【1973年当時の主なできごと】



 (最新見直し2010.05.22日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「田中政権在任中の流れ1」でも検証している。




 48年度予算編成で、公共事業関係費は前年度比32%増となり、内需拡大型の積極財政策をとった。




 1.1日、宮本委員長、赤旗で、「全野党共闘は幻」と批判。




 1.1日、連合赤軍最高指導者森恒夫が東京拘置所で首吊り自殺(享年28歳)。




 1.7日、フィリピンのマルコス大統領が新憲法を発効し戒厳令続行を宣言する。1.17日、フィリピン、戒厳令の下、新憲法が発布される。マルコス大統領に強大な権限が与えられることとなる。




 1.8日、パリのベトナム和平交渉が再開される。1.15日、ニクソン大統領が北爆中止命令を出す。




 1.13日、田中首相が、憲政史上初めて共産党首脳と個別会議を行う。




 1月、周恩来総理、木村武雄自民党衆院議員と会見。林佑一駐中国臨時代理大使が北京に到着、日本国大使館開設。米国鈞駐日臨時代理大使ら11人が東京に到着。




 1.22日、アメリカ第36代大統領・ジョンソン(Johnson,Lyndon Baines)没(享年64歳)。




 1.27日、米、南.北ベトナム、南ベトナム臨時革命政府の4代表が、パリでベトナム和平協定と議定書に調印。1.28日、ベトナムの停戦が発効する。3.29日、アメリカ軍が、南ベトナムからの撤退を完了する。




 1.29日、カンボジア大統領ロン・ノルが攻撃作戦停止を指示する。




 1月、自民党の橋本登美三郎幹事長が、「社会主義には自由が無い」、「一度奪われた自由は再び手にすることは出来ない」と述べ、「自由社会を守れ」キャンペーンを開始した。




 2.1日、浅間山が12年ぶりに爆発する。




 2.6日、社会党第36回大会(進出著しい社会主義協会派により江田三郎は中執委から締め出される)。




 2.10日、公労協がスト権奪回を要求して初の半日拠点ストを行う。2.14日、酒井総評副議長らがスト権問題でジュネーブのILOに提訴する。




 2.12日、ドル10%切り下げ、円は変動相場制へ移行する。2.14日、大蔵省が、外国為替相場の変動幅制限を停止する。変動相場制へ移行する。




 2.17日、政府が教職員の人材確保法案を国会に提出する。




 2.18日、社会党京都府本部が、共産党との対決と蜷川府政批判を打ち出す。




 3.1日、スーダンのハルツームのサウジアラビア大使館をパレスチナ・ゲリラ「黒い9月」が占拠し、ゲリラ指導者の釈放を要求する。




 3月、陳楚駐日大使が東京に赴任。小川平四郎初代駐中国大使が北京に着任。




 3.9日、北アイルランドの住民投票で、98%がイギリス国内に残留することに賛成する。




 3.13日、国鉄労働組合(国労)と国鉄動力車労働組合(動労)が遵法闘争を始める。国鉄高崎線上尾駅(埼玉県上尾市)で、順法闘争に怒った乗客が暴動化し、約1万名が高崎線が騒擾化する。この暴動は同じ高崎線の桶川駅、北本駅、鴻巣駅、熊谷駅と、東北本線の埼玉県内各駅にも飛び火し、これら地域一帯で一時的に治安が悪化した。宮原駅では、常日頃から通勤による疲労に耐えかねた乗客らが駅助役を拉致し、約4km先の大宮駅まで無理やり歩かせた(この時、大宮駅でも暴動が発生していた)。これにより、上尾駅周辺は約11時間に渡り運休となり、運行再開するも正常なダイヤでの運行は出来ず、代行バスで対応するものの終日ダイヤは混乱した。これを「上尾(あげお)事件」と云う。




 3.20日、熊本水俣病第1次訴訟で患者側勝訴=4大公害裁判、患者側勝利で結審→責任のすべては国と企業に。総額9億3000万余りの損害賠償命令が下る。


 3.22日、予算委員会で、上田哲・社会党議員は、F4EJファントム一番機、2番機が米本土から無着陸で飛来したことを踏まえ、当時の最新鋭戦闘爆撃機F4EJファントムに空中給油装置が装備されていることを「無限に航続距離が伸び憲法の専守防衛に反する」と指摘し、3週間に及ぶ激しい論争となった。

 政府答弁のウソの積み重ねが明らかになり、4.10日、田中首相は、予算委員会で、1・ファントムから空中給油装置を取り外し、2・空中給油機は買わない、3・空中給油訓練はしないとの3点を政府の公約と宣言した。世界で一番多くの128機ものファントムを保有していた日本は、その全機の背中から空中給油装置を取り外した。



 3月、赤軍東京都委員会派、赤軍派第一回臨時総会を開催。臨時総会派結成。




 3.27日、日中の初代大使が赴任する。




 4月、前衛派、共産主義者党に改称。




 4.9日、パレスチナゲリラが、ニコシアのイスラエル大使公邸と空港を襲撃する。




 4.10日、田中角栄首相が、参議院予算委員会で小選挙区制の採用を表明する。4.11日、田中角栄首相の小選挙区制の提案に反対して国会審議を全面拒否する。4.16日、政府は、10日に表明した小選挙区制導入の国会提出を断念する。5.15日、社会、共産、公明の3党と総評などが、小選挙区制粉砕全国統一行動を起こす。32万人が参加する。5.16日、田中首相、小選挙区制導入断念。5.16日、政府が、今国会での公職選挙法改正案の提出を断念する。




 4.12日、国民の祝日法が改正され、振り替え休日が実施されることになる。




 4.12日、文化大革命で失脚したトウ小平が復活し、副首相に就任する。




 4.17日、春闘共闘委が、年金改善・週休2日制などを要求して53単産のストを行う。4.24日、順法闘争で、首都圏28駅で電車の遅れに怒った乗客が暴動を起こす。国電がマヒし、138人が逮捕される。




 4月、「共産同」中間派の「荒派」でも、1972年の「5・13神田解放区闘争」で大量検挙されたことに対する責任追及をめぐって、党建設を重視する荒岱介派と武闘路線を重視する反荒岱介派が対立、翌1973.4月には、反荒岱介派の一部が「国際主義派」を名乗って分裂し、次いで同年6月には、反荒岱介派の多数を占める「大下敦史派」が分裂した。




 4月、中日友好協会代表団(団長=廖承志同協会会長)一行55人が、日中友好協会正統本部など22団体の招きで訪日。田中角栄首相、大平正芳外相とそれぞれ会見。日中友好議員連盟成立(自民、社会、公明、民社、第二院クラブ、無所属国会議員ら400名で結成。会長は藤山愛一郎氏)。




 4.22日、名古屋市長選挙で社共推薦の本山政雄が初当選する。




 4.24日、日中友好議員連盟が設立される。




 4.25日、56代首相・石橋湛山死去(享年88歳)。




 4.25日、最高裁が、全農林警職法反対闘争など3件の官公労争議の刑事裁判の中で、公務員の争議禁止は合憲との判決を下す。




 4.26日、春闘ゼネストに突入する。




 4.27日、ウォーターゲート事件が政治スキャンダルに発展。4.30日、ウォーターゲート事件で、リチャード・クラインディーンスト司法長官とハリー・ハルドマン、ジョン・アーリックマン両大統領補佐官が辞任する。5.17日、アメリカ、ウォーターゲート特別調査委員会の公聴会が始る。6.25日ウォーターゲート事件で上院の公聴会が開かれ、大統領の元法律顧問のJ.ディーンが証言する。この中で、ディーンは大統領執務室に録音装置があるのではないか、と証言し新たな展開が始まる。7.16日、ウォーターゲート事件で上院の公聴会が開かれ、ホールドマンの補佐のA.バターフィールドが大統領執務室に盗聴装置が存在することを証言する。8.15日、ウォーターゲート事件でニクソン大統領が、特別検察官A.コックスが要求するテープの提出要求を拒否する。




 4.27日、ソ連共産党中央委員会総会で、政治局員にグロムイコ外相、グレチコ国防相、アンドロポフ国家保安委員会議長を選出する。




 5.1日、資本自由化が実施される。




 5月、赤軍武装路線堅持派、赤軍派(革命戦争編集委員会)と赤軍派再建準備委員会派に分裂。




 5.11日、政府、小選挙区制移行の検討に着手。野党猛反発で国会審議を全面拒否し国会が機能停止。




 5.16日、日本、オーストラリアなど16ヵ国がWHOに初めて核実験禁止決議案を提出する。


 5.26日、増原防衛庁長官が、天皇の政治利用の発言を行い問題化する。5.29日、増原防衛庁長官が天皇の政治利用発言の責任をとって辞任する。



 6月、戦旗派が、日向派(荒派)・西田派(両川派)・プロレタリア戦旗派(本多派)・国際主義派に分裂。




 6月、中国の天津市と日本の神戸市が国交正常化以後初の中日友好都市関係を締結。




 6.5日、参院内閣委員会で中曽根通産相がイラン首相に「日本は王制の国」と語り追及される。


 6.8日、ブラントが、西ドイツ首相として初めてイスラエルを訪問する。

 6.14日、北ベトナムのハイフォン港の機雷撤去が開始される。

 6.16日、ソ連のブレジネフ書記長がアメリカを訪問し、核戦争防止協定に調印する。6.22日、訪米中のソ連のブレジネフ書記長とニクソン大統領が核戦争防止協定に調印する。

 6.17日、根室半島沖地震。マグニチュード7.4、負傷者26、家屋全壊2、一部破損1、小津波あり。

 6.17日、自共対決の参院大阪地方区補選で共産党の沓脱タケ子が当選する。

 6.18日、東京地検が、殖産住宅会長の東郷民安を脱税容疑で逮捕する。

 6.27日、中国が15回目の核実験を行う。



 7.5日、日本共産党が、ソ連と中国の核実験にも反対するとの路線転換を表明する。宮顕は、核実験問題に対する一大政策転換を発表した。「共産党は、社会主義国の核実験には、賛成しないが余儀なくされたもの、防衛的、という見方をしてきた。しかし、この数年間のうちに重要な変化が起こった」として、従来の運動方針に固執しないと言明した。




 7.6日、生活関連物資の買占め・売り惜しみに対する緊急措置法が公布される。




 7.9日、水俣病補償交渉で合意が成立する。


【自民党内に「青嵐会」結成される】
 7.17日、自民党内に思想的行動集団「青嵐会」結成される。趣意書は、「自由社会を護り、外交は自由主義国家群と親密なる連携を堅持する」と冒頭に掲げている。 2番目に教育、4番目に国防と治安、5番目が自主憲法制定。趣意書の最後に「一命を賭して実践することを血盟する」とあり血判を押す。代表世話人には、中川一郎、渡辺美智雄、玉置和郎、湊徹郎、藤尾正行。座長・中尾栄一、幹事長・石原慎太郎、事務局長・浜田幸一。その他中山正あき。

 参加者は以下の通り。
衆院議員26名 中川一郎(代表世話人4、水田派)、藤尾正行(代表世話人4、福田派)、湊徹郎(代表世話人4、中曽根派)、渡辺美智雄(代表世話人4、中曽根派)、内海英男(3、船田派)、加藤六月(3、福田派)、中尾栄一(座長3、中曽根派)、森下元晴(3、中曽根派)、阿部喜元(2、中曽根派)、江藤隆美(2、中曽根派)、国場幸昌(2、福田派)、近藤鉄雄(2、三木派)、中村弘海(2、椎名派)、中山正喗(2、水田派)、浜田幸一(事務局長2、椎名派)、松永光(2、中曽根派)、森喜朗(2、福田派)、山崎平八郎(2、福田派)、綿貫民輔(2、椎名派)、石原慎太郎(幹事長1、無派閥)、島田安夫(1、福田派)、中尾宏(1、椎名派)、野田毅(1、中曽根派)、林大幹(1、福田派)、三塚博(1、福田派)、山崎拓(1、中曽根派)。
参院議員5名 楠正俊(2、無派閥)、佐藤隆(2、福田派)、玉置和夫(代表世話人2、無派閥)、土屋義彦(2、福田派)、丸茂重貞(2、福田派)。

 当選回数は中川、藤尾、湊、渡辺が4回、あとは3回以下である。のちに首相になった森は2回、中尾は3回、浜田2回、石原1回。参院は玉置がまとめ役となっていた。支持母体は「生長の家」という右翼宗教であった。激しいマスコミ批判に耐え切れず、脱会したものも出た。山崎、野田、綿貫、内海らである。



 7.17日、アフガニスタンでクーデターが起こり、王制を廃止・共和制移行を宣言する。




 7.20日、日航ジャンボ機がアムステルダム上空でパレスチナ・ゲリラに乗っ取られる。テルアビブ事件1年2ヶ月後日本赤軍丸岡修とパレスチナ.ゲリラ4名が日航ジャンボ404便をオランダ.アムステルダム空港離陸後ハイジャックした。「日本とパレスチナの革命を結合する世界革命戦争」を唱えた。3日間各地を転々としてリビア・ベンガジ空港で人質解放、機体を爆破。7.24日、パレスチナ・ゲリラ、乗っ取った日航ジャンボ機をリビアのベンガジ空港で爆破。丸岡修らが逮捕される。




 7.21日、フランスがムルロア環礁で核実験を行う。




 7.23日、労が、動労に誹謗中傷禁止などの共闘条件を提示する。




 7.31日、田中角栄首相が、ワシントンにニクソンを訪問する。ワシントンで田中.ニクソン会談。




 8.2日、人民日報に、孔子を批判した楊栄国の論文が発表される。林彪批判と周恩来批判が始まる。


【金大中事件】
 8.8日、1971年春の韓国大統領選挙において540万票を集め、現職の朴大統領を僅か94万票の得票差にまで追い詰めた韓国野党の第1人者政治家キム・デジュン(金大中)氏が、白昼(午後1時半ごろ)東京・飯田橋九段下のホテルグランドパレス)から拉致されるという事件が発生した。これを「金大中事件」と云う。部屋には北朝鮮のタバコとバッジが置かれてあり、北朝鮮の仕業に見せかけられていた。当初は金大中氏の生存を悲観視する見方が多かった。しかし、意外なことに若干の傷を負いつつも、事件から5日後の8.13日夜、本人が無事にソウルの自宅に現れた。9.5日、金大中事件で、日本政府が容疑者として金東雲・駐日韓国大使館1等書記官の出頭を申し入れる。韓国側は拒否する。

 首謀者はKCIA(韓国中央情報部)部長・李厚洛による事件であったことが判明した。2007.1月、当時の毎日新聞ソウル特派員であった古野貴政氏の著作「金大中事件の政治決着」(東方出版)によると、事件のあった1973年に朴大統領の政敵である金大中のみならず大統領のすぐ下を支えていた四天王ともいうべき有力者がすべて粛清されている。「金大中事件」は、この政治ドラマに関わっていると思われるので簡単に確認しておく。

 李厚洛は、学徒動員による旧日本軍の陸軍少尉として終戦を迎え、戦後、米軍が開設した軍事英語学校を卒業、李承晩政権下では大邱陸軍本部の情報局の次長をつとめ、米国へ留学した。その後、教育総本部参謀長、駐米大使館付き武官、さらに韓国における最初の情報部である国防部直轄の「79部隊」の機関長を歴任して、61年に少将で予備役編入、張勉政権下では中央情報委員会研究室長となった。いわば、韓国情報機関の生え抜きのプロフェッショナルである。朴軍事政権の5.16クーデターでは、最初は反革命分子として逮捕された。しかし、初代KCIA部長の金鐘泌により釈放され、最高会議公報室長として朴正熙将軍の配下に入った。革命後の1963年に朴大統領が青瓦台に入城して以来、終始、朴大統領を支える主要人物の1人となり、1963.12月、秘書室長。1970.12月、KCIA部長。朴政権下では、後述する警備室長の朴鐘圭と対立するが、知力・業務処理能力などの力量において、李厚洛は朴鐘圭をはるかに越える大物であり、それを知る朴大統領はこの2人を牽制・競争させて利用したようである。つまり朴政権下のすさまじい権力闘争を生き抜いてきた人物である。1968.8.15日、「国土統一院」設置。1970.8.15日、「8.15平和統一宣言」。

 1972.5.2日、ピョンヤンを極秘に訪問して北朝鮮の首相である金日成と実弟のナンバー・スリーの金英柱と会談を行い、7.4日、自主的な民族統一をうたった南北平和統一に関する共同声明の発表まで持ち込んでいる。北朝鮮の金日成首相は、決死の覚悟で単身ピョンヤンに乗り込んだ李厚洛の態度に驚き、「わがほうにこのような勇者はいない」と羨ましがったという話が伝えられている(「朝日新聞」72年12月12日)。李厚洛は北朝鮮との交渉を成功させ、1972.7.4日、南北平和統一に関する共同声明の発表。8.30日、南北赤十字会談。この業績は、1970年代初頭の韓国において朴大統領に次ぐナンバー2と見られていた尹必鏞将軍に高く評価され、尹必鏞と李厚洛という朴政権の後継者の連携ができあがった。

 尹必鏞将軍は、1961.5月の朴正熙の軍事革命に中領として参加した陸士8期組の1人であり、朴政権のナンバー2に位置する将軍として、朴長期独裁の基盤をつくった実力者でもある。70年以降は首都警備司令官をつとめており、72年10月の「維新革命」では、ソウル地区の戒厳司令官になった。この尹必鏞将軍が、1973.4月、突然、反逆罪で逮捕されて軍事裁判にかけられるという事件が起こり、韓国国民を驚愕させた。4.28日、普通軍法会議は、首都警備司令官・尹必鏞をはじめとする高級将校11名に、横領・収賄・職権乱用・軍務離脱罪を適用して、懲役15年から2年の刑を宣告した。それに付随して、尹必鏞将軍配下の31名が退役させられて、尹派が軍から一掃された。

 この状況下で「金大中事件」が発生している。KCIA(韓国中央情報部)部長・李厚洛自身が策謀したのか、追い落としのための策謀に乗せられたのかが焦点になる。李厚洛は1973.12月、金大中事件によりKCIA部長を解任される。尹将軍、李厚洛に続いて、朴政権を支える四天王ともいうべき警備室長の朴鐘圭も、1974.8月の文世光事件の責任をとって抹殺された。1975.12月、初代KCIA部長で首相の大物政治家・金鐘泌が解任されている。こうして、朴大統領の維新体制側近派が1975年までにすべて抹殺された。尹将軍は、1975.2月、刑の執行停止。1980年春、全、慮政権下で復権、道路公社社長、たばこ人参公社理事長。

 1973.10.17日、北朝鮮の侵略の危険性に対して全国に戒厳令を宣布。10.27日、非常国防会議を開き、憲法改正案を議決した(「維新改憲」)。11.23日、維新憲法による初の統一主体国民会議を開催し、第8代朴大統領を終身制として正式に決定した。11.30日、南北調節委員会が正式に発足した。

 韓国内の在地権力派と国際金融資本御用聞き派の暗闘を見てとるべきではなかろうか。



 8.11日、不破訪仏党代表団。仏共産党との間に共同コミュニケ発表。




 8.21日、チリ全土で反政府ストが行われる。




 8.22日、ロジャーズ米国務長官辞任、ヘンリー.キッシンジャーが後任。




 8.24日、中国、第10回中国共産党全国大会が開催され、トウ小平らが復権する。




 8.26日、江田三郎、現代社会主義研究会・現代革新研究会全国集会で「参院選は社公民で」と挨拶。また、現代の社会主義の理念や社会党のとるべき路線について「民主化と改革の終着駅のないプロセス」ととらえ「自由にもとづく福祉と参加の社会」「計画と競争原理の組み合わせによる新しい経済体制」「派閥次元をこえた構革路線の強力な推進」などを提起。




 9.4日、北朝鮮で、金正日が労働党中央委員会第5期第7回総会で書記に選出される。




 9.7日、札幌地裁が、長沼ナイキ基地訴訟で「自衛隊は憲法違反」と判決。




 9.8日、ソ連の原子物理学者サハロフ博士が、反体制派が投薬で知能傷害を加えられた事実を暴露する。




 9.11日、チリのアジュンデ人民連合政権が軍事クーデターによって崩壊。アジェンデ大統領が、軍部のクーデターにより自殺する。65歳(誕生:1908/07/26)。チリの大統領。




 9.14日、ガット閣僚会議が東京宣言を採択し、新国際ラウンド(多角的貿易交渉)が始る。




 9.18日、仙台高裁が、松山事件の再審請求棄却は誤りとして、差し戻し判決を下す。




 9.18日、第28回国連総会で、東西ドイツの国連加盟が承認される。




 9.21日、日本と北ベトナムが、国交樹立の交換公文に調印する。




 9月、蜂起派から、蜂起左派分裂。「右田派」も、1972.5月の「自衛隊西部方面総監部爆弾事件」や同年7月の「自衛隊市ケ谷駐屯地火炎車事件」の総括をめぐって紛糾を続け、翌1973.9月には、「誤りの責任は非公然軍事指導部にある」とする右田昌人議長派に反対する佐藤秋雄派が「蜂起左派」を名乗って分裂したほか、中間派も存在し、現在、三つのグループに分れている。


 9.23日、アルゼンチン大統領選挙で、失脚していたファン・ドミンゴ・ペロン(78)が大統領に返り咲く。

 9.26日、田中首相が、ヨーロッパ・ソ連訪問に出発する。



 10.5日、米空母ミッドウェーが横須賀に入港する。母港化反対のデモが起こる。




 10.6日、エジプト、シリア両軍が、イスラエルに対する攻撃を開始する。第4次中東戦争の勃発。10.22日、終結。




 10.7日、アラブ諸国が産油量を5%引き下げると発表する。




 10.8日、田中首相とコスイギン首相の日ソ首脳会談が17年ぶりに行われる。シベリア開発を話し合う。10.10日、田中首相訪ソ→日ソ共同声明に未解決の領土問題を盛り込む。




 10.8日、イタリア共産党のベルリンゲル書記長が「歴史的妥協政策」を発表する。




 10.10日、アメリカのS.アグニュー副大統領が、脱税容疑が原因で辞任する。10.12日、アグニュー副大統領の辞任で、フォードが新しい副大統領となる。




 10.12日、連邦高裁が、ウォーターゲート事件でニクソンの訴えを退け、テープを提出するように命令する。10.19日、ウォーターゲート事件、ニクソンがテープの提出の代りにテープの速記録を提出するという声明を発表する。




 10.14日、タイ学生革命。タイ、新憲法早期制定を要求する学生・知識人らのデモが警官隊と衝突する。これがきっかけでタノム内閣が辞職することになる。




 10.15日、第4次中東戦争にサウジアラビアが参戦する。 


【第一次オイルショック発生】
 10.17日、第一次オイルショック。石油輸出国機構(OPEC)機構が、石油の公示価格を1バーレルあたり3.01ドルから5.11ドルへと70%引き上げた(「原油価格21%引き上げを発表」)。いわゆる第一次石油危機が発生した。OPEC10ヵ国などがアメリカなどイスラエル支持国向けの石油生産削減を決定する。

 10.18日、外務省に、クウェートから「各アラブ産油国は石油生産を削減することを決定した。ただしアラブにとっての友好国には影響を与えない」という電報が入る。

 10.23日、第1次石油危機→メジャー、原油価格30%アップを通告→トイレットペーパー売り切れる→物不足バニック=日本列島を席巻(せっけん)=作られた物不足→卸売物価狂乱状態→高度経済成長の終焉。

 10.25日、国際石油資本5社,原油の供給削減,石油危機深刻化。当時日本はすでに世界最大の原油輸入国であり、石油の九九・七%を輸入に依存し、うち八八%が中東からであった。備蓄も「四日分」に過ぎなかった。第一次石油危機は、中近東の安価な石油に依存し、これを大量に消費して高度成長経済を実現してきた日本経済に深刻な打撃を与えた。

 11.11日、停戦協定締結。アラブ産油国の湾岸六カ国は、12.23日に原油公示価格を11.65ドルへの引上げを74.1.1日から実施することを決めた。僅か2ヶ月余りで約4倍、72年末に比べると4.7倍になった。



 10.19日、宋靄齢(Song Ai-ling)没。83歳(誕生:1890)。宋3姉妹の1人で孔祥煕夫人。




 10.20日、アメリカ、土曜の夜の大虐殺と呼ばれる大量解任劇が始まる。E.リチャードソン司法長官が辞任し、特別検察官コックスが解任される(ウォーターゲート事件)。特別検察官、司法長官、司法副長官の執務室がFBIに封鎖される。ボークが新司法長官となる。




 10.21日、国連安保理が、米ソ共同提案の第4次中東戦争の現状停戦を採択する。




 10.22日、巨人軍がプロ野球史上初の9連覇を達成する。




 10.22日、スラエルとエジプトが、第4次中東戦争の国連安保理の現状維持停戦決議を受諾する。




 10.23日、オランダ石油輸出国機構が、アメリカとオランダへの石油輸出禁止と石油生産削減を決定する。第1次オイルショックの始り。




 10.23日、ウォーターゲート事件、アメリカ連邦地方裁判所で、ニクソンがテープを引き渡すと述べる。




 10.23日、シリアが、第4次中東戦争の国連安保理の現状維持停戦決議を受諾する。




 10.24日、国際的な未来研究団体のローマ・クラブが東京で大会を開く。




 10.25日、石油関連のメジャー4社が、原油供給量10%削減を決定する。




 10月、「マルクス主義者青年同盟」(マル青同)が結成されている。「ML同盟」の残存者である「全都解放委員会」と、元共産同政治局員の指導下にあった「レーニン研究会」とが、組織合同して発足した。




 10月、陳楚大使が中華人民共和国国慶節祝賀レセプションを主催、日本の政、財界の2000人が出席。



【第12回党大会】
 ○期日.会場.代議員数について

 11.**日第12回党大会を開く。***会館。***名の代議員が参加した。

 ○大会の眼目

 大会の眼目は、「民主連合政府綱領」の決定と、綱領の一部改正により、合法主義的純化、議会専一主義、反暴力主義の観点からの「国民的合意」を重視した党運動化指針を確立することにあった。宮本委員長から「民主連合政府はこれまでの宣伝のスローガンから実践のスローガンに変わった」と宣言され、その政府綱領案が発表された。天皇制に対する新見解「自然に熟し落ちるような形で解決することが望ましい」が出された。

 ○採択決議について

 プロレタリア独裁が執権に統一されるよう党綱領改訂の手続きがとられた。61年綱領が三点修正された。1.「ソ連を先頭とする社会主義陣営、全世界の共産主義者、全ての人民大衆が、人類の進歩のために行っている闘争をあくまで支持する」のうち「ソ連を先頭とする」の削除、2.「国会を反動支配の道具から人民に奉仕する道具に変え」の「道具」を「機関」に改める。3.「独裁」は、全て「執権」に改める。

 ○党規約改正について

 岡正芳の「日本共産党規約の一部改正についての報告」に基づき、党規約の変更が為された。岡は、改正理由について次のように述べている。
 「中央統制監査委員会が第7回大会で中央委員会と並ぶ大会選出機関とされたのは、1950年以後の党の分裂やそれと結びついた一部の財政活動の混乱などの教訓から、それらを防止しようとの第7回大会の特別の意志に基づくものであった。しかしその後、中央委員会を先頭とする全党の活動は画期的な前進を示し、設立当時の特殊事情も既に根本的に解決されているので、中央機関の活動を一層強力且つ効果的に進めるため、中央機関も民主集中の原則に基づく統一的体制を確立することがますます重要となってきた。こうして、統制委員会を中央委員会の下に置く第10回党大会の措置に続いて今回中央監査委員会も中央委員会の下に置き、その政治的組織的指導と結合して活動するよう規約改正を提案する」。

 こうして、1966年の第10回大会における統制委員会の任命制に続いて、監査委員会もこの第12回大会において党大会選出項目から中央委員会の任命制となった。
この時の改正理由は、「中央の民主集中指導体制を全体として首尾一貫したものとする」と言う論理であった。

 津田道夫氏の「思想課題としての日本共産党批判」は次のように述べている。
 「まず10回大会は、それまでの中央統制監査委員会を中央監査委員会と中央統制委員会に二分割し、中央監査委員会はこれを大会選出、中央統制委員会は、これを中央委員会の任命としたのである。これで、中央機関の構成法にかかわる第7回大会規約の民主的規定は、その大半が崩されるところとなった。そして、今回の第12回大会は、右のように分割された中央監査委員会をも大会選出ではなく、中央委員会任命としてしまった。何の事はない、中央委員会は、自分の任命した中央監査委員会の監査を受けるということになってしまったわけである」。

 ○新執行部について  

 中央委員は、前回の88名から122名、准中央委員は49名から48名、中央統制監査委員は-名から-名を選出した。一層拡大した。

 新しい中央委員会は、議長に野坂、常任幹部会委員委員長宮本、書記局長不破。副委員長に袴田、岡に加えて、沖縄人民党を解党して合流した瀬長が加わった。書記局次長市川、金子は留任。書記局員には、村上、茨木、小島、榊、津金祐近、藤井貞治、細野義幸、韮沢忠雄、水口春喜。常任幹部会員に市川、岩林、上田、戎谷、岡、金子、蔵原、瀬長亀次郎、西沢、袴田、不破、松島、宮本、村上の14名。幹部会委員に緋田吉郎、井田誠、市川、茨木、岩林、上田、内野、戎谷、大淵、大村進次郎、岡、岡本、春日、金子、河田、工藤、蔵原、下司、小島優、紺野、榊利夫、諏訪茂、砂田、瀬長、高原、竹内、多田、西沢、袴田、浜、藤原、古堅実吉、不破、松島、宮本、村上、安井、吉田、米原の39名。上田が常任幹部会委員に昇格、文字通り上田.不破兄弟体制が確立した。

 【宮本-不破-上田体制の確立】

 野坂議長、宮本委員長、不破書記局長体制を再選。

 宮本観点からの信賞必罰。
「民主連合政府綱領案」について
 国民生活防衛と民主的改革の政府。共同綱領に基づき、一致して承認すね国民的諸施策のみ実行する。「政権交代の原則」の承認。綱領案は1.日米軍事同盟と手を切り、日本の平和.中立化で安全を保障する、2.大企業中心の経済政策をやめ、国民の命と暮らしを守り、日本経済の釣り合いの取れた発展を進める、3.憲法改悪に反対し、民主主義の確立と教育.文化の民主的発展をすはかる。
70年当時の党の方針の特質と要点
○〈本党大会までの執行部評価〉について  

①〈世界情勢に対する認識〉について   
②〈国内情勢に対する認識〉について  
③〈党の革命戦略〉について
④〈党の革命戦術〉について
⑤〈党の具体的な運動方向〉について  
⑥〈党の大衆闘争指導理論〉について  
⑦〈党の機関運営〉について  
⑧〈左翼陣営内における本流意識〉について  
⑨〈この時期の青年戦線.学生運動〉について  

○期日.会場.代議員数について

 11.**日第12回党大会を開く。***会館。***名の代議員が参加した。

○大会の眼目

 大会の眼目は、「民主連合政府綱領」の決定と、綱領の一部改正により、合法主義的純化、議会専一主義、反暴力主義の観点からの「国民的合意」を重視した党運動化指針を確立することにあった。宮本委員長から「民主連合政府はこれまでの宣伝のスローガンから実践のスローガンに変わった」と宣言され、その政府綱領案が発表された。天皇制に対する新見解「自然に熟し落ちるような形で解決することが望ましい」が出された。

 1966年の第10回大会における統制委員会の任命制に続いて、監査委員会もこの第12回大会において任命制となった。更なる党中央による党私物化の流れと見ることができる。


○採択決議について

 プロレタリア独裁が執権に統一されるよう党綱領改訂の手続きがとられた。61年綱領が三点修正された。1.「ソ連を先頭とする社会主義陣営、全世界の共産主義者、全ての人民大衆が、人類の進歩のために行っている闘争をあくまで支持する」の「ソ連を先頭とする」の削除、2.「国会を反動支配の道具から人民に奉仕する道具に変え」の「道具」を「機関」に改める。3.「独裁」は、全て「執権」に改める。

 党規約の変更が為された。監査委員会が党大会選出項目から中央委員会の任命制にされた(尚、統制委員会については既に10回大会において決定されている)。この時の改正理由は、「中央の民主集中指導体制を全体として首尾一貫したものとする」と言う論理であった。 

○新執行部について  

 中央委員は、前回の88名から122名、准中央委員は49名から48名、中央統制監査委員は-名から-名を選出した。一層拡大した。

 新しい中央委員会は、議長に野坂、常任幹部会委員委員長宮本、書記局長不破。副委員長に袴田、岡に加えて、沖縄人民党を解党して合流した瀬長が加わった。書記局次長市川、金子は留任。書記局員には、村上、茨木、小島、榊、津金祐近、藤井貞治、細野義幸、韮沢忠雄、水口春喜。常任幹部会員に市川、岩林、上田、戎谷、岡、金子、蔵原、瀬長亀次郎、西沢、袴田、不破、松島、宮本、村上の14名。幹部会委員に緋田吉郎、井田誠、市川、茨木、岩林、上田、内野、戎谷、大淵、大村進次郎、岡、岡本、春日、金子、河田、工藤、蔵原、下司、小島優、紺野、榊利夫、諏訪茂、砂田、瀬長、高原、竹内、多田、西沢、袴田、浜、藤原、古堅実吉、不破、松島、宮本、村上、安井、吉田、米原の39名。上田が常任幹部会委員に昇格、文字通り上田.不破兄弟体制が確立した。

【宮本-不破-上田体制の確立】

 野坂議長、宮本委員長、不破書記局長体制を再選。

 宮本観点からの信賞必罰。
「民主連合政府綱領案」について
 国民生活防衛と民主的改革の政府。共同綱領に基づき、一致して承認すね国民的諸施策のみ実行する。「政権交代の原則」の承認。綱領案は1.日米軍事同盟と手を切り、日本の平和.中立化で安全を保障する、2.大企業中心の経済政策をやめ、国民の命と暮らしを守り、日本経済の釣り合いの取れた発展を進める、3.憲法改悪に反対し、民主主義の確立と教育.文化の民主的発展をすはかる。
70年当時の党の方針の特質と要点
○〈本党大会までの執行部評価〉について  

①〈世界情勢に対する認識〉について   
②〈国内情勢に対する認識〉について  
③〈党の革命戦略〉について
④〈党の革命戦術〉について
⑤〈党の具体的な運動方向〉について  
⑥〈党の大衆闘争指導理論〉について  
⑦〈党の機関運営〉について  
⑧〈左翼陣営内における本流意識〉について  
⑨〈この時期の青年戦線.学生運動〉について  



 10.31日、沖縄人民党は臨時党大会を開き、日本共産党への合流を決定。瀬長亀次郎。




 11.2日、トイレットペーパーの買いだめパニックにより、尼崎市でけが人がでる。




 11.2日、金韓国首相が金大中問題で来日する。金大中事件は政治決着とされる。




 11.4日、OPECが友好国以外に対して石油生産25%削減を決定する。




 11.7日、アメリカの上下両院が、大統領の戦争権限制限法を再可決し、成立する。




 11.8日、早大文学部学生川口大三郎が革マル派のリンチテロにより死亡。これに関して、11.23日付け朝日新聞は、革マル派の最高幹部・土門肇の記者質問に答えて、「こうした我々に対する暴力的敵対に対し我々の自己武装は不可避である。イデオロギー闘争を補助するために暴力的行使は存在する。相手に自分の行為の犯罪性を自覚させ、反省させるための補助的方法である」と述べている。




 11.16日、政府が、石油緊急対策要綱を決定する。石油・電力の10%削減など。




 11.18日、ウィーンで開かれていたアラブ石油大臣会議が、ECに対する5%の石油削減上積みを免除すると発表する。しかし日本は対象とならず。




 11.19日、アラブの石油戦略に脅え、中東外交を転換するための会議が外務省で開かれる。




 11.19日、日本がイスラエルを捨てアラブに寄るという方針転換がアメリカに伝えられる。キッシンジャーは了承せず。




 11.22日、田中内閣が、中東政策を親アラブへ政策転換する。




 11.20日、不知火海三〇漁協、チッソと補償交渉(二二億八、000万円で合意)。




 11.23日、愛知揆一蔵相が急逝。


 11.25日、第二次田中内閣の第一次改造内閣発足。田中内閣発足から1年4ヵ月後福田赳夫氏が大蔵大臣に就任。愛知揆一の急逝により交代。三木副総理、福田蔵相、大平外相、中曽根通産相という顔ぶれ。



 11.26日、アルジェリアで第4次中東戦争後初めてのアラブ首脳会議が開幕する。




 11.27日、公取委が、石油連盟と日本石油など石油元売り13社を小売上げ指示を行った独禁法違反の疑いで強制捜査する。




 11.28日、アルジェリアでのアラブ首脳会議で、日本に対して5%の石油生産削減上積みが免除されることが決まる。しかし25%の削減は免除されず。




 12.1日、田中首相が、石油不足のため「省資源、省エネルギー」を推奨する方針に転換する演説を行う。




 12.5日、アラブ首脳会議で日本が友好国になったとの情報が外務省に届くが、日本はこの情報を重要視せず混乱する。




 12.5日、田中首相、顔面神経痛で入院。




 12.10日、三木武夫副総理が石油危機打開のため、経済援助という土産を持って中東8ヶ国訪問に出発する。12.12日、サウジアラビアを訪問した三木特使がファイサル国王に会談し、経済援助を約束する。国王は日本は友好国であると述べる。




 12.10日、ストックホルムでノーベル賞受賞式が行われ、江崎玲於奈らが受賞する。




 12.17日、公明党に対し、「憲法3原則」と「共闘」で公開質問状。




 12.22日、第1次石油ショックにともなう石油緊急2法が公布・施行される。




 12.22日、定歩合が2%引き上げられ、史上最高の9%となる。




 12.22日、パーレビ国王の招待で、OPEC加盟の石油大臣が会合する。このとき、日本の商社がバレルあたり17ドルで原油を買ったことが報告される。




 12.23日、OPEC会議,石油価格倍増決定。




 12.24日、OPECが原油の公示価格を翌年1月1日からバレルあたり11ドルとすることを発表する。第4次中東戦争前の4倍となる。




 12.25日、OPECが日本を「友好国」とし、原油を必要量供給すると宣言する。




 12.27日、東京都職員に、公務員初のインフレ手当が支給される。


 12.31日、五木ひろしの「夜空」が第15回レコード大賞に選ばれる。この年から紅白歌合戦がNHKホールとなる。












(私論.私見)