【1970年当時の主なできごと.事件年表】 |
「70年安保闘争」。第11回党大会開催。 |
更新日/2021(平成31.5.1日より栄和元/栄和3).7.27日
(れんだいこのショートメッセージ) |
いよいよ70年を向かえて「70年安保闘争」の総決算の時を向かえたが、全
共闘運動は既にピークを過ぎていた。というよりは既に流産させられていた。
民青同と革マル派を除き、全共闘に結集した「反代々木系セクト」はかなりな
程度にずたずたにされており、実際の力学的な運動能力はこの時既に潰えて
いた。機動隊の装備の充実とこの間の実地訓練によって治安能力が高まり一
層の壁として立ち現れるに至っていた。従って、国会突入まで見せた「60年
安保闘争」のような意味での「70年安保闘争」は存在せず、表面の動員数の
み誇る平穏な儀式で終わった。「60年安保闘争」は「壮大なゼロ」と評された
が、「70年安保闘争」は「そしてゲバルトだけが残った」と評されるのが相応し
い。 70年以前−以降の学生運動の特徴として、次のような情況が作り出されていったように思われる。一つは、いわゆる一般学生の政治的無関心の進行が認められる。学生活動家がキャンパス内に顔を利かしていた時代が終わり、ノ ンポリと言われる一般学生が主流となった。従来の一般学生は時に応じて政治的行動に転化する貯水池となっていたが、70年以降の一般学生はもはや政治に関心を示さないノンポリとなっていた。学生運動活動家が一部特定化させられ、この両者の交流が認められなくなった。その原因は色々考えられる が、「70年でもって政治の季節が基本的に終わった」のかもしれない。あるいはまた、それまでの左翼イデオロギーに替わってアメリカン民主主義イデオロギーが一定の成果を獲得し始めたのかもしれない。皮肉なことに、世界の資本主義体制は、「一触即発的全般的危機に陥っている」と言われ続けながら も、この頃より新たな隆盛局面を生みだしていくことになった。私は、この辺りについて左翼の理論が現実に追いついていないという感じを覚えている。 一つは、そういう理論的切開をせぬままに相変わらずの主観的危機認識論に基づいて、一部特定化された学生運動活動家と武装蜂起−武装闘争型の武闘路線が結合しつつより過激化していくという流れが生み出されていくことになっ た。しかしこの方向は先鋭化すればするほど先細りする道のりであった。反代々木系最大党派に成長していた中核派は、69年頃からプレハノフを日和見主義と決めつけたレーニンの「血生臭いせん滅戦が必要だということを大衆に隠すのは自分自身も人民を欺くことだ」というフレーズを引用しつつ急進主義路線をひた走っていった。この延長上に69年の共産同赤軍派、70年の日共左派による京浜安保共闘の結成、ノンセクト・ラジカル過激派黒ヘル・アナーキスト系の登場も見られるようになった。一つは、革マル派を仕掛け人とする党派間ゲバルト−テロの発生である。この問題は余程重要であると考えているので、いずれ別立てで投稿しようと思う。 |
1.5日、「創価学会を斬る」(藤原弘達)への学会の出版妨害表面化。公明・共産党が出版妨害・言論の自由を巡って応酬開始。日共の公明党、創価学会の言論、出版妨害事件キャンペーン始まる。 |
【第3次佐藤内閣改造」】 |
1.14日、第3次佐藤内閣発足。(最長不倒距離を記録した佐藤政権最終の内閣)この改造時点よりポスト佐藤の角福戦争が公然となった。川島.田中ラインと保利.福田ラインの確執。官房長官・保利、副長官・木村俊夫、田中幹事長の更迭策動があったが留任。橋本運輸大臣。橋本龍太郎は厚生政務次官に就任。 |
1.16日東京で赤軍派が「国際根拠地建設、70年前段階蜂起貫徹」の蜂起集会、800名。 |
【創価学会の出版妨害事件の経過】 | |||
2.27日、日共の不破が予算委員会での初質問で、佐藤栄作首相を相手に、創価学会の出版妨害事件にたいする政府・自民党の態度を追及した。2001.7.22日付け赤旗は、「その時、藤原氏ら多くの関係者に直接あい、創価学会・公明党の言論・出版妨害の事実経過を確かめたうえで、その全貌(ぜんぼう)を示しました」と記している。創価学会の出版妨害事件とは、1969〜70年の言論・出版問題とは、評論家の藤原弘達氏が著作『創価学会を斬る』を日新報道という出版社から発行しようとした時、これを闇(やみ)に葬ろうとする創価学会・公明党の妨害にぶつかったことから、明るみに出た事件のことを云う。 不破は、事実経過として次のように述べた。
不破は、次のように批判している。
2001.7.22日付け赤旗は、次のように記している。
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2.7日、大阪で赤軍派が蜂起集会、1500名。 |
3.14日、この頃カンボジアで内戦が起こ り、これに南ベトナム解放軍・北ベトナム軍が参戦したことからわが国のベトナ ム反戦闘争も混迷を深めることとなった。 |
3.15日、赤軍派議長塩見孝也(28才.京大)が破防法、爆発物取締り罰則違反容疑で逮捕されている。 |
【赤軍派による「よど号ハイジャック事件」】 |
3.31日、赤軍派9名による日航機よど号乗っ取り事件(ハイジャッ ク)発生。事件の好奇性からマスコミは大々的に報道し、多くの視聴者が釘付けになった。「フェニックス作戦」と名付けられたこの作戦は日本で初のハイジャック事件となった。メンバーは、田宮高麿(27才.大阪市大)、小西隆祐(25才.東大)、田中義三(21才.明大)、安部公博(22才.関西大)、吉田金太郎(20才.元工員)、岡本武(21才.京大)、若林盛亮(23歳.同志社大)、赤木志郎(22才.大阪市大)、柴田勝弘(16才.高校生)の9名で、羽田発福岡行きの日航機よど号をハイジャックして、北朝鮮行きを要求した。 副操縦士だった江崎悌一氏の克明な記録によれば、午前7時35分頃乗客乗員138名を乗せた羽田発福岡行き「よど号」は富士山上空で乗っ取られ、田宮ら2名に北朝鮮.平壌行きを指令された。福岡空港で給油、この時乗員23名が解放された。爆発させると脅された石田機長は離陸を決断し、む乗っ取り犯に北朝鮮.平壌だと思わせて韓国.金浦空港に着陸した。金浦空港では北朝鮮らしさを偽装していたが、田宮らはこれを見破り、「乗客を解放するなら目的地に着ける様保証する」ことになり、山村新治郎運輸政務次官が乗客の身代わりに乗り込んだ。こうして午後7時20分平壌着となった。 |
4.8日、革マル派が4.28統一デモに参加したいと申入れ。 |
4.9日、カンボジア政府軍、べトナム系住民を虐殺。中国と北朝鮮両政府、「日本軍国主義と共同して闘う」との共同声明を発表。 |
4.15日、米国で反戦集会・デモ。数十万人参加。 |
【社会党第33回党大会】 | |
4.20日、社会党第33回党大会が開かれ、成田・石橋体制が確立された。「反戦青年委員会とは絶縁」等の執行部方針を不満とする反帝学評などの暴力行為のため機動隊導入、籠城大会となった。
「国際革命文庫」の「日本革命的共産主義同盟小史」は次のように記している。
次のようにも述べられている。 彼らは、方針のうえでは「日本における社会主義への道」(以下「道」という)を向坂派テーゼ流に歪曲して「道」の擁護をさけび、中期路線、新中期路線、国民統一綱領に発展させた。彼らは成田委員長が提唱した成田三原則を最大限に利用し、自らは一九七〇年七月に「思想闘争の前進のために」をうちだして、向坂派の思想・組織・運動論を公然と展開し、本格的な党への介入を開始したのである。その突破口はなんといっても七一年二月の社青同第一〇回全国大会における反戦派、太田派の謀略的排除による社青同の向坂派独占体制の確立であり、それを成田・石橋執行部が公然と認知したことであった。 七〇年安保闘争の終幕と一九六九年十二月の第三二回総選挙における敗北は、再建向坂派に自己の野望と前進をはかる絶好の条件を与えた。社会党は、総評と共に六〇年代後半の大衆闘争をささえてきた反戦青年委員会を誕生させ、その育成強化をとなえ、一時は全学連との同盟関係までうち出したのであるが、反戦青年委員会が新左翼諸党派の介入と一定の主導をゆるし、一部に左翼日和見主義が生まれるや、これを政治的に領導するのではなく、逆に敵前できりすてるという裏切りをあえて行ったのである。裏切りのなかでは、とうてい正しい総括は導きだすことはできない。“総括なき反戦闘争の終焉”というべきであろう。 |
4.28日沖縄デー。各地でデモ、10余万名参加。反代々木系1万6600名(うちべ平連など市民団体8000名)結集。集会の途中、革マル派の参加に対し他党派がこれを実力阻止しようとして内ゲバ起こる。べ平連6月行動委がこれに抗議して主催団体を降りる。6行委の隊列から逮捕者4名。重軽傷者各1名。 |
【創価学会が政教分離宣言】 | |||||
5.3日、創価学会の池田大作会長が講演で「猛省」し、政教分離宣言。次のように述べている。
2001.7.22日付け赤旗は、不破の次のような批判を記事にしている。
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5.8日、全共闘、反戦青年委などカンボジア侵略抗議集会。2500名結集、デモ。べ平連など市民団体は不参加。 |
5.29日、カンボジア侵略抗議で全共闘、反戦青年委、1万7000名がデモ。 |
6月、「反安保毎日デモ」が展開される。 |
6.14日、社共総評系のデモ、集会、全国で236ヵ所。「インドシナ反戦と反安保の6.14大共同行動労学市民総決起集会」。革マル派を含む新左翼党派と市民団体の初の共同行動、7万2000名参加。全国全共闘・全国反戦・ベ平連など約1700名逮捕。 「よど号」ハイジャックを期に、過激派のテロ活動は激しさを増していったが、反安保の大衆運動は6.23の日米安保条約自動延長を境に次第に沈静化していく。6月14日−23日 反安保6月闘争。学生、青年層の支持を失った過激派集団は追い詰められ、いっそう過激さを増していった。 |
6.17日、この日全国で「6.17闘争」が繰り広げられた。東京では中核派.第四インターを中心とした約1万名が明治公園で、反帝学評、フロント、ML派など反中核派系約1万名が宮下公園で集会を開いた。 集会後明治公園原宿付近で鉄パイプ爆弾が投げつけられ隊員37名が負傷した。赤軍派の仕業だった。集会後各派が街頭闘争に移り機動隊との熾烈な攻防戦が展開された。 |
【日米安全保障条約、自動延長】 |
6.23日、日米安全保障条約、自動延長となる。60年安保闘争に比べて妙に穏和なスケジュール闘争に化していた。全国で反安保デモ、77万4000名参加。東京では147件で史上最高のデモ届数。新左翼系2万名結集、逮捕者10名。反安保毎日デモは30日まで延長をきめる。 この時ML同盟は「国立劇場前爆弾事件」をひき起こして幹部活動家が大量に検挙され、その総括をめぐって紛糾 し、組織は壊滅状態に陥った。6月のブント第七回拡大中央委員会を契機に内紛発生。軍事闘争を強調する左派グループに反対し、大衆運動の強化を主張する右派グループの「情況派」.「叛旗派」が分裂した。 |
【第11回党大会開催】 |
○期日.会場.代議員数について 7.1日、共産党第11回党大会(初公開)。代議員948名、発言者78名。 ○大会の眼目 大会の眼目は、「70年代の展望と日本共産党の任務」を大会決議することにあった。それにより「人民的議会主義」路線打ち出し、 「70年代の遅くない時期に民主連合政府の樹立」を展望させた。宮本書記長が中央委員会報告を行い、共産党を「民族の党、国民の党」と規定しつつ、次のように語った。「労働者階級の前衛党とは、ただ労働者階級の運命だけに関心を持つのではなくて、当然、日本人民と日本民族の未来に対して明確な展望を持ち、また責任を負う党であります。‐‐‐決議案の『労働者階級の前衛党』であると同時に民族と国民の未来を担い、民族独立などの真の民族的、国民的利益を守りうる政党−真に民族と国民の党であるという明確な規定は、民族の独立と人民の民主主義を確立し、さらに労働者階級と、全ての勤労人民を解放して、新しい日本をつくる我が党の歴史的使命を表現したものであります」、「民主連合政府の樹立を、1970年代のできるだけ遅くない時期に達成しようということは、容易ではありませんが、決して不可能な課題ではありません」。 ○採択決議について 「社会科学研究所を設立して、科学的社会主義の諸問題について翻訳上の用語の適否を含めて深い理論的研究を自主的、創造的に発展させる」ことを決定した。その第一弾に「プロレタリア独裁」の訳語が挙げられた。執権へと書き改められる方向にリードされていくことになった。 ○党規約改正について 党規約を改正し、組織方針上の大きな改変が行われた。@・中央委員会議長と幹部会責任者の分離、A・幹部会委員長の創設、B・常任幹部会の常設化、C・書記局及び機関紙編集委員の中央委員会選出から幹部会任命制などが為され、「中央委員会及び書記局体制から幹部会へのシフト、幹部会を中心とした一元化体制の確立」が為された。これにより、百数十名の中央委員会は、数名からなる幹部会の翼賛機関化していくことになった。その他、基礎組織の旧来の「細胞」名称を改め、「支部.班」とした。 ![]() 一言でいって、反動的な党中央集中制化が行われたということになろう。 綱領との絡みについて宮顕は次のように述べている。「綱領がどうのこうの云うけど、綱領を報告したのは私ですから、私が一番正確な解釈をする責任がある」(昭和48.2.18日付け「サンデー毎日」)。つまり、宮顕の綱領解釈に他の党員は追随すればよいと豪語している。 ○新執行部について 中央委員は、前回の67名から88名、同候補は42名から49名、中央統制監査委員は9名から7名を選出した。 この大会で役員構成に関する党規約が大幅に改正された。議長・委員長・書記局長の三本立て体制が敷かれることになった。議長は名目的となり、実権が幹部会委員長に移された。書記局員は、幹部会の任命人事となった。 7.7日、中央委員会幹部会委員長に宮本顕治、書記長に不破哲三就任。新しい中央委員会は、議長に野坂.幹部会委員長にそれまで書記長だった宮本自ら就任。副委員長に袴田、岡が選ばれた。初代書記局長には、当時40才の不破が大抜擢された。書記局次長には、市川正一、金子満広が選ばれた。常任幹部会員に宮本.袴田.岡.不破.蔵原.松島.西沢の11名、幹部会委員に31名、前記に加えて井田誠、市川正一、岩林虎之助.茨木良和、上田耕一郎、内野竹千代.戎谷春松、、大淵生気、岡本博之、春日正一、金子満広、河田賢治、下司順吉、紺野与次郎、.砂田一良、高原晋一、竹内七郎、多田留治、浜武司、藤原隆三、村上弘、安井真造、吉田資治、米原の31名。 この大会で、訴願委員会が設けられた。初代責任者には蔵原惟人が就任した。 幹部会委員長宮顕。 不破が書記局員候補から二階級特進で一躍書記局長、常任幹部会委員。党のbSとなった。野坂、宮本、岡、不破と席次発表され、大抜擢となった。上田は政策委員長、赤旗編集局長。 【宮顕−不破体制の確立】 宮顕子飼いグループによる党乗っ取り。袴田の役目は、「毛沢東盲従分子を切ることで終わり」、以後不要扱いされていくことになる。 ![]() |
【70年当時の日共の方針の特質と要点】 |
○〈本党大会までの執行部評価〉について @〈世界情勢に対する認識〉について A〈国内情勢に対する認識〉について この時の大会決議は、「対米従属規定」の正しさを次のように確認している。概要「我が党は、複雑な諸要因の組み合わせによる帝国主義的『自立』の可能性をも指摘してきたが、今日における日本軍国主義、帝国主義の復活の過程の最大の特徴は、それが単純に自立の傾向に向かうのではなく、引き続きサンフランシスコ体制−『アメリカに対する日本の従属的な同盟、戦争準備と日本民族抑圧のと収奪維持の体制』(綱領)−の枠内で、この体制を、アメリカ帝国主義のアジア侵略の要請および日米間の力関係の相対的な変化に応じて再編しつつ、進行している点にある。日本独占資本自身、一面で競争者としての矛盾、対立、相対的独自性を強めながら、大局的には、対米従属・依存の関係を維持、利用しようとしている」。宮本書記長の報告と結語でも次のように述べられている。概要「日本は独占資本主義という点においては当然帝国主義段階の国であるということは、既に我々が、綱領討議以来、明確にしている点であります。また第10回大会の決定においても、その意味においては従属的な帝国主義という言い方も現象面だけをとらえれば不可能ではないが、綱領の規定こそ正しいものだと重ねて指摘しております。第8回党大会の綱領報告においても、帝国主義復活完了の指標として、従属を主要な側面とした独占資本主義国から、政治的にまた基本的に自立した独占資本主義国、すなわち自立した帝国主義の側面を主とする国への転化を完了したかどうかを基準とすべきであるということを指摘してきたのであります」。 「この見地からみるならば、まず第一に軍事的従属は明白であります。外交的従属については、もう我々がここで繰り返すまでもありません。経済的には、日本の最近のいわゆる国民総生産の発展は、世界の注目を浴びているということは周知の問題であります。日本は資本輸出も強まっていますが、借款や直接投資など資本輸出の重要な形態で見れば、なお資本輸入の方が優勢です。特に、資本自由化によってアメリカの直接投資は急速に増える傾向にあります。繊維問題など日米間の対立も部分的に激化していますが、基本的な経済的従属関係は依然として明白です」。 「以上の諸点から見て、日本が帝国主義的な膨張の道を進んでいる。しかしそれは経済的には世界の有数な、独占資本主義国の中で目覚しい役割をしているということは明白でありますけれども、全体として、『現在、日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義と、それに従属的に同盟している日本の独占資本である。我が国は、高度な発達した資本主義国でありながら、アメリカ帝国主義に半ば占領された事実上の従属国になつている』という綱領の規定は全く正しいのものです。日本が帝国主義自立を完了したという見地は事実にそぐわず、科学的批判にも実践の検証にもたえないことも明白であります」。 「『帝国主義自立論』というのは、二つの面で非常に分かりやすい誤りをおかしている。一つは、アメリカ帝国主義の侵略性の過小評価です。もう一つは、日本独占資本に対する幻想です。アメリカ帝国主義の侵略性の過小評価と結びついた日本独占資本に対する過小評価−既に日本独占資本は国の独立を達成したんだと云う見方です」。 B〈党の革命戦略〉について 「社会主義日本においても、共産党の一党制度は取らず」と強調された。 C〈党の革命戦術〉について D〈党の具体的な運動方向〉について @・安保条約廃棄と沖縄全面返還、A・日本の平和・中立化、B・憲法改悪反対と民主政治の確立、C・国民生活の擁護と自主的経済政策の実行、D・教育と文化の民主的発展、を民主連合政府の内外政策の5つの柱として掲げた。 E〈党の大衆闘争指導理論〉について F〈党の機関運営〉について G〈左翼陣営内における本流意識〉について H〈この時期の青年戦線.学生運動〉について I〈大会後の動き〉 |
7.7日、ろ溝橋事件33周年・日帝のアジア侵略阻止人 民集会。席上、華青闘が新左翼批判。4000名(うちべ平連550名)結集。 |
【七・七集会における華青闘代表の発言】 | |||||
7.7日、東京・日比谷野外音楽堂で全国全共闘主催の盧溝橋33周年集会、華青闘(華僑青年闘争委員会)が新左翼批判。在日中国人・朝鮮人青年達が全共闘の集会の趣旨の69年入管体制粉砕闘争と65年日韓闘争を、日本階級闘争のなかに、ついに被抑圧民族の問題は定着しなかったとして大批判。ついでに日共六全協も。しかし、当時の反対の柱はあくまで「日本は戦争に巻き込まれるな」だった。 http://konansoft.com/zenrin/html/huajingtou77.htm http://www.chunichi.co.jp/anpo/ 一人の男が壇上から八千人の学生らに叫んだ。通名・猪八戒。 「われわれは戦前、戦後、日本人民が権力に屈服したあと、我々を残酷に抑圧してきたことを指摘したい。 われわれは、言葉においては、もはや諸君らを信用できない。実践がされていないではないか。 実践がないかぎり、連帯といってもたわごとでしかない。抑圧人民としての立場を徹底的に検討してほしい。 われわれはさらに自らの立場で闘いぬくだろう。このことを宣言して、あるいは訣別宣言としたい。」 |
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猛獣文士氏により「七・七集会における華青闘代表の発言」がサイトアップされており、これを転載しておく。
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7.17日、家永教科書裁判、東京地裁で勝訴。 |
7.23日、新潟地裁で反戦自衛 官小西三曹の裁判第1回公判はじまる。 |
7月、向坂派が作成した第10回大会議案が中央委員会で否決され社青同の組織的統一性が崩壊した。反戦派中執は直ちに辞任した。しかし、向坂派は中央委員会多数の辞任要求を拒否し、71.2月、自派だけの十回大会をひらくことになる。 |
一柳茂次(元アカハタ編集部、現労働運動研究所理事)は、「伊藤律と農民委員会−ひとりの有能な共産主義者としての理論を追って」論文を「現代の理論.8月号」に発表した。この論文が、伊藤律スパイ説に対する最初の反論となった。 |
【ベトナム軍のカンボジア侵攻】 |
この頃カンボジアでのポル・ポト政権の「残虐」が国際的に問題になっていた。ベトナム軍は、反ポル・ポト政権派の要請に随い軍事行動を起した。これを是認するかベトナムのカンボジア侵略とみなすかで、左翼は混乱に陥った。この問題の深刻さは、この間の新旧左翼にあった国際反戦闘争におけるアメリカ帝国主義=悪、民族解放闘争=善というそれまでの図式の根底からの見直しが迫られたことにあった。いわば、民族解放闘争間にも矛盾対立が存在し、これにどう対処するのかという新たな理論的課題が突きつけられることになった訳である。問題を複雑にさせていたのは、ソ連−ベトナム−反ポル・ポト派、中国−ポル・ポト政権という国際関係であった。つまり、一筋縄で行かない様相を見せていた。 この事態に対し、共産党は、ポル・ポト政権の「残虐」を踏まえベトナム軍の行動を支持した。第四インター系譜もこの立場を取った(『世界革命』五五八号.「インドシナ革命の新たな前進を米日帝国主義の敵対から防衛せよ」)。これに対し、ブント系譜は、ベトナム軍の行動を批判する立場を見せていた(共産主義者同盟機関紙局(「革命の旗」派)1970.7.5日付け『民主カンボジアの抗ソ抗越救国闘争を断固支持する!』西学資料)。しかし、この時も新旧左翼は、互いが罵倒しあうだけでこうした新事態現象の理論的解明を為しえなかった。以降、この種の国際紛争に関する対応能力を失ったまま今日にいたっている。 |
【中核派のテロによる「海老原君リンチ殺害事件」発生】 |
8.4日、厚生年金病院前で東教大生・革マル派の海老原俊夫氏(21才)の死が発見され、中核派のリンチ・テロで殺害されたことが判明した。この事件は、従来のゲバ ルトの一線を越した監禁型リンチ・テロであったこと、以降この両派が組織を賭けてゲバルトに向かうことになる契機となった点で考察を要する。 両派の抗争の根は深くいずれこのような事態の発生が予想されてはいたものの、中核派の方から死に至るリンチ・テロがなされたという歴史的事実が記録されることになっ た。れんだいこは挑発に乗せられたとみなしているが、例えそうであったとしても、この件に関して中核派指導部の見解表明がなされなかったことは指導能力上大いに問題があったと思われる。理論が現実に追いついていない一例であると 思われる。 海老原殺害事件の経過は次のように判明している。7.9日、東京教育大構内で機関紙を売っていた中核派学生が革マル派学生に襲われ、機関紙を奪われるという事件が発生していた。この時海老原氏がこの時の革マル派メンバーにいたことからマークされることとなった。8.2日、新宿の歩行者天国で中核派.革マル派両派が衝突。8.3日、渋谷でも乱闘事件が発生していた。同日午後3時頃、海老原氏は池袋駅東口で中核派の数十人に取り囲まれ、暴行を受けた後タオルで覆面させられ飯田橋の法政大学までデモのようにしながら連れ去られた。その後法政大六角校舎地下室に連れ込まれ、自己批判要求されつつ集団リンチを受け、その過程で死亡した。その後厚生年金病院前に放置された。上半身裸で全身にメッタ打ちされた跡があった。 この事件後革マル派は直ちに中核派に報復を宣言し、8.6日、中核派殲滅戦宣言、8.14日、中核派に変装した革マル派数十名が法政大に侵入し、中核派学生を襲撃十数人にテロを加えた。以降やられたりやり返す際限のないテロが両派を襲い、有能な活動家が失われていくことになった。 |
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海老原氏は、8.3日、中核派の牙城として知られる池袋で拉致されている。当時の緊迫した情勢で、池袋でビラを配っていたものかどうかは不明であるが、誰の指示で出向いていたのか知りたいところである。この辺りからして不自然ではある。 |
【佐藤四選をめぐる自民党内事情】 |
この頃、佐藤四選を廻って自民党内は虚虚実実の駆け引きが行われていた。主流派は佐藤派内福田派、佐藤派内田中派、保利派。反主流派は前尾派、石田派、三木派。中間派6派約100名(川島派、中曽根派35名(旧河野派)、園田派(旧河野派)、船田派(旧大野派)、村上派10名(旧大野派)、石井派)。 |
【田中幹事長の“きさらぎ会”での挨拶】 | |
9月中旬、幹事長田中角栄氏に近い一年生議員23名が結集してつくられた“きさらぎ会”の青年部研修会のレセプションが党本部九階で開かれ、約五百名が集い、田中幹事長が党の近代化を訴える熱気のこもった挨拶をしている。幹事長の演説後、渡部恒三が、「国民の期待する党の近代化を実現し、思いきった政治の若返りを断行するためには、近い将来我われの手によって若い党人政治家田中角栄に天下を取らせよう」と主張し、田中内閣実現を誓って乾杯しようと訴えた。 次の評がある。
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9月、福田メモによると、福田は、後継首相の件で、佐藤首相より「後は君以外にないよ、と考えていたが、情報より総合すると、一、二心配になる点がある」と語られたと記している。 |
9.25日、沖縄返還協定審議の国会のヤマ場を前に、中核派系沖縄青年委員会のメンバー4名が皇居内に突入し、発煙筒.火炎瓶を投げつけた。 |
9.30 −10.2日、三里塚第一次強制測量、反対同盟・支援学生、公団側と激闘。 |
1 0.8日、羽田闘争3周年。入管闘争。 |
【宗教者平和世界会議】 |
10月、宗教者平和世界会議(「世界宗教者平和会議」と訳されている。World
Conference Religions for Peace)の第一回会議が京都市で開催された。人類の未来と世界平和のため、宗教者同士の交流と協力を目的に発足。世界各国・地域からキリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教、仏教、日本の神道などの宗教者が参加し、各地域委員会や各国委員会を構成する。 第一回会議では、東西冷戦下での軍備拡張競争が進む中、「非武装、開発、人権」をテーマに、「非武装への処置を直ちに行うように求める」などとする宣言を採択した。概ね5年ごとに開催され、国連と協力し、人権抑圧、環境破壊、紛争、貧困などの地球規模の課題解決を目指した研究や提言を続けている。 2001.9月の米国同時多発テロとその後の米英のアフガニスタン攻撃で緊張が高まる中、翌月にニューヨークで緊急会議を開催。イスラム教指導者を含む38カ国から約150名が参加し、「報復戦争は直面する課題を解決する手段としては不適切だ」とする声明を発表している。 |
10.21日、国際反戦デー。全国で集会、総計37万名が参加、デモ。219名逮捕。 |
10.22日、日米共同声明1周年抗議で、べ平連・入管闘・全共闘など共催「日米共同声明路線粉砕・入管法再上程阻止・入管体制粉砕、10.22労学市民総 決起大会」、1万2000名(うちべ平連1500名)デモ。 |
10.24日、チリ,アジェンデ社会党党首が大統領当選。社共統一戦線によるアジュンデ人民連合政権が選挙を通じて樹立された。 |
【第4次佐藤内閣発足】 |
10.29日、自民党総裁選で佐藤が圧倒的多数で再選された。佐藤353票、三木武夫111票、その他3(千葉三郎、藤山愛一郎、宇都宮徳馬各1)、無効14票。三木は事前の70票止まりを覆しての善戦した。これにより、第4次佐藤内閣が発足した。 |
11.7日、べ平連第62回定例デモ(マクリーン裁判支援として)、680名参加、 逮捕11名。デモに革マル派100名が参加。デモ参加者に暴行、混乱。 |
11.10日、沖縄現地で、全軍労.県教祖.官公労などによる協定粉砕、批准阻止の島ぐるみゼネスト。これに呼応して本土でも各地で集会、デモ。 |
11.14日、全国32都道府県、80ヶ所で阻止闘争。この日宮下公園での集会を禁止された中核派は「渋谷大暴動」を叫んで騒動化、渋谷署神山交番警官が火炎瓶で火達磨になり死亡した。反戦青年委の女性教師が火炎瓶を浴び死亡した。この日の衝突で313名が凶器準備集合罪などで逮捕された。 |
11.22日、労学市民総 決起大会」。1万2000名(うちべ平連1500名)デモ。 |
【三島由紀夫氏らが市ヶ谷自衛隊内でクーデター扇動】 | |
11.25日、作家三島由紀夫氏と三島が率いる「盾の会」会員4名が東京・市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部に乱入し、益田総監を人質監禁し、大勢の自衛隊員を前にして憲法9条の廃止や自衛隊の軍隊としての認知、さらにクーデターを扇動。これが失敗したと見るや、三島と森田必勝が割腹自殺を遂げた。 この経緯をもう少し詳しく確認する。「アラキラボ主宰の荒木睦彦の(4)彷徨える国と人々 −現代日本の原点を探る」の「2.三島事件とは何であったのか?」を転載する。
この事件も好奇性からマスコミが大々的に報道し、多くの視聴者が釘付けになった。今日明らかにされているところに寄ると、70年安保闘争の渦中で決起せんと楯の会を組織していたが、平穏に推移したことから「全員あげて行動する機会は失はれ」、この期に主張を貫いたということであった。つまり、70年安保闘争の予想に反しての低迷が逆の立場から示唆されていることになる。私論であるが、こうした右派系の運動と行動について少なくとも論評をかまびすしくしておく必要があるのでは無かろうか。 決起文には、「革命青年たちの空理空論を排し、われわれは不言実行を旨として、武の道にはげんできた。時いたらば、楯の会の真價は全国民の目前に証明される筈であった」、「日本はみかけの安定の下に、一日一日、魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐる」、「日本が堕落の渕に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の練成を受けた、最後の日本の若者である。諸君が理想を放棄するとき、日本は滅びるのだ。私は諸君に男子たるの自負を教へようと、それのみ考へてきた」 等々と記されていた。 |
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この決起文に感応すべきか駄文とみなすべきか自由ではあるが、左翼は、こうした主張に対してその論理と主張を明晰にさせ、左派的に対話する習慣を持つべきでは無かろうか。機動隊と渡り合う運動だけが戦闘的なのではなく、こういう理論闘争もまた果敢に行われるべきでは無かろうか。今日的な論評としてはオウム真理教なぞも格好の素材足り得ているように思われるが、なぜよそ事にしてしまうのだう。百家争鳴こそ左翼運動の生命の泉と思われるが、いつのまにか統制派が指導部を掌握してしまうこの日本的習癖こそ打倒すべき対象ではないのだろうか、と思う。 |
【「日中国交回復促進議員連盟」が発足】 |
12.9日、「日中貿易促進議員連盟」を発展的に解消させて「日中国交回復促進議員連盟」が発足した。会長は藤山愛一郎氏で、共産党まで含む超党派379名の大所帯となった。自民党から共産党まで含めた政治目標の下への結集は、戦後政治史に他には例を見ない。 |
12.18日、京浜安保共闘、 赤塚交番襲撃銃奪取闘争。警官に撃たれて3人が死傷、柴野晴彦射殺さる。 |
12.20日、沖縄コザ市で暴動(コザ大暴動)。騒乱罪適用される。この頃軍事 路線をめぐって「RエルGゲー」(共産主義突撃隊)の強化とゲリラ闘争を主張 するブント左派グループが、それに難色を示す中間派の「荒派」に対して訣別 を宣言した。 |
12.26日、柴野虐殺弾劾追悼集会で、赤軍派と京浜安保共闘が初めて連帯、この集会以降両派の連携関係が強まっていくこととなった。 |
71年以降においても追跡していくことが可能ではあるが、運動の原型はほぼ出尽くしており、多少のエポックはあるものの次第に運動の低迷と四分五裂化を追って行くだけの非生産的な流れしか見当たらないという理由で以下割愛する。ここまで辿って見て言えることは、戦後余程自由な政治活動権を保障されたにも関わらず、左翼運動の指導部が人民大衆の闘うエネルギーを高める方向に誘導できず、「70年安保闘争」以降左派間抗争に消耗する呪縛に陥ってしまったのではないかということである。この呪縛を自己切開しない限り未だに明日が見えてこない現実にあると思われる。 他方で、第二次世界大戦 の敗戦ショックからすっかり立ち直った支配層による戦後の再編が政治日程化し、左翼の無力を尻目に次第に大胆に着手されつつあるというのが今日的状況かと思われる。「お上」に対する依存体質と、「お上」の能力の方が左翼よ り格段と勝れている神話化された現実があると思われる。問題は、本音と自己主張と利権と政治責任を民主集中制の下に交叉させつつ派閥の統一戦線で時局を舵取るという手法で戦後の社会変動にもっとも果敢に革新的に対応し得た自民党も、戦後政党政治の旗手田中角栄氏を自ら放逐した辺りから次第に求心力を失い始め、90年頃より統制不能・対応能力を欠如させているというのに、この流れの延長にしからしき政治運動が見あたらない政治の貧困さにあるように思われる。 |
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社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」は次のような見立てをしている。
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