第44部 1982年当時の主なできごと.事件年表



 鈴木善幸首相。

 (最新見直し2014.06.16日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2002.10.20日 れんだいこ拝


1.26  ロッキード事件全日空ルート一審判決。全日空社長若狭得治に懲役3年、執行猶予5年。ほか全日空幹部5人も有罪。若狭だけ起訴。

1.29  参議院議員・堀江正夫が田中派に入会、田中派は109名になる。

 1月、動労が、国鉄当局の意向に沿う形で「国鉄問題に関する動労の考え方」を発表。「職場と仕事を守るために働き度を高める」という「働こう運動」を打ち出した。これにより労使協調路線を指針させた。これが、「動労の民営化対応」であった。1983年、動労カは、「83年・我々の組織的課題」と題する文書を発表し、総学習運動を展開する。これによれば、概要「国労からの『産報化労使協調路線』とか『資本の軍門に下った動労』であるとかの誹謗中傷を非難し、情勢を無視して唯我独尊的に原則主義を押し出し、戦術を引き回すことに断固対決する」としている。結果的に、「冬の時代だ。総評労働運動は終焉した」との観点から、国労解体運動に乗り出したことになる。
 2.4日、社会党第46回定期大会。委員長飛鳥田一雄。副委員長に石橋と馬場昇を起用。この時、民社党は佐々木良作委員長。
 2.6日、反核・軍縮・平和のための東京行動。
 2.9日、日本航空機、DC8機長の「逆噴射」で着陸寸前に羽田で墜落。
 4.1日アルゼンチン軍,英領フォークランド諸島武力占領。
 5月、趙紫陽総理が訪日。日中関係3原則(平和友好、互恵平等、長期安定)を提起。
5.19  通常国会を94日間延長。

 5.23日、衆議院本会議で軍縮決議案採択。
 5.27日、ロッキード事件全日空ルートの橋本登美三郎・佐藤孝行に一審有罪判決。
 5月、第2臨調(臨時行政調査会)の第4部会で、国鉄の分割・民営化、電電公社、専売公社の民営化が打ち出された。国鉄問題に関して、「国鉄の分割・民営化」と新経営形態移行までの「緊急11項目」を発表、「職場規律の確立」、「私鉄並みの生産性」、新規採用停止、外注化、あらゆる手当の削減、既得権剥奪(はくだつ)等々を指針させた。
6.1  中国の趙紫陽首相来日、目白邸を訪問。

 6月、臨時行政改革推進審議会が設置され、経団連前会長で第二次臨時行政調査会の会長を引き受けていた土光敏夫氏が引き続き会長に任命された。81年度の国債発行額は12兆8999億円で、うち赤字国債は5兆8600億円であったのが、82年度には国債発行額が14兆447億円、赤字国債が7兆87億円と膨らんでいた。85年度からは国債の償還が本格的に始まることになっており、「財政再建」策が焦眉の課題になりつつ有った事情を反映していた。
 6.6日、フランスのベルサイユで第8回先進国首脳会議。

 6.8日、ロッキード事件全日空ルート政治家判決。橋本登美三郎懲役2年6ヶ月、執行猶予3年。佐藤孝行懲役2年、執行猶予3年。両被告控訴。判決文には二階堂進らを灰色高官と明記していた。

 田中の地元秘書本間は次のように述べている。

 「お二人がクロになろうがシロになろうが、越山会には全く関係がありません。田中がこれでクロに近づいたとするのはマスコミだけです。田中のシロは不動です」。

 6.8日、第二回国連軍縮特別総会(社民連からは田・阿部が出席)。
 6.14日、英・アルゼンチン両国が停戦を発表。
 6月、高校教科書の検定で、日中戦争など過去の日本の行為が「侵略」から「進出」に書き換えさせられた、との報道が為され(後日、事実誤認と判明)、中韓が「史実の歪曲だ」と抗議。宮沢喜一官房長官が、「近隣諸国との友好親善の観点に立ち、政府の責任で教科書の記述を是正する」と言明。文部省は、検定基準にアジア諸国との歴史的関係に配慮するよう求める条項を追加した。
7.21  ロッキード裁判丸紅ルート第172回公判で、弁護側が職務権限で反証。

7.26  教科書問題起こる。

 戦後党史(二)【ミニ第C期】  以降82年に宮本が党名誉議長に就任して以降志位書記長が誕生するまでの間を戦後党史二期の【ミニ第C期】となる。
 
 7月、共産党第十六回大会(宮本顕治議長・不破哲三委員長)。宮本委員長が議長に就任。これにより野坂議長が名誉議長となった。不破が書記局長から委員長に昇格した。宮本.袴田.戎谷春松.高原晋一.岡正芳.松島治重.蔵原惟人.米原。出席するが発言はしない。全て宮本議長の意見に賛成。野坂名誉議長。
 7.30日、第2次臨時行政調査会(第2次臨調、土光敏夫会長)が行政改革に関する第三次答申。1・国鉄、電電、専売の分割民営化、2・行政機関の統廃合、3・増税無き財政再建を建議した。
 7月、中国の外務省が、日本の教科書検定に抗議。
【田中・中川会談】
 夏頃、、科学技術庁長官・中川氏が軽井沢に居た田中角栄を訪ね、中川の自民党総裁への立候補如何を打診した。「オヤジさん、池の鯉は跳ねちゃ駄目か」と伺いを立てる。角栄は、次のように述べたと伝えられている。
 概要「飛び上がるのは自由だ。しかし、池に戻ればともかく、池のほとりの草むらに落っこちるならともかくも、カンカン照りの砂利道に落ちたら日干しになってしまう。鯉の日干しならまだしも、熊の日干しなんて誰も食わんぞ。お前はまだ若いんだから、まず北海道を平定して、北海道の総大将として出て来い。無理すると、借金で首が廻らなくなるぞ」。

 巷間で、「跳ねる(出馬)はいいが、池から飛び跳ねて帰ってこれなかったらスルメになってしまう」。

 7.31日、比例代表制採用の参議院全国区改正案成立(08/24公布)。
 8月、【教科書検定問題で、中国と韓国が反発】呉学謙中国外交部副部長が日本大使と会見、文部省検定教科書の中にある日本軍国主義の中国侵略の歴史を改ざんした誤りを正すために必要な措置を講じるよう日本政府に再度要求。
 8.18日、社民連第二十回拡大運営委員会(田英夫、参議院東京地方区で出馬へ)。
 8.19日、参議員比例代表制法が成立。公選法が改正された。参議院全国区が廃止され、拘束名簿式比例代表制が採用された。この制度は、候補者個人の名前でなく政党名(確認団体名)で選ばれ、確認団体が提出した名簿の上位から順に当選者を出していくという方式である。従っていかに名簿の上位にランクされるかが当落の鍵ということになった。選挙制度始まって以来、初めての「個人名でない投票」が行われることになった。
8.31  自民党総裁選に科学技術庁長官・中川一郎が決意表明。

9.6  経済企画庁長官・河本敏夫も総裁選出馬の意向表明。

9.6  ニクソン元米大統領、目白邸訪問。

 9月、鈴木善幸首相が訪中、(北京政協礼堂で)日中国交正常化10周年記念講演。
 9月、中日国交正常化10周年祝賀中国訪日代表団が訪日。
 9.12日、中共第12期1中総会で総書記に胡耀邦,党軍事委主席にトウ小平選出。
 9.24日、閣議、行革大綱決定。
9.26  鈴木首相が、中国を訪問。

 10.6日、福田元首相が、「首相は国民の信頼がない」と発言→河本・中川両派が同調。
 10月、第1回中日民間人会議が東京で開催。中国側より王震前副総理、王炳南対外友好協会会長らが出席。
【鈴木首相辞意表明、総裁予備選に突入】
 10.12日、鈴木首相が突然辞意表明「次期総裁選に出馬しない」と発表した。鈴木再選は確実といわれていただけに、まさに寝耳に水の辞意であった。鈴木首相の指名権は、鈴木・二階堂・福田の三者協議の場に預けられ、後継総裁のイスをめぐって暗闘となる。中曽根康弘・安部晋太郎・河本敏夫・中川一郎の四候補を待たせて延々と続けられた三者協議の結論は、「首相は中曽根、総裁は福田」。候補者でもない福田の名が突然出てくる奇妙な提案。これを中曽根が蹴って、総裁予備選に突入する。「中曽根総理.福田総裁」案を呑んだ福田、拒否した中曽根。

【鈴木首相辞意表明、総裁予備選に突入】
 10.16日、自民党総裁予備選告示。中曽根、中川、河本、安部の4名が届け出。10.23日、中曽根康弘.河本敏夫.安部晋太郎.中川一郎の4名が立候補し、自民党総裁公選予備選スタート。中曽根氏が田中・鈴木・中曽根派に推され優位に立った。当時の最大派閥・田中派の有力幹部の間で論争があった。「あんなオンボロ神輿(みこし)を担げるか」と難色を示したのが金丸信。。「ボロ神輿なら修繕して担げばいい」と反論したのは後藤田正晴だった。

 11月、高野孟(はじめ)「ロッキード事件に表れた日米支配層の暗闘」(「月刊社会党」12月号)。


 11.10日、ブレジネフ・ソ連書記長死去(11.12,後任にアンドロポフ政治局員)。
 11.15日、上越新幹線(大宮−新潟)(「角栄新幹線」)開通。新幹線で新潟入りした角栄は、「これで新潟の産業は力を持つ。生産力は5倍、10倍に増えるだろう」とコメントしている。
 11.24日、自民党予備選が東京晴海の東京国際貿易センターで行われた。結果は、中曽根(559,673票、57.62%)、河本(265.078票)、安倍晋太郎(80.443票)、中川(60.041票)の順となり中曽根康弘が総裁予備選で圧勝。河本以下三候補の本選挙辞退のにより、臨時党大会で中曽根康弘総裁を満場一致で承認。中曽根が第11代自民党総裁に指名される。

 中川一郎は、「世界で強い政治家はレーガン、サッチャー、それに中川一郎」と訴えるも、最下位に。わずか1か月半後に変死(享年57)した。“将来の総理候補”と呼ばれた息子の昭一も56歳で早世した。

【第1次中曾根内閣が発足】
 11.25日、自民党臨時大会が日比谷公会堂で開かれ、中曽根が第11代の自民党総裁に選出された。11.26日、衆参両院で首相指名選挙があり、中曽根が首相に選出された。11.27日、第1次中曾根内閣が発足。「仕事師内閣」をうたった。

 首相・中曽根康弘、官房長官・後藤田正晴(田中派)、幹事長・二階堂進(田中派)再任、総務会長・細田吉蔵(福田派)、政務調査会長・田中六助(鈴木派)。大蔵大臣・竹下登、建設大臣・内海英男、厚生大臣・林義郎、自治大臣・山本幸雄、環境庁長官・梶木又三。法務大臣・秦野章、「灰色高官」加藤六月は国土庁長官。総裁派閥以外から官房長官が起用されたのは第2次佐藤内閣以来となった。

 ロッキード灰色高官加藤六月が入閣、田中派が法務大臣を含め閣僚7ポストを占めていた。反対に、中川派は冷遇された。中川が強く押した古屋亨・氏は入閣を拒否され、予備選で党員名簿の公開など中曽根当選戦略を推進した総裁選選管委員長で中川派幹部の長谷川峻が運輸相に抜擢された。「中川は、派閥の親分としての顔に泥を塗られた」。

 この人事に関して、田原総一朗氏の「法王の恐怖政治」(月刊「諸君」、2002.5月号)で次のように中曽根首相自身が述べていることが注目される。

 「田中曽根内閣」と烙印が付けられたことに対して、「あれは、実は私の内閣の手法だったのです」と語り、「なぜ田中派が多くなったのか、理由は明快で、最大派閥の田中派は人材が豊富で、圧倒的に仕事師が揃っていたのです。例えば官房長官は自派から起用するのが慣例になっていたのを、私のほうから後藤田君に頼んだのです。内閣の最大の課題である行財政改革を敢行するに当たって、各省の抵抗、つまり官僚の抵抗をうまく抑えられるのは彼しかいないと読み、大仰でなく後藤田君に私の政治生命を預けたのです」。

 11.27日付け新聞各紙は、「ロッキード潰し内閣」・「田中曽根内閣」、「角影」、「角拡散」、「角噴射」等々あらゆる批判のレッテルを貼った。11.27日の朝日新聞では、三面の大部分を割いて、石川真澄、松下宗之、国正武重の三人の政治部記者の対談記事を掲載し、「新閣僚の顔ぶれはいくら何でもひどすぎる。田中丸がかえ内閣だ」と決め付けていた。加えて、「過渡的なつなぎで、首相使い捨てが普通になった」と嘆いている。しかし、つなぎの筈の中曽根内閣は5年間続き、佐藤栄作の7年8ヶ月、吉田茂の通算7年に次ぐ戦後3番目の長期政権となる。厚顔で鳴るマスコミの見識が疑われるところであるが、この件に関しての口拭いは昔も今も変わらない。

 中曽根首相は、首相就任初の施政演説で、「戦後政治の総決算」を謳い、「戦後政治を総合的に見直し、21世紀に向かっての基本的路線を策定する」と強く表明した。その意味するところは次のようなものであった。「一本の柱は、吉田政治からの脱却でした。私に云わせれば、エセ一国平和主義ですよ。憲法改正・防衛軍創設などを求める鳩山一郎や三木武吉、河野一郎などに対抗するためでもあり、日本弱体化を狙っていたアメリカの政策にともかく迎合するのが得策と考えたこともあるでしょう。国家像の構築や安全保障は棚上げして経済重点主義に走った。それが結果として国民精神を歪めて、国民の中に国家意識が無くなってしまった。池田さん、佐藤さん、角さんと、いずれも吉田路線を踏襲した。私はその路線から脱却して、新しい国家像を構築し、歴代首相が逃げ腰だった防衛問題に真っ向から取り組むことにしたのです」、「はっきり云えば、マッカーサーの占領政策がそのまままかり通ってきて、国際的には常識である防衛問題を論じることがタブーになっていた。私はそれを叩き壊そうとしたのです」(田原総一郎「『法王(れんだいこ注-田原氏は角栄のことを指している)』の恐怖政治」月刊諸君2002.5月号)。
 中曽根は、政権を手中にしたときのことを後に次のように回顧している。「艱難辛苦の末、ようやく手に入れた政権である。その権限をあますところなく駆使して、思い残すことのないようにやる決意である。政権とはいったん手に入れたら後はこちらのもので、公器を預かる者として歴史の審判を受けるのみである」(学研「実録首相列伝」の「中曽根康弘」の項)。
 83年度予算案では、一般歳出がマイナスの中、防衛費だけは6.5%の突出、聖域化を強めた。
 11.30日、結党以来のメンバー・秦豊氏が社民連を離党。
 12.14日、全国民間労働組合協議会結成。
12.9  参議院議員・梶原清が田中派に入会、田中派は110名になる。

 12.17日、社会党第四十七回大会、平林剛書記長を選出。

 12.20日、それまでバラバラに分かれていた美濃部亮吉・中山千夏・青島幸男・横山ノック・八代英太、社民連を離党した秦氏らが比例代表制に備えて参議院新会派「無党派クラブ」を結成した。
12.22  ロッキード丸紅ルート第183回公判。裁判所が田中被告の被告人質問を行い、事実審理終了。この時田中は全面否認し、次のように質問に答えている。
 「いやしくも現職の内閣総理大臣に対して、『成功したら報酬を差し上げる』などといったとしたら、言語道断であり即座に退出を求めたはずです。政治家の第一歩は、いかなる名目でも第三国人からせ維持献金を受けてはならない、ということです。5億円授受は全くありません。事実上も、職務上もございませんっ」。

 12月、700ページに及ぶ党史「日本共産党の60年」が刊行された。この中で、次のような記述が加えられた。
 「(1950年代の半ばに)党内には自由主義、分散主義、個人主義、敗北主義、清算主義の傾向や潮流が新しくあらわれた。過去の誤りへの批判の自由ということで、党内問題は党組織の内部で討議・解決するという原則から外れ、党の民主集中制や自覚的規律を無視する傾向は、党内外に様々な形で現われた」。 

 この槍玉に挙げられたのが当時副委員長の上田耕一郎、幹部会委員長の不破哲三(上田健二郎)兄弟の1956年の著作「戦後革命論争史」(大月書店)だった。両名は、翌年の8月号前衛に自己批判文を載せることになる。




(私論.私見)