第51部 | 1989(平成元)年当時の動き、主なできごと.事件年表 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
2002.10.20日 れんだいこ拝 |
【昭和天皇崩御】 |
1.7日、天皇裕仁(昭和天皇)87歳で崩御。昭和(62年と2週間=22,660日)の時代終わる。元号が平成に改められる。中国の楊尚昆国家主席と李鵬総理が昭和天皇の逝去で竹下登首相あてに弔電。 |
※週刊ポスト2019年5月3・10日号、聞き手・レポート/武冨薫(ジャーナリスト)「小沢一郎氏「平成の元号案は竹下さん小渕さんと僕で決めた」」。
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【ディビッド・ロックフェラー派がモスクワのクレムリン宮殿でゴルバチョフと極秘会談】 |
1.18日、TC(日米欧三極委員会)の幹部たちがディビッド・ロックフェラーに率いられて、モスクワのクレムリン宮殿・奥の院に集結し、ゴルバチョフと極秘会談した。参加した幹部の名は次の通り。元米国国務長官ヘンリー・キッシンジャー、元フランス大統領ジスカールデスタン、日本の元首相中曽根康弘その他。 |
【リクルート事件で逮捕相次ぐ】 |
2.13日、江副浩正リクルート前会長ら2名をNTT法違反(贈賄)容疑で、日本最大の企業NTTの元取締役・式場、長谷川寿彦の両元取締役ら8名が逮捕された。更に、3月、辰已雅朗・リクルート元社長室長、NTT会長真藤恒(ひさし)、元労働次官加藤孝、元労働省課長鹿野茂、前文部次官高石邦男らが事情聴取され、収賄容疑で逮捕された。5月には第2次中曽根内閣の官房長宮であった藤波孝生(たかお)代議士と池田克也公明党代議士らを受託取賄容疑で在宅のまま取り調ベを行った。 疑惑が持たれた高級官僚や閣僚たちは、「妻が株をもらった。私は知らない」とか「家族がもらった、秘書がもらった」と釈明、当時「妻が、妻が…。秘書が、秘書が…」という言葉が小学生の間にまで流行した。こうして事件は元閣僚、元代議士、事務次官2名、NTT元会長らをリクルートコスモス社未公開株収受による収賄容疑で起訴及び宮沢大蔵大臣辞任、竹下内閣崩壊というスケールに拡大した。特にに、疑惑のコスモス株を秘書または家族名義を含めて9人の閣僚級政治家が密室の財テク的収受をしていた政府自民党幹部、中でも中曾根前内閣中枢に強い疑惑が集中した。当然、国会の証人喚問などでも追及されたが、多くの「灰色高官」たちの立件は行われないまま、事件は幕引きとなり、結局、戦後の他の大疑獄同様、核心の解明なしで終結、国民の間には、「政治不信」だけが残こることとなった。(田村氏の「リクルート事件の概要」) ☆ 「リクルート事件にかかわる検察捜査の総費用は合計1億5000万円(人件費を除く)」(法務省根来刑事局長の参院法務委員会での発言)。 なお、リクルート事件と規模や内容面でしばしば比較される1976(昭和51)年に発覚したロッキード事件の場合は1億7000万円。 費用面では、リクルート事件の方がロッキード事件を下回ったが、両事件発覚時の物価水準を考慮すると、2000万円の差は逆転し、さらに開くことになる。 |
2月、昭和天皇の大喪の礼。
2.9日、常任幹部会の席上で、宮本議長が村上委員長を失脚させた。その背景として、村上委員長が旧全逓系、関西系の自派系人事を強行して宮本秘書軍団と対立、このたび宮本議長の鶴の一声で村上追放となったという事情があった。村上はその夜、「こんなことで委員長の首を飛ばすなら、誰がやっても務まらんよ。この悪習を放っておいて良いのか」と憤懣を漏らしたと伝えられている。 2.10日、村上委員長派と見られる党幹部が「村上体制を維持せよ」の会合を持った。メンバーは、荒掘広・労働局長・統一戦線推進委員会責任者、定免政雄・元大阪府委員長。中央選対部長、田中弘・元京都府委員長・中央書記局員、浜野忠夫・人事局長・党建設委員会責任者・組織局長、寺前巌・国会対策委員長、菅生厚・現大阪府委員長ら以下党本部や大阪府委員会の中堅どころの面々。但し、当の本人が「ここは自重してくれ」と出席を断わった。 2月下旬、村上派主要幹部7名が連名で宮本議長に「陳情書」を提出。この意見書が握りつぶされている間、結局村上委員長が「俺は病気でもなんでもない、もう我慢できないよ」と、病院から抜け出して大阪の自宅に帰り、事実上委員長職を放棄したことで幕切れとなった。4.9日旧全逓仲間の高原晋一副委員長に促され、「自己批判書」を提出した。 |
2月、社会民主連合事務局長だった石井紘基はその十年史のなかで次のように述べている。
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4.25日、竹下内閣が退陣表明。予算成立の後に国民の政治不信の責任をとって辞任表明。その翌朝、竹下氏の腹心の秘書(金庫番)青木伊平氏が自殺。予算成立後の6月2日に竹下内閣は総辞職する。 「リクルート事件に関しては、当時、党内は総主流派体制であり、しかも、次期総裁候補をはじめとする、党の有力政治家のほとんどが関与していたため、竹下の責任を追及し、経世会を攻撃する派閥がなかった。これは、ロッキード事件等の一連の金脈問題で、田中角栄、あるいは、田中派が、三木武夫や福田赳夫に激しく攻撃されたのとは、大きく異なる。また、田中が、金脈問題で退陣した後、自民党は、クリーンなイメージの三木を総裁に選び、国民に対して鮮やかなイメージチェンジを図ったが、リクルート事件の際は、有力者が、全て、事件に関与していたために、自民党政治そのものが、汚染され、制度疲労を起こしている状態になった。このことは、リクルート事件をきっかけにして、政治改革の必要性が、政治内部と国民の双方で高まった原因として考えられる」。 |
【竹下登首相の秘書兼金庫番/青木伊平変死】 |
4.26日、竹下登首相の秘書兼金庫番として権勢を得ていた青木伊平(あおき いへい、1930年12月9日 - 1989年4月26日)が変死した。 青木は島根県大社町出身。島根県立大社高等学校、明治大学工学部卒業。大学卒業後、ベアリングメーカーに就職したが1953年に島根選出の高橋円三郎衆議院議員の秘書となって政界に職を得る。1956年に高橋が死亡したためやはり島根選出の小滝彬の秘書となる。1958年に小滝が死去すると、ほぼ同時期に高橋の地盤を継いで衆議院議員となった竹下登の秘書となる。以降、竹下が首相の座に上り詰めるまで、30年間にわたり秘書を勤める。初当選当時の竹下は、県議時代から議員報酬の大半を政治活動に充てるなど、家計が自転車操業状態にあった。さらに公職選挙法違反で逮捕された24名もの支援者や運動員の世話まで加わり、活動資金を派閥の佐藤栄作に借用する状態であった。この事態から、竹下はまず資金を調達し、更にその調達・利用に関しては竹下本人に累が及ばないよう、秘書に形式上は全権を委任するという形をとることとなった。そしてその資金方面について担当することになったのが青木であり、青木は「竹下の金庫番」と呼ばれるようになる。青木は竹下事務所の経営を一手に引き受け、その運営によって竹下の政治基盤の強化、スキャンダルについての危機管理に一役買っていた。具体的には、政局に関わる資金供与の際には、相手と名刺を交換してそこに領収書代わりに一筆書いていた。竹下はその後相手に電話をかけて「青木がそちらを訪問した」ことのみを確認し、資金供与の事実を念押しする(資金のことは一切触れていないため、問題になっても白を切ることができた)。政治家同士の資金供与で一筆とることは通常行われていなかったが、これによって後年、野党政治家に追及された時に「あなたと名刺を交換しましたよね」とさりげなく脅すことにより、相手をひるませることができた。また、資金供与の相手と賭け麻雀をやってわざと負ける、という手法をとることもあったという。 竹下が首相に上り詰めた後の1988年、リクルート事件が勃発する。竹下も未公開株であるリクルートコスモス株の名義人になっていたため、国会で追及を受ける。1989年4月10日、翌日の集中審議への対策として青木と小沢一郎官房副長官が打ち合わせを行い、リクルート社による資金供与の総額を1億5100万円で確定、翌11日の集中審議で竹下が「今後、これ以上出てくることはない」と断言した。しかし、リクルート社から竹下に対しては、1億5100万円の他に、5000万円の献金の申し出があった。しかし青木はこれ以上は受けられない、と返答して5000万円を貸付金として処理し、事件発覚時には既に返却していた。青木が受けた事情聴取では事務所の出納記録を確認した佐渡賢一が「事件性無し、シロ」と判断、公表の有無については竹下側の判断であると返答されたため、この分は含まずに公表していた。ところが21日に取り調べ内容が朝日新聞にリークされ、同日夜に取材がやってきた。事態を楽観視していた青木は重大性に気付き、22日早朝に竹下邸に弁明に訪れたが、この際普段は「感情を表に出さない」ことをモットーにしていた竹下が大激怒、声を荒らげて青木を叱責したと言われ、相当な心労を受けたとされている。この日の取り調べでは平和相互銀行事件について詳しい説明を求められ、青木は金丸信に電話で報告をした際「もう、かないません。辛抱ならん」とこぼしている。朝日新聞が同日夕刊で新たな貸付金のスクープを報じ、竹下批判の声はさらに高まった。25日、竹下は記者会見で退陣を表明する。青木はこの日も事情聴取の予定であったが、多忙を理由に回避していた。この頃、青木は記者の取材を避けて夫人と外泊を続けており、夕食後にホテルを出て、竹下邸に向かった。しかし玄関前に取材記者が大勢いたため入れず、近くの公衆電話から竹下事務所に連絡をし、そのまま消息を絶った。26日、自宅の寝室で首吊り自殺を遂げたところを夫人に発見された。ベッド脇には、夫人や竹下に宛てた遺書が4通残されていた。竹下は青木の死の直後、「突然のことですので……。30年以上私と一緒にいたわけだから、まことに残念に思う」、「これは"死の問題"だから、(カネの問題と)絡めた書き方はしないで欲しい。仏様に申し訳が立たない」とコメントした。 死因を巡って。青木の亡骸のそばに遺書があることから、公式には自殺したとされているが、その不自然な状況から謀殺の可能性があるとされている。青木は発見時パジャマ姿で、左手首にはカミソリによる切り傷が17か所あった。また、首吊りの紐にはネクタイを代用しており、ネクタイが腰紐に継ぎ足され、その端がカーテンレールにつながっていた。本人はベッドに横たわっており、首吊り自殺の形態としては不自然である。また、縊死の場合は脱糞するが、死装束をした夫人の証言では下着は汚れていなかった。また、青木は中学時代の同期の杉原正が自殺してその遺族の世話をしてから盛んに「自殺だけはやっちゃいかん」と言っていたという証言もある。そのため、青木が自殺をするはずがなく、殺されてから偽装のため縊死を装わせたのではないか、とされる。(「ウィキペディア(Wikipedia)青木伊平」参照) |
4.28日、経済4団体が「政治改革の断行を求める共同声明」。
4.28日、アメリカ通商代表部(USTR、大統領直属の通商交渉機関)が1989年度の外国貿易障壁報告書(National Trade Estimate Report on Foreign Trade Barriers、NTEレポートと呼ばれる)を発表した。同書で日本が「日本市場は閉鎖的だ」として34項目を指摘し、報告書で指摘した状況に改善が見られなければ報復措置を取る(根拠となる法律がスーパー301条であり、後の新聞記事にこの名が頻繁に登場する)と迫ってきた。
【リクルート事件関係者の処罰概要】 | ||
政界ルート | 藤波孝生・元官房長官 | 1審・無罪⇒2審・懲役3年、執行猶予4年=上告棄却・有罪確定。 |
池田克哉・元衆院議員 | 1審・懲役3年、執行猶予4年=確定。 | |
文部省ルート | 高石邦男・元文部事務次官 | 1審・懲役2年、執行猶予3年⇒2審・懲役2年6月、執行猶予4年=上告中。 |
労働省ルート | 加藤孝・元労働事務次官 | 1審・懲役2年、執行猶予3年=確定。 |
鹿野茂・元労働省課長 | 1審・懲役1年、執行猶予3年=確定。 | |
NTTルート | 真藤恒・元NTT会長 | 1審・懲役2年、執行猶予3年=確定。 |
長谷川寿彦・元取締役 | 1審・懲役2年、執行猶予3年=確定。 | |
式場英・元取締役(故人) | 1審・懲役1年6月、執行猶予3年=確定。 | |
小林宏・元ファーストファイナンス社長 | 1審・懲役1年、執行猶予2年(贈賄)=確定。 | |
リクルート社 | 江副浩正・元リクルート社会長 | 1審公判中(懲役4年を求刑-02年3月29日)。 |
辰巳雅朗・元社長室長 | 1審・無罪⇒2審・懲役1年、執行猶予3年=上告中。 | |
小野敏広・元秘書室長 | 1審・懲役2年、執行猶予3年=確定。 | |
☆「リクルート事件にかかわる検察捜査の総費用は合計1億5000万円(人件費を除く)」(法務省根来刑事局長の参院法務委員会での発言)リクルート事件と規模や内容面でしばしば比較される1976(昭和51)年に発覚したロッキード事件の場合は1億7000万円。 費用面では、リクルート事件の方がロッキード事件を下回ったが、両事件発覚時の物価水準を考慮すると、2000万円の差は逆転し、さらに開くことになる。 |
6.3日、宇野宗佑(中曽根)内閣誕生。官房長官・塩川正十郎、幹事長・橋本龍太郎(竹下)、総務会長・水野清(宮澤)、政務調査会長・村田敬次郎(安倍)。宇野首相→「天に祈り地に伏して改革を」。 |
【中国で天安門事件起る】 |
4.15日胡耀邦・前総書記死去。 4.16日天安門広場の人民英雄記念碑に北京大学生らが胡氏を悼む花輪を捧げ始める。 4.17日同広場で、学生等が胡氏の名誉回復を求めてデモ。 4.22日党・政府による胡氏追悼集会。 4.24日北京の各大学が無期限授業ボイコットに突入。 4.26日人民日報社説が「旗幟(きし)を鮮明にして動乱に反対せよ」発表。 5.19日趙紫陽総書記が同広場でハンストを続ける学生の説得を試みる。 5.19日趙紫陽総書記がゴルバチョフソ連共産党書記長と会談、その席で「最も重要な問題については、依然鄧小平同志の舵取りを必要としている」との党内事情を暴露し、党の重要決定が鄧小平氏の一存によって諾否されていることを明らかにした。 5.20日北京市中心部に戒厳令。 6.4日、未明に中国人民解放軍戒厳部隊が戦車と装甲車で天安門広場に入り、学生・市民に発砲、死者数百人(天安門事件)。 6.9日、鄧小平氏が、事件後初めて中央テレビに登場、戒厳部隊と接見の様子が放映される。 6.23(24)日、中国共産党中央委員会総会が、趙紫陽総書記の全職務解任、後任に江沢民・上海市党委書記政治局員を選出。 以上が経過であるが、このときの内部資料が漏洩されており、2001.1.12日発表された。この文書と党の公刊資料を総合すると、天安門事件の経過は次のようになる。5.16日夜、政治局常務委緊急会議で、多くの者は「民主化運動に絶対に譲歩してはならず、動乱を制止すべきだ」と考えたが、趙紫陽はそうした多数の常務委員の意見に同調しなかった。5.17日の政治局常務委員会で、「事態(動乱)が続けば、我々が自宅軟禁状態になる。私は人民解放軍を動員し、北京に戒厳令を布告すべきだとの結論に達した」と述べ、戒厳令布告を決定した。趙総書記が「私はそれを実行するのは難しい」と強く抵抗していたことに対して、「趙は辞任を求められ、厳しく批判された」。5.19日党政・軍幹部大会が開かれたが、趙は出席を拒否、党との分裂を明らかにした。5.20日鄧小平の自宅で会議が開かれ、陳雲中央顧問委主任も出席。陳は5.23日長老の李先念全国政協主席、*真前全国人民代表大会常務委員長、王震国家副主席と会談した。厳令後の5.21の長老会議で、鄧小平氏は、「趙紫陽は動乱を支持し、党を分裂させた。彼を現職に留めておく理由は無い」と宣言。5.27日の長老会議で、「新政治局常務委は江沢民(上海市党常委書記)、李鵬首相、喬石中央規律検査委書記、女兆依林副首相、宋平党組織部長、李瑞環天津市党委書記で構成し、江沢民を総書記にする」と指示した。5.31日鄧小平は、李鵬、女兆依林を呼び、「江沢民を核心として団結するよう」伝えた。 この経過には共産党指導体制による恐るべき人治主義の実態が明らかにされている。 日本は、円借款や閣僚級接触を凍結。 |
【JR総連発足】 |
JR総連は傘下組合員6万1000人を誇り、JR連合(組合員7万5000人・右派)と並ぶJR労組内の一大勢力である。特にJR東日本では、経営側のバックアップもあって労組員の約8割を占め、圧倒的影響力を持っている。JR総連の前身は国鉄動力車労働組合(動労)である。この動労、国鉄民営化前は順法闘争やスト権ストを繰り広げ、「鬼の動労」の異名を取っていた。JR総連を革マル派が支配するようになったのは、元動労委員長で現JR総連・JR東労組顧問の松崎明氏抜きには語れない。最左派と目された「鬼の動労」が賛成に回ったのだ。しかも動労から見れば右翼とも言える鉄労と組んでまで。 もっともネックになると目されていた動労(松崎氏)の転向によって、国鉄民営化は大した混乱もなく実現するのである。このときから、JR東日本の経営側はJR総連(というか松崎氏)の意向を無視できなくなったのだ。このあと、動労は鉄労とともにJR総連を発足させる。が、やがてJR総連内の鉄労系組合員は、動労系のセクト主義、その攻撃性に愛想をつかして総連を脱退し、新組織を結成する。この新組織を積極的に支援したのが、当時、JR東海の副社長だった葛西敬之氏である。で、この葛西氏、自らが非常勤講師を務める大学で革マル派に襲撃される。JR東日本とJR東海が犬猿の仲なのは、こういう背景があるのである。 |
【第15回参院選】 |
7.23日、第15回参院選で自民惨敗(36←69)。(社会46、自民36、連合11、公明10、共産5、民社3、税金2、二院1、スポーツ平和1、諸派1、無所属10) 。社会党が土井委員長の「山を動かす」の「マドンナ・ブーム」で大躍進、与野党勢力を逆転させた。 |
【第15回参院選】 |
7.24日、宇野首相が参院選惨敗(過半数割れ)と女性スキャンダルの責任を取り辞意表明する。8.8日に両院議員総会を開いて後継総裁を選出することを申し合わせた。。石原慎太郎が若手議員に推され自民党総裁選に名乗りを上げた。対立候補の海部俊樹には出身派閥の河本派に加え、党内最大派閥の竹下派、安倍派、旧中曽根派が相乗りした。竹下派の事務総長として総裁選の舞台回しを務めたのが小沢一郎。林義郎は、宮沢派と二階堂グループが支えた。 |
【伊藤律逝去】 | |||||
8.7日、伊藤律死去。次の言葉を遺している。
かって日本革命と農民運動を律と共に闘った山口武秀(日本最強の常東農民運動の指導者、代議士二期、三里塚闘争の「軍師」などとして終生闘いぬいた)は、律の死に次の追悼文をよせた(抜粋)。
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【海部政権誕生】 |
8.8日、自民党両院議員総会が開かれ、後継総裁公選に海部俊樹(河本派)、林義郎(二階堂系)、石原慎太郎(安倍派)が立候補。第1回投票で海部279、林120、石原48の順となった。海部が過半数を獲得した為、自民党第14代総裁に選出された。 8.9日、首班指名投票で衆院は海部俊樹、参院は土井たか子を指名、41年ぶりに両院協議会が開かれ、日本国憲法第67条の衆議院の優越規定により海部俊樹自民党総裁を内閣総理大臣に選出した。 8.10日、第1次海部内閣。海部俊樹(河本)首相、官房長官・山下徳夫、幹事長・ 小沢一郎(竹下派、47歳)、総務会長・唐沢俊二郎(中曽根派)、政調会長・三塚博(安倍派)の布陣。(「不退転の決意で政治改革を」、『金・竹・小』支配体制確立→「支配すれど責任とらず=権力の二重構造が明確となる。橋本龍太郎が蔵相に就任。敗北した石原慎太郎は入閣も果たせず、党の亜流を歩むきっかけとなった。「この時の屈辱というか逆恨みが小沢憎しの原点」(自民党古参秘書)となる。 |
※週刊ポスト2019年5月3・10日号、●聞き手・レポート/武冨薫(ジャーナリスト) 「小沢一郎氏「海部政権は本当の『消去法』で発足した」」。
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【ベルリンの壁崩壊】 |
11.9ー10日、ベルリンの壁崩壊。東独が国民の西側への旅行と出国を自由化。 |
【共産党系労組がナショナル・センターとして「全労連(全国労働組合総連合)」を結成】 |
11月、統一労組懇に決集して活動してきた共産党系労組が、ナショナル・センターとして「全労連(全国労働組合総連合)」を結成した。加盟労組は、29単産、42地方組織、約140万名であった。議長に松本道広、副議長に猿渡真(自治体連絡協)、館博通(日高教)等々に割り振りされた。加盟労組の内訳は、自治労から分派した自治労連(30万人)、全教育(18万人)、国公労連(18万人)、日本医労連(17万人)、建設一般全日自労(4万9千人)、生協労連(4万1千人)、一般労組(4万人)、自交総連(4万人)、日高教(3万人)、運輸一般(2万人)、年金者組合(1万7千)、全国金属情報機器労組(1万2千)らであった。 11.21日、総評解散、総評、同盟、中立労連、新産別などが日本労働組合総連合(連合)連合発足。新左翼系は社会党左派と共に全国労働組合協議会(全労協)を結成する。 |
【ベルリンの壁取り壊し】 |
12.21日、ベルリンの壁取り壊し作業始まる。 |
【ルーマニアのチャウシェスク政権崩壊】 | ||
12月、ルーマニアのチャウシェスク政権が崩壊した。以下、「ウィキペディアのルーマニア革命(1989年)」その他を参照する。 12.16日、ハンガリーの国境にほど近いティミショアラで、テーケーシュ・ラースロー司教退去令に対する抗議デモが起った。12.21日、ルーマニアの首都ブカレストで大規模な政治集会が行われ、この集会はその後、民主化を求める反体制デモに拡大した。これにも治安部隊が発砲を行ったため、ブカレストでも多数の死傷者を出す事態へと発展した。この事件はすぐさまルーマニア全土に知れ渡り、チャウシェスク政権に対する国民の怒りは頂点に達した。動乱は全国に波及し、軍隊も市民の動きに同調するようになった。反体制派は同日夜から翌日にかけて国営放送局他、政府機関を占拠。革命勢力による臨時政権の樹立が行われた。ブカレスト市内などでは大統領派の治安警察部隊による発砲と、それに対する国軍の反撃によって銃撃戦が発生した。 12.22日、ルーマニアのブカレストで数十万人デモ。チャウシェスクは戒厳令を出して事態に対応するも、革命勢力による攻勢が大統領官邸まで及びそうになり、大統領夫妻は大統領府からヘリコプターでの脱出を試みた。12.23日、チャウシェスク夫妻が救国戦線により逮捕される。12.25日、ルーマニア特別軍事法廷が、チャウシェスク夫妻を、6万人の大量虐殺と10億ドルの不正蓄財などの罪で起訴、形だけの軍事裁判で即刻銃殺刑の判決を下し、その場でチャウシェスク大統領夫妻を処刑した。この様子はビデオで撮影され、フランスを含む西側諸国でただちに放送された。数日後ルーマニア国内でも処刑の様子が公表された。 「自由と民主主義を掲げた人々に惨殺された独裁者」は、次のように記している。
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