【1975年当時の主なできごと.事件年表】 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
2002.10.20日 れんだいこ拝 |
【日共が狭山事件支援闘争から離脱】 |
1.10日、赤旗は、「冤罪事件として確信のない事件を軽々に政治運動化することは無責任であり、狭山事件は無罪が確定していない」(「一般『刑事事件』と民主的救援運動」)と述べ、狭山闘争からの離脱を鮮明にした。日共系弁護士は、2.23日、弁護人を辞めた。 党中央のこの見解は、司法・検察側と全く同一の論理であって、それまで冤罪事件として一定の弁護・支援活動をしてきた行動を否定したことになる。明らかな弁護方針の転換となった。 |
1.22 | 自民党定期大会、三木新総裁を追認。 |
【ロッキード事件発生】 |
2月、ロッキード事件発生。(「(別章)ロッキード事件」で論考) |
【中核派最高指導者本多延嘉書記長各マル派にテロられ死亡】 |
3.14日、中核派最高指導者本多延嘉書記長各マル派にテロられ死亡。革マル派の機関紙「解放」(75.3.24日付け)には「現代の黒百人組の終焉」、「スパイの頭目に怒りの階級的鉄槌」の見出しで、「一層怒りをかきたてられた我が戦士は、ポンタの歴史的な悪行を数え上げ告げ知らせながら、そのぶざまに脂肪がつき弛みきった四肢に容赦ない鉄槌を振りおろし、ブクロ派の犯した一切の反階級的言動の重大な意味を物質的に自覚させたのである」と報ぜられた。 鈴木卓郎の「共産党記者30年」によれば、概要「この日午前5時頃、『七社会』の各社のデスクに、『午前3時22分中核派本多延嘉書記長に鉄槌を加えてきた』と荒い息遣いで電話がかかってきた。この電話を裏付けるように、同日夕、革マル派の土門肇・政治組織局員等が記者会見を開き、『我が戦士が階級的な怒りの鉄槌を加えたものだ』と戦果を誇った」とある。「本多に対して鉄槌を加えたのも、殺害が目的ではありませんでした。彼が死に至ったのは、全学連戦士の燃えたぎる階級的怒りが、鉄槌の一振り一振りにおいて表現されたことの結果であるということです」(立花隆「中核VS革マル」)と述べたともある。 3.15日、これに対し、中核派が前進社で記者会見を行い、「全党全軍は復讐の全面戦争に総蜂起し、全ての革マルを叩き潰すであろう」と、無制限の全面戦争突入を声明し、「黒田、松崎、土門らをはじめ全反革命分子に死の処刑攻撃」を「厳粛に宣言」した。 |
【ベトナム戦争(インドシナ30年戦争)終結】 |
4.30日、南ベトナム解放戦線がサイゴンに無血入城し、臨時革命政府を樹立して全権を掌握。南ベトナム・サイゴン政権のドン・バン・ミン大統領が無条件降伏してベトナム戦争(インドシナ30年戦争)終結。米軍の援助を失った南ヴェトナム軍は総崩れし、当初2年はかかると見られていた、南の制圧を驚異的な速度で進め、4月には首都サイゴンに迫った。市内はパニックになり、米軍を支援していた関係者は粛正を恐れアメリカ大使館や空港に殺到した。アメリカもサイゴンからの撤退を開始。米大使グラハム・マーチンをはじめとするアメリカ人関係者、及び南ヴェトナム政府要人はヘリコプターで第七艦隊空母などへ脱出した。アメリカの戦死者.事故者約6万人、戦費1389億7400万ドルと発表された。ベトナム側犠牲者は200万人を超えた。(「ベトナム戦争の概略」) |
4.30 | 田中前首相と河野参院議長、大平蔵相、保利茂代議士が会合。日中平和友好条約の早期締結などを話し合う。 |
意訳概要「フランス共産党のマルシェ同志の最近の教訓によると、ソルジェニツィン問題とか強制収容所問題などで反共攻撃が繰り返されていた時には、党員も活動に実が入らなくなっていた。これに対して、党がこれらの問題でも積極的に攻勢に出て、フランス共産党こそ過去、現在を通じて自由の守り手であり、未来においても自由と民主主義を守り抜くこと、我々の目指す社会主義はフランスの色彩を持つ社会主義だ。フランスの方針はモスクワではなく、パリで決定されるのだという問題を全面的に押し出して攻勢的に打って出たときは、党員が俄然やる気となった。これを思えば、自由と民主主義の守り手としての党の意義を攻勢的に打って出ることにより、我が党の中にある革命的エネルギーが本格的に発揮される」。 |
5.19日、佐藤元首相が「長栄会」の席で脳卒中、意識不明状態に入る。6.3日、佐藤元首相死去。6.16日、日本武道館で国民葬。 |
7.4 | 第75通常国会終了。 |
【「創共協定」発表される】 |
7.27日、「創価学会と日本共産党との合意についての協定」文書(「相互不干渉・共存の十年協定」)が創価学会.日本共産党の双方から発表された。「歴史的和解」であった。協定調印は、1974.12.28日であることが判明した。署名.捺印は、共産党は上田耕一郎、創価学会は野崎勲があたった。つまり調印から7ヶ月近く秘密にされたことになる。作家.松本清張氏の仲介の労であったことも判明した。公明党の竹入委員長、矢野書記長らには秘せられていたことも判明する。「頭越し」。このことが創価学会(秋谷.青木副会長)と公明党間に亀裂を走らせることになった。 この協定で、共産党は、宗教論の新解釈と国定イデオロギーの非強制面の理論的成果を得た。この協定が発表されるや共産党はこれをあたかも「共同闘争」のように扱い宣伝攻勢を掛けた。これに竹入公明党委員長ら党側が猛反発し、野崎総務は「共存の可能性を探ったものにすぎず組織的共闘は約束していない」と言明。これに共産党が反発し、協定はすぐに形骸化する。 76年8月に宮顕委員長が池田会長に協定順守の会見を申し込むが、学会側はこれを拒否。「10年協定」は1年後には崩壊し、共産党と創価学会・公明党の共同闘争の試みは何ら実を結ばないまま破綻することになった。 |
8.10 | 日台空路再開。 |
8.18 | 田中前首相が、椎名副総裁と会談。年内解散回避などで一致。 |
「問題の経緯は亘前知事から聞いたが、『田中さんは農民から頼み込まれて、仕方なく買った』という話だった。訴訟になるのは不自然な気がする。訴訟の背後に政治的色彩を感じ嫌な気がする」。 |
【9.30日、天皇・皇后両陛下、初訪米】 | |||||
9.30日、天皇・皇后両陛下、訪米に出発。10.14日、帰国。
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1975.11月号前衛に、上田耕一郎の「理論政策活動の新しい前進のために」が掲載それた。上田は、「五 国際共産主義運動と社会主義の歴史的展望」の中で、次のように述べている。
上田の報告文書は、このスターリンの誤りのあと、2・コミンテルン、プロフィテルンについての歴史的研究、3・ソ・中対立とそれぞれの誤り、4・大国主義的干渉と国際共産主義運動の団結の回復へと続いている。 |
【公労協のスト権スト不発する】 |
11.26日、日本国有鉄道総裁の藤井松太郎が10.21日、国鉄当局の見解として条件つきでスト権付与を認る考えを明らかにし、労組側はこれを好機と捉えて三公社五現業の総評系9組合全てが参加した公共企業体等労働組合協議会(公労協)がスト権奪還ストに突入した。ところが足並みそろわず気勢上がらず失速する。12..1日、三木首相が「ストに屈しない」との声明を発表した。国労と動労はただちにスト中止に動き、12.3日までの8日間でストは収束した。 この頃より、1960年後半から70年代前半にかけてマル生粉砕闘争、アジ電車等で名を高めた「鬼の動労」の実質的な最高指導者(当時は東京地方本部委員長、1985年に動労中央本部委員長に就任する)にして革マル派最高幹部№2の松崎明が、「職場と仕事と生活を守ろう」、「驕る平家は久しからず。イデオロギーで飯が食えるか」と云い始め、労使協調路線に転換する契機となる。これにより、松崎は「資本の軍門に下った」、「当局の下女」、「鉄労以下」と批判を浴び始める。 |
11.28 | 田中彰治元代議士死亡。 |
12.2 | 新星企業事件で、山田泰司元社長に懲役1年6月、執行猶予2年などの有罪判決。控訴せず刑が確定。12.12日、田中金脈に関連した新星企業の宅地建物取引業法違反などで有罪判決。 |
【立花隆「「小畑中央委員リンチ死事件」論文が発表される】 |
12.10日、「文芸春秋」1976.1月号発売。立花隆氏による「小畑中央委員リンチ死事件」論文が発表された。宮本の「特異体質によるショック死」説を否定し、「リンチはあった。スパイとされた小畑の死因は傷害致死」と暴露した。この間ロッキード事件の発生のため、宮顕の査問事件の追及は沙汰止みとなっていたが、これによって一挙に火を噴いていくことになった。 12.10日、赤旗は、「古びた反共理論と反動的裁判所資料の蒸し返しー『文春』立花隆氏の日本共産党研究なるものの特徴ー」を連載し始めた。12.11日、赤旗は、宮本の「スパイ挑発との闘争-1933年の一記録」を再録、全文公開して対抗した。 12.20日、「第7回中総」で、宮本委員長は、立花論文に触れて「歴史的ニヒリズムと特高警察史観」、「悪質な反共宣伝、反動裁判所資料の蒸し返し」によるものと反撃。「共.創十年協定」の破綻も追認した。 |
12.24 | 臨時国会で、赤字国債発行のための財政特例法が成立。 |
【猶太長老會議(ブナイブリス)の重要會議が開催】 | |
「阿修羅雑談専用22」の石工の都仙臺市氏の2007.1.31日付け投稿 「なにゆゑに田中角榮は總理大臣と成つたのか。サクラメンテの怪會談と云ふ謎」に次のような記述が為されている。貴重情報であるので転載しておく。
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