第49部 | 1987年当時の主なできごと.事件年表 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
2002.10.20日 れんだいこ拝 |
【鉄道労連(1989.6月、JR総連と改称)結成】 |
2.2日、改革協の4労組(国鉄動力車労働組合(動労)、鉄道労働組合(鉄労)、全国鉄道施設労働組合(全施労)、車輌労働組合(車労)、鉄輪会・社員労働組合)を主体とする国鉄分割民営化協力組合派が、分割民営化を2ヶ月後に控え、JR総連の前身となる鉄道労連(1989.6月、JR総連と改称)を結成した。4.1日付で、全民労協に加盟する。分割民営化反対の国鉄労働組合(国労)から分裂した真国鉄労働組合(真国労)もこれに加わった。結成大会では「国鉄改革に反対する不良職員が採用されかねない。しかし、このようなことは許されるものではないし、われわれは断じて許さない」とする「国鉄改革を妨害する不良職員は採用するな」という「「新会社の採用・配属に関する特別決議」を採択し、たとえ定員割れになっても、国労など、分割民営化に反対する「不良」職員を排除するよう公然と要求した(詳細は国鉄労働組合#JR以降と政府・経営側の評価を参照)。 初代会長は鉄労出身の志摩好達。松崎はその後、鉄道労連の下部組織である東鉄労(東日本旅客鉄道労働組合連合会、JR東組の前身)の委員長に就任する。「松崎の片腕」と云われた福原福太郎が鉄道労連書記長に就任。福原は、90年から3期にわたってJR総連委員長を務める。その後、交運労協の副議長に就任。2005.6月、「小説 労働組合」を発刊し、松崎、革マル派、JR総連を告発、内情暴露した。 動労中央本部副委員長の佐藤政雄が、中核派によりテロられ、瀕死の重傷を負う。佐藤は奇跡的な回復を遂げ、「松崎の金庫番」となる。 しかし、動労と鉄労の2大労働組合系組員によって主導権争いが起こり、結局鉄労色の強いJR東海労組・JR西労組・JR四国労組・JR九州労組の4組合が総連を離脱した。これらの会社のJR総連支持派組合員はこれに反撥し、新組合JR東海労、JR西労、JR九州労(後に解散。JR九州ユニオンに合流)を結成して総連に加盟し分裂。これらの会社では総連系の組合は少数派に転落した。その後1992年5月18日に、1987年2月28日に国労から分離発足した旧日本鉄道産業労働組合総連合(旧鉄産総連)労働組合が総連を離脱した4組合に合流し、日本鉄道労働組合連合会(JR連合)を発足させている。なお、2006年7月に組織問題からJR九州ユニオンがJR総連からの脱退を表明(後に除名)。JR四国・JR九州には現在、JR総連加盟組合は存在していない。 |
【JR六社発足】 |
4.1日、JR六社発足。4.14日、国鉄民営化。JR7社(北海道、東日本、東海、西日本、四国、九州、貨物)が誕生。松田昌士はJR東日本、井出正敏はJR西日本、葛西敬之はJR東海の社長に就任。 |
【旧国鉄内の各組合の対応考】 |
1964年度以降赤字に陥った国鉄は、1980年代に累積債務責任が問われることになった。1982年、政府の臨時要請調査会は、1987年までに分割民営化を実施するという方針を答申し、民営化に向けた動きが始まった。労働組合対策が焦点となった。国鉄には、国鉄労働者組合(国労)、国鉄動力車労働組合(動労)、鉄道労働組合(鉄労)という三つの労働組合が存在していた。日本の敗戦後の1946.2月にいち早く組織されたのが国労で、日本労働組合総評議会(総評)傘下の労組単産の中では最有力なものの一つであった。1951年、国労から運転関係職員が分裂して動労が設立された。鉄労は、国労が1950年代後半にストライキを多発させたことから穏健派が分裂して結成された。 国鉄は、日本電信電話公社(電電公社、現NTTグループ)、日本専売公社(現日本たばこ産業;JT)と共に、公共企業体という特殊な組織形態をとっており、その労使関係は公共企業体等労働関係法(公労法)という法律で規定されていた。公労法は、労働者の基本的権利のうち、団結権と団体交渉権を認めていたが、「公共性の強い職種は、権利よりも公共の福祉が優先するという論理」により団体行動権即ちストライキ権を認めていなかった。これを問題として1960年代からさまざまな「順法闘争」が繰り広げられた。1973年、順法闘争によるダイヤ混乱に怒った群衆が暴徒化して駅施設を破壊した「上尾事件」が起きている。 1975.11.26日、国労は動労と共に、経営側の内諾を得てスト権承認を求めるスト権ストを起こした。しかし、当初は妥協の構えを見せていた三木武夫内閣がスト権容認を拒否し、12.3日、ストの継続を断念した。1976.2月、国鉄は違法なストにより損害を被ったとして、国労と動労に202億円の損害賠償を求める訴訟を起こした。自民党は三塚博を委員長とした国鉄再建小委員会を組織し、組合批判を強めた。一方、当の国労はセクト間対立が深刻なものとなり、穏健な労使関係の構築を目指す勢力もあれば公然と革命を主張する勢力まで多岐にわたり、組織としての意志決定能力を失いつつあった。 組合運動の先鋭化には、1969年以降のマル生運動の挫折という経緯が関係していた。1969年、当時の磯崎叡総裁は赤字脱却を目指して「生産性向上運動」(マル生運動)という職員の意識改革運動を始めた。この運動は並行して国労潰しを促進させたことにより自殺者も出る事態となり現場が混乱した。1971年、「組合を移れと説得することが不当労働行為に当たる」という見解が裁判所から出され、磯崎総裁は国会で陳謝しマル生運動は崩壊した。 国鉄分割に際して配置転換問題も持ち上がった。国鉄はいったん国鉄清算事業団に移り、七つのJR新会社として生まれ変わる。国鉄職員は全員が自動的に国鉄清算事業団に引き継がれ、新たに雇用される。この時、労組対策として労働運動歴が審査対象となった。配置転換は、「国家的不当労働行為による組合つぶし」の面も持っていた。 これに、各組合がどう対応したか。これがもう一つの国鉄改革・分割民営化問題となった。中曽根総理の分割民営化に対する強い決意と後藤田総務庁長官の警察庁への国鉄鉄道公安官採用働きかけをきっかけに、気象台灯台関係職員・国税庁職員の採用が続き、加速度的に雇用対策は進んだ。結果的に公的部門2万2千人、民間・国鉄関連企業2万4千人、合計4万6千人の再就職実績となった。 10万人の要員合理化計画が労組に提案され、翌1986(昭和61)年から開始された希望退職募集は、計画数2万人に対し3万9千人の実績となり余剰人員対策は大成功となった。問題は配置転換であった。当時国鉄の主要な労組は、国労・動労・鉄労の3組合であり、最大の国労は全組合員の70%を組織していた。動労、鉄労は「余剰人員調整策〜休職(退職前提・復職前提)と派遣」に賛成し、雇用安定協定が継続された。 これに対して、国労は反発した。1980年代の国労内派閥は、以下のようであった。1・総評事務局長(国労書記長)富塚三夫を指導者とし、社会主義協会太田派を味方につけていた。2・社会主義協会向坂派と向坂派の会議に毎回出席していた岩井章総評事務局長(国労最高幹部)の岩井・向坂派、3・共産党員を中心とする革同(革同会議―革新同志会が改称)。武藤久・国労委員長(富塚派)、秋山謙祐・企画部長(太田派)を中心とする富塚派と協共連合(協会向坂派―日本共産党・連合)が激しく対立していた。 この時既に、革マル派のbQの地位にいた松崎明を中央執行委員長とする動労(国鉄動力車労働組合)は動労の維持・温存・拡大を目的として国鉄分割民営化に転じていた。問題は、この経緯での動労の当局肝入り面にあった。これまで戦闘的労働運動を牽引してきたとされる動労が、国労の抵抗を傍目に当局と協調しつつ国鉄民営化を押し進めていったことにある。この動労の最高指導者が革マル派幹部でもある松崎であった。一体、革マル派は、学生運動においても特異な教義で小ブル雑派解体運動を押し進めてきたが、労働戦線でも肝心な時に裏切ったことになる。これを問うものは少ない。一体、革マル派とは何者なのか、本来はこう問われるべきであろう。 国労は国鉄の分割・民営化に最後まで反対したため、国鉄当局側から激しい切り崩しにあった。当初、国鉄側は穏健な姿勢を取っていたが、葛西敬之(後のJR東海会長)・井手正敬(同JR西日本相談役。JR福知山線脱線事故後に辞任)・松田昌士(同JR東日本相談役)の「国鉄改革三人組」を中心にした勢力が実権を握ると、強硬路線に転じる。「人材活用センター」を作り、国労組合員を送り込み隔離した。その実態は、本来の職務をさせず、草むしりなどの雑用をさせたものであったという(「日勤教育」は人材活用センターの手法を受け継いだものといわれている)。 |
【旧国鉄内の労使紛争考】 |
1980年時点の国鉄職員数は42万人。それが、1987.4月のJR新会社発足時には21万人に減らされていた。80年〜87年で21万人削減が強行されたことになる。そのほとんどが退職を余儀なくされ、200人を超える労働者が自殺に追い込まれた。JR移行後、国労組合員の多くは新会社に引き継がれなかった。不採用者は5009名に上る。他方、国労を脱退した社員はその多くが採用された。この経緯で、組合員の自殺は200人を超えている。 鉄労・動労は合同して鉄道労連(会長は鉄労出身の志摩好達)を結成した。協力的であったことから優遇されJR全社で99%以上が採用された(不採用者は29名。残る1%の動労幹部組合員は、名目は不採用だったがJR子会社取締役になっているケースが多かった)。民営化後は略称をJR総連とした。また、鉄産労連所属のJR採用率は低い会社でも80%前後であったとされる。鉄道労連は民営化後、国労・全動労組合員らとの差別待遇を要求した。為に、国労組合員らの大半は本務から左遷され、慣れないキヨスク・立ち食い蕎麦屋・パン屋などの店員、自動販売機の補充などに回された。 1994.12.27日、スト権ストに対する損害賠償訴訟は、当時の亀井静香運輸大臣らの斡旋で国労会館を清算事業団に明け渡すことを条件に和解した。2008.3.27日、JR貨物との間で昇進や配転、手当などをめぐり救済を求めていた紛争について中央労働委員会において和解が成立した。これにより、国労とJR各社との紛争は不採用問題を除き終結した。 新会社に引き継がれず、また他の会社に再就職できなかった(あるいは、しなかった)国労組合員は、国鉄清算事業団に移された。1990年の清算事業団解雇時に、1047名(国労組合員以外を含む)が残っていた。国労組合員は相次いで全国で36の国労闘争団を結成した。国労闘争団と動労千葉、全動労の不採用組合員は民営化に伴う措置を不当労働行為であるとし、地元の地方労働委員会に救済を申立てた。 地方労働委員会は組合員側の主張を認め、JR採用を認める救済命令が出された。しかしJR側は受け入れを拒否し、中央労働委員会に再審査を申立てた。ここでも大部分は組合員側の主張が認められたが、JR側(救済命令を出されたJR北海道、JR東日本、JR東海、JR貨物)はあくまで命令取消を求め、中労委を東京地裁に訴えた。他方、JR総連などの他労組はJR側と協調し、それどころかJR側が救済命令に従うなら、抗議のストライキをするとJR側を脅しさえした。JR総連はその後、内紛により旧鉄労系が離脱し、その多くは鉄産労連と合同してJR連合を結成する。古くからの労使協調派であり、旧動労系の革マル派的支配との軋轢が原因であったと思われる。 1997年12月17日、東京地裁は和解を勧告し、国労は受け入れの姿勢を見せたが、JRは拒否した。1998年5月28日、東京地裁はJRの主張を認め、救済を全面的に取り消した。不当労働行為があったとしても、国鉄とJRは別会社であり、JRは責任を取る必要がないというのがその理由だった。 2003年12月22日、最高裁判所は中労委と国労の上告を棄却し、新会社に引き継がない処分は確定した。しかし、国労闘争団が日本鉄道建設公団(国鉄清算事業団を引き継ぎ、さらに現在は鉄道建設・運輸施設整備支援機構に継承)への訴訟(鉄建公団訴訟、鉄運訴訟)を起こした。これについて、2005年9月15日、東京地方裁判所はJRへの採用で国鉄労働組合の組合員を不当に不利益に扱ったとしてJR側の組合差別を認め、組合員一人当たり500万円、総額14億1500万円の慰謝料の支払いを命じた。ただ、事業団が1990年に国労組合員を解雇したことについては、JRの不採用者を事業団職員として雇用し続けたのは再就職準備のためとし、その根拠法が失効したこの年に雇用が終了するのは合理的とした。被告の機構側は判決を不服として控訴し、原告の闘争団側も解雇無効が認められなかったなどの理由で控訴した。 JR採用差別闘争が長期化すると、JR・国に対する徹底抗戦を続ける国労闘争団側と、JR・国への屈伏やむなしとする国労本部側の内部対立が表面化した。前述のスト権スト訴訟和解の条件に、JR・国への屈伏が含まれていたという説もある。 2000年5月30日、組合は「JRに法的責任なし」を受け入れる条件で、自民、公明、保守の当時の与党三党、および社民がJRに働きかけ、解決金を支払わせるよう検討する内容のいわゆる四党合意の受け入れを決めた。しかし、闘争団側にとって「JRに法的責任なし」という条件は受け入れられるものではなく、また四党合意は国労がJRの法的責任無しを認める内容の一方で、JRの解決金支払いを確約したわけではなかった(あくまでJRに働きかけをするだけである)。こうした事情から両者の対立が続いたため、与党三党は合意を破棄した。また、鉄建公団訴訟は国労闘争団が独自に起こしたもので、組合側の意向ではなかった。これと前後して組合側が闘争団への支援を一部打ち切り、鉄建公団を提訴した組合員の一部を権利停止処分(役員への立候補禁止)にした。さらに実行はされなかったが、組合除名さえ検討され、国労執行部と闘争団の内ゲバの様相を呈した。支援は2004年7月より再開されたが、裁判には無関係との態度を取り、さらに裁判から手を引かせようと働きかけ続けた。そのため闘争団と国労本部の対立は変わらず、険悪な状況が続いた。 しかし2005年の鉄建公団訴訟東京地裁判決で、国労が差別を受けていたとの主張がある程度認められたことから、2006年1月28日に方針転換を決定。鉄建公団訴訟について原告を支援することになった。 2008年には、東京地裁で1月23日に全動労組合員による鉄運機構への損害賠償請求事件、3月13日には国労組合員による解雇無効・損害賠償事件の判決が相次いで出された。前者の判決(佐村浩之裁判長)では、不当労働行為の一部を認め、国鉄民営化時、遅くとも1990年の清算事業団解雇時を時効の起点として、消滅時効(このケースでは3年間)を主張した被告の見解に対しては、2003年の最高裁判決を時効の起点としてこれを退けた。その結果、原告1人あたり500万円の賠償金に加え、弁護士費用と遅延分の利息を支払うよう鉄運機構に命じた。しかし、JRへの不採用については、JRに採用されること自体については、権利や法的利益は何もないという判断を示した。一方、後者の判決(中西茂裁判長)では、消滅時効についての被告の見解を支持し、原告の全面敗訴となった。また、清算事業団からの解雇も有効とした。組合差別の有無への判断は示さなかった。 一方、3月27日のJR貨物との和解により、JR各社との紛争は不採用問題を除いて終結した(#JR以降と政府・経営側の評価参照)。国労の高橋伸二委員長は「政治解決の中で求めている雇用の確保ではJR各社に協力してもらわなければならず、各社との和解でその環境が整った」とコメントした。 国労5・27臨大闘争弾圧裁判が7月17日、最終意見陳述を迎え、結審する。すべての闘う労働者は、7・17一日行動に決起しよう! 国労5・27弾圧は、国家権力と国労本部が一体となって、国鉄1047名解雇撤回を貫く国労内の動労千葉派=国労共闘をつぶすことを狙った政治弾圧だ。国労本部は、02年の国労5・27臨時大会で、国鉄1047名解雇撤回に向けて鉄建公団訴訟に立ち上がった国労闘争団を統制処分にしようとした。国労共闘は統制処分に反対して、ビラまき・説得活動に立ち上がった。これに対して国家権力と国労本部は、暴力行為等処罰法をもって国労組合員と支援者を不当逮捕・起訴した。これが国労5・27弾圧だ。 国鉄分割・民営化以降、日本共産党・革同や協会派が国鉄1047名闘争を解体・幕引きしようとする中で、動労千葉と国労共闘が国鉄1047名解雇撤回要求を貫いて闘ってきた。国労5・27弾圧との闘いは、動労千葉の闘いと並んで、国鉄1047名闘争の柱だ。国労5・27弾圧を粉砕する闘いを、国鉄を先頭にすべての産別に押し広げ、その力で、警察に組合員を売り渡した国労本部を打倒し、国労を動労千葉と並ぶ階級的労働運動として再生させよう。国鉄1047名解雇撤回。 |
【「新日和見主義事件関係者15年ぶりの集いの会」弾圧】 |
「新日和見事件」 から15年後の1987年4月上旬、なつかしさのこみ上げてきた元民青同中央常任委員・小山晃は、同事件の被処分者にあて、「5.30日15年ぶりの会」と銘打って再会の呼びかけを発した。この動きは、手紙を受けた者の一人が「おおそれながら」と訴えでたことにより、党中央に知られるところとなった。党中央は直ちに全国的な調査を開始した。「とにかく党員は『会』に行くべきでないというのが党の見解です」と言いながら、党中央は何とかして会を中止させようと介入した。この指図に現執行部不破が無関係ということは有りえない。説得と指導を受けた小山は、「誰かの指示かだと?どうしてあんたがたはそう言う風にしか人間を考えられないのか。自分の書いた手紙の通り、かっての友人達と15年ぶりの再開を果たしたいのだ、それ以上でも以下でもない」と言い切り、離党届で始末を付けることを決意させた。 当日、党の妨害を乗り越えて「15年ぶりの会」が開催された。党中央は、この会を認めず、会終了後判明した参加者に対して、下部組織を使って「参加者の氏名や会の模様を文書で報告せよ、党事務所に出頭せよ」などと執拗に要求してきた。それは不参加者や元中央委員でない者にまで及んだ。追求はこの年いっぱい続いた。この指図を見ても不破らしい、無関係ということは有りえない。ここまで至ってさすがに嫌気の世界を誘発させたようである。新日和見主義者達は、これまで「党の内部問題は、党内で解決し、党外に持ち出してはならない」という規約に従ってきた。被処分者の側から反論文書が公表されることもなく、「党員は出版などの方法で党と異なる見解を公表できない。もし、それを行えば規律違反で処分される」ことを恐れて「羊たちの沈黙」を守ってきた。しかし、党中央は、処分した側に警察のスパイがいたという諸事実が判明したにも関わらず事件見直しに着手することも無かった。「新日和見主義者」達は、この間主体的に自ら等が手塩で育てきた民青同の瓦解的現象にも横目で見過ごすことしか出来なかった。 |
【田中派から竹下派経世会が結成される】 |
7.4日、竹下登自民党幹事長が、田中派140人中、大部分の113名を引き連れて、自民党最大派閥「経世会」を旗揚げする。「経世会」は、古代中国の思想家、荘子の「経世済民」という言葉に由来する。その背景には、創政会の旗揚げ、解散、二階堂グループによる中曽根後継総裁選出馬の動きがあった。田中派内の二階堂と竹下の両グループの対立に対し、これと闘うという反二階堂つまり反田中運動的面があった。 「経世会」は、ポスト中曽根後の政界主流となり、竹下、宇野、海部、宮沢の各政権誕生の原動力となる。意向で誕生させていった。その特徴は、自民党最大派閥として政局に大きな影響を与えつつ中曽根、旧福田系タカ派との協調政治を目指していったことにある。代表は、竹下登→小渕恵三→橋本龍太郎に受け継がれていくことになるが、この途中、小沢一郎、羽田孜、鳩山由紀夫らが分派しており、こちらも政局に大きな影響を与えていくことになる。 |
【皇民党事件】(「ウィキぺディア皇民党事件」その他参照) |
1987年、自民党のポスト中曽根の総裁指名に絡んで、安倍晋太郎・宮澤喜一と争っていた竹下登が、右翼団体である日本皇民党から、執拗に「日本一金儲けの上手い竹下さんを総理にしましょう」と「ほめ殺し演説」を受ける皇民党事件が発生している。「ほめ殺し」とは、右翼団体が行う街頭宣伝活動の一形態で、攻撃対象を徹底的に皮肉を込めて誉め称えたり、嫌がらせの街宣活動を行い圧力を加えることを云う。 なお、この事件を取材したジャーナリストの岩瀬達哉によると、ほめ殺しなる言葉を定着させた人物は、浜田幸一だとされている。岩瀬が竹下の生い立ちや、同事件の取材をまとめた「われ、万死に値す」の文中で、浜田が、竹下の意を受け、工作資金8億円を持参し日本皇民党を訪問するものの、一顧だにされず、激昂した浜田が発した言葉が、『お前らのやってることは、ほめ殺しじゃないか』だったとのことである。 日本皇民党が竹下を攻撃した理由は、竹下が「闇将軍」とあだ名されていた、元首相の田中角栄に叛旗を翻す形で竹下派経世会を旗揚げしたことに「義憤」を感じたためといわれる。竹下は自らのコネを使って、演説攻撃を止めさせようとしたが失敗した。これに対し(右翼とのコネがある)安倍派や中曽根派からは「右翼も処理できないとは、竹下は首相の器ではない」と批判されていた。 竹下はこのことで円形脱毛症になったともいわれる。竹下自身も「後継総裁は無理だ」とこぼしたとされているがその後、金丸信・小沢一郎らが、暴力団とのつながりが強い、東京佐川急便社長の渡辺広康に仲介を依頼し、渡辺は広域暴力団・稲川会に皇民党との仲介を依頼、稲川会と皇民党との二度目の会談で、「竹下自ら田中邸に直接謝罪に行くこと」を条件に、ほめ殺しをやめることで両者の話し合いがついた。竹下は小沢一郎と共にマスコミが詰めるなか謝罪のために、目白にある田中邸へ訪問をしたが、長女の田中眞紀子に門前払いされ、竹下は大恥をかいた。しかし、このことを境に嫌がらせは止んだ。 但し、皇民党がなぜ竹下にいやがらせを続けたのかその真相はいまだにわかっていない。 1992年、東京佐川急便事件に絡み、その公判中に、“総理誕生に闇勢力が関わった”として問題になった。東京佐川急便事件の渡辺広康の公判では、皇民党ナンバー2による大島竜aの供述調書が、東京地方裁判所の裁判長指示によって読み上げられ、皇民党によるほめ殺しについて説得工作を行った7人の自民党幹部の実名が明らかにされた。 金丸信は、ほめ殺し中止工作に石井進・稲川会二代目会長ら暴力団幹部の関与を認めた上で、臨床尋問では「川に落ちた所を助けて貰ったのだから、それが暴力団だろうが感謝するのは当然だ」と述べている。後の佐川事件公判や一部報道などでは、金丸・小沢が石井等を訪問した際に、金丸や小沢が、石井らに深々と頭を下げた等と伝えられた。 竹下は後の証人喚問で、事件について、一部事実関係については否定しつつも、「万死に値する」として道義的責任を認めている。しかしながら衆議院議員辞職については、頑なに拒否した。 この事件を受けて、「国会議事堂等周辺地域及び外国公館等周辺地域の静穏の保持に関する法律」が制定された。 |
【第二審判決で、控訴棄却を言い渡される。伊藤以外の被告人(田中、榎本、桧山)が最高裁に即時上告】 | |||
1987(昭和62)年7.29日、丸紅ルートの東京高裁(裁判長・内藤文夫、陪席裁判官・前田一昭、本吉邦夫等)は、第二審判決で一審判決を支持し控訴棄却を言い渡した。事実認定、法律論もほぼ全面的に一審の判決の判断を踏襲していた。
首相の職務権限認定については次のように述べている。
受託収賄罪認定については次のように述べている。
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イラン−イラク戦争下、ペルシャ湾の安全航行への貢献策として海上自衛隊の掃海艇派遣が検討された。中曽根首相が前向きなのに対し、後藤田官房長官が次のように述べて反対し、派遣が見送られることになった。
「これは戦争になのますよ。国民にその覚悟ができていますか。できていないんじゃありませんか。閣議にかけても自分はサインしない」。 |
【国労臨時大会(修善寺大会)】 |
10.9日、国労は臨時大会を開き、五十嵐中央執行委員率いる非主流派(旧社会党系左派)と、徳沢中央執行委員率いる反主流派(共産党系)が足並みを揃え、激論の末採決に持ち込まれ、投票の結果は分割・民営化反対が大多数を占めた。結果として山崎俊一委員長は退陣に追い込まれ、後任として盛岡地方本部から六本木敏が選出された(修善寺大会)。六本木は分割・民営化反対のもと組織を守り抜く方針を明確にしたが、山崎率いる主流派である分割・民営化容認派(右派)は国労を脱退し、やがて鉄産労連を結成した。この修善寺大会で国労は自壊し、その力を大きく失った。一方で全面対決一本槍の六本木体制に失望し職場単位で脱退が相次ぎ、国労からは20万人以上の組合員が脱退し、一挙に少数組合に転落した。 踏みとどまる国労員に対して再雇用拒否通知が出され、不採用者は5009名に上った。国労系組合員らの大半は本務から左遷され、慣れないキヨスク・立ち食い蕎麦屋・パン屋などの店員、自動販売機の補充などに回された。この経緯で、組合員の自殺は200人を超えている。新会社に引き継がれず、また他の会社に再就職できなかった(あるいは、しなかった)国労組合員は、国鉄清算事業団に移された。1990年の清算事業団解雇時に1047名(国労組合員以外を含む)が残っていた。国労組合員は全国で36の国労闘争団を結成し、動労千葉、全動労の不採用組合員と共に、民営化に伴う措置を不当労働行為であるとし地元の地方労働委員会に救済を申立てた。地方労働委員会は組合員側の主張を認め、JR採用を認める救済命令を出すが、JR側が拒否し、法廷闘争が続いていくことになる。 |
【竹下登内閣成立】 |
11.6日、竹下登内閣成立。首班指名で野党は社会・公明・社民連が土井社会党委員長に投票。強力な挙党一致内閣が成立。官房長官・小渕恵三、幹事長・安倍晋太郎(安倍派)、総務会長・伊藤正義、政務調査会長・渡辺美智雄(中曽根派)、宮澤副総理の布陣。(党内融和を重視した派閥均衡内閣−−解散権行使せず)。官房副長官小沢一郎、幹事長代理橋本龍太郎、国対委員長渡部恒三、国家公安委員長・梶山静六。竹下派7奉行、小渕恵三・橋本龍太郎・小沢一郎・羽田孜・渡部恒三・奥田敬和・梶山静六。税制調査会長・山中貞則。金丸は竹下派会長。
竹下は、中曽根の指名により首相になる。党内の派閥のうち、二階堂グループを除く、全ての派閥の支持を得て、竹下内閣は発足する。幹事長に安倍、副総理、蔵相に宮沢を起用し、ニューリーダーの結束を優先させて、磐石の政権基盤を築く。自民党はここから、「経世会支配」による、総主流派体制が始まっていくことになる。金丸信氏が竹下派の会長に就任。 |
革共同系 | 中核派 | 3420名 |
革マル派 | 1930名 | |
第四インター | 1010名 | |
ブント.共産同系 | 1640名 | |
戦旗.共産同 | ||
共産同戦旗派 | ||
蜂起派 | ||
社会主義労働者党 | ||
赤軍派 | ||
革労協系 | 1100名 | |
解放.狭間派 | ||
同労対派 | ||
その他 | 5330名 | |
構造改革派系 | プロ青同 | |
フロント | ||
日本の声 | ||
日共左派系 | 日本労働党 | |
日本共産党行動派 |