【1962年の主なできごと】
宮顕独裁体制確立。宮顕の「排除の論理」路線の満展開


 (最新見直し2006.9.9日)

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第6期その3、全学連の三方向分裂化と民青系全学連の「再建」」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2002.10.20日 れんだいこ拝


石炭政策転換闘争終結
江田五月東大自治会委員長の自民党総裁室乱入事件
1月 新中央は綱領を基準にして各府県党の方針と活動の点検をすすめる。党勢拡大のテンポは次第に低下して、中間目標の達成困難となる。
1.29 −31日第3回全国活動者会議開催。参議院選勝利を目指して。
2.15 −28日第一回「中央党学校」開校。
3.1 日韓外相会談。
4.12 幹部会、さらに党の政治的影響をひろげ、選挙戦をめざして前進しようで選挙戦を得票活動に解消する二重の矮小かを批判。
4.12 『最近は構造改革の問題がはやりになっつて……すぐこざかしく評論家ぶって学生運動家らしからぬ形で、この問題に取り組む人達が多くなっていてることを、私はきわめて残念におもいます』=高野秀夫の神戸大学講演。
4.22 −5.23日党代表団団長蔵原幹部会員、インドネシア共産党第7回臨時大会出席の為インドネシア訪問。5.23日共同声明に調印。
5.7 党内教育の指針独習の意義と文献についてを発表、「独習指定文献」を示す。
5.26 共同声明を発表。
 
江田社会党書記長、党全国活動家会議で「社会主義の未来像新しいビジョン」(江田ビジョン)を発表、物議を呼んだ。江田は、社会主義のためのより実現可能な方向を探るという大義名分のもとで、生産手段の公有化、基幹産業の国家管理などを排した左翼理論の再構築を期待していた。後に党内論争に拡大。、
7.1 第6回参議院選挙。自民党は5名増しの69名、社会37名、共産3名、同志2名、無所属12名当選。党は、全国区2名(岩間正男.鈴木市蔵)、地方区1名(野坂参三)当選し、議席3から4に増える。得票数は前回に比べ、全国区2倍余の112万票(3.1%)、地方区1.8倍の176万票(4.8%)となる。 
自民党は、続く総裁選で池田無競争再選。
7.13 「第3中総」で、日本共産党創立40周年にあたってを採択。「4つの旗」を定め、綱領路線の普及と徹底化をはかる。  「4つの旗」とは、 @.反帝反独占の人民の民主主義革命の旗、 A.祖国の真の独立と人民の勝利の保障である民族民主統一戦線の旗、 B.政治的思想的組織的に強固な強大な日本共産党の建設の旗、 C.アメリカを先頭とする帝国主義に反対する民族解放と平和の国際統一戦線の旗 として定式化された。
7.14 党創立40周年記念式典を9段会館。記念招待会を明治記念館。
7.15 日本共産党の40年をあかはたに発表。
8.1 −6日第8回原水爆禁止世界大会でソ連核実験への抗議に反対して、社会党.総評系と対立する。第八回原水禁世界大会開催中にソ連が核実験を行ったため、大会は「いかなる国の核実験反対しを巡って混乱。
10.5 「第4中総」。機関紙活動の重要性について、党の総路線−4つの旗を実現する活動全体を結びつける党の動脈であると強調。機関紙中心の党活動を定式化、正しい党風を呼びかけた。
 党の労働組合政策の基本方向を明らかにし、総評依存主義の誤りを指摘。報告と決議で社会党.総評を「社民」と規定し、強硬路線を打ち出す。綱領路線を基準とする民族民主統一戦線を押し出し、総評依存主義からの脱皮と独自の組合=大衆活動を志向する。以後あらゆる大衆運動に二つの敵論を持ち込む。
10月 イタリア共産党第10回大会。構造改革論を明確に打ち出した。その理論は、概要「革命の大いなる日を迎える以前の党運動として、社会の左翼化を促す改良政策に取り組むことは是であり、現存の国家の枠内で『構造的.民主的諸改革闘争』を成功させることが出来る」、「こうした闘争の積み重ねによって、人民が次第に権力を獲得し、平和的な民主的な道に沿って社会主義に到達できる」というところに特徴があった。
10.22 キューバ危機。ソ連のミサイル建設にケネディーが海上封鎖。ケネディ米国大統領のキューバ海上封鎖宣言で米ソの緊張激化。
10月 中国.インド国境紛争の勃発。
10.末 10.末−1.10日袴田幹部会員、岡正芳書記局員.米原らが手分けしてブルガリア、ハンガリー、イタリア、チェコスロバキアの各共産党.労働者大会に出席したのち、ソ連.中国を訪問して帰国。これらの大会でアルバニア批判、中国批判に同調せず、全世界の共産党.労働者党の団結を訴える。
11.4 池田首相、ヨーロッパ6カ国訪問に出発。
11.9 高碕達之助・寥承志と日中総合貿易に関する覚書調印、LT貿易開始。
11.11 第4回あかはた祭り。多摩湖、5万人。
11.13 −15日第4回全国活動者会議。党建設の総合2カ年計画の達成めざして。
12.15 中国人民日報が反論。「全世界のプロレタリアートは団結して共同の敵に反対せよ」で、ソ連共産党の諸見解に反論を加えた。フルシチョフのキューバ危機に対する対応を非難した。
日中総合貿易覚書調印
社会党第二十二回大会で江田ビジョンが批判され、江田三郎は書記長を辞任(後任は成田知巳)


 1月、以後新中央は綱領を基準にして各府県党の方針と活動の点検をすすめる。党勢拡大のテンポは次第に低下して、中間目標の達成困難となる。

 1.11日、大田総評議長と向坂社会主義協会代表が、連名で「社会党大会に臨む我々の主張」論文を発表した。その骨子は、「構造改革論は、独占資本の支配する資本主義社会で、あたかも、労働者のヘゲモニーの下に民主主義的、進歩的国有化がありうるかのような幻想をふりまいている。これは全くの誤りであり、本質的には改良主義そのものである」としていた。

【社会党第21回党大会】
 1.20日〜22日、社会党第21回定期党大会が開かれ、書記長ポストを江田三郎と佐々木更三が争うことになった。この時構造改革路線を廻って「構造改革は戦略か戦術か」の論争が起こったが、実際は論争というより罵声のぶつけ合いとなった。結局、佐々木派の主張が制圧し、「構造改革を直ちに党の基本方針としてはならない」とした上で、「社会主義理論委員会」を設置して、引き続き本格的検討をしていくことになつた。この案の提案者は飛鳥田一雄だったといわれている。

 人事は大方の予想に反して、江田(323票)が佐々木(260票表)に60票の大差をつけて書記長に当選した。

 2月、米国が援助軍司令部を設置し、ベトナム紛争に介入。

 2月、赤城宗徳総務会長が、大平正芳官房長官に「法案の閣議決定に先立って総務会にご連絡願いたい」との書簡を送り、これが受け入れられたことにより「事前審査制」が始まった。これにより、党としての自民党が政府に影響を与えるメカニズムが生まれた。政府の要職に就いていない国会議員が、法案の承認手続きを通して拒否権を持ち、利害を反映させることになった。

 3.3日、アメリカが4月に核実験再開を行う声明をした。
 3月、日韓外相会談。
 3月、東京原水協の大衆集会に、マル学同全学連の活動家がなだれ込んで、「米ソ核実験反対をしない原水協はナンセンス、解体せよ」と云いながら会場を占拠し、流会させた。なお、モスクワの赤の広場で米ソ核実験反対を呼号している。

 4月、キューバ危機。
 4月、社会主義革新運動準備会の春日(庄)議長・山田副議長らが社革から脱退。翌5月、統一社会主義同盟を結成する。

 4.22−5.23日、党代表団団長蔵原幹部会員、インドネシア共産党第7回臨時大会出席の為インドネシア訪問。 5.23日共同声明に調印。

 5.2日、フロント(構造改革派)結成。

 5.7日、党内教育の指針独習の意義と文献についてを発表、「独習指定文献」を示す。

【大管法闘争】
 この頃の学生運動につき、「第6期その3全学連の三方向分裂化と民青系全学連の再建」に記す。

 5.25日、池田首相は、大学管理問題として「大学が赤の温床」になっているとして大学管理法の必要性を強調した。これが大管法闘争を引き起こした。民青同系は、この大管法闘争に真っ先に取り組み、この過程で、日共系が、6.1日、全自連崩壊の後を受けて東京学生平民共闘を正式に発足させた(平民とは「安保反対・平和と民主主義を守る」という略語)。ちなみにこの時大管法闘争を重視したのは民青同系と構造改革派系だけであり、いわゆるトロ系急進主義者は闘争課題に設定していなかったようである。

【樺美智子追悼二周年】
 6.15日、樺美智子追悼二周年が開かれた。最前列を占めたマル学同全学連700名は、社会党飛鳥田一雄の挨拶をやじり倒し、社学同の佐竹都委員長の挨拶には壇上での殴りあいを演じ、清水幾太郎の講演もほとんど聞き取れない有様となった。

 これを「暴挙」とする樺俊雄夫妻.吉本隆明.清水幾太郎氏らは批判声明を発表し、概要「マル学同の狂信者たちが全学連の名を僭称しつづけることを許すべきでない」とまで、厳しく弾劾している。

【第6回参議院選挙】
 7.1日、第6回参議院選挙。自民党は5名増しの69名。党は、全国区2名(岩間正男.鈴木市蔵)、地方区1名(野坂参三)当選し、議席3から4に増える。得票数は前回に比べ、全国区2倍余の112万票(3.1%)、地方区1.8倍の176万票(4.8%)となる。

 自民党は、続く総裁選で池田無競争再選。田中蔵相、大平外相。この時参院議長に重宗雄三が就任し、以来「重宗王国」を作るようになる。
 この時、革共同全国委が「革命的議会主義」を旗印に、黒田寛一(34)氏を全国区から出馬させていた。但し、得票数は2万3265票。大日本愛国党総裁の赤尾敏は12万2532票。その時の政策ビラは次の通り。
 一、米ソ核実験反対。
 ソ連特権官僚の反労働者的確実験を狂信的に支持し米帝国主義の核実験にさえ反対できなくなった日共系の「原水禁」運動の破産は明白だ。全学連をはじめ英、独、仏、加、豪などで拡がっている米ソ核実験反対運動と連帯し、全世界の労働者人民の反戦闘争で核実験、軍拡競争の悪循環を断ち切ろう。

 二、憲法改悪阻止。
 護憲三分の一論は、議員亡者のタワ言だ。支配階級は、必要とあらば、自分の利益を貫徹するために議会主義的秩序すら踏みにじるであろう。まして、憲法改悪は公然たる反革命の開始だ。三分の一の議席にたよらず、労働者人民の大衆的実力行動で支配階級の野望を打ち破ろう。

 三、大学管理制度改悪粉砕。
 全学連の破壊を意図する新制度反対。学生三〇万のゼネストで粉砕せよ。

 四、闘う労働者党を創ろう。
 社会党は労働貴族に成上がった組合ボスと議員亡者の党だ。共産党はソ連圏特権階級の追従者の党だ。だから、労働者の闘争を抑え、自分の議席を増やすことしか考えないのだ。労働者階級の利益をあくまで守る闘う労働者の政党を創ろう。自分の未来を自分で切り開くのだ。

 五、帝国主義打倒、ソ連官僚主義打倒。
 マルクス主義青年労働者同盟、全学連 推選。

【反マル学同内で、ブントと構造改革派が対立】
 7月、反マル学同で一致した社学同再建派、社青同、構造改革派の三派が連合して「全自代」を開催した。かれらは全学連再建を呼号し続けたが、折からの大管法に取り組むのかどうかをめぐっての運動方針に食い違いが発生し、ブントは、「憲法公聴会阻止」闘争一本槍を 主張し、構造改革派が大管法闘争への取り組みを主張した。その他の諸運動においても社学同再建派と構造改革派の間にことごとく意見の対立が起こり、最終的に暴力的な分裂に発展した。ブントが武装部隊を会場に導入して、構造改革派を叩き出してしまった。こうして、連合したばかりの三派連合は空中分解した。

 この動きから判ることは、ブントの組織論における致命的な欠陥性である。一体全体ブント系は、「60年安保闘争」総括後空中分解したまま今に至るも四分五裂をますます深め統合能力を持たない。意見・見解・指針の違いが分党化せねばならないとでも勘違いしている風があり、恐らく「お山の大将」式に星の数ほど党派を作りたいのだろう。なお、 意見の相違については、ゲバルトによって決着させたいようでもある。しかし、 残念ながら少数派閥化することにより、このゲバルトにおいてもマル学同に対 して歯が立たなくなってしまったのは致しかたない。

 7月、マル学同全学連第19回大会。「大管法阻止全国学生共闘会議」結成を呼びかけ、共闘の方針として、「10月以降、ゼネストを含む闘いを展開する」と決定。

【「第3中総」開催し、共産党中央が「4つの旗」を定式化】
 7.13日、「第3中総」で、日本共産党創立40周年にあたってを採択。「4つの旗」を定め、綱領路線の普及と徹底化をはかる。 「4つの旗」とは、 @.反帝反独占の人民の民主主義革命の旗、 A.祖国の真の独立と人民の勝利の保障である民族民主統一戦線の旗、 B.政治的思想的組織的に強固な強大な日本共産党の建設の旗、 C.アメリカを先頭とする帝国主義に反対する民族解放と平和の国際統一戦線の旗 として定式化された。

【第二次池田内閣の第二次内閣改造】
 7.14日、自民党の党党大会で池田が再選された。総裁公選では対抗馬がなく、池田の信任投票となり、池田391票、その他37(佐藤17、一万田尚登6、岸5、藤山愛一郎3、福田赳夫2、正力松太郎、高橋等各1、無効3票)で再選された。

 第三次池田内閣(第二次池田内閣の第二次内閣改造)が発足した。官房長官・黒金泰美、政調会長・賀屋興宣の布陣となった。この時田中角栄が大蔵大臣、大平正芳が外務大臣のポストに就任している。その他河野建設大臣、川島行政管理庁長官。

 この頃から福田が「党風刷新懇話会」を創設して党の民主化運動を始めていた。「福田は池田の大蔵省の後輩にあたるが、その財政政策は池田と隔たりがあり、なにかと言えば池田財政を批判するうるさい存在だった。池田は福田の動きを苦々しく思っていたが「党の民主化」という大義名分に正面から異議をとなえるわけにもいかず、かねてから改革論者として知られている三木武夫を会長とする党組織調査会を設立して党の近代化を研究させることにした。三木は「派閥解消」などを骨子とする答申をまとめて池田に提出したが、そもそも池田にとって調査会は福田の動きを封じるための方便に過ぎなかったから、この答申に対する池田の態度は冷淡なものであった」(「自民党派閥の歴史」)。

 7.14−15日、日共系の東京学生平民共闘が、「学生戦線統一のための全国発起人会議」を開催した。全国より70余自治会参加。「安保反対・平和と民主主義を守る全国学生連絡会議」(平民学連)結成を呼び掛け、翌63年平民学連が結成されることになる。
【社会党書記長江田三郎が「社会主義の新しいビジョン」を発表】
 7.27日、社会党の下半期活動方針討議の為に開かれた全国地方オルグ会議で、江田書記長が。「社会主義は、大衆に分かりやすく、ほがらかなのんびりしたものでなければならない。私は社会主義の目的は人類の可能性を最大限に花開かせることだと思う。人類がこれまで到達した主な成果は、アメリカの平均した生活水準の高さ、ソ連の徹底した社会保障、イギリスの議会制民主主義、日本の平和憲法、という四つである。これらを総合調整して進むときに、大衆と結んだ社会主義が生まれると思う」と述べている。社会主義のためのより実現可能な方向を探るという大義名分のもとで、生産手段の公有化、基幹産業の国家管理などを排した左翼理論の再構築を図るという、いわゆる「江田ビジョン」といわれることになる。

 この「社会主義の新しいビジョン」(「江田ビジョン」)は物議を呼んだ。社会党総評ブロック内では江田ビジョン=構造改革論をめぐり左右の一大論争と対立・抗争が繰り広げられていった。その影響は当時の社青同にもおよび、中央本部の江田派寄り構造改革論に、各末端地区の六〇年安保闘争の中で育った若い同盟員たちは一斉に反発した、とある。

【第9回原水禁大会】
 8.1−6日、第8回原水爆禁止世界大会でソ連核実験への抗議に反対して、社会党.総評系と対立する。社会党.総評系が「あらゆる国の核実験に反対」を主張し、ソ連代表等がこれを後押ししていた。共産党中央と原水協は「ソ連は米帝と結託、中国の足を縛ろうとしている」とする中国代表の見解に同調してこれに反対した。中ソ対立が日・中対ソ対立へと発展したことになった。

 8月上旬、第九回原水協の全国集会が地元の台東体育館で開催されたこともあり、台東の社会党、社青同は全力をあげて参加した。全体集会の途中「ソ連核実験への抗議決議」を社会党・総評系が提出し、反対する日共系団体と鋭く対立し、集会は中断、紛糾した。そして会場演壇近くに決議採決のため結集していた社青同東京地本の同盟員(左派が主力)を中心に社会党・総評系の活動家が、社会党都連曽我書記長(社会党本部書記局の鈴木派の幹部グループである紅会の錚々たるメンバーの指導者であり、当時の社会党の若手実力者。指導者のあるべき姿を身近にし、後々いろいろ考えさせられた)の合図の下に、壇上にかけ登り日共党員と大乱闘となる。調布の牛越公成君などがその最先頭で日共党員を投げとばそうとしている横から私が蹴とばして壇上から叩きおとす等全員大奮闘した。その後社会党・総評系は退場し、近くの今戸神社に結集、社青同中央の西風初代委員長の日共弾劾のアジテーションに興奮さめやらぬなか拍手したのであった。

 六〇年安保闘争の次の戦略課題は改憲をめぐる闘いであり、その基調を“改憲阻止”か「憲法完全実施」とするかで社青同左右両派の論争と対立が繰り広げられていった。これは国家論をめぐり、社会主義を実現するための根幹をなす問題であった。構改派は「上部構造における民主主義の発展と下部構造における独占資本主義の発達」、この現在の条件の中で「国家権力は公的側面と抑圧的側面の二面性があり、国民の多数を結集して公的側面に民主的改革を積み重ねていけば社会主義に接近・移行できる」とするものであった。日共内の民々綱領路線に敗北し脱党した春日派は、社会党・総評右派に接近し、そのブレーンとなっていた。そして彼らが日共に対決する仕掛け人となり、その大衆運動をめぐる闘いとして原水協が焦点となったのであった。

 「ソ連の五〇メガトン水爆実験は米帝に打撃を与え、平和をもたらした」と日共が主張するのは、原水爆禁止運動の原点に敵対するものである。だからといって構改派の言う「核兵器対全人類の闘い」などということは、階級的視点を全く欠落したものである。この中で「全世界の帝国主義打倒の階級闘争の前進の中でのみ、米ソ核実験反対、核廃絶の闘いが発展する」と主張した社青同全国学協の主張に次第に労働者同盟員の理解と支持が拡大していった。またそれは62年「キューバ危機」に際しても「米・ソの理性的話し合い解決による平和共存支持」(構改・協会両派)か「革命に対する反革命」(全国学協)とする評価の違いが次第に明確になり、労働者同盟員の中に少数ながら学協方針(解放派)に注目する下地が出来ていったのである。

 確かに日共脱党派の構造改革論は、イタリア共産党から発するものであり、その権威の下に「マルクス主義」の装いをこらした理論は一見新鮮に見えた。労農派マルクス主義の運動論のない「社会主義のたましい」の精神論の強調では、革命展望のない古くさいものであり、その反発から構造改革論に一定引きつけられた活動家がいた。私も、六一年頃はその傾向があった。しかし六二年社会党の地区オルグになり社会の実態を身をもって知るや、「マルクス主義」の装いをこらした構造改革論は、社会党の議会主義の左派的ポーズの隠れミノとなり、限りなく改良主義に転落していく路線であると感じとった、とある。

【上田論文「マルクス主義と平和運動」】
 ソ連の核実験再開に対して、この時の党の立場を代弁して上田耕一郎氏が「ソ同盟核実験を断固支持する 」論文を発表している(大月書店「マルクス主義と平和運動」P.121〜126、「前衛」62年10月号所収「2つの平和大会と修正主義理論」の3「ソ連核実験と社会主義の軍事力の評価」の項)。上田はその後今日まで随分と見解を変えているが、この論文との絡みでの自己批判は一切していない。そういう上田の破廉恥漢ぶりを確認するために、以下掲載して保存しておく。

 社会主義の平和政策と軍事政策とは、決して前野や池山のいうような「歴史的矛盾」ではない。その軍事力は、一時的に「平和政策」によって指導され、平和の維持のためにのみ使用されてきたのであって、社会主義国の軍事政策は、平和と独立をめざす系統的な「平和政策」の一部分であり、この両者の関係の本質は矛盾関係ではなく、全体と部分の関係になっている。すなわち、社会主義の軍事力は、平和共存の実現に必要な多くの目標のなかで、つぎのような限定された目的のために維持し、発展させられている。

(1) 社会主義体制の防衛と世界大戦の防止。渡辺誠毅「核兵器競争か軍縮か」(『朝日ジャーナル』62年8月19日号)には、ソ連は純粋に防衛的目的のための「最小抑止戦略」をとっているのに反して、アメリカは純粋に先制攻撃のための「最大抑止先約」をとっていることが詳細にのべられている。とくにケネディ時代になってからアメリカは核戦争から残ることを目標とし、「一挙にソ連の核攻撃基地をノックアウトし、自らは返り血を浴びぬだけの核攻撃力、いいかえれば相手に数倍する大一撃能力」をもつための「対兵力戦略」あるいは「対戦略基地戦略」へ重大な転換をおこなったという。こうした極度に侵略的な戦略を完成しようとするアメリカの核実験にたいして、ソ連が防衛のための核実験をおこなうことは当然であり、世界大戦の勃発を阻止するための不可欠の措置にほかならない。

(2) 平和愛好諸国家の防衛と局地戦の抑止。スエズ戦争、レバノン、ヨルダン出兵、キューバ侵略、ラオス内乱などにさいして、ソ連の軍事力が、世界人民の闘争と結びついて、植民地戦争あるいは干渉戦争の防止と早期消火に一定の役割を演じたことは周知のところである。

 つまり一言でいえば、社会主義の軍事力は、帝国主義の侵略戦争の放火を抑制し現在の「冷たい戦争」を熱い戦争に変えない」(松村一人「平和の論理と革命の論理」、『思想』61年12月号)という、人類の生存のための最低限の物質的保障なのである。しかし「平和」は、たとえそれの軍事力が冷戦を熱戦に変える戦争放火計画の発現を防ぐのに足りるだけ十分であっても、軍事力の発展だけでは実現することはできない。それには、軍事政策よりもさらに広範な系統的な平和政策と、各国人民の軍縮と平和のための大闘争が必要である。

 このためにこそわれわれは、戦争放火者を圧倒するために必要な社会主義の防衛的軍事力の発展を支持しつつ、同時に核兵器の全面禁止を含む全般的軍縮をめざす人民の平和運動を力をつくして強化しているのであって、けっして前野良が歪曲するように「社会主義国による核兵器の保有の増大とその力によって平和が保証されるのだという論理」、「資本主義諸国や後進地域における人民の平和運動の無用論」(前野、前掲論文)に立っているのではない。逆に前野や池山の立場こそ、平和運動がまだ帝国主義の戦争計画を放棄させることに成功していない現実の歴史的力関係を無視しソ連に軍事力の放棄を迫って、帝国主義の戦争計画の発展を援助する立場にほかならない。かれらの理論の根底にあるものは理論的には帝国主義の戦争計画と戦争の法則的関連の過小評価と、帝国主義と社会主義の軍事力の同列視、実践的にはアメリカ帝国主義の戦争計画にたいする驚くべき過小評価なのである。

 世界の平和勢力の闘争が、帝国主義の戦争計画を挫折させうるまでに強大となるまでの一定の歴史的期間、戦争を防止するためにも、正しい平和共存を実現する前提条件をつくりだすためにも、社会主義の防衛的軍事力は、帝国主義の侵略的軍事力に対抗するために必要なかぎり、ひきつづき発展させられなければならない。「核兵器対人類の対立」という現実を理由に、この努力をいっさい否定することは、現実には平和のとりでとしての社会主義と人類とを無防備のままで帝国主義の侵略にさらされることを意味している。

 そしてこの軍事力の発展の過程で、軍備拡張競争と核開発競争の「悪循環」が生ずるのは、けっして社会主義の平和政策とその軍事力に矛盾があるためではなく、第一に悪循環の起動力としての帝国主義の戦争体制に決定的責任があり、第二に、帝国主義と平和勢力の力関係が、冷戦を熱戦に変えないことは社会主義の軍事的努力に依存する部分が多いために、いまだ帝国主義を圧倒、その戦争計画を最終的に放棄させて平和をかちとるまでにいたっていない歴史的段階にもとずいている。

 この意味では、第一に核兵器における「優位」という帝国主義者の幻想をいちくだいて挑発的計画の放棄を迫り、第二に第三次世界大戦の危険防止についての社会主義国の断固たる決意をしめし、第三に核実験停止協定を締結するための新しい前提をつくりだすために、ソ連をして苦痛にみちた実験再開に踏み切らせたことの責任は、直接的にはアメリカ帝国主義の戦争政策にあることはもちろんであるが、間接的にはその帝国主義政府の戦争政策を転換させることに成功していない各国人民にも関係がないわけではないといわなければなるまい。事実、61年9月の核実験再開にあたってのソ連政府声明は、おそらく戦 後はじめて、帝国主義の支配者だけでなく、その挑発的政策にたいする平和の圧力の不充分という点で、その国民の間接的責任を指摘して、つぎのようにのべていた。

 「戦後の16年という期間は西ドイツの国民が――ドイツ民主共和国でそうしたように――軍国主義の過去からドイツがおこした二度の世界大戦における決定的な敗北から、しかるべき教訓を引き出したであろうと判断するのに、まったく十分な期間である。残念ながら、あまりにも多くのことが、ドイツ国民のうち、西ドイツにいる部分が、ふたたび報復の麻酔にかかり、あらたに出現したヒューラーたちが自分たちを戦争に引きいれるのをゆるしていることを物語っている。・・・

 まことに残念なことであるが、いまなお時代の要求に応じることができないで、新戦争の準備をやめさせるために当然しめすべき活動を発揮していないのは、西ドイツのドイツ人だけではなくて、西側諸国の軍事ブロックに参加している一部の国々の国民もまた同じであることを、みとめないわけにはいかない。これらの国民もまた、選挙のさいに、軍拡政策を政府の与党候補者や、与党に投票している事実をみただけでも、こういう結論をくださざるをえない。彼らは冷たい戦争の解消を目指し、平和用語を目指す努力の局外に立ち、軍備全廃の反対者で軍拡や戦争ヒステリーの支持者であることをその善活動によって明らかにした政府を、信頼し支持することをやめる決心がいまだにつかないのである。もしこれらの国民が、世界を戦争の破局に押しやっている政府の手を抑えるために、自己の持つ可能性を利用もせず、またほかの諸国民と力を合わせて軍縮を実行し、人類の社会生活から戦争を完全に追放しようという意志を表明もしないなら、そこから生まれる結論はただ一つである。それは、これらの国々の国民はまだ目ざめておらず、平和を確保するうえでかれら自身のになっている責任の重大性を悟っていないということである」。

 「前野や池山がどうしても現在の歴史的矛盾をになう役割を指摘したければ、その生存と生活をこうした意味で世界人民の反帝闘争と社会主義国の防衛的軍事力に依存しつつ、ソ連各実験と世界人民の反帝闘争に金切声を上げて抗議している前野や池山自身の存在を指摘すべきであろう。

 当面の戦争危機を全力をあげて防止しながら、平和共存を実現する道はただ一つである。それ社会主義の平和運動を支持し、防衛的、軍事的措置の必要理由を理解しながら、同時に帝国主義に責任のある核実験と軍拡の悪循環を一掃するために、軍縮と平和、独立と民主主義をめざす世界人民の闘争を強化すること、これである。

 もろんわれわれは、平和運動に社会主義の軍事的措置の支持をおしつけるつもりは毛頭ない。しかし運動の統一の内部で、できるだけ広範な人々に、社会主義の防衛的軍事力の意義とソ連核実験の真実について理解してもらうことは、党だけがおこないうる独自な組織的活動であり、こうした独自な活動は新しい段階に達した平和運動の統一の質を高め、日本の平和運動を日米独占が当面可能な最良の方向として期待する中立主義的方向に後退させるのではなく、日米独占の戦争政策に正確有効な痛撃を与える方向に日本の平和運動を発展させるのに役だつだろう。

 同時にそれは、党の綱領に反対し、反帝的方向への運動のいかなる発展も拒否して、先進的な日本の平和運動を無原則的な反共中立主義と親帝国主義の路線に流し込み、そのことによって米日反動を利することをねらっている修正主義的分子を粉砕して、党の強化と発展をもたらすだろう。そしていまモスクワ大会と第八回原水禁世界大会の路線のうえにたたかわれている平和運動は、反帝反独占の民主主義革命をめざす党綱領の正しさを、先進的活動家に理解してもらうためにも重要な分野になりつつあるのである」。
(私論.私観) 上田論文「マルクス主義と平和運動」考  

【世界青年学生平和友好祭で、日共が「革新会議」を排除】
 この年夏の世界青年学生平和友好祭日本実行委員会で、共産党の指示に基づいて民青同の代表は、この間まで運動を一緒に担っていた構造改革派系青学革新会議(革新会議)の参加を排除した。平和友好祭は元々、思想・信条・政党・党派のいかんにかかわりなく、平和と友好のスローガンの下に幅広く青年を結集する友好祭運動であったが、理由がふるっている。「革新会議はファシスト団体である」と言って参加を拒否したのである。昨日まで一緒に「平和と民主主義」 の旗印を掲げて闘っていた旧同志たちを、反代々木化したからという理由しか考えられないが、反代々木=反共=ファシズムという三段論法によりファシスト視したのである。
(私論.私観) 日共の世界青年学生平和友好祭に於ける「革新会議排除」考
 これを「前時代的な硬直した思考図式」といって批判する者もいるが、れんだいこには、宮顕の「芥川論」考察で明示したように、氏の典型的な近親憎悪的気質による「排除の強権論理」の現れとしてしか考えられない。この論理は日本左翼(よその国ではどうなのかが分からないのでとりあえずこう書くことにする)の宿弊と私は考えている。いずれにせよ、この平和友好祭には自民党系の青年運動も参加していたようであるから、宮顕式統一戦線論に隠されている反動的本質がここでも見て取れるであろう。このことは、第8回原水禁世界大会をめぐっての社青同に対する度を超した非難攻撃にもあらわれている。労働組合運動にせよ、青年運動にせよ、組織的自主性を保障することは、党の指導原則であるべきことではあるが、何気ない普段の時には守られるものの一朝事ある時はかなぐり捨てられるという経過を見て取ることが出来る。先のカオス・ロゴス観で仕訳すると、宮顕の場合にはロゴス派の系流であり且つ統制フェチという特徴づけが相応しい。 私には、どう見ても宮顕を左翼運動の指導者とは見なせない。マスとしての左翼運動の盛り上げは一切眼中に無く、「排除の強権論理」により戦う人士の圧迫にのみ力を入れる性癖ばかりが目に付いて仕方ない。

 8月、中ソ論争激化。

【マル学同全学連が、モスクワの「赤の広場」でソビエトの核実験に抗議デモ】
 8月、国際学連大会に出席した根本委員長ほか3名が、モスクワの「赤の広場」で「ソビエトの核実験に抗議する」デモを行っている。

 8.24日、総評第19回定期大会が開かれ、今後の原水禁運動を社会党・総評を軸とした新しい活動で取り組むことを決議採択した。こうして、大衆運動の分野で辛うじて統一が保たれていた唯一の平和運動にも分裂が生まれることになった。

 1962.9月、岸信介は、APACL(アジア人民反共連盟)、MRA(道徳再武装運動)、統一教会など、右翼組織やCIAのフロント組織に深く関わっていた。首相をしりぞいた二年後、東京で5日間にわたって開催されたAPACLの会合で基調演説を行なっている。


【社学同全国大会が開催され、味岡修が委員長に就任】
 9.16日、社学同全国大会が開催された。味岡修が委員長になった。大会宣言の中で、概要「全学連の指導権を握ったマル学同は、運動の過程で問題を解決しようとせず、単なる『反帝反スタ綱領』の観念的思考に安住し、『既成左翼と変わらぬし思想的根拠を持つに至った』ので、全学連運動の沈滞をもたらした」と批判した。日本共産党については、「反米闘争を強調することによって事実上国家権力に対する有効な闘争を放棄している」と批判した。このたびの社学同はおってマル戦派と反マル戦派(ML派)へと分裂していくことになる。

【社青同全国学生班協議会が憲法公聴会阻止闘争を展開】
 こうした動きの中で社青同中央本部の学対中執佐々木慶明氏の指導する社青同全国学生班協議会(略して「学協」)が中心となり、仙台・名古屋等の憲法公聴会阻止闘争を展開した。実力闘争を全面的に否定し憲法の「完全実施」を求める改良闘争を個別的に積み上げていくことが、改憲に対する護憲の闘いであるとする中央本部との路線対立を次第に鮮明にしていったのである。この中央本部と全国学協の路線対立は次第に労働者同盟員にも波及していった。

【「大管法」闘争】
 10月、中央教育審議会が大管法答申を出してくるなど一段と現実味を増すことになった。10.31日マル学同全学連がゼネストを、11.1日三派系が同じくゼネストで「大管制改悪阻止」の統一行動に決起している(10.30日に三派連合が、11.1日にマル学同ともある)。双方とも動員数がかなり落ちていた。が、この時、江田五月(社青同)が委員長だった東大C自治会は各派の完全共闘によってストに入り、東京における2500名のデモの中心部隊を形成している。また社学同がリードする京都でも3000名のデモが行われている。

 この時民青同系は、大管法闘争に大々的に取り組んでいくことを指針にした。11.13日平民学連結成に向けての「全国地方ブ ロック代表者会議」を開催した。そこで、民青同系105自治会。三派連合86 自治会、マル学同51自治会という勢力分布が発表された。自治会占有率40%とい うことになる。63年中の全学連再建方針を決議した。1ヶ月半後に再び代表者会議が開かれ、民青同系175自治会、反民青同系120自治会と発表し た。占有率60%ということになる。この間の自治会選挙で民青同系の進出がなされたということになる。11.17日「大学管理制度改悪粉砕全国統一行 動」を決定し、当日は東京3000名、全国7地区で集会、抗議デモを展開した。

 こうした大管闘争の盛り上がりを見て、三派連合も、更に遅れてマル学同も この闘争に参入してくることとなった。こうして統一行動として11.30日マル学同も含めた四派連合が形成され、東大銀杏並木前に約4000名の結集で「全都学生総決起集会」が持たれた。この四派連合に対して、「民主運動の前進しているところには、『なんでも』『どこでも』介入して行き、それまでの自分たちの『論理』も『道筋』も意に介しないトロッキスト各派の無節操ぶ りを示してあまりあった」(川上徹「学生運動」)と揶揄されている。

【マル学同内に対立発生】
 この四派連合の直後マル学同内部で対立が発生する。この四派連合結成をめぐって、マル学同が三派との統一戦線闘争を組んだことの是非をめぐって論争が激化していくことになった。全学連委員長根本仁は四派連合結成を良しとせず、これを押し進めた書記長小野田と対立していくこととなった。前者は後者を「大衆運動主義」と非難し、「反帝.反スターリニズム」の方針を貫徹し得なかったと総括した。後者は前者を「セクト主義」と非難し、引き続き四派連合の統一行動を続けるべきだとした。マル学同内部のこの対立は以降抜き差しならないところまで尾を引いていくこと になった。

【キューバ危機発生】
10月、キューバ危機が発生した。1959年にカストロによる革命が成功して以来、キューバは反米・社会主義政策を採り、ソ連・中国に接近していた。アメリカとキューバの国交は断絶していたが、10.22日ケネディー大統領は、ソ連がミサイル基地を建設していることを発見し、さらにソ連船がキューバむけミサイルを運んでいるのを発見したアメリカはこれを阻止するために10.22日「対キューバ海上封鎖」を宣言し、10.24日 米国はキューバの海上封鎖に踏み切った。こうしてキューバ危機が発生した。

 ソ連はこれに抗議したが、ケネディ大統領はミサイル基地撤去を頑として主張し、それなしには核戦争も辞せずという、いわば「最後通牒」を発したのだった。キューバ危機は第二次大戦後の最大の危機であり、まさに全面核戦争寸前となった。世界各地ではこの行為に激しい抗議の声がまき起こった。バートランド・ラッセルはケネディ、フルチショフ、ウ・タント国連事務総長に電報をうち続け、核戦争勃発の危機性を訴えた。

 米大統領ケネディーとソ連首相フルシチョフの数度に亘る協議の結果、10.28日フルシチョフが「アメリカのキューバ不可侵を信頼して、攻撃用兵器を撤収する」と言明、「アメリカがキューバ侵略を行なわない」ということを条件にしてキューバのミサイルを撤去することになった。これにより封鎖が解かれ危機が回避されることになった。この時もしもフルチショフが強気にでれば直ちに核戦争になったであろう。


 
後日、ジョン・サマビルはこう書いている。「ケネディ大統領の国家安全保障会議執行委員会(EXCOMM)は、『もしソ連がキューバのミサイル基地を撤去するか、破壊してしまうかするのでなければ、直ちにソ連に対して開戦する』ことを決めたのだった。……その決定を行なった人たちは、この最後通牒にソ連が同意するなどとは毛頭期待せず、また、戦争がもたらす結果についても、はっきりと知っていたにもかかわらず、なおそれをやったということである。言葉を変えていえば、決定を行なった人々の明らかに予見していたことは、恐らくソ連は抗戦するであろうし、またその戦争が、必ずや世界規模での核戦争となり、人類は事実上抹殺し去られるだろうとの見通しであった」と。(ジョン・サマビル『人類危機の13日間』岩波新書)。

 結局、フルチショフの妥協によって危機はからくも回避された。人類は死の淵に落ちることを逃れた。このキューバ危機は、核保有国の権力者に危機意識を植えつけずにはおかなかった。米ソ両首脳は「核戦争を絶対に起こしてはならない、そのためには米ソが協調しなければならない」ことを認識し、米ソが偶発戦争防止をも保証する直通通信(ホットライン)協定(ホワイトハウスとクレムリンをホットラインで結び、米ソ両首脳が突発的な緊急事態が発生したときには、直ちに協議が行えるようにした)を締結することになり、やがて部分的核実験停止条約の締結を決意するにいたる(1963.8月調印)。

【社会党第22回党大会】
 11.27日、社会党第22回党大会が開かれたが、大会初日に「書記長自ら党機関を無視して。社会主義の理論に混迷を与えるビジョンを党外に発表し、党の混乱と闘う体制に不安と動揺を与えたことは極めて遺憾である」との非難決議が提出され、賛成232票、反対211票で可決された。江田は直ちに辞表を提出し、会場から立ち去った。

【社青同第3回大会】
 年末、西風勲委員長指導のもと“平和共存路線”と“構造改革路線”が基礎づけられ、民青ばりの“大衆化路線”なるものが提起された。この大会では東京、仙台、愛知、福岡などから、これらの右翼的な路線が弾劾された。静岡の大場君が“憲法擁護というのは反動的だ”と発言したのに対して西風委員長らはテーブルを叩いて激怒したのであった。

 この第三回大会で、西浦書記長が委員長に、高見圭司が書記長に選ばれた。そして、この執行部は一ヶ年しかもたなかった。この一ヶ年は、社会党の江田体制とその構革路線に即応した社青同中央の指導が蓄積され、下部活動家の反撥が強くなっていった。この一ヶ年の間では大衆運動では、広島原水禁大会で、日共が「社会主義国の核実験を承認」し社会党、総評が「あらゆる核実験に反対」を主張し分裂したということが最大のできごとであった。

 12月、社学同内の岩田弘の帝国主義論を信奉するマル戦派が理論機関紙「マルクス主義戦線」を創刊した。

 12.8日、国会の開会日に焦点を合わせた統一行動として、東京で800名、京都で6000名がデモを行い、未然に「大管法」上程阻止の闘いを見せた。

【中共がイタリア共産党の構造改革論を批判】
 12.31日、中国人民日報社説「トリアッチ同志とわれわれの違いについて」を発表し、イタリア共産党の構造改革論を論難した。「彼らは、マルクス.レーニン主義の基本原理は既に『時代遅れ』だと考え、マルクス.レーニン主義の帝国主義に関する学説、戦争と平和に関する学説、国家と革命に関する学説、プロレタリアート独裁に関する学説を改竄してしまった」、「今日のイタリアではプロレタリア革命を通過させることなく、ブルジョアジーの国家機構を粉砕する事無く、プロレタリアート独裁を打ち立てる事も無しに、イタリア憲法の範囲内で『一連の改革』を行い、大企業部門の国有化を実行し、経済の計画化と民主主義の拡大を経過しさえすれば、『漸進的に』、『平和的に』社会主義へ向かうことができる」という考えは、「実際には、まさしく帝国主義者と反動派の要求に応ずるものである」、「例えイタリア憲法の中にいくつかの美辞麗句をつらねた条文があるとしても、独占ブルジョアジーが国家機構を握り、独占ブルジョアジーが完全に武装しているこのような条件のもとでは、彼らは事故の必要に応じて、機会さえあれば、憲法を反故同然と宣言することができるということ、トリアッティ同志らはこのことをすっかり忘れてしまっている」と批判した。

 あわせて、59年にアイゼンハワーのイタリア訪問の際に見せたイタリア共産党の一部の歓迎的動きを皮肉っていた。












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