第48部 | 1986年当時の主なできごと.事件年表 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
2002.10.20日 れんだいこ拝 |
【動労、鉄労、全施労が、当局と「労使共同宣言」を締結】 |
1月、動労、鉄労、全施労が、当局と「労使共同宣言」を結ぶ。これを「第一次労使共同宣言」と云う。「国鉄改革は国民的課題」、「余剰人員問題の解決(=12万4千人首切り)は最大のテーマ」とし、「労使が一致協力して取り組む」、「諸法規遵守(ストも順法闘争も放棄)、安定輸送確保」、「リボン・ワッペン不着用、氏名札の着用」、「点呼妨害など企業人のモラルにもとる行為の根絶」、「必要な合理化は積極的に推進する」、「余剰人員対策、派遣制度、退職勧奨、希望退職制度の目標達成」等々を打ち出す。 これに対して、2月、動労千葉が、処分粉砕・業務移管攻撃粉砕で線路見習い訓練(線見訓練)阻止闘争をまる1カ月間闘い抜き、さらに第1波を上回る千葉全線区の第2波ストライキに決起、運休本数は602本に達す。これに対し3月、動労は、「広域異動」に積極的に応じ、首都圏の国労・動労千葉組合員を追い出すことを狙った「血の入れ替え」攻撃に北海道・九州の動労組合員を駆り出し、東京・大阪の国電区間の運転士はほとんど動労に替わった。国鉄当局は国労や動労千葉の組合員を「余剰人員」として人材活用センターに放り込んだ。 |
【フィリピンの民衆革命】 |
2.7日、マルコス大統領とコラソン・アキノ(コリー)候補が争うフィリピン大統領選挙が行われ、開票の結果、民間の選挙監視団体「自由選挙のための全国運動」や公式な投票立会人らが、「最終得点はアキノがほとんど80万票差で勝利した」と示したものの、マルコス大統領の影響下にあった中央選挙管理委員会の公式記録は「マルコスが160万票の差で勝利した」と発表した。
マルコスによるあからさまな開票操作は、野党連合のみならず、フィリピンに大きな影響力を持つカトリック教会やアメリカ政府からも非難を浴び、コリーと支持者達は「明らかな不正が行われた」としてこれを受け入れず抗議を行った。また多くの国民がこれに同調し、フィリピン国内各地ではコリーのシンボルカラーであった黄色のシャツを着た人々による反マルコスデモが沸き起こり、マニラでは100万人がエドゥサ大通りを埋めた。 2.14日、フィリピン革命始まる。「エドゥサ革命(タガログ語: Rebolusyon sa EDSA, 英語: Edsa Revolution)」とも呼ばれる。 2.22日、選挙結果に反対するフィリピン国軍副参謀総長・フィデル・V・ラモスとエンリレ国防相の指揮する反乱兵が決起し、「マルコスをもう大統領とは認めない」と表明し、国軍司令部、国防省のあるケソン市のアギナルド基地に立て篭もる。基地につながるエドサ通りに数十万人の市民が繰り出し、マルコス派の戦車と精鋭部隊は基地に近づけず。マルコス体制を支えてきた軍の高官たち、また冷戦下において反共主義を採り続けてきたマルコスの事実上の後見人的存在であったアメリカ政府も、この時点において完全にマルコスを見放した。 2.25日、コラソン・アキノ(コリー)が大統領就任宣誓を行い大統領に就任した。マルコス夫妻は多くのマニラ市民によってマラカニアン宮殿に包囲され、アメリカ軍のヘリコプターで脱出した。その後マルコス夫妻とその一族はアメリカ空軍機でハワイ州に向かい、そのままグアムへ亡命し、ここに20年以上に渡るマルコス独裁政権は終焉した。 |
【米国レーガン政権がリビア空爆】 | |
4.15日、英国の基地及び地中海に集結していた第6艦隊から出撃した米空軍の爆撃機が、リビアのベンガジとトリポリの二大都市を爆撃した。リビアの最高指導者カダフィ大佐は無事だったが、家族を含む多数のリビア人が死傷した。この攻撃は、西ベルリンのディスコ爆破テロ事件をリビアの最高指導者カダフィ大佐を黒幕とする犯行と断定した米国政府による報復行為であった。レーガン政権は、カダフィ大佐を狂犬とみなし、空襲を正当化した。 中丸薫・氏は、「闇の世界権力構造と人類の進路」の中で次のように記している。
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【革マル系が真国労(真国鉄労働組合)を結成】 |
4月、分割民営化反対の姿勢を崩さなかった国労から約300名の組合員が脱退し、真国労(真国鉄労働組合)を結成する。革マル系と見られている。この頃、当局は「人材活用センター」を設置、2万1千人を隔離・収容する攻撃に出た。動労は「国労をつぶし総評を解体する」(松崎)と公然と表明して総評を脱退。国鉄分割・民営化にかけた中曽根の意図を体現する先兵となった。こうした中で、当時16万人の国労は、「タコつぼ」方針をとる本部の対応不能状態の中で、組合員が毎月1〜2万人脱退する状況に追い込まれた。自殺者は200人に達した。当局と組んだファシスト・カクマルの陰惨な暴力の結果だ。 |
【86年衆(第38回)参ダブル選挙】 |
86年衆参同日選挙、選挙後の組閣・党役員人事で竹下登が初の党三役入り。総務会長に安倍(福田派→安倍派)。 |
7.6日、衆(第38回)参両院ダブル選挙。衆議院は、自民300名、社会85名(25議席減)、公明56名、共産26名、民社26名(11議席減)、新自ク6名、社民連4名(現職三名の全員当選と、楢崎弥之助顧問の返り咲きで、初の衆議院四議席を獲得、野党唯一の躍進を果たした)、無所属9名当選。田中角栄は病床から立候補、17万9062票でトップ当選(16回)。 第14回参議院選挙(自民72名、社会20名、公明10名、共産9名、民社5名、新自ク1名、二院ク1名、サラ新1名、税金1名、無所属6名当選)。 自民党は追加公認も含めて衆院304議席を獲得、参院142議席となり圧勝、自民両院で安定多数となった。中曽根首相の得意の絶頂期となった。この選挙で6議席に減った新自由クラブが解散。社会・民社惨敗。社会党は統一後最低。 中曽根首相は、この選挙で「大型消費税は導入しない。大規模な投げ網をかけるような消費税はやらない」と公約。これが悶着していくことになる。 |
【第3次中曾根内閣誕生】 |
7.22日、第3次中曾根内閣誕生。(新自由クラブとの連立は解消)首相・中曽根康弘、官房長官・後藤田正晴(留任)、幹事長・竹下登(田中派)、総務会長・安倍晋太郎(安倍派)、政調会長・伊藤正義(鈴木派)、金丸副総理の布陣。宮沢蔵相。橋本龍太郎が運輸相。衆参同日選挙で圧勝した自民党中曽根政権は、国鉄分割民営化」に対する国民の支持が明らかになったとして、国鉄改革関係8法案を推し進めていくことになった。 |
【国鉄改革労働組合協議会が「第2次労使共同宣言」を締結】 |
8.27日、動労と鉄労、全施労、真国労の4組合から成る国鉄改革労働組合協議会が「第2次労使共同宣言」を締結した。「分割民営化の推進」を明言、「争議権を自粛」、「新会社を担う職員は勤労意欲がある職員であるべし」とうたい、新会社への選別・排除を当局と確認した。これにより、動労のストライキに対する損害賠償請求が取れ下げられることになった。 |
【第50回国労臨時全国大会(修善寺大会)】 |
10月、第50回国労臨時全国大会(修善寺大会)が開催され、山崎俊一委員長が「大胆な妥協」路線を提案した。その路線とは、1・必要な効率化は認める。2・余剰人員対策に取り組む。3・不当労働行為につき公労委申し立てを取り下げ、訴訟を中止する。4・点検、摘発行動を中止する。5・労使共同宣言を締結する、と云うものだった。反主流派の共協(日共、協会向坂派)その他が反対し、賛成101、反対183、保留4で否決された。山崎執行部は総辞職した。国労組合員は「労使共同宣言」路線を拒否し、民同執行部を打倒した。 |
【「防衛費GNP1%枠」をはじめて突破】 |
12.30日、政府の87年予算で76年三木内閣が決定した「防衛費GNP1%枠」をはじめて突破し、撤廃された。 |
【三菱重工業CB(転換社債)事件揉み消し】 | ||||||
1986年、日本の軍事産業・原子力発電のメーカーである三菱重工業が1000億円に上る多額のCB(転換社債)を発行した。この莫大なCBは当時のバブル景気の中で株価と連動して価格が上昇し、額面100円が200円に上昇率した。三菱重工業は、自衛隊や防衛省(当時は防衛庁)への戦車等兵器販売、原子力発電の推進で自社に「優遇措置」を取ってくれた自民党の政治家たちにこのCB発売前に100億円を販売していた。中曽根政権は原子力発電を導入し、建設工事を三菱重工業に発注している。後のリクルート事件では大騒ぎされたが、この時、この事件は揉み消された。 東京地検はこれをワイロ性の問題ありと摘発に向けた捜査に乗り出した。しかし、その捜査を警察組織の最高権力者であった最高検察庁検事総長が「捜査の停止命令」を出し、自民党政治家のワイロ受け取りを見逃した。当時の検事総長の話は、「自民党の各派閥のリーダー全員がこのワイロを受け取っており、事件として立件すると自民党の政治家の大御所全員を逮捕することになる。それでは自民党がつぶれる」というのが理由であった。 |
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