1966年通期 中共派グループ離党、【第10回党大会開催】
 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和元/栄和3).9.20日
 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動史第7期その1、全学連の転回点到来」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2002.10.20日 れんだいこ拝


1.1 宮本書記長の新春インタビュー「新しい年の展望と日本人民の責務」をあかはたに発表。以来このインタビューは恒例となる。 党の自主独立路線の強化に伴い、毛沢東思想の実践を強く主張する親中共系のグループが党中央と対立して党を出て形成したにっきょう左派系。
1.7 都道府県委員長会議。3中総決定の全面実践を期して
1.22 社会党大会、佐々木更三委員長、成田書記長選出。
1.31 論文モスクワ放送の「佐藤内閣美化論を批判する」を発表。
2.1 原水爆禁止国民会議(原水禁)結成。
2.1 アカハタを赤旗と改める。  
2.4 全日空機ボーイング727羽田空港沖で墜落。
2.4 赤旗無署名論文で、「アメリカ帝国主義に反対する国際統一行動と統一戦線を強化するために」を発表。ソ連とのベトナム共同行動の可能と必要性を強調し、中共主張に異論を提起する。  
2.9 −4.4日宮本党代表団は中国.北ベトナム.北朝鮮の訪問を終えて返る。反帝国統一戦線問題協議の為。中共と国際路線の問題で深刻な対立が生じる。以後中国の文化大革命と呼応して教条主義批判=自主独立強調の党内工作を強力に推進する。
3.3 −8日北京で中国共産党代表団団長劉少奇副主席と会談。
3.21 平壌で朝鮮労働党代表団団長金日成と会談。共同声明に調印。3.22−27日北京で再度の日中両党会談、共同コミュニケについて合意。団長周恩来副主席。
3.27 ハノイでベトナム労働党代表団団長レ.ズアン第一書記と共同コミュニケに調印。
3.28 −29日上海で毛沢東と会談。毛沢東が反米反ソ統一戦線を主張し、北京で合意された共同コミュニケを破棄。又武装闘争を革命運動の唯一の道として絶対化する態度をとった。この会談初日の28日、毛沢東は、文革で北京指導部攻撃を指示。「資本主義復活の道を歩む実権派打倒」の文化大革命を発令。紅衛兵を全国的に動員。 中国共産党は、代表団の帰国直後から、党に対して修正主義と規定し、批判する大規模なカンパに亜を開始した。
4月 この頃党中央は、党内全党員に対して「教条主義との闘争」を指示している。第二回日中友好青年交流への不参加、名古屋.北九州での中国貿易展への非協力、中共出版物の不購買、赤旗の毛沢東選集の広告不掲載などが指示され、党内に中共理論と勢力の浸透を警戒した。
4.28 −29日「第4回中総」。ベトナム.中国.朝鮮を訪問した党代表団の活動についての幹部会報告を全員一致で承認。 中央機関紙編集委員強化人事を決定。
5.12 −14日全国都道府県委員長会議で、宮本は初めて名指して゛中共を非難する。
5.16 日中国で「文化大革命」がスタート。
5.21 −6.15日党代表団団長春日正一ルーマニア訪問。6.15日共同コミュニケを発表。 
6.16 日共代表団ルーマニア訪問、自主独立強調のルーマニア共産党との共同コミュニケを発表する。この前後から中共色排除の為の諸方策を全党に実行させる。
6.29 幹部会声明「アメリカ帝国主義のハノイ.ハイフォン爆撃に対し、全人民の大統一行動をるって反撃しよう」を発表。
7.13 −15日「第5回中総」。第10回党大会開催日を決定、「総合2カ年計画の達成についての訴え」を採択。
8.5 東京地検、自民党衆議院議員田中彰治を恐喝・詐欺容疑で逮捕=「政界の黒い霧」→「金権政治・モラルの低下」=長期保守単独政権が生んだ「積年の病弊」
8.8 赤旗無署名論文「ふたたびアメリカ帝国主義に反対する国際統一行動と統一戦線の強化について」を赤旗に発表。
8月 原水爆禁止大会で中共派の国際代表一斉退去する。
8.10 赤旗に解放戦線派(志田派)の分派活動との闘争をアピールする。「志田一派の反党撹乱活動を粉砕するために」。志田派は中共的立場から宮本体制を修正主義と批判する。
8月 原水爆禁止大会以後中共の日共路線への批判が強まり、山口県党は中共路線の立場から中央を批判する。
8.27 −29日「第6中総」で第10回大会への中央委員会報告案を採択する。西沢隆二は反対する。 8月末以後中共は日中交流における日共系のボイコット行為を非難し、日中貿易における日共系商社の締め出しを計る。
9.5 幹部会は、「毛沢東に盲従し党破壊活動を行った」として福田ら山口県委幹部5名の除名を承認する。以後山口県党の処分拡大する。被除名組は「山口県委員会革命的左派」を結成し、機関紙「革命戦士」を発刊する。
9.10 原田長司除名される。
9.13 赤旗は被除名組の「山口県委員会革命的左派」旗揚げを非難する。日中友好協会その他に党員間の対立が激化する。
10.2 北京留学党員4名の除名を発表する。北京で党員間の暴行事件続発する。
10.8 日中友好協会の大塚らの除名を発表する。当時の中国派は一枚岩ではなかった。志田派、山口県左派、西沢派と分かれ、以降更に分岐していくことになる。
10.9 第8回赤旗祭り多摩湖8万人。
10.11 荒船清十郎運輸大臣、自分の選挙区に急行を停車させ辞任。
10.13 「第7中総」を開き、西沢隆二の除名を決定する。これまでの被処分者は100名を越える。
10.19 日本共産党重要論文集第3集刊行。
10.20 加藤進議員、衆議院予算委員会で自民党田中角栄幹事長の信濃川河川敷買い占め事件を暴露。国会で初の田中金脈追求。
10.22 「第8回中総」。第10回党大会準備の諸案件について決定。
10.24 【第10回党大会開催】
三派。中核.社学同.社青同全学連再建 
10.30 −31日「第1回中総」。議長野坂、書記長宮本。 
11.22 −24日「第2回中総」。衆議院選挙対策と方針の決定など。 
11.1 大武議長によるプロレタリア革命派の全国的政治新聞『前線』創刊。党再建の思想上の武器としての『哲学論文』(哲学の歴史とマルクス主義)発表さる。それより以前の1960.5.12日大武礼一郎議長によるプロレタリア革命派の組織化とその政治文書『政治メモ』の発刊、とある。 
11.7 この前の時点で「共産主義労働者党」が結成されている。春日(庄).内藤知周ら構造改革派と志賀.神山ら「日本の声」派との大同団結として企図されていた。しかし、直前になって志賀.神山は参加しなかった。春日(庄)も同様を見せ、結局内藤知周が積極的推進者となった。機関紙「新しい路線」を刊行した。「志賀の態度を皮肉り、討ち入りの夜、ソバ屋の二階でソバをすすってから、大石内蔵助が動揺したのでは、忠臣蔵は芝居にならない」とからかわれていた。
11.13 全日空機YS11松山空港沖で墜落
11月 ルーマニア共産党ダレア代表団訪日。
12.2 山口喜久一郎衆議院議長、東京大証事件で辞任。
12.3 自民党河野派が中曽根派と森(その後園田)派に分裂。
第一次佐藤内閣改造。
12.27 相次ぐ疑惑問題で国民の政治不信は極限→衆議院解散=『黒い霧解散』。第31回総選挙(自民277名、社会140名、民社30名、公明25名、共産5名、無所属9名当選)


【早大闘争】
 1.18−20日、早大学費値上げ反対闘争が始まった。これは、前年の12月に、早大理事会が教授会にも諮らず、学生が冬休みに入ってから大幅な学費値上げを発表したことに対する憤激から始まっ た。広谷俊二氏の「現代日本の学生運動」は次のように記している。
 「『庶民の大学』という伝統に強い愛着を感じている学生たちは、値上げによって授業料、入学金などが慶応大学以上に高くなることに憤激し、また、このような大幅な値上げが、学生はもちろん、教授会にすらはかられることなく強行されたことに憤激して、全学をあげて、ストライキに立ち上がった。三万を越える学生が団結して闘い、多くの学生は、これまでにかってない積極性、創意性を発揮して闘争に参加した」。

【東大医学部でインターン闘争始まる】
 1.24日、東大医学部自治会、インターン配置問題をめぐって卒業試験ボイコ ット闘争。これが後の東大全学部を巻き込んだ東大紛争→東大闘争に発展していくことになった。

【党代表団訪中】
 2.9−4.4日、宮顕党代表団(団長・宮顕、副団長・岡正芳、団員・蔵原、米原、上田、不破、工藤)は、中国.北ベトナム.北朝鮮の訪問を終えて帰国。この時の「毛沢東・宮本会談」の一部が漏洩されているが、毛沢東の武装革命理論に宮本が辟易させられ、青くなって逃げるように帰国したと伝えられている。「ウィキペディア(Wikipedia)日中共産党の関係」は次のように記している。
 「まず北ベトナムを訪問すると、中国製の兵器だけでなく、ミグ戦闘機や地対空ミサイルなどソ連製の兵器が欲しいが、中国共産党がソ連軍がそれを口実に近代兵器をもって中国大陸を横断することを恐れて妨害していることが悩みの種だということが分かり[16]、宮本は解決策として反修正主義闘争とベトナム支援の問題は一応区別して折衝すべきと考えた。ソ連の修正主義についてはこのまま批判を続けるとして、それとは一応別個の問題としてベトナム支援と「国際統一戦線」の話を切り出せば、あるいはソ連も話に応じるのではという考えである。3月3日に北京を訪問した宮本はこの腹案を中国共産党側に伝えたが、中国共産党は応じなかった。ついで宮本は北朝鮮へ行き、金日成にもこの腹案を伝えたところ、金日成からは支持された。自信を深めた宮本は再度北京に戻り、周恩来らと共同コミュニケの作成にあたった。両者の見解にはなおも深い亀裂があったので共同コミュニケは中身のない抽象的なものになったが、ともかく採択にこぎつけ、その成立を祝う祝賀会も開かれた。ところが共同コミュニケが毛沢東まで上がると、毛沢東は独断で破棄した。宮本が毛沢東と会談に及ぶと毛沢東は開口一番「君たちはソ連の修正主義と同じ平和共存主義の合法主義者だ」と決めつけたうえで「戦争を回避しては世界革命はできない。恐らくここ1年、2年の間に米中戦争が起きるだろう。となれば、米国は北ベトナム国境、朝鮮国境、台湾、沖縄の四か所から中国へ侵攻してくる。その時、君たちは中国を援助し、また自身の革命のために武装蜂起するはらを決めているのか」と詰め寄り、「鉄砲から権力が生れる」として「51年綱領」に立ち返って武装闘争を開始することを要求した。これには宮本も二の句が継げず、会談は決裂。宮本ら代表団は急遽帰国することにした。帰国した宮本は4月27日と4月28日に第四回中央委員会を招集。その席上宮本は「毛沢東は老衰して頭がぼけてしまっている。そのうえ思いあがって党内でも孤立している」と毛沢東を批判し、以降第10回党大会を目指して明確な反中路線に転換した」。
 この時の日中共産党会談で深刻な亀裂を生じせしめた。一つは、反帝国統一戦線問題で、日本共産党がソ連も含めた反帝運動の必要を主張したのに対し、中国共産党は「反米.反ソ統一戦線」でなければならぬとした為であった。こうして中共と国際路線の問題で深刻な対立が生じることになった。もう一つは、日本共産党の国内での革命の進め方に対する中国共産党側からの批判が為されたことにあった。中国共産党は、議会制民主主義を評価し、合法的平和的闘争を志向する日本共産党の党路線を修正主義だと断じて、批判した。

 この経過について、岡正芳の1966.5.4日付け「理論部門担当幹部党員会議」における報告があり、それによると意訳概要「今度の訪問で、朝鮮とベトナムの党と我が党とは意見が一致したが、中国とはかなり意見の相違が明らかとなった。それには毛沢東の意向が反映していた。毛沢東は、革命勢力の根拠地である中国に対して、ソ連も含むアメリカ軍の反革命的勢力が戦争を仕掛けつつあり(中米戦争必死論、ソ連軍浸入論)、これに対応するのに中国・ベトナム・朝鮮・日本の党と人民の支援と革命行動が必要である。『その時、君達は中国を援助し、また君達自身の革命のために蜂起する腹を決めているのか』と、武装闘争の決意と準備を迫った。この毛沢東の情勢分析と日共の『アメリカ帝国主義のベトナム侵略の凶暴化に対する、ソ連も含めた国際反帝統一戦線の結成』観は平行線を辿った。毛沢東は、『沖縄の党の勢力は幾らあるか、沖縄でゲリラ活動を起こすことを、日本の党は考えたことがあるか』と大まじめに問いかけ、日共側はめんくらわされた」とある。

 以後中国の文化大革命と呼応して教条主義批判=自主独立強調の党内工作を強力に推進する。他方、中国共産党は、「アメリカ帝国主義.ソ連社会帝国主義.日本の反動勢力.宮本修正主義集団」を打倒せよという「四つの敵論」を唱え始め、両党は長年の友好関係から不倶戴天の仇敵関係となった。

 3―4月、ソ共第23回党大会。ブレジネフ政権下の初の党大会。ベトナム戦争、中ソ対立という複雑な国際情勢のもとで開かれ、ブレジネフによる党中央委報国は、米国非難とベトナム支援を強調していた。大会は、第8次5カ年計画(1966―70)の指令を承認した。それは科学技術革新、生産効率と労働生産性の向上に基づいて工・農業の成長を図り、国民の生活水準を引き上げるというもので、穀物増産など農業振興を最も重視していた。この5カ年計画中に企業の自主性強化を目指す経済改革が行われたが、この改革は中途半端を余儀なくされ、経済立て直しの決め手にならなかった。

 この大会で、党中央委幹部会の名称が以前のように政治局に、党第一書記が書記長にそれぞれ改められることになった。

 3月、「日本の声」(志賀.鈴木.松本惣一郎.長谷川浩.波多然.保坂浩明及び神山.中野)、社革(内藤)、統一社会主義者同盟(春日)による組織準備委員会がもたれ、11月に結党大会をもつことに合意した。

 4.27−28日、「4中総」が開催され、三国訪問の経過が報告された。5月中旬の全国都道府県委員長会議で、親中共路線からの転換方針が秘密裡に打ち出された。

 5.17日、反戦青年委員会、ベトナム侵略戦争反対中央総決起集会。労・学 4000名が国会デモ。

 5.26日、大野伴睦.元自民党副総裁の3回忌で、佐藤栄作「大野先生は『伴ちゃん』の愛称で親しまれた。私たち官僚出身は冷たくて大衆に愛されないが、私も『栄ちゃん』と呼ばれる政治家になりたい」。
 5.30.31−6.1日、労・学1万5000名が次第に数を増しながら原潜寄港抗議行動。300名が機動隊・MPと衝突。

 6.10日付け赤旗に、不破哲三の「自主独立を否認する事大主義」論文が掲載され、文化大革命を間接的に批判していた。

 6月初旬にブルガリアのソフィアで世界民主青年連盟総会で、中ソ両代表が「反米統一戦線」問題で激しく対立、この時日本の民青同代表は中国に同調せず、独自の修正案を提出、中国案と対抗した。ここに日中両党の対立が公然化した。

 6.24日、青医連・医学連、インターン制廃止統一行動。

 6月、ビートルズが来日した。東京武道館での公演が若者たちを熱狂させた。この頃、「花はどこへいった」などアメリカのフォークソングの人気が高まり、ボブ・ディランやジョーン・バエズなどが、大学生の間でブームとなっていた。

【ハノイ 爆撃機抗議緊急集会】
 7.1日、ハノイ 爆撃機抗議緊急集会。各派数千名。

【「三里塚.芝山連合新東京国際空港反対同盟」が結成される】
 7月、突如成田に新東京空港用地が閣議決定された。これは、65年11月に冨里に内定していたのを地元住民の反対から変更したものだった。地元には事前に何の打診もなかったことから、「三里塚.芝山連合新東京国際空港反対同盟」が結成されることになった。

【第12回原水禁世界大会開催される】
 7月末、第12回原水禁世界大会が東京で開催された。この年、中国代表団が日本政府から入国を拒否され、周恩来首相のメッセージのみとなった。ところが大会途中でソ連代表が大会参加を申し込み、これを原水協が承認したことにより、中共の意向を汲んだ外国代表が激しく反発し、この参加問題で二日間激論が交わされ、マレーシア・オーストラリアなど15カ国代表が「分裂主義者の参加を認めない」として退場した。中国は、この退場グループを北京に召集する一方、日本原水協を「ソ連修正主義と結託し、誤まった路線を押し付けた」と強く非難した。当然のように、赤旗紙上で中国側非難が為された。

 大衆団体を舞台にした日中共産党間の代理戦争であり、やがて本格的な両党間の対立・抗争に発展していくことになった。

【第一次佐藤内閣第二次改造】
 8.1日、第一次佐藤内閣第二次改造。官房長官・愛知揆一、官房副長官木村俊夫、幹事長田中角栄(留任)、大蔵大臣・福田。

【田中彰治代議士逮捕事件】
 8.5日、「マッチ・ポンプ」の異名を持つ田中彰治代議士が、小佐野賢治にまつわる1億円恐喝と詐欺容疑で逮捕された。この時田中彰治代議士は順天堂大学病院から着物姿のまま連行され、「全ては田中角栄、小佐野賢治、それに小佐野の弁護士正木亮、東京地検特捜部長河井信太郎の仕組んだ陰謀だ!」と叫んでいた。この為角栄にも世間の批判が及びそうになる。

 8月、共産党の機関紙「前衛」に、袴田里見の「党とともに歩んで」がこの時より連載開始され、18回にわたった。完結と同時に「学習指定文献」として推薦された。

 8.27日、「6中総」が開かれ、第10回党大会への報告案を廻って、「中共派」の中央委員西沢隆二が反対し、西沢は「毛沢東思想」を創刊して宮顕指導部批判に乗り出していくことになった。10月の「7中総」で、西沢は除名される。

 8月、福田正義らが「日本共産党山口県委員会(日共山口左派)」を結成し、全国の親中国系党員に対して同派への結集を呼びかけた。この「日共山口左派」の呼びかけにより、67年中に愛知、大阪、兵庫、福岡、佐賀など八府県で同派組織が結成された。
【「第二次ブント再建」される】

 9.1日、 既に昨年4月関西派は、「マル戦派」と「ML派」の一部を結合して「社学同全国委員会」(社学同統一派)を結成していたが、このような曲折ののち更にこのたび「社学同統一派」と「マル戦派」の残存部分との合同がなって、ブントは「第6回共産同再建全国大会」(ブント再建大会)を開催するに至った。ここに6年ぶりに組織統一をみるに至った。「社学同統一派」と呼ばれる。 これが、「第二次ブント再建」といわれるものである。

 他方、「ML派」の一部は、こ のブントの統合に反対し、毛沢東の思想である「人民戦線路線」を取り入れ党の路線とし、「帝国主義を打倒するための人民革命」を目的として、68年に「日本マルク ス・レーニン主義者同盟」(ML同盟.書記長鈴木*夫)、・学生部隊=学生解放戦線を結成し、 「第二次ブント」とは違った方向に進むことになる。


【社青同東京地本第7回大会乱闘】

 9.3日、東京地本第7回大会乱闘で、社青同解放派が組織的に排除され、以降解放派は社会党とは別の組織となった。

 高見圭司氏の「五五年入党から六七年にいたる歩み」は次のように記している。
 「第二期反戦の高揚を前にして社青同中央は全体の闘争の足を引っぱりはじめた。民同、日共の反トロキャンベーンに合唱しはじめた。それは、六六年九月三日、社会文化会館でひらかれた社青同東京地本大会において、当時の社青同中央指導部を握っていた社会主義協会(この当時は太田派と向坂派は統一していた)は社青同解放派の強力な東京地本の指導権を一挙に奪還せんとして陰謀を実行したのに起因している。それは、まず、この大会の壇上を棍棒などをもった協会派同盟員が占拠したことに対して、憤激した労働者、学生が鉄槌を加え、叩き出したことである。その時多くの負傷者を出したということで、社青同中央は、こともあろうに九州の三池で中央委員会を開き社青同東京地本の解散を決定することで、協会派の陰謀を貫徹したのであった。

 それは手短にいえば、社青同の中央を握った協会派にとって、お膝元の東京地本が、反協会派で握られていて、彼らにとっては目の上のコブであった。東京地本第七回大会を破壊すべく企図した協会派は、全国動員をかけて、大会壇上占拠をおこない、これに抗議して一部に暴力事件が発生したのである。これをきっかけに、社青同中央を握る協会派は、社青同の東京地本の解体決定を強行し、党の指導に耳をかさず、これを進めた結果、首都東京に二つの社青同が分立した。反戦青年委にたいする社青同の指導性の低下は、ここからはじまるのである。「自派のみが正しいとするやり方」として歴史に刻印されている。

 このこと以降、社青同東京地本の第一地本(樋口圭之助委員長)は中央本部で認知されないなかで歯をくいしばって反戦青年委員会と東交反合闘争の先頭に立って闘い抜いてきた。それに対して協会派指導部の中央と東京第二地本は、反戦青年委員会は“団体共闘でなければならぬ”という第一期反戦への後退を主張しつつ、新たな自立した地区反戦を中心とした第二期反戦に敵対しつづけてきた。その結果、大衆運動の分野で第一地本の質量ともの前進、第二地本の後退をもたらしたのである。このような過程を経て、全国反戦の第二期は社青同が抜けた中で、そして各県、各地区反戦の下からの登場で改編を経過していったのである。

 社青同の東京地本分裂問題は党中央と全国大会ごとに追及のネタになっていた。楢崎青少年局長は青年対策委員会における私の反対を押し切って、社青同中央の協会派の方針にもとづいた決定を下してしまったのである。私は、この社青同の分裂問題の根源は〈1〉最初に協会派が壇上を占拠し挑発し、陰謀によって東京地本を解散にもち込んだことが明白である、〈2〉社青同の規約から言って、組織解散、すなわち全同盟員の資格ハク奪はありえないこと、という二点から頑強に反対したのであった。

 私と同じ趣旨で、青少年局の書記であった小野政武君も反対した。しかし、われわれは少数で、協会派ぺ−スの決定が下されてしまったのであった。この協会派の反階級的陰謀は、いずれ白日のもとに曝さなければならない。労働者階級の前進にとって断じてこのような陰謀と非論理をまかり通してはならない。

 この東京地本間題と反戦青年委員会について楢崎氏のあとの青少年局長の藤田高敏氏は積極的な提言を論文として社会新報紙上に発表した。
 とりわけ、この藤田論文は、社青同中央が反戦青年委員会運動に取りくまず、さっぱり組織化の実績もあげることのできない“改憲阻止青年会議”なる方針を“個人加盟の戦略的な改憲阻止と反独占、社会主義を目ざす組織が改憲阻止会議というのは、尾上屋を重ねる方針で疑義がある。個人加盟で戦略方針をもつ組織なら社青同そのものではないか”と指摘しつつ、“大衆的な反戦青年委員会運動にこそ社青同は指導性をもってかかわるべきだ”と批判した。これは至極当然の指摘であったにも拘らず、社青同中央の協会派はいよいよ反戦青年委員会運動から遠ざかり、青少年局とこの問題についてたえず対立するに至った」(高見圭司「五五年入党から六七年にいたる歩み」)とある。
 「国際革命文庫」「日本革命的共産主義同盟小史」は次のように記している。

第4インター内に酒井を中心とし、社会党と労働組合内で主に活動しているメンバーによって、社会主義通信派が結成され、分派機関誌「社会主義通信」が創刊された。三多摩社青同に中心的な活動基盤をもつメンバーは、社通派の「統一労働者党」的傾向に反撥し、実践的には東京の解放派との共闘を発展させながら、「マルクス・レーニン主義研究会」=M・L研に結集し、後に分派的性格をもった機関誌「レーニン主義」を発行した。一時期太田と接触していた学生グループは、横国大、東学大、中大、東洋大などを活動の根拠地にして、関東社研を発足させ、その機関誌「武装」を全国学生運動に発表していった。四月、社通第四号は、「第四インターナショナルの早産論」を提起した。この議論は、「徳川・中曾根提案」が主として中国革命との関係に力点を置いて「第四インターナショナルの死産」を主張していたのとはちがって、現実の世界情勢をトータルにとらえようとする視点から展開されていたが、実践的には同じく「解党提案」の要素をもつものであった。「徳川・中曾根提案」、「社通第四号」と、二つの「解党提案」を打ち出した東京同盟内の傾向にたいし、東北は「東北B通信」で、真剣に検討されるべき問題提起であると肯定的に評価する論文をのせてこたえた。
 BL派は、この動きにたいし、ただちに組織問題として反応した。四月にひらかれた三多摩地区執行委員会は、社通派に属する三名の地区執行委員の除名を決定、これに反対するML研をも排除して、BL派だけの三多摩指導体制をつくり上げ、つづいて東京臨時指導部を名のり、「世界革命」一六五号において、これらの事実を公表して、中央執行委員会は今後すべての解党主義者を放逐してBL派の手によってになわれるであろうと断言したのである。
 社通第四号の提起は、内容の是非はともかく、第二回大会によって満場一致で確認された「徳川・中曾根提案」の継続討論という決定に沿ったものであり、いかなる意味でも、機関を無視した独走とはいえない。それは、討論にゆだねるべきことがらであって、統制処分の対象として議論されるべきではない。
 中執多数派もただちに反撃した。五月二十一日第四回中執が招集された。しかし、BL派は、中執多数派はすべて解党主義者であり、そのような中執会議は認めないとして出席しなかった。多数派のみで開かれた中執は、BL派による三同志の除名をとりけし、今後インターナショナル問題の討論を全同盟的に行うことをきめた。だがBL派は、電光石火の早業で同盟を分裂させる口実に、社通第四号の問題を利用したのであった。
 こうして、二回大会後一年を経ないうちに、しかも唐突なやり方でBL派は同盟からの分裂の道をえらんだ。そしてその後二年程のうちに、BL派もまた分裂し、太田は孤立し、やがて評論家の一員になって、第四インターナショナルはもちろん、マルクス主義そのものから公然と袂別していったのである。太田を除く他のBL派の諸君は、社会党にもどったり、他党派にうつったりしたものもあったが、全体としては、闘争から召還してしまった。
 BL派の分裂のあと、中央執行委員会は機能を停止した。東京の同盟は、社通派、ML研、関東社研の三「分派」によって、それぞれになわれ、必要に応じて、臨時の会議がもたれるという状況がつづいた。「世界革命」はBL派の手によって潜称され、二百号をこえる頃までつづけられたが、反BL派の三「分派」は、この不当な行為にたいして、実践的にたたかい、機関紙をとり戻す努力を一年以上にわたって放棄した。
 こうしたなかで、社青同内部の協会派と左派の緊張関係は増大しつづけ、八月、有名な東京地本問題が発生したのである。
 解放派の協会派にたいする集団リンチ事件として知られる、社会党史上はじめての大不祥事件である東京地本の第七回大会での暴力的衝突は、協会派によって、左派の組織的排除の絶好の機会としてとらえられた。東京地本は解散処分をうけ協会派系のメンバーだけによる東京地本再建が強行された。
 この事態にたいする対処をめぐって、同盟は緊急拡大中執を開催した。各地方の見解は異なっていた。もっとも強硬に事件の責任者である解放派を非難し、協会派にたいしての全面屈伏を要求したのは関西であった。他方むしろ協会派こそが非難されるべきで、いかなる妥協も排して左派東京地本の旗をかかげるべきだとしたのは、東京のML研と関東社研であった。社通派の一部は関西に近い立場にいたが、全体としての共通見解はもたなかった。東北は社青同の全国的な反協会闘争に合流していくために、若干の犠牲を払っても妥協の道を当面は追求していくべきだ、とした。
 拡大中執は二度にわたってひらかれたが、一致した結論には到達しなかった。協会派による統制処分と東京地本再建の既成事実は、次々とつみ重ねられた。ML研と関東社研の立場が、事実によって強制された。
 社青同への介入は、社会党加入活動のもっとも重要な手段であった。全国社青同から切りはなされ、排除されたことは、社会党加入活動自体の展望もまた閉ざされたことに他ならない。東京地本問題は、この意味で、加入活動自体の終りが始まったことを明らかにしたのである。
 協会派による組織処分は、六六年十二月の東京地本再建によって完了した。この過程でひたすら妥協の可能性を探しつづけた解放派と、事実上加入活動からの引き上げの方向にむかって動いた東京の第四インター派とのブロックもまた解消した。
 社青同内部の分裂と、JR内部の分裂、そして指導機能のマヒのなかで、三多摩社青同はついに完全に崩壊した。
 六七年、ML研グループによる三多摩社青同の活動は、反戦青年委員会として砂川を中心に細々とつづけられていったが、全国社青同と完全に断絶してしまった三多摩社青同には、社青同として存続する意義はなくなっていた。ML研は独立活動への移行の意志をかため、六八年の春、分室機関からメンバーを引き上げた」。

 9.7日、原潜横須賀寄港抗議闘争。新三派系1200名が基地ゲート前でジグザグデモ。ベトナム戦争反対・総評ゼネスト支持中央集会に3000名。この頃各地の大学で抗議闘争発生。


【中共派除名される】
 9.10日、共産党山口県委総会で、中共派の原田長司(中央機関紙編集委員)、福田正義ら5名を除名。

 この時の除名組は、日共山口県委員会左派を結成して、機関紙「長周新聞」を創刊し、党中央に反旗を翻した。既に10数年前に除名された志田グループの「解放戦線派」も中共的立場から宮顕指導部に対する批判活動を強めていった。

 「十党大会」に前後して、中央委員の西沢隆二(ぬやまひろし、故徳田球一書記長の女婿)、中央書記局員の安斎庫治、福田正義ら親中国系分子多数の除名処分を行った。なお、この波紋は、当然のことながら日中友好団体、商社などにまで及び、同年10月「日中友好協会」が分裂したのに続き、「AA連帯委員会」や「日本ジャーナリスト会議」などの大衆団体内にも、その分裂騒ぎが波及した。
 福田正義は次のように述べている。
 「戦前の日本共産党は強大であった。とくにインテリが多く、インテリで共産党でないものはバカかアホといわれるほどであった。ところがその共産党は戦争が苛烈になるなかで、敵の弾圧もあるが消滅してしまう。人民の困難にたいして手助けできなくなる。中国共産党は、果敢にたたかうが何度も破れて最後に長征をやる。事実上は逃げて敵の影響の弱い延安に本拠を移すのだ。そこでそれまでの革命斗争を総括して、理論上、路線上の整頓をする。だから今度は無敵であり、全中国の解放までいった。なぜ日本共産党は重大な時期につぶれてしまって、なぜ中国共産党はあの広大な中国で人民の政府をつくれたのか。その中心をなすものは『老三篇』、つまり徹底的に人民に奉仕する思想である。中国の勤務員の活動などを見ていても、人民の事業のためには刻苦奮斗するということが、言葉のいいまわしというものではなく徹底している。だから人民のいるところではかならず人民を団結させて勝利していく」。

 9.22日、新三派系全学連再建決議。


 10.2日、成田空港反対同盟−三里塚.芝山連合新東京国際空港反対同盟結成後初の総決起集会。


【「日本中国友好協会」が設立される】
 10月、「日本中国友好協会」が設立される。これは従来の「日中友好協会」から、宮顕の指示により宮顕指導に服する党員を脱退させ設立されたほぼ同名の新団体であった。当然この二団体は激しく対立していくことになり、以降、「日中友好協会」は紛らわしさを避ける為、「日中友好協会(正統)」と称することとなった。
(私論.私観) 宮顕指示による「日中友好協会」に対する紛らわしい名前の別団体立ち上げについて

 こういう手法は、悪意無しには出来ない。こういうことをもっと的確に認識すべきではなかろうか。

【党中央が中共派党員を次々と除名攻勢】
 10.2日、北京で、日共党員両派に分かれ、暴力事件続出。中央書記局党中央統制監査委員会、が、中共派の聴涛学、伊佐雅正、深海督弘、酒井誠(10.2)、佐藤重雄、田島淳ら(10.3)、金沢幸雄(10.4)、大塚有章、雨宮礼三(10.6)、高比良光司、鎌田修昌、塩貝敦郎ら(10.8)、中央委員・西沢隆二(10.13)、坂井庄作(10.22)を除名。

 10.20日、全学連再建準備会。

 10.21日、ベ トナム戦争阻止・総評・中立労連第三次統一行動に全学連再建準備会1600名参加。 

 10月、東大の大学院生を主とする「東大ベトナム反戦会議」が所美都子らの手で立ち上げられた。この動きが後の全共闘のさきがけとなって行く。

 11月、明大にも学費闘争が発生した。

【 戦後党史第四期】/ 【ミニ第@期】= 宮顕独裁体制完了以降の動き
 第10回党大会が開催され、宮顕独裁体制が党内を完全に制覇した。中国派系の追い出しに成功した宮本にはもはや標的がなくなった。次に向かったのは党内の完全統制であり、異端分子の追い出しとなった。以降延々と締め付けが進行することとなる。これ以降区分することも出来るが、もはや本質的な差異は何もない。今日まで継続している。この期間を【 戦後党史第四期のミニ第@期】とみなすことができる。

【第10回党大会開催】
○期日.会場.代議員数について

 10.24−30日、第10回党大会を開く。世田谷区民会館、太田区民会館。957人の代議員が参加した。10.26日会場への盗聴器摘発。10.27日政府などに抗議。中共派は代議員から排除された。

○大会の眼目  

 大会の眼目は、自主独立路線の基本方向を確認し、「30万人に近い党員と、百数十万の機関紙読者を持つ、党の歴史の上で、最大の勢力となることができました」という党中央の勝利宣言を追認することにあった。

○党規約改正について

 この大会で、それまでの中央統制監査委員会を中央監査委員会と中央統制委員会に二分割し、中央監査委員会はこれを大会選出、中央統制委員会は、これを中央委員会の任命とした。従来大会選出であった統制委員会委員の選出が中央委員会の任命制と規約改定された。宮顕党中央の党の私物化体制への道を更に切り開いたことになる。

○採択決議について

 統一行動、統一戦線を発展させるための教訓と方針、数十万の大衆的前衛党を建設する意義と任務、その方策、戦後の党発展の歴史的教訓。自主独立路線宣言し、自主独立の立場と二つの戦線での闘争の重要性などを示す。中国派の西沢隆二除名承認の決議を満場一致採択。

○新執行部について   

 中央委員は、前回の67名から88名、同候補は42名から49名、中央統制監査委員は9名から7名を選出した。更に増大化させている。新中央委員に、上田、不破、諏訪茂らが登用された。

 新しい中央委員会は、議長に野坂.書記長に宮顕を再選した。幹部会員に野坂.宮顕.袴田.岡.春日.河田.蔵原.紺野.西沢.松島.米原の11名、同候補に岩林虎之助.内野竹千代.大淵生気.下司順吉.砂間一良.高原晋一.藤原隆三.吉田資治の8名を、書記局員に宮本.袴田.岡ら18名、書記局員候補8名を選んだ。


【宮顕−袴田体制の継続確立】

 
宮顕−袴田体制の継続確立。

○除名ないし脱党者

 中央委員西沢隆二、安斉庫治、本部機関紙編集委員にして山口の福田正義らと切り離されていた原田長司、大阪府委員大塚友章、徳田未亡人、岡田文吉未亡人、雨宮礼三、小林雄一、宮崎世民、岩村三千夫、西園寺公一などが除名された。中国関係団体は中国派と代々木派に割れ、随所でお家騒動が起こった。歴史家の井上清、党外文化人中島健蔵、千田是也、滝沢修、杉村春子ら新劇派、作家武田泰淳、前進座の河原崎長十郎。

【64年当時の党の方針の特質と要点】
○〈本党大会までの執行部評価〉について  
○国際共産主義運動に対する態度

 「各国共産党の自主独立の立場が、国際共産主義運動の団結の原則として確立される新しい段階を切り開く第一歩」(第10回党大会政治報告)とした。

@〈世界情勢に対する認識〉について   
A〈国内情勢に対する認識〉について  
B〈党の革命戦略〉について
C〈党の革命戦術〉について

 神山茂夫は、「日本共産党とは何であるか」の中で、「第8回党大会の正式文書で、敵の出方で決めるとあった個所を、黙って『決まる』と訂正するような小細工さえ弄するに至っている。こうしたやり口も加わって、現綱領の明文はほとんど死文か呪文のようなものに転化している」といっている。

D〈党の具体的な運動方向〉について  
E〈党の大衆闘争指導理論〉について  
F〈党の機関運営〉について  
G〈左翼陣営内における本流意識〉について  
H〈この時期の青年戦線.学生運動〉について    
I〈大会後の動き〉

 10.24日、全学連、東京・大阪・広島・札幌で紀元節復活公聴会阻止闘争。

 10.25日、第10回党大会の最中、日中友好協会、AA連帯委員会、AA作家会議、日本ジャーナリスト会議、日中貿易促進会などの大衆組織が、日共派と中共派に相次いで分裂した。中共派党員の除名が続出、峰敏夫、安井正幸、島田敏雄らが除名された。

 中共派は、日中友好協会正統本部を設立した。

 10.30−31日、「第1回中総」。議長野坂、書記長宮顕。

 11.1日、大武議長によるプロレタリア革命派の全国的政治新聞『前線』創刊。党再建の思想上の武器としての『哲学論文』(哲学の歴史とマルクス主義)発表さる。それより以前の1960.5.12日大武礼一郎議長によるプロレタリア革命派の組織化とその政治文書『政治メモ』の発刊、とある。

 11.7日、この前の時点で「共産主義労働者党」が結成されている。春日(庄).内藤知周ら構造改革派と志賀.神山ら「日本の声」派との大同団結として企図されていた。しかし、直前になって志賀.神山は参加しなかった。春日(庄)も同様を見せ、結局内藤知周が積極的推進者となった。機関紙「新しい路線」を刊行した。「志賀の態度を皮肉り、討ち入りの夜、ソバ屋の二階でソバをすすってから、大石内蔵助が動揺したのでは、忠臣蔵は芝居にならない」とからかわれていた。

 11月、党と民青と日中友好協会正統本部との間で東京飯田橋にある事務所争奪戦が、武闘を盛り込んで激化する。いわゆる「善隣会館事件」。

 11月、ルーマニア共産党ダレア代表団訪日。

 11.12日、「社革新」(内藤知周.亀山幸三.内野壮児)と「日本の声」(いいだもも.波多然) 派、統一社会主義同盟の原全五が合同し、「共労党」結成。議長に内藤知周、書記長にいいだもも氏が選出される。機関紙「統一」、編集担当栗原幸二。

 11.18日、全明大臨時学生大会が開かれ、賛成271.反対138.保留38.棄権1で先制的ストライキに突入した。

 11.21日、党中央書記局、北京在住の中共派高野弘海ら17名の党員を除名。

 11.22−24日、「第2回中総」。衆議院選挙対策と方針の決定など。

【明大.中大闘争】
 11.23日、約9000名の学生で和泉校舎封鎖、11.28日5000名で生田校舎封鎖、1 1.30日駿河台校舎を封鎖し、明大全学闘争委員会が学費値上げ阻止の大衆団交を開いている。4000名結集。この闘争は越年することになった。

 12.9日、中大自治会、学費値上げ反対、学生会館の学生管理・処分撤回を要求して全学スト突入。社学同の指導によって最終的に大学側に「学生の自主管理」を認めさせ、処分の白紙撤回を勝ち取るという学生側が勝利を飾った。

 その他にも関西学院大や西南学院大では学部新設反対の闘争が起こり、また各医大ではインターン制反対闘争が続いており、東京医歯大はストに突入といった状況を現出しつつあった。

 12.1日、自民党総裁選が争われ、佐藤栄作289、藤山愛一郎89、前尾繁三郎47、灘尾弘吉11、その他14(野田卯一郎9、小坂善太郎2、岸信介、松村謙三、村上勇各1).となり、佐藤が再選された。佐藤首相は、川島正次郎副総裁、田中幹事長を解任させた。
 12.3日、第一次佐藤内閣三次改造。官房長官・福永健司。
【 三派系全学連結成】
 12.17日、既に三派都学連を結成させていた新三派連合(社青同解放派・ 社学同・中核派)は、この頃ML派なども合流させた上で三派系全学連を結成 した。これで三つ目の全学連の誕生となった。35大学.71自治会・178代議員他1800名。この「全学連再建大会」は結成されたものの呉越同舟的な寄り合い所帯の諸問題をはらんでいた。まず、再建大会を第何回大会として位置付けるかをめぐって対立したことにより明示できなかった。何時の時点で破産したかの認識が異なっていたからであった。なお、60年安保闘争の総括が蒸し返され見解が一致しなかった。こうした対立を乗り越えて、総括を中核派の秋山勝行が、状勢分析を社青同の高橋幸吉が、行動方針を社学同の斎藤克彦という分担制で妥協しつつ何とか「三派系全学連」の結成に漕ぎ着けるという多難な出航となった。

 人事には各派のバランスが図られ、委員長にはブントの斉藤克彦氏、書記長には中核派の秋山勝行氏、副委員長社青同解放派の高橋、社学同の蒲池氏が選出された。翌 67.2.19日斉藤氏が失脚し以降中核派の秋山勝行氏が委員長に就任する。この時の議案書は次のように宣言していた。「全学連とは、結成されてよ り今日まで、どのような紆余曲折があれ、それは日本の闘う学生・人民の砦であった。日本労働者階級、全ての人民の闘いに全学連の旗が立たなかったことはない」、「50年のレッド・パージ阻止闘争を見よ! 56年の砂川を! 60 年の安保を! 全学連の闘いは、常に、日本労働者階級と共にあり、その先頭に立った」、「我々再建全学連は、その輝かしい闘いの歴史に恥じず、今まで以上にその闘いの方向に向かって、怒濤の如く驀進して行くだろう」(新左翼20年史67P)。

 こうして、この時期全学連は、革マル派、民青同、新三派系の三つの全学連を誕生させることとなった。そのうち三派系全学連が最も行動的な全学連として台頭していくこと になり、この過程で中核派の主導権掌握がなされていくことになった。この頃よりベトナム戦争が本格化していき、これに歩調を合わすかの如くベトナム反 戦闘争に向かうことになった。 

 12.23日、党統制委員会が、中共派の宮崎世民、赤津益三、斎藤きえらを除名。

【衆院解散】
 12.27日、佐藤首相が衆院を解散。この頃、自民党議員の不祥事が続発。国有地払い下げに伴う恐喝で、田中彰治代議士が逮捕され、荒船運輸相が自分の選挙区に深谷駅を政治力で急行停車駅にさせ、農相・松野頼久が新婚の娘夫婦らと一緒に外国を官費旅行していたなど「黒い霧」を理由に野党が審議拒否したため解散となった。「黒い霧解散」と云われる。12.28日、翌67(昭和42)4.29日の総選挙が告示された。








(私論.私見)