1984年通期 1984年(昭和59年)当時の主なできごと.事件年表



 (最新見直し2008.8.24日)
 (れんだいこのショートメッセージ)

 2002.10.20日 れんだいこ拝


 1.1日、目白の田中角栄邸への年始客、財・政界をはじめその数550人。
 1月、胡耀邦総書記、日本国民へ新年のメッセージ。
 1.5日、中曾根、首相として戦後はじめて靖国神社に年頭参拝。
【中曽根内閣の84年度政府予算案】

  一般会計0.4%増で引き続き50兆円に乗せたが、一般歳出が前年比マイナス0.1%の緊縮財政の中で、引き続き防衛費だけ6.55%増で又もや突出、GNP比率0.991%。ODA(政府開発援助)は9.7%増。「福祉国家よさようなら、安全保障国家よこんにちは」傾向が一層強められた。

 国債発行額は、12兆6800億円(建設国債が6兆2250億円、赤字国債は6兆4550億円)で、前年度当初より6650億円減、国債依存度は25%になった。国債費が9兆円を超えて、歳出の18.1%を占め、1位の社会保障費に続き2位となり地方交付税を抜いた。 


 2.6日、衆議院で、政治倫理制度を協議するため政治倫理協議会が発足。


 2.9日、アンドロポフ・ソ連書記長死去(2.13日、後任にチェルネンコ政治局員)。
 2.15日、大武礼一郎議長による、現代におけるマルクス・レーニン主義の戦略・戦術問題に関する最高の理論的、実践的教科書『日本三大革命闘争の総括』発表さる。
 2.21日、中曽根首相が、衆議院予算委員会で上田質問に中曽根首相が答弁し、日米安保条約を公式に軍事同盟だと認めた。1954.7.1日自衛隊発足以来30年振りの答弁であり、朝日新聞は翌日朝刊トップで報じた。
 2.26日、田社民連代表「非核四原則」を提言。
 2月、衆院に政治倫理協議会(政倫協)設置され、小沢一郎が座長に就任している。
 2月、長谷川浩逝去。
 2月、共産党が、田中角栄に対する議員辞職決議案を衆院に提出。
 3月、中曾根康弘首相が訪中。ケ小平中央顧問委員会主任、胡耀邦総書記、趙紫陽総理と会談。北京大学で講演、内外記者と会見。7年間に4700億円の対中円借款供与と「中日友好21世紀委員会」の発足で双方合意。
3.16  自民党田中六助幹事長、日本記者クラブの講演で、「田中元首相は政界にいまなお大きな影響力を持っている」と発言。

 3.18日、江崎グリコ社長誘拐事件発生。警視庁指定114号「グリコ・森永事件」の始まり。
3.30  田中派総会に出席。中曽根内閣への協力を明言。「木曜クラブは総裁候補も出さずに骨抜きになっているといわれているが、カゴを担ぐ人のわらじを作っているのが諸君だ」。

 3月、動労が、動力車乗務員勤務協定(動乗常勤)改悪を妥結、3万人の「過員」が人為的に作り出された。同年5月、動労臨時中央委で松崎明は、「利便性を高める血の犠牲が必要。改憲、安保、自衛隊を認めなければ経営参加できない」と発言し、当局が打ち出した「余剰人員対策」=首切り3本柱の「勧奨退職、一時帰休、出向・派遣」に全面協力した。動労は、ブルートレイン添乗旅費手当の返済を決定、現場協議制破棄をも承諾し、1万5千人要員削減を承認した。抵抗してスト態勢をとった国労に対して、「挑発者」呼ばわりし、時間内入浴への賃金カット攻撃に対する闘いにも敵対して行くことになる。これにより、動労内では、50歳以上の労働者は職場を去らざるをえない状態をつくり出され、「後進に道を譲れ!」と迫られ、ロッカーの中の靴に泥水を入れられるなど、さまざまな嫌がらせ事件が発生するようになった。
 4月、二階堂氏(田中派)が副総裁に就任。田中角榮元総裁の側近の副総裁起用は『いわゆる田中氏の政治的影響を排除する』強い反発を招いた。
 4.23日、民社党第29回大会で佐々木委員長が自民党との連合問題についての検討をと表明。
 4.26日、レーガン米大統領訪中(―5.1)
 5月、自民党、防衛費のGNP比一%枠見直し作業開始。
 6.7日、第10回先進国首脳会議がロンドンで開催。
6.22  旧船田派の稲村利幸ら3名が入会、田中派は120名になる。

 6.23日、新自由クラブ代表に河野洋平復帰。
6.29  自民党新潟県議48名による「田中元首相を囲む会」が発足。

 7.15日、日本共産党(行動派)第6回全国協議会開催。「こうして宮本修正主義の汚れた『六全協』(1955年)から光栄ある『六全協』に生まれ変った」。
 7.28日、第23回ロサンゼルス五輪開幕。ソ連・東欧がボイコット(―8.12)。
【雑誌『葦牙(あしかび)』批判キャンペーン】(「民主主義文学同盟『4月号問題』事件」
 民主主義文学同盟辞任メンバーは、雑誌「葦牙(あしかび)」を創刊して、抵抗した。宮顕私的分派・側近グループは、1985年4月以降、徹底した「葦牙批判キャンペーン」を民主文学、文化評論、赤旗で行った。それに対して、次のような動きで論陣を張った。
@ 霜多正次  霜多正次は、『ちゅらかさ―民主主義文学運動と私』を発行し、そこで「4月号問題」とその経過を克明に分析、発表した。
A 中里喜昭  中里喜昭は、『葦牙』誌上で、党中央の『葦牙』批判キャンペーンへの反論・批判文を書いた。
B 武藤功  武藤功は、キャンペーンへの反論文だけでなく、『宮本顕治論』を発行し、そこで宮顕の「あとがき」内容を詳細に分析、批判した。
C 山根献  山根献は、党中央の第20回大会前後の丸山真男批判大キャンペーン(丸山のプロレタリア文学運動論への批判も中心の一つだった)に抗し、「丸山真男追悼集」で、「政治の優位性」論への批判を、丸山の見解と対比しつつ、緻密に展開している。

 「葦牙(あしかび)」同人会は、その後、隔月刊誌「葦牙ジャーナル」も、D.元常幹吉田悦郎を編集責任者として発行した。E.元常幹上原真は、そこで、毎号『深夜妄語』を連載している。さらに、同人会として、『霜多正次全集全5巻』を刊行した。彼らは、インターネットHP「葦牙(あしかび)」において、『文学運動における「自主」と「共同」』を追求しつつ、「4月号問題」とその経過を解明する、特集記事、論文を多数載せて、批判活動を続けている。

【原水協古参幹部粛清事件】「原水禁運動に対するデタラメ指導と詐術総括について」
(参考文献)「原水協で何がおこったか」(長崎肇.日中出版)

 この時、「原水協古参幹部粛清事件」が発生している。詳細は、原水禁運動に対するデタラメ指導についてに記した。要点は、党中央による又もや振り下ろされた闘う人士、団体に対する弾圧であった。れんだいこの「宮顕の変態長征史上、党内清掃第17弾」になる。

 この時の弾圧で、原水協の代表幹事吉田嘉清.草野信男、日本平和委員会の事務局長・森賢一、会長・小笠原英三郎、理事長・長谷川正安ら、及び古在由重ろ、江口朴郎らの取り巻き知識人ら党歴30数年の学者党員たちが「党中央の指示に従わぬ」という理由で、除名された。

 これを報じようとした日中出版社の「原水協で何がおこったか、吉田嘉清が語る」出版に対し、前代未聞の出版指し止め画策をしている。これら一連の経過が伏せられているが、まさに犯罪的であろう。

 8.21日、政府の臨時教育審議会が発足。イジメや校内暴力事件などで改革熱が高まる。
 9.19日、自民党本部放火事件発生。警視庁は中核派の犯行と断定。
 9月、中日青年友好交歓大会が北京で開催。日本側3000人、中国側15000人参加。
 10.29日、病床に伏した田中六助幹事長(85年1月末、歳で死去)の見舞い談義が「保守本流の直言」の中で次のように明かされている。「保守本流の直言」(85年刊・中央公論社)、は闘病の床で翠子夫人の口述筆記によってまとめらられた。死の半月前に出版され、遺書になった。

 書き出しは、、東京女子医大病院の病室を中曽根康弘首相と田中角栄元首相が前後して見舞いに訪れた場面である。角栄は、 「いやあ、六さん、ぶったまげたよ」と言いながら、部屋に入ってきた。その直前に突発した中曽根再選阻止の二階堂(進)擁立クーデターのことだ。未遂に終わったが、田中の目には<それは保守政治の流れを変えてしまうような、そして日本の将来を大きく左右するような危険な動きだった>(同書)と映った。

 自民党の反中曽根勢力と公明、民主両党が仕組んだ策謀である。幹事長の田中は病床にありながら不穏な工作を察知し、後事を託すつもりの金丸信総務会長に書面をしたためる。金丸は一読するなり、 「よし、わかった」と使いの者に返答し、クーデター回避に動いたのだ。18年前、政界を震撼させた異変である。

 田中の<保守本流とは何か。つまるところ、日本政治の運営に責任を持ち、その自覚と能力がある政治家や集団のことを指す。換言すれば、統治責任である>(同書)という定義づけは、すでに古い。<保守>とは何か、から問い直さなければならない時期に入っているからだ。しかし、<責任を持て>という田中のアピールの鮮度はいささかも衰えていない。何度か、きわどいもめごとの止め男を演じてきた田中の体験的な叫びでもあった。[毎日新聞2002.8月3日近聞遠見:六助の「一冊」をどう読む 岩見隆夫
 10.27日、公・民も加担の二階堂政権構想浮上。二階堂氏は田中の置かれている立場を顧慮して相談なしに話を進め、公明党の竹入委員長等を巻き込んでポストの割り振りまで決めていた。目白邸で田中−二階堂会談が行われ激論になる。結局、二階堂は総裁選への立候補を断念する。「二階堂君と俺とは夫婦みたいなものだ。たまには喧嘩もするが、何でも言い合えば後はスッキリしたものだ」。この二階堂「総裁擁立工作」の意味を理解できる人士がいなく、逆に私心行為として潰されることになった。
 この頃、自民党幹事長・金丸信らが中心となって、竹下グループを独立させる動きが密かに進行していた。
 10.28日、自民党実力者会談。
 10.29日、中曽根総裁の任期満了に伴う自民党総裁公選に中曽根が立候補。対抗立候補がなく両院議員総会で総裁再選が決定。幹事長に金丸(田中派)が幹事長、宮澤(鈴木派会長代行)が初の党三役入り。二階堂が副総裁に決定される。その他閣僚ポストに蔵相・竹下、農相・佐藤守良、郵政相・佐藤恵、総務庁長官・後藤田、国土庁長官・河本嘉久蔵、科学技術庁長官・竹内黎一らの6ポストを田中派が占める。
 10.31日インディラ・ガンジー・インド首相暗殺。
 11.1日、第2次中曽根改造内閣発足。(新自クとの連立継続)首相・中曽根康弘、副総裁・二階堂進、幹事長・金丸信(田中派)、総務会長・宮澤喜一鈴木)、政調会長・藤尾正行(福田)、大蔵大臣に竹下、外務大臣に安倍が留任。

 11.6日、米大統領選レーガン圧勝,再選。
11.9  新たに2名が加わり田中派122人に。

 11.17日、公明党結党二十周年記念集会開催。竹入委員長、連合に強い意欲。
 11月、紙幣一新。1万円札の肖像が聖徳太子から福沢諭吉に切り替わった。
【民主文学同盟辞任派が「葦牙(あしかび)」を創刊】
 11月、民主文学同盟辞任メンバーは雑誌『葦牙(あしかび)』を創刊した。

 裁再選が確定。二階堂擁立構想は不発に。
 12.2日、インド中部ボパールの殺虫剤工場でガス漏れ,死者2500人以上。
 12.3日、ロッキード事件全日空ルートの控訴審第1回公判が東京高裁刑事5部で開かれた。橋本登美三郎元運輸大臣(一審は懲役2.6ヶ月、執行猶予3年、追徴金500万円の有罪判決)は、一審と同様に請託、金銭授受の容疑全て否定した。佐藤孝行元運輸政務次官(一審は懲役2年、執行猶予3年、追徴金300万円の有罪判決)は、請託と「賄賂性の認識」の関係につき、「仮に受け取ったとしても政治献金かご祝儀としか思えなかった」と抗弁し、無罪を主張した。
12.3  共産党が、国会に田中元首相の議員辞職勧告決議案を提出。

 12.19日、金丸の音頭で、竹下登・橋本龍太郎・小沢一郎・梶山静六・羽田孜が集まり、「竹下中心の勉強会」発足を決議。


 12.20日、衆議院本会議で、電電改革3法案が成立した。以降、初代社長を廻る綱引きで、真藤恒総裁を推す中曽根首相、金丸幹事長派と北原安定副総裁を推す角栄派とが熾烈な対立を深めていくことになる。
12.25  竹下登ら「創世会」の第一回準備会(実際には2度目の会合)。衆院12人、参院2人の14名(衆議院・竹下、金丸、小渕、橋本、小沢、羽田、梶山、中村喜四郎、田原隆、中島衛、保利耕輔、額賀福四郎、参議院・遠藤要、井上孝)が築地の料亭「桂」にひそかに集合し会合。「創世会」旗揚げの謀議を凝らす。席上、竹下が「全てを燃焼し尽くして、65歳までに全てを終え、政界を引退する覚悟です」と決意を述べた。

 12月、宮本議長訪ソ。チェルネンコ書記長と会談。
 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」は次のように伝えている。
 「1984年、労働者大衆といっそう緊密に結びついた労働者政党の建設をめざしマル労同を発展的に改組して結成された社労党(社会主義労働者党)のもとでも労働者大衆の中で機関紙誌を軸とした原則的な闘いを推し進めるとともに、引き続き地方選や国政選挙への参加が積極的に取り組まれ、確認団体として参加した86年および89年の参院選挙では、比例区で15万票を獲得した。

 社労党は組織的には今だ眇(びょう)たる存在でしかない。しかし、社会党の消滅、共産党の底知れないブルジョア的な堕落の深化、新左翼運動の退廃と衰滅といった現状を見るならば、労働者階級とその幾多の先駆者たちが営々として築いてきた日本社会主義運動百年の歴史の大道に立っているのが誰であるかは明白であろう。

 来年は幸徳秋水らによって日本で最初の社会主義政党=社会民主党(即日禁止)が結成されてちょうど百年の節目に当たる。われわれこそはこれら先人たちの始めた事業の真の後継者であるとの自負と確信の下に、新世紀に向けて飛躍を期し、決意を新たに前進を開始しよう」。

 この年、中野徹三が除名された。その背景には、札幌唯物論研究会など知識人党員が結集する研究会の動向に対して共産党中央が警戒していた事情がある。アルチュセール研究を進めていた東京唯物論研究会、民主主義学生同盟(民学同)と関係のあった大阪唯物論研究会唯物論など、地方唯物論研究会を全国統一しよう とした動向にも関連がある。これについては、日本語でも経緯を記録した文献はない。






(私論.私観)