第48部 1986年当時の主なできごと.事件年表



 更新日/2018(平成30).10.24日

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2002.10.20日 れんだいこ拝


 「共産主義者の建党協議会」発足。
 1月、日本は瀋陽に総領事館を開設。
 1.22日、社会党第五十回大会の続開大会、新宣言を満場一致で採決(マルクス・レーニン主義から西欧型社会民主主義路線に転換)。
 1.28日、米スペースシャトル「チャレンジャー」爆発。
【動労、鉄労、全施労が、当局と「労使共同宣言」を締結】
 1月、動労、鉄労、全施労が、当局と「労使共同宣言」を結ぶ。これを「第一次労使共同宣言」と云う。「国鉄改革は国民的課題」、「余剰人員問題の解決(=12万4千人首切り)は最大のテーマ」とし、「労使が一致協力して取り組む」、「諸法規遵守(ストも順法闘争も放棄)、安定輸送確保」、「リボン・ワッペン不着用、氏名札の着用」、「点呼妨害など企業人のモラルにもとる行為の根絶」、「必要な合理化は積極的に推進する」、「余剰人員対策、派遣制度、退職勧奨、希望退職制度の目標達成」等々を打ち出す。

 これに対して、2月、動労千葉が、処分粉砕・業務移管攻撃粉砕で線路見習い訓練(線見訓練)阻止闘争をまる1カ月間闘い抜き、さらに第1波を上回る千葉全線区の第2波ストライキに決起、運休本数は602本に達す。これに対し3月、動労は、「広域異動」に積極的に応じ、首都圏の国労・動労千葉組合員を追い出すことを狙った「血の入れ替え」攻撃に北海道・九州の動労組合員を駆り出し、東京・大阪の国電区間の運転士はほとんど動労に替わった。国鉄当局は国労や動労千葉の組合員を「余剰人員」として人材活用センターに放り込んだ。

【フィリピンの民衆革命】
 2.7日、マルコス大統領とコラソン・アキノ(コリー)候補が争うフィリピン大統領選挙が行われ、開票の結果、民間の選挙監視団体「自由選挙のための全国運動」や公式な投票立会人らが、「最終得点はアキノがほとんど80万票差で勝利した」と示したものの、マルコス大統領の影響下にあった中央選挙管理委員会の公式記録は「マルコスが160万票の差で勝利した」と発表した。 マルコスによるあからさまな開票操作は、野党連合のみならず、フィリピンに大きな影響力を持つカトリック教会やアメリカ政府からも非難を浴び、コリーと支持者達は「明らかな不正が行われた」としてこれを受け入れず抗議を行った。また多くの国民がこれに同調し、フィリピン国内各地ではコリーのシンボルカラーであった黄色のシャツを着た人々による反マルコスデモが沸き起こり、マニラでは100万人がエドゥサ大通りを埋めた。

 2.14日、フィリピン革命始まる。「エドゥサ革命(タガログ語: Rebolusyon sa EDSA, 英語: Edsa Revolution)」とも呼ばれる。

 2.22日、選挙結果に反対するフィリピン国軍副参謀総長・フィデル・V・ラモスとエンリレ国防相の指揮する反乱兵が決起し、「マルコスをもう大統領とは認めない」と表明し、国軍司令部、国防省のあるケソン市のアギナルド基地に立て篭もる。基地につながるエドサ通りに数十万人の市民が繰り出し、マルコス派の戦車と精鋭部隊は基地に近づけず。マルコス体制を支えてきた軍の高官たち、また冷戦下において反共主義を採り続けてきたマルコスの事実上の後見人的存在であったアメリカ政府も、この時点において完全にマルコスを見放した。

 2.25日、コラソン・アキノ(コリー)が大統領就任宣誓を行い大統領に就任した。マルコス夫妻は多くのマニラ市民によってマラカニアン宮殿に包囲され、アメリカ軍のヘリコプターで脱出した。その後マルコス夫妻とその一族はアメリカ空軍機でハワイ州に向かい、そのままグアムへ亡命し、ここに20年以上に渡るマルコス独裁政権は終焉した。

 2.28日、スウェーデンのパルメ首相暗殺。
 3.18日、米経常収支大幅赤字になり債務超過国に。
 4.26日、ソ連チェルノブイリ原子力発電所で大規模事故。
 4月、創政会解散。
【米国レーガン政権がリビア空爆】
 4.15日、英国の基地及び地中海に集結していた第6艦隊から出撃した米空軍の爆撃機が、リビアのベンガジとトリポリの二大都市を爆撃した。リビアの最高指導者カダフィ大佐は無事だったが、家族を含む多数のリビア人が死傷した。この攻撃は、西ベルリンのディスコ爆破テロ事件をリビアの最高指導者カダフィ大佐を黒幕とする犯行と断定した米国政府による報復行為であった。レーガン政権は、カダフィ大佐を狂犬とみなし、空襲を正当化した。

 中丸薫・氏は、「闇の世界権力構造と人類の進路」の中で次のように記している。

 「(私が直接リビアで彼に会ったとき、レーガンについて以下のように答えている) レーガン大統領は政治教育を受けておらず、政治に関して無知である。彼は国際政治については何も知らないハリウッドの役者に過ぎず、娯楽と政治を混同している。それこそ、演技と現実の政治を混同しているのかも知れない。ただの無知ならともかく、武力をもって世界の人々を威嚇するような政策は、世界規模の核戦争を起こす危険さえもたらす。レーガンはあくまで役者をやっていればよいのであって、米国大統領などの権限をもつべきではない」。

【革マル系が真国労(真国鉄労働組合)を結成】
 4月、分割民営化反対の姿勢を崩さなかった国労から約300名の組合員が脱退し、真国労(真国鉄労働組合)を結成する。革マル系と見られている。この頃、当局は「人材活用センター」を設置、2万1千人を隔離・収容する攻撃に出た。動労は「国労をつぶし総評を解体する」(松崎)と公然と表明して総評を脱退。国鉄分割・民営化にかけた中曽根の意図を体現する先兵となった。こうした中で、当時16万人の国労は、「タコつぼ」方針をとる本部の対応不能状態の中で、組合員が毎月1〜2万人脱退する状況に追い込まれた。自殺者は200人に達した。当局と組んだファシスト・カクマルの陰惨な暴力の結果だ。

 5.6日、社民連全国代表者会議。
 5.21日、衆議院定数是正のための公選法改正案が衆議院を通過(八増七減、山形二区は減員区に)。衆参同日選挙の観測強まる(05/22、参議院可決成立)
 5月、東京で、主要国首脳会議(サミット)が開かれた。
 5月、動労が、当局の御用組織・鉄労とエールを交換した。
 6.2日、中曽根首相が衆議院解散。「死んだふり解散」と云われる。
 6月、中国外交部スポークスマン並びに韓国は、「日本を守る国民会議」編纂の高校用日本史教科書「新編日本史」が事実上検定合格し、文部省が認可したことに不満を表明。文部省の追加修正要求を受け、出版社側が「南京大虐殺ま実否は学問的に決着していない」などの記述計約420ヶ所の書き換えに応じた。

 中曽根首相は、「宮沢談話の精神に基づいて、官房長官を中心に対処方針を指示した」と述べ、政府として是正措置をとったことを明らかにした。
86年衆(第38回)参ダブル選挙】
 86年衆参同日選挙、選挙後の組閣・党役員人事で竹下登が初の党三役入り。総務会長に安倍(福田派→安倍派)。
 7.6日、(第38回)参両院ダブル選挙。衆議院は、自民300名、社会85名(25議席減)、公明56名、共産26名、民社26名(11議席減)、新自ク6名、社民連4名(現職三名の全員当選と、楢崎弥之助顧問の返り咲きで、初の衆議院四議席を獲得、野党唯一の躍進を果たした)、無所属9名当選。田中角栄は病床から立候補、17万9062票でトップ当選(16回)。

 第14回参議院選挙(自民72名、社会20名、公明10名、共産9名、民社5名、新自ク1名、二院ク1名、サラ新1名、税金1名、無所属6名当選)。

 自民党
は追加公認も含めて衆院304議席を獲得、参院142議席となり圧勝、自民両院で安定多数となった。中曽根首相の得意の絶頂期となった。この選挙で6議席に減った新自由クラブが解散。社会・民社惨敗。社会党は統一後最低。

 中曽根首相は、この選挙で「大型消費税は導入しない。大規模な投げ網をかけるような消費税はやらない」と公約。これが悶着していくことになる。

 7.9日、動労の松崎が、京都市の京都国際ホテルで開催された鉄労全国大会に招待され、席上、「松崎のコペルニクス的転回」と云われる1・国鉄分割民営化協力、2・動労と鉄労の和解協調路線、3・革マル派縁切り等々を宣言する。

 7.18日、分割民営化賛成に転じた動労が、いち早い賛成側の鉄労など3労組を加えた4労組で国鉄改革推進労働組合協議会を結成。同協議会は、社会党支持を撤回し、総評からも脱退する。


【第3次中曾根内閣誕生】
 7.22日、第3次中曾根内閣誕生。(新自由クラブとの連立は解消)首相・中曽根康弘、官房長官・後藤田正晴(留任)、幹事長・竹下登(田中派)、総務会長・安倍晋太郎(安倍派)、政調会長・伊藤正義(鈴木派)、金丸副総理の布陣。宮沢蔵相。橋本龍太郎が運輸相。衆参同日選挙で圧勝した自民党中曽根政権は、国鉄分割民営化」に対する国民の支持が明らかになったとして、国鉄改革関係8法案を推し進めていくことになった。

 7.22日、衆議院の社民連が二人ずつ社会党と民社党の院内会派(社会党・護憲共同と民社党・民主連合)に参加。
 7.24日、田中派国会議員141人。
 7月、中日友好囲碁会館が北京に落成。 
 7月、国鉄の動労が、それまでの方針を180度転回し、国鉄民営化賛成路線を打ち出し、鉄労と和解する。
 8.12日、新自由クラブ、全国幹事会で解党・自民復党を決定(08/15、臨時大会で解散。田川誠一は無所属に)。
【国鉄改革労働組合協議会が「第2次労使共同宣言」を締結】
 8.27日、動労と鉄労、全施労、真国労の4組合から成る国鉄改革労働組合協議会が「第2次労使共同宣言」を締結した。「分割民営化の推進」を明言、「争議権を自粛」、「新会社を担う職員は勤労意欲がある職員であるべし」とうたい、新会社への選別・排除を当局と確認した。これにより、動労のストライキに対する損害賠償請求が取れ下げられることになった。

 9.1日、兵庫県伊丹市の国鉄北伊丹アパートで、真国労の大阪地本委員長・前田正明氏がテロられ、脳挫傷で死亡する。この日、兵庫、大阪、埼玉の3府県5か所で、真国労や動労組合員宅が武装襲撃されている。中核派が、「中曽根の国鉄分割・民営化攻撃の反革命先兵、松崎明を頭目とするカクマルに対して、正義の鉄槌」と声明した。
 9.6日、社会党委員長選挙で土井たか子当選。『おたかさん』ブームが起こり、「やるっきゃない」の掛け言葉で支持を広げて行く。9.8日、社会党大会で土井たか子委員長、山口鶴男書記長体制が選出された。日本の大政党では初の女性党首誕生となった。
 9.8日、昼の政府・与党首脳会議の場で、藤尾正行文相が「日韓併合は韓国側にも責任」があったとえんえんと持論を展開。藤尾はこの日夜中曽根首相により罷免された。この藤尾問題発言は雑誌文芸春秋10月号に掲載された。「日韓併合は伊藤博文と韓国を代表していた高宗との談判、合意に基づいて行われている。韓国側にもやはりいくらかの責任なり、考えるべき点はあると思う。もし合邦がなかったら、清国が、ロシアが、あるいは後のソビエトが、朝鮮半島に手をつけなかったという保証があるのか」と述べられている。
 9.11日、自民党両院議員総会が開かれ、党則を改正して中曽根首相の総裁任期を一年間延長(87/10/30まで)。
 9月、政府、SDI研究への参加を決定。
 9月、自民党宏池会の会長が鈴木善幸から宮沢喜一に禅譲され、宮沢は5代目宏池会の会長に就任した。
 10.11日、レーガン米大統領とゴルバチョフソ連共産党書記長のレイキャヴィク会談。
 10月、国鉄分割民営化法案が衆院通過。
【第50回国労臨時全国大会(修善寺大会)】
 10月、第50回国労臨時全国大会(修善寺大会)が開催され、山崎俊一委員長が「大胆な妥協」路線を提案した。その路線とは、1・必要な効率化は認める。2・余剰人員対策に取り組む。3・不当労働行為につき公労委申し立てを取り下げ、訴訟を中止する。4・点検、摘発行動を中止する。5・労使共同宣言を締結する、と云うものだった。反主流派の共協(日共、協会向坂派)その他が反対し、賛成101、反対183、保留4で否決された。山崎執行部は総辞職した。国労組合員は「労使共同宣言」路線を拒否し、民同執行部を打倒した。

 11.7日、中曽根首相、限定付きの大型間接税は公約に違反しないと表明。
 11.13日、レーガン米大統領,対イラン秘密工作認める。
 11.15日、若王子三井物産マニラ支店長誘拐事件発生。
 11.15日、社民連秋季研修会。
 11.27日、神奈川県警による共産党幹部宅電話盗聴発覚。
 11.28日、国鉄分割・民営化関連八法成立。
 11月、中曾根康弘首相が訪中、中日青年交流センターの定礎式に出席。
 12.5日、公明党第二十四回大会(矢野絢也委員長・大久保直彦書記長)。
 12.26日、中曽根首相と野党各党首の個別会談。全野党が売上税撤回を要求。
 12月、当局の「配属先希望調査票(意思確認書)」に対し、動労千葉は全組合員が「一本書き」で対決した。
【「防衛費GNP1%枠」をはじめて突破】
 12.30日、政府の87年予算で76年三木内閣が決定した「防衛費GNP1%枠」をはじめて突破し、撤廃された。

【三菱重工業CB(転換社債)事件揉み消し】
 1986年、日本の軍事産業・原子力発電のメーカーである三菱重工業が1000億円に上る多額のCB(転換社債)を発行した。この莫大なCBは当時のバブル景気の中で株価と連動して価格が上昇し、額面100円が200円に上昇率した。三菱重工業は、自衛隊や防衛省(当時は防衛庁)への戦車等兵器販売、原子力発電の推進で自社に「優遇措置」を取ってくれた自民党の政治家たちにこのCB発売前に100億円を販売していた。中曽根政権は原子力発電を導入し、建設工事を三菱重工業に発注している。後のリクルート事件では大騒ぎされたが、この時、この事件は揉み消された。

 東京地検はこれをワイロ性の問題ありと摘発に向けた捜査に乗り出した。しかし、その捜査を警察組織の最高権力者であった最高検察庁検事総長が「捜査の停止命令」を出し、自民党政治家のワイロ受け取りを見逃した。当時の検事総長の話は、「自民党の各派閥のリーダー全員がこのワイロを受け取っており、事件として立件すると自民党の政治家の大御所全員を逮捕することになる。それでは自民党がつぶれる」というのが理由であった。
Re::れんだいこのカンテラ時評651 れんだいこ 2010/01/22
 【最高検公判部長・河上和雄の三菱重工転換社債贈収賄事件揉み潰し考】

 目下、民主党幹事長小沢の秘書寮建設用地取得を廻る資金調達疑惑なる無理筋な事件仕立てに大わらわの東京地検特捜部の「法の正義」が聞いてあきれる事件史実がある。「阿修羅昼休み33」の小沢内閣待望論氏の2010.1.18日付け投稿「alternative、日テレ解説員・河上和雄元・検事総長、自民党から受け取っている『裏金』」を参照する。原文は、「オルタナティブ通信」の「暴力団のトップに居座り、暴力団から金を巻き上げる犯罪組織=警察・検察トップ=検事総長が、小沢一郎摘発をデッチアゲタ」のようである。
 (ttp://alternativereport1.seesaa.net/article/138664300.html)

 1986年、中曽根政権時、「三菱重工転換社債贈収賄事件」が発生している。三菱重工と云えば、日本の代表的な軍事産業にして原子力発電所のメーカー、即ち防衛省(当時は防衛庁)への戦車等の兵器販売、原子力発電の中心的な推進役である。その三菱重工が1000億円もの多額のCB(転換社債)を発行した。この莫大な金額のCBはバブル景気に乗り完売した。CBは株価と連動して価格が上昇する仕組みになっており、1000億円のCBは発売されて2週間で額面100円が206円に上昇し2倍の価格になった。

 三菱重工はこの時、主として自民党の御用達政治家達に、このCBを発売前に100億円分販売していた。この構図から見れば、後のリクルート事件の前例となっていることが判明する。但し、リクルート事件が大騒動となったのに比して「三菱重工転換社債贈収賄事件」は問題にもならなかった。なぜ江副はやられて、三菱は同じことをしても免責されるのか、ここに闇がある。

 この「恩恵」に浴した御用達政治家達は総計で、100億円が2週間で206億円になる「大儲け」を手にした。三菱重工がなぜ1この「大儲け」を供与したのか。それは、御用達政治家達が、三菱重工の兵器を特命でで購入し、「三菱側の言い値」で兵器を購入するよう防衛庁に働きかけ、「優遇措置」を廻らしてくれたからである。三菱からすれば当然の返戻金であった。原子力発電所建設についても然り。三菱重工は、原子力発電の技術的に危険な面に「うるさい事を言われず」、建設費への補助金等も「三菱側の言い値」で工事を受注することに成功した。してみれば、三菱重工の転換社債前売りは、仲介成功報酬であったことになる。

 これは、三菱重工側からすれば一般的な商行為のように見える。しかし、民間のやり取りではない。「国民の税金を湯水のようにムダ使いした」ことの上に成り立っている、れっきとした贈収賄である。自民党の御用達政治家達は、ご丁寧にもあつらえられた三菱重工の系列である三菱銀行から借り入れてCBを購入し、2週間後それぞれが市場に売却し、総額で106億円もの利益を得ている。これは事実上のワイロである。この106億円の内、最も多額なワイロを受け取っていた政治家が、軍需利権族筆頭にして日本に原子力発電を初めて導入するのに功のあった中曽根康弘、時の首相その人であった。

 さて、問題はここからである。東京地検は、この「三菱重工転換社債贈収賄事件」を摘発しようと捜査に乗り出した。ところが、この捜査は、時の最高検察庁検事局トップの「捜査停止命令」により頓挫せしめられている。この時のトップが誰であるのか、調べれば判明するであろうが目下は不詳である。巷間伝えられているのは、ロッキード事件の花形検事として注目されていた河上和雄の横槍であった。河上は、その後順調に出世し、この頃 最高検検事に名を列ねていた。その履歴によれば、1986年―最高検検事、1987年―法務省矯正局長、1989年― 最高検公判部長とある。

 その河上和雄が、最高検察庁検事局トップの意向を挺して「捜査の停止命令」を出し、自民党政治家達のワイロ受け取り事件を見逃す役を買って出ている。その時の言い草が、「自民党の各派閥のリーダー全員が、このワイロを受け取っており、事件として立件すると自民党の政治家の大御所全員を逮捕する事になり、自民党が潰れる」という理由であった。河上は、捜査官達に向かって、「お前達は自民党をツブシ、野党に政権を渡す気か?」と怒鳴り付けたと云う。こうして捜査は打ち切られた。

 こうした履歴を持つ河上和雄が臆面もなく、目下の小沢一郎の政治資金疑惑で、徹底捜査の檄を飛ばしている。現在、日本テレビの解説員として、また日本テレビの顧問弁護士としてTVに出演し、小沢一郎の摘発に関し「法の正義」を説教し続けている。

 このこと自体が、今回の小沢政治資金疑惑事件の本質を良く物語っていよう。河上和雄は、警察が支配下に置き有力の天下り先となっているパチンコ業界取り仕切り組織「社団法人遊技産業健全化推進機構」の代表理事でもある。これを見れば、検察庁内の出世階段を上手に登り、退官後も利権の甘い汁を吸い続けて上手に世渡りしていることが分かる。かって「自民党を潰す気か」と恫喝した河上が、「小沢徹底捜査の檄」を飛ばしている。この御仁をどう評すべきか。

 れんだいこのように現代世界を牛耳る国際金融資本の最も忠実なエージェントの一人と読めば、読売配下の日本テレビ客員解説員、同顧問弁護士、社団法人遊技産業健全化推進機構の代表理事、学校法人駿河台大学理事、駿河台大学名誉教授という肩書が何の不思議でもなくなる。

 こう読まない者に告げておく。現下の小沢訴追派の政財官学報司の六者機関のトップの座にある者殆どすべてが、かってのロッキード事件訴追派の面々ではないのか。違いと云えば、立花隆が今のところおとなしくしていることであろうか。日共の異様な過激化、解放同盟に対しては糾弾闘争をたしなめ続けた日共は、こと角栄関連となると色めき立ち急に過激化する。これも同じ構図である。マスコミの先陣争い、これも然り。

 しかし、この手合いが日本政界を牛耳って以来、日本はとめどなく地盤沈下させられ続けている。国家予算の収入より借入金利息払いが上回ると云う奇形化、天文学的国債累積債務の重圧、消費税などと云う安逸な打ち出の小槌による収入源化による国内経済低迷逼塞化。これは、戦前並み水準への回帰であろう。戦後保守主流派と云われる吉田―池田―佐藤―田中―大平―鈴木政権のハト派系譜を解体せしめた結果がこのザマであろう。それは、善政時代を悪しざまに言い、悪政時代に無力化させられている日本左派運動のバカさ加減に比例している。ニセモノを本家としホンモノを咎め続けた罪と罰でもあろう。

 もとへ。河上関連の付録として次のような声がある。「河上は後輩の松尾邦弘(元検事総長)に追い抜かれた。検事正時代は裏金に手をそめてるはず。勲章は勲二等どまり」。「1981年―法務大臣官房会計課長をやっていて松尾元検事総長が特捜時代に河上の部下だったということが事実ならば、三井氏の言っている裏金貰っている悪い奴等、数十人の中の一人である事は間違いなさそうですね」。

 2010.1.22日 れんだいこ拝








(私論.私見)