【1959年当時の主なできごと】
安保問題の政局浮上。宮顕派と春日(庄)派の対立表面化



 (最新見直し2010.04.04日)

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第5期その2、新左翼系=ブント・革共同系全学連の発展」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2002.10.20日 れんだいこ拝


1.1 キューバ革命勝利。
1.10 12日第4中総で、日米軍事同盟からの離脱.「いかなる軍事同盟にも参加しない平和.中立化の道」としての日本の中立化を是認し要求する決議を採択する。
1.19 全国組織部長会議
1.23 −3.9日党代表団(団長宮本書記長.団員春日正.西沢富夫)、ソ連共産党第21回臨時党大会に出席のため訪ソ、帰途チェコスロバキア、朝鮮、中国を訪問。 1.27−2.3日ソ連共産党第21回大会に出席。
1月 キューバ革命勝利。
2.9 ソ連共産党のスースロフ.クーシキン両幹部会員と会談、将来の民主政府のもとでの南千島返還で合意。
2.10 「党報」、「調査資料」の創刊。中央の下部への指導の機能強化。
2.27 帰路、平壌で朝鮮労働党代表団(団長金日成委員長)と会談。「共同コミュニケ」を発表
3.1 「あかはた日曜版」発刊。
3.3 中国鄭州で宮本団長と毛沢東が会談。会談の際、毛沢東は、日本共産党の50年問題に触れ、中国共産党が当時日本問題に対して取った態度に誤りがあったということを素直に表明した、とされている。「当時の党に対して内部干渉にわたるような措置があったこと、及び51年綱領の問題については主にスターリンが指導的な役割を果たしたことが事実であるとしても、中国共産党もこれに同調したという点においては正しくなかったことを、自ら積極的に表明した」とされている。宮本.とう小平署名の共同声明を発表。
3.7 鳩山一郎死去。
3.9 浅沼書記長、北京で「アメリカ帝国主義は日中両国人民の敵」と演説。(3.12日ともある)
3.20 東京地裁、砂川事件で、米軍駐留は違憲、刑事特別作法は無効と無罪判決。
3.20 〜21日第五回中総。
【安保問題の政局浮上】58年も秋から東京で開始された藤山外相とマッカーサー大使の交渉は、59年いっぱい続けられ、60年1.6日終了した。丸1年3ヶ月にわたる長期の改定交渉だった。安保条約の改定は、日本の独占支配層がその帝国主義的自立化に対応させて、アメリカとの政治的.軍事的関係を再調整し、より自立性を持つ形で同盟関係を結ぼうとする要求に基づくものであった。アメリカ側は、日本を極東の戦略的中心に据え、アジアでの対共産圏の基地にしようとはかっていた。この改定は、8年前の条約締結の単なる継続や再確認でなかった。 
3.28 【「安保条約改定阻止国民会議」結成】総評.社会党の音頭で統一戦線的共闘組織を結成。総評.社会党.中立労連.全日農.原水協など13団体が中央幹事団体となり、全労.新産別は参加せず、共産党はオブザーバーとしての参加となった。以降全国的な統一行動(安保共闘)を組織していくことになり、都合23回にわたってデモが組織された。  
3.30 東京地裁、米軍駐留は違憲の伊達判決。
4月 大月書店から党員によって雑誌「現代の理論」が編集.執筆された。現代マルクス主義派といわれる社会主義革命の系統の党員理論家たちが結集しており、中央への批判的態度は表面には出さなかったが、進歩的な党外の思想や非マルクス主義者との相互討論によってマルクス主義の創造的発展をはかることを、公然と掲げていた。井汲門下の上田,不破と安東の別れ。「あの兄弟は本質的には構造改革派」とする安東の意見。〃安東の診断はなかなか当たらないようになってきた〃。
4.10 皇太子昭仁と正田美智子結婚→「ミッチーブーム」。
4.15 安保保改定阻止共闘の第一次統一行動が開始された。
4.23 第4回一斉地方選挙。党は、都道府県議12人、市区町村議386人当選。二次にわたる地方選挙で前回55年より得票数と得票率微増する。
6.2 第5回参議院選挙、党は、全国区55万票、一名(須藤五郎)当選、地方区100万票、当選者無し。得票数、得票率とも減少させた。自民71(22.49)、社会38(17.21)、緑風6(4.2)、諸派1(1.0)、無所属10(7.3)。 
6.16 岸首相は日航特別機で羽田を立ち、6.19日アイゼンハワー大統領と第一回首脳会談。20日ダレス長官と会談。
6.18 【第二次岸改造内閣発足】
6.20 芦田均元首相死去。
6.29 【党中央宮本派と春日(庄)派の対立表面化】「第6中総」が開かれ、4月の地方選挙、5月の参議院選挙の総括と安保をめぐる当面の闘争方針が課題となった。選挙の総括に関して、党中央主流派は、これを成功とみなし、春日(庄)ら中央少数派は失敗とみなした対立した。春日派は、その原因が「党章草案」路線に基づく政策上の誤りにあるとした。論議は選挙問題から、安保改定の評価、綱領問題や次の第8回大会の問題にまで及んだ。この間の中央主流派による様々な不公明な工作に対する反対派の鬱憤が爆発した感があった。特に官僚主義的な党運営のやり方に対して、批判の声が挙げられた。こうして会議は7.9日まで続き、さらに7.31−8.1日にかけても継続された。党員倍加運動,春日,内藤の反対。
 「6中総」では、安保助役の改定がサンフランシスコ体制の再編補強と規定され、これは対米従属関係の維持と日米軍事同盟関係の補強によって日本人民の支配を協力的に維持推進する意図であるとした。つまり、中央主流は、安保反対闘争をも、あくまで反米闘争.民族闘争の性格のものとみなそうとした。しかも、反米闘争の達成は長期にわたる困難な事業であるから、当面はアメリカ帝国主義を暴露するにとどめて見方を極力温存すべきだとした。ここから、安保闘争においては、「挑発に乗るな」という抑制的態度がでた。
「第6中総」で、4月に創刊されたばかりの雑誌「現代の理論」を、規律違反として摘発した。中央主流派は、6中総決議として、「理論と実践の統一に反するだけでなく、マルクス.レーニン主義党の組織原則ー規律に反している。この誤りの本質は、組織原則に対する修正主義的な歪曲である。こういうことを放置しておいては、分散主義.自由主義を一層はびこらす結果になり、党の統一と団結は妨げられる」と断定した。
7.9 春日(庄)は、前衛8月号での選挙闘争総括論文において党の自己批判の必要を指摘したことに対する全文取り消しを強要され、アカハタ紙上に発表手続きの誤りについての自己批判と論文の取り消しとを発表した。内容については譲らなかった。これ以後、彼の論文は、形式的な追悼文などのほかには党の機関誌から姿を消すことになった。
7.19 西尾末広、安保改定などを巡る社会党方針を批判。
8月 【全国活動者会議開催】東京.世田谷区民会館で、最初の全国活動者会議を開いた。宮本書記長の音頭で開催され、いわば新中央宮本派の体制固めの意味合いがあった。選挙闘争方針、党建設.党勢拡大方針等々全般にわたっての意思統一をした。
8.7 アカハタ「選挙戦の結果と当面の中心任務−第6回中委総会の決議」。
8.17 【「現代の理論」廃刊に追い込まれる】アカハタ「主張−雑誌現代の理論について」が発表され、「このような性質の刊行物を党員が出したり、又党員がこれに参加すること」を「即座に中止すべきである」と、指示するに至った。不当な言論抑圧であったが、発行者の無抵抗と編集人の力の弱さによって9月第5号を最後に廃刊となった。この問題のイニシアチブをとった一人が志賀であった。前衛10月号は、志賀の「日本の現代修正主義」という論文を載せ、井汲.長洲.杉田らが修正主義者として攻撃され、党外の丸山.久野.鶴見らの人々もアメリカ思想の名で批判されていた。
9.12 社会党第16回大会開催。9.13日、西尾末広を党規律違反として統制委員会に付議する決議案を採択。
9.16 社会党西尾派、再建同志会結成。
9.26 アカハタ「マルクス.レーニン主義党の破りがたい原則−雑誌現代の理論をめぐって」発表。マルクス.レーニン主義理論の発展は、今日では党の中央委員会と別個に行えるものではない、という主張が載せられた。この「現代の理論事件」によって、戦後の党の歴史に、またも不当で奇怪な1ページが書き加えられた。
【「党勢倍加運動」の展開を決定】 「わが党は日本の現実政治を積極的に動かす勢力にならなければならない」という認識から第8回大会を目指して党勢倍加運動を展開することを決定した。「党を拡大強化するために全党の同志に送る手紙」を採択。大衆的前衛等を目指す党勢拡大運動の歴史的出発点になった。保険の勧誘まがいの手紙カンパニアが組織された。春日.内藤らはこの方針に反対した。まじめな批判的党員が嫌気がさして機関を離れたり、無活動に陥っていくものが増えていった。反対派勢力の排除と抑圧、新しい支持層をつくることによる党内基盤の強化に役だった。いずれにせよ、中央の権威をその方針の正しさと指導の正しさによって確立するのではなく、上からの組織的統制の強化と中央に対する下部の絶対服従と無条件忠誠の強要によって確保しようとする反マルクス主義的な方法であった。
【港地区問題勃発】
 中央に制圧された都委員会の中にあって港地区代議員が反対派を結集していた。この港地区には、国鉄品川.全電通.その他の公労協や民間大企業の拠点経営細胞が多く、9月下旬の第4回港地区党会議において、中央批判組が新地区委員会と都党会議代議員の多数を制した。都委員会は、地区党会議の無効と山崎.田川.冬木の3地区委員の資格剥奪を決定し、別に地区委員長を定めた。この渦中で浜武司が「功績」を挙げた。
9.12 −16、10.16−18日第16回社会党大会、西尾除名決議でもめる。
9.26 −10.26日野坂議長ら訪中。10.20日共同声明。
10.1 「議会と共産党」(後に「議会と自治体」、「暮らしと政治」)を創刊。  
10.5 沖縄の民主党など保守党が合同し、沖縄自由民主党結成(大田政作総裁)。
10.10 この頃中国革命10周年に向けて、党は、野坂を団長として、袴田.蔵原惟人らの代表団を送っている。この時獄中でこのことを知った伊藤律は何度も面会を申し出ている。しかし、野坂らは取り合わず帰国している。
10.16 社会党再開大会で、西尾派が社会党と決別声明。
10.25 西尾末広らは安保問題をめぐって社会党を離党。院内団体社会クラブ結成。社会党は再び分裂することになった。
11.8 「第一回アカハタまつり」。東京.浜離宮.2万人。
11.17 −18日「第7回中総」。「安保改定阻止と廃棄を中心とする当面の大衆闘争」、「党勢拡大」などについて決定。
11.25 三井鉱山争議、労組は中労委斡旋を拒否し、大衆闘争へ 三池炭鉱事件
11.25 社会党川上派12議員離党。 11.26日民社クラブ結成。
11.27 安保共闘の第八次統一行動が展開され、全国700の共闘組織に結集する350万の大衆が立ち上がり、東京では8万人が国会請願運動を行った。この時全学連指導部は、国会突入を計り、一部がなだれ込むという事態を生んだ。共産党「トロツキスト」の非難。都委員会の反抗。→以後、安保反対闘争の嵐が全国で吹き荒れる→「60年安保闘争」=戦後最大の国民行動に発展。
11.28 党声明。「第8次統一行動に対する自民党岸内閣の弾圧と謀略を粉砕せよ」を発表。
11.29 「平和と社会主義の諸問題」誌の編集局に常駐の代表者として米原を派遣。   宮本指導体制の本質が次第に表面に現れる。  
11.30 社会クラブと民社クラブを中心に民主社会主義新党準備会結成。
12.11 三井鉱山が三池炭鉱で1200人の指名解雇通告。合理化反対闘争起こり、三井三池、争議突入。
12.16 この二つの委員会が対立することになり、山崎等は「党中央の日和見主義.民族主義.官僚主義と闘うために、全精力を傾けて党内闘争を開始する」というアピールを全国に送 った。「港地区委員会プロレタリア革命の勝利のために公然たる党内闘争を展開せよ!」 (12.16日)。
 党はただちに、山崎.田川の両地区委員を除名発表した(アカハタ1 2.16日)。除名された彼らは、翌60.4月、「共産主義者同盟」(ブント)との合同 を正式に決定。地区委員会を解散した。
共産党.イタリア共産党8回大会,宮本を招待.トリアッテイ報告を修正主義とし二日目から市内見物。


 1.1日、全学連意見書「日本共産党の危機と学生運動」が発表されている。香山健一全学連委員長が責任者として作成されたが、全学連中央の統一見解としては採択されなかった。「現在の危機のうちで、何よりも深刻な点は、日和見主義.ブルジョア民族主義.官僚主義が共産党の公認の指導部の大多数を支配してしまったことにある」という前書きから始まっていた。

 1.1日、キューバ革命が勝利した。



 1―2月、ソ共第1回臨時大会。経済発展7カ年計画(1959―65)指令が採択された。この計画は、「1970年までに、工業生産の絶対量でも人口一人あたりの生産高でも米国を追い越し、世界最高の生活水準を達成する」旨の目標が提起されていた。ソ連は発展の新しい時代―共産主義社会の建設期に入った、とされた。


【岸と党副総裁・大野伴睦が後継密約】
 1.16日、帝国ホテルの光琳の間で、岸と党副総裁・大野伴睦の間で、「岸→大野伴睦→河野一郎→佐藤榮作」の順で政権をまわすという「政権禅譲密約」が取り交わされる。立会人は、当人の他に蔵相にして岸の実弟・佐藤栄作、前総務会長・河野一郎、財界から萩原吉太郎(北海道炭鉱汽船社長)、永田雅一(大映社長)、児玉誉士夫(政界フィクサー)。誓約書には、「昭和34.1.16日、萩原、永田、児玉三君立会の下において申し合わせたる件については協力一致実現を期すること 右誓約する 昭和34.1.16日 岸信介、大野伴睦、河野一郎、佐藤栄作」と書かれていた。

【第二次岸内閣組閣される】
 反主流派が要求していた人事刷新については、川島幹事長と河野総務会長が身を引くことになり、幹事長に岸派の福田赳夫、総務会長に池田派の益谷秀次、政調会長に河野派の中村梅吉が就任した。その他閣僚は、文相・橋本竜伍、厚相・坂田道太(石井派)、経済企画庁長官・世耕弘一(石橋派)、防衛庁長官・伊能繁次郎(佐藤派)。

 この当時の自民党内派閥地図は、主流派が岸(衆議員63名)、佐藤(39)、大野(41)、河野(33)の四派で、反主流派は池田(47)、石井(26)、三木・松村(30)、石橋(14)の四派であった。つまり八派に分かれていた。大野・河野両派がキャスチング・ボートを握っていたことになる。大野は、「政権禅譲密約」に従い、党内を「安保改定」で取りまとめていく。

 1.24日、自民党総裁選挙。岸首相は、反主流の推す松村謙三を破って再選された。岸320票、松村166票、その他大野伴睦、吉田茂、石井光次郎、益谷秀次、佐藤栄作ら5名が各1票。無効5.岸は圧倒的優位で再選された。この時松村は「金権政治の打破」をスローガンにして闘った。自民党の総裁選挙で金権打破が打ち出されたのは、これが最初であった。



 2月、岸内閣は安保改定に公然と乗り出した。この時革共同派が執行部を握った全学連は、「合理化粉砕の春闘を如何に闘うべきか、これこそまさに革命の当面の中心課題である」とし、「労働運動理論」を長々と述べる理論活動に傾斜しつつあった。ブント派はこれを思弁主義として退け、安保闘争を一直線の政治課題として捉える運動を指針させていった。


【日中共産党会談】
 3.3日、中国鄭州で宮顕団長と毛沢東が会談。会談の際、毛沢東は、日本共産党の50年問題に触れ、中国共産党が当時日本問題に対して取った態度に誤りがあったということを素直に表明した、とされている。「当時の党に対して内部干渉にわたるような措置があったこと、及び51年綱領の問題については主にスターリンが指導的な役割を果たしたことが事実であるとしても、中国共産党もこれに同調したという点においては正しくなかったことを、自ら積極的に表明した」とされている。

 3.3日、宮顕.ケ小平署名の「アメリカ帝国主義に反対する日中両国人民の偉大な闘争綱領」共同声明を発表。



 3.4日、浅沼書記長を団長とする第二次訪中使節団が訪中。団員は、勝間田清一、岡田宗司、曽弥益、中崎敏、佐多忠隆、田中稔男の6名。




 3.9日、浅沼書記長、北京で「アメリカ帝国主義は日中両国人民の敵」と演説。 


【安保問題の政局浮上】
 1958年6月か開始された藤山外相とマッカーサー大使の交渉は、59年いっぱい続けられ、60年1.6日、終了した。丸1年3ヶ月にわたる長期の改定交渉だった。安保条約の改定は、日本の独占支配層がその帝国主義的自立化に対応させて、アメリカとの政治的.軍事的関係を再調整し、より自立性を持つ形で同盟関係を結ぼうとする要求に基づくものであった。アメリカ側は、日本を極東の戦略的中心に据え、アジアでの対共産圏の基地にしようとはかっていた。この改定は、8年前の条約締結の単なる継続や再確認でなかった。



 3.23日、国民文化会議と日本文化会議を中心とする文化人、学者ら80名が、岸政権の下で押し進められている日米安保条約改定の動きを危惧する声明を発表し、署名運動が開始される。


【「安保条約改定阻止国民会議」が結成される】
 3.28日、左翼反対派は、先の「警職法改悪反対国民会議」を受け継いで「安保条約改定阻止国民会議」が結成された。これには総評、社会党、中立労連、全日農、原水協、平和委、基地連、日中国交回復、日中友好、青年学生共闘会議()など13団体が中央幹事団体となった。全労.新産別は参加しなかった。

 共産党はオブザーバーとしての参加が認められ、幹事団体会議における発言を獲得した。1953年の憲法擁護国民連合や1958年の警職法改悪反対国民会議などで共産党が排除されていたことを思えば、共同戦線上の大きな前進となった。但し、共産党の参加が運動を前進せしめたか抑制し続けたかは別の問題である。

 「左翼運動」は次のように記述している。

 「安保改定阻止国民会議は、その結成経緯にもみられるように、社共の意見対立を含みながらも左翼勢力の大同団結による共闘組織であり、我が国の大衆運動史上特筆すべき、大規模なそして強力な反対運動の中心勢力を構成したのである」。

 この共闘組織は次第に参加団体を増やしながら全国的な統一行動(安保共闘)を組織していくことになった。全国各地に1573の地方共闘組織が結成されていった。以降「国民会議」は二十数波にわたる統一行動を組織していくことになった。しかも、この共闘組織は、中央段階のみならず、都道府県・地区・地域など日本の隅々にまでつくられ、その数は2千を越えていくことになる。

 同時に「安保改定阻止青年学生共闘会議」が結成され、社会党青年部、民青、総評青対部、全日農青年部、全学連(ブンド指導の)によって構成され、この青学共闘会議が安保国民会議に加盟した。
(私論.私観) 「安保改定阻止国民会議発足」の経過について
 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」では次のように纏めている。
 「安保改定のための日米交渉は58年9月の藤山・ダレス会談をもって本格化する。しかし、社会党も共産党もこの安保改定の歴史的・階級的な意義を正しく捉えることができず、59年末から60年夏にかけての労働者・人民のあの爆発的なエネルギーを正しい方向に組織し、導くことはできなかった。この時、安保改定を「日本独占資本の帝国主義的自立への第一歩」と告発し、「日本ブルジョアジーとの断固たる階級的闘い」を呼びかけたのは、60年安保闘争の先頭に立った全学連と彼らを指導した共産主義者同盟(ブント)だけであった。

 社共が安保改定の歴史的な意義も労働者・人民の闘いの方向も何一つ正しく提起できなかったのは偶然ではない。彼らもまたブルジョアジーと本質的に同じ民族主義的な立場に立って『真の独立』を重要な戦略的課題としていたからである。両者の違いはただ、社共が『独立、平和、民主、中立』とかのスローガンの下に小ブルジョア的な平和主義や中立主義の立場から観念的な『真の独立』を呼号したのに対して、ブルジョアジーはそのブルジョア的帝国主義的な現実主義の立場から『独立の完成』を追求したという点にあったに過ぎなかった。

 だから社会党が当初は安保改定に賛成であったというのも少しも不思議ではない。この点については当時の外相・藤山愛一郎が次のような証言を残している。『私がダレスに会いに行くまで社会党は条約『改正』論であった。外務委員会でしっかりやってこいと、壮行の儀みたいなものを社会党がやってくれた』(原彬久『戦後史の中の日本社会党』より重引)

 しかし、56年以降の第二次砂川基地反対闘争に代表される今だ冷めやらぬ反戦平和主義の大衆的な気分、そして折から安保闘争対策を射程に入れた警職法改悪の企みを粉砕した大きな闘いのうねり(58年秋)の中で、社会党、総評も重い腰を上げざるを得なくなった。この両者に全学連、原水協などの諸団体を加えて安保改定阻止国民会議が発足したのは59年3月のことであった」。

【伊達判決】
 3.30日、東京地裁(裁判長判事・伊達秋雄)が、砂川事件に関連して「日米安保条約による米軍駐留は違憲」とする判決を出した。世に「伊達判決」と云われる。検察側は直ちに最高裁判所へ跳躍上告している。

 東京地裁(裁判長判事・伊達秋雄)が、1957.7.2日の「砂川事件」(東京調達局が東京都北多摩郡砂川町(現在の立川市内)にあるアメリカ軍の立川基地拡張のための測量で、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数m立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が刑事特別法違反で起訴された事件)の第一審で、「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり違憲である。したがって、刑事特別法の罰則は日本国憲法第31条に違反する不合理なものである」即ち「米軍駐留は違憲」とする法理による全員無罪の判決を出した(東京地判昭和34.3.30 下級裁判所刑事裁判例集)。

【日米政府の伊達判決対策密談】
 日米政府は、伊達判決を受けて密談していることが判明した。詳細は「砂川事件際高裁判決に於ける日米密談漏洩事件考」に記す。

【「現代の理論」が創刊される】
 4月、理論雑誌 「現代の理論」が創刊されている。草案反対を表面的には主張せず、党内外のマルクス主義や非マルクス主義的進歩思想との交流によって、マルクス主義の創造的発展を図ることを、編集方針にしていた。

 「創刊の辞」(創刊にあたって)は次のような文章であった。長洲氏が書き上げたようである。

 「過去百年の歴史は、社会主義を空想から科学へ、さらに現実に発展させた。マルクス主義は、少数先覚者の予言から巨大な大衆の運動にかわり、そしていまや十億の人間の現実の生活様式を形成している。この雑誌は、マルクス主義こそ二十世紀の世界観であり、『現代の理論』であることを証しするものでありたいと思う。

 かってマルクス主義派人類の英知の遺産を貪欲なまでに吸収して、ことごとくみずからの血肉と化した。こんにちまたマルクス主義は、自己完結的体系性の殻を打ち破る広い討論と交流の中でのみ、その生命力を燃焼させるであろう。この雑誌は、同じく進歩と平和を愛しながらマルクス主義とは異なる立場に立つ人々とのあいだに、真剣な批判と刺激をあたえあう場所でありたいと思う。

 これまでもいくたびか、歴史の転換期には『マルクス主義の危機』が語られてきた。しかしマルクス主義は、そうした『危機』においてこそ、その創造的生命力を発揮して、現実の課題を解決しつつ、みずからの原則の豊かさとたくましさとを証明した。いままた偉大なる転換と激動の現代は、マルクス主義に数々のあらたな問題をなげかけている。我々にはこれを解決する責務がある。この雑誌は、そのための試みに誠実でありたいと思う。

 マルクス主義はすべての誠実な日本人の胸底深く、水のようにしみとおって、日本民族の精神的風土とならねばならない。そうした理論の形成の場として、この雑誌が寄与することを、我々は期している」

 第1号は59.4月に、佐藤昇「社会主義権力の矛盾」を巻頭論文に据え、日高六郎「マルクス主義者への二、三の提案」、不破哲三「日本の憲法と革命」、田口富久治「ネオ・ファシズム」、今井則義「国家独占資本主義論における二つの潮流」で仕上げた。第2号は、「現代帝国主義」を表題として、杉田正夫、上田耕一郎、富塚文太郎、遠藤湘吉、井汲卓一、古在由重、増島宏が執筆し、代久二がトリアッティの「アントニオ・グラムシ」を訳出した。第3号は「現代のインテリゲンチャ論」を表題として、編集を進めつつあった。こうして、党員によって編集.執筆される雑誌「現代の理論」(大月書店から)は時代のテーマの創造的切開を任務として順調な滑り出しを見せつつあった。

 だが、党中央は、この動きが反党章派の理論的拠点化することを怖れ、党の圧力で廃刊に追い込んでいくことになる。井汲門下の上田、不破と安東の別れとなる。「あの兄弟は本質的には構造改革派」とする安東の意見が為されている。〃安東の診断はなかなか当たらないようになってきた〃とも云われた。



 4.15日、国民会議の第一次統一行動。「砂川判決支援、安保体制打破中央集会」に8000名、全国各地でも集会が持たれた。




 4.23日、4.30日、全国一斉地方選挙が行われた。来る6月の参院選の前哨戦と見なして注目されたが、自社対決は僅差で自民党の勝利、社会党の敗北という構図となった。




 4.28日、全学連が「安保改定阻止、岸内閣打倒」をスロ ーガンに第一波統一行動を起こしている、約1000名結集。


【安保問題に見せた党中央の見解】
 党は、この動きに対し、「自民党の新たな売国の陰謀」であり、「日本を自らアメリカの犠牲にする露骨きわまる売国条約」であると、逆の方から捉えた。これによって日本の対米従属は一層深まると捉えた。日本独占資本主義の帝国主義的復活に基づく自発的行動や独自的要求の側面を全く無視した。(安保問題特集号5.16日)



 5.15日、安保共闘の第二次統一行動、約5000名結集。


【全学連第14回大会】
 この頃の学生運動につき、第5期その2新左翼系=ブント・革共同系全学連の発展」に記す。

 6.5−8日、全学連第14回大会が開かれた。約1000名参加。この大会は、ブント・民青同・革共同の三つどもえの激しい争いとなり、先の大会以来革共同に抑えられていた全学連の中央執行部の主導権をブント系が再び奪い返して決着した。この大会では、執行部の議案が賛成217、反対157、保留8となり、反主流派(民青系)が急追してきていたが、執行部中央執行委員会の過半数をブントが占め、一部革共同を含めて反日共系で独占した。

 唐牛健太郎(北大)が委員長として選出され、清水丈夫書記長、加藤昇(早大)と糠谷秀剛(東大法)、青木昌彦、奥田正一(早大)が新執行部となった。
中執委員数内訳は、ブントが17、革共同13、民青同0、中央委員数は、ブント52、革共同28、民青同30。 なお、唐牛氏が委員長に目を付けられた背景として、「唐牛を呼んだ方がいいで。最近、カミソリの刃のようなのばっかりが東京におるけども、あれはいかぬ。まさかりのなたが一番いいんや、こういうときは。動転したらえらいことやし、バーンと決断して、腹をくくらすというのはね、太っ腹なやつじゃなきゃだめだ。多少あか抜けせんでも、スマートじゃなくても、そういうのが間違いないんや」(「戦後史の証言ブント」、星宮)ということになり、島氏が北海道まで説得に行ったと言われている。

 こうして、ブントは、「ブント―社学同―全学連」を一本化した組織体制で、革共同派と連立しつつ「60年安保闘争」に突入していくことになった。唐牛新委員長下の全学連は、以下見ていくように「安保改定阻止、岸内閣打倒」のスローガンを掲げ、闘争の中心勢力としてむしろ主役を演じながら、再度にわたる「国会突入闘争」や「岸渡米阻止羽田闘争」などに精力的に取り組んでいくことになった。この当時のブントは約1800名で学生が8割を占めていたと言われている。この時期ブントは、「安保が倒れるか、ブントが倒れるか」と公言しつつ安保闘争に組織的命運を賭けていくことになった。
(私論.私観) ブント島運動のアナーキー精神について
 以上のような島氏の発想には、かなりアナーキーなものがあることがしれる。こうしたアナーキー精神の善し悪しは私には分からない。このアナーキー精神と整合精神(物事に見通しと順序を立てて合理的に処そうとする精神)は極限期になればなるほど分化する二つの傾向として立ち現れ、気質によってどちらかを二者択一せざるをえないことになる、未だ決着のつかない難題として存立しているように思う。

【第5回参議院選挙】
 6.2日、第5回参議院選挙。選挙の結果は、自民22.49、社会17.21、緑風4.2、諸派1.0、無所属7.3。自民党が安定過半数を確保し、社会党の敗北という構図が明確になった。社会党は議席こそ7議席増であったが、得票率を減らしていたことから「敗北声明」を出した。以降激烈な党再建論争が展開されていくことになる。この時創価学会が全員当選を勝ち取り注目された。

 参議員選後、西尾は、「議会を通じて社会主義を達成するには、中間層の支持を得なければならない。労働者中心の階級政党主義は、我が国では通用しない」と発言。

 党は、全国区55万票、一名(須藤五郎)当選、地方区100万票、当選者無し。得票数、得票率とも減少させた。この時、東京地方区に袴田里見が立ち僅か8万4千票で落選している。以後、袴田が選挙に立つことは無かった。

全国区 得票率 地方区 得票率 非改選 新勢力分野 改選前 増減
自民党 22 49 71 61 132 127 +5
社会党 17 26.5%(前回33) 21 34.2%(前回38) 38 47 85 78 +7
緑風会 11 20 −9
共産党 +1
諸派
無所属 7(創価5) 3(創価1) 10(創価6) 8(創価3) 18(創価9) 13 +5
合計 52 75 127 123 250

(創価学会=創価と表記)

【第二次岸内閣改造】
 6.16日、第二次岸内閣改造。官房長官・椎名悦三郎、幹事長・川島正次郎(岸派)、総務会長・石井光次郎(石井派)、政調会長・船田中(大野派)、総理府総務長官・福田篤泰、副総理・益谷秀次(池田派)。外相・藤山愛一郎(留任)、蔵相・佐藤栄作(留任)、通産相・池田隼人、法相・井野碩哉、文相・松田竹千代、厚相・渡辺良夫、農相・福田赳夫、運輸相・楢橋渡、郵政相・植竹春彦、労相・松野頼三、建設相・村上勇、自治庁長官・国家公安委員長・石原幹市郎、経済企画庁長官・菅野和太郎、科学技術庁長官・原子力委員長・中曽根康弘、行政管理庁長官・益谷秀次、北海道開発庁長官・村上勇、防衛庁長官・赤城宗徳、法制局長官・林修三。

 この人事の特徴は、これまで主流派だった大野、河野派が反主流へ、反主流だった池田、石井派が主流派へと、党内の配置が全く逆転したことにあった。先の「政権禅譲密約」は反故にされたことになる。それは、官僚派が主流となり、党人派が追い出された格好でもあった。岸は、この改造内閣を率いて最終目標の安保改定に乗り出す。

【不破哲三が「マルクス主義と現代イデオロギー」を発表】
 この頃、不破哲三は、前衛6月号紙上で「マルクス主義と現代イデオロギー」を発表し、「現代トロツキズム」批判を繰り広げている。「山口一理論文」、「姫岡怜治論文」を槍玉に挙げ、総論的な批判を加えている。今日これを読み直すとき、とても正視できない無内容な饒舌であることが判明する。まさに、当時の急進主義者の動きに水を浴びせ砂をかけることのみが目的であったことが分かる。「もはや理論的批判の必要はない」、「この反革命的反社会主義的本質を徹底敵に暴露して、政治思想的に粉砕し尽くすことだけが残っている」と本音がどこにあるかを露にして締めくくっている。

【姫岡玲治が、通称「姫岡国家独占資本主義論」を発表】
 6月頃、ブントのイデオローグ姫岡玲治が、通称「姫岡国家独占資本主義論」と言われる論文を機関紙「共産主義3号」に発表 している。これがブント結成直後から崩壊に至るまでのブントの綱領的文献となった。

 この頃、全学連四役を含む幹部7名が党から除名処分にされている。



 6.25日、安保共闘国民会議の第三次統一行動、労・学2万6000名、全学連は約1000名結集。


【宮顕の言論統制】
 6.26日付けアカハタは、ほとんど1ページを費やして「マルクス・レーニン主義党の破り難い原則−雑誌『現代の理論』をめぐって」論文を掲載した。宮顕が執筆したと思われるが、「雑誌の刊行は既に中止されているにも関わらず、党外と党内の一部には、この決議の趣旨について、誤った解釈がある。一部には、中央委員会の決定に反対しているものがある」として、延々とその誤りのゆえんを説いていた。云おうとしていることは、「前衛党の中央委員会とは別個に、特定の党員(個人や集団)が、マルクス主義理論誌を刊行し、これによってマルクス主義理論の発展をはかるというのは、根本において誤りである」ということにあった。明らかに徳球時代には考えられなかった統制一色の組織理論であったが、これを批判する刃が既に萎えつつあった。

【「第6中総」が開かれ、党中央宮顕派と春日(庄)派の対立表面化】
 6.29日、「第6中総」が開かれ、第7回党大会以後の中央委員会の中で、最も激しい論戦が交わされる事になった。先に行われた4月の地方選挙、5月の参議院選挙の総括と安保をめぐる当面の闘争方針が課題となった。参議院選挙の総括に関して、党中央主流派は、これを成功とみなし、春日中央統制監査委員会議長をはじめ中央少数派は失敗とみなした対立した。春日派は、その原因が「党章草案」路線に基づく政策上の誤りにあるとした。

 論議は選挙問題から、安保改定の評価、綱領問題や次の第8回大会の問題、組織問題、特に中央委員会の在り方、宮顕に対する個人崇拝の傾向についてまで及んだ。この間の中央主流派による様々な不公明な工作に対する反対派の鬱憤が爆発した感があった。特に官僚主義的な党運営のやり方に対して、批判の声が挙げられた。神山メモには、「もしもこの時の議事録が公表されたならば、我が党の在り方、特に大衆との関係がどれほど改善されたことだろうか、と思う」とある。

 こうして会議は7.9日まで続き、さらに7.31−8.1日にかけても継続された。「この会議では米原を除いて平中央委員全員が宮本とその官僚主義を批判したが、宮本が例の牡牛のような粘りでそれに抵抗し、そのため会議が十日間という前代未聞の長さにわたった」、「外に現れた結果は、批判派の全面的敗北であり、これによってむしろ宮本の威信は確立した。宮本の官僚主義に対する抵抗の波はこの会議で崩れてしまった。私はこれを夏の陣といったが、‐批判派の外堀は完全に埋められ、もはや再起は不能になった」(片山さとし「日本共産党はどこへ行く」、高知聡「日本共産党粛清史260P」)。

 ここで春日は、主流派の圧力のもとに前衛8月号での選挙闘争総括論文において党の自己批判の必要を指摘したことに対する全文取り消しを強要され、7.9日付けアカハタ紙上に「発表手続きの誤りについて」の自己批判と論文の取り消しとを発表した。但し内容については譲らなかった。これ以後、彼の論文は、形式的な追悼文などのほかには党の機関誌から姿を消すことになった。

 「6中総」では、安保助役の改定がサンフランシスコ体制の再編補強と規定され、これは対米従属関係の維持と日米軍事同盟関係の補強によって日本人民の支配を協力的に維持推進する意図であるとした。つまり、中央主流は、安保反対闘争をも、あくまで反米闘争.民族闘争の性格のものとみなそうとした。しかも、反米闘争の達成は長期にわたる困難な事業であるから、当面はアメリカ帝国主義を暴露するにとどめて味方を極力温存すべきだとした。ここから、安保闘争においては、「挑発に乗るな」という抑制的態度がでることとなった。

 「6中総決議」で、党勢拡大方針が発表された。先の「第3回中総決議での党生活の確立と党勢拡大運動」の具体化であった。その尋常でないところは、党勢拡大と党中央への団結が抱き合わせで自己目的化されているところにあった。

【「現代の理論」創刊、直後廃刊に追い込まれる】
 「6中総決議」で、理論雑誌「現代の理論」の廃刊を決定した。宮顕党中央の度量は広くは無かった。党中央主流は、「6中総決議」として、「理論と実践の統一に反するだけでなく、マルクス.レーニン主義党の組織原則ー規律に反している。この誤りの本質は、組織原則に対する修正主義的な歪曲である。こういうことを放置しておいては、分散主義.自由主義を一層はびこらす結果になり、党の統一と団結は妨げられる」と断定し、「内容において修正主義であり、形式において党中央の指導から離れた自由主義、分散主義である」と批判して、規律違反として摘発するところとなった。


 「6中総決議」の議事録が神山茂夫編「日本共産党戦後重要資料第二巻」に記載されている。これを要約すると次のようになる。まず中野重治が口火を切り、「『現代の理論』のことはよく知らぬし、軽く片付けよ」と発言している。内野(壮)が「組織原則上の誤りだとは思わない」と『現代の理論』活動を擁護している。宮本が「安東に何度も止めたが、結局きかずにやった。事前に承認していない」と、許認可権は党中央にあるとの丸出しの統制論を述べている。この後袴田・春日(正)・蔵原・西川・志賀・吉田・安藤・亀山・春日(庄)・山田・高原・金子・土岐・岡田・内野(竹)が銘々の思うがままに発言している。ニュアンスはまちまちだが共通しているのは党中央の統制に服すべしで、その強弱程度の違いであった。宮本が最も露骨な権力的規制論て゛終始リードしている。

 この前後の頃安東氏は常任幹部会に呼び出されたときの様子を伝えている。「6中総メモ」を合わせて読み取れば、宮本の主導で措置されたことが判明する。

 安東氏は、58.12月それまでの都委員会常任を辞し大月書店に勤務することになった。この時より「現代の理論」を創刊するという腹積もりであったようである。「現代の理論」は、「現マル(現代マルクス主義)派」といわれる社会主義革命の系統の党員理論家たちが結集しており、中央への批判的態度は表面には出さなかったが、進歩的な党外の思想や非マルクス主義者との相互討論によってマルクス主義の創造的発展をはかることを、公然と掲げていた。

 8.7日アカハタ「選挙戦の結果と当面の中心任務−第6回中委総会の決議」続いて、8.17日アカハタ主張「主張−雑誌現代の理論について」において、概要「最近、大月書店から、党員によって『現代の理論』という雑誌が刊行され、既にその第5号が刊行されている」、「右の決議に基づき、このような性質の刊行物を党員が出したり、又党員がこれに参加することは、党の原則に反する重大な誤りであり、即座に中止すべきである」と発表した。不当な言論抑圧であったが、発行者の無抵抗と編集人の力の弱さによって9月第5号を最後に廃刊となった。

 この事件はマスコミに報道されることなく、党内問題として処理されていった。以降「現マル派」は、力石を主導にして「日本経済分析」に活動拠点を移すことになった。「日本経済分析」は、「現マル派」と「構造改革派」の機関紙的な性格を帯びていくことになった。この流れで、61.6月三一書房から「現代のイデオロギー」全6巻を出版している。

 安東に寄れば、この問題のイニシアチブをとった一人が志賀であったと伝えている。前衛10月号は、志賀の「日本の現代修正主義」という論文を載せ、井汲.長洲.杉田らが修正主義者として攻撃され、党外の丸山.久野.鶴見らの人々もアメリカ思想の名で批判されていた。しかし、おかしなことであろう。安東自身が常任幹部会に呼び出されたとき、専ら宮本と遣り取りしており、これを見れば宮本の号令一下の措置であることが分かる。この安東の徹頭徹尾宮本擁護の姿勢は不可思議な現象である。
(私論.私観) 「現代の理論」廃刊の際のこれに反発したインテリの腰の弱さについて
 この時の「現代の理論」運動は、我が国でのマルクス主義運動の血肉化に貴重な貢献を生み出しつつあった。これを宮顕式統制で抑圧した史実を踏まえなければならないが、注目する人士が少なすぎるように思われる。同時に、宮顕党中央の号令一下で廃刊に追い込まれたことを痛苦に受け止め得なかったインテリゲンチャの底の浅さをみてとらればならないであろう。



 7月、山岸会に手入れ、幹部逮捕。




 7月、先に署名運動を開始していた文化人、学者グループが、「安保問題研究会」を発足させる。「平和と民主主義」を守る観点から「非武装中立主義と平和主義理念」を護持せんとしていた。


【「党を拡大強化するために全党の同志に送る手紙」を発表】
 8.7日アカハタに、党中央より「党を拡大強化するために全党の同志に送る手紙」呼びかけが発表された。全細胞が党勢拡大計画を立ててそれを中央委員会宛ての返信として提出するよう指示していた。党中央が大衆的前衛等を目指す党勢拡大・党員倍加運動に乗り出し、その歴史的出発点になった。保険の勧誘まがいの「返事を出す手紙カンパニア」が組織された。

 春日.内藤らはこの方針に反対した。まじめな批判的党員が嫌気がさして機関を離れたり、無活動に陥っていくものが増えていった。反対派勢力の排除と抑圧、新しい純粋無垢の支持層をつくることにより党内基盤の強化に役だった。いずれにせよ、中央の権威をその方針の正しさと指導の正しさによって確立するのではなく、上からの組織的統制の強化と中央に対する下部の絶対服従と無条件忠誠の強要によって確保しようとする反マルクス主義的な方法であった。
(私論.私観) 「宮顕式党勢拡大運動の狙い」について
 宮顕は、この時以来「党勢拡大運動」を格別重視していくことになるが、ある部分党勢拡大の上で貢献した。しかし、宮本の意図するところは、この運動を通しての「徳球に影響を受けたことの無い新規党員の加盟促進」であり、宮本系の主流派基盤の加速化としてもたらされたものであったと見るほうが正確かと思われる。



 8.6日、安保共闘国民会議の第五次統一行動。




 8.6日、第5回原水爆禁止大会。この大会を廻って、日共は、「自民党支持、岸内閣支持の人々」をも統一行動に結集できるような原水爆反対の統一戦線を組むべきだと主張し、安保問題に結びつけることに反対した。原水爆禁止大会指導部は、日共の主張を受け入れ、安保改定阻止をスローガンにすることなく大会を終了させた。この為、戦闘的活動家の多くが不満を蓄積させていくことになった。


【共産党のまぜっかえし】
 共産党は、安保国民会議において、岸内閣打倒と安保改定反対と結びつけることを拒否しつづけていた。(7.8日の国民会議幹事会その他)。その理由は、運動の幅を狭めるという点にあった。統一とは最低限にあわせることだと主張し、この頃全ての会議でまぜっかえしし始めている。このまぜっかえしが混乱を与え、岸を大いに安堵させた。「安保闘争は階級闘争ではない」、「岸打倒は労働組合の中でも少数派の意見であり、労働者の中に入っていかない」、「政党の場合は、岸打倒を出す以上、次の政権の問題に触れなければならない。そうなれば、綱領問題でごたごたする」等々を共産党系列が吹聴しつづけている。

 8.18日、宮顕.神山は、総評で太田議長、兼田副議長と会見して「安保闘争は自民党の中のものまで、参加してきている幅の広いものだから、岸打倒というスローガンを掲げるべきではない」と申し入れている(兼田の語るところによる)。この党の見解は9.16日アカハタで「安保共闘の前進のために」の中で裏付けられる。但し、11.10日アカハタの「安保闘争スローガン」では、「アメリカ帝国主義はアジア人民の共同の敵、売国と反動の元凶岸内閣の打倒」へと転換している。「その後の情勢の発展に対応して補足した」と但し書きされているが、この二転三転の経過の説明はない。

【全国活動者会議開催】
  8月、東京.世田谷区民会館で、最初の全国活動者会議を開いた。宮本書記長の音頭で開催され、いわば新中央宮本派の体制固めの意味合いがあった。選挙闘争方針、党建設.党勢拡大方針等々全般にわたっての意思統一をした。

【「黒寛・大川スパイ事件」】
 この頃、革共同の指導者の一人黒田寛一氏にまつわる胡散臭い事件が明るみにされている。事件は、「黒寛・大川による埼玉の民青情報警察提供未遂事件」である。これにつき、「黒寛・大川スパイ事件」で更に検証する。
(私論.私見) 「黒寛・大川スパイ事件」考
 この事件の真偽は不明且つ詳細不詳である。黒寛の胡散臭さを問うにはやや矮小な事件であるが、宮顕の胡散臭さを証する「戦前党中央委員小畑リンチ致死事件」に匹敵する事件であり、黒寛派のその後の左派運動に対する責任の重さから判ずれば、この事件は殊のほか大きな意味を持っていると考える。

 この事件は、「黒寛の公安当局との通謀性」を証していることになる。たまさか尻尾が掴まれたという話になる。そういう意味でもっと解明されねばならない。本来なら、当時の関係者はこの事件を広報し、黒寛派を左派戦線から追放せねばならない義務があったと考える。遅きに失した観があるが、明るみにされないよりはましだ。「黒田寛一氏の公安当局との通謀性」を証するのにまだ他にもあるのかないのか、この事件を唯一手がかりにしてが云われているのか、判明させたいところである。

 2005.5.14日再編集 れんだいこ拝

【革共同第二次分裂】
 この頃の学生運動につき、第5期その2新左翼系=ブント・革共同系全学連の発展」に記す。

 8.26日、革共同は重大な岐路に立っていた。第二次分裂が発生している。革共同創立メンバーの一人西京司氏らを中心とする関西派が中央書記局を制し、「西テーゼ」を作成し、同盟の綱領として採択を図ろうとしていたのに対し、黒寛の影響下にある探求派が抵抗した。結局、西派は、「黒寛・大川スパイ事件」を持ち出しながら政治局員であった黒寛を解任した。そこで黒寛は本多延嘉氏と共に革共同全国委員会(革共同全国委)を作り、西氏の関西派と分離する。これがいわゆる革共同第二次分裂である。



 8.29日、三井三池鉱山当局が、4580名の希望退職企業整備案(第二次合理化案)を組合に提示、組合がこれを拒否し三池大闘争がはじまる。


 8.29−31日、ブント第3回全国大会。

【治安当局が、「伊藤律健在」ニュースを発表】
 9.3日、伊藤律の行方を追っていた治安当局が、「伊藤律は肺結核もほぼ全治、中国で元気に暮らしている。近く中国と日共幹部の話し合いがつけば帰国することも考えられる」と、「伊藤律健在」ニュースを発表している。この報道に答えた野坂参三議長は、この時明らかに次のようなウソをついている。
 彼の生存が確認されたというようなことは僕は知らない。(昭和)25年に東京都内で別れたきり、彼とは一度も会っていない」、「今度国慶節へ出席のため今月末、僕が北京に行くから丁度いい機会だ。何か分かるかも知れない。よく聞いて調べてみましょう」(「朝日新聞」1959.9.4日付)。

 つまり、野坂は伊藤律幽閉の下手人でありながら、「知らぬ存ぜぬ」とシラをきり押し通しているということになる。

【社会党第16回党大会】
 9.12日、社会党第16回党大会が開かれた。「選挙敗北の自己批判と党再建の方向の論議」がテーマとなり、「揺るぎない社会党の建設へ」がスローガンとなった。蓋を開けてみると、左派.総評の連合軍で西尾攻撃で口火が切られた。総評の岩井章が「西尾問題に決着をつけよ」と狼煙を挙げた。西尾が安保闘争を条件闘争に置き換えようとしていること、西尾が第二組合の結成を策動していることなどを問題にして、除名と機関追放を要求して譲らなかった。大会二日目、「西尾統制委付議決議案」は344票対237票で可決された。西尾除名動議は否決された。西尾派は大会をボイコットし、流会となった。これが西尾派の脱党、民社党の結成へと連動していくことになった。

 この時(二日目の夕刻)西尾氏は弁明のために登壇し、40分にわたって縷縷釈明している。興味深いところを拾うと、「日米安保条約については、自分も終局的には解消すべきものだと考えている。ただ、解消するまでの手順をどうするのか。その間の空白期間をどうするのか。党は、日米中ソ四カ国の集団安全保障体制を方針として決定している。それは理想として誠に結構である。しかし、そこへ行くまでに十年かかるか、二十年かかるか、何しろ相手のある仕事である。問題はその理想に到達するまでの間のブランクをどうするか。この点について党の対案が無ければ、国民は安心して我が党に政権を任すことはしないであろうと私は申したのである」、「さらに、それに付け加えて私の申したことは、我々は今安保改定に反対している。しかし、改定を阻止しえたとしても、現行の条約はなお残るのであるから、これをどうするか。改定にも反対だ。現行にも反対だ。しからば社会党はどうするのかということが国民の社会党に聞きたいところであります」。

 9.18日、全学連は、安保改定阻止統一行動に約1500名結集。

【党中央が「党勢拡大・党員倍加運動」の展開を指示する】
 9.26日アカハタ主張に、「マルクス.レーニン主義理論の発展は、今日では党の中央委員会と別個に行えるものではない」という主張が載せられた(「マルクス.レーニン主義党の破りがたい原則−雑誌現代の理論をめぐって」)。この現代の理論事件によって、戦後の党の歴史に、またも不当で奇怪な1ページが書き加えられた。  「わが党は日本の現実政治を積極的に動かす勢力にならなければならない」という認識から第8回大会を目指して党勢倍加運動を展開することを決定した。

【フルシチョフとアイゼンハワー会談】
 9月、キャンプ.デービット会談。フルシチョフは、対外的には平和共存外交を進め、米ソ関係の改善をはかった。そして1959年9月、ソ連の最高指導者としては初めてアメリカを訪問し、アイゼンハウアーとキャンプ=デーヴィッド(メリーランド州にあるアメリカ大統領専用の山荘)で会談を行った(キャンプ=デーヴィッド会談)。この会談は、ベルリン問題では対立したが、「国際紛争は平和的解決をはかる」というキャンプ=デーヴィッド精神をうたいあげ、1960年5月に首脳会談をパリで開催することが約束された。

【港地区問題勃発】
 中央に制圧された都委員会の中にあって港地区代議員が反対派を結集していた。この港地区には、国鉄品川.全電通.その他の公労協や民間大企業の拠点経営細胞が多く、9月下旬の第4回港地区党会議において、中央批判組が新地区委員会と都党会議代議員の多数を制した。都委員会は、地区党会議の無効と山崎.田川.冬木の3地区委員の資格剥奪を決定し、別に地区委員長を定めた。この渦中で浜武司が「功績」を挙げた。

 この二つの委員会が対立することになり、山崎等は「党中央の日和見主義.民族主義.官僚主義と闘うために、全精力を傾けて党内闘争を開始する」というアピールを全国に送 った。「港地区委員会プロレタリア革命の勝利のために公然たる党内闘争を展開せよ!」 (12.16日)。

 党はただちに、山崎.田川の両地区委員を除名発表した(アカハタ1 2.16日)。除名された彼らは、翌60.4月、「共産主義者同盟」(ブント)との合同を正式に決定。地区委員会を解散した。

【中国革命10周年】
 10月、この頃中国革命10周年に向けて、党は、野坂を団長として、袴田.蔵原惟人らの代表団を送っている。この時伊藤律は人民日報でこのことを知り、獄中から三度にわたって面会を求めた。が、野坂らは無視したまま帰国している。後に野坂は、「伊藤がどうなったかを中国のある要人に問い合わせたが、何の解答も無かった。決して彼を放置したのではない」とぬけぬけと語っている。野坂らが帰国した翌年の1960.3月末、中連部の日本担当の幹部劉遅が、獄中に伊藤を訪ねて、「こうした所に置かれていることにあなたが不満なのは良く分かります。けれどもこれは日共の委託によるものです。日共があなたの問題を解決するまでここに預かるのは、我々プロレタリア国際主義の義務なのです。諒解してください」、「問題が解決するまでは体を大切にし、過去の誤りを清算して思想改造に励んでください。それしかありません」と伝えている。



 10.16日、社会党の再開大会。西尾処分問題で妥協がつかず、遂に西尾は18日社会党と決別声明。再建同志会の名で「民主社会主義政党」の結成に向かうことになった。決定的な段階に入りつつある安保闘争の態勢を弱める作用を持った。




 10.20日、安保共闘の第7次統一行動。この頃までの安保闘争は、低調であった。




 10.26日、約1000名結集。




 10.30日、安保改定阻止統一行動、全学連はゼネストの形で闘おうと呼びかけ、全国スト90校、121自治会、行動参加者全国30万名、都内約1万5000名で雨の中を集会.デモ。夜は、夜間部学生2000名が「公安条例後、始めて認められた」夜間デモを行った。「10.30の学生の全国ゼネスト闘争は、沈滞していた安保闘争に再び火を点じた」。




 11.19日、総評臨時大会。「11.27日に生産活動の一切をストップし、ゼネストを決行する」ことを決めた。




 11.19日、衆議院外務委員会で、安保条約における事前協議の有効性について、社会党帆足計議員と政府側藤山愛一郎外相が激しい議論を展開した。この時、帆足議員は、米政府の誠意を祈るだけで無為無策の日本政府の姿勢を「乙女の祈り」と形容した、とある。(これについては内容を後日確認することにする)




 11.27日、第33臨時国会で、安保条約がベトナム賠償問題絡んで審議されていたがこの日早朝、岸政権は審議打ち切りを強行し、衆議院を通過させた。


【全学連の「国会突入事件」発生】
 この頃の学生運動につき、第5期その2新左翼系=ブント・革共同系全学連の発展」に記す。

 11. 27日、第8次統一行動。31都府県の全国700の共闘組織に結集する350万の大衆が立ち上がり、合化労連.炭労の24時間ストを中心に全国で数百万の大衆が行動に立ち上がった。東京には8万名が結集した。「警官隊が出動、国会に近づく各道路にバリケードがき築かれたが、労組員・学生達はこれを突破して進み、国会正門から首相官邸にいたる道路を埋め尽くした。こうして、全学連5000名の学生らによる「国会乱入事件」が発生した。
 「夕闇迫る国会議事堂の前庭は林立する組合旗.自治会旗で埋まり、シュプレヒ.コールは国会議事堂を揺さぶった」(山中明「戦後学生運動史」)。

 岩井総評事務局長.浅沼稲次郎社会党書記長が宣伝カーから「流れ解散」を呼び掛けるが約三万余の群衆は動かない。共産党議員(野坂.志賀.神山)も説得するが、全学連と一部の労働者はそれを拒否して6時過ぎまで座り込みを続けた。「たまりかねた社会党と共産党の国会議員団が同5時40分頃、正面玄関前の階段にズラリと顔を揃え、浅沼書記長が『解散して貰いたい』とだみ声で叫んだが、全学連の学生の間からは『反対、反対』の声ばかり。浅沼さんの発声で『安保改定阻止バンザイ』をやったが、誰も唱和しない。議員団がスゴスゴと引き上げた後、6時頃から、腰を挙げて防衛庁へ向かった」とある。こうして約5時間にわたって国会玄関前広場がデモ隊によって占拠された。

 これがブント運動の最初の金字塔となった。ブント書記長島氏は、この時の生田事務総長について、「この日、生田は人々共に、議事堂の正面階段で喜色満面、手を叩き躍り上がって興奮していたのだ」、「(ブントの印刷所で初めて刷ったビラを現場で配ったことを指摘し、)この闘いと共にブントは大衆の面前に踊り出た」、「この日を期して同盟は安保闘争に組織を賭け突入した」と書き記している。「全学連の行動は確かに滅茶苦茶であった。しかし今まで大衆運動の先頭に立っていたのは常に全学連だった」(高桑末秀)とも書かれている。

 政府は緊急会議を開き、「国会の権威を汚す有史以来の暴挙である」と政府声明を発表し、全学連を批判すると同時に弾圧を指示した。自民党も緊急幹部会を開き、概要「長時間にわたり構内を占拠して騒乱を極めたことは国会の権威と秩序を蹂躙する空前の痛恨事である。我が党はかくの如き破壊勢力と対決し、断固としてこれを粉砕せんとする」と声明を発表した。清水丈夫書記長(現、中核派指導幹部)、葉山岳夫(現、弁護士)、糠谷・加藤副委員長らに逮捕状が出された。 朝日新聞は「常軌を逸した行為」、「思慮無き跳ね上がり」と非難し、読売新聞は「陳情に名を借りた暴力」とののしっている。
(私論.私観) 警視庁警備局「左翼運動」の欺瞞的記述について
 警視庁警備局「左翼運動」は、この時の共産党の評価を史実に反して意図的に左翼的に歪曲した記述をしている。
 「社会党ではこの事件をかなり重視して、『国会乱入の責任は全学連にあり、国民会議の決定に従わず統制をみだしたのであるから除名すべきである』という厳しい態度を示した。これに対し日共では、『全学連の行動は批判されるべきではあるが、除名ではなく団結を強化するという立場で臨むべきである』と主張して、結局、除名するまでには至らなかった」。

 このことから、警視庁警備局は、史実を曲げてまで宮顕共産党の左派性を演出しようとしているということが分かる。この真因を凝視せねばならないであろう。

【日共の批判と港地区委員会の抗議声明】
 党中央は、翌日のアカハタ号外で突入デモ隊を非難し、これを専ら反共・極左冒険のトロツキストの挑発行動とみなして、ただちに事件を非難する声明を発した。神山は11.28日の安保国民会議で、「国会乱入は誘発に乗ったものであり、全学連の一部トロツキストの意識的誘発があった」と発言している。

 11.28日党声明は、「反共と極左冒険的行動を主張していたトロツキストたちは、右翼の暴行や警官の弾圧などによって緊張した状況を逆用して挑発的行動にいで、統一行動を乱す行為にでた」と反代々木系学生らを非難した。概要「全学連指導部は、トロツキストが多数を占めており、民主運動の中に潜り込んでいる陰謀的な挑発者集団であり」、常任幹部会声明「挑発行動で統一行動の分裂をはかった極左・トロツキストたちの行動を粉砕せよ」を掲載し全都にばらまいた。以降連日「トロツキスト集団全学連」の挑発行動を攻撃していくこととなった。この時の共産党中央の凄まじさは、当時党中央の指導に服していた全学連反主流派の指導者黒羽純久をして、「これは何ものかが共産党の名入りでデッチあげた怪文書である」とさえ感じさせるものであったと伝えられている。

 この声明に対して、共産党港地区委員会は中央に抗議声明を発し、27日の全学連デモを支持した。都議員団はじめ多くの党組織から全学連事務所に激励のメッセージが寄せられた。

【中共の称賛】
 中国人民世界平和保衛委員会は、「日本の安保阻止第8次統一行動は、日本人民の闘争のたかまりを示しており、日本軍国主義の復活に反対し、米日軍事同盟に反対する日本人民の意思を力強く表明している」(12.1日北京放送)。また、中華全国総工会も「第8次統一行動の中で示した勇敢な、そして団結の精神に対して敬意」の挨拶を総評に送っている。

【国民会議・社会党・総評の批判】
 国民会議・社会党・総評も、突入デモ隊を非難した。

 
11.28日、国民会議は全学連に対して自己批判を要求している。30日に開かれた幹事会は、全学連の国民会議からの離脱を求めるという社共両党の申し入れを検討している。これまでとうり「統一行動に含めていく」ことを決定した。

 12.3日、総評の共闘会議、国民会議の幹事会、社会党の執行委員会が開かれている。国民会議では、共産党は社会党と共に、国会デモやるな論を執拗に主張している。

【民青同の全学連の「国会突入事件」批判】
 この全学連主流派の「国会乱入事件」に関して、民青同は、次のように総括 している。「自民党は、この事件以降、絶好の反撃の口実を与えられ、ジャーナリズムを利用しながら国民会議の非難の大宣伝を開始した。総評・社会党の中には、統一行動そのものに消極的行動になる傾向すら生まれたのである。運動が高揚期にあるだけに、一時的、局部的な敵味方の『力関係』だけで、戦術を決め、行動形態を決めることが、闘いの長期的見通しの中で、どういう結果を生むか、という深刻な教訓を残した」(川上徹「学生運動」)。
(私論.私観) この時の民青同の変調批判について
 これは、私にはおかしな総括の仕方であるように思われる。一つはブントに対する 「為にする批判」であるということと、一つは運動の経過には高揚期と沈静期が交差して行くものであり、全体としての関連無しにこの時点での一時的後退をのみ部分的総括していることに対する反動性である。事実、翌60年より安保闘争がるつぼ化することを思えば、この時点での一時的沈静化を強調し抜く姿勢はフェアではない。後一つは、それでは自分たちの運動が何をなしえたのかという主体的な内省のない態度である。この「60年安保闘争」後ブントは基本的には散った。つまり、国会乱入方針が深く挫折させられたことは事実である。ならば、どう闘いを組織し、どこに向かえば良かったのだろう。このような総括なしにブント的闘争を批判する精神は生産的でないと思われる。

 実際上述したように批判を行う川上氏らが民青同系学生運動を指導しつつ「70年安保闘争」を闘うことになったが、川上氏らはこの時のブントにまさる何かを創造しえたのだろうか。つつがなく70年安保が終えて、後は自身が査問されていく例の事件へ辿り着いただけではなかったのか。「恣意的な批判の愚」は慎まねばならない、いずれ自身に降りかかってきたとき自縛となる、と私は思う。

【革共同の全学連の「国会突入事件」批判】
 なお、革共同の徳江和雄全学連中執ほか10名の中央執行委員は、12.6日「11.27闘争と今後の方針」という声明を出して、社共.総評の「議会主義」的見地からの批判を非難し、他方でブントの国会突入をも批判していた。
(私論.私観) 全学連の「国会突入事件」をどう捉えるべきかについて
 安東氏は、この時の全学連の闘いを次のように評価している。「未曾有の大衆闘争として闘われた60年安保闘争の突破口は、59年の11.27日の国会突入闘争であった。それまでの安保闘争は3.28日に結成された安保改定阻止国民会議による統一行動が7次にわたって組織されたが、未だ盛り上がりに欠け、『安保は重い』というのが実情であったといえよう。それが、11.27の国会突入闘争をキッカケにして様相を一変し、『安保は闘える』という自信が一人前のあの警職法反対闘争の勝利の記憶とともに生まれることになったのである」。

 この時のブント系学生運動と日本共産党の指導する民青系の運動は、いわば気質的な差でもあったと思われる。ブントは、どんな闘争でも決定的な勝利を求めてトントンまで闘おうとし、民青は、あらゆる闘争を勢力拡大のチャンスとして利用し、玉砕を避けて勢力を蓄積しようとするとの違いとして受止められていた風がある。 

【安保闘争の低迷】
 12.10日、全学連は、1万5000名を結集し再度国会包囲デモを企画したが、社共両党・総評が戦術ダウンをし始めていたこともあって、今度は分厚い警官隊の壁の前に破れた。この時革共同も又「国会包囲.国会乱入戦術の反労働者的、欺瞞.犯罪的役割をバクロせよ」、「労働者と切り離された学生の国会乱入、極左戦術と闘え」として全学連のブント指導を批判していた。してみれば、全学連はまさに孤高の急進主義運動を担っていたことになる。この後暫く安保闘争は鳴りを潜めることになった。

【石炭産業の斜陽化に伴う三井鉱山の首切り始まる】
 炭鉱では数年前から「エネルギー革命」により、中小の炭鉱が閉鎖され始めていた。1950年には781あった炭鉱数は624に減っていた。前年の石炭鉱業審議会の答申は次のように述べていた。

 「最近のエネルギー事情を貫いている太い線は、流体エネルギーの固体エネルギーに対する優位と、経済的合理性の支配という明らかな傾向である」。

 12.11日、三井鉱山が三池炭鉱で1214名の指名解雇通告。組合は解雇通告を一括返上し合理化反対闘争起こる。争議突入。

【砂川事件最高裁判決】
 12.16日、最高裁が、砂川事件に関連しての伊達判決の破棄を言い渡した。アメリカの軍事基地に反対し、その闘争に参加する者を犯罪者とみなすという政治的裁判であった。

 「在日米軍の存在が憲法違反かどうか」を問うた砂川事件を受けて、これを「違憲である」とする伊達判決が出されていたが、その跳躍控訴審判決となった。「一体、条約と憲法ではどちらが優先されるのか」という論争の格好のテーマであったが、最高裁は、概要「安保条約は高度の政治判断の結果。極めて明白に違憲と認められない限り、違法審査権の範囲外であり司法判決にはなじまない」という法理論で処理した。(別章【砂川闘争】で詳解する)

 イタリア共産党8回大会に宮顕を招待。宮顕はトリアッテイ報告を修正主義とし二日目から市内見物。

【安保国民会議全国代表者会議が「羽田動員中止」方針を決定】
 12.25日、安保国民会議全国代表者会議開催。地評代表のいくつかは「調印阻止闘争無しに、安保闘争はありえない。ゼネストを基礎に羽田実力阻止」を主張したが、総評が強硬に反対し、共産党もこれを支持した。結局、「羽田動員中止」方針が12.26日の幹事会で決められた。この時太田総評議長は、「宮顕だけには話がついている」と語っている。












(私論.私見)