1990(平成2)年当時の動き、主なできごと.事件年表 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
2002.10.20日 れんだいこ拝 |
【「ルーマニア問題」が党内に激震】 (「ルーマニア問題考」)(参考資料・木村愛二氏「日本共産党「二重秘密党員」の遺言」) |
昨年末1989.12月のルーマニアのチャウシェスク政権崩壊は党内に激震を這わせた。この間宮顕党中央の自主独立路線にあって、ルーマニア共産党は数少ない友党であり、友党ぶりをあからさまにしてきていた間柄であった。そのルーマニアのチャウシェスク政権が降って湧いたようにして崩壊した。同時に政権の腐敗と人権蹂躙の様が暴かれ始めた。 こうなると、宮顕の責任が免れなくなった。ところが、宮顕は例によって詭弁を弄した。チャウシェスク政権が崩壊するや否や、そういう蜜月時代の経過を不問にして、簡単な談話で「あの当時はわからなかった、あの時点では正しかった」と強弁し、他方で当人自身の文章と思われるが他の幹部名で正当化の弁護論文を赤旗に載せた。 宮顕は新春インタビューで、「わが党は、過去はどうであろうと、毅然とした正論にたって、すぐそれを公然と批判しました」、そこでは、かっての共同コミュニケ、共同宣言についても「当事者の一人」という責任逃れの言い方で逃げた。赤旗2.8日宮本顕治氏名の論文は、「共産主義運動の劇的な変化と日本共産党の確信」のなかで、「ルーマニア側のガードは堅く、破局後暴露されたような、秘密警察とか内戦用地下道とかの生々しい事実を事前に知ることは不可能だった」としてチャウシェスク政権の腐敗の事実を知りえなかったから免責されるという態度を見せた。 ところが、この詭弁に火の手が挙がることになった。宮顕のこのあまりものウソと強弁に見るに見かねて、元共産党ジャーナリストの厳名康得(いわなやすのり)氏が、「サンデー毎日(1990.3.4日号)」に手記を寄せ、「元赤旗ブカレスト特派員が宮本共産党を告発!!/私のルーマニア警告はこうして無視された」で告発した。 89.12月のチャウシェスク政権崩壊に見せた「ルーマニア問題」での宮顕の対応を非難し、宮顕の過去の行状を暴露しつつ「宮本顕治議長よ、誤りを認めよ」として、以下の6点について宮本氏の明確な返答を聞きたいと公開質問した。いわな氏は文中で、チャウシェスクの個人崇拝・個人独裁体制、圧制については、自身が早くより指摘し党本部へ報告していたにも関わらず握りつぶされていた経過を明らかにしていた。 チャウシェスク政権の人権蹂躙は、アムネスティ・インタナショナルの年次報告で、毎年、数ページを割いて人権蹂躙を報告していた。いわな記者は、チャウシェスク独裁政権のひどさに目に余るものがあり、こんな反人民的な政権がいつまでもつづくはずがないことを見抜き、党に報告していた。「宮本はこうした事実をまったく知らなかったとでもいうのだろうか。それとも、チャウシェスク同志が認めない以上、アムネスティ・インタナショナルなど信用できないとでも考えていたのだろうか」と指摘した上で、「宮本がこれらに宮本が目を通していないはずがなく、宮本は、78年訪問前に、当然(私が送った)ルーマニア定期報告文書を読んでいて、チャウシェスク独裁ぶりやセクリターテの実態を十分知っていた上で、このウソと強弁を押し通している」ことを明らかにし、「あの当時、委員長はわかっていた」、「あの時点での訪問と賛美は誤りだった」とする内部告発を行った。 概要「宮本は、チャウシェスク独裁を美化し、その強化に一役買った。このことについて、宮本氏はルーマニア国民にたいし良心の痛みをまったく感じないのだろうか」、「ここで明らかなのは、宮本氏が、対外政策だけでなく、ルーマニアの社会主義建設、国内体制にたいする肯定的評価、ひいては、この面でのチャウシェスク体制支持にまで深くコミットしていたという事実である。これでも、宮本氏は、チャウシェスクとの親密な付き合いは、対外政策の面での一致に限られでいたと強弁するつもりだろうか」、「本当に、あなたに責任ないか」と告発した。 いわな氏は、日本共産党のルーマニアとの共同文書の発表についても言及していた。「宮本氏の強いイニシアチブと責任で行われたものである」のに、ルーマニア問題での「当事者の一人」というのは、「一種の意図的な責任のがれ、すり替えではないか」、「問題は、あくまで白を黒といいくるめ『宮本顕治無謬』論、『日本共産党無謬』論を押しとおそうとするところにある」云々と。 いわな氏は、締め括りで「宮本顕治議長よ、誤りを認めよ」と迫った。手記は、この間チャウシェスク政権との蜜月時代を謳歌し、同政権崩壊後その責任をとろうとしない宮本共産党の姿勢に対して、「党員、国民を愚弄していないか」と、「歴史に立ち遅れた日本共産党を徹底批判する」論調で批判した。どんなすぐれた指導者でも、20年もの歳月のなかでは、言説や態度に矛盾をきたし、誤りを犯すことはありえないことではない。筆者が間題にしたいのは、そういう矛盾や誤りそれ自体ではない。そんなことは、複雑困難な革命闘争では、むしろ、あって当たり前なのである。レーニンは、必要な場合にはいつでも、「諸君、われわれは間違った」と卒直に誤りを認めたことで知られている。 間題は、あくまで白を黒といいくるめ、「宮本顕治無謬」論、「日本共産党無謬」論を押しとおそうとするところにあるのではないか、と指摘していた。 |
【「いわな論文」に党中央の爬行的反論】 |
以上は、「ルーマニア問題」の前半である。これに対し、宮顕は、緒方靖夫氏(国際部長)の署名記事で、赤旗2.27日付の「変節した『元特派員』の日本共産党攻撃」を書かせ反撃した。低劣な人身攻撃で始まるその論法は、
@・天安門事件までチャウシェスクは支持でき、ルーマニアは人権蹂躙国ではなかった。A・だから、それ以前に結んだ声明・宣言は、当時も今も重要な意義をもつ
。B・したがって、宮本顕治氏はルーマニア問題で完全に正しく、まったく誤りを犯さなかった、という粗雑な三段論法であった。この時低劣破廉恥な人格攻撃を異様なまでに加えていた。変節者だとか「落第者」だとかのレッテルを貼り、社会的に批判を封殺するという「伝統的習慣」をここでも見せた。 いわな氏は、月刊『現代』19905月号に、再反論を掲載した。「元赤旗ルーマニア特派員の『爆弾寄稿』」「宮本顕治議長よ誤りを認めよ」、「歴史に立ち遅れた『日本共産党』を徹底批判する」で、「社会主義の優位性について攻勢的な宣伝を書け」という宮本氏の指示があったこと、当時のルーマニア共産党機関紙『スクンティア』が「東京にも送られており、日本共産党は、異常なチャウシェスク個人崇拝を容易に知りうる立場にあった」こと、上田耕一郎副委員長が「この国はひでえんだな。女房をナンバーツーにしてんだろ」(同p.103)と発言した事実、「事実、この頃、チャウシェスクは妻のエレナ、息子のニクを始め、一族縁者三十数人を党と国家の要職につけていたこと」を知り得る立場にあった等々を明らかにした。 この時いわな氏は、「今の共産党にはもう一つ特異な「民主的マナー」がある。必ず人身攻撃で反論するという『伝統的習慣』である。これまた、かつてスターリン主義のソ連・東欧で異論者に“同性愛者”[ルビ:ホモセクシュアル]“寄生生活者”[ルビ:パラシット]などというレッテルを貼り、社会的に批判を封殺した手口と同じである。 要するに、『罪状』を高札に書き連ねて『罪人』の首を街角にさらす、あの中世的“さらし首”“見せしめ”の思想である。こんな批判をすればお前らもこうなるぞという恫喝である」と、宮顕指導の変態性も指摘していた。 |
【「ルーマニア問題」に対する木村愛二氏の意見書封殺】 |
この一連の経過に対して、党員ジャーナリスト・木村愛二氏(その後離党)が参戦する。[埼玉県委員会宛て]に「ルーマニア問題・緊急意見」を提出したのを手始めに合計3通提出した模様である。いわな氏と赤旗2.27日論文及び赤旗評論特集3.5日の緒方靖夫氏名による論文の遣り取りに対して、「『サンデー毎日』の主張を取る以外にない。ルーマニアの独裁専制支配問題について、少なくとも1979年前後には、かなりの情報が得られていた筈であり、ルーマニアの独裁政権ぶりを疑う材料が十分過ぎるほどあったと判断できるので、党は早めに『情報収集の努力不足と分析の遅れについての反省』を発表すべき」として、宮顕の責任に言及していた。「裏切り者へのプライバシー暴露攻撃」もほどほどにしないと、世間常識からかけはなれる。もっと穏やかに、論議になっている主題に関する事実で反論すべき。常に正確な事実を追及し続けるべき。読者に事実が全く分らない人格攻撃から始めている赤旗』(2.27日付け)及び『赤旗評論集』(3.5日付け)の緒方靖夫氏名論文の手法を疑問とする」としていた。 この「木村意見書」は封殺され、逆にこの意見書を提出したことにより木村氏は中央委員会から代々木の本部への出頭を求められた。「そこで経験したのは、それ以前の私の想像を上回る官僚主義の壁の厚さであった」と木村氏は伝えている。すったもんだの挙句ではあるが、木村氏の意見書「第19回党大会議案についての意見−ルーマニア問題について」が、赤旗評論特集版(特集・臨時増刊第1号に掲載された。内容は、意訳概要「ルーマニア問題での党の対応は誤りであり、その点の責任と反省を明らかにし、今後の教訓とすべきではないでしょうか。その際、真に問われるものは、事実に対する誠実さであり、今後の情報収集と分析能力改善への期待と信頼ではないでしょうか」としていた。 木村氏のこの意見書に対して、中央委員「増田紘一(中央)」の名による反論が、5日後の同誌に掲載された。これに木村氏が反論し、さらに再反論が為されるという具合にエスカレートしていくことになった。その後の経過からして問題となったところは、「党中央はアムネスティ・イシタナショナルの年次報告書を見ていたのか」から「少なくとも所持していたのか」につき、党中央の見解がくるくると変わることであった。木村氏は、「この実に下らないごまかしは、それ以前の現衆議院議員、緒方靖夫のごまかしに発していた。当時の赤旗外信部長・緒方は、ルーマニア特派員の『いわなやすのり』が送ってきたアムネスティ・インタナショナルの報告書の原文などを確かめもせずに、紙屑箱に放り込んでは、チャウシェスク狂いのミヤケンの茶坊主を努め、御殿詣でに付き添っていたらしいのである」と指摘している。 党大会後、木村氏は代々木本部の一室で、増田紘一と名乗る反論執筆者本人の中央委員と対決した。この時緒方は出てこなかった。最初に増田が、勢いのない声で、弁解とも説教とも付かぬ「日本共産党のルーマニアも問題に対する態度」を、おどおど、くだくだ、繰り返した。「いい加減にテープレコーダーを止めろ。こちらは貧乏暇無しで、呼ばれたから仕方無しに来たんだ。そんな弁解は聞き飽きている。緒方がアムネスティの報告を読まずに嘘を付いたことを、党として認めるのか。認めないのか。謝るのか。謝らないのか!」。すると、突然、これもどちらか覚えていないのだが、多分、増田が命じて、もう一人の「お付き」風の男が電話をした。その雰囲気で警備員を呼んでいることが、すぐ分かった。私の叱り声に増田が震え上がっていたからだ。私は、その無礼なやり方に対しても厳しく叱り付けた。確か、「俺は声が大きいが、それはカンカンに怒っているからだ。暴力を振るったわけでもないのに、失礼じゃないか。どうせ呼ぶなら、もっと呼べ。中央委員全員を呼べ。皆の前で同じことを言ってやる!」などと言った。この経過で、木村氏も離党していくことになった。 |
【第39回総選挙】 |
2.18日、第39回総選挙。小沢一郎自民党幹事長、財界から数百億の選挙資金を調達。自民党は286議席を占め、安定多数を確保した。共産党は、27議席から16議席に減少した。東京だけでも、岡崎万寿秀(2区)、松本善明(4区)、工藤晃(7区)、中島武敏(9区)、岩佐恵美(11区)の現職が落選。社会党は土井ブームが続き、社会党は136議席と51議席増やした。(自民275、社会136、公明45、民社14、社民連4、進歩1、無所属21。 オウム真理教が「真理党」を立ち上げ、25名を立候補させるも麻原党首以下全員落選する。 |
【赤旗編集局内に怪文書がばらまかれる】 | ||||||||||||||||||||||
2.20日、赤旗編集局内に怪文書がばらまかれるという事態が発生したようである。「自由代々木放送」(全貌社)による情報であるが、興味深いので以下記す。ちなみに全貌社情報に対する私のスタンスは、全貌社の観点とは同化しないが、資料的価値として一級として評価している。残念ながら、全貌社以外に代々木情報の漏洩は無いのが実際であるからして、事実と思われるものに対してはこれを採用することにしている。 編集局にばら撒かれた怪文書には次のように書かれていた、とある。
等々と列記されていた。この文書は『一号怪文書』と位置付けられている。これに続いて、『二号怪文書』が撒かれ、末尾には「自由代々木放送」と書かれていた。『二号怪文書』は、第19回党大会に向けての党幹部人事構想を載せ、興味深いことに宮本をそれより外すことにより引退を促していた。 |
2.28日、第2次海部内閣。海部俊樹(河本)首相、 官房長官・坂本三十次、幹事長・小沢一郎(竹下)、総務会長・西岡武夫(宮澤)、政調会長・加藤六月(安倍)。 |
【古在由重氏逝去時の騒動】 |
3.6日、元党員哲学者・古在由重氏が逝去(88歳)。古在は、東京に生まれ、父は東大総長を努めた古在由直である。東大哲学科を卒業し、戦前から戸坂潤らと唯物論研究会を組織し、反戦平和運動などに参加、獄中経験も二度ほどある。戦後は、共産党系社会科学者の団体として知られる民主主義科学者協会の幹部として活躍した。東大教授を退職後は、名古屋大学教授も勤めている。戦前から作家の宮本百合子などと親交があり、戦後は早くから共産党に入党し、宮本家とは親類付き合いだったと云われる。宮本の要請で、ベトナム戦争時には、「日本ベトナム支援委員会」の代表委員も兼任していた。ところが、1984(昭和59)年の夏に起こった日本原水協の分裂で、共産党批判グループの吉田嘉清事務局長や、草野信男理事長(東大医学部教授)らを支援したため、共産党から除籍処分を受けた。この時古在は83歳、またしても使い捨てにされた事例がここにある。その後古在は、宮本議長宛に何度も手紙を出し、党改革の忠言をしたが、なしのつぶてであった。 古在の訃報を新聞各紙が大きく報道し追悼記事を載せたのに、「赤旗」は、完全黙殺した。党内外からの批判が高まり、共産党本部や「赤旗」編集局に抗議が殺到し、かなりの人が「赤旗」購読をやめた。すると、金子・宮本らは、5月23日付「赤旗」で、「古在由重氏の死亡の報道に関して――金子書記局長の報告の要点」を掲載した。そこでは、わざわざ「原水禁運動をめぐっての1984年10月の除籍にいたる日本共産党との関係」として、彼の「厳密にいえば分派活動」規律違反行為をわざわざ分析してみせて、“死者に鞭打った”。これに対して、学者・文化人党員からも批判が相次ぎ、古在の訃報後5ヶ月もたった8.18日赤旗「古在問題での党攻撃に関連して」論文を発表している。 |
5.10日、袴田里見氏が逝去(享年85歳)。袴田は、党を追われてから、宮本への恨みつらみの手紙を出し続けていたと伝えられている。宛先は、宮本の自宅ではなく、党本部幹部会事務室気付宮本顕治となっており、党幹部周辺に伝わることが期待されていた節がある。 |
【「フォーラム90S」騒動】 |
5.13日、共産党の民主集中制に批判的な左翼文化人や活動家が大結集し、新しい平和運動組織「フォーラム90S」を作ろうとする動きが起こり、この日第一回呼びかけ人会議が開かれた。呼びかけ人は、前野良、井上清、石堂清倫、佐多稲子、小田切秀雄、志賀多恵子、吉川勇一、松江澄、いいだもも等、その他新左翼系の塩川喜信、村岡到、中野徹三、岩田弘、塩見孝也、朝日健太郎、志摩玲介、常岡雅雄らが名を連ね、約120余名が集まった。この会議で、加藤哲郎教授が「東欧市民革命と社会主義の危機」と題し、記念講演を行った。 |
【第19回党大会】 |
不破が委員長に返り咲く。村上委員長が失脚し、後任に村上グループが上田副委員長を推挙、宮本グループが金子満広を挙げる中、上田の「自分はやる意思は無い、不破が一番良く似合う」との不破推挙により実現という運びとなった。 7.9日、976名の代議員。7.13日中央委員150名、准中央委員56名の計206名が選出された。7.13日、第1中総で、党5役を選出。幹部会員(57名、准3名の計60名)、常任幹部会委員(20名、准2名の計22名)、統制委員(11名)、書記局員(14名)。この大会で、宮本直系グループから不破・上田グループへの指導権の転換が行われた。 |
【イラク軍がクウェート侵攻】 |
8.2日、イラク軍がクウェート侵攻。政府、多国籍軍に10億ドル支援を決定(以降、総計130億ドルを拠出していくことになる)。 8.3日、ベーカー米国務長官とソ連のシュワルナゼ外相がモスクワで会談。イラクを非難し、武器輸出停止を世界に呼びかける共同声明を発表し、米ソ協調姿勢を明らかにした。続いて国連の安全保障理事会が開かれ、イラクの無条件撤退、併合無効宣言など12の決議を可決した。冷戦時代であれば、米ソの拒否権行使によりこうした採決が為されることは容易ではなく、それを思えば時代が変わったことを印象付ける歴史的展開点に至っていることを証左している。 |
【川上徹が藤田省三らとともに「古在由重先生を偲ぶつどい」を企画】 |
9.14日、川上徹が、藤田省三らとともに、「古在由重先生を偲ぶつどい」を企画、事務局側の一人となった。呼びかけ人には、家永三郎、加藤周一、川本信正、久野収、寿岳章子、除京植、田中里子、遠山茂樹、永井潔、古田光、緑川亨らが名を連ねていた。川上徹は、1400人の参加者のまえで「つどいの経過報告」をした。党中央は、“除籍した者を偲んだ”規律違反として、川上徹を査問し、除籍した。 |
【八鹿高校事件の「解同」側被告人13名からの上告申立棄却決定】 |
11.28日、最高裁(第一小法廷、角田禮次郎裁判長)が、八鹿高校事件を頂点とするいわゆる「八鹿・朝来暴力事件」について、主犯丸尾良昭ら部落解放同盟(「解同」)側被告人13名からの上告申立に対し、適法な上告理由がないとして、これをいずれも棄却する決定をくだした。この結果、1983.12.14日に神戸地裁が言い渡した、主犯丸尾良昭に対する懲役三年、執行猶予四年の刑を最高とする全被告人、全事件有罪の一審判決が確定した。(「八鹿高校事件考」参照の事) |