【1980年当時の主なできごと】 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
2002.10.20日 れんだいこ拝 |
1.22日、共産党の不破哲三書記局長が、赤旗で社・公合意を批判した。
2.6日、共産党系の統一戦線促進労組懇談会は、総評大会で、社・公合意を盛り込んだ春闘方針案に異議を唱え、社・共対決ムードが高まった。
3.6日、自民党の浜田幸一のラスベガス賭博事件が発覚しました。
4.1日、社会党の多賀谷真稔書記長が、社会新報で共産党への反論を開始した。
4.10日、ラスベガス賭博事件で、自民党の浜田幸一代議士が議員辞職した。
4.25日、日本政府が、日本オリンピック委員会にモスクワ五輪不参加を勧告。5.24日、不参加を決定。
【ハプニング解散】 | ||||||||||||||||||||||
5.16日、社会党がパフォーマンスの意味合いが強い内閣不信任決議案を提出したところ、自民党反主流派の福田と三木の両派の69名が公然と造反し欠席したことにより可決されるというパブにングとなった。こうして大平内閣の不信任案が可決された。内訳は、賛成243(社会党103票、公明党58票、共産党41票、民社党35票、新自ク3票、社民連2票、無所属1票の全野党)、反対187(自民党183票、無所属4票)で56票の大差であった。自民党の議席は257であるから、自民党議員が全員反対すれば可決されるはずがなかったが、反主流派の約70名が本会議を欠席したため生じたハプニングであった。 1980(昭和55).5.16日、当の野党も驚き、民社党の春日一幸委員長は、「切れない鋸を自分の腹に当てやがって」と野党の未熟ぶりを嘆いたと伝えられている。大平首相は衆議院解散に踏み切り(ハプニング解散)、総選挙を参議院選挙の日に合せて行うという初の衆参同日選挙という秘策で政局乗り切りを図った。 大平政権は、国政史上初の「衆・参両院同日選挙」の実施という非常手段に訴えて、国民の信を問う勇断を下した。投票日は6.22日に設定され、各党、派閥が選挙態勢に突入した。 5.17日、佐藤昭子証言によれば、大平から角栄に電話が入る。大平は、「兄貴、兄貴、どうしよう。どうしたらいいんだろう」と述べ、角栄は、「君は座して死ぬつもりか。解散だ、解散だ。打って出るんだ」と叱咤したと云う。5.20日、6.22日の衆参同日選挙を決定。 |
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この時の造反組は以下の通り。
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5.24日、共産党の官本顕治委員長が、「民主連合政府の当面の中心政策」を発表した。
6.4日、社会党の飛鳥田一雄委員長は、神戸市で「国民共同の緊急・民主主義政府」の樹立を提唱した。
6.5日、公明党の竹入義勝委員長は、福岡市で連合政権の「政治原則と基本的政策の大綱試案」を発表した。
【大平首相急死】 | ||
6.12日、大平首相が心筋梗塞で急死した。この間、娘婿の森田一が付ききり、「角さんに会いたい」を受け連絡をとる。地元新潟で遊説中の角栄は直ちに帰京した。虎ノ門病院から棺が到着した頃、角栄が現われ、立ちすくんだまま大平の遺体に向かって号泣したとの証言が為されている。「殉職だ」と繰り返したと伝えられている。
伊東正義官房長官が臨時首相代理を務める。 |
6.16日、民社党の佐々木良作委員長は、福井市で、事実上の自・社・公・民の大連合を提唱した。
6月、華国鋒総理が大平首相の逝去に弔電、日本大使館へ弔問。
【第36回総選挙】 |
6.22日、史上初の衆参同時選挙(第36回衆議院、第12回参議院)が行われた。衆議院は、自民284、社会107、公明33、民社32、共産29、新自ク12、社民連3、無所属11となった。菅直人が初当選している。第12回参議院選挙は、自民69、社会22、公明12、共産7、民社6、諸派2、無所属8名となった。非改選を含め、自民135、社会47、公明26、民社12、共産12、社民連3、新自ク2、諸派2、無所属13が新しい議員構成となった。自民党は、衆院で284(36増)、参院で69(11増)。自民党田中派系は100の大台に乗る大勝、2位の鈴木派も82名となり安定多数を獲得した。その後の保守系無所属の追加公認と参議院の非改選議員を加えた現有議席では衆議院286議席、参議院136議席と、衆・参両院にわたり安定過半数の体制を確立した。角栄の政略と決断が功を奏し、福田・三木の党内での影響がそがれる形になった。
社民連は、衆議院選挙に、山形二区・阿部昭吾、東京七区・菅直人、神奈川一区・田上等、滋賀全県区・瀬津一男、福岡一区・楢崎弥之助を立てた。楢崎・阿部に加えて菅直人が当選した。管氏は、東京七区でトップ当選。参議院選挙は、秦豊が投票日当日民社党の向井長年氏が急逝したための繰り上げ当選。東京地方区は宇都宮徳馬が当選、加藤清政は落選と明暗を分けた。 |
【鈴木内閣発足】 | |
7.17日、意外な候補であった鈴木善幸が急浮上、第10代自民党総裁に話し合い選出された。首相指名され、鈴木内閣発足。(『直角内閣』−解散権行使せず)官房長官・宮沢喜一、二階堂進総務会長、安倍晋太郎政調会長。法相に奥野誠亮、外相に伊藤正義、蔵相に渡辺美智雄、通産相に田中六助、厚相に斎藤邦吉、経済企画庁長官に河本敏夫、中曽根康弘行管庁長官、中川一郎科学技術庁長官。 「直影内閣」と揶揄されたが、この時角栄は側近に次のように述べたことが伝えられている。
和の政治を提唱。大平内閣以来の行政改革と財政再建を課題とした。80年の国債残高は70兆5098億円、国債異存率は32.6%に達していた。翌81年には82兆円を突破することになる。 鈴木は、元々社会党公認候補で衆院初当選1947年、田中と同期である。49年に吉田茂率いる民自党に鞍替えし、その後自民党総務会長を9期務めていた。 7.18日、衆議院議院運営委員会、衆議院航空機輸入調査特別委員会を、「全員一致の原則」を破り、採決で廃止を決定。 |
8.15日、革マル派がヘゲモニーを持つ動労が呼びかけた「右再編」粉砕集会に向坂派、日共のそれぞれの一部が参加し、7000名が集まる。但し、その後、向坂派と日共の足並みが乱れ始める。
8.15日、鈴木内閣は、「徴兵制は憲法違反」とする答弁書を決定した。
8.27日、法相の奥野誠亮は、衆院法務委で「自主憲法制定への議論が国民の間から出るのは望ましい」と発言し、改憲論議に弾みをつけた。
8月、竹下登自民党選挙制度調査会長。
【伊藤律帰国】 |
8.23日、新聞各紙の夕刊は、一面トップで、伊藤律の生存ニュースを報じた。 8.30日、党中央は、「伊藤律の帰国を廻る問題について」と題する広報部発表をしている。概要「日本共産党中央委員会が、伊藤律の身柄を中国側に預かってくれと依頼した事実はありません。伊藤律への措置は、1950年の分裂の後、徳田球一を中心とした『一方の側』の『亡命者の政治集団』が、勝手にやったことで、伊藤律の帰国が今日の日本共産党に何らかの重大な影響を与えるかの如き論評は、まったく的外れのものです」としていた。 毎日新聞社編「伊藤律陰の昭和し」では、この間、伊藤律の息子の淳が北京に赴き、「スパイの濡れ衣を晴らす」ことに執念を燃やす律と、「今更古い話を蒸し返されるのは迷惑」と主張する淳との間で、綱引きが為されたと伝えられている。 9.3日、伊藤律帰国。密航以来29年ぶりの帰国であった。 伊藤律幽閉の当事者であった野坂は、「伊藤律の問題について」で苦しい弁明をしている。9.26日赤旗は、宮本の「戦後史における日本共産党」講演を掲載した。宮本は、この講演の中で伊藤律に触れて、「伊藤律は警察につかまっては警察の機嫌を取り(笑い)、また党に入っては家父長的な幹部の機嫌を取るというような点で、出色の才能をもっていた(笑い)」、「伊藤律はそのまわりで幹部の不和を煽ったり、おべんちやらをいって徳田書記長の誤りを助長した」と人格批判を繰り広げている。 こうした共産党中央の一連の対応の後、「伊藤律証言」が朝日新聞と週刊朝日に連載された。除名後27年間の沈黙を破る伊藤律自身の言葉が披瀝された。 |
【党中央側の伊藤律帰国対応】 |
9.11日、党本部で都道府県委員長会議が開かれ、宮顕委員長が、異例の公開で会議を取り仕切った。宮顕は、冒頭挨拶の中で次のように述べている。「伊藤律は明らかなスパイだった。数多い同志を売ったばかりでなく、特高とも連絡をしていた。除名は律の供述と十分な傍証をもって確認した。この発表についてはこの30年間、本人からの異議は受け取っていない。律がマスコミで大変な大物扱いされ、律の口次第で歴史が変わるかのように云われている。分裂の状況に乗じて律がうまく立ち回ったという点はあっても、律が党史の重要な曲がり角をつくりあげたものはない。我々は、党から除名された者を拘束する権限は一切無い。だから律の帰国にも介入していないし、今後の私生活を『平和な老後を過ごしたい』というなら、それも彼の勝手である」。 9.19日付け赤旗は、野坂参三議長の次のような声明を載せている。これまで公式的に伊藤律とは東京で別れて以来会ったことがないとしてきていた野坂が、伊藤律生還という事態に対して種々弁明している。そのハイライトは、「こうして西沢と私とは、『北京機関』内部の問題と同時に、今言ったような過去における彼の行動、特にゾルゲ事件に彼の発言、行動がきっかけをつくったというのが事実とすれば、これは重大問題だと考えました。そして、この際、伊藤律の問題を『北京機関』の問題として取り上げなければならない、ということを、私と西沢で決めました。その時は、徳田君のほうは脳溢血で倒れて、これには関与できない状態になっていました。そこで、周恩来など中国側の最高幹部とも協議して、伊藤律を『北京機関』から離し、別のところに住まわせて、十分に時間をかけ、深くこれらの問題を調査する必要があるという結論に、我々は到達したのです。これが1952年の10月ごろです。伊藤が北京に来てから、丁度1年目ぐらいです」、「私も1959年に中国の国慶節の為に短期間中国に行ったことがあり、その時、伊藤律がどうなっているか尋ねたことがありました。その時には中国側からは何の返事も無く、その後もありませんでした」。 1.24日(?)、党中央もすばやく反応し、記者会見して、無署名論文「歴史の真実と伊藤律の『証言』」(赤旗に3回連載)と野坂による「『北京機関』に関する伊藤律の『証言』について」論文を発表した。 |
10.15日、山口百恵引退。「曼珠沙華」。
10.28日、鈴木内閣は、「閣僚の靖国神社公式参拝は第20条との関係で問題がある」との答弁書作成した。ただし、閣内で反発が強まった。
11.17日、外相の伊東正義は、ECとの貿易摩擦問題について「豪雨型輸出」回避に努めると声明した。
【宮顕の自己賛美と上田・不破査問】 |
1980.11月、宮顕が、「文芸評論集第一巻」を発刊し、長大な「あとがき」で、戦前の自己のプロレタリア文学運動とその理論を、蔵原惟人批判、鹿地亘批判を含めつつ、全面正当化した。それによって、「プロレタリア文学運動」の「戦後的総括」を試みた。その流れの中で、1982年、上田・不破が査問され、その“一冊の本”を、イタリア共産党の「構造改革理論」の影響を受けた内容を一部持つときめつけた。そして、「お前たち2人は、26年前、自由主義、分散主義、分派主義の誤りを犯した」と断定した。 「あとがき」後、宮顕は、「もう、ぼくも文学に発言権ができた」と発言して、民主文学を中心に主要な論文や大会報告などを調べた結果として、文学運動は運動を推進する強力な機関車が必要であるが、今の文学同盟は、その機関車の役目をはたす理論活動が弱い。そのため、運動の高い峰が形成されず、裾野も広がらないことになると発言するようになった。宮顕委員長のこの種の発言は赤旗や文化評論などの党出版物に忠実に反映され、民主文学の理論活動が活発に行なわれるようになった。その結果、民主主義文学同盟が討論していた独自の方法の模索と多様化を批判するかのように、赤旗の文化欄で、民主主義文学とはなにか、現実をどうとらえるか、批評の基準はなにか、などというテーマがつぎつぎにとりあげられるようになった。この党的な批評の基準の押し付けに対して作家や評論家たちが反発した。党では、「第二の反動攻勢にたちむかう民主主義文学運動は日本の革新統一運動の一翼をになうものである」として、その中心になる共産党員の活動がえがかれなければならないとしていたが、文学同盟の作家や評論家たちの問題意識とはかなりずれていた。 |
12.12日、日米防衛首脳定期協議が開かれ、アメリカは、日本の防衛力増強を強く要請した。
12月、新自由クラブを離党した西岡武夫が自民党に復党した。