答申」を海部首相に提出。6.27日、社会経済国民会議「政治改革に関する緊急国会議員アンケート」公表。
 6.27日、自民党、選挙制度調査会総会、政調審議会が開催され、政治改革関連3法案を9時間の激論の末に了承。6.27日、社会経済国民会議「政治改革に関する社公民政審会長共同勉強会」開催。6.28日、自民党総務会、政治改革関連法案の党議決定持ち越し。6.29日、自民党総務会、紛糾の末、政治改革関連3法案を党議決定(西岡総務会長の審議の打ち切り・採決に党内紛糾)。
 7.9日、 自民党総務会、政治改革関連3法案党議決定を再確認(その際、@同法案の根幹に関わる重大な修正問題は党内各機関の審議了承を必要とする、A国会審議にあたっては闊達な討議を期待するとの条件が付される)。
 7.10日、海部内閣、政治改革関連3法案を閣議決定。
 7月、イトマン事件で逮捕者。
 7.15日、第17回先進国首脳会議がロンドンで開幕。
 7.29日、社会経済国民会議「自民党と報道各社との懇談会」開催(羽田孜他が出席)。
 7.31日、米ソ両大統領が戦略兵器削減条約に調印。
【田辺誠氏が社会党委員長に選出される】
 7.23日、社会党水曜会の田辺誠氏が党改革を全面に出し左派の上田哲氏との激戦を制し、委員長に就任する。

 7.31日、社会党党大会。「自衛隊、原発問題などの現実直視」、「社民連との統合」、「新宣言見直し、党名変更」などの提言を基調とした議案を提出。書記長に山花貞夫氏の起用を決定。

 8.5日、第121回国会(臨時会)召集。
 8.5日、海部内閣が衆議院に小選挙区比例代表並立制導入を柱とする政治改革関連3法案を提出。
 8.6日、社会経済国民会議「政治改革に関する社公民政審会長共同勉強会」(伊藤茂、二見伸明、中野寛成他が出席)。8.9日、社会経済国民会議「政治改革推進に関する各界著名運動」開始。
 8月、海部俊樹首相訪中。天安門事件後、西側首脳として初訪中。江沢民、楊尚昆、李鵬らの指導者と会見し、中日関係の全面的回復を表明。
 8.19日、ソ連で保守派によるクーデターが発生、ソ連非常事態宣言。8.21日、ソ連のクーデターが失敗,首謀者がモスクワを脱出。8.24日、ゴルバチョフ・ソ連大統領が共産党中央委に自主解散を勧告,書記長辞任。
 8.24日、ソビエト連邦崩壊。各共和国は独立し、エリツィン大統領率いるロシア連邦が旧政府を継承。
 8月、代議士7回生の渡辺派の山崎拓、宮沢派の加藤紘一、安倍派の小泉の3人が「YKK」を結成した。竹下派によって担がれ操られている海部俊樹総理の続投阻止に動く。この3人の頭文字を取って、マスコミは「YKK」と名付けた。
 9月、中国人民対外友好協会が、古井喜実日中友好会館会長・元法相、伊東正義日中友好議員連盟会長・元外相に「人民友好使者」の称号を授与。
 9.11日、改正国会法成立(通常国会召集を12月から1月に変更)。
 9.12日、社会経済国民会議の稲葉秀三議長、鈴木永久行革審会長ら、海部首相を官邸に 訪ね、「政治改革推進に関する各界署名運動」名簿を提出(個人署名3508名、団体署名58団体、国会議員署名203名)。
 9.17日、国連が韓国,北朝鮮,バルト3国などの加盟承認。
 9.27日、自民党若手議員有志107名が「待ったなし!政治改革推進大会」開催(ホテル・ニューオータニ)。
 9.30日、小此木衆議院政治改革に関する特別委員長、政治改革関連3法案を審議未了・廃案の取り扱いとする見解を表明 。政治改革法案審議未了→廃案(海部首相,9.30日、「重大な決意」表明。これが命取りとなり10.4日、海部首相 退陣表明)。
 10.4日、海部首相 退陣表明

 ※週刊ポスト2019年5月3・10日号、●聞き手・レポート/武冨薫(ジャーナリスト)「小沢一郎氏と政治改革「海部氏が金丸氏にビビらなければ…」」。

 自由党の代表・小沢一郎氏。47歳で自民党幹事長に就任、政治改革を掲げて党を飛び出すと、自民党と対決して細川連立政権、民主党政権と2回の政権交代の立役者となった。これまで決して政治史の舞台裏を語ることがなかった小沢が、平成日本を変えた数々の場面で何が行なわれ、どんな葛藤があったのかを「歴史の証言者」として初めて明らかにした。(文中一部敬称略)

 ◆萎んだ海部首相の「重大な決意」(1991年9月)

 〈政権発足から約2年、倒閣運動に追い詰められた海部俊樹首相は、「重大な決意」と口にする。解散・総選挙を打つという意味だ。ところが閣議を招集しようとした直後に、突然断念し、総辞職の道を選ぶ。この翻意については、これまで「金丸、竹下、小沢が話し合い、土壇場で解散を諦めさせた」といわれてきた。が、小沢は「それは違う」と明かす。〉

小沢 その件で3人で集まったことはない。そもそも僕は政治改革を進めたかったから、むしろ「解散すればいい」と思っていました。だが、あの時に北海道かどっかにいた金丸さんが電話で「冗談を言うな」というようなことを言ってきて、海部さんがびびった。
武冨 総理が決断していたら、尊重するつもりだったのか。
小沢 綸言(りんげん)汗のごとし。あそこまで喋った以上は突っ走るべきでした。総理が決断したら、もう誰が何を言おうが止められない。ところが、海部さんがびびっちゃって、それで辞めちゃったんでしょう。
武冨 金丸は「やりたいなら、やればいいじゃないか」と語ったとされる。
小沢

僕が第一報を聞いた時は、“そんなふうに金丸さんが話すだろうか”と疑問に思ったんだけれどもね。でも、海部さんは“非常に怒っている”という意味にとらえたんでしょう。自分を総理にしてくれた御大が怒っている。これはもう(総理であることを)否定された──みたいに受け止めたんじゃないかな。でも、海部さんが強く出ていたら、金丸さんも言葉通り、「どうしてもやりたいなら、やれ」ってなっていたかもしれない。


 10.4日、海部首相 退陣表明10.4日、海部首相 退陣表明 10.4日、伊東正義自民党政治改革本部長、後藤田正晴同代理、官邸に海部首相を訪ね、政治改革本部職辞職。
 10.4日、与野党、「政治改革協議会」設置で合意。
 10.5日、自民党若手議員有志、社会経済国民会議の稲葉秀三議長、亀井正夫を訪ね、政治改革推進の国民的組織の結成を直訴。
 10.8日、国会改革をテーマに与野党1年生議員23名が超党派勉強会「大風会」結成。10.11日、衆議院「国会議員の秘書に関する調査会」が桜内衆議院議長に答申を提出(衛藤瀋吉ほか、政策秘書制度の創設を提言)。
 10.23日、カンボジア問題パリ国際会議が開幕,和平協定に調印。
 10.24日、政治改革フォーラム・拡大会議(霞ヶ関東京會舘)。
【自民党総裁選挙】
 10.27日、海部俊樹総裁の任期満了に伴う自民党総裁公選に宮澤喜一(宮澤派)・渡辺美智雄(渡辺派)・三塚博(安倍派→三塚派)が立候補。この時、竹下派会長代行の小沢が、宮沢・渡辺・三塚の3候補を個別に面接(「小沢面接」)した後、竹下派が宮沢支持を決定した。これが決め手になり、投票の結果、宮澤285、渡辺120、三塚87の順となり、宮澤喜一が第15代総裁に総裁に選出される。

 ※週刊ポスト2019年5月3・10日号、●聞き手・レポート/武冨薫(ジャーナリスト)「小沢一郎氏が今こそ明かす宮沢内閣誕生前の「小沢面接」真相」。
 小沢一郎氏は、47歳で自民党幹事長に就任、政治改革を掲げて党を飛び出すと、自民党と対決して細川連立政権、民主党政権と2回の政権交代の立役者となった。これまで決して政治史の舞台裏を語ることがなかった小沢が、平成日本を変えた数々の場面で何が行なわれ、どんな葛藤があったのかを「歴史の証言者」として初めて明らかにした。(文中一部敬称略)

 ◆「小沢面接」の真相(1991年10月)

 〈海部(俊樹)内閣は総辞職し、自民党はまたも後継首相選びに入る。リクルート事件の“禊”が済んだということで、総裁選には宮沢喜一、渡辺美智雄、三塚博の3派閥領袖が名乗りをあげた。一方、小沢は幹事長辞任後に経世会の会長代行に就任し、金丸−竹下−小沢のトロイカが政治を牛耳る「金竹小」時代が始まっていた。そこで起きたのが「小沢面接」である。年長の3人を呼びつけて総裁の資質を問い質すという構図は、「傲岸不遜な小沢」のイメージを世間に印象づけた。〉

小沢  あれはもともと、一対一(での面談)のつもりで、「私から話を伺いに行きます」と言った。そうしたら「私たちは候補者だから、有権者に挨拶に行くのは当たり前です」と言うから、「それでは(私の事務所で)お待ちします」となった。それがマスコミでは「小沢面接」ってなってしまったんです。「自分(小沢)から行くと言っていた」と世間に説明してくれたのは渡辺みっちゃんだけ。宮沢さんは何も言わなかった。
武冨  ともあれ、その面談で後継総理が決まった。
小沢

 それが違うんです。3人に話を聞いた後、金丸さんから「竹下、小沢、来い」って呼ばれてね。今だから言うけれど、僕は「面白いから、渡辺みっちゃんにしましょう」と言ったはずです。すると金丸さんも「いいな、いいな」って言い出して、いったんは3人でみっちゃんを翌日の派閥総会で推薦しようと決めた。それで「渡辺総理」は決まりのはず。ところがそれなのに、翌日の朝、金丸さんから「ちょっと2人来い」となった。すると行った途端に、「すまん」って謝るんです。金丸さんが、竹下さんと僕に握手して「すまんけど、宮沢にしてくれ」となった。

武冨  何があったのか。
小沢  わかりません。
武冨  理由は説明されたのか。
小沢  説明なんかしないよ、あの人は。“(宮沢を)応援してやってくれ”って頼むだけ。竹下さんと僕は顔を見合わせるしかありませんでした(苦笑)。

【宮沢政権誕生】
 10月、自民党総裁選で、宮沢285票、渡辺120票、三塚87票で決選投票に持ち込まずに決着がついた。
 11.5日、第122回国会(臨時会)召集。 宮沢内閣誕生。宮沢喜一首相、官房長官・加藤紘一。党三役は、幹事長・綿貫民輔(竹下派)、総務会長・佐藤孝行(渡辺派、ロッキード事件で有罪判決を受けており、これが問題とされていくことになる)、政調会長・森喜朗(三塚派)。

 11.8日、連合政治シンポジウム「連合政治フォーラムに期待するもの」開催。
 11.14日、与野党1年生議員有志21名が「比較政治制度研究会」(CP研)結成。
 11.18日、自民党4役会議、政治改革関連法案を棚上げし党内論議のやり直しを決定。
 11月、中国人民対外友好協会が、宇都宮徳馬日中友好協会会長に「人民友好使者」の称号を授与。
【田辺委員長が社会党委員長に再選される】
 11.20日、田辺委員長が再選。任期満了に伴う委員長選挙は、田辺誠委員長以外に届け出はなく、無投票当選が確定した。12.21日の党大会で社会党中央委員会で田辺体制の継続が決定それ任期2年の2期目に入る。

 11.23日、社会経済国民会議「政治改革に関する緊急国会議員アンケート」。
 12.3日、PKO法案衆院可決。
 12.11日、亀井正夫ら、自民党若手議員有志と今後の連携体制を協議。
 12.12日、自民党「政治改革を実現する若手議員の会」正式発足。
 12.13日、南北朝鮮両首相が「南北間の和解と不可侵及び交流・協力に関する合意書」に調印。
【ソ連崩壊】
 12.17日、ゴルバチョフ・ソ連大統領とエリツィン・ロシア大統領がソ連邦の年内消滅で合意。

 12.25日、独立国家共同体(CIS)発足でゴルバチョフ・ソ連大統領が辞任、ソ連が崩壊。

 12.18日、与野党の政治改革協議会、政治改革関連法案棚上げを正式決定。12.20日、政治改革推進協議会(民間政治臨調)発足準備総会(ホテル・ニューオータニ)。






(私論.私見)