【1977年当時の主なできごと】 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
【「江田意見書」】 | ||
1.12日、江田社会党副委員長、党運動方針案に対する「江田意見書」を提出、中執委に革新・中道連合への決断を迫る。 「江田意見書」の中身は次の通り。社会党の長期低落傾向に対する江田式構造改革論ともいえるもので、「保守に代る新しい連合政権樹立」に向けての戦略論ともなっていた。それらよると、今や中産階級が国民の多数派になりつつあり、彼らの望む漸次的改革を指導する責務を担う必要があるとして、いわば「革新中道路線」を提唱していた。このことを次のように述べている。
「革新中道路線」の提唱は、教条主義的マルクス主義路線との決別でもあった。その論拠として次のように述べていた。
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【社会党第40回党大会】 | |
2.8日、社会党第40回党大会が開かれ、江田副委員長と社会主義協会派の対立が激化した。「江田三郎社会党離党」は次のように述べている。
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【社青同解放派書記長・中原一氏が革マル派の襲撃に遭い死亡】 |
2.11日、革命的労働者協会(革労協会=社青同解放派)の書記長・解放派筆頭総務委員の中原一(本名・笠原正義)氏が、革マル派の襲撃に遭い死亡。茨城県取手駅付近で車に乗っていたところを車で挟み撃ちされ、降りてきた6人の革マル派テロ集団に鉄パイプでめった打ちにされて殺害された。
この事件により、1975.3.14日の中核派書記長・本多延嘉殺人事件に続いていずれも革マル派のテロルにより党派の最高指導者が殺されたことになる。 革マル派の機関紙「解放」(77.2.21日付け)は、「中原一派の盲動を未然に粉砕」の見出しで、「『人殺し、助けてくれ』という消え入りそうな萎えきった声がお前の最後の言葉となった」と報ぜられた。これ以降、解放派は革マル派に対して全面戦争に突入し、77年中に7人もの革マル派活動家を殺害した。 六〇年安保以後、革共同、ブンドに対抗した東大、早大を中心とした、社青同全国学生班協議会の運動の流れがある。そして一方の東京地本の労働者運動の流れとが合流、合体して解放派は労学の統一した組織として飛躍していった。学協の中からは以後、五辻活、笠原正義君等のすぐれた指導者が輩出して東京地本、革労協の中核を担っていった。笠原君が一九七七年二月十一日、革マルのテロルに倒れたとき、「学協の流れを絶やしてはならん」と心に誓った。 その学協の正統な継承者こそが永井啓之君である。生前彼と「ぜひ解放派の歴史を整理し、書き浅さねば」と共に語り、具体的作業を開始しようとした直後の無念の死であった。しかしいかなる暴虐も歴史の真実を消すことはできない。私はいつかは個人史を書き、解放派の闘いの歴史を明らかにする作業の一端に役立てたいと常々思っていた。その具体化の第一歩が出来たのは、まさに本集の出版が契機であった。このことこそ永井君の今なお生ける意志であり、また彼の遺業である。続きは厳密に今後書いていきたいと思う。最後に永井雅子さんの協力に感謝し、今後も助力を願いたいと思っている。(樋口圭之介「六〇年安保・三池闘争の高揚と社青同結成」) |
【「江田三郎社会党離党の動き」】 |
「江田三郎社会党離党」を参照する。 3.1日、江田派の現代革新研究会が総会を開き(42名の議員)、会長・江田三郎、幹事長・阿部昭吾を決める。他に側近として大柴滋夫、山田祉目氏。3.2日、「新しい日本を考える会」の運営委員会が開かれ、三カ月後の参院選に無党派候補を擁立するか否かを話し合った。考える会顧問の矢野公明党書記長と佐々木民社党副委員長は、江田三郎こそ無党派候補の最適任者として、熱心に「社会党離党、参院選出馬」を薦めた。但し、江田は、運営委員会後の記者会見で、「一応検討してみるが、立候補するかどうかは白紙」と述べた。3.3日、読売新聞に「江田三郎離党決意、考える会を基盤に全国区へ、先ず大柴滋夫、阿部昭吾、行を共に」という見出しの記事が載った。まだ根回しも何もせぬうちに舞台は勝手に回り出した。3.3日夜、江田派は幹部会を開き、江田の離党を認め、今後の対策の相談に入った。江田新党結成へ向けて流れが固まった。離党を決意した江田に対し、さまざまな慰留が行われた。成田委員長をはじめ、佐々木更三、三宅正一といった長老や、総評の幹部等々が説得した。しかし江田の決意はもはや変わらなかった。江田三郎は全国行脚を開始した。その忙しいさなかに「新しい政治をめざして」の執筆に向かった。 この間、荒畑寒村を訪問している。荒畑は、江田を歓迎し、「本当の改革というのはいつも少数派だ。今の社会党の中で社会主義のことを真剣に考えているのは江田君だけだ。私と君とは立場が違うけれど、君の行動を理解し、支援するよ」と励ました。江田はこの会談の模様を、その後くり返し語っている。よほど嬉しかったのであろう。 |
【江田三郎が社会党離党】 | |||
3.26日、江田三郎が社会党離党。三宅坂の社会文化会館で離党手続きを行う意思が強かったが党中央はこれを認めず、三番町ホテルで行われた。離党手続きは、訪ねて来た石橋書記長に江田が離党届を手渡しただけ、ドライに短時間にケリがついた。離党した江田は、秘書の矢野凱也だけを連れて国会記者会館四階の大会議室に赴き、百人を越す記者の前で「離党にあたって」を読み上げた。参院選全国区出馬と政治集団「社会市民連合」結成の意向を表明。 「離党にあたって」声明文は次の通り。
次の注目記事がある。1977.3.27日付け読売新聞「座談会――江田氏脱党の波紋」 。司会は「読売新聞」(東京)編集局次長兼政治部長 渡辺恒雄(以下、ナベツネと記す)で、出席者は、社会党代議士・大柴 滋夫、社会党前委員長・勝間田清一、運輸労連委員長・中川 豊、専修大学教授・正村 公宏、総評議長・槇枝 元文。これをれんだいこ風に要約すると、ナベツネの音頭で企画された座談会であり、ナベツネの意図は、社会主義協会の教条主義批判に重点があり、その限りにおいて「江田脱党の正義」を売り出していることが分かる。 それに対し、正村氏が「江田脱党の正義」を正真正銘援護しており、次のように述べている。
他に、勝間田氏の次の発言が注目される。
読売新聞のナベツネは、4.11日にも特集記事「社会市民連合結成 “江田連合”広がる波紋」を書き上げている。それによると、概要「江田氏の脱党行動を待ちかねていたように、後続者が一斉ほう起しつつある」として各地の叛旗情勢を伝えている。この記事が事実ならともかく、かなり「やらせ記事」の臭いがするものとなっっており、ナベツネの政治主義が見え隠れしている。 |
【社会市民連合事務所びらき】 | |||
3.31日、社会市民連合事務所びらき。この時、管直人が結集していることが注目される。江田は、公開討論会講演「開かれた市民参加の道」で次のように述べている。
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【社市連と「参加民主主義をめざす市民の会」(代表・田上等、管直人ら)が公開討論会】 | |
4.24日、社市連と「参加民主主義をめざす市民の会」(代表・田上等、管直人ら)が公開討論会「連合の課題と展望」。「参加民主主義をめざす市民の会」は市民運動グループとしてこれまで参議院選で市川房枝、東京7区に菅直人を立候補させるなど活動してきた。政策的な近さがあり、社民連との公開討論会に入る。
討論を通じて、1・今後の政策形成過程、組織づくりの過程における市民の直接参加の保障。2・連合体的自主組織を理想とする。3・「社会党的中央集権的性格、労働(組合)運動偏重主義を排し、生活者の党を目指す。4・既成の社会主義論に対し「新しい社会主義」を掲げ、議会制民主主義の堅持、分権と自治の徹底、制御された市場の活用を求める、等々で意見の一致を見せている。その他注目される論点として、「自由な社会主義を追求する。市民の自主性にもとづく運動を進める。そういう人々がタテの関係でなしに、各々が対等であり平等であるというヨコの関係で、新しい政治集団をつくっていく。批判の側にまわるだけではなくて、つくる側にまわらなければいけない。自民党的札勘定の離合集散(マネタリー・アニマル)ではなく、社会党・共産党的イデオロギー・アニマルのどちらも排する」。 江田氏は次のように述べている。1・個人の自主性を尊重する。「のびのびした自由な社会主義、私個人でいえば構造改革論以外に、人間の顔をした社会主義をめざしたい。小型社会党になってはいけない。市民のワイワイ、ガヤガヤの自由なエネルギーに依拠しなければならないと思ってます」。2・民主集中性をふり回す社会主義協会を批判する。3・政党支持の自由、4・企業献金却下。5・ボランタリー主義。 公開討論会終了後、江田氏をはじめ社会市民連合の数名のメンバーが、武蔵境の「参加民主義をめざす市民の会」の事務所を来訪。管直人氏が「社会市民連合への参加を決意」している。「“批判勢力”の結集ではなく、市民参加型の“責任勢力”をめざす上で、いくつかの選択肢の内、私は社会市民連合に参加することが最も大きな可能性を持つと考え、そこへの参加を決意したものである」と結んでいる。 「社会市民連合結成に向けて一九七七年四月の提案=政策大綱(要旨)」は次の通り。
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【江田三郎が急逝】 |
5.22日、新党運動の全国行脚を続けていた江田三郎が逝去した。 5.23日、江田三郎葬儀。江田五月が、亡父にかわり参院選出馬を決意披露した。大柴滋夫が社会党を離党して社市連に参加。 5.25日、社会市民連合全国準備会結成総会(代表委員は江田五月・大柴滋夫・菅直人)、江田三郎追悼集会。 |
【第11回参議院選挙】 |
7.10日、第11回参議院選挙。(自民63名、社会27名、公明9名、民社6名、共産5名、新自ク3名、社市連1名、諸派1名、無所属5名当選。与党127対野党123)。 社市連は、全国区で江田五月を立て、139万2475票を獲得、社会党国際局長の田英夫に次いで第二位当選。地方区に菅直人ら9名を擁立したが全員落選。 共産党は、9つの改選議席を辛うじて5議席確保したものの、4議席減という惨敗を喫した。下田京子、宮本顕治、市川正一の3名が当選、加藤進、近藤忠孝、春日正一、星野力の4名が落選。党首の当選としては50名中39位当選、予想を下回る70万票で、他の政党の党首が衆議院地方区でトップ当選していることと比較しても情けないものがあった。得票数、得票率も前回参院選より大幅に減少させるという文字通りの完敗を喫し、全党は大きな衝撃を受けた。宮本委員長は、選挙に負けたのは「反動勢力の反共シフトのため」と言い訳し了承されている。 社会党は、27議席しかとれず、前回の31議席を更に下回った。参議院選後初めて開かれた中執委で、成田委員長は「敗北の責任をとって辞めたい」と辞意を表明。石橋書記長も連帯責任をとると表明。 |
【社会党第41回大会】 |
9.26日、社会党第四十一回大会開催。飛鳥田横浜市長の委員長人事で難航。 同夜、改革推進(反協会)グループ幹部会が開かれ、楢崎弥之助、安井吉典党副委員長、下平正一、曽我祐二(佐々木派)、山本幸一、中沢茂一、野々山一三(革新研−旧江田派)、八百板正、石野久男(安打同)、佐藤観樹(勝間田派掘昌雄系)が出席。 |
【日航機ハイジャックダッカ事件】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
9.28日、日航機が前日のマレーシア・クアラルンプール空港到着寸前の墜落炎上に続いて、パリ発東京行きの472便が赤軍を名乗る日本人にハイジャックされる事件が勃発した。直ちに対策本部(本部長、園田官房長官)が設置され、28日夜から未明にかけて福田首相をまじえ首相官邸で事態の収拾策について協議を続けた。福田首相は、「難しいよ、交渉なんだから」と言い残したきり執務室へ入ったきりであった。9.29日未明、 元朝日新聞編集委員(現AERAスタッフライター)の田岡俊治氏は、常々、朝日ニュースターの番組「パックインジャーナル」に於いて、ダッカの際の人質は、米国人が居たからであって、「人命は地球より重い」と云われたその人命は、「米国人の人命」(米国銀行会長でカーター大統領の友人であるガブリエル氏)であって、日本政府にとっては「米国人の人命は地球より重い」と云うことだったのだ |
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【共産党第14回臨時党大会開催される】 |
上田副委員長 ○期日.会場.代議員数について 10.17日−22日 ○大会の眼目 大会の眼目は、 選挙連敗について総括。公明・民社・新自クを自民党政治の補強勢力と批判。民主連合政府について、「より長期的な視野で展望することが必要」と決議。1977年第14回大会で、まず「民主集中制の規律の強調」をした。 ○採択決議について ○新執行部について 野坂議長7選、宮本委員長、不破書記長を3選。袴田失脚(副委員長・常任幹部会員の全役職剥奪される。更に、12月30日付けで除名)、岡正芳閉居が判明。これまで宮本委員長を支えてきた戦前派幹部を多数更迭し、若手幹部で宮本委員長を支える新指導部を選出した。宮本氏は、袴田粛清担当で大活躍し、私的分派ボスの栄光と権威を守りぬいた小林中央委員・元宮本秘書の功績を高く評価し、常任幹部会員へと2段階特進させた。 |
【共産党第14回臨時党大会での党の方針の特質と要点】 |
○〈本党大会までの執行部評価〉について @〈世界情勢に対する認識〉について A〈国内情勢に対する認識〉について B〈党の革命戦略〉について 「敵の出方」論に立った暴力革命の方針や「労働者階級の権力の確立」すなわちプロレタリア独裁の方針等を明らかにしている綱領、「日本革命の展望」等の基本路線を堅持することを再確認した。また、「民主連合政府」構想について、構想そのものは堅持しながらも、「政府」樹立の時期についてはこれまで「70年代の遅くない時期」としていたのを「70年代から80年代にかけて」に繰り延べることを明らかにした。 C〈党の革命戦術〉について D〈党の具体的な運動方向〉について E〈党の大衆闘争指導理論〉について F〈党の機関運営〉について 更に、「年間計画」方式による党勢拡大と「教育立党」をスローガンにした学習教育強化による質、量両面からの強大な党の建設に取り組むこと、戦闘的な大衆運動、労働運動の方針を採用して労組、大衆団体等の中に影響力を拡大し、下から日本共産党ベースの統一戦線機運の醸成に努めること、党運営面では引締めの方向を採ることなどを主な内容とする党立て直しの方針を明らかにした。 G〈左翼陣営内における本流意識〉について H〈この時期の青年戦線.学生運動〉について 野坂引退 |
【社会市民連合の結成大会】 |
10.29日、「社会市民連合の結成大会」が開催される。代表委員として、大柴滋夫、管直人、江田五月を選出。副代表委員に西風勲、安東仁兵衛。事務局長に大柴滋夫(兼任)。田英夫グループと合流し、翌年1月に新党を結成する旨確認。 大会宣言には、「われわれは市民革命が掲げた自由、平等、連帯の諸理念を継承し、資本と利潤が優先される資本主義を確実に制御しつつ、公正、参加、保障、自治を実現する、より自由でより分権的な社会主義をめざす」、「とりわけ二十年余にわたる自民党単独政権を確実に終焉させるときである。これにかわる政権は改革的保守派とも提携する革新的諸党派の連合政権以外はない。この政権こそ、いくつかの選択肢が積極的に競われ調整される過程をつうじて、国民の政治参加と政治的民主主義の活性化をうながし、国民的合意の下に、社会の改革を漸進的に実現するだろう。いま、われわれをゆり動かして止まないものは、新しい革新政党建設への衝動である」、「新しい社会主義、新しい政治、新しい党の暁は明けつつある」とある。 |