【1958年当時の主なできごと】
「第7回党大会」開催、宮本指導体制確立す。




 (最新見直し2006.5.2日)

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第5期その1、新左翼系=ブント・革共同系全学連の自律」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2002.10.20日 れんだいこ拝


1.4 宮本書記長「綱領討議の問題点について」発表 
1.8 第17回拡大中央委員会。中央は総選挙の為、7党大会を2月から7月に延期する事を決定した。
1.20 「第18回中総」。7党大会の延期を再確認し開催時期について決定。
1.31 アメリカが初の人工衛星打ち上げに成功。
2.5 第19回拡大中央委員会。党活動者会議招集を決定。
2.15 やせ細る一方であった「産別会議」が解散決議した。
2.16 沖縄社会党結成。
2.19 第20回拡大中央委員会。全国活動者会議への報告案、当面の党の任務を決定。
2.20 「全国活動者会議」開催。総選挙闘争、平和擁護闘争、第7回党大会準備での全党の意志を統一。
2.27 第20回拡大中央委員会。岸内閣打倒、民主的政府樹立を目指す当面の諸闘争における党の任務に関する決議。
3.11 党中央は、神山の復党を認め、アカハタ3.13日付けで発表された。問題は「6全協」から4年目に解決した。
3月 岡田中央委員が人民艦隊事件で逮捕された。
3.24 全日本農民組合連合会全日農結成。
3.30 「第21回中央委員会拡大会議」。前中央委員会以後の情勢と実践の結果を討議、6.6弾圧記念日設定を決議。
4.1 売春防止法施行→赤線・青線・白線(ばいせん)の灯消える。
4.5 防衛庁、次期主力戦闘機にグラマンG98J11を採用することに内定→岸首相へのリベート疑惑発覚。
4.22 日ソ漁業交渉妥結。
4.25 憲政史上はじめて衆議院を岸と鈴木社会党委員長との話し合いで解散(不信任案を上程して採決前に解散で一致する)=「話し合い解散」(国民に信任を問うことなく丸3年、鳩山→石橋→岸と内閣の交代が続いた)。
5月 AG 解体、社会主義学生同盟(社学同)結成へ。
5.2 中国国旗事件(長崎事件)で、日中関係ストップ。日中貿易断絶。
5.22 第28回衆議院選挙。「55年体制」後初の衆議院選挙となった。自民党が勝利、社会党は伸び悩んだ。その総括を廻って、左右が対立した。自民287名、社会166名、共産1名、諸派1名、無所属12名。投票率は76.997%で戦後最高。
6.1 【全学連「代々木事件」又は「6.1事件」発生】「全学連第11回定期全国大会代議員グループ会議」が、党の幹部出席の上党本部代々木で開かれた。席上、平素から党中央に批判的であった学生党員らが党の幹部を吊しあけ暴力沙汰を起こした上、学生たちだけで議事を進行させ、党の中央委員全員の罷免要求を決議した。全学連指導部の公然たる党に対する反乱であった。
6.8 憲法問題研究会発足。宮沢俊義、大内兵衛、恒藤恭ら。
6.12 【第二次岸内閣成立】   
6.12 第22回中央委員会拡大会議。総選挙の総括、7回大会の期日を決定。   
6.23 全学連,香山健一委員長ら除名。のち、ブント結成へ。
7.4 中央委員会、規律違反と腐敗行為で、椎野悦郎を除名。   
7.5 第23回中央委員会拡大会議。第7回党大会に提案する「党章草案」の最終案を決定。   
7.13 密出国党員65名白山丸で中共から帰国
7.21 【第七回党大会開催】大会の眼目は、「6全協」での党の合同以降確立された「野坂−宮本体制」による一層の地固めにあった。政治報告と「行動綱領」、「党規約」、政治報告その他を圧倒的多数で採択。「51年綱領」を廃止することが決定された。伊藤律.志田重男.椎野悦郎の除名確認の決議が正式に為された。  
8.1 【宮本体制の確立】「第1回中総」で、中央委員会議長野坂.書記長宮本.統制委員会議長春日庄らの中央機構が定まった。書記長の座が野坂から宮本へ交替したと言う事になる。 「六全協」において野坂−宮本体制が確立されたが、中央委員にはなお多数の旧徳田派が残存していた。その象徴として野坂−宮本体制が構築された。第七回党大会は、こうしたバランス体制をうち破った旧国際派勝利の大会となり、以降宮本ワンマン体制にシフトすることとなった。
8.10 【新たな対立の火種】「党章草案」の綱領部分に対する態度の違いが、新たな対立を生んだ。8.10日頃中央委員会内部に東京都委員会の反対派グループ追い落としを決定し、春日(正).松島.鈴木等を都委員会特別対策部をつくった。内藤知周が反対意見を述べただけで確認された。8.17.23日の文京区党会議において、反対派の学生党員を追い出して、区委員会を独占した。
8.14 自民党総務会長河野一郎、防衛庁長官に次期戦闘機問題について再検討を申し入れ。
8.18 【綱領問題小委員会設置】「第2回中総」で、綱領問題小委員会、党の歴史に関する小委員会、戦後労働運動の総括のための小委員会の三つを中央委員会内に設けることを決定。各委員が選ばれた。地方局の設置。綱領問題小委員会には野坂.宮本.袴田.蔵原.春日(正).松島.聴濤.米原らが、神山.春日(庄).内野壮.亀山.西川らを押さえる形で入っていた。志賀.鈴木らも含まれていた。58年から61年にかけて、小委員会は29回開かれ徹底的に討議された。  
8.22 衆議院決算委員会、機種内定に関する不正を追求→グラマン疑惑→岸、河野に対して密約でもみ消し図る→翌年11月ロッキードF104に逆転決定。
8.25 防衛庁、機種正式決定中止。
9月上旬 全国46の都道府県会議を開き、新中央主流派は党章反対派の排除と抑圧の工作を進めることを意思統一した。 中央のやり方は、理論闘争を抜きにして、もっぱら行政権を振り回して組織的処分に力を注ぐことを申し合わせた。拠点組織に集中攻撃をかけ、戦闘的分子を機関から追い払い、その指導権を奪い取ることに全力を挙げた。  
9.11 藤山外相渡米。ダレス会談で、安保条約の改定交渉開始を決定。
9.21 9.21.28日「第4回東京都党会議」で、都委員会の「自由主義的分散主義的傾向」を非難するアカハタの連日のコーラスの下に、中央は、都委員会に自己批判を迫り、突然野田弥三郎と山本正美の2委員の都委員資格を剥奪した。
10.4 10.4日アカハタは2ページを費やして、武井.野田.片山らの規律違反なるものを攻撃する宮本の長論文を載せた(「党建設の問題に寄せて」)。
10.5 増淵.安東が中央支持に傾いた。中央に異論を持つ者は都委員の資格がないという不当な牽制工作の下に、芝.武井.片山.西尾.増田らの反対派の都委員立候補を断念させた。それでも40パーセントの代議員が反対又は保留した。春日(正)が都委員長に天下った。  
10月 10月東京都党会議の後、「第11回大阪府党会議」が開かれた。宮本の意向を受けた松島が乗り込み、「独立闘争の」意義を協調して府委員会の報告草案を批判した。第10回神奈川県党会議でも、「独立の課題の過小評価」を指摘して、反対派分子を牽制した。京都府党会議では、府委員大屋史朗(西京司)に対する罷免カンパニアが組織され、旧所感派の河田賢治が後がまに座った。大屋はその後、革命的共産主義者同盟関西派の中心となった。千葉県党会議でも同じ様な反対派排除が行われた。並行的に年末にかけて学生党員の除名が進められた。
10.8 【警職法改悪反対闘争】日岸内閣が、警察官職務執行法警職法改悪を国会に上程してきた。→反対運動の昂揚→「デートもできない警職法」→岸・鈴木会談で審議未了・衆議院自然休会で了解成立
10.8 幹部会、国会議員団声明。「人民弾圧の鞭治安警察法の復活−絶対に成立させるな」
10.13 社会党.総評.全労.全日農が「警職法改悪反対国民会議」を結成。共産党は排除された。但し、中央では社.共の対立が見られたものの、地方では40近い府県で共闘組織が結成され、警職法闘争は大衆闘争の予想以上の盛り上がりを見せ、廃案に追い込んだ。52年春の破防法反対闘争を乗り越える画期的成果。但し、社会党の安易な妥協と共産党のそれへの追随が問題となった。
10.13 米原書記局員らグラムシ研究所主催の討論会に参加。
10.16 警職法改正案上程、警職法反対国民会議に66団体が結集。
10.25 総評.全労.中立労連などが警察官職務執行法改悪反対で統一行動。
11.4 11/04国会、警職法を巡る会期延長問題で混乱、自民党の強行採決に社会党は登院拒否で対抗(11/22、廃案)
11.5 野坂議長が、警職法粉砕労働者の大統一行動日に当たり激励の談話をアカハタに発表。 宮本式党建設方式の定式化
11.20 「第3中総」を開いた。この会議で、党中央は、「党生活の確立と党勢拡大の運動」の決議を行い、一般の党員に対して、「@.細胞会議を定期的に開く、A.全党員がアカハタを読む、B.党費と党機関誌代を完納する」という三つの目標を掲げた。大衆闘争の実践と全く切り離して「党勢拡大」と「中央への団結の維持」とに熱中していく宮本独特の党建設方式が、この「第3中総」において確定され、組織的に発足した。  安保改定の本質を暴露し安保改定反対の意義を明確にした。「(安保改定交渉が)戦争と従属の体制であるサンフランシスコ体制の本質が維持されるだけでなく、特に軍事的にはアメリカの戦略体制に一層堅く結びつけられる」危険な方向を目指しているとして、その本質を暴露し、安保改定反対の視点を明確にした。アカハタ日曜版の発行を決定。
12.7 警職法案審議未了で廃案。
12.10 ソ連.中共の日本の中立化期待の声明に応じて、幹部会は突如中立支持の声明を出す。
12.10 【「日本共産主義者同盟」(ブント)を結成】先に除名された全学連指導部の学生党員たち(全学連主流派)が中心になって、「日本共産主義者同盟」(ブント)を結成した。その学生組織として「社会主義学生同盟」(「社学同」)が結成された。ここに、純トロッキスト系の諸組織と並んで、準トロッキスト系の組織活動の第一歩が踏み出された。
12月 「第13回全学連臨時大会」において、革共同系と共産同系が指導部を争い革共同系が中枢を押さえた。しかし、翌59年6月の「第13回全学連大会」では共産同系が主導権を握るというふうに激しい抗争を見せていくこととなった。
12.25 党は、幹部会声明で、「学生運動内に巣くう極左日和見主義反党分派を粉砕せよ」と、全学連指導部の極左主義とトロキッズムに攻撃を加えた。こうして、党は、「社学同」を排撃し、「民青同学生班」を強化していくこととなった。
この年共産党.米原昶,イタリアのグラムシ研究所の討論集会に出席.報告はされず、資料は届く。早大.東京グラムシ会の参加者に、マルクス主義芸術論研究会の鹿島保夫。


【日共が第7回党大会を異例の延期決定】
 1.8日、共産党は、「国会解散と総選挙に全力を集中するため」という理由の元に第7回党大会の延期を決定した。党中央は、党章草案反対派を圧迫し、党章草案が党綱領として正式に党大会で採択される為にあらゆる手段を弄して画策していった。主として、なりふり構わぬ宮顕派のヘゲモニー確立の為に党内人事に全力を注いでいった。

 1月、第3回都党会議が開かれ、この時次のような要求を決議している。1・党大会に向けて中央のイニシアティブで一層徹底した討議が行われるべきこと。2・50年問題の徹底的に科学的な解明を速やかに行うこと。3・党大会そのももの民主的運営を行うべきこと。

 2.14日、産別会議が解散している。

 2.20日、全国活動者会議開催される。この時党中央の変調指導に対する不満が爆発し、会場内には怒号と罵声が圧した。しかし、構造改革派系の妥協により事態は収拾された。



 3月、フルシチョフはジューコフ国防相(党幹部会員)を追放し、ブルガーリンに代わり首相となった。こうして党第一書記と首相を兼任したフルシチョフは、それまでの第6次5カ年計画(1956―60)を7カ年計画(1959―65)に切り替え、米国との経済競争を打ち出し、アメリカに追いつき追い越せを目標に、生活必需品だけでなく、テレビや冷蔵庫などの生産にも力を入れた。1957年には食料生産の増強を目ざして農業改革を唱え、カザフスタン・中央アジア・シベリアの未開地や休閑地の開拓に取り組むとともに、農産物強制供出制度を廃止した。この間、ソ連は、1957年に大陸間弾道ミサイルの開発や人工衛星スプートニク1・2号の打ち上げに成功した(1957.10〜11)。


【党大会前の論争点について】
 4月の党東大細胞総会は、宮顕党中央の指導方向であった党章草案に対する批判を含んだ議案を採択し、近づきつつある第7回党大会に向けて理論闘争を強化することを宣言した。その論点は、@.反米帝方向重視の宮本路線に対する反日帝(独占資本)方向重視、A.党章草案の右翼的偏向に対する社会主義の明確な提起、B.革命の平和移行論や構造改革派の改良主義方向に対する批判、C.官僚主義の助長傾向に対する批判にあった。但し、この時点ではあくまで党内闘争の枠の中で原則的な立場からおこなうものとしていた。むしろ、「無原則な、自由勝手な党内の状況を断じて許しはしないだろう」とあることからみて、脱党又は別組織を作るという考えには至っていない事が分かる。

 「50年問題について」の草案をめぐっても総括する観点が錯綜することとなった。草案は、「全国統一委員会の活動は、党中央と党が事実上二分された結果の反映であり、やむを得ないものであった」として、「結局正しかったのは宮顕だけ」という結論になりかねなかった。結局、この方向で見直しされていくことになった。「宮顕・原田長司・安東ライン」がこれを推進した。



 4月、国防会議で、航空自衛隊の次期主力戦闘機(FX)をグラマン社製のF11と内定した。


【第28回衆議院選挙】
 岸内閣は4.25日、社会党の不信任案を受けて衆院を解散した。岸首相と鈴木茂三郎社会党委員長が話し合いで不信任案提出と採決直前に解散することを約束した上での解散となったので「話し合い解散」と云われる。総選挙は5.1日に公示され、5.22日、第28回衆議院選挙となった。「55年体制」後初の衆議院選挙であり、保守合同の自民党と統一社会党の保革二党の信任を国民に問う形になった。

 選挙の結果は、自民党微減、社会党微増となった。内訳は、自民党287(改選前290)、社会党166(158)、共産党1(2)、諸派1(0)、無所属12(2)。ではあったが、一般には自民党の勝利、社会党の伸び悩みとされ、「議席の増えた社会党が敗北感にうちのめされ、議席の減った自民党が勝利を呼号するという、奇妙な事態となった」。

 党は、101万票、当選1名。党勢やや回復する。自民287、社会166、諸派2、無所属12。竹下登初当選。佐藤派に入る。社会党は伸び悩んだ。その総括を廻って、西尾は右派的に社会党が総評に偏重して国民政党としての行き方を忘れた為である、総評の圧力から解放して主体性を確立すべきとした。これに対して向坂逸郎は9月の「月刊社会党」で左派的に革命党の性格を綱領に示し、日常活動を強力に推進してこそ社会党への支持を強化し得ると主張した。こうして、階級政党か国民政党かの論議が盛んになった。この経過で次第に左派の影響が浸透していくこととなった。

【「現マル派」の誕生】
 5月から相次いで「現代マルクス主義−反省と展望」三冊(第一巻「マルクス主義と現代」、第二巻「マルクス経済学の展開」、第三巻「現代革命の諸問題」)が刊行された。既に第一弾として上田の「戦後革命論争史上下二巻」が出版されていた。続いて「現代資本主義双書」も刊行されていた。豊田四郎、田沼肇、長洲一二「現代資本主義とマルクス経済学」、井汲卓一「国家独占資本主義」、村田陽一「現代民主主義の構造」、不破哲三「社会主義への民主主義的な道」等々。「そこには長洲と同様に、『構造的改良』に基づく現代先進国革命の路線として、トリアッティを先頭とするイタリア・マルクス主義への共感が熱っぽく説かれ始めていた」(安東「戦後日本共産党私記」)。

【社学同結成】
 この頃の学生運動につき、「第5期その1新左翼系=ブント・革共同系全学連の自律」に記す。

 5.25日、「社会主義学生同盟」(社学同)第一回全国大会を開催し、全学連大会の前夜祭になった。社学同は、50年分裂当時からあった「反戦学生同盟」(反戦学同)が名称を変えて結成されたものであった。これは、反戦学同の反戦平和運動から社会主義革命の直接的志向へと針路を切り替えようとしていたという事情によった。この時社学同は、「日本独占資本が復活強化した」 との評価を前面に出し、反独占闘争を強調したため、アメリカ帝国主義への従属国家論を主張する党中央の「党章草案」と決定的に対立する路線へと踏み出していくことになった。

【全学連第11回大会】
 この頃の学生運動につき、「第5期その1新左翼系=ブント・革共同系全学連の自律」に記す。

 続いて5.28−31日全学連第11回大会が294名の代議員と評議員、傍聴者など約1000名集めて開かれた。反主流派日共系と主流派執行部系の激突の場となった。執行部派が制し、党中央忠実派は「右翼反対派」として排斥された。執行部の議案は賛成271.反対19.保留1という圧倒的多数の支持を得て可決された。

 党中央は、こうした急進主義的政治主義的方向に向かおうとする党員学生活動家に対して、「戦術的には政治カンパニア偏重の行き過ぎの誤りを犯すものであり、学生が労働者や農民を主導するかの主張は思い上がりである」と批判するところとなった。これに対し、全学連指導部は、「戦後10年を経て、 はじめて日本学生運動が、日本のインテリゲンチャが、そして日本の左翼が、主体的な日本革命を推進する試練に耐える思想を形成する偉大な一歩を踏み出しつつあることを、全学連大会は示しているのである」と自賛した。充分な理論的対応を為し得ている様を見て取ることが出来るであろう。

 なお、この時期の全学連指導部は、およそ三派から成り立っていたようである。一つは、森田のグループで、これには全学連委員長の香山を含む中執のかなりのメンバーがいた。もう一つは、都学連と星宮ら関西の一部を中心とする革共同グループがいた。最後が圧倒的支持を得ていた島グループで、東大・早大グループが佐伯と生田を介して暗黙の提携関係にあったようである。 後の展開から見て、この大会で唐牛が中執委員に、灰谷・小林が中央委員に選出されており、北海道学連の進出が注目される。なお、こうした全学連執行 部外に民青同高野グループがいたことになる。ただし、これを急進主義と穏和主義の別で見れば、穏和的平和運動的な方向に高野・森田グループ、急進主義ないしは革命運動的な方向に革共同と島グループというように二極化されつつあったようである。この時期の全学連運動には、既に押しとどめがたい亀裂が入っていたということでもある。

【全学連「代々木事件」又は「6.1事件」発生】
 この頃の学生運動につき、「第5期その1新左翼系=ブント・革共同系全学連の自律」に記す。

 6.1日、全学連大会終了の翌日、全学連第11回大会の成り行きを憂慮し事態を重視した党中央は締めつけに乗り出し、同大会に出席した学生党員議員約130名を代々木の党本部に集めた。「全学連大会代議員.学生党員グループ会議」を開き、全学連を党指導の傘下に引き戻すべく直接指導に乗りだそうと した。そういう思惑で党の幹部出席の上会議が開かれ、党中央が議長を務めての党中央主導の議事運営をなそうとしたが、既に党中央に批判的であった学生党員らが一斉に反発し、会議はその運営をめぐって冒頭から紛糾した。積年の憤懣と、直前の全学連大会で演じた党中央青対の指導による高野派の動きに不満が爆発したというのが実際であったように思われる。これを「全学連代々木事件」(または「6.1日共本部占拠事件」) と言う。

 共産党全学連グループ会議における多数派(森田、香山ら)と少数派(高野、牧ら)の砂川闘争の評価をめぐる乱闘事件であったとされているが、「6.1事件」はこうして全学連指導部の共産党に対する公然たる反乱となっ た。この瞬間より、党は全学連に対するヘゲモニーを失ったことになる。

 前代未聞の不祥事発生に仰天したか、党は、ここに至って、これら学生の説得をあきらめ、組織の統制・強化に乗り出していくことになった。鈴木議長の閉会宣言以降の会議を無効とし、「世界の共産党の歴史にない党規破壊の行為であり、彼らは中委の権威を傷つける『反党 反革命分子』である」とみなし、「一部悪質分子の挑発と反党的思想を粉砕し」それら学生党員の責任を追及していくこととなった。



 6月、社会党の江田三郎組織委員長が中心となって、社会党の「党の広がり」と「大衆化」を目指す機構改革問題の第一次答申案を提出した。分かりやすく云えばやや市民運動的な要素を取り入れようとしていた。これに左派の向坂逸郎や大田薫、岩井章らが激しく反発した。右派の西尾は第一次答申案の趣旨を擁護した。


【第二次岸内閣成立】(1958年 6月12日 〜 1959年6月18日)
 6.12日、第二次岸内閣。総理・岸信介、官房長官・赤城宗徳、幹事長・川島正次郎、総務会長・砂田重政、政調会長・三木武夫。法相・愛知揆一、外相・藤山愛一郎、蔵相・佐藤栄作、文相・灘尾弘吉→橋本龍伍(1959.1.12〜)、厚相・橋本竜伍→坂田道太(1959.1.12〜)、、農相・三浦一雄、通産相・高碕達之助、運輸相・永野護→重宗雄三(1959.4.24〜)、、郵政相・寺尾豊、労相・倉石忠雄、建設相・首都圏整備委員長・遠藤三郎、自治・ 石原幹市郎(1960.7.1)行政管理庁・北海道開発庁長官・山口喜久一郎、国家公安委員長・自治庁長官・青木正→愛知揆一(兼任)(1958.10.28〜)→青木正(兼任)(1959.1.12〜)、防衛庁長官・佐藤義詮→伊能繁次郎(1959.1.12〜)、経済企画庁・科学技術庁長官・宇田耕一、【科学技術庁長官、原子力委員長】三木武夫(兼任)→高碕達野助(兼任)(1959.1.12〜)、 国務【経済企画庁長官】三木武夫→世耕弘一(1959.1.12〜)、 【行政管理庁長官】山口 喜久一郎、国務相・池田隼人。 総理府総務長官・松野頼三、 法制局長官・林修三。



 6月、藤山外相とマッカーサー大使と日米安保条約改定の予備交渉始まる。


【「第23回拡中委」開催】
 7.5日、「第23回拡中委」が開かれ、宮顕が綱領問題についての報告を行い、党章草案の党内論議において出された様々な問題点を整理した上で、批判派の見解に反批判を加えた。

 7.7日、党中央は、 「反党的挑発、規律違反」として規約に基づき香山健一全学連委員長、中執委星宮・森田実、東大細胞.野矢哲夫らを党規約違反として3(4)名を除名、土屋源太郎ら13(12)名を党員権制限の厳格処分に付した。その後各地方党機関でも6.1事件の関係者を年末までに72名処分した。全学連指導部の学生党員たちは、党のこうした処分攻勢を契機として遂に党と袂を分かつこととなった。紺野もその責任を問われて、常任幹部会員を解かれた。ちなみに紺野は徳田系の残存幹部であったことが注目される。党は、党内反対派の制圧の手段としてこれを徹底的に利用していくことになった。

 7.10.11日アカハタに、「綱領問題の討論点について」論文が発表された。先に宮顕報告が為されたが、「日本共産党常任幹部会報告」として発表されていた。書記局が「これは、7.5日から行われている第23回中央委員会拡大会議で、綱領問題について常任幹部会が行った報告である」との但し書きが添えられていた。これは、既にこの頃日本共産党常任幹部会が宮顕に私物化されていたことを物語っている。

 この論文は、重要なところをすりかえていた。神山メモに拠れば、概要「『討議の経過について』は、採決の主旨が戦略的構想についての賛否であったのを、『原則的見地』に移し、さらには『党章草案そのものに対する賛否にすり替えてしまっており』、『この点で完全な誤魔化し』をしていた。私はこの点について、即時厳重な抗議を申し入れたが、宮本は言を左右にし、まともな答えをしないまま、事実上訂正措置を取らなかった」とある。



 7.21日、総評第10回大会。


【第3次勤評闘争】
 (「勤務評定(勤評)闘争」参照)

7月、総選挙後に成立した第2次岸信介内閣は、勤評の全国への導入の効果的な政策として、校長に管理職手当を支給する法改正を強行し、翌8月には文部省令による小中学校の「道徳」教育の義務化をかった。こうした岸内閣の政策に対抗して、日教組は、全面的な阻止闘争の展開を決定、9月15日を統一行動日として決起することを全国に指令した。

かくして愛媛が端緒の勤評闘争は、教員の枠を越えた保守権力対総労働の構図の上に、全国的規模での全面衝突の一大闘争に発展することになった。愛媛県教組も、全国と連携して、県下の各地で勤評阻止行動を展開する。愛媛での第3次勤評闘争である。

9.15日、統一行動日のこの日、県内各市教組と県教組は授業カット戦術で呼応したが、反日教組派は、闘争阻止のためにPTA会員を動員し、両者の間で乱闘が起きる地域もあったほどである。

 10.21日、一連の闘争に参加した組合員に対する合計3,206人に及ぶ大量処分が下された。処分と懐柔との相克の中で組合離脱が続出、校長の脱退者は半数を超えることとなる。

松山市では第1次勤評闘争で脱退した20人の校長が中心になって1957.2月、全県規模の校長会が、同年6月、県教組を脱退した一般教員の間で松山市教職員同志会が組織されていた。県教組に対立する組織の立ち上げは、勤評実施の目的の総決算を意味するが、それは58年になってさらに加速し、3月には県教職員連盟が結成され、やがてこの組織に小中学校長会が参加して、ついに同年9月、「教育専門職としての使命感に徹し、正常な教育の進展を図る」ことを標榜した愛媛県教育研究協議会(愛教研)が県下全教員の4割にあたる5200人規模で組織されることなる。

これは事実上の県教組壊滅であった。権力に擁護された愛教研所属の校長たちは、懲戒免職、停職処分を含む厳しい差別的報復人事策を武器に、かつての組合員であった一般教員の県教組脱退を画策した。校長の説得にも応じなかった教員に対する昇給の先送りは序の口で、不適格教師の烙印を押して退職に追い込むばかりか、「山間部から海岸部へ」、「中子から南予・東予へ」「中心部から僻地(島嶼部)と、いわゆる「100キロ転勤」を容赦なく強行し、あるいは毎年のように遠隔地転勤を強いた。こうして県教組は急速に組合員を失い、かつて1万人を誇った県教組は数百人までにまで衰退することとなる。保守王国愛媛の基盤再構築の完成を意味した。

さて、全国レベルでの勤評闘争は、東京、福岡、和歌山、高知、大阪、群馬などの各都府県教組による勤評反対10割休暇闘争、中央での「勤評反対・民主教育を守る国民大会」等の精力的闘争が展開されたが、1959年秋頃から教員自身の自己反省記録の提出といった「神奈川方式」「長崎方式」などの妥協的方策が模索され、反対闘争はしだいに鎮静化していった一方で、地方公務員法違反で起訴108人、解雇70人、休職42人、停職299人を含む約6万人が処分された(なお、現在では勤務評定を昇級・昇格の理由にはしない習慣がおおむね全国的規模で確立している)。

だが、父母・住民の教育要求を組織化するという教職員組合運動のスタイルは、その後の高校全入運動や学テ闘争にも引き継がれていき、一定の成果につながっていくのである。しかして戦後日本の社会運動・教育運動の歴史の中で勤評反対闘争を見た場合、「愛媛の勤評」といわれたようにそれは、保守的とされる農村地域を主たる舞台に全国的規模でたたかわれた唯一の闘争であるという側面で、意義と特徴を有していたといえよう。

【不破哲三が「社会主義への民主主義的な道」論文を発表】
 7月、「講座・現代マルクス主義V『現代革命の展望』」において、不破哲三は、「社会主義への民主主義的な道」論文を発表した。ここで不破は、概要「コミンテルン時代の古い革命論の図式が反ファッショ人民戦線時代に事実上の修正を蒙ってきた経緯を跡付けた上で、イタリア共産党の構造改革路線を中心に『社会主義への民主主義的な道が社会主義革命の一般的法則にまで高められた』理論的過程を論証した」。


【 戦後党史第三期】/ 【ミニ第B期】= 宮顕−袴田体制確立される
 第7回党大会が開催され、宮顕−袴田体制が確立された。この大会で、旧徳球系の完全放逐に成功した。次の掃討戦は、反徳球系急進主義者学生党員グループと春日(庄)ら構造改革派系に向かうことになった。これにも成功し、58年の第8回党大会はその凱歌を挙げる舞台となった。この期間を【 戦後党史第三期のミニ第B期】とみなすことができる。

【第七回党大会開催】 
 7.23日、共産党第7回党大会が開かれた。開会の辞を中央委員会第一書記の野坂参三が行い、大会に提起された4点の任務として、1・過去11年間の国際、国内情勢の変化の把握、分析、その総括。2・政治綱領策定、3・党建設と党生活に関するレーニン主義的基準の上にたっての規約改正、4・新中央委員会の構成を提起した。

 大会は51年綱領を廃止し(1993年、「五一年文書」と呼ぶことを日本共産党常任幹部会」が決定する)、新綱領は次の大会まで継続審議として棚上げとなった。この綱領論争の意味は、旧国際派のヘゲモニーを廻って宮顕派と春日(庄)派が激突したことにあった。伊藤律除名を確認した。

 宮顕は、「この党大会を経て、いろいろな理論問題を解明した」(宮本顕治談話-1991.9.26.赤旗)と豪語したが、実際には、「アメリカ帝国主義+日本独占資本=二つの敵論」を主張する宮顕、野坂、志賀らと、「日本独占資本のみ=一つの敵論」を主張する春日、内藤らとの間の論争に決着がつかず持ち越された。

 宮顕は、「一つの敵論」を「アメリカ帝国主義との闘争を回避する路線」とみなして、「平和的手段による革命の道が無条件に保証されていると考える〃平和革命必然論〃をしりぞけ、平和的手段による革命の達成をあくまで追求しながら、暴力の道をとざそうとする敵の出方に必要な警戒をおこたらないという原則的な見地を明確にした」と云う。つまり、「敵の出方論」によって平和革命論を否定したということになる。これに対して、春日らは、「一つの敵論」は、「二つの敵との闘争の名に隠れて実際には反米に重点をおく戦略であり、自立しつつある日本独占資本との闘争を回避させている」と反論した。

 論争は、「従属か自立か、二段階革命か一段階革命か」という論点に絞られたが、宮顕は従属論を固持して頑として譲らなかった。神山は宮顕を上回る民族派的従属論者であった。豊田四郎はその手下とも云うべき発言をしていた。安東氏「戦後日本共産党私記」では、「宮本は草案の論理は譲れない原則であるとし、批判派もまたそれに比例して批判のオクターブを上げてきてしまっている以上、党の統一的な運営は、かなり危険になるのではあるまいか。私はこの予測を真剣に憂慮した」とある。つまり、構造改革論にいたる一契機たりえた論争が、宮顕に起因する頭ごなしの排斥論理によって噛み合わず、不毛な論争になったということでもあった。

 大会での政治報告で、学生運動に対して次のように述べている。
 「学生運動は全学連を中心に平和、独立、民主主義を目指す人民の闘争の中で次第に重要な役割を果たしている。‐‐‐同時に、学の生活経験の浅いことからおこりがちな公式主義、一面性と独断、せっかちで持続性に乏しいという弱点を克服し、一層広範な学生を統一行動に組織するように指導しなければならない」。

 宮顕らしい訓話である。

○期日.会場.代議員数について

 7.21−8.1日まで第七回党大会開催。東京は中野公会堂.品川公会堂。1947年の第6回大会から実に11年ぶりであった。出席者445名。非公開。

 7.21日より二日間は中央委員会主宰の予備会議とされ、あらかじめ大会運営と役員の腹案の承認が迫られている。。大会の日程から議題の討議の方法までも、全てここで決められた。まず、大会幹部団.役員選考委員会.資格審査委員会.選挙管理委員会などの大会役員についての腹案の取り決めが為されており、シャンシャン大会がごり押しされようとしていた。

 この時、東京都代議員団から推薦されていた反対派の有力分子・芝寛(当時、東京都委員会書記)と武井昭夫(当時、東京都委員)の2名が、「悪質転向者、党に対して誠実でない」との理由で強引に排除されていた。他に全学連グループの森田実(東大)と高野秀夫(早大)の資格問題を廻って議場が騒然となった。

 反宮顕派の東京都委員の芝氏が代議員として送り出されてきていた事態に対処した宮顕らしい『排除の論理』の遣り方が次のように伝えられている。理論闘争で対応するのではなく、持ち出したのが戦前の獄中闘争時代の『哀しい生き様』の暴露と指弾であった。宮顕式『党章』に反対しようとしている東京都委員会選出の芝代議員に対し、壇上から、宮顕とぬやまひろしこと西沢隆二が一緒になって『戦前の黒い前歴』を暴き出した。芝氏の戦前の転向時の様子を持ち出し、「芝君の転向は悪質であった」と批判した。その内容たるや、『刑務所で一等飯を食ったか、三等飯を食ったか。一等飯を食ってた奴は買収されていたからであろう』というお粗末な罵声であった。

 れんだいこの研究によって明らかなように当人は百合子の差し入れで特上生活を確保していたというのに、己を問わず人に厳しい噴飯ものの云いによる攻撃であった。但し、この当時、宮顕のそうした素性はヴェールに包まれていたから、芝氏は抗弁できなかった。「それなら何故今まで都委員長の地位を認めていたのか」と反論するのが精一杯で、これに対しては、「武士の情けというか、あるいはいずれ正規の大会を経て人事を正すまでは黙認してきた」と説明する等の応酬が為されている。結局、理不尽な攻撃で押し切られている。「非転向12年の宮顕神話」の金棒がこういう場合に振り回されるという好例がここにある。芝氏は泣き、眼を真っ赤にして「チクショウ、宮顕の奴‐‐‐」と唇を噛み締めていた様子が伝えられている。この後武井問題も遣り取りされた。

 「ではこの会議の目的は何であったか。あえて予備会議と銘打って会議を持たなければならなかった理由は何か。それは当時の指導部はぶっつけで大会を開催する自信はとうてい持てなかった、ということである」(安東「戦後日本共産党私記」)。

 この時、党中央は会期中各代議員を分宿させて缶詰状態におき、横の連絡を不能にした。秘密漏洩を防ぐ為という理由であった。「代議員は一人残らず宿舎にカンヅメにされていたが、これは代議員達が会場の外で自主的に討論することを阻止する為の対策だと云われ、病人が出たとき看護の任にあたるとして配置された党員も、実は『監護』のための目付け役であろうとされる状態にあった」(三浦つとむ「社会党党員協議会をめぐって」・「現代思想」1961.10月号)という、宮顕グループによる過去に例の無い治安警察的手法での大会運営になっていた。

 にも関わらず、大会は冒頭から代議員提案が為され、議場は早くも混乱状態に陥った。

 会場の中野公会堂で盗聴器を摘発。(この「盗聴器摘発事件」も胡散臭いものがあるように思われる)

○大会の眼目

 正規の党大会は23日午前11時に開会された。ソ連共産党代表団(中央委員ミ−チン.プラウダ編集長サチューコフら)が出席し、割れるような拍手で迎えられた。野坂の政治報告、志賀の「モスクワ宣言」報告が行われた。大会の眼目は、「6全協」での党の合同以降確立された「野坂−宮本体制」による一層の地固めにあった。「党の新しい綱領と規約を決定し、50年問題の自主的科学的な総括を行い、正確な路線の下での党の政治的、理論的、組織的団結を強固にかちとることは、大会に課せられた最も重大な任務であった」。

 大会二日目から討論が開始された。野坂の政治報告に対する討論は既に出来レース化されており、党中央支持派ないし神山系の右派的論調で占められた。議場が沸いたのは、国労の新潟闘争とこの時の党の指導に対して疑問が提起された時だった。しかし実質的な検証には至らなかった。

○採択決議について

 野坂第一書記の政治報告と「行動綱領」、「党規約」、政治報告その他を圧倒的多数で採択。「51年綱領」を廃止することが決定された。伊藤律.志田重男.椎野悦郎の除名確認の決議が正式に為された。「この党大会を経て,いろいろな理論問題を解明した」(宮本顕治談話-1991.9.26.赤旗)。

 新綱領=「党章草案」は、春日(庄).内藤知周らの反対派の強い抵抗のため、次の大会まで棚上げ継続審議となった

 大会三日目に蔵原が「50年問題」について報告を行っている。ところが、大会代議員による「徳田系所感派の三大非行−@・極左軍事方針、A・トラック財政問題、B・第二次総点検(主流派による査問・リンチ事件)についてほとんど検討も批判も加えられていない」ことが指摘され、結局「新中央委員会はその問題を十分、調査・検討して次期第8回党大会に報告すべし」が大会決定となった。

  松川事件に関する決議などの諸決議も採択した。「統一と団結にかんするよびかけ」を採択して、不当に除名され、あるいは党から離れた党員の党への復帰を訴えた。




 この大会で、 「5つの教訓」が定式化された。


いかなる事態に際会しても党の統一と団結、とくに中央委員会の統一と団結をまもることこそ、党員の第一義的任務であること。
そのために、家父長的個人中心指導や規律を無視する自由主義、分散主義を厳しく排し、いかなる場合にも規約を遵守し、規定されている大会その他の党会議を定期的に開き、民主集中制と集団指導の原則をつらぬくこと。
中央委員会内部の団結とともに、中央と地方組織との団結の為に最善の努力をはらうこと。
党の分裂が大衆団体の正常な発展を破壊した苦い経験にたって、いかなる場合にも党の内部問題を党外に持ち出さず、それを党内で解決する努力をつくすこと。
党の思想建設と理論を軽視する風潮を一掃し、当中央を先頭に全党が、マルクス.レーニン主義理論の学習を組織し、党の政治的、理論的水準を向上させる為に努力すること



 この時の大会は「野次、怒号」のうちに終始した。当時の代議員だったものの話では、会場となった東京.中野公会堂などの内部は熱気に包まれ、ある時は反対派が議長壇に駆け上り抗議するなど、混乱が続いたと伝えられている。宮本自身の「第7回大会というのは、党の綱領案を決めようとした大会ですけれども、実は3分21がその綱領案に反対だったんですね。そしてもう、労働組合の大会などと同じように、野次、怒号、私なんかも5回も10回も演壇に立って‐‐‐」(「サンデー毎日」1974.6.16日号)が裏付ける。

 大会第7日目に綱領小委員会が本会議とは別に会場を代々木党本部二階に移して開かれた。代議員24名、中央から11名の計35名で構成されていた。論議沸騰して採決が困難となり、「党章草案の政治綱領部分を直ちに大会で採決せず、この中央委員会提出草案を今後中央委員会の指導の下に引き続き討議すべき草案として大会が認め、今後適当な機会に最終的な決定を行う」こととした。
○新執行部について

  大会8日目、役員選出となるが選挙方法について極めてあくどい技巧が凝らされていた中央委員31名、同候補20名の定員が決められ、166名の候補者が審査にかけられた。候補が壇上に上げられ、戦前の転向との関わりを含めた経歴が問われ、人民裁判的雰囲気の中で進行した。この遣り方は揉めに揉めることになり、その結果、六全協で中央委員に選ばれていた紺野与次郎、水野進、竹中恒三郎、松本三益、田代文久、竹内七郎、塚田大願などの旧所感派は候補者リストから外された。長谷川浩.西沢隆二は辞退させられた。保坂.伊藤憲一.岩田英一は問題にされなかった。

 結果、31人の中央委員、6人の同候補、7人の中央統制監査委員を選出した。中央委員の顔ぶれは、旧国際派のオンパレード的進出となった。鈴木.伊井.金子.岩間.きくなみ.西川.松島等の組合運動出身者が目立った。農民運動の経験者は全く入っていない。他には、内野.内藤.西館.砂間.波多.山田六など地方の党幹部が新しく中央委員になった。

 旧主流派で中央委員に残ったのは、野坂.春日(正).岡田文だけであった。旧主流派は、中央の専門部長として長谷川浩(青年学生対策).松本三益(市民対策).竹中恒三郎(あかはた経営局)の3名が残された。いずれも中央委員でもその候補でもなかった。他は一切役員からはずされた。

 候補リストの策定経過も不公正なものであったが、この時の選挙方法は卑劣極まるものであった。信任投票方式が提示され、中央委員の選挙には法定得票数を設けず上から高得点順に、同候補の場合には30%をもって当選するという遣り方が押し付けられようとしたが、猛烈な反対にあい、信任投票の場合には過半数の得票が必要とされることになった。

 投票総数444、棄権1、無効23、有効投票数420で、投票数の上位から順に記すと、蔵原惟人(351)・鈴木市蔵(347)・野坂参三(331)・川上貫一(326)・宮本顕治(322)・春日正一(307)・きくなみ克巳(306)・中野重治(300)・西川彦義(293)・松島治重(289)・山田六左衛門(282)・神山茂夫(280)・志賀義雄(279)・袴田里見(270)・岩間正男(262)・内藤知周(241)・岡林辰雄(229)・河田賢治(208)・金子健太(208)・伊井弥四郎(208)・青柳盛雄(196)・亀山幸三(191)・砂間一良(187)・坂田文吾(176)・安藤一茂(172)・内野竹千代(168)・米原(166)・西舘仁(156)・安斉庫治(143)・波多然(137)・中川一男(133)が選出された。多田留治、星野力、森田正吾、大淵正気、宮島豊、樋口幸吉が選外となった。

 戦前の共産党の一時代をリードした福本(73年没)が山口武秀らとともども除名された。

(私論.私観) 第7回党大会をどう観るか
 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」は次のように総括している。

 社会党が民社党や江田派の一周遅れのランナーだったとすれば、共産党はそのまた一周遅れのランナーである。宮本顕治ら国際派と野坂参三ら所感派の無原則的な野合による1955年の六全協によって「党の統一」を回復した日本共産党は、56年11月、宮本を委員長とする「綱領問題委員会」を発足させ、翌57年9月、「日本共産党党章草案」の名で新綱領草案を発表した。

 しかし、この間、56年2月にはソ連共産党第二〇回大会でのフルシチョフによるスターリン批判の「秘密報告」が行われ、またこれを契機にスターリニズム共産党の支配に公然と反乱を開始したハンガリー事件が同年11月に勃発するなど、世界史的な激動が続いたが、彼らはここから何ものも学ばなかったばかりか、スターリン批判を「個人崇拝」など単なるスターリン個人の誤りや欠陥に還元、ハンガリー事件に対してはソ連や中国の受け売りで「アメリカ帝国主義の挑発に基づく反革命事件」と非難、ソ連軍による鎮圧を「プロレタリア国際主義の現れ」(宮本)と賛美したのであった。

 また、「五〇年問題」に公式に決着をつけることが新綱領制定にあたっては不可避となり、宮本らは党章草案に続いて同年11月に「五〇年問題について」を発表した。しかし、この文書は問題を徳田前書記長の「家父長的指導」や「派閥的指導体制」の誤りに矮小化、責任をあげて徳田と所感派に転嫁し、国際派=宮本の無謬性と正統性を立証するという意図の下に編纂されたものであり、「資料集」からは国際派幹部が徳田主流派に提出した「自己批判書」(自らの分派行動を認め、党復帰を懇願したもの)など自分に都合の悪いものはすべて省かれていた。

 こうして思想的にも組織的にもスターリニズム的な自らの体質に全く無反省のまま、宮本らによって起草された党章草案が五一年綱領の手直し以上のものでなかったのは当然であった。さすがに五一年綱領にあった「占領軍による全一的な支配」、「絶対主義的天皇制」といった一見してナンセンスな規定は取り除かれていた。しかし、それに代わる規定は次のようなものであり、当面する革命を民族解放民主革命であるとする骨格はそっくり温存されていた。

 「現在、日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義と、それに従属的に同盟している日本の独占資本であり、わが国は、高度な資本主義国でありながら、アメリカ帝国主義に半ば占領された事実上の従属国となっている」

 党章草案はここから当面する革命を「民族の完全独立と民主主義擁護のための人民民主主義革命」(宮本の『日本革命の展望』によれば「民族解放と民主主義の徹底をおもな任務とする革命」)と規定した。

 このため、党章草案が発表されるや、これに対する批判が噴出し、いわゆる綱領論争が始まった。当時全国の党員の3分の1近くを占めていた東京都委員会は草案を「アメリカ独占資本の権力という亡霊にしがみつき、これを過大評価する保守主義」と批判、「日本で国家権力を握っているのは日本の独占資本だ。したがって、これを打倒する社会主義革命が、わが国の唯一の革命である」という見解を対置した。

 しかし、同時に彼らは「われわれは、……すぐさま社会主義革命のための直接的闘争をやろうとは考えない。当面の闘いとしては、構造的改良を中心とする平和と独立と民主主義と生活の向上をめざす革命的改良の闘いを考える。民族の完全独立は、この革命的改良の闘いの中で、またその一つとして貫徹される」と主張した。いわゆる構造改革路線で、党章草案の偏狭な民族主義に対するブルジョア改良主義的な立場からの批判でしかなかった。この綱領論争の中では東大学生細胞などからこれとは別の観点からの批判がなされ、ブントの結成へとつながっていくことになる。

 こうした中で、第七回党大会が58年7月に開催されたが、構革派を中心とする草案反対派が4割近くを占めたため、党章草案は党規約の部分を採択したにとどまり、綱領部分は次期大会に持ち越しとなった。
 日本共産党行動派では、次のようにみなしている。大武議長は最後の闘いとして指導機関の推薦をうけることなく大会代議員に立候補し当選、第7回大会に出席した。大会議長団に「50年問題」に関する文書を提出、宮顕・志賀ラインこそ分派であり、彼らは完全に右翼日和見主義であると非難、大会がこの問題を討議するよう求めた。彼らはこの文書を排除、そのまま50年問題委員会の名によって送り返してきた。第7回大会の結果を検討した大武議長は、宮顕路線は明確な修正主義であり、いまや完全に全党を支配した。従って彼らと闘争し、党を再建するという仕事は、長期にわたる日本革命と日本の階級闘争における基本的な任務となったのである、とある。

【宮顕体制の確立】
 8.1日−2日の「第1回中総」で、議長・書記長制が導入され、中央委員会議長・野坂、書記長・宮顕.統制委員会議長春日(庄)らの中央機構が定まった。書記長の座が野坂から宮顕へ交替したと言う事になる。春日(庄)は閉職に祀り上げられた恰好となった。幹部会員は、野坂.宮顕.袴田.蔵原.春日(正). 聴濤克巳.志賀義雄、鈴木市蔵.松島重治の9名。書記局員は、宮顕.袴田.春日(正).伊井弥四郎.米原.安斉庫治.西川彦義の7名を選出した。宮顕派の勝利の人事となった。  

  「六全協」において野坂−宮顕体制が確立されたが、中央委員にはなお多数の旧徳田派が残存していた。その象徴としてbP・野坂−bQ宮顕体制が構築された。第七回党大会は、こうしたバランス体制をうち破り、旧国際派勝利の大会となり、以降宮顕ワンマン体制にシフトすることとなった。新しい主流派閥の形成と官僚主義に道を開いた。宮顕.袴田.蔵原グループの党中央占拠により旧徳球派はほとんど一掃された。旧国際派のうち革新派を捨てた宮顕派が主導権をにぎり、野坂.春日正とくんでの党の主導権獲得が為された。「この大会後,袴田副委員長の登場.無遠慮で粗暴な岡っ引き.リンチ事件における宮本−袴田取引き説.公表をはばかる党財政の責任者」とある。

 注目されるのは、袴田の台頭である。このたびの党規約改正の報告者となり、中央委員会幹部会員、書記局員にも選出されている。財政部長担当にも就いている。 

 「日本共産党の五十年」では、「当時の歴史的制約から、大会の決定の一部には、世界の基本矛盾の評価、ソ連の国際的地位の評価などに関して不正確な点も含まれていた。しかし、大会は、党のもっていた欠陥を自主的に大胆に検討し、統一と団結の基礎を築き、日本の現状に適合した基本的政治方針をつくりあげることによって、強大な戦闘的革命的党建設の重要な一歩を踏み出した。この大会は、我が党の発展にとって歴史的な大会となっただけでなく、二つの敵と闘う日本人民の革命的な運動全体にとっても、きわめて重要な大会となった」と総括している。

【58年当時の党の方針の特質と要点】
 ○〈本党大会までの執行部評価〉について

 @〈世界情勢に対する認識〉について 

 次のように述べている。

 「現在の世界情勢の主要な特徴は、ロシアの十月社会主義大革命からはじまった資本主義から社会主義への移行期である」として、「世界情勢の動向は、二つの対立している社会体制すなわち、社会主義体制と資本主義体制との競争の経過と結果によって決定されている」。
 「このような社会主義陣営の優位は、共産主義をめざすソ連の経済建設の偉大な成功、中国革命の勝利、東ヨーロッパの人民民主主義諸国の社会主義建設の発展によってかちとられたものである。とりわけ、六億の人口をもつ中国で革命が勝利し、社会主義建設に成功し、日ましにその力をましていることは、国際情勢を変化させる大きな要因となっている」。
 「これらの諸国は、社会主義の世界体制を形づくり、相互のあいだの協力と団結をかためて、国際情勢を平和と進歩の方向に発展させる原動力となっている。社会主義陣営の協力と団結、ならびに一貫したその平和政策は、帝国主義の武力によるおどかしと新戦争の準備をくいとめて世界の平和をまもり、被圧迫民族の解放を保障し、国際労働運動の偉大な前進を助ける、もっとも現実的な力である」。
 
 国際共産主義運動の項で次のように述べている。「世界の労働者階級、勤労者、すべての進歩的な人びと、全世界の自由と平和を愛する勢力の団結のカナメとなるものは、世界の共産党・労働者党の団結である。わが党は、各国の共産党・労働者党とのあいだに、プロレタリア国際主義の原則にもとづく相互の信頼をつよめ、兄弟党の闘争を支持する」。つまり、マルクス・レーニン主義を「党是」として位置づける、世界中の共産党・労働者党を「兄弟党」としてみて、その団結を訴えている。

 A〈国内情勢に対する認識〉について

  国家の独立をめぐっての「従属」規定が引き続き採用された。51年綱領の植民地的従属国論はとらなかったものの「高度に発達した資本主義国でありながら、アメリカ帝国主義に半ば占領された事実上の従属国」と規定し、日本を基本的に支配する者は、「アメリカ帝国主義とそれに従属して同盟関係にある日本の独占資本勢力との二つである」とした。当面の革命の性格は、「民族の完全独立と民主主義擁護の為の人民民主主義革命」であり、「高度な独占資本主義の段階にあるわが国のこの革命はそれ自体社会主義的変革への移行の基礎をきりひらく任務を持つ」とし、これを社会主義革命に急速に発展させるべきだとした。こうして、「民族独立を第一義とする民族民主統一戦線による反帝・独立革命論」を標榜する2段階革命の戦略方針をとった。「彼は不退転の決意をもってこの立場を一歩も譲ろうとしなかった」(安東「戦後日本共産党私記」)。

 又、革命への道筋については、51年綱領の暴力革命唯一論を排すると同時に、平和的手段による革命の道が無条件に保障されていると考える平和革命必然論を退け、平和的手段による革命の達成の可能性をうあくまで追求しながら、暴力でこの道を閉ざそうとする敵の出方に必要な警戒を怠らないと云う、「敵の出方論」的な見地を明確にした。 それは、折衷論であり、本音を言い表さない建前論でもあった。これに対し、春日(庄)や鈴木市蔵、内藤知周.構造改革のコースを通ずる社会主義革命を主張する東京都委員会反対派グループ.中西功らが、「国家権力はアメリカ帝国主義によって握られているのではなくて、主権に多くの制限を受けているにせよ日本の独占勢力がこれを握っている。だから当面の革命の性質は、日本の独占権力を対象とし、その中に反米独立戦争をも含むところの反独占社会主義革命であるべきだ」と主張した。革命への道筋の問題では、国際情勢の有利な発展などを理由に、議会を利用した平和革命を社会主義へのただ一つの道として定式化することを主張した、とされている。

 論争は本会議で決着がつかず、綱領小委員会をもうけて検討された。ここでもまとまらず、綱領部分の採決はしないことにして、「引き続き討議すべき草案」として承認するにとどめて、その最終的決定は次の大会に持ち越した。  組織問題としては、常任幹部会を廃して常任委員会をもうけ、同時にそれを中央委員会の指導機関から執行機関に格下げした。第一書記制にかえて、中央委員会議長.書記長を設けることにした。党の基本組織としては、地方委員会が廃されて、都道府県委員会が中央委員会の下につくことになった。

 B〈党の革命戦略〉について

 C〈党の革命戦術〉について

 D〈党の具体的な運動方向〉について

 当面の党と労働者階級の諸任務で次のように述べている。「労働者階級が、党の指導のもとで、統一戦線の真の推進者となり、その中心勢力とならなければならない。しかし、そのためには、党が、マルクス・レーニン主義によって労働者を教育し、思想的に獲得して」、「資本主義諸国の労働者階級と人民が社会主義の思想にひきつけられていることを、もっとも恐れている。……共産主義運動とマルクス・レーニン主義にたいして思想的攻撃を集中し、労働者階級と人民を武装解除することに……」、「わが党は、敵にたいする断固とした、組織性のある思想闘争によって、わが党の思想・理論活動を創造的に発展させ、マルクス・レーニン主義をまもることを、当面の闘争における重大な任務としなければならない」。

  大会以後、最大の闘争課題として安保改定反対闘争が待ち受けていた。

 E〈党の大衆闘争指導理論〉について  
 F〈党の機関運営〉について

 第7回党大会で、野坂が「50年問題」について次のような政治報告を行い、多数で採択されている。

【党の統一と団結の強調】 如何なる事態に際しても党の統一と団結、特に中央委員会の統一と団結を守ることこそ党員の第一的義務であること。
【民主集中制の原則】 党の統一と団結を守りぬくためには、如何なる場合にも規約を厳守し、規定されている大会その他の党会議を定期的に開き、民主集中制と集団指導の原則を貫くこと。
【中央委員会の強権指導】 中央委員会は常に、都道府県委員会、地区委員会、細胞との思想上、政策上、組織上の統一の為に最善の努力を尽くし、又地方機関と全党員は中央委員会の全周囲に結集し、常に統一と団結の為に積極的に努力しなければならないこと。
【内部問題の漏洩禁止】 如何なる場合にも党の内部問題を党外に持ち出さず、それを党的に解決する努力が必要であること。
【理論学習】 中央委員会を始めとする全党員がマルクス・レーニン主義理論の学習を組織し、党の政治的・理論的水準を向上させるために努力すること。
(私論.私観) 野坂の政治報告をどう観るか
 全く有害無益な方向へ党を変質せしめようとしていることが分かる。
 G〈左翼陣営内における本流意識〉について

 H〈この時期の青年戦線.学生運動〉について

 「青年をマルクス・レーニン主義の思想で教育し、社会民主主義の思想を克服しなければならない」として、民青同盟(民主青年同盟)を「先進的な青年」とし、マルクス・レーニン主義で教育することを「党の任務」と位置づけている。

 10、マルクスレーニン主義に対する態度

 「帝国主義の反動的思想とその文化にたいして最後まで徹底的にたたかい、勝利しうるのは、マルクス・レーニン主義の思想であり、社会主義の文化であることを忘れてはならない。れわれは、マルクス・レーニン主義の古典、社会主義・人民民主主義諸国の思想的、文化的達成、わが国におけるその成果を労働者階級をはじめとする勤労人民のあいだに普及し、いっそう多くの知識人をわれわれの側に獲得する努力をつよめる必要がある」。  

 I〈大会後の動き〉   

【島・生田ら新しい組織を目指して全国フラクションを結成していくことを決意】
 この頃の学生運動につき、「第5期その1新左翼系=ブント・革共同系全学連の自律」に記す。

 第7回党大会には、島・生田らが「全学連党」代議員として参加した。しかし、10日間もの間旅館に缶詰で外部と一切遮断したまま(家父長的と云われる徳球時代にはあり得なかったやり方である!)、次から次へと満場一致で宮顕方針が決議されていく大会運営を見て、却って党との決別を深く決意させたようである。「十年ぶりに開かれたこの大会が破廉恥な党官僚の居直りによって終わった時、そして、党内反対派が『党革新』の第一歩と幻想を抱いている時、六全協以来続いた党の混乱は終息した。この党の革命的再生はありえないことを確認し合い、その翌日、この党との決別を決意したのだ。決別は同時に私達の手による、革命的前衛の結成へ向かうことでもある」(島「生田夫妻追悼記念文集」)。

 こうして党大会終了の翌々日の8.1日、島氏は全学連中執、都学連書記局、社学同、東大細胞党員の主要メンバーを集め、大会の顛末を報告すると共に、新しい組織を目指して全国フラクションを結成していくことを提案した。

【革共同の第一次分裂】
 この頃の学生運動につき、「第5期その1新左翼系=ブント・革共同系全学連の自律」に記す。

 この頃の58.7月に革共同が内部分裂を起こしている。これを「革共同第一次分裂」と言う。少数派であった太田竜氏らのグループが、関東トロツキスト連盟を結成して革共同から分離することとなった。太田派が全体討議を拒否したという事実経過があるようである。この時太田氏は、トロツキーを絶対化し、トロツキーを何から何まで信奉しそれを唯一の価値判断の基準にする「純粋なトロツキス ト」(いわゆる「純トロ」)的対応をしていたようである。
「パブロ修正主義」と呼ばれる理論を尊重し、ソ連を「労働者国家」とした上で、「反帝国主義、ソ連労働者国家無条件擁護」の戦略を採った。後にソ連の原水爆実験が行われたときこれを無条件に擁護することとなる。これに対し黒田氏は、「トロツキズムは批判的に摂取していくべき」との立場を見せており、そうした意見の食い違いとか第四インターの評価をめぐる対立とか大衆運動における基盤の有無とかをめぐっての争いとなり、これが原因で「革共同第一次分裂」へと向かうこととなったとされている。黒田派は、「反帝国主義、スターリニスト官僚(政府)打倒」の戦略を採った。後に「反帝.反スターリン主義」へと純化していくことになる。ソ連核実験の際には反対という立場に立った。

 ただし、9月になると、黒田氏は大衆闘争に対する無指導性が批判を浴び、党中央としての指導を放棄させられているようである。

【革共同太田派が脱落】
 太田派は関東トロツキスト連盟を結成していたが、9月に「日本トロツキスト同志会」へと改称し、翌59.1月、国際主義共産党をつくり、8月に第四インター日本委員会へ歩みを進めていくことになる。革共同から分離した太田氏は日本社会党への「加入戦術」 を行い、学生運動民主化協議会(学民協)と言う組織を作り、当時の学生運動の中では右寄りな路線をとっていくことになった。その後、太田氏はアイヌ解放運動に身を投じていき、最近では「国際的陰謀組織フリーメーソン論」での活躍で知られている。

【新たな対立の火種】
 「党章草案」の綱領部分に対する態度の違いが、新たな対立を生んだ。7回党大会は、徳田派の放逐又は無力化に成功した。後に残った野坂.春日(正)とくんで中央を握った宮顕.袴田のラインが、蔵原.松島.きくなみ.その他の党章支持者を周辺に結集して中央主流派を形成した。春日(庄).山田.亀山らは、党章反対派として少数派の立場になった。中央委員にしめる割合は、反対派40パーセント。

 8.10日頃、中央委員会内部に東京都委員会の反対派グループ追い落としを決定し、春日(正).松島.鈴木等を都委員会特別対策部をつくった。内藤知周が反対意見を述べただけで確認された。

 8.17.23日、文京区党会議において、反対派の学生党員を追い出して、区委員会を独占した。

【「綱領問題小委員会」設置される】
 8.18−20日、「第2回中総」で、綱領問題小委員会、党の歴史に関する小委員会、戦後労働運動の総括のための小委員会の三つを中央委員会内に設けることを決定。各委員が選ばれた。地方局の設置。

 綱領問題小委員会には野坂.宮顕.袴田.蔵原.春日(正).松島.聴濤.米原らが、神山.春日(庄).内野壮.亀山.西川らを押さえる形で入っていた。志賀.鈴木らも含まれていた。58年から61年にかけて、小委員会は29回開かれ徹底的に討議された。但し、党の歴史に関する小委員会、戦後労働運動の総括のための小委員会は有名無実化させられた。この経過に付き、亀山は「代々木は歴史を偽造する」の中で次のように伝えている。「私は初めは忙しい選挙、自治体対策部長としての仕事のほかに非常に意気込んで、その事業に取り組んだが、まもなくその委員会は開店休業になってしまった。というのは、袴田が『俺がここに入ったのは、君をあまり暴れさせないためだ。君に委員会の仕事をあまりやらせないようにするのが幹部会(宮本の意向であるということになる)の方針である』と公言する始末であった。もと主流派の春日正一も大体同じような態度であり、蔵原は毒にも薬にもならない存在である。この三人は共に幹部会員であり、彼らが共謀してこの仕事をさぼるものだから、委員会の仕事は全く進展しなかった」。

【宮顕体制への地固め、反対派の排除進む】
 9月上旬以降、全国46の都道府県会議を開き、新中央主流派は党章反対派の排除と抑圧の工作を進めることを意思統一した。 中央のやり方は、理論闘争を抜きにして、もっぱら行政権を振り回して組織的処分に力を注ぐことを申し合わせた。拠点組織に集中攻撃をかけ、戦闘的分子を機関から追い払い、その指導権を奪い取ることに全力を挙げた。

【野田弥三郎と山本正美2委員の都委員資格を剥奪】
 9.21.28日、「第4回東京都党会議」で、都委員会の「自由主義的分散主義的傾向」を非難するアカハタの連日のコーラスの下に、中央は、都委員会に自己批判を迫り、突然野田弥三郎と山本正美の2委員の都委員資格を剥奪した。



 10.4日、アカハタは2ページを費やして、武井.野田.片山らの規律違反なるものを攻撃する宮顕の長論文を載せた(「党建設の問題に寄せて」)。


 10.5日、増淵.安東が中央支持に傾いた。中央に異論を持つ者は都委員の資格がないという不当な牽制工作の下に、芝.武井.片山.西尾.増田らの反対派の都委員立候補を断念させた。それでも40パーセントの代議員が反対又は保留した。春日(正)が都委員長に天下った。 東京都委員会は反対派の拠点であったが、春日正一都委員長に下で、反対派鎮圧を強力に展開していくことになった。


 10月、東京都党会議の後、「第11回大阪府党会議」が開かれた。宮顕の意向を受けた松島治重が乗り込み、「独立闘争の」意義を協調して府委員会の報告草案を批判した。第10回神奈川県党会議でも、「独立の課題の過小評価」を指摘して、反対派分子を牽制した。京都府党会議では、府委員大屋史朗(西京司)に対する罷免カンパニアが組織され、旧所感派の河田賢治が後がまに座った。大屋はその後、革命的共産主義者同盟関西派の中心となった。千葉県党会議でも同じ様な反対派排除が行われた。並行的に年末にかけて学生党員の除名が進められた。


 特徴的なことは、反対派鎮圧の責任者は宮本の腹心松島を除きほとんど旧徳田系の寝返り組み幹部達であった。いわば宮顕忠誠の証しとして、反対派弾圧の汚れ役をさせられたことになる。宮顕の巧妙老獪な操縦術であった。


【藤山外相渡米、日米安保条約改定交渉に入る】
 1958.9.11日、岸首相の意向を受け、藤山外相が渡米し、ダレス国務長官と安保改定の正式交渉に入った。10.4日条約改定のための第一回会談が開かれた。以降、59年いっぱい続けられ、60.1.6日の妥結まで公式に計25回、極秘裏におびただしい回数で会談が持たれ、丸1年3ヶ月にわたる長期の改定交渉が続けられることになる。

 安保条約の改定は、日本の独占支配層がその帝国主義的自立化に対応させて、アメリカとの政治的.軍事的関係を再調整し、より自立性を持つ形で同盟関係を結ぼうとする要求に基づくものであった。アメリカ側は、日本を極東の戦略的中心に据え、アジアでの対共産圏の基地にしようとはかっていた。この改定は、8年前の条約締結の単なる継続や再確認でなかった。

【全学連第12回臨時大会】
 この頃の学生運動につき、「第5期その1新左翼系=ブント・革共同系全学連の自律」に記す。

 「全学連代々木事件」とそれに伴う党の処分の結果、全学連指導部は、完全に党の統制を離れることを決意した。「全学連代々木事件」で除名された学生党員らと島成郎ら20名程度が中心になって、9.4−5日全学連第12回臨時大会を開いた。先の第11回大会での路線の明確化が目的であった。「平和擁護運動ではなく、戦争の根源である帝国主義を打倒することである。このためにはブロレタリアートの断固たる決起を促さなければならない」、「その中でただ一つ徹底的に闘いつつある日教組の勤評闘争を激発させ、ここに革命の突破口を開かねばならない」という基本方針を定めた。「非妥協的大衆阻止闘争、実力闘争が基本である」、「闘いが激化し泥沼の様相を帯びることを恐れてはならない」、「クラスから他クラスへ、一校から全市へ、全県へ、全国へ闘いをひろげよ」、「試験ボイコット、無期限ストライキによって闘いを続行させよ」云々のアジが為されたといわれている。

 反代々木系を明確にさせた全学連執行部(全学連主流派) は、「学生を労働者の同盟軍とする階級闘争の見地に立つ学生運動」への左展開を宣言した。「かかる右翼日和見主義が、現実の闘争の過程で理論的にも実践的にも完全に破産したことが、圧倒的多数の代議員によって確認された」。こうして、日本独占資本との対決を明確に宣言する等宮本執行部の押し進めようとする党の綱領路線との訣別を理論的にも鮮明にした。ここに日本共産党は、48年の全学連結成以来10年にわたって維持してきた全学連運動に対する指導権を失うこととなった。



 この後全学連主流派に結集する学生党員は、フラクションを結集し、機関紙「プロレタリヤ通信」を発刊して全国的組織化を進めていくことになった。第1号は山口一理、第2号は久慈二郎、3.4.5号は島成郎、第6号は姫岡怜治が執筆した。この時点で明確に共産党内における党内闘争に見切りをつけた全学連主流派のこの動きは、星宮をキャップとする革共同フラクションの動きと丁々発止で競り合いながら進行していた。革共同フラクションは、全学連人事に絡んで森田・香山を中央人事からはずせと主張していたようであり、こうした革共同の影響下で路線転換がなされた。




 この間全学連は、58.8.16日、和歌山で勤務評定阻止全国大会の盛り揚げに取り組んだことをはじめ9月頃「勤評闘争」に取り組んでいる。8.18日の勤評反対集会に右翼団体が殴りこみ、警官も襲い掛かり多数の負傷者を出している。全学連は40数名のオルグを送り込んでいた。9.15日 、「勤評粉砕第一波全国総決起集会」に参加し、東京では約4000名(以下、東京での闘いを基準とする)が文部省を包囲デモ。「勤評闘争」は、日教組・部落解放同盟・全学連・社会党(総評)・共産党の5者共闘で闘い抜かれた。




 9.25日、統一行動で、東京.日比谷公園の参加者は千数百名、デモ参加者は500名。停滞を見せている。




 10.7日、岸内閣は「警職法改正法案」を国会に上程した。




 10.9日、岸首相はアメリカの新聞記者に、「日本は台湾と南朝鮮が共産主義者に征服されるのを防ぐため、できるかぎりの準備をしなければならない。最大限の日米協力ができるような安保条約の改定を行う用意をしている。現在のままでは軍隊の海外派遣はできないから、憲法は改正されなければならない」と語った。


【警職法改悪反対闘争】
 10.8日、岸内閣が、警察官職務執行法警職法改悪を抜き打ち的に国会に上程してきた。「政府を取ってみて、警察をにぎっていないのは寂しい。戦前の政府は警察を握っていたので強い政治が出来た。今は公安委員会を通じての弱いもので全く困る」(10.25日付け東京新聞「岸首相、警職法を語る」)。

 左派勢力は、「警職法改正は、その次に予定されている安保条約改定に対する反対運動を弾圧するための準備であるとともに、民主主義を破壊して警察国家を再現しようとするものである」という位置付けから、安保反対闘争の前哨戦として、警職法改正反対闘争に入っていった。

 10.8日、共産党は幹部会、国会議員団声明で、「人民弾圧の治安警察法の復活−絶対に成立させるな」。社会党も、河野密国対委員長と成田知己総務局長が赤城官房長官に抗議し、「戦前の治安維持法の復活じゃないか。反動立法のさいたるものだ。政府が提出を強行するなら、社会党は今後一切、審議に応じられない」。

 10.9日、岸首相は、NBC放送記者ブラウンと会見して、「私は中共を非難する。彼等は侵略者である。‐‐‐最大限の日米協力ができるような安保条約の改定を行う用意をしている。しかし、憲法は改正されなければならない。何となれば、現在のところでは、我々は軍隊を海外に派遣することは禁ぜられているからである。‐‐‐憲法第9条(戦争放棄を規定したもの)を廃止する時期がきた」。

 10.10日、自民党の川島幹事長・村上勇国対委員長・社会党の浅沼書記長・河野国対委員長が四者会談したが、物別れに終わった。

 10.13日、自民党代議士会で、「警職法改正が実力で阻止されるかどうかは、日本の運命を決するもの」と発言。

 こうして、10−11月には警職法改正法案が突如国会に提出されてきたことを受けて、共産党、社会党、総評などの諸団体が一斉に反対闘争に立ち上がった。全学連も呼応し、非常事態を宣言、最大限の闘いを呼び掛けた。「ためらうことなくストライキに!国会への波状的大動員を、東京地評はゼネストを決定す、事態は一刻の猶予も許さない、主力を警職法阻止に集中せよ」と檄を飛ばした。この時社会党・ 総評など65団体による「警職法改悪反対国民会議」が生まれ、全学連もそのメンバーに入った。この時の学生運動は、全学連中央の指揮と共産党中央の指揮という二元化で共通の闘いを目指していたことに特徴があった。以降学生運動内にこの二元化が常態となる。

 この時社会党議員は左右両派を問わず委員長室占拠、自民党議員の強行入室拒否、篭城等々の手段で絶対法案阻止にうって一丸となった。鈴木委員長、浅沼書記長、片山哲、河上丈太郎、西尾末広、加藤勘十ら戦前からの闘士が一致して阻止戦線を構築していた。戦前の警察権力に対する国民的な嫌悪感も助けとなって盛り上がった。

 この頃の社会党の国会闘争の様子が次のように伝えられている。
 「国会は連日の実力阻止闘争で肉弾戦が闘われた。当時、その翌年の勤評反対闘争、さらに五八年の警職法反対闘争でも、社会党の国会議員は、今のような「絶対反対はしない」などというような腰抜けでなく、とくに戦前の運動経験をもつ御老体が先頭に立って院内で身体を張って“実力阻止”をしばしばくりひろげたのである。私は、このような雰囲気のなかで、二五歳という若さもあって、社会党秘書団の先頭に立って身体をぶっつけて闘った。そして私はこの実力闘争で目立つようになり、一時は自民党の代議士を殴ったという理由で、自民党の田村元という若い代議士が私を告訴しようとしたこともあった。この当時、実力戦の小休止の時間には、社会党の控室でじゅうたんの上に白墨で円を書き、秘書団のわれと思わん者たちが相撲をとったものである。この相撲のまわりには代議士や秘書団が群がり熱のこもった声援が飛んだ。そして、当時の社会党秘書団といえば団結カの強いことで有名であり、国会内の衛士は秘書団一〇名に対して三〇名の衛士で対決しても散を乱して逃げることがしばしばであった。自民党の日当で雇われた浅草あたりの暴力団などは社会党の秘書団の前では団結力がないため絶えず蹴ちらされていた。このような戦闘性を含んだ社会党は六〇年安保に至るまで強烈な“セックス・アッピール”があったのである」(高見圭司「55年入党から67年に至る歩み」。

 10.18日、社会党は中央委員会を開いて、警職法反対の全国的闘争方針を決定した。

 10.13日、社会党.総評.全労.全日農が「警職法改悪反対国民会議」を結成。共産党は排除された。但し、中央では社.共の対立が見られたものの、地方では40近い府県で共闘組織が結成され、警職法闘争は大衆闘争の予想以上の盛り上がりを見せていくことになった。

【警職法改悪反対闘争時の共産党中央の変調指導】
 この時の共産党は変調であった。全学連指導部を「跳ね上がりのトロツキスト」と罵倒していくことになった。10.21日、「学生運動における極左的傾向と学生党員の思想問題」を発表して、一連の学生党員の動きと思想を批判している。この論文でかどうかは不明であるが、(恐らく宮顕の)「跳ね上がり」者に対する次のような発言が残されている。

 「今日の大衆の生活感情や意識などを無視して、自分では正しいと判断して活動しているが、実際には自分の好みで、いい気になって党活動をすること、大衆の動向や社会状態 を見るのに、自分の都合のいい面だけを見て、都合の悪い否定的な面を見ず一面的な判断で党活動をすること、こうした傾向は大衆から嫌われ、軽蔑され、善意な大衆にはとてもついていけないという気持ちをもたせることになる」。
 (ボソボソ)云おうとしていることは判るが、自己を超然とした高みに置いた宮本らしい品の無い論法であろう。「自分の好み」の運動の連動こそ自然でパワーになるのではないのかなぁ。誰しも「自分の好み」から逃れること が出来ないように思うけど。それと、相手を「一面的な判断」呼ばわりするには、己が「全面的な判断」を為し得る者である事を立証せねばならぬのではないのか。それに、「善意な大衆」という物言いは何なんだ。そういう言い方でのエリート臭が嫌らしく鼻持ちならない。

 共産党は、10.23日、アカハタで「安保条約破棄は当面の闘争の重要な環」と主張しつつ「地評は共闘を警職法闘争に利用している」と批判している。大衆が警職法闘争に立ち上がっているときに、こういうことをいいふらすのは、警職法闘争放棄の要求以外の何ものでもなかった。労働者からは「共産党は遂に民同と結婚してしまった」と嘆かれた。



 10.24日、総評が警職法反対闘争の臨時大会を開いた。

 10.25日、総評.全労.中立労連などが警察官職務執行法改悪反対で統一行動。約60万人の大衆が参加した。

 10.28日、総評は第三次統一行動。警職法反対と勤務評定反対を統一要求に掲げていた。東京では4会場に分かれて、「警職法改悪粉砕.民主主義擁護、日中関係打開、生活と権利を守る国民中央集会」。中央集会には8万の労学、四谷会場には労1万、全学連2万が結集。こうして岸内閣は次第に危機に追い込まれていった。


 10.28日、「警職法阻止全国学生総決起集会」に取り組み、労・学4万5000名が結集しデモ。

【川上丈太郎の衆院予算委員会での「岸君に訴う」演説】
 10.29日、川上丈太郎が衆院予算委員会で「岸君に訴う」演説を行っている。

 要約概要「私はこの戦争の責任者の一人として岸君に心から訴えたいことは、あれだの戦争をさせた、そうして日本の国内及び国外に非常な迷惑をかけたこの事実を私は忘れては相成らぬと考えておる。この誤りを再びさせないといういうことが、戦争に責任を持てる人の態度でなければならぬ。私は、深刻にその問題を岸君に訴えたい。そう考えてみて、静かに岸君の政治の姿を拝見しますと、岸君の政治の全体というものは、戦争前の世の中に日本を戻そうという意図のもとに動いているとしか解釈できない。私は、戦争によって大きな犠牲を払うたけれども、今日の日本の憲法を持ったことによって日本は救われたと考えている。従って、戦争の責任者としては、この憲法を守り通していくことが、政治的責任者の立場である、こう考えている。そういう意味において、憲法を守り通していくことが、私の過去において犯した過失をお詫びするものだと信じている。私が岸君にお願いしたいことは、この精神を岸君が忘れては相成らぬということである」。



 10月、小中学校の学習指導要領を全面改訂。国旗掲揚と君が代斉唱が初めて盛り込まれる。


【アカハタが「学生運動にもぐりこんだ挑発者と闘え」発表、法政大学第一細胞の反論】
 11.3日、党は、アカハタに「学生運動にもぐりこんだ挑発者と闘え」を発表している。この論文で批判されていた法政大学第一細胞は、次のような見解を表明している。
 「殊に、日本共産党が1950年の分派闘争以来、常に反対派を抹殺し、組織的に排除される為に使われてきた『トロツキスト』という言葉が、我々に対しても又も投げつけられていることには驚きと悲しみ以外の感情を以って対することしか出来ない」、「日本共産党に徴して見る限り、トロツキストなる言葉が使われた場合、その言葉を投げかけた側がその相手と意見を異にしており、そして相手を憎悪しており、その相手を組織的に排除せんとしているということを意味する以外の何物でもなく、1905年、1917年ロシア第一.第二革命の際にペテログラード.ソビエト議長として革命を闘い、10年後には追放されたレオン.トロツキーの思想とは何ら関係なく使用されているようである」。



 11.4日、政府自民党は会期を延長して警職法の通過を狙った。


【警職法阻止闘争の発展】
 11.5日、警職法阻止闘争は全国ゼネストに発展し、全学連4000名が国会前に座り込んだ。1万余の学生と、労働者が国会を包囲した。全国で450万人の労働者がなだれ込み、全学連は全国63都市で40万を動員した。野坂議長が、警職法粉砕労働者の大統一行動日に当たり激励の談話をアカハタに発表。驚くほどの速度で盛り上がった大衆運動によって、自民党は一ヶ月後に法案採決強行を断念した。この闘争過程は、この時の経験が以降 「国会へ国会へ」と向かわせる闘争の流れをつくった点で大きな意味を持つことになった。

 付言すれば、この時島氏は、宮顕党中央の変調を鋭く指摘している。
 「警職法提出の10.7日、社会党、総評、全学連らがこぞって反対声明を発し戦いの態勢を整えているそのときに『アカハタの滞納金の一掃』を訴え、一日遅れて漸く声明を出した」、「反動勢力が全学連の指導する学生運動の革命的影響が勤評闘争.研修会ボイコット闘争などにおいて労働者階級に波及するのを恐れて、この攻撃に集中しているその最中、全労、新産別らのブルジョアジーの手先の部分の攻撃と期を一にするかの如く、代々木の中央は、『全学連退治』に乗り出し、この革命的部分を敵に売り渡すのに一役買っている」、「何時も後からのこのこついて来て、『諸君の闘争を支持する』とかよわく叫ぶだけだ」、概要「戦いの高揚期にきまって、『一部のセクト的動機がある』だの、『闘争を分裂させるものであって強化するものではない』などといい、全労.新産別らの自民党の手先に呼応している」。



 12.11日の閣議で廃案に追い込んでいくことになる。52年春の破防法反対闘争を乗り越える画期的成果であった。




 11.12日、社会党の臨時大会。


【「第3中総」を開催、「3本足式党建設」方式の定式化】
 11.20−23日、「第3中総」を開いた。この会議で、党中央は、「党生活の確立と党勢拡大の運動」の決議を行い、一般の党員に対して、「@.細胞会議を定期的に開く、A.全党員がアカハタを読む、B.党費と党機関誌代を完納する」という三つの目標(党生活3原則)を掲げた。大衆闘争の実践と全く切り離して「党勢拡大」と「中央への団結の維持」に熱中していく宮本独特の党建設方式が、この「第3中総」において確定され、組織的に発足した。

 安保改定の本質を暴露し安保改定反対の意義を明確にした。「(安保改定交渉が)戦争と従属の体制であるサンフランシスコ体制の本質が維持されるだけでなく、特に軍事的にはアメリカの戦略体制に一層堅く結びつけられる」危険な方向を目指しているとして、その本質を暴露し、安保改定反対の視点を明確にした。
 
 アカハタ日曜版の発行を決定。

【「日本共産主義者同盟」(ブント)を結成】
 この頃の学生運動につき、「第5期その1新左翼系=ブント・革共同系全学連の自律」に記す。

 12.10日、先に除名された全学連指導部の学生党員たちの全国のフラク・メ ンバー約45名(全学連主流派)が中心になって、55年以降続けてきた党内の闘いに終止符を打ち、新しい革命前衛党を建設するとして日本共産主義者同盟(共産同またはブントとも言う)を結成した。ここに、先行した「純」トロッキスト系革共同と並んで、「準」トロッキスト系ブン トという反代々木系左翼の二大潮流が揃い踏みすることになった。この流れが新左翼又は極左・過激派と言われることになる源流である。この両「純」・ 「準」トロッキスト系は、反日共系左翼を標榜することでは共通していたが、それだけに反日共系の本流をめぐって激しい主導権争いしていくことになった。

 その学生組織として社会主義学生同盟(社学同)の結成も確認されたようである。古賀(東大卒)と小泉(早大)の議長の下で議事が進行していき、島氏がブント書記長に選ばれ、書記局員には、島・森田・古賀・片山・青木の5名が選出された。島氏は、翌日開かれた全学連大会で学連指導部から退き、ブン トの組織創成に専念することになった。学生党員たちに党から分離してブントへ結集していくよう強く促していくことになった。他に門松暁鐘、富岡倍雄、山口一理、佐久間元、今も 中核派指導部にいる北小路敏、清水丈夫らがいることが注目される。北海道からも灰谷・唐牛ら5名が参加している。

 なお、この後療養中であった生田浩二が戦線に復帰してくることになり、ブン トは島書記長−生田事務局長指導部の下で担われていくことになる。このことの意味は次のことにある。通常ブン トはかっての国際派系譜で誕生したと見なされているが、そういう見方は正確ではないということになる。生田はかってのバリバリの所感派学生党員であり、もと東大自治会中央委議長であった。してみればブン トとは、所感派と国際派の急進主義部分のエッセンス的な結合として誕生していたとみなさねばならないということになるであろう。なお、いかにもブント的であるが、この時革共同メンバーも参加している。

 ちなみに、ブント(BUNT)とは ドイツ語で同盟の意味であり、党=パルタイに対する反語としての気持ちが込められているようである。「組織の前に綱領を!行動の前に綱領! 全くの小ブルジョアイデオロギーにすぎない。日々生起する階級闘争の課題にこたえつつ闘争を組織し、その実践の火の試練の中で真実の綱領を作り上げねばなら ぬ」(新左翼の20年史)と宣言し、新左翼党派結成を目指すことになった。

 茨城県委員大池文雄ら除名

【全学連第13回大会】
 12.13−15日、全学連第13回大会が開かれた。こうして58年は一年に3回も全学連大会が開かれることになった。この大会で、学生運動の性格を「学生運動は労働者階級の同盟軍として、いかにして労働者階級を革命闘争に決起させるかという観点から運動方針を立てるべきであって、その結果中間層である学生の間に分化が起こるのは当然であって、これに動揺して統一しようとしてはならない」と規定し直した。人事が最後まで難航したが、塩川喜信委員長、土屋書記長、清水書記次長、青木情宣部長となった。革共同系とブント系が指導部を争った結果、革共同系が中枢を押さえ、革共同の指導権が確立された大会であったとされている。ブントには革共同系の学生が多数組織的に潜入していたということであるが、こうして、この時革共同が委員長、副委員長、書記長などの三役を独占した(氏名が今一つ不明)。当時、革共同メンバーは同時にブントにも参加していたということでもあった。このことは、革共同の全学連への影響力が強まり、この時点で指導部を掌握するまでに至ったことを意味している。そのため、全学連指導部の内部で「純ブント」 と「革共同」の対立という新たな派閥抗争が発生することとなった。

 
その後も革共同系とブント系は運動論や革命路線論をめぐっての対立を発生させ、指導権を争っていくことになった。が、その後の史実から見て、多くの学生はブントを支持し流れていったようである。事実は、ブントが革共同系の追い出しを図ったということでもあると思われる。なお、この時の議案は、革共同のかねてからの主張であった「安保改定= 日本帝国主義の地位の確立→海外市場への割り込み、激化→必然的に国内の合理化の進行」という把握による「反合理化=反安保」で安保闘争を位置づけていたとのことである。ただし、こうした革共同理論に基づく長たらしい「反合理化闘争的安保闘争論」は、この当時の急進主義的学生活動家の気分にフィットせず、むしろ、安保そのもので闘おうとするブントの主張の方に共感が生まれ受け入れられていくことになったようである。ブントは、革共同的安保の捉え方を「経済主義」、「反合理化闘争への一面化」とみなし、「安保粉砕、日本帝国主義打倒」を正面からの政治闘争として位置づけていくことを主張していた。

 「ブント−社学同」の思想の背景にあったものは、日本共産党が日本の革命的政治を担うことができないと断じ、これに代わる「労働者階級の新しい真の前衛組織」の創出であった。こういう観点から、学生運動を労働運動との先駆的同盟軍として位置づけることになった。党の「民族解放民主革命の理論」 (アメリカ帝国主義からの日本民族の解放をしてから社会主義革命という二段 階革命論)に基づく「民主主義革命路線」に対して、明確に「社会主義革命路線」を掲げていた。代々木官僚に反旗を翻しただけでなく、本家のソ連・中国 共産党をスターリン主義と断罪、その打倒を掲げ、「全世界を獲得せよ」と宣言していた。革共同の思想的影響の取り込みが見られる。これを図式化すれば 次のようになり、党の綱領路線とことごとく対立していたことが判る。平和共存・一国社会主義→世界永続革命、二段階革命→一段階社会主義革命、議会主義→プロレタリア独裁、平和革命→暴力革命、スターリン主義→レーニン主義の復権。 

 この頃ブントを率いる島氏の回りに次第に人材が寄ってくることになった。香村正雄(東大経済卒、現公認会計士)、古賀康正(東大農卒、現農学者)、鈴木啓一(東大文卒、現森茂)、樺美智子(東大文、安保闘争で死亡)、倉石庸、 少し後から多田靖・常木守等が常駐化したようである。2.15日機関紙「共産主義」が創刊された。論客として、佐伯(東大卒、山口一理論文執筆他)、青木昌彦(東大卒、現経済学者、姫岡論文執筆)、片山○夫(早大卒、現会社 役員)、生田浩二、大瀬振、陶山健一。

【日共のブント批判】
 この時期の党の青年運動組織への指導ぶりは次のようなものであった。全学連のブント化の動きに対して12.25日党は幹部会を開催し、幹部会声明で「学生運動内に巣くう極左日和見主義反党分派を粉砕せよ」と全学連指導部の極左主義とトロキッズムの打倒を公言した。ブント結成後旬日も経たないうちの12.25.27日付け「アカハタ」 紙上の一面トップ全段抜きでこの幹部会声明を掲載した。この時「島他7名の除名について」 も合わせて報ぜられた。こうして党は、社学同を排撃し、一方で党中央委員会の査問を開始し、正月と共に全国の学生細胞に直接中央委員などをさし向け、一斉弾圧を策した。他方で、民青同学生班を強化育成していくこととなった。

【木村愛二氏の証言】
 この頃のことと思われるが、「1960年安保40周年、ロフトプラス1で回顧座談」で次のように木村愛二氏が伝えている。貴重と思われるので記す。

 「私の学生時代の文学部の同窓生で1960年安保闘争の死者、樺美智子は、当時の東大学生細胞がハンガリー動乱におけるソ連の武力干渉を批判した経過の中で、日本共産党から除名されたグループの一員だった。この経過が、今なお続く全学連の分裂につながる。その後、日本共産党中央委員会の方が、歯切れは悪いが、ともかく、スターリン批判に転じ、ハンガリー動乱におけるソ連の武力干渉についての当時の見解を修正した。その時に初めて、当時は「ノンポリ」の私は、樺美智子らの除名の政治的経過を知ったのである。

 上記のチャウシェスク問題の最終段階で、ふと、この「除名の政治的経過」を聞いたところ、同席していた中央委員の一人が、私の質問に答えて、樺美智子らが属していた東大細胞の一団が代々木本部に来て、揉めた時のことを言い出した。簡単に言えば「ここで暴力を振るった」というのだが、私が、「若いのが怒れば手ぐらい出るだろ。誰が手を出したのか。誰か怪我でもしたのか」と聞くと、それには返事がない。まるで具体的ではない。誰かが手を出したから、しめたとばかりに、まるごと除名処分して片付けたという感じだった。いずれにしても、警察に届けたわけではないから、何の公式記録もない。ともかく、些細な衝突を根拠に、その後の経過から見れば、当時は正しい主張をしていた方の若者のグループが、まるごと日本共産党から排除され、しかも、以後どころか、私も直接その姿を見ている樺美智子の場合には、国会の構内で警察官の軍靴と同様の固い靴で蹴り殺され、車の下に蹴り込まれていたというのに、死後にも「トロッキスト」呼ばわりされ続けているのである」。

【反岸派が「党刷新懇話会」を結成】
 政府与党内部の対立は尾を引き、反主流派は「党刷新懇話会」を結成した。

 12.27日、池田勇人国務相・三木武夫経企庁長官・灘尾弘吉文相の三閣僚が辞表を提出して閣外に去った。

 「このとき、岸政権は佐藤、河野、大野派を主流としており、池田、石井、三木派は反主流の立場にあった。警職法改正に失敗した岸に対して、反主流派は揺さぶりにでた。池田国務大臣、三木経済企画庁長官、石井派の重鎮灘尾弘吉文部大臣が辞職して閣外に出たのである。反主流派の造反にあって、岸政権の党内基盤は一気に弱まった」(「自民党派閥の歴史」)。

【「中ソ秘密会談】
 フルシチョフと毛沢東が秘密会談。この時、フルシチョフが中国全土に対し、レーダー基地を設けたいと提案、これに対し毛沢東は、「ソ連がレーダー基地や設備の設計図を渡してくれれば、我々の手で作り、維持していく。ソ連の領土はソ連が守り、中国の領土は中国が守る。そのソ連と中国が手を結んでいく。これでアメリカ帝国主義にも共同で闘っていけるのではないのか」。こうして国際共産主義運動の二元指導部内に亀裂が入った。












(私論.私見)