【1979年当時の主なできごと.事件年表】

 (最新見直し2011.02.11日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2002.10.20日 れんだいこ拝


 1.1日、米中が国交回復。米は台湾と断行、相互防衛条約を破棄。
 1.4日、大平首相が、一般消費税導入の構想を示唆。
【グラマン事件勃発】(「ダグラス・グラマン事件」
 1.8日、トーマス・P・チータム米グラマン社前副社長が、同社の早期警戒機(E2C)対日売り込みに関連して、疑惑の政治家名を明らかにして、岸、福田、松野、中曽根の4名を挙げた。捜査当局がダグラス・グラマン疑惑の解明に動くことになった。第二次ロッキード事件として大騒ぎとなった。

 1.9日、東京地検特捜部はこのダグラス・グラマン両社の航空機売りこみにからむ疑惑について法務省に米側資料の入手を要請、捜査を開始した。捜査の中心は、両社の販売代理店である日商岩井であったが、2月1日、グラマン疑惑の重要人物であり、東京地検に召還されていた日商岩井島田三敬(みつたか)常務が東京・赤坂のビルから飛び降り自殺し、捜査は難航する。

 1.11日、カンボジア人民共和国(ヘン・サムリン政権)樹立。
 1.14日、社民連全国代表者会議。

 1.17日、国際石油資本(メジャー)は、対日原油供給の削減を通告した。これを第2次石油ショックと云う。


 1.29日、防衛庁は、国後・択捉両島にソ連軍地上部隊の存在と基地建設の事実を公表した。


【グラマン事件国会審議】
 1.30日、通常国会再開。冒頭からダグラス・グラマン疑惑で荒れた。衆院ロッキード問題調査特別委員会が「航空機輸入調査特別委員会」と改称された。特別委員会は、ダグラス・グラマン疑惑はもちろん、民間機、航空機の売り込みにかかわる、すべての疑惑を調査することになった。野党は、岸・松野らの証人喚問を要求したが拒否した。日商岩井の植田三男社長、海部八郎副社長らが喚問となった。

 2.8日、衆院本会議、ダグラス・グラマン航空機疑惑究明を決議。

 2.9日から国会(衆院予算委員会)で疑惑解明の集中審議を開始。2.14日、衆議院予算委員会は、ダグラス・グラマン航空機不正取引疑惑で日商岩井の植田三男社長・海部八郎副社長らを証人喚問した。2.15日、衆議院予算委、ダグラス・グラマン航空機疑惑で5人を証人喚問する。防衛庁に強力な影響力を持つ岸信介元首相と太いパイプで結ばれた日商岩井の植田三男社長・海部(かいふ)八郎副社長らと松野頼三元防衛庁長官を証人喚問した。

 2.1日、保利茂衆院議長辞任。3.4日、死去。
 1月、国公立大で初の共通一次試験実施する。
 2月、鄧小平副総理が訪米後の帰国の途上、日本を2日間訪問し、大平正芳氏と会談。
【イラン革命政権樹立】
 2.12日、イラン革命政権樹立。1.16日、シャー・パーラビは国外から発せられるホメイニ師の演説に呼応する国民を抑えきれないと悟ると、時の首相シャープール・バフティヤールの進言でエジプトに亡命し王朝は崩壊する。2.1日、皇帝と入れ替わりにホメイニ師が帰国し、首相をメフディー・バザルガンに任命する。こうして国家元首が二人となり、帝国は真っ二つに割れる。ついに、革命派と皇帝派が戦闘に突入する。2.11日、帝国正規軍が中立を宣言するにいたり、勢いづいた革命派は宮殿を攻撃、ついに皇帝派は消滅する。

 4.1日、イラン・イスラーム共和国が成立し、ホメイニ師は最高指導者に就任する。これをイラン・イスラーム革命と云う。ホメイニ師は革命の輸出を唱え、周辺イスラーム諸国に影響を与える。これによりスーダンやアルジェリアでイスラームによる革命が発生する。

 このイラン革命によって、石油価格はアラビアン・ライトの公式販売価格によると、一バレル当たり12.7ドルと74年以来ほぼ横ばい水準であったのが、79年末には24ドルと倍増、80年にかけて段階的に大幅な追加引上げが行われ、81年末には34ドルと2.7倍の引上げとなった。スポット価格は79.1月に15ドルであったのが6月には37ドル、11月には40ドルを越えた。原油価格の高騰は、進行中の国際商品価格の上昇とともに、再び世界経済にインフレの高進と不況をもたらした。

 2.17日、中国のベトナム侵攻開始。
 2月、6中総で、田口理論批判の強化を指令し、「分散主義との闘争」を全党に呼び掛けた。

 3.6日、成田知己死去。


 3.26日、エジプト・イスラエル平和条約調印。
 3.28日、米スリーマイル原発事故。

 4.2日、参院予算委で航空機疑惑集中審議最中のこの日、東京地検は、海部八郎日商岩井副社長を外為法違反容疑で逮捕する。この時、伊藤栄樹法務省刑事局長(1925年2月名古屋市の生まれ。学徒出陣で海軍に入隊。戦後の司法修習生の1期生で、1949年に検事任官。東京地検特捜部検事、法務省人事課長、東京地検次席検事、法務省刑事局長、事務次官、東京高検検事長などを経て、1985年12月に検事総長に就任。1988年3月24日、病気のため任期を約2年残して退官した)は、「捜査の要諦(ようてい=肝心なところはすべからく、小さな悪をすくい取るだけでなく、巨悪を取り逃がさないことにある。もし、犯罪が上部にあれば徹底的に糾明し、これを逃さず、剔抉(てっけつ=あばき出すことしなければならない」と述べ、政界中枢への波及を示唆した(「巨悪を逃さず」はこの年の流行語なる)。


 4.3日、中国が、中ソ友好同盟相互援助条約の廃棄を通告。
 4月、鄧頴超全人代常務委副委員長が全人代代表団を率いて訪日。京都嵐山の周恩来詩碑除幕式が鄧頴超氏出席の下で挙行。
 4.8日、第9回統一地方選挙。知事選は、東京・鈴木俊一、大阪・岸昌が当選、保守系が勝利。
 4.11日、ロッキード裁判丸紅ルート第70回公判。被告人質問始まる。大久保利春被告が「心に曇る金」、「贈賄は檜山の発意」などと供述。
 4.12日、周恩来夫人が、目白邸に角栄を訪問。
4.16日、検察側の総指揮官であった検事総長が定年で神谷尚男から辻辰三郎に交代した。神谷は「サヨナラ記者会見」で「検察の捜査力はまだまだ頼むに足る。私は事件途中で去るが、背後に検察の意気込みを感じながらやめるのはうれしい」との言葉を残した。
 4.30日、大平首相が訪米。5.2日、ワシントンで大平.カータート日米首脳会談。経済摩擦について協議した。5.7日、帰国。

 5.1日、東京地検が、航空機疑惑で松野頼三元防衛庁長官から事情聴取。


 5.11日、検察首脳会議は突如、「政治家の刑事責任追及は、時効、職務権限のカベにはばまれ断念する」ことを確認し、日商岩井の航空機売り込み不正事件で、検察が政治家の訴追を断念。5.15日、海部ら日商岩井関係者2人を起訴しただけで「捜査終結」宣言が行われた。5月15日、衆議院航空機輸入調査特別委員会は、元防衛庁長官の松野頼三を証人喚問した。東京地検は、ダグラス・グラマン疑惑の捜査終結宣言した。結局、同社から総額5億円を受け取った松野元防衛庁長官(79年7月に議員辞職。10月の総選挙でも落選)“灰色高官”として浮上しただけで、捜査中に明らかになったダグラス社と元首相のかかわりが示唆する内容が記されていた「海部メモ」に名前の出た岸信介元首相については、検察側の事情聴取もなく、また証人喚問すらなされず、捜査は79年5月に未解明のままで打ち切られた(刑事訴追を受けた政治家はゼロ)
 5月、中国外交部は日本が中国の領土釣魚島にヘリポート建設調査団と測量船を派遣したことについて駐中国日本大使館に遺憾の意を表明。
 5月、中川派が旗揚げ。「自由革新同友会」。
 5.24日、衆院航空特別委が、松野頼三元防衛庁長官を証人喚問。松野が衆議員の国会喚問に呼び出された。5.29日、参院。松野は、日商岩井から5億円受け取ったことを認めた。但し、松野は政治献金と主張した。7.25日、松野は国会議員辞職に追い込まれた(同年10月の総選挙で落選、翌80年6月の総選挙でカムバックする)。
 5.29日、社民連全国代表者会議。
 6.5日、大平首相が、全国銀行大会で「財政再建のため、一般消費税導入の検討は避けて通れない」と強調。
 6.6日、元号法案が参議院で可決され、元号法制化ガ実現シタ。新憲法施行に伴って法的根拠を失い、「事実たる慣習」(法制局見解)にとどまっていた元号が、これにより法的根拠を再建した。
 6.18日、米ソ,SALT2に調印(ウィーン)。
 6.24日、カーター大統領訪日。6.25日、東京で大平.カーター会談。
 6月、 78年末からのイラン革命の動きとこれを契機とする第二次石油危機の中で、テヘランの米大使館人質事件が発生した。この間、OPEC諸国は石油需給逼迫を好機と捉えて原油価格引上げを図り、その結果七九年中に原油価格は二倍以上に跳ね上がり、世界経済を大混乱に陥れた。日本はイラン制裁に同調せず、原油を大量に購入しつづけて米国の不信を買った。79年、80年には第二次石油危機の影響で巨額の経常赤字となった。
 6.28―29日、東京の元赤坂の迎賓館で第5回先進国首脳会議開催サレタ(東京サミット)。出席者の顔ぶれは、カーター米大統領、ジスカールデスタン仏大統領、・サッチャー英首相、シュミット独首相、アンドレオッティ伊首相、クラーク加首相、ジェンキンスEC委員長。各国別の石油輸入抑制目標を決定した「東京宣言」を採択しました。
 7.15日、日本共産党創立57周年記念日のこの日、東京で『日本共産党再建準備会議』が開催された。この会議の開催は日本共産党を革命的に再建する組織上に武器となった、とある。
 7.16日、新自由クラブ分裂(西岡武夫幹事長離党)。中道四党で選挙協力をしながら自民党を追い詰めようとする河野代表と新自クの目的は保守の刷新と主張する西岡武夫幹事長とが対立し、西岡氏が離党した。菊池・大成・大原の三議員も西岡に続き、新自クの衆議院の議席は17から13へと減った。
 7.17日、防衛庁が防衛力整備五ヵ年計画を発表した。これは1980年度から1984年度までの5カ年の防衛力整備計画の見積もりでアッタ。問題は、国防会議や閣議決定を経る事ナく決定.発表されたことにあつた。

 7.25日、元防衛庁長官の松野頼三が国会議員を辞任した。


 7.26日、防衛庁長官の山下元利は、現職長官として初めて韓国を訪問した。これを機に、防衛分野での日韓関係の親密化が進み、以後日韓軍事交流が一段と活発化した。


【党内民主主義を廻る田口―不破論争勃発】
 名古屋大学教授の田口富久治氏が党内民主主義への問題提起をしていくことになる。田口教授は共産党が65年に結成した「憲法改悪阻止各界連絡会議」(憲法会議)の代表幹事で、「先進国革命と多元的社会主義」を著し、その中で共産党が閉鎖的集団ではなく、国民に向かって“開かれた党”(新しい型の党)へ脱皮することが必要だと次のように力説した。

 概要「共産党が政権が握ると一党独裁になるとの危惧の念が国民の間に強いが、決して根拠がないわけではなく、既存の社会主義国の歴史的現実が示されているとおりだ。日本共産党は複数制を公約しているが、たとえ複数政党制がとられた場合でも、共産党が圧倒的な支配政党としての地位を確立すれば、他の政党が共産党をチェックする機能は著しく弱まることになりかねない。そうなれば支配政党である共産党の組織・運営が“一枚岩主義”では『支配政党の組織的質が国家体制の政治的質を規定』するのは避けられないので、党と国家との癒着による一党独裁の危険が生じる。したがって、日本共産党は一党独裁に陥らないことを国民に信用してもらうためには『自由と民主主義の宣言』で単に将来の決意表明をするだけでなく、今日ただいまから党内での少数意見尊重その他『新しい型の党』をめざして党改革を実行せねばならない」。

 「前衛」9月号に、田口氏の不破論文に対する反対大論文100P「多元主義的社会主義と前衛党組織論-不破哲三氏の批判に答える-」が発表された。この中で、田口氏は、新しい党のビジョンとして次の5項目を提示した。
①・党大会を党の最高意思決定機関とし、党大会は最大限に公開的なものにすること。
②・党大会では執行部原案に反対ないし修正意見が開陳されうるような制度的な保障がなされること。
②・党の各級指導機関は、党員の多様な意見を反映するように構成すること、公開制などの保障。
③・党の指導部の交替の政治的ルールの確立と明確化。
④・党内民主主義の制度的保障の一つとして、党機構内部へ「権力分立」原理を導入すること。具体的には、党指導機構と並んで、同じく党大会選出の党統制機構を設立し、これに前者と同等の権威と威信を与えること。
⑤・党内民主主義、少数意見の尊重の実質的保障。分派禁止の規定を党規約に存続させる場合、その補償、代償として少数意見の尊重を政治的・実質的に保障する事。

 7月、田中氏が田中派総会に出席。51.7月のロッキード逮捕以来、初の公式会合に出席したことになる。

 8.6日、社会党内の自主管理研究会議は、党の綱領的文書「日本における社会主義への道」を批判しました。これを「道」論争と云う。社会党内に「社会主義への道」論争起こる。


 8.14日、中道四党の党首会談が開かれた。新自クの河野代表が参加。
 8.30日、第88臨時国会召集。大平首相は型通リ所信表明を行い、その中で赤字国債解消による財政再建計画を訴えた。世に言う「一般消費税」の導入を次のように述べた。「赤字国債は、昭和59年までに解消する。その為には歳出削減に鋭意努力するが、それでもなおかつ財源が足りないようなら、国民各位のご理解を得て、新たなる負担をお願いせざるを得ない」。
 9月、大平首相の私的諮問機関「航空機疑惑問題等防止対策協議会」が再発防止策として政治資金規正法の見直しなど14項目を提言したが、自民党内からの反発で具体化できなかった。
 9.7日、大平・福田の抗争激化。衆院、野党提出の内閣不信任案を可決。大平首相が野党の不信任案を受け、解散権を行使し衆議院を解散。「一般消費税解散」と云われる。
 9.17日、総選挙公示。桜井新が「一新会」をバックに新潟3区から立候補する。
 9月、宮本顕治、都道府県委員長会議での発言。
 「今や、統一戦線結成の妨害者となっている社会党に対する厳しい批判が必要である。 社会党の裏切りに よって、革新自治体は音を立てて崩壊している。つい最近では東京の例がそれを物語っている。革新統一 戦線が結成されれば、保守勢力に大きな打撃を与えることが可能な時期に、社会党の不決断がその妨害となっている。今度の総選挙で、社会党は国民に対する泣き落とし戦術で現議席の防衛に懸命になっている。4 我々はこの社会党の弱腰にけりをつけ、「大阪、京都、横浜、そして東京の裏切りを反省せよ」のスローガ ンで、社会党の姿を国民大衆に大きく印象づける必要がある。社会党を徹底的に叩くことによって、「真の革新は共産党だけ」を全党組織を挙げて訴えよう」。

 9.30日、椎名悦三郎氏が死去。

 10.2日、防衛庁は、国後・択捉両島にソ連軍がミサイル配備をしていると発表した。


【第35回衆議院議員総選挙】
 10.7日、第35回衆議院議員総選挙。「自民248名(-1)、社会107名(―10)、公明58名(57)(+1)、共産41名(39)(+20)、民社36名(45)(+7)、新自ク4名(-9)、社民連2名(―1)、無所属19名当選」。選挙の結果は、「自民党微減、社会党敗北、公明党微増、民社党前進、共産党大躍進、新自ク惨敗、社民連後退」となった。

 自民党は、前回の1979年の衆院選の獲得議席249議席を僅かに下回る248議席。安定多数の270はおろか、過半数の256にも及ばず惨敗した。松野頼三氏落選。保守系無所属の追加公認を加えても258議席という不本意な結果に終わった。

 田中角栄がトップ当選。前回より約2万7000票減の14万1285票。桜井新は4万8315票で次点。この時、田中の「聖地」であった魚沼郡の票が桜井に2万5千票余、角栄票がそれより2600票少ないという「事件」となっていた。

 社会党は、10議席減の107議席。得票率でも一%下げ、はじめて二〇%を割り、長期低落傾向に歯止めかからず。共産党は、大幅に議席を伸ばしたが、得票率、得票数ともに伸びていない。

 社民連は、山形二区・阿部昭吾、東京二区・大柴滋夫、同四区・安東仁兵衛、同七区・菅直人、神奈川一区・田上等、京都一区・三上隆(無所属)、岡山二区・江田光子、福岡一区・楢崎弥之助の八人を立て、現職の大柴滋夫も含めて六人が落選。衆議院の議席は福岡一区の楢崎・山形二区の阿部の二議席のみとなってしまった。

 一般消費税問題で自民党単独過半数割る→福田・三木・中曾根派が選挙の敗北の責任を追及→政争40日=「40日間の抗争」

 大平政権は、54年に日本経済が本格的な景気の上昇軌道に乗ったのを見さだめると、同年十月の総選挙では、大胆にも「新たな負担」の是非を国民に問い、また55年度予算では、徹底的な歳入・歳出の見直し等によって、公債発行額を1兆円減額し、財政の公債依存度を33・5%に引き下げるなど、懸命の努力を続けた。

 この間、党組織を飛躍的拡充させ、福田前総裁時代の150万党員・党友の獲得に引き続き、「300万党員獲得運動」、「組織整備三カ年計画」、「党員研修3カ年計画」など、党下部組織の量的・質的拡充に党をあげて取り組んだ。その結果、55年1月には、登録党員数は310万6703名、党友たる自由国民会議の会員数は10万7073に達し、党の裾野を広げた。
【「自民党40日間抗争」に突入」】
 10.9日、自民党反主流派が、総選挙敗北で大平総裁の責任追及へ。「40日抗争」始まる。田中前首相が、大平首相全面支援。三木元首相が「政治責任にケジメを」と大平辞任を要求。自民党は、この日から11.20日の大平内閣の本格的発足までの約40日間にわたる10月-11月にかけて、大平・田中連合対福田・三木・中曽根連合の党内抗争に明け暮れることになる。これを「自民党40日間抗争」という。。

 この頃の派閥内訳は次の通り。衆議院議員123(大平派50、田中派47、福田派46、中曽根派36、三木派25、無派閥35)、参議院議員74(大平派20、田中派32、福田派23、中曽根派4、三木派9、無派閥21)。

  三木は、1976年の選挙結果を受け辞任に追い込まれたこともあって、大平首相の責任を問う声を上げた。大平政権下で反主流派となっていた福田派・中曽根派・三木派・中川グループは辞任要求を強めた。三木、中曽根、福田会談で、中曽根が「実力者会談に大平の進退を預け、最終的に福田が判断する」という案を持ちかけた。大平は、「辞めろということは、私に死ねと言うことだ」と反発し、党機関に進退を一任すべきと主張して政権続投の姿勢を鮮明にした。 

 この動きに対し、主流派の大平派と田中派は中道政党との連立政権を模索し、反主流派は最終手段として自民離党、新党結成を画策するなど、党内は修復不可能なまでに分裂した。西村英一副総裁が調停に奔走し、大平の進退を預かる形で三木、中曽根、福田と相次いで会談した。福田と大平の会談がセットされたが決裂に終わった。その後、首相候補問題と大平首相の責任問題は党機関へ一任することで進められていったが、その党機関を代議士会(衆院議員のみからなり、反主流派優勢)とするか、両院議員総会(衆参両院の議員からなり、主流派優勢)とするかで揉めることになった。  

 主流派の大平派と田中派は両院議員総会での首相候補決定を決断した。一方、反主流派は福田を首相候補とするために「自民党をよくする会」を結成。反主流派は両院議員総会が行われるはずの党ホールを椅子でバリケードを作って封鎖し、物理的に両院議員総会を阻止しようとした。浜田幸一が反主流派と交渉に臨むも解決できず、交渉を打ち切って実力行使でバリケードを強制撤去し、何とか両院議員総会を開催にこぎつけた。両院議員総会では大平首相を首相候補とすることを決定したが、反主流派はそれを無視する形で独自に福田赳夫を首相候補とすることを決定した。

 党分裂を回避したい一部勢力が「大平総理・福田総裁」という総理・総裁分離案、「次回総裁公選を翌年1月に繰り上げ・翌年1月まで大平体制維持」とする妥協案を出した。大平-田中派は、「第一党の総裁が総理となるのが議会制民主主義の常道」としてこれを蹴り、反主流派の福田・三木・中曽根・中川一郎は大平が1度辞任するということで了承したものの、山中貞則ら強硬派が「大平が次回総裁公選に出馬しないことを了承しなければ認められない」と主張し不調に終わった。自民党は首相候補が一本化できないために、国会を開会することができなかった。国会開会の期限が迫ってきたので10.30日に特別国会を開会するも、開会日は首相指名投票なしで散会という異常事態となった。

 この時、中曽根派の渡辺美智雄は、所属の中曽根派の総意に反して大平・田中派連合に与し、同調した他の仲間とともに除名になった。この時の渡辺のスピーチが妙に面白い。

 「私はね、ついこの間までは中曽根派にいたんだ。そこに、ヘビ(三木)、ウサギ(福田)、カンガルー(中曽根)が集まって、大平カメを総理大臣の座から引きずり下ろそうという騒ぎになったワケだ。ところが、大平カメは足に吸着盤を持っててね、ベタッとくっついたきり、棒で叩いても石をぶっつけても、首を引っ込めて動かないワケですよ。皆が疲れて何もしなくなると、ムクムクと歩き出す人でさ。中曽根さんがカンガルーだちゅうのはね、今右だと言っていたのが、明日になったら左だと言う。その次の日はまた右といったように幅広く跳んでる苦から、袋の中の子供が飛び出しちゃったカンね。私はこうして、中曽根派から放っぽりだされちゃったワケだナ」。

 11.6日、衆議院本会議で首班指名選挙が行われたが、首相候補として同じ自民党から大平正芳と福田赳夫の2人が現れるという前代未聞の事態となった。投票結果は、大平正芳135、福田赳夫125、飛鳥田一雄107、竹入義勝58、宮本顕治41、佐々木良作36、田英夫2、無効7。決選投票で、大平139、福田121、白票1、無効251(大半の野党は退席)。7票差という僅差で大平首相が首相に再任指名された。社共が手を握れば第1回投票でトップの可能性さえあった。

 大平首相は、首班指名で大平に投票した新自由クラブと閣内連立を模索して閣僚入りさせようとしたが、反主流派が 反発して組閣が難航した。11.9日、大平首相が文相を臨時代理という形で兼任して第2次大平内閣を発足させ、新自由クラブとの連立枠としての閣僚人事の余地を残す形で急場を凌いだが、11.20日、最終的に閣内連立を断念し、文相は自民党の谷垣専一を起用して抗争が一応終結した。しかし、この対立感情がその後も依然としてくすぶり続け、翌年のハプニング解散につながる。

【太田龍の「40日抗争分析」】
 太田龍・氏の「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」は次のように述べている。
 「福田赳夫の自民党総裁としての任期二年が終りに近づくと、福田は再選を望んだため、田中角栄は大平正芳と組んで、力づくで大平を次期総裁・首相に押し上げた。これによって、自民党内は田中・大平連合対福田派と真っ二つに分かれて激しい対決と派閥闘争の時代に入ったが、それは表面上のことに過ぎない。実際はユダヤ(アメリカ)の介入によって、日本の政界がもみくちゃにされた時代なのだ。逆に云えば、ユダヤに斬られた手負いの角栄が、奇跡の復活をなし遂げ、ユダヤ・フリーメーソンのエージェントである三木武夫を倒し、福田内閣のもとでじりじりと復活し、遂に大平内閣で政権の中心に迫ったという構図となる。従って、ユダヤは角栄に対抗して戦線を再構築しなければならない。ユダヤの角栄包囲網の中核に据えられたのが福田であり、三木派、中曽根派がその同盟軍となるべく工作された。その結果が、大平内閣末期の40日にわたる、日本の議会政治史上未曾の死闘となった通称「40日抗争」である。これほどの激突、激闘は、単純な日本国内政治から生じたものではない」。

 10.15日、社会党の飛鳥田一雄委員長が、全野党共闘の原則を維持しつつ、「社公中軸」志向を表明した。共産党の宮本顕治委員長が、社会党の右傾化を批判し、社会党の公明党への接近姿勢を牽制した。


 10.17日、ロッキード裁判丸紅ルート第82回公判で、檜山広被告が「総理に5億円献金話を伝えた」と供述。
 10.22日、社民連全国代表者会議。
 10.26日、伊藤律が病監から釈放される。中連部のL氏は、「日共はあなたを隔離査問するからと、長い間ここに入れたままほったらかしにした。あなたの病状を考えると、これ以上このままにしておくわけにはいかない。中共中央は革命的人道主義の立場から、あなたを釈放することに決定しました。今後あなたは公安部とは無関係であり、中国に留まるも日本に帰るも全く自由です。ただ一つ、中国にいる間は政治見解を公表しないで下さい」と伝えている。
【韓国の朴大統領暗殺される】
 10.26日、韓国の朴大統領暗殺される。

 10.28日、民謡・木曽節で歌われ西日本にも親しみのある長野県と岐阜県にまたがる木曽の御嶽山(おんたけさん)が「有史以来」の水蒸気爆発を起こし約1000mの高さまで噴煙を噴出した。5時頃に発生した噴火は14時に最大となりその後衰退し、噴出物の総量は約二十数万トンで北東方向に噴煙が流れ軽井沢や前橋市まで降灰した。この噴火がきっかけとなり、日本国内の死火山、休火山、活火山という定義そのものを見直すこととなった。現在では活火山以外の言葉は使われない。1979年以降は断続的(1991年、2007年)に小規模な噴気活動が続いている

 御嶽山は長らく死火山だと思われてきた。ほら話をする人に対し、「御嶽山が噴火したようなことを言うな」。かつてこんな言い方が定番だったという。御嶽山は、火山ではあっても噴火の記録がなく、噴火はありもしないと考えられていたためだ。ところが、1968(昭和43)念から活発な噴気活動を始め、気象庁が1975年(昭和50年)に刊行した『日本活火山要覧』(初版)では、活火山の当時の定義(噴火の記録のある火山及び現在活発な噴気活動のある火山)に該当する77火山のひとつとして掲載されていた。

 藤崎康夫著「御岳山噴火」は次のように記している。
 「この時、『山は怒っている』と言った人がいる。太平洋戦争の終戦後もグアム島のジャングルに隠れ続け、1972年に生還した元日本兵の故横井庄一さんだ。帰国した際、「私は御嶽山の申し子だから絶対に死なないと信じていた」と語った。母親が御嶽山に子どもが授かるよう願をかけ、生まれたのが横井さんだった」。

【大平内閣総辞職】
 10.30日、第89回特別国会で大平内閣総辞職。

 この時、角栄が次のように述べている。
 「今の自民党というのは、まるで柵の中にメス象(大平正芳総理総裁)が寝ていて、その周りを痩せたトラ(福田赳夫)とハイエナ(三木武夫)とハゲタカ(中曽根康弘)がうろうろしているようなもんだ。野党の奴等は、柵の外で見ているだけだねぇ。無所属の田中となると、頭を柵の外に半分出しているライオンであります。いいですかッ、トラやハイエナやハゲタカは、今は勝手なことを言っているが、メス象は怒り出すと怖いぞ。手におえなくなることが、わかっておらんのであります」。

 11.4日、イラン・テヘランの米大使館占領事件発生。
【衆院本会議での首班指名投票】
 11.6日、衆院本会議で首班指名投票。自民党から大平、福田の2名の首相立候補者が出るという異常事態となった。第1回投票は、大平正芳135、福田赳夫125、飛鳥田一雄107、竹入義勝58、宮本顕治41、佐々木良作36、田英夫2、無効7。決選投票で、大平139、福田121、白票1、無効251となり、大平首相が首相に再任指名された。

 社共が手を握れば第1回投票でトップの可能性さえあった。

 この時の各議員の投票行動を記しておく。1979年11月6日衆議院本会議・首班指名選挙における投票行動(四十日抗争)によると、大平氏に投票した者は138名で、大平派50、田中派48、福田派1、中曽根派5、三木派4、旧水田派3、旧船田派4、旧椎名派1、旧石井派1、無派閥13、自由国民会議1、新自由クラブ4、無所属3名。福田氏に投票した者は121名で、福田派49、中曽根派34、三木派25、中川派9、旧水田派2、旧椎名派1、無所属1名。無効票8名。

 河野洋平代表の新自由クラブの4名は第一回投票から大平に入れていた。この投票行動が「連立政権を狙ったもの」、「田中軍団に支えられた大平を支持した」と批判を浴び、参議院の新自ク議員団も不満を表明し、円山雅也が離党することになる。河野代表は、総選挙の敗北と首班指名の大平支持の責任をとって辞任。後任に田川誠一幹事長が就任。田川の後任には山口敏夫国対委員長が就任。

第二次大平内閣発足
 11.9日、第2次大平内閣が誕生した。官房長官・伊藤正義。11.10日、大平首相、「新自由クラブとの連立もあり得る」と発言(田川誠一文相案が表面化し、非主流派は反発)。11.16日、自民党3役決定(桜内幹事長・中曽根派、安倍政調会長・福田派、鈴木総務会長・大平派)し、40日抗争終わる。

 11.19日、第二次大平内閣発足。蔵相に竹下登、労相に藤波孝生、国家公安委員長に後藤田正治、官房長官に伊東正義、総理府総務長官に小渕恵三、行政管理庁長官に宇野宗佑らが就任した。

 11.13日、社会党の飛鳥田一雄委員長は、社会党の現職委員長として初の訪米に出発した。帰国後、日米安保の「合意廃棄」論を表明した。


 11.13日、公明党の竹入義勝委員長・民社党の佐々木良作委員長は、会談で「中道政権構想協議会」の発足を決定した。この結果、「公民は一体」の既成事実により、公民主導型の社公民路線の定着化を狙った。


 11.26日、参議院クラブ発足。
 12.12日、朴正煕大統領の射殺事件(同10.26日)の合同捜査本部長を務めていた全斗煥・国軍保安司令官は、盧泰愚・陸軍第九師団長らと共謀し、崔圭夏大統領の事前裁可を受けずに、鄭昇和・陸軍参謀総長を逮捕。その際、軍の正式命令系統を無視し、盧師団長と朴煕道・第一空輸旅団長、崔世昌・第三空輸旅団長らに指示して軍兵力を不法に動員し、国防省、首都警備司令部などを占拠した。この過程で、河小坤・陸軍作戦参謀部長に重傷を負わせ、国防省の警備兵らを殺害した。ソウル地検では、こうした一連の事件経過が軍刑法上の反乱首謀罪をはじめ、軍を許可なく動かした不法進退罪、指揮官として許可なく持ち場を離れた指揮官戒厳地域守所離脱罪、上官殺害、同未遂罪、警備兵殺害罪の容疑に当たるとしている。


【宮顕委員長ら訪ソ、「宮本.ブレジネフ会談」】
 12.15日、宮本委員長を団長とする訪ソ団が出発した。メンバーは、団長・宮本顕治(幹部会委員長)、団員・上田耕一郎(副委員長)、西沢富夫(副委員長)、金子満広(書記局次長)、榊利夫(理論委員長)、立木洋(国際部長)、宇野三郎(宮本委員長秘書)の7名その他であった。第一回目の会談が行われたが、ソ連側代表はブレジネフ党書記長、スースロフ政治局員、ポノマリョフ准政治局員、アファナシェフ中央委員、フェドセーエフ中央委員、ウイヤノフスキー国際部副部長、コワレンコ国際部日本課長らであった。

 議題は、①・「志賀問題」を中心とした今後の両党関係の在り方、②・原水禁運動、日ソ友好運動の在り方、③・国際共産主義運動の在り方、④・最近のアジアを中心とした国際情勢の意見交換、⑤・最近の日本国内の情勢、日本共産党の方針について、⑥・北方領土問題、⑦・日ソ漁業、抑留漁民、シベリアの遺骨収拾問題、等々であった。事前の打ち合わせに基づき会議が進められたが、ブレジネフ書記長は第一回目の会議に出席した後は姿を見せずとなった。スースロフが団長代理として折衝することとなり、数次の会談が持たれた。

 「北方領土問題」について、宮顕委員長が二段階方式による「全千島の返還」を要求した。ソ共側は、「日ソ間に領土問題存在せず、解決済みの問題である」として相手にされなかった。結局、「双方は、日ソ平和条約を締結することが、日ソ両国関係を長期的に安定した基礎の上で友好的に発展させるために必要であることを認め、それぞれ率直に意見を述べ、今後とも意見交換を続けることに合意した」という線で纏められることになった。

 つまり、宮顕はこのたびの会談で、「北方領土問題」について色よい言質を目論んでいたが何ら実のある成果を得なかったというのが実際である。今日不破らはこれを饒舌し、何も成果が無かったことを覆い隠し、「北方領土問題」を粘り強く交渉したこと自体を誇らしげに語るという詐術話法を駆使している。

 もう一つ、社会主義政党間の在り方を廻って討議しており、この間の日ソ両党の不正常な関係の清算を図った。日共側から見れば、「ソ連側に『志賀問題』での誤りを認めさせ、両党間の交流関係を一応正常化させた」ということになる。その他これも日共側から見てのことであるが、「各国人民が民族自決権に基づいて真に自主的、民主的に自国の変革と建設の事業を効果的に推進しうるために反革命の輸出に反対するとともに、革命の輸出にも反対する」(「革命の輸出路線反対」)、「各党がその歴史的条件と具体的情勢に基づいて、自国の社会進歩と変革、社会主義への移行、社会主義、共産主義の建設の道の選択に際し、自主的に決定する権利を持っていることを確認する。その際、外部からのいかなる干渉も許されない、双方は改めてこのことを確認する」(「公党間相互の内政不干渉」)を引き出すことに成功した、ということになる。

 問題は次のことにある。この会談が終了し訪ソ団は12.25日帰国したが、その直後とも云うべき12.27日ソ連がアフガニスタンに侵攻している。先の会談で、日共党中央が成果であったと誇った「革命の輸出路線反対」、「公党間相互の内政不干渉」の合意が蜃気楼の如く霧散させられたことになる。あるいは又、「革命の輸出路線反対」、「公党間相互の内政不干渉」なるものが如何に有害且つ駄弁理論でしかないという化けの皮が剥がれた、ということでもあろう。

 12月、大平正芳首相が中国を訪問し、中日友好医院建設、対中円借款などを約束。
 12.19日、長岡市と室町産業が「千秋が原(信濃川河川敷)の土地利用・譲渡・交換に関する協定」を締結し、土地売買契約書に調印。

 12.21日、衆議参院本会議で、一般消費税反対という財政再建に関する決議案を採択した。


【ソ連がアフガニスタンに侵攻】
 12.27日、ソ連がアフガニスタンに侵攻。現地にソ連と通謀する共産主義政権が誕生したが、これに対してムジャヒディン (=聖戦を行う人々)と呼ばれるゲリラ勢力が立ち上がり抵抗していくことになる。西側諸国は経済制裁やモスクワ五輪ボイコットでソ連に抗議し、結局ソ連軍はその後も約10年にわたってアフガニスタンに駐留することになるものの山岳地帯での戦闘にてこずり多くの犠牲者を出して、1988.4月、アフガニスタン和平協定に調印して撤退する。まもなく現地の共産主義政権も崩壊する。






(私論.私見)