【1968年当時の主なできごと】
新左翼系全共闘運動の盛り上がり、革新自治体創出


 (最新見直し2010.09.05日)

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第8期その1、全共闘運動の盛り上がり期」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2002.10.20日 れんだいこ拝


【日共が民主連合政府」の樹立構想をぶち上げる】
 1.8日付け赤旗は、「日本共産党の安全保障政策」として「日米軍事同盟の打破、沖縄の祖国復帰の実現−独立.平和.中立の日本を目指して」なる長大な論文を発表している。目を引いたのは、「民主連合政府」の樹立構想をぶち上げていた点にあった。社.共両党を先頭とする全ての民主勢力を基礎とする連合政府的位置付けが為されていた。

【チェコでドブチェク氏が共産党第一書記に選出される】
 1月、チェコで、「自由派」の旗手・ドブチェク(46歳)が保守派のノボトニーの後を受けて共産党第一書記に選ばれ、自由化の道を歩み始めた。「より人間的な社会主義」を目指して自分達なりの社会主義の道を歩みたいというのが狙いであった。

 1月、北ベトナムと南ベトナム解放戦線が旧正月(テト)攻勢を仕掛ける。
【佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争】
 ベトナム戦争が苛烈化し始めたこの頃、米国原子力空母エンタープライズが米トナム海域に出動前に長崎の佐世保に寄港する知らせが入った。核を搭載している疑惑も広がり、入港阻止の反戦運動が取り組まれた。

 1.23日、プエブロ号事件(北朝鮮による情報収集船の拿捕事件)。
【東大紛争・日大闘争がエスカレート】
 この頃医学部から発生した東大紛争が次第に全学部へ広がりを見せていくことになっ た。立て合うかのようにこの頃日大闘争も勃発し、この東大・日大闘争の経過が全国の学園闘争に波及 していくこととなった。

 1月、日本大学理工学部教授の裏口不正入学あっせん謝礼にからむ脱税事件発生(日大闘争の発端)。日本最大のマンモス大学において、膨大な学生数に比べて教授陣容や教育施設の貧弱さが問題となった。学生の集会は禁止され、ビラや掲示なども全て許可制で、自治会活動に関しては大学側と癒着した。右翼・体育会系学生の暴力的圧殺があった。

 2月、第6回中央委員会総会。

 2月、日ソ両党の関係を正常化する共同コミュニケを発表。共産党は、中共との断絶を契機に、ソ連共産党との緊張緩和を策し、スースロフ団長以下の訪日代表団を迎えていた。

 2.20−24日、金嬉老事件。
【王子野戦病院設置阻止闘争】
 2.20日、王子野戦病院設置阻止闘争。三派.革マル.民学同などが参加。以降三里塚闘争と並行しつつ闘われる。社学同.社青同などは王子駅前で機動隊と衝突。 3.3日、東京・王子の米軍・野戦病院・反対闘争激化。連日のようにデモ(王子闘争)。三派と民学同などが参加。3.8日、社学同.社青同と中核派は別個に3時過ぎ王子野戦病院へ向けて突っ込み、機動隊と衝突。集会後の夜再び衝突。革マル派もゲリラ的に出没。3.15日、在日米軍、王子野戦病院を4月に開設と発表。3.28日、王子野戦病院反対闘争。学 生1000名が病院に突撃し49名が基地内に突入。王子闘争のエポック。4.1日、王子野戦病院設置阻止闘争。

【三里塚闘争】
 2.26日、三里塚空港実力粉砕現地総決起集会、中核派のみの3000名結集、衝突。戸村一作反対同盟委員長ら400名が重軽傷。これが反対同盟と三派全学連との初の共闘となった。2.27日、中核派は三里塚で集会。 3.10日−31日、三里塚闘争。反対同盟1300名を中心 に全国から労学農・市民1万人参加。全学連2000名機動隊と衝突。 3.20日、三里塚空港粉砕成田集会。労農学5000名が集会とデモ。新左翼の糾合が為されるに連れ、共産党.社会党が反対同盟の成田闘争から離脱していくこととなった。3.31日、三里塚闘争。

【民学同が志賀派と共労党派に分裂】
 3月、民主主義学生同盟(民学同)が志賀派と共労党派に分裂した。共労党派民学同は、「反独占民主主義闘争とプロレタリア国際主義の結合を我が同盟の党派性とし、70年安保を闘い抜く統一戦線の形成とその階級的強化の方向を、日本型統一戦線の民主主義的.カンパニア的性格の止揚と、青学共闘の独自部隊を形成」することを指針させた。

 3月、共産党が北方領土返還問題で、「南千島のみではなく北千島をも含めた全千島の日本返還論」を発表している。

 3月、日本大学経済学部会計課長の富沢広の失跡や、理工学部会計課徴収主任の渡辺はる子の自殺事件発生。
 3.11日、東大当局が春見事件をめぐって退学4名を含む17名の医学部学生の処分発表。ところが、処分された学生のうち1名の事実誤認問題が発生し、学生側の姿勢をエスカレートさせていくこととなった。

 3.16日、ソンミ事件。
 3月、ジョンソン大統領が北爆停止と大統領選不出馬声明。
 4月、日共が全国活動者会議。

【ブントマル戦派が共産同労働者革命派結成準備会(労革派)を発足】
 4.3日、ブントマル戦派が共産同労働者革命派結成準備会(労革派)を発足させた。第二次ブントは66年に再建されたものの、戦旗派との対立が依然解消されておらず、派閥的な対立抗争が続いていた。前年の共産同第7回大会での革命綱領をめぐる理論対立から、マル戦派は、戦旗派を「小ブル急進主義集団」と攻撃して、大会をボイコットして第二次ブントから離脱していた。この結果、関西ブントが第二次ブント統一派の指導部を握ることとなった。

 4.4日、アメリカでマーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺さ れる(享年39歳)。

 4.5日、日米両国が小笠原諸島返還協定に調印。
 4.15日、国税庁、日大の23億円経理不正公表(日大闘争のもうひとつの発端)。ヤミ給与、組合対策費や政治家などへの対外渉外費など。
 4.26日、国際反戦統一行動。全学連3000名がデモ。

【日大で使途不明金騒動勃発】
 4.23日、日本大学で20億円の使途不明金発覚→日大闘争の始まる→『大衆団交』→9月30日、日大両国講堂に1万人の学生が集まり、団交は12時間及んだ→全共闘運動(日大全共闘秋田明大= あけひろ議長、全共闘運動の象徴的人物となる)→全国の大学で学園紛争吹き荒れる→スチューデント・パワー。

【沖縄デー闘争】
 4.28日、沖縄デー闘争。29団体による共同声明「総決起せよ」が打ち出された。ちなみに29団体とは、中核派.ブント.ML派.第四インター.社労同の5党派に共労党、統社同、反帝学評、東大、日大、中央大、教育大などの各全共闘であった。中核派東京駅占拠、他派も銀座で騒動。

  「もの書きを目指す人びとへ――わが体験的マスコミ論――岩垂弘(ジャーナリスト)」の「第2部社会部記者の現場から」
の「第53回 共産党幹部の素顔 」

 5.1日、共産党記者クラブの設立総会が東京・千駄ヶ谷の共産党本部で行われた。この日が選ばれたのは、この日が
第三十九回メーデーにあたったからだと記憶している。クラブには新聞、通信、放送二十二社の五十二人が加盟した。総会後、共産党側からの参加者を交えて設立記念パーティーが開かれた。共産党からの参加者は二十三人だった(肩書きはその当時のもの)。
 宮本顕治・書記長、袴田里見・常任幹部会員、岡正芳・常任幹部会員、春日正一・幹部会員、米原昶・幹部会員、下司順吉・幹部会員候補、藤原隆三・幹部会員候補、市川正一・書記局員、茨木良和・書記局員候補(選挙対策部長)、上田耕一郎・書記局員候補(第一政策委員長)、金子満広・書記局員候補(統一戦線部長)、諏訪茂・書記局員候補、豊田四郎・書記局員候補(宣伝部長)、浜武司・書記局員候補(赤旗編集局長)、不破哲三・書記局員候補(第一政策委員会副委員長)、宮本太郎・中央委員候補(宣伝部副部長)、松本善明・代議士、紺野純一・赤旗編集局政治部長、樋口見治・赤旗編集局日曜版編集長、五明英太郎・国会議員団事務局長、小笠原貞子・婦人部副部長、ほかに宣伝部員ら二人。小笠原貞子さんは、さしずめ紅一点だった。
当時の共産党で、党運営の実権を握っていたのは常任幹部会だった。メンバーは、野坂参三議長、宮本書記長、袴田里見氏、岡正芳氏の四人。

 野坂議長は、新聞記者の間では党の象徴的存在といわれていたから、常任幹部会の実質的なメンバーは宮本書記長を頂点に、袴田、岡の三氏だったといってよい。その三人が記者クラブ設立記念パーティーに姿をみせた。宮本書記長は第十回党大会(一九六六年十月)で、三十代から四十代の若手を積極的に幹部に登用した。この時、理論・政策面、選挙対策、労働組合対策、他党や他団体との統一戦線といった重要な部門の要職に新たに登用されたのが、市川正一、茨木良和、上田耕一郎、金子満広、諏訪茂、浜武司、不破哲三の各氏らだった。一九六九年一月には、東京・代々木の料理屋で共産党記者クラブの一部クラブ員と共産党幹部との懇親会があった。党側からの出席者は宮本書記長、不破書記局員候補、浜赤旗編集局長、豊田宣伝部長ら五人だった。

 5.2日、沖縄原水協・べ平連のデモ隊、嘉手納基地の武装米兵と衝突。

 5.4日、パリで学生デモ。「5月革命」始まる。想像力が権力を奪う!実存主義者のサルトルやボーボワールなども参加した。学生の2万人デモを契機に、フランス労働総同盟(CGT)のゼネストが起きた。一大騒動に発展し、フランス革命の再来とまで、騒がれた。その後、主要先進国に飛び火する。ソルボンヌのあるラテン区(カルチェ・ラタン)が解放区になった。
 5.7日、べ平連が沖縄などで脱走の米兵6人について記者会見で発表。

 5月、70年に向けての基本構想として、「安保条約反対と沖縄返還を目指す、全民主勢力の統一戦線と民主連合政府の対外政策」を発表している。7月に予定されていた参院選に向けてのプロパガンダであった。これに対応して、宮顕書記長が、テレビ発言「我々は現在、今の憲法の平和的民主的条項の完全実施を求めているわけだから、合法的な手段を使って国民の意思をできるだけ多数結集して選挙に勝って、そして民主連合政府をつくるのが筋だと思う」(5.5日付け赤旗)と述べ、ハーモニーさせている。

【日大全学共闘会議(日大全共闘)結成】
 5.27日、日大全学共闘会議(日大全共闘)結成。議長秋田明大。1、全理事総退陣、2、経理の全面公開、3、集会の自由、4、不当処分白紙撤回、5、検閲制度撤廃の5つのスローガンを決めた。日大3万人大衆団交要求デモ(→9/30)。以降日大闘争激化する。体育会系右翼学生の介入と襲撃により流血・負傷が繰り返される。

 5.28日、日共宮顕書記長が大阪での記者会見で、「安保条約反対と沖縄返還を目指す、全民主勢力の統一戦線と民主連合政策」を発表し、翌日の赤旗に掲載された。この頃の党の政策変化として、従来の安保破棄から廃棄へと用語の変更が為されている。実際には反対スローガンとなったが、重要政策における右傾化方向へのステップであった。その意味するところは、破棄の場合は大衆闘争と実力が伴うものであり、廃棄の場合は議会の手続きを経ての合法主義的なものであるということであった。

 5.31日、日大.大衆団交を要求、3万人デモ。

 6.2日、九州大学米軍機墜落事件。夜10時45分頃、福岡の板付基地に着陸しようとしていた米空軍のRF−4Cファントム偵察機が、建設中の九州大学大型電算センターに墜落。板付基地撤去デモ。
 6.4日、ソ連軍のチェコ侵入に抗議して九大で学長、教職員、学生らの抗議デモ。

 6.5日、ロバート・F・ケネディ暗殺。
 6.11日、 日大経済学部本館前で開かれた全学総決起集会に、約8千名の学生が集結。日大全共闘大衆団交。これに対し学生課右翼グループが襲撃をかけ学生側に200名以上の負傷者が出た。これにより、経済、法学、文理、芸術、農獣医、理工学と全学部の学生は全学無期限ストに突入、バリケードを築いて校舎を占拠、中に立てこもった。

 6.12日、宮顕は、参院選最中のNHK政党討論会で、「私達は、日本が独立したあと正しい路線を進み外国に対しては絶対出兵しないという態度をとっていても、もし日本が落下傘部隊を落とされて首都を占拠されるという危険があるとき、何にも持たないで、お手上げというのでは主権を守れませんから、そういう場合の自衛措置は国民の総意によって憲法上の取り扱いを考慮して決めるというので(憲法問題)を保留している訳です」。

【「内ゲバ」発生】
 6.15日、日比谷野音で「アメリカにベトナム戦争の即時全面中止を要求する 6.15集会」開かれる。1万2000名結集。このベトナム反戦青年学生決起集会で、中核派対革マル派・社青同解放派連合という構図での乱闘騒ぎが起こる。全国反戦は以降完全に分裂、三派全学連も実質的に解体することとなった。
(私論.私観)
 この「内ゲバ」は考察されるに値する。こうし た「内ゲバ」が統一集会に於いて「70年安保闘争」決戦期前に発生しているという内部的瓦解性の面と、後の展開からしてみて少々奇妙な構図が見える。つまり、中核派対革マル派−社青同解放派連合という構図は、どういう背景からもたらされたのだろうか。衆知のように中核派対革マル派、社青同解放派対革マル派というのが70年以降の構図であることを思えば、この時の経過が私には分からない。お互い運動に責任を持つ立場からすれば、こうした経過は明確にしておくべきでは無かろうか。いずれにせよ、当面の運動の利益の前に党派の利益が優先されていることにはなる。果たして、安保決戦期前のこの内部対立性(新左翼対民青同、新左翼内のセクト抗争)は偶然なのだろうか。私はそのようには見ていない。こういうことでは百年かけても左翼運動が首尾良く推移することはないと思う。

 6.16日、横須賀線電車爆破事件。
 6.21日、 全共闘系学生、社学同は駿河台で路上にバリケードを築き神田解放区闘争を展開(神田カルチェラタン闘争)。

 6.26日、小笠原返還。
 6.26日、反戦青年委と学生、東京新宿駅で米軍ガソリンタ ンク車輸送阻止のデモ。

【東大で、大河内総長と学生代表が「総長会見」】
 6.28日、東大紛争の事態打開の為、大河内総長と学生代表との「総長会見」が行われた。約3000名の教職員、学生らで埋まり、あふれた約2000名はテレビ中継した教室で集会に加わった。大河内総長は激しいヤジの中で、約1時間20分にわたり所信を表明し、学生の質疑に応じた。警官導入問題については、「全責任は自分にある」と言い切り、医学部の処分問題については「粒良邦彦君の譴責処分は、事実誤認だという粒良君の言を尊重して医学部教授会に差し戻し、残りの学生は再調査するよう医学部教授会に要請する」と約束。一方、「東大集会」に先立ち、午前中から開いた東大評議会でも、粒良邦彦君の処分は白紙に戻し、残り16名の研修生、学生らの処分についても改めて事情聴取など再調査する方針を決めた。が、大衆団交を求める学生側との話し合いがつかず、総長がドクター.ストップにより退場、物別れに終わった。

【第8回参院選】
 7.7日、第2次佐藤内閣の下で第8回参院選が行われた。定数125(地方区75、全国区50)、地方区は小選挙区制( 改選数25)、中選挙区制( 改選数50)のうち4人区(単記投票15)、6人区(単記投票4)、8人区(単記投票2)。全国区は大選挙区制。無所属で青島幸男、塚田十一郎、安田隆明、山崎竜男、横山ノックが当選した。自民69名、社会28名、公明12名、民社7名、共産4名、無所属5名当選。社会党は大幅後退、再建論争起こる。婦人の投票数が過半数を超す。

 党派別勢力図
政党/無所属 改選 非改選 合計
与党 69 68 137
自由民主党 69 68 137
野党他 56 57 113
日本社会党 28 37 65
公明党 12 11 23
民社党 7 3 10
日本共産党 4 3 7
無所属 5 3 8
合計 125 125 250

 自由民主党の役職は、総裁・佐藤栄作、副総裁・川島正次郎、幹事長・福田赳夫、総務会長・橋本登美三郎、政務調査会長・大平正芳。日本社会党の役職は、委員長・勝間田清一、副委員長・河野密、八百板正、山花秀雄。書記長・山本幸一、政策審議会長・木村禧八郎。公明党の役職は、委員長・竹入義勝、副委員長・白木義一郎、北条浩、和田覚、書記長・矢野絢也、政策審議会長・鈴木一弘。民社党の役職は、委員長・西村栄一、書記長・曾禰益、政策審議会長・春日一幸。常任顧問・片山哲、西尾末広。日本共産党の役職は、書記長・宮本顕治、政策委員会責任者・不破哲三、議長・野坂参三。

 石原慎太郎が全国区に自民党公認で立候補、初当選。太陽族を生んだ芥川賞作家の政界入りは話題で、石原は300万票を超える大量得票でトップ当選した(2位青島幸男、3位上田哲)。政治評論家の飯島清が采配した「日本の若い世代の会」が大学生など若者を集めて「日の丸」を旗印に選挙運動を進めた。全国を東西に分けて、西日本は大阪を拠点に当時関西大学生だった浜渦武生(のち石原秘書、都副知事)らが、東日本は東京を中心に当時一橋大生の栗原俊記(のち石原秘書)らが取り仕切った。栗原氏らの「日本の若い世代の会」東京事務所には当時、東京工業大の学生だった若き日の菅直人の姿があった。市川房枝女史の選挙を手伝い、ノンセクト市民派を看板に菅が本格的に政治の世界に足を踏み入れるのは、この後のことになる。

【革マル派全学連第25回大会開催】
 7.11日、革マル派全学連第25回大会開催。80大学・150自治会・146代議員・2000名参加。この数字が正確であるとすれば、革マル派の空前の著 しい台頭が見て取れる。

【中核派全学連大会開催される】
 7.14日、中核派全学連大会開催される。こうして中核派は、中核派全学連として単独大会を開催して正式に三派全学連から離脱することになった。101大学・157自治会・127代議員・1500名参加。こ の数字が正確であるとすれば、中核派の進出もまた凄まじいものがあったということになる。してみれば、ブント−社学同系の分立抗争ぶりとは対照的に元革共同勢が大幅に組織を伸ばしていることが分かる。

【日共が、プロレタリアート独裁をプロレタリアート(労働者階級)執権に改める】
 7.15日、赤旗が、党創立46周年記念の無署名論文「革命的伝統に輝く日本共産党」を発表。次のように述べられていた。
 「プロレタリアート独裁という言葉の意味は、プロレタリアート(労働者階級)の執政とか執権とかいうもので、プロレタリアートが権力を握って政治を行うということ、つまり労働者を中心に多数の者が政治を行うということに他なりません。それこそ真の民主主義なのです」。

【反帝全学連結成される】
 7.19日、中核派全学連の旗揚げに抗して、反中核派連合の第二次ブント統一派−社学同、ML派、社青同解放派、第4インターなどが反帝全学連を発足させようと反帝全学連大会を開催予定したが、社青同解放派とML派が壇上を占拠し、社学同と衝突。大会は乱闘となり流産した。こうした難産の末、7.21日反帝全学連第19回全国大会が開催された。79大学・131自治会・170代議員が参加。これだけのセクトが寄り集まって元革共同両派のそれぞれに匹敵しているという勢力関係が知れる。藤本敏夫氏が委員長、久保井氏が副委員長に選出された。これで4つ目の全学連が誕生することとなった。しかし、反帝全学連は結成当初よりのゴタゴタが付きまとい、社学同と社青同解放派の対立が激化していくことになる。

 7.25日、民青同全学連大会開催。

 8.2日、国際反戦集会。
 8.8日、札幌医大付属病院・和田教授、心臓移植疑惑。
【マル戦派が前衛派と怒濤派に分裂】
 8月、マル戦派は、幹部間の対立から前衛派と怒濤派に分裂した。戦略戦術 の総括、岩田理論の評価の対立から、岩田理論の正統継承派を主張する前衛派と、学生活動家を擁し多数派の怒濤派に分裂した。前衛派は、後に党名を共産主義者党と改称し、青年・学生組織として青年共産同盟を発足させる。 岩田理論に基づき、概要「68年のフランスの五月危機を契機に世界は不可避的な経済危機に入った」、「資本主義の末期的危機」、「この危機が『階級決戦の原動力』になる」等の主張を基礎理論とし、「工場占拠、ゼネストによる二重権力の創出」、「反合反帝の工場闘争をプロレタリア日本革命へ」と闘争を 指針させていた。基本的には議会主義を否定しながらも、手段としての議会進出を認め、労働運動を重視した。更に、国際・国内情勢について、それぞれの時点での問題点を分析し、その都度、闘争の在り方を明らかにしていることが注目される。指導下にある組織としては「首都圏行動委員会連合」(首行連)があり、機関紙としては「前衛」を発行した。

 一方、怒濤派は、後に労働者共産主義委員会(労共委)と改称し機関紙「怒濤」を発行、下部組織として共産主義戦線(共戦)を結成することになる。

 8.16日、べ平連クループ、嘉手納基地前で坐りこ み。27名全員が逮捕され、翌日コザ警察は全員を送検。

【チェコ事件が発生】
 「人間の顔をした社会主義を求めるプラハの春」と呼ばれた党民主化・社会主義国家体制民主化運動が1968年に爆発的に高揚し、8.20日、ソ連などワルシャワ条約機構5カ国軍隊(ソ連・ポーランド・東ドイツ・ハンガリー・ブルガリア)がチェコスロバキアに侵入し、全土を占領するというチェコ事件が発生した(「プラハの春弾圧」)。ドブチェクら党・政府の最高指導者たちはいきなり手錠をかけられ、モスクワに連行された。

 この時ブレジネフは、「制限主権論」を
唱え、冷戦下の社会主義世界体制で、チェコ共産党・国家の独自の改革権限・主権は制限されると主張し、この闘争を指導したドプチェク氏と「プラハの春」指導者らに「反革命」レッテルを貼り、チェコ傀儡政権に命令して、50万人の改革派党員を除名し、職場から追放した。

 8.21日、ソ連軍のチェコ武力介入に緊急抗議集会。

 9.22日、米軍タンク車輸送阻止闘争。各派4000名が立川基地周辺で集 会とデモ。

 9.27日、東大医学部赤レンガ館を研究者が自主封鎖。民青同との対立が抜き差しならない方向で進んだ。

【日大全共闘が古田体制打倒】
 9.30日、日大全共闘、両国講堂に3万人集まり、古田会頭以下全理事を壇上にすえて大学当局と10時間大衆団交。大学当局の全面屈服となり確認書に全理事が署名、古田体制が打倒された日となった。団交は翌日午前3時まで約12時間つづけられ、学生側の圧倒的な勝利となった。

 ところが、翌10.1日、佐藤首相が激怒し、閣僚懇談会で、「この大衆団交は集団暴力であり、許せない」と発言したことを受けて、全理事を居座らせた上で強権弾圧に乗り出した。大学側は確認書を白紙撤回し、全理事もそのまま居座った。

 社会党第31回党大会、勝間田委員長辞任。10.4日、社会党大会再会で、成田知己委員長、江田三郎書記長を選出。
 10.5日、秋田明大日大全共闘幹部8名に公安条例違反、公務執行妨害の疑いで逮捕状が出された。各学部のバリケードも次々と解除された。

 10.8日羽田闘争1周年集会。中核派・社学同・ML派・反戦青年 委員会約1万人参加。革マル派と社青同解放派は別個に集会。構造改革派系も合流しその後新宿駅で米タン阻止闘争。144名逮捕される。革マル派と社青同解放派は別個に集会。

 10.11日、東京プリンスホテルでガードマン射殺される。永山則夫連続射殺魔事件の始まり。10/14,26,11/5と4人殺人。
 10.12日、東大法学部無期限スト突入。バリケードを築く。これで開校以来初の10学部全学「無期限スト」に突入。

 10.13日、メキシコオリンピック開催。メキシコ学生運動。メダル表彰台での黒人選手のアメリカ国旗拒否。
 10.13日 べ平連事務所を、先の新宿デモとの関連で警視庁が初捜索。

 10.20日、「10月反戦行動」実行委による市民デモ。明治公園→新宿駅西口、3000名結集。9名逮捕される。そのあと新宿駅東口でべ平連街頭演説会。石田郁夫、小田実、小中陽太郎、日高六郎ら発言、1万名結集。社学同の学生26名防衛庁突入。

【68.10.21国際反戦デー闘争】
 10.21日、国際反戦デー。全国で46都道府県560カ所で30万名参加。31大学60自治会スト決行。全学連統一行動は、中央集会に1万余を結集。新宿・国会・防衛庁等で2万人デモ。機動隊と激突。各派が同時多発的に闘争を展開した。

 ブント社学同統一派系1000名は中央大終結後防衛庁突入闘争。社青同解放派系は早大終結後国会とアメ リカ大使館に突入闘争。革マル派と構造改革派(フロント)900名(1700名ともある)は東大で終結後国会へ向かう途中で機動隊と衝突。中核派・ML派・ 第4インター1500名はお茶の水駅前終結後新宿駅へ向かい、労働者・市民 2万人と合流した後騒動化(「新宿争乱事件」)。

 政府は、翌22日、騒乱罪を適用指令、769名逮捕される。その後、騒乱罪の指揮容疑で中核派全学連委員長秋山勝行委員長ら幹部が逮捕された。

 10月、第二次ブントの統合に反対したML派の一部少数派は、毛沢東思想を受け入れて、「帝国主義打倒の人民革命」を志向するようになり、マルクス・レーニン主義者同盟(ML同盟)を結成、その傘下に学生解放戦線・労働者解放戦線を組織した。ML同盟は公然武力闘争を主張し、かっての「球根栽培法」 等を再刊し火炎瓶闘争を指導し始めた。

【「新大管法」反対闘争】
 この間「大学の運営に関する臨時措置法案」(大学運営措置法)が政府から押しつけられることになった。「戦後民主主義」が獲得していた「大学の自治と学問の自由」に対する大きな制限を伴ったものであった。民青同系全学連は、 「大学の自治と自由を擁護」する観点からこの新大管法との闘争を組織しつつ、他方で「政府・自民党に泳がされたトロッキスト、ニセ左翼暴力集団を孤立」させようとして全共闘運動と敵対していくことになった。

【東大の大河内一男総長が学内混乱の責任を取って辞任、加藤教授総長代行就任】
 11.1日、東大、大河内一男総長が学内混乱の責任を取って辞任。10学部の現学部長全員も辞任。東大総長が任期を全うせず辞任するのは戦後初めてのことであり、東大90年の歴史にも前例がない。

 11.4日、加藤教授総長代行就任。同日林健太郎文学部長らが文学部学生との団交でそのまま拘束され、一週間にわたつて監禁状態におかれる事件が発生している。この頃、こうした全共闘側のエスカレートに対抗して民青同学生が反全共闘的に対立してくることとなった。

 11.5日、米脱走兵メイヤーズ、山口文憲、北海道で逮捕される。
 11.6日、琉球政府主席選挙で屋良朝苗当選。

 11.7日、沖縄闘争。学生・反 戦青年委員会約5000名が首相官邸デモ。中核派・ML派・社学同。この闘 いで秋山全学連委員長ら474名逮捕される。

 11.8日、東大、「大衆団交」100時間を超え、さらに続けられる。
 11.10日、琉球政府初の主席公選で屋良朝苗当選。
 11.12日、東大、林学部長は173時間ぶりにドクター・ストップで解放され、ただちに入院。「大衆団交」貫徹を要求する全共闘は全学バリケード封鎖を予告し、これに反対する日共系学生民青と乱闘となり、約70名が負傷。全共闘は工学部などを実力封鎖。  
【全共闘と民青同の抗争】
 11.12日、東大総合図書館前で全共闘と民青同学生が衝突。双方他大学学生の支援も加わり、東大構内はアナーキー化していくこととなった。

 68年の紛争校120校、うち封鎖・占拠されたもの39校。69年には、紛争校165校、うち封鎖・占拠されたもの140校となる。当時の全国の大学総数は379校であったから、その37パーセントの大学で学内にバリケードが構築されたことになる。大学当局は管理能力を失い、学生側は代々木系と反代々木系の対立、過激派各派の衝突や内ゲバも繰り返されていくことになり、全くアナーキーな状態が現出した。

 11.24日、三里塚空港粉砕・ボ ーリング実力阻止全国総決起大会。労農学8000名実力デモ。
【佐藤首相三選】
 11.27日、自民党大会で佐藤総裁三選。対抗馬として前尾繁三郎、三木武夫が出馬したが一蹴された。佐藤249、三木107、前尾95、藤山愛一郎1、無効1.。三木は下馬評を覆し、「男は一度勝負する」の名言を吐いた効あってか107票で2位を得て、前尾の95票に対して12票引き離した。この時、田中角栄が再び幹事長に返り咲いた。前尾はこの時の敗北で大平に派閥の長を譲らざるをえないことになる。

 11.30日、第二次佐藤内閣第三(二)次改造。官房長官・保利茂。

【東大入試中止決定】
 12.29日、坂田文相、東大全学部の入試中止を決定した。こうして68年末から翌69年にかけて全共闘運動は決戦気運に突入して行 くことになった。卒業−就職期を控えて大学当局も全共闘側も年度中に何らかの解決が計られねばならないという事情があった。こうして翌69年1月の東大時計台闘争(安田講堂攻防戦)に向けて全共闘運動はセレモニーに向かうことになった。

 この間新大管法の施行に伴い、中大、岡山大、広島大、早大、京大、日大等々の封鎖解除も並行的に進行した。
(私論.私観) 民青同のオカシナ役割について
 この運動に民青同が如何に対置したか。この時の民青同の党指導による 「オカシナ」役割を見て取ることは難しくはない。単に運動を競りあい的に対置したのではない。ただし、私は、個々の運動現場においてトロ系によりテロられた民青同の事実を加減しようとは思わない。実際には相当程度暴力行為が日常化していたと見ている。全共闘系の暴力癖は、諸セクトのそれも含めた指導部の規律指導と教育能力の欠如であり、運動に対する不真面目さであり、 偏狭さであったし、一部分においては「反共的」でさえあったと思う。史上、運動主体側がこの辺りの規律を厳格にしえない闘争で成功した例はない、と私は見ている。

 ただし、別稿で考察する予定であるが、そういう事を踏まえてもなお見過ごせない民青同による躍起とした全共闘運動つぶしがあったことも事実である。ここに宮本執行部が牛耳る党に指導され続けた民青同の反動的役割を見て取ることは難しくはない。単に運動の競りあい的に対置したのではない。「突破者」の著者キツネ目の男宮崎氏が明らかにしているあかつき行動隊は誇張でも何でもない。今日この時の闘争を指導した川上氏や宮崎氏によっ て、この時民青同が、「宮本氏の直接指令!」により、共産党提供資金で、全国から1万人の民青・学生を動員し、1万本の鉄パイプ、ヘルメットを用意し、 いわゆる“ゲバ民”(鉄パイプ、ゲバ棒で武装したゲバルト民青)を組織し、68年から69年にかけて全国の大学で闘われた全共闘運動に対してゲバルトで対抗した史実とその論理は解明されねばならない課題として残されていると思う。それが全共闘運動をも上回る指針・信念に支えられた行動で有ればまだしも、事実は単に全共闘運動潰しであったのではないか、ということを私は疑惑している。先の「4.17スト」においても考察したが、宮本執行部による党運動は、平時においては運動の必要を説き、いざ実際に運動が昂揚し始めると 運動の盛り揚げに党が指導力を発揮するのではなく、「左」から闘争の鎮静化に乗り出すという癖があり、この時の“ゲバ民”をその好例の史実として考察 してみたい、というのが私の観点となっている。

 12月、共産同第8回大会を開催した。第 二次ブント主流のブント統一派(戦旗派)も、軍事路線の討議をめぐって対立が起こった。一体全体このブント系の組織論はどうなっているんだろうか。趣味の世界ならご随意にと言いたいところだが、政治闘争となるとそうばかりも言えない気がするのは私だけだろうか。

 12.10日、東京・府中で3億円強盗事件発生。誤認逮捕と報道機関の勇み足→時効成立。
【べ平連運動の盛り上がり】
 この68年の特徴として、以上のような動きの他にべ平連支部が各地域ごとの他に各大学にも急速に結成されていったことも注目される既に66年には 東大ベ トナム反戦会議、 京都府立大、三重大等。67年には帝塚山学院高等部、神戸大、沖縄大学、 広島大、 立命館大、一橋大等で支部結成されていたが、6 8年になると信大、同志社大、北大、小樽商大、大阪工大、竜谷大、東工大、 芝浦工大、東工大、慶応医学部、東大、青山学院、国立音大、農工大、世田 工、東京水産大、東京外語大、大阪芸大、工学院大、神戸商大等が発足した。






(私論.私見)