第45部 1983年当時の主なできごと.事件年表



 更新日/2017(平成29).7.31日
 (れんだいこのショートメッセージ)

 2002.10.20日 れんだいこ拝


 「この『明大問題』とは、1983年、明治大学8号館問題の利害の対立から、ある日突然(「共産主義者」)同盟事務所に、当時の解放派−狭間派より『内ゲバ宣言』が突きつけられたことをさす。『明大より赤赤旗が撤退しなければ、明大内赤赤旗メンバーを殺す』というものであった。統合したばかりの統一赤赤旗派は、この一方的な『内ゲバ宣言』に対する基本的態度・戦術をめぐって論争となった」(「検証内ゲバ」)。
【83年度政府予算案】【中曽根内閣】

  一般会計1.4%増で50兆円の乗せたが、一般歳出が前年比マイナスの超緊縮財政の中で、防衛費だけ6.5%増で突出、GNP比率0.978%。「福祉国家よさようなら、安全保障国家よこんにちは」と云われた。ODA(政府開発援助)は8.9%増で、韓国訪問の手土産に使われた。

 国債発行額は、13兆3450億円(建設国債が6兆3650億円、赤字国債は6兆9800億円)で、前年度当初より2兆9050億円多く、国債依存度は26.5%に上がった。 

【中川一郎変死】
 1.9日、中川一郎が変死。田中角栄と秘書早坂が弔問に駆けつけ、角栄は遺骸に向かって「バカヤロー、俺よりなんで先に死んだ!」と号泣したと伝えられている。

【中曽根首相訪米、「日本列島不沈空母」発言】
 1.17日、中曽根首相が訪米。中曽根首相が、防衛費の増加とアメリカに対して武器技術の供与を決定。それまで、武器輸出三原則により、日本はどの国に対しても武器輸出はもちろん、技術供与も禁じられていた。前政権鈴木首相時代に、アメリカは日本に、同盟国として武器技術の供与を強く求めていたが、応じていなかった。中曽根は今日、「アメリカから武器そのもの、そして軍事技術もたくさん供与してもらっているのに、こちらからは一切供与しないというのは不合理極まりない。内閣法制局の解釈を変えさせるのに苦労しました」と述懐している。  

 1.19日、訪米中の中曽根首相は、ワシントン・ポスト紙のキャサリン・グラハム社主等との朝食会で、「わが国の防衛に関しては、私なりの見解を持っている。それは、日本列島を不沈空母のように(ソ連の)バックファイアー爆撃機の浸入に対する巨大な防衛の砦を備えなければならないということだ」と発言し、物議を醸している(「日米運命共同体」、「日本列島不沈空母」等の発言)。ニューヨーク・タイム紙、中曾根首相、「日本列島を不沈空母に」と発言を掲載、中曾根→否定の後に肯定。

 1.20日、ホワイトハウスの朝食会で、「日米は太平洋をはさんでの『運命共同体』であり、同盟関係にある」と中曽根は述べている。「ロン」・「ヤス」と日米首脳がファースト・ネームで呼び合うなど親密さを演出することに成功した。

【サミットでの記念撮影中曽根事件】
 1983年の米・ウィリアムズバーグサミットでの各国首脳の記念撮影の場で、慣例だと序列6位の中曽根康弘首相が同3位のイギリス・サッチャー首相を差し置き、主催国(レーガン大統領)の隣に入り込む“事件”が発生した。中曽根首相は、サミットの写真で端にいると孤立しているように見られてしまうと推理し、この時は「必ずレーガンの隣に立とうと決心していた」と話していたと証言されている。昼食会を終えた中曽根首相はレーガン大統領と談笑しながら歩き、話を終わらせないように引き延ばして立ち位置をキープ。そのまま堂々と写真に収まり、日本の存在感を示した。それまでは概ね「主催国→大統領→首相」という順番になっていたが、“中曽根事件”はその慣例を破ったことになる。本来の慣例にのっとった序列では4位のカナダ・トルドー首相は中曽根氏が入り込んだことで左端の8位の位置となった。EU(欧州連合)の前身であるEC(欧州共同体)委員会委員長のトルン氏は立ち位置は左端となるが、この時は本来の中曽根氏のポジションである左から2番目に位置した。このエピソードは各国記者の間でも語り継がれ、その後、並び順が厳格化されるきっかけになったと言われている。(SAPIO2016年1月号)

【田中元首相の動向】
 1.19日、田中元首相、議員辞職を考えていないことを言明。

 1.21日、小佐野控訴審始まる。

 1.26日、ロッキード裁判丸紅ルートの論告求刑公判。東京地裁701号法廷で、検察側は、田中に対して受託収賄罪の最高刑を求刑。懲役5年、追徴金5億円を求刑。丸紅会長・桧山広は懲役4年。

 1月、中曽根首相が韓国を訪問。

 2.9日、衆議院で、野党が東京地裁の検察側求刑を受けて「田中議員辞職勧告決議案」を提出。


 2月、中曾根康弘首相が衆議院予算委員会で、対中戦争を「侵略戦争」と認め、今後の戒めとすると発表。
 3.13日、早大.高野秀夫、江戸川に入水自殺。
 3.15日、大武礼一郎議長による、マルクス・レーニン主義の理論上の教科書としての『光り輝く偉大なマルクス主義万歳!』発表さる。
【政治評論家戸川猪佐武が急変死】
 3月、「小説吉田学校」の著者である政治評論家戸川猪佐武が急変死。「小説吉田学校」の映画化による試写会の帰りに急性心不全で急逝。直後、愛人宅で腹上死したというゴシップが流れ、それを某週刊誌が記事にしようとしたのを戸川の出身である読売新聞の、当時の政治部長だった渡邊恒雄が揉み消したという話がある。ナベツネは自身の回顧録で、先輩や他紙を含めた同僚の政治記者について様々なことを語っているが、にもかかわらず読売の先輩戸川のことについては殆ど何も触れていない。 戸川腹上死につき、政治評論家の故藤原弘達が書いた「角栄、もういい加減にせんかい」の中にハッキリその事が書かれているとのこと。

 戸川 猪佐武(とがわ いさむ、1923年12月16日 - 1983年3月19日)は、日本の政治評論家・作家。神奈川県平塚市出身。父親は小説家で元平塚市市長の戸川貞雄、弟は小説家の菊村到。 来歴・人物 旧制湘南中学を経て早稲田大学政治経済学部へ入学し、後に陸軍へ召集となるが徴兵検査で病気が発覚し延期。 回復後に再び召集されたが直後に終戦を迎え、早大に復学して卒業する。 1947年に読売新聞へ入社。政治部記者として、数多くの政治家に対し取材を行なって顔を知られるようになる。一時期は特派員としてモスクワにも滞在していた。1955年には河野謙三から、父・貞雄の平塚市長選挙への出馬説得を依頼されたことから、仲介役を務め、父親を当選させることに成功している。 1962年に読売新聞を退社して政治評論家に転じる。評論活動の傍ら同年10月にスタートしたTBSのニュースワイド『JNNニュースコープ』においてメインキャスター(1962年10月 - 1964年3月)を務めるようになった。
 出演者一覧
吉田 茂  森繁久彌
鳩山一郎  芦田伸介
松野鶴平  小沢栄太郎
星島二郎  伊豆 肇
幣原喜重郎  三津田 健
林 譲治  土屋嘉男
河野一郎  梅宮辰夫
大野伴睦  田崎 潤
広川弘禅  藤岡琢也
佐藤栄作  竹脇無我
田中角栄  西郷輝彦
池田勇人  高橋悦史
太田一郎  神山 繁
岸 信介  仲谷 昇
益谷秀次  稲葉義男
増田甲子七  加藤和夫
中井川隆一郎  鈴木瑞穂
中曽根康弘  勝野 洋
三木武夫  峰岸 徹
麻生太賀吉  村井国夫
浅沼稲次郎  小池朝雄
     小瀬 格
     太刀川 寛
     西本裕行
石橋湛山  黒木佐甫郎
     増田順司
     早川雄三
宮沢喜一  角野卓造
石田博英  辻 萬長
須永一雄  石田純一
福田赳夫  橋爪 功
西村栄一  小林稔侍
     神田 隆
     細川俊夫 斉藤隆夫  佐々木孝丸
     信実一徳
     須藤 健
     入江正徳
     久遠利三
     柄沢英二
河本敏夫  成田次穂
     林 昭夫
福田 一  和崎俊哉
     湊 俊一
河野金昇  御木本伸介
     田島義文
二階堂 進  山下洵一郎
     福山象三
     木村泰三
     永谷悟一
     奥野 匡
     松尾文人
     河合絃司
     峰 祐介
     平野 稔
     福岡正剛
     山本 武
     石原昭宏
     穂高 稔
     小川隆一
     近藤 宏
     野口元夫
     庄司永建
     灰地 順
安倍晋太郎  瀬戸山 功
竹下 登  下塚 誠
海部俊樹  福田勝洋
渡辺美智雄  樋渡紀雄
田中六助  千葉 茂
中川一郎  脇田 茂
     前田正人
     角田素子
ナレーター  平光淳之助
マッカーサー RICK JASON
     JACK THIBEAU
     STEPHEX ROBERTS
麻生和子  夏目雅子
緒方竹虎  池部 良(特別出演)
三木武吉  若山富三郎

 小説吉田学校出演者の死亡履歴
小池朝雄(浅沼稲次郎) 1985年3月没 享年54
夏目雅子(麻生和子)  1985年9月没 享年27
田崎潤(大野伴睦)   1985年10月没 享年72
神田隆(大麻唯男)   1986年7月没 享年68
佐々木孝丸(斎藤隆夫) 1986年12月没 享年88
小沢栄太郎(松野鶴平) 1988年4月没 享年79
若山富三郎(三木武吉) 1992年4月没 享年62
高橋悦史(池田勇人)  1996年5月没 享年60
三津田健(幣原喜重郎) 1997年12月没 享年95
芦田伸介(鳩山一郎)  1999年1月没 享年81
御木本伸介(河野金昇) 2002年8月没 享年71
藤岡琢也(広川弘禅)  2006年10月没 享年76
仲谷昇(岸信介)    2006年11月没 享年77

放送日/1983年4月
局/フジテレビ
監督/出目昌伸
原作/猪木正道「評伝・吉田茂」
脚本/笠原和夫
音楽/広瀬量平

【「民主主義文学同盟『4月号問題』事件」発生】
 宮地氏の「第2、民主主義文学同盟『4月号問題』事件」を参照する。

 4月初め、党中央は、民主文学4月号の赤旗広告掲載を、発売とともに拒否した。広告の拒否は民主文学にたいする党中央のきびしい批判だった。当初、広告部の責任者には、載せない理由は言えない、とつっぱねさせた。その号には、小田実寄稿文が載り、「野間宏を団長として、中国訪問した」記述が“5行”あった。編集後記には、中野健二編集長の寄稿謝辞が“一言”あった。同月、党中央は、文学同盟常任幹事の党グループ会議を招集した。その会議へはいつものグループ会議とちがって、党中央の文化関係幹部5人を派遣した。教育・イデオロギー担当の書記局次長宇野三郎(常任幹部会員)、知識人委員会の責任者小林栄三(常任幹部会員)、文化局長兼文化部長で文学同盟の幹事・西沢舜一(幹部会員)、新日本出版社の幹部で文学同盟の常任幹事である津田孝(幹部会員)、文化部員の高橋芳男であった。党中央派は、4月号の問題だけでなく、最近の文学同盟の活動全般にわたって批判を行なった。宇野は、約一時間半にわたって、用意してきた原稿を読みあげた。それには三つの問題があったが、要約は以下である。

 1)「4月号」問題について 中国共産党はわが党への乱暴な干渉をいまなお謝ろうとしないばかりか、依然として反党分子との交渉をつづけて反省の色がない。日中文化交流協会常任理事である野間宏らの訪中もそのひとつである。したがって野間訪中の事実を記述した小田実論文をのせ、しかも貴重な原稿をいただいて感謝するという中野健二編集長の編集後記を載せるような雑誌の広告を『赤旗』に掲載できない。また、日本の革新運動の一翼をにない、中共の無礼な干渉をうけた民主主義文学同盟(注、寄贈していた『民主文学』が送り返されてきた)の立場からも、このような記述をのせることは、運動の基本方針と伝統から逸脱した軽挙であり、思想の風化がみられる。とうぜん編集長の責任が問われなければならない。

 2)文学者の反核声明について 1982年1月20日、「核戦争の危機を訴える文学者の声明」が発表され、マスコミでも大きな反響をよんだ。この声明は34名の「お願い人」が文学者たちに署名をおねがいして、約500人の賛同をえたものであったが、文学同盟では中里喜昭が「お願い人」の一人になっていた。ところが、「お願い人」のなかに「反党分子」が一人入っていた。反核運動は重要だから、党員文学者がそれに署名するのはいい。しかし、あの声明の呼びかけ人には反党分子がはいっていること、また「すべての政党・団体・組織から独立した文学者個人」の署名を呼びかけていることには、党員としてはちゃんと批判すべきである。長崎の中里には、党中央文化部長から「お願い人」などになった責任を追及するきびしい電話をした。理由はいうまでもなく、「お願い人」のなかに反党分子が一人入っているということであった。

 3)民主主義文学同盟第10回大会への幹事会報告草案について (1)、中国の大国主義的な干渉が、日本の民主運動・民主文学運動に障害をもたらしている事実に言及すべきである。(2)、革新統一運動の一翼としての文学運動であることの認識が弱い。(3)、現代の危機を悲観的にとらえ、危機とたたかっている革新勢力についての記述がよわい。環境破壊や科学技術についても、文明の終末論的にとらえられていて、独占資本の経済的ゆきずまりや、科学技術を民主的にコントロールできなくなっている事実にはふれていない。(4)、戦後民主主義のブルジョア的限界にふれず、民主主義を絶対的に擁護すべきものとしてとらえている。(5)、個の確立が抽象的に強調されすぎている。(6)、『民主文学』の作品はみな褒めてあって、問題点の指摘がなく、めでたしめでたしになっている。(7)、全体として近代主義的で、思想のノンポリ化がめだつ。

 文学同盟の幹事会で決定してプリントまでされた大会報告草案に、党中央が全面的に批判を加えることは、これまでないことだった。しかも、文学・イデオロギー関係の幹部5人が勢揃いして、ながながと批判した。宮本顕治氏と党中央は、「4月号」問題を機に、民主主義文学同盟の徹底的な思想改造を意図したのであった。これらの党中央見解原稿は、事前に宮顕の見解に基き、宮顕と5人が綿密に打ち合わせし作成したものであった。宇野(元宮本秘書)は、それをを一字一句間違えないよう、ぼう読みするかたちで開陳した。

 この党中央見解には、小田実と「日本はこれでいいのか!市民連合」(以下「日市連」と略)の問題、宮本氏の1981年1月1日の『赤旗』の新春インタービューでの「市民運動がほんとうに発展するためには、反共主義的偏見は捨てなければならない」発言、上田副委員長と宮本委員長とのあいだに、「日市連」評価のくいちがい問題などが関連しているが、それは省略する。この2人の意見の違いは、後にのべる『平和委員会・原水協問題』とも関連している。

 民主主義文学同盟にたいするこうした全面的な党の批判は、前代未聞だったので、みな驚き、反発して、反論が続出した。そのため、4月号問題だけでも論議をつくすことができず、討議は翌日にもちこした。翌日のグループ会議における、党側出席者は昨日と同じであった。宇野書記局次長はまず、昨日論議が集中した「4月号」問題について、党側見解をくりかえした。それにたいして文学同盟は、多くの人が前日にひきつづいてほぼ次のように反論した。
 概要「問題になっている小田実の文章は、『昨年くれの中国訪問で、私は何人かの中国の作家とあった。野間宏さんを『団長』としてかっての『使者』の同人仲間と一種の『作家代表団』をかたちづくって行ったので(野間さんと私の他に行ったのは、井上光晴、篠田浩一郎、真継伸彦の諸氏だ)、招待者の作家協会のほうでもそういう機会をつくってくれた』というくだりだったが、そこを読んで、これはまずいと思った人は津田孝のほかには誰もいなかった。それだから、もう一つの問題とされている編集後記は、『翻訳の労をとられた福地桂子氏ならびに小田、丸山両氏のご好意に編集部として感謝したい』であり、それに不都合を感じた人も誰もいなかったのである。当時の日中両党の関係からいって、日本共産党が野間訪中団を非難することはありうるが、小田実がそれについて、大衆団体の雑誌である『民主文学』にたった5行ふれたのが、どうして不都合なのか理解できない。小田実は野間訪中団に加わって訪中した事実をかいているだけで、それについてとくべつのコメントをしているわけでない。それに、小田は民主主義文学運動にとって数すくない理解者の一人であり、その原稿がもらえたことに感謝するのはあたりまえである。そしてなによりも、津田孝をのぞく常任幹事のだれもが小田論文に疑問をもたなかったし、幹事からも、同盟員からも、読者からも、それを指摘してきた人は一人もいない。それが世間の常識である。それを党中央がめくじらたてるのは異常ではないか」。

 これに対し、党中央は、党中央文化関係の機構人事を変えた。これまでの文化局と知識人委員会を統合して文化・知識人局を新設し、局長に宇野三郎、次長に津田孝をすえ、津田を文化部長にも抜擢した。また、赤旗には「干渉主義を正当化する張香山発言について」という、中国共産党批判の一ページ大の無署名論文を載せ、つづいて翌日には、池上芳彦署名の「中国からの干渉の問題と民主主義文学運動の伝統」という論文を載せた。池上論文は、グループ会議で宇野元秘書が「4月号」問題についてのべた党の見解とおなじ趣旨であった。党の規約では、党内で論議中の問題は外部にだしてはならないことになっている。しかし、それは下級組織への統制、規制であって、党中央にはそういう制約はなく、自由に国民大衆に訴える権利がある、という一方的な事実を、この池上論文は示した。さらに、党中央は「4月号」問題をたんに文学同盟の内部問題、思想・文学の問題でなく、党員としての政治的原則の問題であることを強調するようにエスカレートさせた。党中央はこの思想キャンペーンを重大視して、もし常任幹事グループがあくまで「4月号」問題の責任を認めようとしないなら、直接の責任者である編集長の党除名もありうる、また文学同盟の分裂も、『民主文学』の停刊も辞さない、という強い姿勢を“言外に”伝えた。

 これら“裏側の党フラクション”党グループ会議と、“表側”の文学同盟常任幹事会は、大会後もあわせて、延べ5カ月間継続した。その中で党中央派遣5人は、宮顕への連日報告、直接指令に基いて常幹22人の結束を崩すことに全力を挙げた。グループ・メンバーへの各個撃破を執拗に行い、当初の姿勢を変え、あるいは軟化させることに成功した。党中央の強硬な姿勢を見て、常幹側も、5月3日の大会直前になって最初の妥協をした。彼らは、編集長の人事問題にはしないことを条件に、小田原稿のあつかいは適切でなかったことを、常任幹事会として認めることになった。それにはまだ反対意見もあったが、編集長を救うためには、それもやむをえない、ということに追い込まれた。そこで党側の責任者である宇野も、『編集長の人事は文学同盟の問題だから、党はそれには関与しない』と明言した。ところが、宇野発言は、“建て前だけのウソ”であった。グループ会議のあとの文学同盟の常任幹事会になると、津田常幹(党中央文化・知識人局次長・文化部長)は、『あくまで編集長を辞めさせよ』とする党中央秘密指令に基いて、編集長の責任問題をもちだした。しかし、みなの反撃にあって孤立してしまったので、『この問題は大会後の新常任幹事会でまた問題にしたい』と意見を保留した。

 この背景には宮本逆路線があった。日共は、第14回大会以降、ユーロ・ジャポネコミュニズム路線と絶縁し、スターリン批判の研究・出版活動をストップさせ、『自由主義、分散主義との全党的闘争』に再転換させようとしていた。「民主主義文学同盟『4月号問題』事件」は、その逆路線を、民主主義文学運動分野でも適用したものである。宮顕は、“愛すべき”宇野三郎・元宮顕参議院議員国会秘書が10名を放逐した手腕にいたく満足した。「宮顕・7項目批判」原稿を、一字一句も読み間違えてはいけないと1時間半も“棒読み”をする絶対忠誠ぶりを愛でた。そこで、宇野・元秘書を常任幹部会員に抜擢するだけでなく、「社会科学研究所所長」、「党史資料室責任者」にも大抜擢した。宇野・宮顕コンビは、1988年『日本共産党の六十五年』、1994年『日本共産党の七十年』で、“宮顕賛美を文学的に粉飾、改ざん”するための緊密なチームプレイを発揮した。宇野・元秘書は、宮顕側近グループの一人として、“文学作品「宮顕史観党史」を創作”する上で、偉大な貢献をした。その党史で、宮顕は、“左の共産党の中にも、右の天皇制の思考、体質が反映している”と分析した丸山真男を真っ先に槍玉に挙げた。丸山だけでなく、田口富久治、霜多正次、中里喜昭、古在由重、草野信男、加藤哲郎、藤井一行らも、“宮顕「左側」天皇に不届きにも逆らった不敬罪に該当する学者・文化人”として、党史に「その罪状」を掲示した。常幹辞任を強要された10名はいずれも、当時、『民主文学』『文化評論』『赤旗』で活躍し、民主主義文学同盟の中心的活動家だった。10名粛清後に残存した現民主主義文学同盟は、見事なほどに“「スターリン式・政治の優位性」を認める従順な文学組織”に変質させられた。前衛党に従属し、単なるベルトになった文学組織が、どのような作品を生み出すかは、スターリン・ブレジネフ時代の「ソ連文学」を見れば分かる。前衛党“収容所群島”権力への批判・抵抗精神こそが、ソルジェニーツィンの一連の作品を生む原動力となったのだが。

【東京ディズニーランドオープン】

 1977年3月に正式名称を「東京ディズニーランド」と決定。1979.4月、「東京ディズニーランドの建設および運営に関する契約(基本契約)」の締結。1980.1月、東京ディズニーランドの運営準備の一環として米国ディズニーランドへの研修員の派遣を開始し、第1次米国研修員にパーク運営のキーパーソンになる幹部社員9人が選ばれた。9人に対する研修は、パーク運営全体と担当部門のマネジメントに関わる重要な内容のもので、約1年に及んだ。1980.11.28日、千葉県から「東京ディズニーランド建設実施計画」の認可を受ける。12.3日、東京ディズニーランド着工式。1981年1月、東京ディズニーランド建設工事が本格的に開始建設開始。1982.9月には東京ディズニーランドシンボルが完成。1982年12月、1年8ヶ月のスピード工事で「東京ディズニーランド」がほぼ完成。日本初のテーマパークとして東京ディズニーランドは千葉県浦安に誕生する。「東京ディズニーランド雇用センター」を開設。

 1983.4.15日、東京ディズニーランドオープン。あいにくの雨となった。ワールドバザール内で行われた式典の壇上に橋社長が立ち、「1983年4月15日、ここに東京ディズニーランドの開園を宣言します!」と高らかに開園を宣言した。「夢と魔法の王国の扉」が開かれ、日本のレジャー史に燦然と輝く歴史の1頁が刻まれたのです。


 4.18日、ベイルートの米大使館でイスラム過激派による爆弾テロ,死者47人,負傷者120人。
【「民主主義文学同盟『4月号問題』事件」その後】
 5.3日、民主主義文学同盟第10回大会が開かれた。大会は、冒頭から4月号問題で荒れた。大会には幹事会の一般報告のほかに、4月号問題の非をみとめた常任幹事会の合意事項が補足報告されたが、その合意事項についての質問が殺到した。合意事項は、一、野間宏を団長とする文学代表団の訪中は、文学同盟にとっても容認できない中国の干渉主義のあらわれである。二、そのことを肯定的に記述した小田実の原稿を『民主文学』に載せ、寄稿に感謝するとしたのはあやまりであった。三、この教訓をこんごに生かしていきたい。というものであったが、それは党中央の主張をおおすじで容認したものであった。大会では三点合意にたいする異議と質問が殺到した。霜多議長はそれらに弁明した。『この問題は常任幹事会でも意見がわかれて、長いあいだ論議をかさねたすえに、やっと到達した結論である。だから、ここでこれ以上論議しても、結論はなかなかえられないとおもうので、常任幹事会ではこういう結論になったのだということを了承して、大会ほんらいの文学論議にうつっていただきたい』。この弁明はいちおう了承されて、つぎの議題にうつった。霜多の『南の風』を批判した「津田個人報告」にも、予想をこえた批判が集中した。霜多も反論したが、及川和男や中里喜昭、あるいは小田悠介、草野ゆき子など主として若い人たちからの集中攻撃をうけて、津田常幹(党中央文化局長)は立ち往生した。大会の最後に、次期幹事を選出する選挙になった。津田より(党中央方針支持派)とみられる人たちが、こぞって低位当選、逆に編集長支持派はみな上位当選という結果になった。党中央は、津田常幹に、役員選考のさい、中野健二を編集長からはずせという“秘密指令”を与えていた。しかし、大会最終日におこなわれた新幹事会での津田常幹による主張はとおらなかった。

 大会後、赤旗は、大会取材記事で、常任幹事会の合意事項が大会で「採択された」と強調し、佐藤静夫文学同盟副議長も赤旗でそれを主張した。4月号の不当が大会で承認されたとなれば、編集長の責任追及が容易だからである。しかし、民主文学では、中里喜昭が、大会事務局の録音テープをおこして、合意事項の補足説明は採択されていないことを証明した。合意事項には反対だという発言が続いたので、それは常任幹事会での合意であることが強調されて、そのことが了承されたのであって、合意事項が大会で「採択」などされていないことを明らかにした。それにたいし、『あくまで合意事項は大会で採択された』とする党中央は、中里は大会決定違反だとして、赤旗その他で批判した。

 5月、大会後すぐ、党中央は第4回中央委員会総会を開いた。そこでは、中国の干渉問題と「日市連」の問題をとりあげて、文学運動だけでなく、一般知識人のあいだにも思想の風化がひろがっているので、イデオロギー活動の強化が必要だと強調した。中央委員会総会後、「赤旗容も、文化・知識人局の陣容も充実させ、共産党らしいイデオロギー活動をやる」という宮本議長の言葉どおり、文学同盟でもさっそくグループ会議を招集し、小田と「日市連」問題、中野編集長の責任問題を再び追求した。そして、その後も、大会前後で5カ月間にわたり、何回となく会議を招集し、個人的な説得もますます執拗に行なった。党中央は、5人に「常幹側意見をきくというのではなく、中央の意見をききいれるまでは、なんどでも説得を続けろ」と指示していた。このため、中野編集長を擁護してきた役員たちは、もはや党との関係では文学路線の対立解消を期待できないとして文学同盟役員を辞職することを決意した。中野健二が編集長を、霜多が議長を、山根献も事務局長を辞退し、3人は同時に常任幹事を辞任した。そして常幹22人中、松崎晴夫、中里喜昭、上原真、井上猛、武藤功、飯野博、平迫省吾らを合わせて10人のメンバーが、常任幹事を辞任した。編集部員の織田洋子と荒砥例は退職した。こうした結果に終わったことは、党中央としても失敗だった。その「混乱」の指導責任を問うとして、西沢文化局長を辞任させた。

【田中弁護側が最終弁論】
 5.11日、 田中弁護側が最終弁論。
 「一人の主任検事(吉永特捜部副部長)が虚心に証拠の検討をせずに、自己の独断的偏見を被疑者らに押し付け、事件を自己の見込み通りに作出した。田中元総理の失脚を狙い、無理に収集した証拠に基づく違法な起訴だ」。

【田中弁護側が最終弁論】
 5.11日、社会党の本岡昭次議員が、参院決算委で、島根県の私立高で、建国記念日に学校行事で教育勅語が取り上げられていることを問題視して、当時の瀬戸山三男文部大臣にこう詰め寄っている。「(教育勅語を)校長が単に読むだけでなく、校長の朗読に合わせて生徒が立って『朕惟フニ我カ皇祖皇宗』とずっと一緒に読んでいる」、「どのような措置を講じるおつもりか」。これに対し、瀬戸山大臣は「率直に言って遺憾なこと」、「現在の憲法、教育基本法のもとでは不適切」と問題を認めつつ、「島根県を通じてそういうことのないように指導をしてくれと、勧告しておる」と答弁している。

 翌84年1月25日の同委員会でも本岡議員がはこの問題を指摘。きちんと是正勧告したのかどうか、説明を求め、文部省側は「島根県当局に対してこういう内容についての是正を指導してもらいたいということを指導して参った」、「是正をしていくようにという私学の当局者に指導を繰り返してきております」と報告している。時のな中曽根政府は教育勅語を明確に否定していたことになる。

 5.19日、ピース缶爆弾の元法大生ら九被告に無罪判決。
 5.26日、中曽根首相、先進国首脳会議出席のため渡米。5.28日、第9回先進国首脳会議が米ウィリアムズバーグで開催。中曽根首相はレーガン米国大統領を援護して、対ソ強硬声明を発表した。
 6.18日、中国,国家主席に李先念,軍事委主席にトウ小平選出。
【第13回参議院通常選挙】
 6.26日、第13回参議院通常選挙。田中派が圧勝、118名になった。

 社民連は新自クと連帯し、確認団体「新自由クラブ民主連合」(以下「自ク連」と略す)を結成し挑む。比例代表区の名簿は、社民連から田代表(第一位)、西風勲組織委員長(第七位)、工藤良平元衆参議員(第八位)の三人。また新自クから大石武一元環境庁長官(第二位)、映画評論家の水野晴郎氏(第三位)ら六人で構成された。結果は、比例代表区で田英夫代表が三選を果たし、また選挙区選挙では、東京で野末陳平、埼玉で森田重郎両現職が当選。神奈川選挙区では河野剛雄候補が自民党に惜敗、比例区ではミニ新党ブームの影響をまともに受け124万票しか獲得できず、改選議席数4の死守に失敗した。

 7.12日、中曽根首相、初の首相公式訪韓。
 8月、日共の中央委員会政治理論誌前衛8月号に、副委員長の上田耕一郎、幹部会委員長の不破哲三が自己批判文を載せた。「党内問題を党外で論じた。これは民主集中制の組織原則に反する自由主義、分散主義、分派主義の誤りだった」としていた。前年の12月に刊行された「日本共産党の60年」での両氏の1950年代半ばの動きが批判され、これに応えた形となった。筆坂秀世氏は著作「日本共産党」の中で次のようにコメントしている。
 「30年近く前の、しかも既に絶版になっていた著作の自己批判を公表させるなどというのは、宮本氏の力をもってする以外にありえないことだった」。

 8.4日、伊に初の社会党首班クラクシ内閣成立。
 8.21日、「帰国した場合命の保証はできない」とマルコス大統領から警告を受けていたにも関わらず、亡命先のアメリカで反マルコス活動を続けていたフィリピンのアキノ(ベニグノ・アキノ・ジュニア)元上院議員が、大統領選挙への立候補を行うために亡命先のアメリカから中華民国の台北経由でマニラ国際空港に搭乗機が到着し、警護役のフィリピン兵士に機内から連行されボーディングブリッジ脇の階段を降りた直後に射殺された。
 8月、動労大会が開催され、「職場がなければストもできない。仕事がなければ入浴の必要もない。仕事があってこそ国鉄労働者として生活することができる」と企業防衛主義を満展開させた。
 9.1日、ソ連の大韓航空機撃墜事件。大韓航空機がサハリン上空でソ連戦闘機に撃墜さる。
 9.3日、社民連第三回全国大会(田英夫、比例区出馬に決定)。
 9.7日、ロッキード裁判で田中元首相に懲役五年の求刑。

 9.19日、田中派が総会。


 9.24日、原水協全国常任理事会、原水爆禁止運動連絡委員会問題、意見不一致。83世界大会準備委員会の組織問題についての「5項目の確認」。
【田中元首相の動向】
 9.22日、角栄が小千谷片貝の後援会で次のように述べている。 
 「私を死ねばいいと思っているヤツがいる。とんでもない野郎だ。これでもハラの虫を抑えてしゃべっているんだッ。裁判のことは裁判所に任せている。とやかく言うことはない」。

 9.26日、83世界大会準備委員会、原水爆禁止運動連絡委員会の組織化、原水協、平和委の反対で不成立。
 10.3日、田中角栄、目白台の私邸で一過性高血圧で倒れ救急車出動。
【ロッキード事件丸紅ルート公判第一審判決】
 有罪実刑判決下される。田中元首相に懲役四年、追徴金五億円の実刑判決
 10.12日、東京地裁のロッキード事件丸紅ルート第一審有罪実刑判決。田中元首相は、検察側の主張どおりに受託収賄罪などで懲役4年、追徴金5億円、榎本も有罪とされた。贈賄側は丸紅社長の檜山広が懲役2年6ヶ月、伊藤宏専務が懲役2年、大久保利春専務が懲役2年・執行猶予4年。田中は直ちに保釈の手続きをとった。

 この一審有罪判決直後の21日朝日新聞は、元最高裁長官**氏のコメントを載せ、「一審の重みを知れ。居座りは司法軽視。逆転有罪は有り得まい。国会に自浄作用を求める。元最高裁長官が『田中』批判」と見出しに大書している。元OBによる変調な論旨による露骨なオーバーコミットメントであった。これが、ロッキード事件の胡散臭さ第十八弾である。

 角栄は判決に激怒した様子を伝えている。「くだらん。こんなの判決じゃない。7年かけて何してたんだ」、「心配をかけた。判決はとても承服できるものではない。最後まで闘わねば成らん。死んでもやる。」、「判決では、嘱託尋問で聞いたコーチャンの証言ばかりが取り上げられている。こんな馬鹿なことがあったら、誰もがみんな犯人にされてしまう。最高裁が嘱託尋問などという間違ったものを認め、法曹界を曲がった方向に持っていってしまったんだ」、「この裁判には日本国総理大臣の尊厳もかかっている。冤罪を晴らせなかったら、俺は死んでも死にきれない。誰がなんといってもよい。百年戦争になっても俺は闘う」と述べている(佐藤昭子伝)。

 この日の夕刻、田中の秘書である早坂茂三が「田中所感」を読み上げた。「本日の東京地裁判決は極めて遺憾である。私は総理大臣の職にあったものとして、その名誉と権威を守り抜くために、今後も不退転の決意で闘い抜く。私は生ある限り、国民の支持と理解のある限り、国会議員としての職務遂行に、この後も微力を尽くしたい。私は根拠の無い憶測や無責任な評論によって真実の主張を阻もうとする風潮を憂える。わが国の民主主義を護り、再び政治の暗黒を招かないためにも、一歩も引くことなく前進を続ける」。→両名控訴→東京高裁'87年7月29日控訴棄却→上告('93年12月17日田中死亡により公訴棄却)

 当夜、中曽根首相の田中宛親書が上和田義彦秘書官を通じて佐藤昭子まで届けられている。議員辞職を要望する内容であった。これに対して、佐藤は、「この手紙は田中に見せません。だって田中は、ありもしない事件、不当な裁判と命がけで戦って無実を勝ち取ろうとしています。不当な裁判で無茶苦茶な判決が出たからといって、はいそうですかと引き下がる必要は全くないではないですか」と答えている。

 一審判決を廻って、田中派内は割れた。「オヤジ問題ありだ」、「俺達何のために頑張っていたのか分からなくなった」と不信感を露に肩を落とすグループが大勢を占めた。

 一審判決後、国会は田中の議員辞職勧告決議案を廻って紛糾した。特に共産党の追撃が尋常でなく、後のダグラス・グラマン事件の際の追及と比較して見ても際立って激しいものとなった。ここにも「闇」がある、と私は窺う。これが、ロッキード事件の胡散臭さ第十九弾である。

 判例事報で、中央大学法学部の橋本公亘名誉教授が、「ロッキード裁判の法的問題点」と題して連載をはじめたが、5回連載したところで打ち切っている。これを考究させない隠然とした圧力があったことが予想される。この闇も深い。

 この頃、マスメディアはこぞって角栄の議員辞職を求めた。福田や三木元首相も「田中が辞職しないと自民党政権が維持できない」と主張した。

 10.9日、ラングーン(現ヤンゴン)で全斗煥大統領一行に爆弾テロ。
 10.12日、全野党一致で国会に田中辞職勧告決議案提出第十回統一地方選挙(北海道と福岡県に革新知事誕生)。
【田中元首相の動向】
 10.13日、角栄が、「推論で人に罪を被せるようなことは絶対に許せん」と目白邸に出迎えた田中派議員らに語る。

 10.13日、一審判決後、国会は田中の議員辞職勧告決議案を廻って紛糾した。この頃、マスメディアはこぞって角栄の議員辞職を求めた。福田や三木元首相も「田中が辞職しないと自民党政権が維持できない」と主張した。

 10.21日、三木元首相が中曽根首相と会談し、田中辞職へ指導力を発揮するよう要請。


 10.23日、ベイルート駐留の米海兵隊司令部と仏軍本部が爆破され、双方で309人死亡。
 10.25日、米軍,グレナダに侵攻。
 10.28日、午前、岸元首相が田中邸を突然訪問。午後3時からホテルオークラのスイートルーム902号室で、田中角栄、中曾根首相会談が行われ、余人を交えず1時間40分にわたって会談した。中曽根は何とかして角栄の議員辞職を引き出そうと試みた。だが角栄は「私は無罪だ。この屈辱を何とか晴らしたい」と司法と戦う決意を示し、結局「自戒自重」の談話を発表することになった。中曽根は「できる限り助言」との談話を発表。
【田中元首相の動向】
 10.31日、「所懐」を発表。
 「六年半余りに及ぶ長い間、国民皆様をお騒がせし、ご迷惑をかけていることは申し訳なく、深くお詫びを致します」。
 「私は政治家として満三十六年の間、戦いに敗れた祖国の再建と繁栄、明治以来恵まれる事の少なかった郷土・新潟県の発展のため、いささか微力を致して参りました。私の一身を国家、国民にささげ尽す私の信念は、今後も変わることはありません」。

 11.1日、中曽根は自民党総務懇談会で、「10.28会談」を報告し、「進退は自分で決めることだ。返事は聞く必要ない。『よく考えてくれよ』と善処を要望した」と報告している。
 11.5日、長岡市で作家の森村誠一氏らが「よみがえれ民主主義!金権腐敗と田中金脈を裁く国民の集い」開催。

 11.9日、レーガン米大統領、日本を公式訪問。


 11月、胡耀邦総書記が訪日。中曾根首相と会談、中日友好21世紀委員会設置で合意、NHKホールで講演、来秋に日本青年3000人を中国へ招待と発言。
 11.28日、全国サラリーマン同盟を母体にサラリーマン新党結成(青木茂代表)。
 11.28日、中曽根首相が野党からの内閣不信任案を受けて、衆議院解散。「田中判決解散」(ロッキード判決解散)と云われる。
【この時点での政界勢力分布】
衆議院
自民党 287
田中派 64
鈴木派 62
福田派 47
中曽根派 44
河本派 31
中川派 11
中間.無派閥 28
社会党 104
政権構想研究会 40
新生研究会 27
その他 37
公明党 34
民社党 31
共産党 29
新自連 13
無所属

【第37回衆議院選の際の角栄の選挙活動】
 12.3日、 総選挙告示。角栄が、この日の柏崎の演説で次のように述べている。
 「ロッキード事件はトラばさみにかけられた。足を取られた方が悪いのか、トラばさみを仕掛けた方が悪
いのか、後世の学者が判断するものだ。私は断じて何もしておりません」。

 12.5日、社会党委員長・石橋正嗣が長岡で地方遊説第一声。「諸悪の根源、田中角栄氏を倒すしかない」と地方遊説第一声。

 12.17日、田中角栄が、三島出雲崎町での個人演説会で、「ワシが10年間じっとしていたら、日本はマイナスのことばかり目立つようになった。当選したら、ワシがいろんな法案を立案し、日本の改革に着手する」。

【第37回衆議院議員総選挙】
 12.18日、いわゆる政治倫理解散の第37回衆議院議員総選挙。投票率は戦後最低の68%。(自民250名、社会112名、公明58名、民社38名、共産26名、新自ク8名、社民連3名、無所属16名当選)。楢崎書記長落選。自民党議席は解散時の286から250に激減し半数割れで惨敗。保守系無所属の当選者8名を追加公認し258議席とした。新自由クラブ8名と連立することで、辛うじて安定多数を確保した。野党は、社会党が12議席増の113議席、公明党は29増の59議席、民社党は8増の39議席、共産党は2減の27議席、新自クは2減の8議席、社民連は3議席。田中派は2減の63名当選したものの他派が軒並み総崩れとなった。

 奇妙なことは、福田派が6名、鈴木派が12名、中曽根派が6名減らしていたが、田中派は2名減にとどったことである。しかも、有罪判決を突きつけられ、がけっぷちにたった刑事被告人の立場で最も打撃を受けることが予想された新潟3区での田中の得票数は22万761票(前回より8万票も多く、首相在任時の17万票をも上回った)り連続15回目のトップ当選。新潟3区の総投票数の得票率46.6%を獲得していた。ほぼ二人に一人が田中と書いたことになる。現職の総理であった72.12月の総選挙での18万2681票をも上回った。2位から5位までの票を全て合わせても田中一人の票に及ばなかった。この時作家の野坂昭如が立候補していたが、2万8045票で落選している。角栄は、新潟日報のインタビューに次のように答えている。

 「私も心を新たに国民のため、県民のために全力を尽くす。この得票は県民の声なき声が爆発したものだ。必ずこの負託にこたえていく」。

 この現象は、マスコミを尖兵とする政界の角栄放逐運動にも関わらず、有権者の多くがそれに乗せられなかったということになる。しかし、このことの冷厳な事実を確認することも無く、選挙後の角栄放逐運動は一層ヒートしていくことになる。それは、以降の我が国の政界変調の兆しであった。 

 社民連は、江田五月が最高点当選、阿部昭吾、菅直人も当選した。しかし楢崎弥之助書記長が落選。

【二階堂擁立騒動】
 12.23日、自民党本部に中曽根、二階堂幹事長、田中六助政調会長他党の最高顧問会議の面々(岸・三木・福田・鈴木)が集まる。

 12.24日、自民党、田中角栄の影響排除の党声明を発表。中曽根首相が総選挙惨敗で4項目の総裁声明。「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」を盛り込む。

 12.27日、公明党、民社党を巻き込んだ自民党副総裁二階堂進政権幻に終わる。→中曾根首相、「角影」絶つと声明。

【第2次中曽根内閣発足】
 12.26日、第二次中曽根内閣組閣。12.27日、第2次中曽根内閣発足。内閣は新自由クラブとの連立政権としてを発足。官房長官・藤波孝生、幹事長を田中派から鈴木派に。幹事長・田中六助(鈴木派)、総務会長・金丸信(田中派)、政務調査会長・藤尾正行(福田派)。ロッキード事件第1審判決後の衆議院選挙で自民党は3度目の過半数割れ。党内では批判が相次ぎ『いわゆる田中氏の政治的影響を排除する』と総裁声明を出した。

 中曽根首相は新自由クラブと院内統一会派「自由民主党・新自由国民連合」を結成し、自治大臣のポストを一つ譲って連立政権をつくることで、この難局をしのぎ切った。新自由クラブの8人の加入によって、「自民党・新自由国民連合」は267議席となり、安定多数を確保した。

 自民大敗で過半数割れした83年衆院選では中曽根康弘首相が非主流派の退陣要求をはね付けて政権を維持。86年に衆参ダブル選挙に打って出て圧勝し、長期政権につなげた。

 12.26日、ミニ新党グループ、院内会派「参議院の会」結成(美濃部亮吉)。
 12.27日、衆議院院内会派「新自由クラブ民主連合」解消
 社会党第48回党大会(石橋政嗣委員長・田辺誠書記長)






(私論.私見)