第44部 | 1982年当時の主なできごと.事件年表 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
2002.10.20日 れんだいこ拝 |
1.26 | ロッキード事件全日空ルート一審判決。全日空社長若狭得治に懲役3年、執行猶予5年。ほか全日空幹部5人も有罪。若狭だけ起訴。 |
1.29 | 参議院議員・堀江正夫が田中派に入会、田中派は109名になる。 |
5.19 | 通常国会を94日間延長。 |
6.1 | 中国の趙紫陽首相来日、目白邸を訪問。 |
6.8日、ロッキード事件全日空ルート政治家判決。橋本登美三郎懲役2年6ヶ月、執行猶予3年。佐藤孝行懲役2年、執行猶予3年。両被告控訴。判決文には二階堂進らを灰色高官と明記していた。
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7.21 | ロッキード裁判丸紅ルート第172回公判で、弁護側が職務権限で反証。 |
7.26 | 教科書問題起こる。 |
【田中・中川会談】 | |
夏頃、、科学技術庁長官・中川氏が軽井沢に居た田中角栄を訪ね、中川の自民党総裁への立候補如何を打診した。「オヤジさん、池の鯉は跳ねちゃ駄目か」と伺いを立てる。角栄は、次のように述べたと伝えられている。
巷間で、「跳ねる(出馬)はいいが、池から飛び跳ねて帰ってこれなかったらスルメになってしまう」。 |
8.31 | 自民党総裁選に科学技術庁長官・中川一郎が決意表明。 |
9.6 | 経済企画庁長官・河本敏夫も総裁選出馬の意向表明。 |
9.6 | ニクソン元米大統領、目白邸訪問。 |
9.26 | 鈴木首相が、中国を訪問。 |
【鈴木首相辞意表明、総裁予備選に突入】 |
10.12日、鈴木首相が突然辞意表明「次期総裁選に出馬しない」と発表した。鈴木再選は確実といわれていただけに、まさに寝耳に水の辞意であった。鈴木首相の指名権は、鈴木・二階堂・福田の三者協議の場に預けられ、後継総裁のイスをめぐって暗闘となる。中曽根康弘・安部晋太郎・河本敏夫・中川一郎の四候補を待たせて延々と続けられた三者協議の結論は、「首相は中曽根、総裁は福田」。候補者でもない福田の名が突然出てくる奇妙な提案。これを中曽根が蹴って、総裁予備選に突入する。「中曽根総理.福田総裁」案を呑んだ福田、拒否した中曽根。 |
【鈴木首相辞意表明、総裁予備選に突入】 |
10.16日、自民党総裁予備選告示。中曽根、中川、河本、安部の4名が届け出。10.23日、中曽根康弘.河本敏夫.安部晋太郎.中川一郎の4名が立候補し、自民党総裁公選予備選スタート。中曽根氏が田中・鈴木・中曽根派に推され優位に立った。当時の最大派閥・田中派の有力幹部の間で論争があった。「あんなオンボロ神輿(みこし)を担げるか」と難色を示したのが金丸信。。「ボロ神輿なら修繕して担げばいい」と反論したのは後藤田正晴だった。 |
11月、高野孟(はじめ)「ロッキード事件に表れた日米支配層の暗闘」(「月刊社会党」12月号)。
11.24日、自民党予備選が東京晴海の東京国際貿易センターで行われた。結果は、中曽根(559,673票、57.62%)、河本(265.078票)、安倍晋太郎(80.443票)、中川(60.041票)の順となり中曽根康弘が総裁予備選で圧勝。河本以下三候補の本選挙辞退のにより、臨時党大会で中曽根康弘総裁を満場一致で承認。中曽根が第11代自民党総裁に指名される。 中川一郎は、「世界で強い政治家はレーガン、サッチャー、それに中川一郎」と訴えるも、最下位に。わずか1か月半後に変死(享年57)した。“将来の総理候補”と呼ばれた息子の昭一も56歳で早世した。 |
【第1次中曾根内閣が発足】 | |
11.25日、自民党臨時大会が日比谷公会堂で開かれ、中曽根が第11代の自民党総裁に選出された。11.26日、衆参両院で首相指名選挙があり、中曽根が首相に選出された。11.27日、第1次中曾根内閣が発足。「仕事師内閣」をうたった。 首相・中曽根康弘、官房長官・後藤田正晴(田中派)、幹事長・二階堂進(田中派)再任、総務会長・細田吉蔵(福田派)、政務調査会長・田中六助(鈴木派)。大蔵大臣・竹下登、建設大臣・内海英男、厚生大臣・林義郎、自治大臣・山本幸雄、環境庁長官・梶木又三。法務大臣・秦野章、「灰色高官」加藤六月は国土庁長官。総裁派閥以外から官房長官が起用されたのは第2次佐藤内閣以来となった。 ロッキード灰色高官加藤六月が入閣、田中派が法務大臣を含め閣僚7ポストを占めていた。反対に、中川派は冷遇された。中川が強く押した古屋亨・氏は入閣を拒否され、予備選で党員名簿の公開など中曽根当選戦略を推進した総裁選選管委員長で中川派幹部の長谷川峻が運輸相に抜擢された。「中川は、派閥の親分としての顔に泥を塗られた」。 この人事に関して、田原総一朗氏の「法王の恐怖政治」(月刊「諸君」、2002.5月号)で次のように中曽根首相自身が述べていることが注目される。
11.27日付け新聞各紙は、「ロッキード潰し内閣」・「田中曽根内閣」、「角影」、「角拡散」、「角噴射」等々あらゆる批判のレッテルを貼った。11.27日の朝日新聞では、三面の大部分を割いて、石川真澄、松下宗之、国正武重の三人の政治部記者の対談記事を掲載し、「新閣僚の顔ぶれはいくら何でもひどすぎる。田中丸がかえ内閣だ」と決め付けていた。加えて、「過渡的なつなぎで、首相使い捨てが普通になった」と嘆いている。しかし、つなぎの筈の中曽根内閣は5年間続き、佐藤栄作の7年8ヶ月、吉田茂の通算7年に次ぐ戦後3番目の長期政権となる。厚顔で鳴るマスコミの見識が疑われるところであるが、この件に関しての口拭いは昔も今も変わらない。 |
12.9 | 参議院議員・梶原清が田中派に入会、田中派は110名になる。 |
12.22 | ロッキード丸紅ルート第183回公判。裁判所が田中被告の被告人質問を行い、事実審理終了。この時田中は全面否認し、次のように質問に答えている。
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「(1950年代の半ばに)党内には自由主義、分散主義、個人主義、敗北主義、清算主義の傾向や潮流が新しくあらわれた。過去の誤りへの批判の自由ということで、党内問題は党組織の内部で討議・解決するという原則から外れ、党の民主集中制や自覚的規律を無視する傾向は、党内外に様々な形で現われた」。 |