【1978年当時の主なできごと】



 (最新見直し2011.02.11日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2002.10.20日 れんだいこ拝


【袴田里見除名騒動】
 1.4日、赤旗は、1.6日に発行される「週刊新潮」(1.12日号)の袴田手記「昨日の同士・宮本顕治」に先回りして、長文の反論を掲載。日本共産党は、党機関紙・赤旗で、前副委員長袴田里見を統制委員会で除名処分にしたことを発表した。

 袴田に対する党中央の袴田調査報告は次の通り(「日本共産党の七十年」より)。
 「調査過程で、袴田が以前から党にたいする誹謗中傷を無規律におこない、党中央に反対する同調者をつくる分派活動をおこなっていた事実、さらに重大な規律違反として、党にかくれて七七年一月、ソ連共産党中央委員会(当時、日本共産党への覇権主義的干渉の全面中止と両党関係の回復をめぐって緊張した交渉がおこなわれていた)に個人的使者を送っていた事実などがあきらかとなった。党は古い幹部である袴田に反省の機会をあたえ、その晩節をまっとうするよう努力をつくしたが、袴田は、党に打撃をくわえようとして、七七年十二月、ついに反共週刊誌に党を誹謗する“手記”を発表するに至った」。

 ここで云う反共週刊誌とは「週刊新潮」のこと。手記のタイトルは「『昨日の同志』宮本顕治―真実は一つしかない―」。袴田は1978.1.17日付け朝日新聞の「わたしの言い分」で 次のように反論している。

 「僕はあくまでも正しい党の発展を願っているんだが、党内では意見を発表する場を奪われてしまった。残された方法は、僕の怒りや反論を公表して一般党員や働く大衆の判断を仰ぐことしかない」「おととしの十二月の党常任幹部会で僕が発言した時から、宮本との意見の食い違い決定的に党内で表面化したんだが、あの時、おろされても構わないと思って僕は意見を言った」「宮本が『赤旗』拡張一本ヤリであるために、党員は疲れ切って足が重くなっている。……足が重くなると大衆運動に力が入らなくなる。……共産党が依拠しなくてはならない勢力のなかで、われわれへの信頼が減っている、という事実がある」「今の宮本体制に党内民主主義はありません。僕よりも宮本のほうこそ党規約を尊重していない。踏みにじっている」

 袴田が手記の中で、スパイ査問事件に触れ、「スパイ小畑を殺したのは、宮本である」と述べたことも反響を呼んだ。共産党はこれを「内因性の急性心臓死とみられる不幸な急死」(日本共産党中央委員会『日本共産党の七十年』)としてきたが、袴田はこれを否定、査問の状況を説明して、宮本が小畑を殺したとした。これに対し、共産党側は「彼が病的に逆上していることを示すだけで、まともにとり上げるほどのものではない」「反共的妄想」と反論した(一九七八年一月二十六日付「サンケイ」)。

 1.13日、共通一次学力試験始まる→戦後最大の入試改革。
 1.21日、旧田中派が政治同友会を発足させる(会長・西村英一)。
 1.22日、田グループを迎え入れ、「社会市民連合」が社会民主連合結成準備会を開催。党名を「社会民主連合」へと改称した。「社会民主主義の道をとおって、新しい自由な社会主義社会をめざす人びとの連合体」という意味合いとされている。
 1.24日、ソ連原子炉衛星がカナダで落下。
 2.1日、建国記念日の祝賀行事に「総理府後援」の名義使用を認めた。
 2.28日、自民党員が151万7761名。8.31日、党友は18万1千名。
 3.1日、飛鳥田社会党委員長、初の委員長公選で信任、横浜市長を辞任。
 3.16日、イタリア、モロ首相誘拐事件。
 3.16日、成田空港管制塔に過激派が乱入。政府声明で、30日の開港を延期。5.20日、開港。
 3.21日、EC委員会事務局、日本は「うさぎ小屋に住む働き中毒者」と表現した対日戦略基本文書(秘密文書)を委員会に報告→ECの日本批判顕在化。
【社会民主連合(社会民主連合)結成】
 3.26日、社会民主連合結党。田英夫代表、楢崎一弥之助書記長。田代表は次のように決意表明した。
 概要「現存する社会主義体制を見れば自由を犠牲にするのが社会主義であり、日本の社会主義政党を見れば非自由と言うか、むしろ反自由と言わざるを得ないのが実状で範にするに足りない。『自由が目的で、社会主義は手段である』。『国有化万能論を採らない』。今までの社会主義の国有化と計画経済と一党独裁の三位一体を排する。自主管理社会主義、分権的社会主義、市民的社会主義を目指す」と決意を述べている。

 4.10日、京都知事選で、自民・新自ク推薦の林田悠紀夫氏が当選し、28年間続いた蟻川虎三革新府政を終了させた。社会・公明推薦の山田芳治副知事や民社推薦の滝川春雄大阪高裁判事を破った。4月15日、京都府知事の蜷川虎三が引退した。
 4.23日、新潟県知事選挙投票、君知事再選。

 4.28日、自民・公明・民社・新自クの4党は、衆議院に「新東京国際空港の安全確保に関する緊急措置法案」を共同提出した。これを成田立法と云う。


 4.29日、桜井新が後援会「一新会」結成、以後続々と3区内に誕生していく。
【福田首相がカーター大統領と三度目の日米首脳会談】
 4.30日、福田首相が訪米。5.3日、ワシントンで三度目の福田.カーター会談。カーター大統領と三度目の日米首脳会談。1997年2月に公開された国務省宛ブレジンスキーレポートには、福田首相について次のように記している。
 「一つは、日本の政治家の中で数少ない国際人であるということだ。バランス感覚に優れ、平和のためには自国の利益を超えて、他国の人々や国の利害を認識し尊重する努力をする人物である。また比較的はっきりと意見を言うため、日本人以外の人々にも理解してもらえる数少ない日本の政治家であるというのが、福田の2番目の特徴だ。佐藤、三木、大平、鈴木氏らは、非常に礼儀正しく丁寧に思えたが、彼らが何を言おうとしているのか、どのような判断を下すのか、またはどのような見解を持っているのか、私にはしばしば分からないことがあった。唯一、中曽根だけが福田より明解だった。だが中曽根の言語上の正確さは必ずしも思考の正確さを表すものではないと、しばしば感じた」(「大統領宛日本国首相の極秘ファイル」232P)。

 5.3日、成田空港開港。

 5.12日、成田立法が可決・成立した。 


 5.20日、成田の新東京国際空港開港式。
 5月、上海宝山製鉄所建設に関する中日議定書が北京で調印。
 5.23日、公明・民・社・新自ク・社民連四党党首初会談(09/08、第三次会談で「保革五五年体制打破・中道結束」で一致)。中道革新勢力結集をめざす超党派政策集団「21世紀クラブ」が発足した。発起人は、神奈川県知事長洲一二、岐阜経済大教授佐藤昇ら。
 6.11日、田中派が総裁公選での大平支持を明らかにする。 
 6.14日、元号法制化促進国会議員連盟が発足した。
 6.15日、越山会青年部長で新潟県議の桜井新が次期総選挙に公式に出馬表明、新潟日報に大きく載った。
 6.21日、防衛庁が有事防衛研究着手を表明。

 6.21日、日韓大陸棚関連法案が可決・成立した。


  6月、ベトナムがカンボジアに侵入。
 7.13日、福田首相、園田外相、村山蔵相が・先進国首脳会議に渡欧。7.16日、ボンで第4回先進国首脳会議。サミット会場で福田.カーター会談。

 7.18日、元号法制化実現国民会議が発足した。


 7.19日、自衛隊の来栖統幕議長が「日本防衛のためには自衛隊指揮官は現行の自衛隊法を超法規的に犯して軍事行動を命じなければならない」と発言し、週刊ポスト誌での「超法規的発言」を認めた。7.24日、福田首相は、栗栖統幕議長を解任した。7.27日、福田首相は防衛庁に有事立法と民間防衛の研究を指示する。11.28日、公式に日米の政治レベルで「日米防衛協力の指針」(ガイドライン)を決定した。条約でない政府間の約束により何でもできることになり憲法は空洞化された。 
 7.24日、キッシンジャーが田中邸を訪問し、約2時間会談。
 8月、中国がベトナムに侵入。
【日中平和条約が調印】
 8.12日、北京で日中平和友好条約が調印された。 中国の黄華外交部長と日本の園田直外相は両国政府を代表して署名した。条約は、昭和53年10月23日に公布され、同日発効した。

 日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約(昭和53年条約第19号)

 日本国と中華人民共和国は、 千九百七十二年九月二十九日に北京で日本国政府及び中華人民共和国政府が共同声明を発出して以来、両国政府及び両国民の間の友好関係が新しい基礎の上に大きな発展を遂げていることを満足の意をもつて回顧し、 前記の共同声明が両国間の平和友好関係の基礎となるものであること及び前記の共同声明に示された諸原則が厳格に遵守されるべきことを確認し、 国際連合憲章の原則が十分に尊重されるべきことを確認し、アジア及び世界の平和及び安定に寄与することを希望し、両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約を締結することに決定し、このため、次のとおりそれぞれ全権委員を任命した。これらの全権委員は、互いにその全権委任状を示し、それが良好妥当であると認められた後、次のとおり協定した。

 日本国外務大臣 園田直
 中華人民共和国外交部長 黄華

第1条  両締約国は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原別の基礎の上に、両国間の恒久的な平和友好関係を発展させるものとする。
第1条2項  相互の関係に於いて、すべての紛争を平和的手段により、解決し及び武力または武力による威嚇に訴えないことを確認する。
第2条  両締結国は、そのいずれも、アジア・太平洋地域においてもまたはその他のいずれの地域に於いても覇権を求めるべきではなく、亦、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国又は国之集団による試みにも反対することを表明する。
第3条  両締約国は、善隣友好の精神に基づき、かつ、平等及び互恵並びに内政に対する相互不干渉の原則に従い、両国間の経済関係及び文化関係の一層の発展並びに両国民の交流の促進のために努力する。
第4条  この条約は、第三国との関係に関する各締結国の立場に影響を及ぼすものではない。
第5条  この条約は、批准されるものとし、東京で行われる批准書の交換の日に効力を生ずる。この条約は、十年間効力を有するものとし、その後は、2の規定に定めるところによつて終了するまで効力を存続する。
第5条2項  いずれの一方の締約国も、一年前に他方の締約国に対して文書による予告を与えることにより、最初の十年の期間の満了の際またはその後いつでもこの条約を終了させることができる。

 以上の証拠として、各全権委員は、この条約に署名調印した。千九百七十八年八月十二日に北京で、ひとしく正文である日本語及び中国語により本書二通を作成した。

 (署名略)
 関連法令

 8.15日、福田首相が内閣総理大臣の肩書きで靖国神社参拝、署名した。

 8.16日、公明党は、有事立法の必要性を認める基本見解を発表した。


 9.5日、福田首相がイラン、カタール、アラブ首長国連邦、サウジアラビアの中東4カか国歴訪の旅に出発した。

 9.6日、公明党の矢野絢也書記長は、有事立法の必要性について記者会見で軌道修正した。


【日共の榊利夫理論委員長「前衛党組織と『真理価値』の問題」論文】
 9.10日、赤旗に榊利夫理論委員長が、「前衛党組織と『真理価値』の問題」論文を発表。次のように述べている。
 概要「学者であっても、党規律の前では、『学問研究の自由』の名による特権は許されない。党の方針に対立する見解の発表は許されず、これに反した場合は、『学問研究発表』や『学術論文』であっても、党員としての責任をとらねばならない」。
 
 かく除名処分を匂わせるような脅迫まがいの恫喝を加えた。

 9.17日、米,エジプト,イスラエル首脳会談。

 9.21日、防衛庁は、「防衛庁における有事法制の研究について」を発表した。この結果、有事法制研究が本格化した。


 10.17日、福田内閣は、「昭和」後の元号問題につき、従来の内閣告示方式から法制化での存続方針に変更した。


【ケ小平中国副首相来日、条約批准書交換、日中平和友好条約発効】
 10.22日、ケ小平中国副首相来日、条約批准書交換。中国の黄華外交部長と日本の園田直外相は両国政府を代表して署名、中日平和友好条約に北京で調印した。ケ小平副首相が、「日米安保・自衛隊増強は当然」と発言した。

 皇室を表敬訪問し、次のような遣り取りをしている。昭和天皇「我が国はお国に対して、数々の不都合なことをして迷惑をかけ、心から遺憾に思います。ひとえに私の責任です。こうしたことは再びあってはならないが、過去のことは過去のこととして、これから親交を続けていきましょう」。ケ小平「お言葉の通り、中日の友好に尽して生きたいと思います」。

 10.23日、日中平和友好条約発効。1972年に田中内閣で成し遂げられた日中国交回復の総仕上げとなった。

 10.24日、中国のケ小平副首相は、昭和天皇表敬後、田中角栄元首相邸を訪問、日中国交回復の功績を称える。
 10.25日、福田首相と第2回会談。

 10.31日、円高で、1ドル=175円50銭を記録した。


 10月、靖国神社がA級戦犯を合祀(ごうし)。

 11.1日、米の下院フレーザー委員会は、金大中事件は韓国中央情報部(KCIA)の犯行と断定した。


【初の自民党党首予備選】
 11.1日、初の自民党党首予備選が告示された。この時党員は158万人、党友19万人、郵便による予備選投票で上位二人を選出し決選投票を行なう。決選投票は、党所属の国会議員の投票となる。

 これが自民党を二分させる福田と大平の争いの勃発となる。自信万万だった福田は、「予備選の結果を尊重せねばならない。二位のものは本選挙で降りるのが筋だ」と発言する。

 立候補したのは、福田、大平、中曽根、河本(三木派の後継者)の4名。この時の自民党5大派閥の内訳は、福田派77、田中派75、大平派54、中曽根派48、三木派44、中間派・無派閥など80だった。田中派は首相候補を立てなかったため、候補を持たない田中派の動向が勝負の行方を左右することになった。但し、田中派の内実は、当時防衛庁長官の金丸信は福田に近く、田中の腹心の二階堂は大平支持を鮮明にしてやりあう場面も発生しており、且つロッキード事件で謹慎中の派閥でもあり「組織第一、義理と人情とやせ我慢」の最中であり、田中派として軽軽しくは動きにくい状況にあった。

 11.10日の読売新聞は、予備選の動向について「福田氏トップ、中曽根氏大平氏を急追」、「福田首相は過半数を握った」と大きく報じた。11.16日の毎日新聞世論調査では、総裁候補に関する一般の支持率として、福田24%、中曽根21%、大平17%としていた。11.21日の朝日新聞調査では福田28%、中曽根15%、大平13%と報じている。この頃、福田首相は、さかんに「予備選挙で二位になった候補は本選挙を辞退すべきだ」、「予備選挙で百点以上差がついたときには、本選挙は行なうべきではない」と発言しており、結果的にこれが命取りになる。

 田中は、盟友大平に対し、凄まじい支援体制を敷いた。金権選挙批判を避けるため、「金は出さなかった。金の代わりに足を徹底的に使った」(佐藤昭子)。選挙参謀を後藤田正晴が勤め、秘書軍団との2人1組でローラー作戦を採用した。

 11.26日、予備選挙投票、27日開票。結果は、事前予想に反して大平55万0891票(748点)、福田47万2503票(638点)、中曽根29万0987票(93点)、河本8万8091票(46点)。大平が、110点もの差をつけて福田に圧勝した。(田中派の大平支持で予想を覆して大差となる)

 11.27日、勝利を疑わなかった福田首相は「(予備選で大差がついたら)天の声に従うべき」で、その場合には、党大会での投票は行わないことを呼びかけていた。その福田が2位に終わり、「総理大臣が自分で言ったことを覆すわけにはいかない」と立候補を取り下げ、記者たちに対しては「天の声も、たまには変な声があるなぁ、敗軍の将、兵を語らずだ」の迷言を残して本選挙を辞退した。予備選の最中に「天は福田を支持している」と述べていたことに対する福田流の辻褄合わせであった。こうして福田は自らの発言に縛られ首相のイスから降りることになり、ここに大平が総裁に確定した。マスコミはは、この頃から、角栄を「目白の闇将軍」と名づけ始めた。

 11.18日、人民寺院集団自殺事件。

 11.27日、日米安全保障協議委員会は、「日米防衛協力のための指針(旧ガイドライン)」を決定し、有事に備え、米軍と自衛隊の共同対処行動を決定した。


【第一次大平内閣発足】
 12.1日、福田内閣退陣のあと、自由民主党史上、画期的な全党員・党友参加による総裁予備選挙の洗礼をうけて、自民党臨時総会で第9代総裁に大平正芳が就任した。12.6日、臨時国会招集、自民党三役人事の難航から首相指名の衆参本会議が流れるという国会史上はじめての事態となった。

 12.7日、第一次大平内閣発足。幹事長・斎藤邦吉(大平派)、官房長官・田中六助(大平派)。田中派から山下元利(防衛庁長官)、江崎真澄(通産相)、橋本龍太郎(厚相で初入閣、41歳)、金井元彦の4名が入閣した。外相に園田直、農相に渡辺美智雄、建設相に渡海元三郎、経済企画庁長官に小坂徳三郎らが就任した。竹下登衆院予算委員長。大平政権の政治史的意味は、吉田学校内ハト派に位置し、田中派と共に戦後保守本流路線を再構築することにあった。ネオシオニズムに籠絡されているマスコミは挙(こぞ)って、大平内閣を「角影内閣」と呼び、実際に動かしているのは「闇将軍こと田中角栄」であると書きたてた(「角影内閣」−−財政再建と一般消費税)

 大平首相の政治哲学が次の様に明かされている。

 「政(まつりごと)は小魚を煮るが如し」。「政治は小魚を丁寧に煮る慎重さがなければいけない。ともすれば、丁寧に政治をする部分が欠けることになる。自戒せねばならない」。

 大平政権は、ますます厳しさを加える内外情勢と、多難な政治運営の実情をふまえて、「信頼と合意の政治」、「国民と苦楽を共にする政治」を基本姿勢に掲げ、内政的には「日本型福祉社会の建設」、都市の活力と田園のゆとりの結合をめざす「田園都市国家構想の推進」を二本柱に据えた。外交では、日米安保体制の堅持に加えて、質の高い自衛力の保持と経済協力、人づくり協力、文化外交の積極的展開等、多角的な外交努力を複合させた「総合安全保障戦略の推進」、開かれたゆるやかな地域連帯としての「環太平洋連帯の樹立」を打ち出した。

 組閣後矢継ぎ早に田園都市構想、対外経済政策、環太平洋連帯、文化の時代など9つの政策研究会を、首相直属諮問機関として創った。浅利慶太、石井威望、公文俊平、高坂正尭、佐藤誠三郎、香山健一、山崎正和、山本七平など総勢200名に及ぶ学者、文化人を集めて、新しい日本作りの検討に入った。

 大平政権は同時に、三木、福田政権下で歪められた財政の不健全化の立て直しに向かい、行政改革と財政再建を日本柱として取り組む姿勢を打ち出した。75年の三木内閣の蔵相時に国債を5兆4800億円(←74年の2兆1600億円)の大幅増額させ、65年以来はじめて赤字国債2兆2950億円を発行していた。大平が幹事長を勤めていた福田内閣時代の79年国債残高56兆2513億円、赤字国債残高21兆658億円まで急増加していた。54年度予算の公債依存度は39・6%に達し、財政事情はもはやこれ以上の放置を許されぬまでに悪化していた。これに責任をとろうとして「1980年には赤字国債をゼロにする」と宣言した。しかし、その道は至難であった。

 12.10日、沖縄県知事選で、自民・民社ら推薦の西銘順治が当選した。


 12.11日、米中国交正常化。
 12.18―23日、中共第11期3中総会,毛・文革の見直し決定。
 12.20日、ロッキード事件丸紅ルート公判、ロッキード社のコーチャン元副社長等の嘱託尋問調書を証拠として採用決定。
 12.25日、米国証券取引委員会(SEC)が、マクドネル・ダグラス社のF4EJ(ファントム戦闘機)売り込みに関わる対日不正支払いを告発し、ダグラス社が、戦闘機の売り込みに70年に1万5千ドルを日本政府当局者に支払ったと表明した。

 これに関連して、1957(昭和32)年、国防会議決定の第1次防衛力整備計画により日本政府は、旧式化した自衛隊の主力戦闘機F186Fにかわる超音速戦闘機300機の機種選定に関して、当初米・ロッキードF104を圧倒的最有力候補としていた。だが、岸内閣成立後の58年4月、米・グラマンF11ー1Fの採用に急展開した。その裏面でグラマン社が納入1機につき1,000万円(総額30億円)のリベートが岸内閣の総選挙費用と総裁選対策費として支払われたのではないかという事件を中心とする一連の航空機売り込み疑惑も発覚した。

【日共の不破書記局長「科学的社会主義か『多元主義』か」論文】
 「前衛」(1979、昭和54.1月号)に、不破書記局長が、「科学的社会主義か『多元主義』か」論文を発表。14万4千語、実に100Pにわたって多元的社会主義を提唱する「田口富久治理論」批判大キャンペーンを行なった。1978.11月から1980.3月まで、不破が田口批判「前衛」論文の執筆を2回為している。

 12.28日、イラン反政府暴動が最大規模に発展。ホメイニ師を最高指導者と仰ぐ民衆がイランのパーレビ国王と衝突。これにより世界の10%を占める原油生産が全面的に停止、輸出も79.3月始めまで止まる。
 動労は津山大会(1978年)で、「鬼の動労」が「職場と仕事と生活を守ろう」スローガンに転換する宣言を出す。






(私論.私見)