【1972年当時の主なできごと】 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
本稿は、「1972年初頭からの首相指名に至る流れ」、「田中政権在任中の流れ1」でより詳しく検証している。 |
2月、宮顕委員長が家移り。東京都杉並区上高井戸から東京都多摩市連光寺に移転した。敷地約200坪、周囲を高いブロック塀で囲い、家族の他防衛隊員が常駐。以降毎週一回、党本部で開かれる党中央常任幹部会会議の前日には、上田、不破、榊、岡本博之、小林栄三、若林ら私設秘書幹部も含めて謀議を凝らして行くことになった。 |
2.16日、群馬県妙義山中で連合赤軍の2人が逮捕される。2.17日、連合赤軍最高指導者森恒夫(27).永田洋子(27)が群馬県妙義山アジト付近で逮捕された。2.28日、連合赤軍がたてこもる浅間山荘は、2.19日から睨みあいが続いていたが、人質の体力が限界にきたと判断した警備本部はクレーン車につるした鉄球で山荘の一部破壊を決行、連合赤軍側もライフル銃などで激しく抵抗、機動隊員2人が死亡する。結局連合赤軍5人は全員逮捕、人質の主婦は無事救出される。NHKテレビが24時間体制で中継する。 |
【連合赤軍浅間山荘事件】 |
2.19日連合赤軍による「あさま山荘篭城事件」が起った。最高幹部が逮捕されていた連合赤軍のメンバー坂口弘ら5名が、軽井沢の保養所・浅間山荘に乱入し、管理人夫人牟田泰子(31才)を人質にとって立てこもった。武装警官1500名が出動し、10日間にわたる銃撃戦の末、2.28日機動隊突入による強行突破で逮捕された。この救出作戦中、警官2名が死亡、23名の負傷者が出た。この経過が現場中継され国民の多くが釘付けとなった。 |
3.3日、赤旗は、一面トップ7段で、「警察、連合赤軍に協力賞 情報収集を名目に 後藤田長官らが答弁 泳がせ政策を裏付け」と大きく報道。 |
3.7日、連合赤軍メンバー12名のリンチ殺人遺体が発見される(群馬県警が、連合赤軍逮捕者の自供から、リンチによって「処刑」された元京大生山田孝の凍死体を発見する。)。京浜安保共闘時代の2名を含めて犠牲者14名。新左翼にショックを与える。 高知聡氏は「日本共産党粛清史」において、「要するに。思想的にシュ儒であった者達が、マンガチックに誇張し、ゲキガチックに非人間的に巻き起こした怪奇な惨劇が、彼等の連続リンチ殺人事件だったのだ」と述べている。 |
【社会党の横路孝弘、楢崎弥之助氏らが、衆議院予算委員会で「沖縄密約問題」を採り上げる】 |
3.27日、沖縄返還協定の批准書が交換された直後(1972.3.15日)の衆議院予算委員会で、社会党の横路孝弘、楢崎弥之助氏らが、「沖縄返還を廻る沖縄返還協定の締結にあたり、日米に密約が存在する。それを示す外務省公電密約が存在する」として「外務省の極秘電報密約の存在」を漏洩し、爆弾発言となった。 安川外務審議官付きの秘書・蓮見喜久子から毎日新聞記者・西山太吉氏に渡された外務省の機密文書コピーが横路氏に渡ったものであった。これにより、沖縄返還交渉の過程で日米間に為された軍用地地主への復元補償費400万ドルを日本が肩代わりするという密約が暴露された。これを、「外務省公電漏洩事件」と云う。これをきっかけに、国家機密や政府の情報開示に対する国民の「知る権利」運動に関心が高まっていくことになった。 3.28日、前日の衆議院予算委員会での極秘公電の暴露について、政府が「密約」はないとしながらも公電の存在は認める。佐藤首相は激怒し、警察に命じて漏洩ルートの捜索を指示し、関係者が逮捕されるという事件に発展した。3.29日、福田外相が、外務省の極秘公電漏洩の経路について省内徹底調査を命じる。国会で提示した外務省秘密電文のコピーから、政府は直ちに漏洩ルートを割り出した。3.31日、外務省の蓮見喜久子事務官から極秘公電コピーを外部に流した事実を聴取する。4.3日、外務省機密漏洩事件。外務省の蓮見喜久子事務官から毎日新聞政治部の西山太吉記者に極秘公電のコピーが渡されたことが判明する。警察は、西山記者が外務省職員(外務審議官の女性秘書)と不倫関係にあり、「情を通じて」公電を入手したとして「西山記者の情報入手における道義性」を問題としていった。警視庁は、女性秘書を国家公務員法第100条(職員は職務上知ることが出来た秘密を漏らしてはならない。1年以下 の懲役又は罰金3万円以下。)の守秘義務違反で告発した。 4.4日、警視庁が、外務省の公電漏洩容疑で、外務省の蓮見喜久子事務官と毎日新聞の西山太吉記者を、国家公務員法同第111条(国家公務員に秘密を漏らす行為を企て、そそのかし、又はその幇助をした者は1年以下の懲役又は3万円以下の罰金に処せられる)の秘密漏示教唆罪(違法行為のそそのかし容疑)で逮捕する(外務省公電漏洩事件)。 4.5日、外務省機密漏洩事件で記者が逮捕されたことで、毎日新聞社などは「知る権利」への干渉であると反発する。 毎日新聞は、国家機密や政府の情報開示に対する「国民の知る権利」を盾にキャンペーンを続けた。 が、「表現の自由、報道の自由」を護り切れなかった。「国民の知る権利が裁判で大きな論争点になったが、西山記者と外務省蓮見事務官の間に男女の関係があり、人々の好奇心を書き立てるに至った」。 論点は、@・公電内容の真実性、A・公電内容の報道権と政府行為の秘密性の尊重との関係如何、B・マスコミが取材で得た資料が国会議員にわたったことの是非、C・取材にからむ当事者間の情交問題等々にわたり、法理的に解明すべき問題であったにも拘らず議論が深められなかった。 4.*日、外務省機密漏洩事件で、東京地裁が蓮見喜久子事務官と西山記者の拘置を決定する。4.8日、外務省機密漏洩事件で、毎日新聞社の西山記者の拘置決定の取消しを求める準抗告が行われる。4.9日、外務省機密漏洩事件で、東京地裁は毎日新聞社の西山記者の拘置決定を取消す。4.15日、外務省機密漏洩事件で、東京地検が蓮見元事務官を釈放し、国家公務員法100条(秘密を守る義務)違反で起訴する。西山記者を同111条(秘密漏洩をそそのかす罪)で起訴する。起訴状では「蓮見事務官をホテルに誘って情を通じたあげく」と男女の私的関係に絡む機密漏洩事件とする。 女性事務官は一審で有罪となり、控訴せずで確定した。西山記者は争った。 |
この頃、過激派学生分裂相次ぎ、革マル対反革マル内ゲバ事件多発。 |
民青同12回大会で新日和見主義者処分。 |
【「外務省公電漏洩事件訴訟」始まる】 | ||
4.15日、第一審で検事は次のような起訴状を読み上げた。
これに対して毎日新聞は、「取材にあたって道義的に遺憾の点があった。新聞記者のモラルから逸脱した」とコメントしている。 一審判決では次のように述べられている。
一審判決(山本卓裁判長)では無罪となり、検察が控訴し、最高裁まで争われた。 1978.5.31日、最高裁は、公法にいう「秘密」を実質秘とし、その判定は司法判断に服するとしたが、結局、電文の秘密性を認め、さらに取材方法も適当な取材活動の範囲を逸脱しているなどとして、逆転有罪判決を言い渡した。こうして最終的に二人とも有罪となった。その後、西山記者は退社した。 この事件は、外務省の過剰機密姿勢、西山記者の取材姿勢、横路議員の出所漏洩姿勢、西山記者逮捕の是非、毎日新聞社の対応能力等々に後足の悪さを残すことになった。この事件は、「国民の知る権利」という考え方を広める事になり、その後の情報公開制度定着の引き金となった点で大きな歴史的意義を持つ。 この事件は、外務省の過剰機密姿勢、西山記者の取材姿勢、横路議員の出所漏洩姿勢、西山記者逮捕の是非等々に後足の悪さを残すことになった。 2000.5月、「密約」の内容を裏付ける米公文書の存在が明らかになった。それによれば、西山記者が暴露した「軍用地復元費用の肩代わり(4000万ドル)」の他に、米国政府海外向け短波放送「ボイス・オフ・アメリカ(VOA)移転費用(1600万ドル)」、秘密枠と呼ばれる「基地施設改善移転費用(合計2億ドル)」等々の「密約」が開示されている。基地移転費用は、72年の返還以降、5年間にわたって支払われ、これが78年の「思いやり予算」に繋がって行くことになる。 しかし政府は、「密約は存在しない」との立場を堅持し続けている。なお、この問題を素材としたノンフィクションに、沢地久枝著「密約」(中公文庫)がある。この事件を作家澤地久枝が取材し「密約」という小説を書いたほか、ドキュメンタリー作家によって沢地作品を原作にしてテレビドラマ化され、映画にもなった。後に英語字幕版も制作され、アメリカでも上映され、反響を呼んだ。 2005年、西山氏は、謝罪と国家賠償を求めて国を提訴。しかし、除斥機関を過ぎているとして敗訴する。その後、24名の原告と共に沖縄密約文書の開示請求訴訟を起こす。 2009.12.1日、口頭弁論で、密約を交わした当事者の吉野文六・元外務省アメリカ局長が、「密約はあった」と証言。吉野氏は、かって法廷で「密約はない」と証言しており、同じ司法の場で密約の存在を認めたことになる。 |
雑誌「全貌」5月号で、「連合赤軍の浅間山荘事件と1933年の共産党のスパイリンチ事件が瓜二つだとして、大泉兼蔵まで登場させる記事」を掲載。 |
5.4日、党創立50周年記念の「党勢拡大運動推進本部」を設置。 |
【田中派結成】 |
5.9日、田中派結成。東京.柳橋の料亭いな垣に佐藤派81名(衆院40名、参院41名)が結集。呼びかけ人は木村武雄。 この時の渡部恒三の証言は次の通り。「通常国会の会期末もおしせまった5月9日夜、私は同志の高鳥修、小沢一郎、羽田孜君などと期待に胸をはずませながら柳橋にむかった。元帥と愛称される党人政治家の元老木村武雄氏(現建設大臣)の案内で田中角栄氏擁立の会が開かれることになったからである。会費二千円、縦にならべられた細長いテーブルの上に、黒ぬりの弁当がならべられているだけの質素な宴席である。しかし参加者は予想をはるかに上まわる81名、衆議院では佐藤派より二階堂進、亀岡高夫氏等38名。それに無派閥の私と小沢辰男氏(新潟)が参加して40名である。とくに参議院からは衆議院を上まわる41名が参加し、重宗王国にきずかれた参議院は、福田という伝説を完全に吹き飛ばしてしまった。とくに木村元帥より指名された私は、『今日まで党近代化を主張し、無派閥の一匹狼としてやってきたが、これからは、田中内閣の実現によって庶民大衆の政治をつくり上げるという目的のもとに先輩諸氏と行動をともにしたい』と挨拶をした。このこと、私は新聞記者に、『まさに老人と青年の会、参議院のオールドパワーと衆議院のヤングパワーの集まりであった』と語ったが、後代に良き社会を残そうとする老人たちと、未来に新しい時代をつくろうとする自民党のヤングが、田中内閣の実現という目的で一致したのは愉快であった。やはり田中陣営に参加した福島県出身の一竜斎貞鳳氏にさそわれた私は、梶山静六、奥田敬和、中山利生、林義郎、左藤恵、斉藤滋与史、佐藤守良等の同志とともに、この日ばかりは柳橋で名高い柳光亭で痛飲した。田中派の旗上げに参加して多くの同志を得た喜びとともに、自民党の派閥政治という大勢のなかで、ついに自分も派閥政治の渦巻の一員に組み込まれてしまったという反省が、かすかに私の心をよこぎった。柳光亭の楼上より大川をへだてて明滅するネオンが静かに流れる大川の水面を美しく映し出している。酒にほてった顔を川風が心地よくなでてくれる。しばし私は友人たちの喧噪をよそに、柳橋の夜景に目をはしらせていたのである」。 |
田中派発足当時に旗幟鮮明にしたのは、次の通り。愛知揆一、足立篤郎、植木、大村襄治、小沢辰男、小渕恵三、金丸信、亀岡高夫、仮谷忠男、木村武雄、久野忠治、小宮山重四郎、竹下登、二階堂進、西村英一、橋本登美三郎、箕輪登、山下元利、山田久就、渡辺肇、小山省二、石井一、小沢一郎、奥田敬和、梶山静六、高島修、中山利生、羽田孜、林義郎の29名。 |
6.13日、キッシンジャー・田中会談が東京のホテルオークラで為されている。会うのは二度目、サシの会談は初めての角栄は、簡単な自己紹介から始め、「25年間にわたる日本の復興で、アメリカ政府に非常にお世話になったことも理解しております」と対米同盟関係の是認スタンスを表明している。興味深いことは次の遣り取り。田「新聞というのは常に百%間違っているものです」。キ「各候補者の間に政策的な違いはありますか。それとも主にパーソナリティーの問題ですか」。田「ほとんどパーソナリティーの問題です。田中、福田、大平、三木の違いは宗旨の問題と云っていいと思います。この四人では三人が外務大臣の経験を持ち、また福田と私は大蔵大臣も経験しました。過去の首相では、幣原、吉田、池田、佐藤が自民党の忠実なメンバーで、大平もそうです。一方、福田は初出馬は無所属での当選でした。福田の政治家としての歴史を感嘆に説明すると、岸が(A級戦犯として)追放され、その後、政界復帰した後に行動を共にしたのが福田だったわけです。従って、福田の自民党入りは岸が当選した後のことでした。ですが、ある意味では、福田は現在の自民党の主流といえる人物でしょう」。 その後、中国問題、台湾問題について意見交換している、というか田中の見解がウオッチされている。キ「(台湾問題に対して)どのような態度をとるべきだとお考えですか」。田「台湾問題に関しては、日米の間で完全な合意が必要です。これは日本と中国との間だけでは解決するのが難しい問題です」。キ「台湾問題に関して、日本としては独自の解決を目指すつもりはないということですか」。田「日本が独自に動くよりも、米国が加わった方がより理性的な解決ができるのではないかということです。夫婦喧嘩と同様に、共通の友人が間に入ることで問題解決ができるのではないでしょうか」。キ「誰が夫と妻で、誰が友人になるのですか」。田「まず間違いないのは、米国が友人ということです。夫と妻に関しては、歴史的に言えば、日本と中国が夫婦でしたが、この四分の三世紀の間は、日本と台湾がカップルでした」。キ「私の理解するところ、台湾の処理に関しては、日本と米国は共通の方針を取るべきだというのが、あなたのご意見だと思われるのですが、それでいいですか」。田「そうするのがベストだと思われます」。 |
【佐藤長期政権終幕の前夜 】 |
「渡部恒三のホームページ」より。長い通常国会が終わろうとする6.15日。今国会の重要法案といわれてきた“健保改正法案“と“国鉄改正法案“はいずれも参議院で流産になってしまう見通しが濃くなっていた。しかも執行部は、この法案を今国会で真剣に通そうとする努力をせず、現内閣の手で臨時国会を開いて二法案を審議する、すなわち佐藤内閣を延命しようとする露骨な動きを見せはじめた。朝の国対が終わったあと、浜田幸一(千葉県)、林義郎(山口県)君等の提案で院内十四控室において獅子会が開かれた。私は、今日の代議士会に佐藤首相の出席を要求しようと提案した。いまや党内は佐藤後をめぐって麻の如く乱れている。佐藤首相が引退の意志を明示しないために、党内は疑心暗鬼、不信と混乱がつのり、まさに崩壊の瀬戸ぎわに立っている。このままでは自民党は亡びてしまう。日本の民主主義の危機である。 しかし、残念ながら我われの要求はいれられないままに、本会議が開かれることになった。けたたましい本会議の開会ベルが鳴りひびくなかで、私は中曽根総務会長に「17日の両院議員総会に佐藤首相は出席して引退の意志を表明すべきこと」を強く要求した。中曽根会長の返事はあいまいであったが、その顔には、十分我われの要求を受け入れる用意のあることをありありと示していた。さらに金丸信国対委員長が「現内閣で臨時国会を開くことは絶対にない」と断言したので、つね日ごろ金丸氏の人柄に信頼をおく我われは、これを了承して本会議に入ることになった。しかしこれだけでもまだ安心できない。16日深夜、私は同志浜田幸一君、中山正輝君、それに石井一君の4名で竹下官房長官をたずねた。私は「もし明日の両院議員総会で佐藤首相が引退の意志を表明しない場合は、我われ3名が、首相の退陣の要求をする演説をぶつ。我々が立ち上がれば、河野洋平、西岡武夫氏等の若手の先輩がバックアップすることになっているから総会は滅茶苦茶になる。佐藤首相の引退をいさぎよくするためにぜひ内閣の番頭役である官房長官は首相に引退をすすめてもらいたい」とお願いした。竹下官房長官は我われの要望を否定し、「決してそのようなことを行なってはならない」と繰り返し、我われの翻意を求めた。おし問答が午前3時まで続けられたが、なんとなく寂しそうな官房長官の表情を見て、私は明日の佐藤引退を確信することができた。 思えば人間の運命とは不可思議なものである。昭和34年、私が郷里に帰って県会議員に立候補しようとしたとき、早稲田の先輩である竹下さんは、ちょうど県会議員から代議士になったばかりであった。大隈会館で竹下さんから県会議員は三期やってはならない。二期つとめたら必ず国会に出てこい、と励まされ、その通りにやってきた私である。昨年の夏、慶応病院に入院中の私のところに来て「コウゾウ、おれも大臣になったぞ。どうだ大臣らしくなったか。お前も10年たてばなれるぞ。早く病気をなおせ」といって励ましてくれた竹下先輩である。私たちは今日、その竹下官房長官に対し、佐藤首相の退陣を要求しているのである。白々と夜の明けようとする首相官邸をあとにしながら、私は寂しそうな官房長官の顔と、政治家が信念をつらぬくためにはさけることのできない厳しくも険しい人の道を思った。しかし夜はほのぼのと明けようとしている。いよいよ今日から、次期総裁をめぐる戦いの火ぶたはぎって落とされるのである。そうなれば当然、田中角栄派の参謀となる竹下さんのもとで我われは同志として戦うことができるのである。どうせ「明日からはいっしょだ」 みずからをなぐさめるようにつぶやきながら、私は九段の宿舎にもどった。いつも靖国神社の境内から聞こえる夜明けをつげる鶏鳴の声が、なぜか今日ばかりは印象的に私の耳に残った。 |
【佐藤首相が引退声明】 |
6.17日、佐藤首相が引退声明、7年8ヶ月にわたる政権が幕をとじることになった。午後零時半過ぎ、記者会見室は異様な空気で遣り取りされている。テレビだけを残し新聞記者を追い出す。概要「テレビはどこにあるんだ。私はテレビを通じて国民に直接話をしたいんだ。新聞になると、文字になると違うからね。僕は、偏向的な新聞は大嫌いなんだ。新聞記者は出て行ってくれたまえ」。この佐藤の発言に記者団は反発し、「それじゃぁ、出よう」となって、がらんとなった会見室で、佐藤首相はテレビカメラに向かった。この時、「中国へ、中国へとなびく今の風潮は、賛成し難い」、「総理は孤独である」の発言が為されている。 佐藤首相は、この後すぐさま後継首相として福田の担ぎ出しを保利と打ち合わせ、福・角調整に入った。この調整に成功すれば、佐藤の院政を敷く事が出来るという思惑もあったと推定できる。佐藤・福田・田中会談で、田中の出馬の意思が高いことを踏まえて、第一回目の投票により二位になった方が決選投票で一位に連合するという「一、二位連合」案が盟約された。 機密文書。「佐藤の後継者選出がそれまでの自民党総裁選と違う理由は、それまでは主流対反主流派の戦いが一般的であったが、今回はほぼ絶対この中から総裁が決まると思われる三人は、全員主流派であり、それだけに後任選びの過程で主流派の結束に永久的な亀裂を生む可能性がある」と認識した上で、総裁候補の福田と特に精緻に田中を、更に大平についてコメントしている。概要「基本的には三人の中で誰が総裁になっても、いずれとでも上手くやっていけるだろう。日米関係の行方は、福田が一番良い影響を与えるであろう。大平が一番影が薄い。田中の態度が最も未知数だ。日本の政治家の中では、田中だけが海外との絆を発掘するどころか、海外との接点すら持つていない。彼の素養が最も不明である」。以降も特に田中についての驚くほど詳細なレポートが発信されていった。特徴は、「コンピューター付きブルドーザー」としての能力と政治手法を高く評価しており、そうした優秀さを危惧している節のあるレポートとなっていた。 |
【熾烈極める自民党総裁選】 |
この時の自民党派閥の内訳は次の通り。合計347議席(衆院287、参院60)のうち、田中派49(衆議院29.参議院20)名、大平派60(44.16)、中曽根派50(30.20)。 |
【田中角栄が自民党総裁に選出される】 |
7.5日、自民党臨時党大会が日比谷公会堂で開催された。「三角大福」戦争(参院議長だった重宗雄三が、ポスト佐藤の座をにらんでしのぎを削っていた三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫の4人を総称した造語)となり、総裁選の第一回投票結果は、田中156票、福田150票、大平101票、三木69票となった。この結果、上位二人の決選投票になり、田中は282票、福田190票、無効4票と、圧倒的な大差で福田赳夫を破って第6代自民党総裁に選出された。「大角提携」により「どちらが勝っても助け合う」盟約が為されていた。この時倍々ゲームを地でいくような相当の札束が動いており、金権政治の伏線となる。 7.6日、田中は臨時国会で首班に指名され、組閣に着手した。 角栄が首相になった意義に戦後歴代首相の帝大卒(石橋湛山のみ私大早稲田卒)の不文律を打ち破ったことがある。史上最年少の首相の誕生でもあった。 |
【第一次田中内閣発足】 |
7.7日、第一次田中内閣発足。官房長官・二階堂進、幹事長・橋本登美三郎、副幹事長竹下。事実上の竹下幹事長であったと云われている。福田に入閣を求めたが、福田は拒否し、福田派からの入閣も断っている。これほどの確執が生じたということである。(福田が入閣するのは、5ヵ月後の第二次田中内閣で行政管理庁長官としてであった) |
【日米首脳会談(田中.ニクソン会談)】 |
8.31日、ハワイのクイリマホテルで日米首脳会談(田中.ニクソン会談)。アメリカ側は、ニクソン、キッシンジャー、日本側は田中、牛場信彦駐米大使。その後、ロジャーズ国務長官、大平外相が加わっている。この席で、中国問題、特に日中交渉、国際収支問題、日米貿易不均衡問題等が包括的に話し合われている。このときロッキードの密約があったといわれている。 この時、竹下副幹事長、金丸国会対策委員長、亀岡経理局長等20数人が同行している。その中の大物議員の一人が「ニクソンがロッキード、ロッキードと言うので困ったよ」とオフレコで語っている、と伝えられている。 |
【田中首相、大平外相が日中国交正常化交渉に中国に出向く】 |
9.25日、田中首相と大平外相が中国へ。周恩来が出迎える。しかし、歓迎晩餐会の席上での田中首相の挨拶に「詫び」がないことで波瀾が起る(「多大のご迷惑をおかけした」という部分が不十分という内容)。9.26日、第2回日中首脳会談が紛糾する。前日の田中首相の挨拶の内容が謝罪となっていない、というもの。9.27日、日中の第3回の首脳会談が行われ、「戦争状態の終結」を「不正常な状態の終結」とすることで合意する。夜、田中首相は毛沢東主席と会談する。毛発言「喧嘩はすみましたか、喧嘩しなくては駄目ですよ」。「不正常な状態(戦争状態)の終了、中国が唯一の合法的政府であることを認める」など共同声明に、 9.29日、田中角栄首相と周恩来首相が日・中戦争状態終結、人民大会堂で日中共同声明が調印され、日中の国交が回復する。日中国交正常化共同声明に調印。「日中国交回復」。日中国交回復に反発した若手タカ派が「青嵐会」を結成した。台湾との国交を破棄することとなる。 |
【早大で「川口リンチ殺害事件」が発生】 |
11.9日、早大で革マル派による「川口リンチ殺害事件」が発生した。東京.本郷の東大構内付属病院前にパジャマ姿の川口氏が放置されていた。死体には全身アザだらけの殴打の跡があり、骨折した腕から白い骨がのぞいていた。早大文学部2年生川口大三郎(20才)、中核派シンパとみなした革マル派によるリンチ事件であることが判明した。 早大の馬場素明委員長は11.11日の記者会見で、「今回の事件は革マル派の組織が引き起こしたもので行き過ぎであった。しかし、リンチそのものは特殊な政治力学の中では今後も有り得る」と居直った。革マル派は、事件に対し、「追及過程での意図せぬ事態、ショック症状による死亡---党派闘争の原則から実質的にはみ出す行為に走ったといわざるを得ない---一部の未熟な部分によって起こった事態---率直な自己批判を行う」と表明した。 11.23日付け朝日新聞に革マル派の最高幹部・土門肇氏の次のようなコメントが掲載されている。「我々の党派闘争は他党派の解体を目的とする闘いであって権力との闘いとは異なる。他党派の誤りを暴露するイデオロギーの闘いが基軸であるが、中核派は今日我々の殲滅を戦略目標に掲げている。こうした我々に対する暴力的敵対に対し我々の自己武装は不可避である。イデオロギー闘争を補助するために暴力行使は存在する。相手に自分の行為の犯罪性を自覚させ、反省させるための補助的方法である」(鈴木卓郎「共産党支配30年」)。 |
【第33回衆議院選挙】 |
12.10日、第33回衆議院議員選挙(田中首相、橋本登美三郎幹事長)。(自民271名、社会118名、共産38名、公明29名、民社19名、諸派2名、無所属14名当選)。自民党は解散時297議席から271議席へと敗北。この議席数は、昭和31年に自民党が結党以来の最低議席数であった。もっとも、無所属の当選者16名が入党すれば287名になるので深刻というほどではない。それでも11議席減。民社党は19議席(←29)、公明党は29議席(←47)。 共産党は38名(←14)当選、革新共同を入れると40議席になるという躍進で野党第2党になる。革新共同、沖縄人民党を加えると40名。得票数は550万。 自民党の派閥で見ると、田中派は新人9名を迎えたものの48議席、福田派は56議席で、トップの座は福田派が座った。参院側が田中派39、福田派29で、衆参合わせると田中派が87、福田派85となり、田中派は辛うじて面目を保った。 総裁と幹事長が同一派閥で構成されたのはこの時が最後になる。三木政権時から「総・幹分離」となり、2003年の小泉政権で小泉総裁・安倍幹事長となる。 |
【第二次田中内閣が組閣される】 |
12.22日、第二次田中内閣発足。二階堂官房長官(留任)、橋本幹事長、鈴木総務会長、倉石忠雄(福田派)政調会長。三木副総理・環境庁長官、大平外相、中曽根通産相が留任。福田が行政管理庁長官、愛知揆一蔵相、江崎真澄自治相。(オイルショック→高度経済成破綻・田中→参議院に小選挙区制導入を示唆) |
社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」は次のように伝えている。
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