【1957年当時の主なできごと】
「50年問題について」発表され、採択される。

 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和元/栄和3).5.28日

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第4期、全学連の再建期、新左翼(トロツキズム)の潮流発生、ブント系全学連の誕生」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2002.10.20日 れんだいこ拝


1.2 第10回中央委員会総会開催。組織活動の実践目標討議、決定。
【志田派の巻き返し】  56年末から翌57年の冬に及ぶ頃、志田派の巻き返しが現れた。「志田新党」.「民族共産党」.「第2共産党」などの報道が流れ始め、「志田テーゼ」なる秘密文書が党内.一般の新聞.雑誌でも一斉に報じられ出した。
1.16 労農党、社会党との統一を決定。
1.21 「第10回中総」。文化運動方針案、組織活動の実践目標について討議。
1月 この頃、群馬県相馬が原米軍演習場で生やっきょう拾いをしていた主婦が射殺された「ジラード事件」が発生した。米軍基地反対闘争はピークに達した。
1.25 石橋首相が老人性急性肺炎で倒れたことにより瓦解することとなった。
1.30 ジラード事件発生。
1.31 石橋首相病気のため、後継として岸外相を首相臨時代理に指名、2.4日の施政方針演説も岸が行った。
2月 共産党.大沢「前衛」に初のスターリン批判。
2月 【反日共系左翼の誕生】浦和付近の青年たちによって2月頃「現状分析研究会」が誕生しその機関誌「現状分析」が発刊された。
2.13 石橋内閣総辞職(石橋病気の為→野人宰相=63日間の無念)。
2.22 石橋首相退陣表明。2.23日石橋内閣総辞職。
2.25 【第一次岸内閣成立】衆参両院本会議で岸が首相に任命された。こうして岸内閣が組閣された。 A級戦犯容疑者であった岸が首班となった。「巣鴨組」には重光、賀屋興宣らがいるが、岸だけが首相の座についたことになる。アメリカからは「防衛力の強化」が要望されていた。岸は、「対等の日米関係の構築」を目指すことになった。しかし、こうした意向を受けた岸の努力は、敗戦醒めやらぬ国民の反軍事感情と齟齬していくことになった。岸内閣は、日本の自主性や平等化等民族独立的要求を掲げる一方でサ体制の再編強化の道を推進した。(閣僚全員留任、第3代自民党総裁に岸信介就任)
3月 東大細胞による機関誌「マルクス.レーニン主義」.大池文雄を中心に少数の同志たちで「批評」が発行された。
3.9 【「第2回東京都党会議」開催、紛糾する 】「六全協」以後の中央の指導に対する批判と追求の場に転じた。旧中央の分裂.腐敗.極左冒険主義に対する責任問題について増田.武井.安東.片山.野田.芝.高山.西尾.山本.志摩らの反対分子が。中央を代表して出席した野坂.宮本.春日(正)らは、壇上で立ち往生させられた。都委員会選挙が行われ、宮本の強引な介入を排して、武井昭夫が都委員に選ばれた。19名中10名が批判分子で占め、その後に芝寛を都書記に選んだ。決議案も党指導部への批判や官僚主義への反対を強く打ち出した。宮本は、「中央の認めない決議は無効だ」とした。
3.11 「第11回中総」。
3月 共産党.北京・党学校閉鎖。
4月 春日(正)は大沢.武井等を非難し、党内革新の進行を抑制する。
4.26 中央委員会、「岸内閣の政策と我が党の基本的態度」を発表。
4.30 アカハタ主張で、「サンフランシスコ体制打破のために」を発表。
5.21 「第12回中総」。志田重男を除名処分取り扱い決定(7党大会で確認)。  
6.3 全学連第10回大会。この時は宮本式「平和、独立、民主を目指す国民戦線の幅広い統一の為に!」スローガンの枠にあった。
6.19 岸首相、「安保条約の再検討」の構想を抱いて渡米、アイゼンハワー大統領と会談。
6.21 日米首脳会談=日米共同声明→「日米新時代」へ。日米共同声明を発して帰国、同時に内閣改造して岸体制を確立し、日米新時代と称せられる第一歩を踏み出した。
6.19 ワシントンで岸.アイゼンハワー会談
6.22 常任幹部会、声明日米共同声明についてを発表。
6.27 再び砂川町で強制測量。
6.29 日ソ親善協会を日ソ協会と改称。
7月 常任幹部会は志田派の策動への闘争を呼びかけ、その後志田派の活動低調となる。
7.8 農民.労働者.学生ら警官隊と衝突。
7月 北京機関の指導部・袴田、河田賢治、帰国。
8.13 内閣に憲法調査会設置
8.20 「第13中総」で、「第7回党大会」に備えて、機構改編と中央人事の補充を行った。志田.椎野の欠員補充として、中委候補の米原と伊井が引き上げられ、書記局は改編されて、野坂第一書記.宮本.紺野.袴田.竹中.岡田.松本一三.米原.伊井の9名が書記局員となった。統制委員も同時に改編されて、春日(正)議長.蔵原.岩林虎之助.寺田貢の4名となった。
9.4 第13回拡大中委。第7回党大会の開催日、議事等々決定。  
9月 共産党が「日本共産党党章草案」発表、大会討論が開始された。
9.15 常任幹部会が、綱領問題の討議を組織する為前衛の別冊として「団結と前進」を発行することが決定され発刊された。
9.17 常任幹部会、アメリカのエニウェトクでの原爆実験計画に抗議声明を発表した。
9.22 砂川闘争で刑事特別法違反を口実に23名検挙される。常任幹部会、砂川闘争参加者23名の検挙に抗議声明を発表した。
9.22 【「党章草案」の発表と論争】「第14中総」で、綱領草案が「日本共産党党章草案」(以下「党章草案」と記す)の名で審議.採択され、先例を破って9.29日先に新聞記者団に発表された。翌日9.30日のアカハタと同号外にて、関連した「綱領問題について」.「党章草案の発表に当たって」の2文書と共に、全党に初めて提示された。「党章草案」の中に含まれている「規約改正草案」も発表された。前衛11月号にも発表された。  
9月 社会党は、ソ連・東欧使節団を送った。元首相片山哲を団長とする9名の一行がモスクワ、イルクーツク、キエフなどを訪問し、フルシチョフ、ミコヤン、スースロフなどソ連首脳陣より歓待を受けた。 
9.28 社会党は、訪米使節団を送った。河上丈太郎を団長とする一行が約1ヶ月にわたり精力的に米国各地を回り、政界、学界、言論界、労働団体、宗教団体の人々と会談を重ねた。
10.1 綱領問題、「50年問題」などで、全党の民主的討議を活発化させる特別の討論紙誌「団結と前進」第1集が発行された。翌58.7.1日の第5集まで都合5回発行された。
10月 黒田寛一を中心に学生.労働者.インテリ層で「弁証法研究会」がつくられその機関誌「探求」が発行された。この黒田や西京司とトロッキー主義によるレーニン主義の継承と発展をめざす太田竜(栗原登一)らで「日本トロッキスト連盟」とその機関紙「第4インターナショナル」が発足した。この流れが後に「日本革命的共産主義者同盟」となっていった。「純トロッキスト系」とも呼ばれ、後に誕生する共産同を「準トロッキスト系」として区別されることになる。
10月 【「党章草案」批判 】東京都委員会は、発表された「党章草案」に対し噛みついた。これをきっかけに全党に「党章草案」をめぐる論争が展開された。
10.26 【「第15回拡大中総」が開催 】第7回党大会の中央委員会政治報告要旨が採択された。この総会で、旧中央徳田系中央委員「自己批判」迫られた。「50年問題について」採択、発表された。
10.29 社会主義革命40周年記念祝典の機会に、モスクワにおいて「64カ国の世界共産党.労働者党会議」が開かれことになり、党代表団として団長志賀.団員蔵原が出席することになった。
11.3 スプートニク2号打ち上げ。ライカ犬が宇宙旅行。
11.6 全学連全国書記会議。注目されることは、「全学連通信」で、「第一に、日本平和運動の中に岸政府に対する甘い評価があり、この政府の政策と真っ向から対立しようとしない傾向があることを指摘し、次に、労働運動の内部にある低姿勢論と『幅広闘争主義』が闘争を沈滞させている」と批判が為されていた。
11.16 モスクワで社会主義革命40周年祝典。志賀、蔵原が初の国際会議出席。「64カ国共産党.労働者党会議」に訪ソ中の党代表団が参加し、「12カ国モスクワ宣言」発表された。平和の呼びかけが採択された。このころ、志賀、宮本書記長批判などソ連への内通開始とある(94年党史年表)。
11.5 第7回大会への政治報告と「50年問題について」の総括文書を発表。
11.29 常任幹部会、「12カ国モスクワ宣言」と「64カ国の平和の呼びかけ」の二つの文書を支持する決議を発表。
12.6 労農党解党大会、社会党との統一を決定。
12.9 書記局名で、第7回党大会を目標に機関紙拡大、代金回収を呼びかける。
12.19 第16回拡大中総。10月社会主義革命40周年記念式典参加について志賀が報告。
12.20 第7回党大会の準備態勢強化の為全国書記会議が開かれた。
12末 共産党.ブント結成のひそやかな活動は、57年の末から始まっていた。


【志田派の巻き返し】
 56年末から翌57年の冬に及ぶ頃、志田派の巻き返しが現れた。「志田新党」.「民族共産党」.「第2共産党」などの報道が流れ始め、「志田テーゼ」なる秘密文書が党内.一般の新聞.雑誌でも一斉に報じられ出した。「規律問題で同志を葬るのは官僚主義.封建主義である」、「われわれは志田問題を戦略戦術の問題で公然論争することを望む」と呼びかけていた。「六全協」以降国際派の頭目宮顕グループにより党の機関運営が掌握されつつある事態に対しての、旧徳球派執行部−志田系による中央奪還を狙っての巻き返しであった。

 この動きは春から夏にかけて、近畿.四国.関東.北海道など旧主流派の強かった地域で活発となった。「六全協」以後の冷や飯組をくらった旧主流派が呼応する動きを見せた。しかし、新執行部による処置と新党の動き自体の内部崩壊にあって壊滅した。
(私論.私観) 「志田派の巻き返し」について
 れんだいこ史観によると、志田も結構胡散臭い。それを思えば、この時期反宮顕運動が志田派によって担われたのが茶番のような気がする。

 1.8日、自民党大会で、石橋首相は、「我が『五つの誓い』」を発表している。「我が『五つの誓い』」とは、@・国会運営の正常化、A・政界・官界の綱紀粛正、B・雇用と生産の増加、C・福祉国家の建設、D・世界平和の確立。
【社会党第13回大会】
 「かっての第4回大会(鈴木茂三郎書記長の登場と左派路線の確立)に匹敵する大会」となった。この時社会党は、「自社二大政党」時代を背景にして議会主義的な政権交代・奪取に向かうのか、革命闘争を目指す階級闘争で揺さぶりをかけていくのかの岐路に立っていた。この次期、総評は大田・岩井時代に入っており、初めて春闘方式を編み出して高揚期にあった。立川基地拡張反対闘争(砂川闘争)が激しく闘われ、学生運動と労組の連帯が生まれ始めていた。執行部は、「二大政党時代下において政権交代能力のある党づくりを目指す」方針を提案したが、修正案は、「議会主義的な偏向であり、大衆闘争を重視すべきである」と対案を出した。

 1.30日、ジラード事件発生。群馬県の相馬ケ原の米演習場で、ジラードという米兵が演習場内に入り込んで薬きょう探し(売って生活の足しにする)をしていた農婦を誘引し、銃に備え付けの手榴弾発射装置に空の薬きょうを詰めて発射し、死亡させるという事件を起こした。
【石橋首相病に倒れる】
 1.25日、56.12.23日に組閣された石橋内閣は、石橋首相が首相就任からわずか1ヶ月あまりで老人性急性肺炎で倒れた。
 「私は新内閣の首相として、最も重要である予算審議に出席できないことが明らかになりました以上は、首相としての進退を決すべきだと考えました。私の政治的良心に従います」。

 この声明により、石橋内閣は瓦解することとなった。僅か2ヶ月の悲劇の宰相となった。

【岸内閣成立】
 56.12.23日に組閣された石橋内閣は、首相就任からわずか1ヶ月あまりの57.1.25日、石橋首相が老人性急性肺炎で倒れたことにより瓦解することとなった。

 1.31日、後継として岸外相を首相臨時代理に指名、2.4日の施政方針演説も岸が行った。2.22日、退陣表明。2.23日、石橋内閣総辞職。

 2.25日、衆参両院本会議で岸が首相に任命された。こうして第一次岸内閣が組閣された。閣僚はそのまま引き継がれ、岸は外相を兼任する。官房長官・石田博英。7.10日に第一次改造されることになる。

 A級戦犯容疑者であった岸が首班となった。「巣鴨組」には重光、賀屋興宣らがいるが、岸だけが首相の座についたことになる。岸の経歴は、戦前の商工省出身の所謂「新官僚」として満州国の建国・経営に携わり、東条英機などと並んで同じく満州で名をあげた「2キ3スケ」の1人に挙げられたほどの有名人であった。「2キ」とは、東条英機(満州事変後の関東軍憲兵司令官、のちに開戦時の内閣総理大臣となる)と星野直樹(内閣書記官長)を云う。「3スケ」とは、松岡洋右(近衛内閣の外務大臣)、鮎川義介(満州重工業などを通じて軍部と提携して満州開発を主導した実業家)そして岸信介(満州国・実務部次長)を指し、日本の大陸政策を代表した中心的人物を云う。岸はA級戦犯として収容された巣鴨プリズンから釈放されて8年2ヶ月、代議士になってから僅か3年10ヶ月で権力の頂点に立つことになった。時に60歳、まさに還暦に不死鳥の如く蘇り、「昭和の妖怪」と綽名されていくことになる。

 「戦時のことは十分反省して、今日では民主政治家として充分国民のために働く覚悟である」と声明している。アメリカからは「防衛力の強化」が要望されていた。岸は、「対等の日米関係の構築」を目指すことになった。しかし、こうした意向を受けた岸の努力は、敗戦醒めやらぬ国民の反軍事感情と齟齬していくことになった。岸内閣は、日本の自主性や平等化等民族独立的要求を掲げる一方でサ体制の再編強化の道を推進した。

 この岸の功罪を巡って賛否がある。安保の改定は、それ自身は旧安保に対する改善であった。よく池田と比較してこうも言われる。池田を好む者は、彼のソツのあることを誉め、岸を嫌うものは彼のソツの無さを嫌う。「あばたもえくぼ」か「坊主にくけりゃ袈裟まで」か。

 この間の2.1日、佐藤栄作が自民党に復党している。

 3.21日、自民党が第4回党大会を開き、総裁公選で岸信介が第3代自民党総裁に選出される。岸信介(471)、松村謙三(2)、石井光次郎、北村徳太郎(1)、無効(1)。

【スターリン批判の動きについて】
 1月、前衛2月号で、東北地方委員会書記・大沢久明の「スターリン批判を進めよう」論文が掲載された。彼は、冒頭で概要「この1年間のスターリン批判の経緯が示すものは、『触らぬ神に祟りなし』といいたくなる有様であり、世界各国の党の中で公然と党の機関で批判を明らかにしないのは、日本の党とほか一国あるのみと聞いている」と不満をぶつけていた。大沢は、同年10月号でも「全国の共産主義者の結集」と題した論文をものしている。党がスターリン批判を正面に据えた論稿を掲載したのはこの二つの大沢論文だけとなった。

【反日共系新左翼潮流の誕生】
 この頃の学生運動につき、「第4期・全学連の再建期、新左翼(トロツキズム)の潮流発生、ブント系全学連の誕生」に記す。

 このような背景から57年頃様々な反日共系左翼が誕生することとなった。これを一応新左翼と称することにする。新左翼が目指したのは、ほぼ共通してス ターリン主義によって汚染される以前の国際共産主義運動への回帰であり、 必然的にスターリンと対立していたトロツキーの再評価へと向かうことになった。

 この間の国際共産主義運動において、トロツキズムは鬼門筋として封印されていた。つまり一種禁断の木の実であった。スターリン政治の全的否定が相応しいのかどうか別にして、スターリンならではの影響として考えられることに、党内外の強権的支配手法と、国際共産主義運動の「ソ連邦を共産主義の祖国とする防衛運動」へのねじ曲げが認められる。戦後の左翼運動のこの当時に於いて、スターリン主義のこの部分がにわかにクローズアップされてくることになった。 特に、スターリン流「祖国防衛運動」に対置されるトロツキーの「永久革命論」 (パーマネント・レボリューション)が脚光を浴び、席巻していくこととなった。
 【トロツキー概略伝】

 
トロツキーを最簡略に紹介すれば、「トロツキーというのはロシア革命でスターリンとの政争で破れ、亡命先のメキシコでスターリンの刺客に暗殺された革命家である。当時の共産主義運動ではトロツキーは反革命的とされ、反革命分子を『トロツキスト』呼ばわりした」とある。ところで、スターリンとトロツキーの評価に関係するレーニンの遺書は次のよ うに記されている。この遺書は、クループスカヤ夫人が1924年5月の第13回ソ連共産党大会の際に中央委員会書記局に提出した文書とのことである。
 「同志スターリンは、書記長として恐るべき権力をその手中に集めているが、 予は、彼が、その権力を、必要な慎重さで使うことを知っているかどうか疑う… 。一方、同志トロツキーは、ずばぬけて賢い。彼は確かに中央委員中で最も賢い男だ。さらに彼は、自己の価値を知っており、また国家経済の行政的方面に関して完全に理解している。委員会におけるこの二人の重要な指導者の紛争は、突然に不測の分裂を来すかも知れない」(1922.12.25)、
 「スターリンは、あまりに粗暴である。この欠点は、我々共産党員の間では、全く差し支えないものであるが、書記長の任務を果たす上では、許容しがたい欠陥である。それゆえ、私は、スターリンを、この地位から除いて、もっと忍耐強く、 もっと忠実な、もっと洗練され、同志に対してもっと親切で、むら気の少ない、 彼よりもより優れた他の人物を、書記長の地位に充てることを提案する。これは些細なことのように思われるかも知れないが、分裂を防止する見地からいって、かつ、既に述べているスターリンとトロツキーの関係からいって些細なことではない。将来、決定的意義を持つことになるかもしれない」(1923.1.4)。
 その他「同志スターリンが党書記長として慎重に広大な権力を行使できるかどうか、私には確信が持てない」。

 不幸にしてレーニンのこの心配は的中することとなった。レーニンの死後、この二人の対立が激化した結果、遂にトロツキーが敗北し、スターリンが権力を握ることとなった。勝利したスターリン派は、トロツキー派を「帝国主義の手先」として排撃していくこととなった。こうしてその後の国際共産主義運動は、スターリンの指導により担われていくことになった。

【「日本トロツキスト連盟」結成への動き】
 この頃の学生運動につき、「第4期・全学連の再建期、新左翼(トロツキズム)の潮流発生、ブント系全学連の誕生」に記す。

 1.27日、この主流がわが国における最初となった日本トロツキスト運動を生み出すこととなった。まず、この当時思想的に近接していた黒田寛一や内田英世と太田竜らで日本トロッキスト連盟とその機関紙「第4インターナショナル」が発足した。第4インターナショナル日本支部を結成する準備会として位置付けられていた。当初は思想同人的サークル集団として発足した。

 日本トロツキスト連盟は、国際共産主義運動の歪曲の主原因をスターリニズムに求め、 スターリンが駆逐したトロツキー路線の方に共産主義運動の正当性を見いだそうとしていた。これが後の展開から見て新左翼の先駆的な流れとなった。

 その主張を見るに、「既成のあらゆる理論や思想は、我々にとっては盲従や跪拝の対象ではなく、まさに批判され摂取されるべき対象である。それらは、 我々のあくことなき探求の過程で、あるいは破棄され、あるいは血肉化されて、新しい思想創造の基礎となり、革命的実践として現実化されねばならない」(探求)という自覚を論拠としていたようである。つまり、早くも「60年安保闘争」の三年より前のこの時点で日本共産党的運動に見切りを付け、これに決別して党に替わる新党運動を創造することが始められていたと言える。
(私論.私観) トロツキズム誕生の観方について
 この根底にあったものを「日本における革命的学生の政治的ラジカリズムと、プチブル的観念主義が極限化して発現したもの」とみなす見方があるが、 そういう見方の是非は別として、この潮流も始発は戦後の党運動から始まっており、党的運動の限界と疑問からいち早く発生しているということが踏まえられねばならないであろう。宮本理論に拠れば、一貫してトロッキズムをして異星人の如くいかがわしさで吹聴しつつ党内教育を徹底し、トロッキストを「政府自民党の泳がせ政策」の手に乗る反党(ここは当たっている…私の注)・反共(ここが詐術である…私の注)主義者の如く罵倒していくことになるが、私はそうした感性が共有できない。前述した「党的運動の限界と疑問からの発生」という視点で見つめる必要がある。

 ところで、今日の時点では漸く党も含め左翼人の常識として「スターリン批判」に同意するようになっているが、私には不十分なように見受けられる。なぜなら、「スターリン批判」は「トロツキー評価」と表裏の関係にあることを思えば、「トロツキー評価」に向かわない「スターリン批判」とは一体何なんだろう。

  もっとも、党の場合、その替わりにかどうか「科学的社会主義」が言われるよう になってきた。「科学的社会主義」的言い回しの中で一応の「トロツキー評価」も組み込んでいるつもりかもしれない。が、あれほどトロツキズムを批判し続けてきた史実を持つ公党としての責任の取り方としてはオカシイのではなかろうか。スターリンとトロツキーに関して、それこそお得意の「自主独立的自前の」史的総括をしておくべしというのが筋なのではなかろうか。「自主独立精神」の真価はこういう面においてこそ率先して発揮されるべきではないのか、と思われるが如何でしょう。

 ちなみに、私は、我々の運動において一番肝心なスターリンとトロツキーとレーニンの大きな相違について次のように考えています。この二人の相違は、 党運動の中での見解とか指針の相違を「最大限統制しようとするのか」対「最大限認めようとするのか」をめぐっての気質のような違いとしての好例ではないかと。レーニンはややスターリン的に具体的な状況に応じてその両方を使い分ける「人治主義」的傾向を持っていたのではなかったのか。そういう手法はレーニンには可能であったが、スターリンには凶暴な如意棒に転化しやすい危険な主義であった。晩年のレーニンはこれに臍を噛みつつ既になす術を持たなかったのではなかったのか。スターリン手法とトロツキー手法の差は、どちらが正しいとかをめぐっての「絶対性真理」論議とは関係ないことのように思われる。運動論における気質の差ではなかろうか。「真理」の押しつけは、統制好きな気質を持つスターリン手法の専売であって、統制嫌いな気質を持つトロツキー手法にあっては煙たいものである。運動目的とその流れで一致しているのなら「いろいろやってみなはれ」と思う訳だから。ただし、トロツキー手法の場合「いざ鎌倉」の際の組織論・運動論を補完しておく必要があるとは思われるが。

 ついでにここで言っておくと、今日の風潮として、自己の主張の正しさを「強く主張する」のがスターリン主義であり、ソフトに主張するのが「科学的社会主義」者の態度のような踏まえ方から、強く意見を主張する者に対して安易にスターリニスト呼ばわりする傾向があるように見受けられる。これはオカシイ。強 くとかソフトとかはスターリン主義とは何の関係もない。主張における強弱の付け方はその人の気質のようなものであり、どちらであろうとも、要は交叉する意見・異見・見解の相違をギリギリの摺り合わせまで公平に行うのか、はしょっ て権力的に又は暴力的な解決の手法で押さえつけつつ反対派を閉め出していくのかどうかが、スターリニストかどうかの分岐点ではなかろうか。スターリ ニズムとトロツキズムの原理的な面での相違はそのようなところにあると考えるのが私見です。こう考えると、宮顕イズムは典型的なスターリニズムであり、不破氏のソフトスマイルは現象をアレンジしただけのスターリニズムであり、同時に日本のトロツキズムの排他性も随分いい加減なトロツキズムであるように思われる。

【日本トロツキズム運動のその後の流れ】
 こうしてわが国にも登場することになったトロツキスト運動は、運動の当初より主導権をめぐって、あるいはまたトロツキー路線の評価をめぐって、あるいは既成左翼に対する対応の仕方とか党運動論をめぐって ゴタゴタした対立を見せていくことになり、日本共産主義労働者党→第4インター日本支部準備会→日本トロツキスト連盟→12.1日日本革命的共産主義者同盟(革共同)へと系譜していくことになる。新左翼運動をもしトロツキスト呼ばわりするとならば、日本トロツキスト連盟を看板に掲げたこの潮流がそれに値し、後に誕生するブントと区別する必要がある。そう言う意味において、日本トロツキスト連盟の系譜を「純」トロツキスト系と呼び、これに対しブント系譜を「準」トロツキスト系とみなすことを今はやりの「定説」としたい。日本トロツキスト連盟の系譜から後に新左翼最大の中核派と革マル派という二大セクトが生まれており、特に中核派の方にブントの合流がなされていくことになるので一定の混同が生じても致し方ない面もあるが。

 この時期全学連内の急進主義的学生党員活動家の一部はこの潮流に呼応 し、急速にトロツキズムに傾いていくことになった。ただし、日本トロツキスト連盟の運動方針として「加盟戦術」による社会党・共産党の内部からの切り崩しを狙ったヤドカリ的手法を採用していたためか、自前の運動として左翼内の一勢力として立ち現れてくるようになるのはこの後のことになる。「加入戦術」と は、対象となる組織に加入し、内側から組織の切り崩しを行う戦術である。このグループの特長として理論闘争を重視するということと、セクト間の対立に陰謀的手法で解決をしていくことを意に介しない面と、暴力的手法による他党派排除を常用する癖があるように思われる。私が拘ることは以下の点である。上述したようにトロツキズムとは、レーニンによって批判され続けられたほどに 幅広の英明な運動論を基調とした左翼運動を目指していたことに特徴が認められる、と思われる。ところが、わが国で始まったトロツキズムは、その理論の鋭さやマルクス主義の斬新な見直しという功の面を評価することにやぶさかではないが、この後の運動展開の追跡で露わになると思われるが、意見の相違を平気で暴力的に解決する風潮を左翼運動内に持ち込んだ罪の面があるようにも思われる。この弊害は党のスターリニズム体質と好一対のものであり、日本の左翼運動の再生のために見据えておかねばならない重要な負の面であることも併せて指摘しておきたい。

 2.1日、全学連は、沖縄永久基地化反対、民主主義擁護全国学生決起大会を開いた。1500名の学生が結集してデモに移り、アメリカ大使館に抗議を行った。2.5日イギリス議会に対してクリスマス島の原爆実験中止の申し入れ決議を行った。

【春闘】
 国鉄が2.21日から順法闘争へ入る。炭労が3.7日の48時間ストに突入し先駆ける。3.11日から主要労組が第三波闘争に突入。国鉄、炭労、全逓、全通、日教組、合化労連が参加し、大規模なものとなった。

 この時、共産党は、4.30日付けで「サンフランシスコ体制打破のために」なる珍妙な論文を発表している。「労働者が、資本家と激しく正面衝突しているまさにその時、その資本家を打倒せよと叫んで彼らの闘争を励まし前進させるのではなく、『敵は資本家ではない。サンフランシスコ体制だ』と、まるで、しったかぶりの長屋の隠居のようなさしで口をきいたのである」(田川和夫「日本共産党史」)。

 2.23日、沖縄返還要求大会が開かれ、全国6000名結集、学生は2000名参加。4.1日全学連中央委員会が開かれ、4月の新学年を迎えての核実験.核戦争体制反対闘争が指令された。

 2月、共産党の大沢氏が「前衛」に初のスターリン批判。

【「第2回東京都党会議」開催、紛糾する 】
 この頃の学生運動につき、「第4期・全学連の再建期、新左翼(トロツキズム)の潮流発生、ブント系全学連の誕生」に記す。

 3.9日、注目されるべき事件が発生している。この日と翌10日、17日の三日間約400名の代議員を集めて開かれた第2回東京都党会議は、「六全協」以後の党中央の指導ぶりに対する批判と追求の場となり大混乱に陥った。この時都委員の顔ぶれは、はっきりとした党中央派が生田八重子・国府の2名、中間派は杉本・増淵・唐沢清八・岩間の4名、それに安東仁兵衛であった。残りの増田格之助・武井昭夫・・片山さとし・野田弥三郎・芝寛・ 高山・西尾・山本正美・島成郎らの革新派(急進主義者)が、この間の党中央の分裂経過につき責任を明確にせよと迫り、このため党中央を代表して出席していた野坂・宮本・春日正一らが壇上で立ち往生させられたのである。

 
この時の模様の一端として次のようなことがある。「中央公論」臨時増刊座談会で、武井昭夫が、いわゆるトラック部隊の暗躍による繊研事業部事件で党の処置が曖昧だと発言していた。これが「党内問題を外部へ持ち出した」として、この時党中央から規約違反により委員改選の欠格事由とされようとしていたようである。「日本共産党員私の証言」(野田弥三郎)によれば、都委員会でのこの追求に対して、野坂が「この事件は、今や敵側が刑事事件にしようとして狙っている。それで、それをまともに解決しようとしたら数千万円の金が必要なんだ。しかし、そういう金は党にはない。だから、この問題はそんなにあせってやるのではなしに、西沢君を責任者にしてあるから、そこでもって充分討議して、はっきりさせる」と、述べている。これに対し告発側の繊研従業員は、「こういう不祥事件を引き起こした当事者の西沢が責任者になって、一体何が調べられる」と抗議している。しかし、この追求は沙汰止みとなり今日まで闇の世界にある。

 この時の都委員会の選挙では、宮顕の介入を排して、元全学連委員長武井らの批判派が都委員に19名中10名、さらに芝寛を都書記に選ぶことになった。この時の東京都党会議の決議案は、党指導部への批判や官僚主義への反対などを強く打ち出した。

 この結果に対し、宮顕は「中央の認めない決議は無効だ」として居直った。宮顕の「民主集中制」論の体質は、こういう危機の場合にその本質が露呈する。「中央の認めない決議が無効だ」とすれば、党内民主主義も何もあったものではない。党中央へのイエスしか出来ないということになる。こういう史実を踏まえて、現下党中央の「民主集中制」論の是非を問わねばならないのではなかろうか。


 この経過を見て注目されるべきことがある。かっての全学連結成期の指導者であった武井・安東らが、この時点で東京都党委員になっており、特に武井が批判派として立ち現れてきていることである。武井・安東らは、この間一貫して宮本グループの傘下に位置しつつ相呼応して徳田系執行部の指導に異議を唱え、党内分裂期にもひたすら国際派として宮本グループと歩調を共にしてきていたことを考えると、この頃蜜月時代が終わったということであろう。この時若手の武井は、徳田系にも宮本系にも党内反対派として位置していた野田グループと協調しつつ、「六全協」・「第7回党大会」の経過で進行しつつある宮本グループ系の宮廷革命の動きに対して反逆し始めていたことが知れる。理論的にも、宮本が中心となって起草していた「党章草案」の現状規定とか革命展望に対して意見を異にしていった様が見えてくる。ちなみに、安東は宮本寄りにシフトしつつ是々非々の立場にあったようである。

 この時の当事者の一人増田格之助は、昭和47年8月号「現代の眼」で次のように語っている。
 「東京都委員会問題というものが起る問題点というのは、大きく分けますと二つです。分ければ三つでも四つでもありますが、基本的な問題は党内民主主義の問題ということになると思います」、「党内民主主義の内容の中には、やはり過去の誤りをもっと明確にしなきゃいかんということが当然含まれてくる訳です。それを前向き、後ろ向きということでないがしろにできないんだ、徹底的に追及しなければいけないんだという姿勢ですね」、「今ひとつは、理論的な問題として、新綱領そのものにあの誤りの責任があるんだ、元凶をそのまま正しかったといっておいて、小手先の批判ではいけないんだという問題ですね。大きく分ければその二つですが、党内民主主義と過去の総括と言うような問題、これは両方絡み合ってきますが、そこで過去の責任の追及ということになりますと、例のむ志田問題なんかが暴露される訳です」、「それと同時に、やはり共産党が再びああいう誤りを犯さないためには、一人一人の党員が国際的な情勢についても、いろんなものについて自分の頭で考えると言う自由がなければ、中央が誤まれば全部誤まっちゃうということなんだと思います。従って、各機関なり党員個人個人が自分の頭で考える、そういう党につくり直さない限り駄目だという問題が出てくる訳です」。

 3.21日、自民党総裁選で、岸471票、その他4、無効1で信任される。
 4月、第一次・社会党訪中使節団が出発。浅沼団長、勝間田清一、佐多忠隆、曽弥益、穂積七郎、山花秀雄、成田知己、佐々木良作らのメンバーと随行新聞記者らで構成されていた。
【春日正一の宮顕走狗化】
 4.5日、アカハタは、春日正一の「自由主義に反対し、正しい党内論争を発展させよう」という文書を発表した。春日(正)は、、先に大沢久明、鈴木清、塩崎要祐の三名が公刊した「農民運動の反省−日本革命の展望について−」に対して、清算主義と規律違反の典型であるとの攻撃を加え、57.3月の中央公論臨時増刊号にのった座談会での武井昭夫の発言に対しても、同じ観点から非難していた。

 「農民運動の反省−日本革命の展望について−」は、コミンテルンとコミンフォルムの日本農民運動への指導のあやまりを系統的に追及したもので、その総括で「日本の共産主義者は仮借なくスターリンを批判することで前進しよう」と強調していた。中央公論臨時増刊号にのった座談会は、「若き日共党員の悩み」と題するもので、武井はそこで、地下指導部の時代の「トラック部隊」事件に言及していた。党中央は、これに対して規律違反として統制抑圧して行った。
(私論.私見) 「春日正一の宮顕走狗化」について
 徳球時代の幹部の一人であった春日(正)の宮顕走狗化ぶりが判明する。こうして、徳球時代に対して家父長制批判を浴びせた経緯を持つ党中央は、徳球時代には考えられない党内抑圧を敷いて行ったが、これが特段問題に去れぬまま推移していくことになる。阿呆には阿呆の集団規律が似合うということになる。

 4.27日、第一次統一行動(東京2300、札幌1500、京都1100、その他全国各地)。
 5.1日、メーデー参加。
 5.11日、国鉄の処分反対闘争支援。
 5.15日、イギリス政府はクリスマス島で原爆実験を強行した。
 5.21日、共産党の志田重男が除名される。

 6月、前衛6月号に、森田桐郎(京都府委員会所属)の「社会主義への日本の道」論文が掲載された。次のように主張している。
 概要「従来のわが党内外で資本主義論争は、結局のところブルジョア民主主義革命かプロレタリア社会主義革命かというところにはまりこんでしまい、客観的には空論になったとして、レーニン→スターリン→コミンテルン型の図式を放棄すること。わが国の革命の目標と路線を明らかにするためには、古い問題の立て方ではなく、『反独占的、民主主義段階から出発し社会主義を目指す人民民主主義革命』という新しい方法論を体得することが必要である」。

 5月、岸首相が、参院で、「自衛権の範囲なら核保有も可能」と答弁した。
 5月、岸首相が東南アジア歴訪。6.3日、台湾の台北で蒋介石国民政府総統と会談。この時岸は、「日本の外交は、容共的、中立的な立場は取らない。中国大陸が、現在、共産主義に支配されていて、中華民国にとって、困難な状況にあることは、同情にたえない。大陸の自由回復には、日本は同感である。ある意味では、共産主義が日本に浸透するには、ソ連よりも、中国からの方が恐ろしい。国府が大陸を回復するとすれば、私としては、非常に結構だと思う」と述べている。
【全学連第10回大会】
 この頃の学生運動につき、「第4期・全学連の再建期、新左翼(トロツキズム)の潮流発生、ブント系全学連の誕生」に記す。

 6.3日、全学連10回大会が開かれ、全学連はこの大会で「軌跡の再建」を遂げたと言われている。大会は9回大会路線の意義を再確認し、一層政治主義的傾向を強めた。「我々が強力な形態をとればとるほど対決する勢力との矛盾は鋭くなるが、我々の周りに結集する勢力も大きくなる」と闘争の意義を確認していた。この頃になると、学生細胞の大部分は、共産党の方針は正しくないとして地区委員会の指導を受けようとせず、全学連の方針こそ正しいとみなしていた。当時東大学生細胞は細胞機関紙「マルクス=レーニン主義」を発行していたが、この機関紙の理論展開の方に共感していた。

 森田実・島成郎・香山健一・牧衰らが全学連中執、書記局に入り、以後全国学生運動の指導にあたることとなった。この大会で党の指示に従う高野派が敗退し、高野は書記長を辞め、その後は早大を拠点として全学連反主流派のまとめ役となっていくようである。日本共産党第7回党大会前の頃の動きである。この頃、後の「60年安保闘争」を担う人士が続々と全学連に寄り集うことになり、新しい活動家が輩出していった。

 この経過を見てみると次のように言えるのではなかろうか。この当時のポスト武井時代の党員学生活動家のうちの急進主義的部分は、二つの側面からの闘いへと向かおうとしていた。一つは宮顕系宮廷革命の進行過程に対するアンチの立場の確立であり、後一つは先行して結成された日本トロツキスト連盟の戦闘的学生活動家取込みを通じた全学連への浸透に対する危機感であった。全学連再建派は、これらへの対応ということも要因としつつ懸命に全学連運動の再構築を模索し始めていったようである。こうして、この時期の党員学生活動家には、全学連再建急進主義派と日本トロツキスト連盟派と民青同派という三方向分離が見られていたことになる。
(私論.私観) 宮顕系党中央による反トロツキズム運動について 
 ところで、宮顕系党中央は、この後この全学連急進主義グループをトロツキスト呼ばわりしていくことになるが、ならば、この時期党中央が全学連再建に向けて何ら有効に対処しえなかったこと、党の意向を汲んで動いていたと思われる高野派が敗退したことについての指導的責任を自らに問うというのが普通の感性だろうとは思う。が、この御仁からはそういう主体的な反省は聞こえてこない。むしろ、右翼的指導で全学連再建をリードしようとして失敗したという史実だけが残っている。

 6月、ソ連で、マレンコフ、モロトフらがフルシチョフ打倒に立ち上がろうとしたが、フルシチョフ側の反撃により阻止され、失脚。「反党グループ事件」と云われる。
 6月、東京タワーの建設工事が始まった。総重量4000トンの鉄骨組みで地上333mを目指した。当時世界一のパリのエッフェル塔より12m高い自立式鉄塔で、開業したのは翌1958.12.23日。これにより、テレビ、ラジオの電波放出が始まり、観光名所ともなった。
 6月、第一次防衛力整備計画策定。
【日米新時代の幕開け】
 6.19日、岸首相、「安保条約の再検討」の構想を抱いて渡米、アイゼンハワー大統領、ダレス国務長官と会談を精力的に行った。アイゼンハワー大統領との間で2回、ダレス国務長官との間で6回、計8回に及んでいる。「安保条約はどうしても対等な関係における相互援助条約の格好にもっていかなくてはならない」が岸首相の信念であったと伝えられている。

 6.21日、日米共同声明を発して帰国、同時に内閣改造して岸体制を確立し、「日米新時代」と称せられる第一歩を踏み出した。 先に51年講和会議によって設定された日米間の基本コースの上に、日本が新たな政治的外交的地位を要求することを推進することとなった。

 日米新時代とは、上からの独立過程を一応達成し、帝国主義的復活の為の経済的基盤を整えた日本の独占支配層が、アメリカ独占支配層との基本関係を調整し直し、新たな支配と従属、結合と対立の規制のもとに再出発させようとしていることを意味した。日本の上からの独立達成に基づく軍事的政治的地位の引き上げを実現しつつ、その帝国主義的独自性を極東におけるアメリカの原子戦略体制の構想への積極的協力の線上に置いて確保すること、これが岸体制の任務であった。
(私論.私観)「日米新時代」の動きについて
 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」では次のように纏めている。
 「戦後の混乱期を社共の日和見主義と裏切りに助けられて切り抜け、朝鮮戦争特需によって息を吹き返した日本独占資本は、1950年代前半の反動恐慌期に徹底した企業・人員整理を強行するとともに、「経営権の確立」(労働者に対する資本の専制支配の確立)を図り、こうした地ならしの上に、50年代後半以降、輸出の急増と旺盛な設備投資に牽引される形でいわゆる「高度成長」の一時代へと突入していった。

 前回見たように1955年は政治的にも画期の年であった。左右両社会党の統一、保守合同による自民党の誕生、六全協で分派闘争に終止符を打って組織の統一を回復した共産党、また労働運動では政治主義的な高野路線に代わって経済主義的な太田・岩井ラインの登場と春闘の開始等々、その後の「高度成長」期を特徴づける体制が確立した。

 56年の経済白書は『もはや戦後ではない』という有名な文言を記したが、実際、翌57年度の工業生産額は戦前(34〜36年度平均)の2.7倍に達し、後年の経済白書の推計によれば1950〜57年間の平均経済成長率は年率10%を超えていた。

 この年の2月に成立した岸内閣は「日米新時代」を掲げ、6月訪米を機に『日米安保条約の再検討』に乗り出したが、それはこうした急速な経済拡大によって帝国主義的な復活・自立に向けての経済的基盤を整え、自信を取り戻した日本独占資本の政治的欲求を反映したものであった。

 旧安保条約もまた基本的にはブルジョア国家間の同盟関係を規定したものであった。しかし、51年のサンフランシスコ講和会議で独立を達成したとはいえ、占領下から脱したばかりであらゆる面で弱体な日本ブルジョアジーの地位を反映して、講和条約と同時に締結された旧安保条約は、米軍が一方的に日本を防衛する義務を負う代わりに、日本は国内の基地の自由使用権を米軍に与えるという「片務的」な性格のものであった。

 当時、日本独占資本は自らの国家の防衛と階級支配の維持を米国の軍事力に依存せざるを得ない状況にあった。また、そうすることで彼らは巨大な軍事支出をまかなう必要からまぬがれ、ひたすら資本蓄積と経済的発展に力を注ぐことができた。他方、米ソ冷戦が激化する中で、アメリカ帝国主義にとって、工業国家・日本をアジアの軍事・兵たん両面の前線基地として確保することは死活問題であった。つまり、日米安保条約には日米双方の独占資本とその国家の利害が貫かれていたのである。

 とはいえ、『主権』の一部の譲渡を伴う旧安保条約は“一人前”の国家をめざす日本ブルジョアジーにとっては“屈辱的”であり、この喉に刺さった小骨を取り除き「独立の完成」(岸)を図ることは彼らの悲願であった。かくして50年代の経済的発展と政治支配の確立を背景に、岸内閣の誕生とともに、安保条約を独立した国家間のより対等な条約、つまり「双務的」なものに改定することがブルジョアジーの『第一の政治課題』として浮上してきたのである」。

【岸内閣の第一次改造】
 7.10日、第一次岸内閣の第一次改造が為された(1958.6.12日まで続く)。顔ぶれは次の通り。総理・岸信介、官房長官・愛知揆一(←石田博英)、法務・唐沢俊樹、外務・藤山愛一郎、大蔵・一万田尚登、文部・松永東、厚生・堀木謙三、農林・赤城宗徳、通商産業・前尾繁三郎、運輸・中村三之丞、郵政・田中角栄、労働・石田博英、建設・【首都圏整備委員長】根本龍太郎、国務大臣として経済企画庁長官】・河野一郎、【行政管理庁長官】石井光次郎、【自治庁長官】郡祐一、【北海道開発庁長官】(鹿島守之助経由)石井光次郎(兼任)、【防衛庁長官】津島寿一、【国家公安委員長】正力松太郎、【科学技術庁長官、原子力委員長】正力松太郎(兼任)、【無任所】石井光次郎、総理府総務長官・今井治郎、法制局長官・林修三。 

【藤山外相、田中角栄郵政相が抜擢登用される】
 岸首相は、内閣改造で、藤山愛一郎氏を民間から引き抜いて外相に据えた。講和後の形式的独立を実質的なものとなすべく、日米安全保障条約の見直しに着手し、自主防衛的な「国防の基本方針」を打ち出した。当時外務省の意向は、新条約にすれば膨大な行政協定を作り変えなければならず、国会審議も大変だという判断から、来る改定時は「修正」でいく案を持っていた。岸はこれを良しとせず、新安保を指針させた。 

 この時、田中角栄が郵政相に抜擢されている。

【国労新潟地本闘争】
 7.9日、国労新潟地本が無期限順法闘争に突入した。国鉄当局の春闘処分にに対して、これを不当処分として全国の国鉄労働者が決起し、これに対し当局が新潟地本幹部二名と敦賀支部委員長等5名を逮捕したのに抗議して8地本ず反撃に出た。特に新潟地本が戦闘的で、60箇所で職場集会に入り貨客車ダイヤが大混乱となった。国鉄当局は態度を硬化させ、7.15日警察も更に5名の地方幹部を逮捕した。激怒した労働者が無期限のストライキに突入し、関東・関西・西部各ブロックもこれに呼応して7.16日より職場大会に入った。
 問題は、この時の共産党の態度である。この間燃え広がる国鉄闘争にダンマリを決め込み、「党創立35周年記事」や「新しい段階を迎える沖縄の闘争記事」で紙面を埋めた。この闘争に始めて言及したのが7.17日で、アカハタは「問題は、労働者階級の前衛、我が党がこの力量をいかに成長させ、自覚させ、結集させ、発揮させるかにかかっている」とセクト的対応に終始したばかりか、「闘争は既に収拾の段階に入った」と圧殺に向けて奔走する始末であった。
 斎藤一郎「戦後労働運動史雑感(12)」は次の通り。
 (1957年)七月九日、国鉄新潟地本の元委員長にたいする通告、北陸地本にたいする七名の逮捕などにつづいて、広島では首切り一名をふくむ二五〇名、 門鉄では二二四八名、 高崎では一五二二名の処分が、つぎつぎだされた。国鉄新潟、北陸両地本は七月一〇日、一一日に勤務時間にくいこむ職場大会にはいり、この闘争支援のために、東京、高崎、水戸、千葉、名古屋、長野、静岡の七地本がそれぞれ二ヵ所の職場大会をおこなうように指令した。 一一日のぬきうち職場大会は六三ヵ所、旅客列車五本、貨物列車四九本が運休、旅客列車一七本が四分から二五五分、また貨物列車四七本が、五分から三一八分の遅れをだした。一二日もほぼ同じ状態であった。

 一三日、新潟地本は二三ヵ所で一時間以内の職場大会をひらいた。一 四日朝、新鉄局が警察に出動要請をおこなったために、新潟全管内いっせい職場大会となり、約六〇ヵ所で職場離脱がおこった。そのために貨物列車はほとんどとまり、最悪の事態にたちいたった。この前後に国鉄中闘細井宗一は、現地で当局側と交渉にはいり、事態収拾のために、職場大会を一時中止した。しかし、この交渉の続いているあいだに、長岡署が地本幹部五名を逮捕したため、地本は交渉をうちきり、ただちに抗議大会にはいり、闘争は再び火をふきはじめた。一四日の新潟地本の職場大会は六三ヵ所でひらかれた。このあいだも弾圧はつづいた。 金沢松任工場では九二八名の処分、大分地本では一七五名の処分、鹿児島では四名が逮捕された。一五日、新潟地本は無期限の職場大会を指令した。六日には貨物列車はほとんど運休、新潟は貨物受諾の停止となり、山陽、東海道線も混乱した。

  闘争が決定的な打撃になりはじめたとたんに、国鉄中闘は新潟事件の事態を収拾するためと称して、交渉を中央に移すことを決定した。一六日の国鉄中闘は全組織で闘うという意見と、闘争を一時中止して態勢を強化する 必要があるという意見が対立し、四時間の激論となったが、採択となり二〇対八で、「新潟地本をふくむ関東地評の抗議闘争を中止する」と決定した。この日、新潟鉄道局は第三次抗議闘争の第一次処分として四名の首切り、さらに三〇数名を予定していると言明した。新潟闘争の一週間の旅客列車運休は六九本、貨物運休は四一三本、 職場放棄などの闘争個所はのべ三〇三ヵ所にたっした。一七日、新潟局はさらに一五名の地本執行委員らの首を切った。国鉄労組は七月二五日に戦術委員会をひらき、「現情勢を分析」して、不当処分反対闘争を一〇月下旬をヤマとして闘うことに決定した。総評は国鉄中闘の闘争中止を支持し、ほとんど動かなかった。共産党労対部長鈴木市蔵は「国鉄中闘はああいう決定をした。社会党は動かない。この状態では国鉄中闘の決定を支持するより他に方法がない。それまで職場闘争でもりあげていくよりしょうがない」という意見を党内で述べた。野坂参三は八月三日の総評第九回大会のあいさつのなかで「新潟では基地反対闘争では県民が一致したのに、こんどの処分反対闘争では、農民はむしろ旗をたててきた」といったが、これは事実とちがっていた。むしろ旗をたててやってきたのは、自民党の主催した農民大会に集まった富農たちであり、日農四派は七月一八日、共同声明をだして新潟地本の闘争を支援していたのだ。新潟の国鉄労働者をかくまで闘わせたものは、三一年(1956年)の白新線の要員闘争と、それにつづいた一ヵ年にわたる闘争経験総括のための大衆討議であった。この大衆討議のなかで、警官がはいってきたら、全面無期限闘争にはいることが決定され、それが大衆のひとり、ひとりに浸透していた。この態勢が最高検の検事八木某が現地にでむいて計画したといわれる大がかりなフレーム・アップを粉砕し去ったものであった。
(私論.私見)
 斎藤一郎はかく記述し、戦闘的労働運動の牽引を自負している。しかし私の斎藤一郎観は、共産党が徳球対宮顕の非和解的抗争に入った局面で、反徳球の側で立ち回っていることを確認している。だとしたら、この戦闘的労働運動牽引記述もやや色褪せるとしたものだろう。と、私は解する。

【第2次勤評闘争】
 (「勤務評定(勤評)闘争」参照)

1957.7月、文部省は衆議院文教委員会において、秋ごろまでに勤務評定基準案の成案を得る見込みであると表明する。これが勤評の全国化(愛媛の勤評闘争から、全国の勤評闘争への発展)の引き金となった。当初、「勤評は愛媛の問題」と認識していた日教組も、自体の重大性を確認し、8月の第43回中央委員会において、勤評反対を闘争方針の初めて前面に押し出した。

 一時休戦状態であった愛媛の問題の再熱にも時間はかからなかった。同年10月に至り県教委が、校長会・地教委で成案が得られず、また、文部省案の発表も遅延する見込みであることを理由に、従来の要領で勤務評定を行うことを決定したためである。これに対し県教組は、評定要領改訂は「6月協定」での約束であるとの申し入れを県教育長に申し入れるが、教育長がこれを拒否したことから、県教組は10月22日、800人規模の職場代表者会を開催、勤評反対闘争の基本方針を確認、同月27日には、松山市・府中町の国鉄グランドで9,000人を集めた「愛媛の教育を守る」総決起集会が挙行された。第2次勤評闘争の始まりである。

 この日から闘争終結の12月15日まで、愛媛には勤評の嵐が吹き荒れる。いわゆる「64日間闘争」である。第2次勤評闘争は、その規模においても、またその深刻さにおいても、第1次勤評闘争の比ではなく、言語に絶する修羅場が県下の至るところで現出した。そもそも教育現場での戦いは、地域住民の支持がその勝敗を分けといっても過言ではないが、権力は、特に農村地域において、農業関係補助金の許認可を盾にした地域住民の激しい切り崩し策を実行、それはものの見事に成功を収める。

 評定書提出をめぐる県教委側と県教組との戦いのピークは11月に訪れた。日教組は、「教職員の勤務評定が@教職員の組合活動を抑圧し、教育への権力統制を強化する、A教職員の職務の特性になじまない、B教育上の効果をあげるためには勤務評定以前に教育施設の改善をおこなうべきだ」等の理由からこれに反対する運動を開始し、愛媛における勤評反対の勝利なくして、全国の勤評阻止闘争勝利はありえないとの戦略の下、全国闘争指令戦術をもって、総力を挙げて愛媛県教組の戦いを支援した。ここに勤評反対闘争は、愛媛県教組(愛媛の保守勢力)対愛媛県教委(愛媛の革新勢力)の戦いから、愛媛を舞台とする政府・自民党の保守権力と総評・日教組を中心とする革新勢力との争いへと発展していくのである。

 愛媛県教委の実施の意思は極めて固く、政治権力を背景に、実施のために警察権力まで動員した。そのため県下の教育現場は混乱に混乱をかさね、泥沼化の様相を呈する状況になったが、県教委は、評定書の提出期限を3回延長してまでもその提出を校長に強力かつ執拗に求めた。権力側の圧力と懐柔策は熾烈で、その間にも校長を中心とする脱退が相次いだため、12月12日に至り県教組は、混乱を収拾するとの名目で評定書の提出を決定、12月14日には県下767校全部が提出するに至った。

 こうした中の12月15日、白石春樹県議会議長の斡旋により、議会三派、議長、知事、県教委、県教組らの7者会談がもたれ、「(勤評は)外部の諮問機関によって審議」との議長斡旋を県教組が受諾、ここに第2次勤評闘争は、事実上県教組の敗北で終局も迎えることとなる。

 同年12月20日、都道府県教育長協議会は、かねて研究中の勤務評定試案を発表し、1958年度から実施することを決定し、文部大臣がこれを支持するところとなる。これを受けて日教組は、12月22日第16回臨時大会を開き非常事態を宣言する。かくして1958年は、まさに全国規模の「勤評の年」として迎えることとなる。

 ところで愛媛の斡旋案は、1958年2月に議長職権で実現はされたものの、内容は到底、現場教師の意見を反映するものではなく、斡旋に加わった社会党・中正クラブほか1人の委員の反対辞職という局面だけを残しただけであった。結局のところ、差別構造を残したままでの前年度とほぼ同様の方式で3月の臨時評定が施行されるのであったが、これに対して、組織の建て直しに迫られていた県教組に、もはや全面的な反対運動を展開する力量は残されていなかった。そのため同年3月の第3回勤務評定書の提出は、何らの支障もなく実施されることとなる。

 その直後の同年5月に行われた第28回総選挙では全国的には革新勢力の社会党が躍進するの反して、愛媛県では第1区で1人が当選しただけであった。保守勢力が勤評を強力に推し進めた効果が如実に表れた局面であった。勤評がいたって政治的思惑で導入されたことの一つの政治的証左を意味した。

【袴田・河田賢治が中国から帰国】
 7月、袴田・河田賢治が帰国し、袴田は3日間宮顕邸に泊まった後7.22日より党本部に姿を現わす、6年半ぶりであった。この時の常任幹部会のメンバーは、野坂(第一書記)・志賀・宮本・袴田・紺野・西沢の6名であった。

【社会党政審会長・和田博雄が失脚させられる】
 7.26日、社会党統制委員会(加藤勘十委員長)は、「野溝勝、和田博雄両君を、今日以後一ヵ年間役員権を停止する」との統制処分を為している。「一ヵ年間の役員権停止」とは、現在の役職を解かれると共に、次期定期大会にも役員になることが出来ないということを意味していた。こうして和田は政審会長の役を解かれ、実際にカムバックするのは、安保闘争後の61.3月の党大会となった。この統制処分の理由付けは「全購連(全国購買農業協同組合連合会)事件」にあり、「肥料二法」を成立させる為に約1億円が政界にばら撒かれ、保守党のみならず社会党にも流れ、野溝勝・江田三郎・和田博雄ら約10名の名前が取り沙汰された。和田は「全購連事件」の弁解を一切せず、死ぬまで沈黙を守った。「鈴木主流派が次期委員長候補の一番手の呼び声高かった和田政審会長を謀略的に失脚させた」という見方が伝えられている。この当時和田は最左派の立場に立っていたが、この処分により、安保闘争に向かう最も大事なときに「冬の季節」を送ることになった。

 8.3日、総評第9回大会。
【第3回原水爆禁止世界大会開催】
 8月、第3回原水爆禁止世界大会が開かれた。全学連は第一回原水禁世界大会以来、常にこの運動の先頭になって取り組んできたが、今回も精力的に活動を強めた。400名の学生が参加した。この時全学連のアジ演説が為されたが、これに党中央は統一行動の一致点を求めるため穏和化指導をなさうとした。しかし、全学連は「無原則的な幅広論に反対し筋を通さなければならない」と主張し反発した。

 8.13日、岸内閣が、内閣に憲法調査会を設置する。
 9月、社会党は、ソ連・東欧使節団を送った。元首相片山哲を団長とする9名の一行がモスクワ、イルクーツク、キエフなどを訪問し、フルシチョフ、ミコヤン、スースロフなどソ連首脳陣より歓待を受けた。
 9.28日、社会党は、訪米使節団を送った。河上丈太郎を団長とする一行が約1ヶ月にわたり精力的に米国各地を回り、政界、学界、言論界、労働団体、宗教団体の人々と会談を重ねた。11.2日帰国したが、「我々の任務、いわば荒地に鍬を入れ、これを耕し、種子をまく開拓者の仕事を一応為しえた、と信じている。我々とその後に続く同様な使節団の努力によって、これを育てることが可能であると信ずる」との思いを伝えている。

【この頃の全学連の動き】
 この頃の学生運動につき、「第4期・全学連の再建期、新左翼(トロツキズム)の潮流発生、ブント系全学連の誕生」に記す。

【「日本共産党党章草案」が発表される】
 この後9月に正式に「日本共産党党章草案」が発表された。中央委員会の草案発表によって本格的な討論→論争が開始されることになった。

 東京都委員会はまっさきに反対決議を出している。「党章草案」が日本独占資本との対決を軽視し、社会主義への道の明確な提起を欠いているなどと批判し、草案に反対の態度を示した。ただし、この時の文面から見ると、構造改革論に近い見地から批判しているようである。同時に「党章草案」の中に含まれている規約草案 に対しても、これは「党内民主主義の拡大ではなくて縮小」であり、「中央、特に中央常任委員会の一方的な権限の拡大」であると批判した。こうした動きはこの時全国各地の党委員会に伝播しており、その様子を感じ取ってか、党は、翌58.1月の第17回拡大中委で一ヶ月後に予定していた第7回党大会を選挙への取り組みを口実に急遽延期することを決定している。

 雑誌「世界」の10月号に、丸山真男氏が「スターリン批判における政治の論理」を投稿、掲載された。

【「党章草案」批判 】
 10月、東京都委員会は、発表された「党章草案」に対し噛みついた。これをきっかけに全党に「党章草案」をめぐる論争が展開された。「『党章草案』が、アメリカ独占資本の権力という亡霊にしがみつき、これを過大評価する保守主義の間違いを犯している」、「 我々は、日本で国家権力を握っているのは、日本の独占資本だと考えている。従って、これを打倒する社会主義革命が 、我が国の唯一の革命であると考える」、「しかしわれわれは、‐‐‐当面すぐさま社会主義革命のための直接的闘争をやろうとは考えない。当面の戦いとしては、構造的改良を中心とする平和と独立と民主主義と生活の向上をめざす革命的改良の戦いを考える。民族の完全独立は、この革命的改良の戦いのなかで、またその一つとして貫徹される」(10.10日付け東京都委員会「保守主義と折衷主義を克服し、社会主義革命の目標に前進せよ」)。「新規約草案」についても、「党内民主主義の拡大でなくて縮小」であり、中央、特に中央常任委員会の一方的な権限の拡大であると批判した。(東京都委員会「党章草案の規約改正部分について」)。

  この時第三回都党会議が開かれていたと推定される。「暗黒の代々木王国」(辻泰介)に拠れば、この席上で、戦前の党委員長経歴を持つ山本正美氏に対する糾弾が為された様子が次のように記されている。「この席上、野坂らが握っている党の中央委員会に反対意見を持つ、当時の東京都委員会の指導的な活動家、古い活動経歴を持つ山本正美氏の経歴が問題になったことがありました」として、山本氏らが党の官僚主義、宮顕体制に対する批判を加えていたことに対し、党中央が「自由分散主義」と決め付け、党の権力をフルに活用して反党中央活動家の排除に血まなこになっていた様子を語っている。都の指導部の選出に関わる代議員大会の席上で、宮顕の忠犬となっていた幹部会員春日(正)より、山本正美氏の戦前の転向の様子を記した一文が読み上げられた。「かって山本同志は党の委員長の重責を勤めた同志であること、その当時彼は検挙され敵に屈服した、その転向がだらしなく、その為に党を傷つけた」云々。この結果、代議員会の流れが変わり、山本正美氏は都委員会から外され、山本氏と同調しているグループは自主的に都委員会から引き下がり、当の春日(正)が都委員会に乗り込んでくることになった。

【「第15回拡大中総」が開催】
 10.26−29日、「第15回拡大中総」が開催された。第7回党大会の中央委員会政治報告要旨が採択された。

 ○旧中央徳球系中央委員「自己批判」迫られる。

 なお、この大会で徹底した自己.相互批判がおこなわれた。この詳細が明らかにされていないが、「日本共産党の65年」の記述を眼光紙背で読みとれば次のようなことが云える。47年の第6回党大会選出の中央委員.統制委員で引き続き「六全協」においても中央委員として選出された中央委員に対して、つまり旧中央徳球系中央委員に対して、「歴史的事実の究明と科学的社会主義の原則に基づく」厳しい総括が為されたということである。その結果、「第6回党大会と第7回党大会が規約上、継承性を保つことを人的に保障する為の必要な措置」として徳球系中央委員は第7回党大会の準備に当たらねばならないことを誓約させられたということである。何のことはない、「勝てば官軍、負ければ賊軍の論理」で第7回党大会用の自己批判要員として捕捉されるという無惨な結果にさせられたということであろう。執行部の簒奪的事態を隠蔽する為の人的継承という狡猾な論理をも合わせて見て取ることが出来よう。

【「50年問題について」採択、発表される】
 11.5日、「50年問題」についての総括文書「50年問題について」が発表された。「50年問題について」を起案して全員一致で採択された。実際には、西沢隆二が保留していた。そのまま「政治報告」に入れることについては、志賀.紺野らが頑強に反対したとも云われている。

 「50年問題」の最大の問題点であった「コミンフォルム『論評』の是非」に関しては、わずかに「1951年8月の恒久平和紙の『論評』など、わが党の複雑な内部の組織問題についての、今日となっては明白になった一面的な判断が、分裂問題の正しくない解決の重要な一因子となったことも否定できない」と遠慮がちに誤りが総括された。

 「50年問題」のもう一つの最大の問題点であった「党の分裂問題」について次のように記している。
 「1950年のわが党の分裂は、わが党の歴史の中でも非常に不幸なできごとであった。それは全党に深刻な打撃を与え党の力を弱めただけでなく、分裂した双方の誠実な同志に大きな犠牲をこうむらせた。また多くの大衆団体に分裂と混乱を波及させた」。
 「1955年7月に開かれた第六回全国協議会は、この問題を根本的に解決し、党の統一と団結を回復することを決議した。この決議にもとづく全党の実践にもかかわらず、今日なお少なからぬ未解決の問題を残しており、党の統一についての障害となっている50年問題の原則的な分析と評価を行うことは、この状態を解決するためにかくことのできない課題となっている」。

 かく状況認識をした上で、初めて公然明確に分裂問題の責任が徳球前書記長の家父長的指導とその派閥的指導体制にあったと宣告し、徳球の「この問題における誤りは大きく、決定的である」と断定した。「日本共産党の65年」は次のように総括している。
 「徳田を中心とする『個人中心指導における避けがたい派閥的偏見』に基づく様々な抑圧と排除が、まじめな批判者と一部の分派活動家を混同して、50年の18中総以後から打撃主義的に無差別に行われていて、その後の事態が偶然でないことを明らかにした」。

 これにより、伊藤・志田・椎野ら徳球系旧指導幹部を「規約違反」として処分し、四全協及びそれ以降の歩みを規約に拠らない非適法の会議としてその効力を正式に否定した。

 反対に、主流派から分派として扱われてきた旧反対派(国際派.国際派以外の中委少数派.その他)に対する「名誉回復」が行われ、この反対派追求に関連した伊藤、志田、椎野らの徳球派閥に属した指導分子、その協力幹部たちが、規約違反の行動として処断された。「4全協」なども、規約によらない非適法の行為として、正式に否定された。宮顕.春日(庄)ら反対派が正統であったという逆転裁定が為され、特に宮顕派が正統の立場であったという改竄が為された。

 こうした逆転裁定を為す上で国際派屈服の発端となった自己批判書を書いた「袴田文書」の処理が問題となった。徳球主流派の規約違反を断罪した今度の結論と齟齬を来すこととなった訳である。袴田が激しく抵抗し、旧国際派幹部が主流派に屈服したさいに書き上げた自己批判書が全て棚上げにされることとなった。

 こうして旧国際派は見事に分派の汚名を旧主流派に返上し、逆に「6全協」までの徳球主流派による党の歴史を規約違反の「適法ならざる歴史」として実質的に抹殺した。単に国際派の正統性だけでなく、宮本顕治の無謬性をも一貫して立証しようとする意図が貫かれており、党内官僚主義の形成とその危険な支配への糸口となった。旧反対派のそれ以外のグループ(「国際主義者団」.中西グループ「団結派」.福本グループ「統一協議会派」.神山グループ)などは、個別的な独立グループとして非正統的に処理された。

 このような徳球時代の総括に対して、伊藤律の次のような徳球像は銘記されるに価するであろう。
 「徳田というのはガミガミ云うだけで理論も無く、怒鳴りつけて意見を押し付けるなどと宮本たちは云うが、それは労働者の階級的感情というものを全く判らない連中の言い草です。革命の先頭に立った徳田の激励叱咤には、労働者と人民に対する限りない慈しみと励ましの迫力がすごく溢れていました。丁度、雷雨が上がった後の澄み切った青空のように、底抜けに明るく爽快でした」(伊藤律「証言記録.同志長谷川浩を偲んで」)。

 こうして、「50年問題について」は、「50年問題」の解決を徳球主流派の責任の確定という時点にとどめ単なる正統派争い.本家争いで処理することになった。それを越えた党全体の主体的な在り方の問題、「スターリン批判」が各国の運動組織に突きつけた根本問題には一切のほおかむりですませようとする態度が取られた。これらにつき大衆的討議が必要であったが「スターリン批判」も「ハンガリー問題」もついに党内で論議を起こさず過ぎた。

 「50年問題について」の意義が次のように詠われている。
 「第6回党大会選出の中央役員を中心として全面的で率直な総括を行ったものとして、問題の科学的究明に重大な、決定的意義を持つものであった」。
 「以上のような原則的究明をはたして、うやむやの折衷主義的妥協に陥らず科学的社会主義の党建設論の基本を貫いたことは、この複雑、困難な事態の科学的打開と共に、第7回当大会後の党発展を確固とした軌道に置く上で重要な決定的意義を持つものであった」

 宮顕派にとって、鬼に金棒的な証文を手にしたということであろう。

 亀山の「戦後日本共産党の二重帳簿」は、貴重な史実を明らかにしている。それによると、この時出された「50年問題について」の原案として、50年問題委員会の調査結果をもとにして春日正一によって起草された文書(春日文書)があり、全文61頁(2万3千字)に及ぶ膨大なもので、詳細に分裂の経過と統一の過程並びにその教訓を纏め上げていた。「ところが、これが、またもや宮本の横槍によって日の目を見ない結果になった」とある。今日では、宮顕が大幅に恣意的な文書改竄を為していることが判明しているが、この当時の指導部はどういう観点によってかこれを明らかにせず、問題にならぬよう秘密裏の処理で済ませている。その改竄内容を見るに全く醜悪にも、「一切の過程が宮本を最上の正しい指導者であったとする見地から書き換えられている」。亀山は次のように告発している。
 「宮本のこの態度に、私は全くうんざりした。宮本の文書作成上における粘りとその自己美化の執念に、私は内心『これは大変な男だ。恐るべき異常心理だ』と思った」。

 この「春日文書」は、拡中委の全出席者に配布されたが、宮顕の「討議の対象にならない」の一言で回収され、日の目を見ないことになった。理由は、「常任幹部会でも、これを一度も討議していないから」、「内容にも正しくないところがたくさんある」というものであったらしい。この結果が「50年問題について」の発表であり、宮顕の改竄により肝心なところに限り用意周到に内容が変更されていた。次のように批判している。
 「それは党のヘゲモニー奪取のための、歴史の偽造である点において、戦後党史に比類の無い下劣な陰謀であった。何故こういう汚辱に充ちた陰謀が大手をふってまかり通ったかといえば、それは今となっては私等が不明であったとしかいいようがない。あるいは、別の言葉でいえば、宮本と宮本派閥の数で押し切ったというほかに云いようがない」。

 上述の如くの多弁の末に強調されたのが次のような「党中央の旗の下への統一と団結」であった。旧党中央に対しては根限り罵声を浴びせるが、新党中央に対しては服従せよという巧妙な理論でしかなかろう。 
 「歴史の事実は党の統一がなににもまして重要であることを教えている。党生活のマルクス・レーニン主義的規準の擁護、そこからの一切の偏向を双葉のうちに克服すること、とくに大会と大会とのあいだの党の中央機関、中央委員会の役割を重視し、どんな条件のもとでもその機能を保持することは、党の生命である全党の統一と団結にとって決定的に重要である」(「50年問題資料文献集」第4分冊所収18ページ)。

【「50年問題について」に伴う自己批判運動について 】
 この時付随してもう一つの重要な問題点があった。それは、「六回大会の中央委員及びその他の役員は、この大分裂を引き起こした責任があるゆえ、その時の指導部の面々は『全員自己批判と経過書を書くべきである』とされ、これに基づいて提出が義務付けられた」ことである。宮顕は、巧妙にこれを宮顕新党中央に対する踏み絵と化した。奇妙なことは、常任幹部会員のうち宮顕、志賀、蔵原、西沢の4名は自己批判書を提出せず、また宮顕派の多田留治、遠坂良一らも応ぜず、紺野、野坂、長谷川、春日正一、松本一三、竹中、松本三益、春日(庄)、神山、亀山、袴田、らの面々は応じている。亀山がその事務局として受け付けたが、「宮本が、『それを書くことは確かに決議したが、発表するとは決めていない。発表方法はまったく討議されていない』と述べたことに唖然とさせられた。怒り心頭に発した」とある。次のように証言している。
 「私は最後に、大譲歩のつもりで、『この拡中委においてでもそれを読み上げてはどうか』と主張したが、それも否決された。宮本は、『ここで読み上げると、そういうことをしたということが記録に残るからまずい』とつぶやいていた」。

【モスクワで「64カ国の世界共産党.労働者党会議」開催】
 10.29−11.16日、社会主義革命40周年記念祝典の機会に、モスクワにおいて「64カ国の世界共産党.労働者党会議」が開かれことになり、党代表団として団長志賀.団員蔵原が出席することになった。党に初の渡航許可が降り、党代表が、世界の共産主義運動の会議に公然と参加したのはこれが最初となった。「平和宣言及び社会主義12カ国宣言」を発表した。平和宣言は、平和を守り、原子戦争の危険を防ぐことが、全世界のもっとも重要な課題であることを強調しながら、原水爆の即時停止とその製造の無条件禁止を呼びかけた。

【宮顕がジグザグデモ規制】
 11.1日、第3回原水爆禁止世界大会の決議に基づく国際共同行動デーとして、日本全国各地100ヶ所で集会.デモが行われ、その参加者は約80万と言われたが、全学連は81大学181自治会で十数万の学生が参加した。この時、全学連中執内で対立が発生した。全学連多数派のジグザグ.デモ指揮に対して、一部の学生自治会はこれを拒否した。全学連中執は、「階級的裏切り行為」、「分裂行動」であるとしてこれを激しく非難した。責任追及は2名の中執(早大.神戸大)に及び罷免した。この時全学連と共産党がジグザグ.デモをめぐって対立している。「11月の国際行動デーに際し、共産党本部はジグザグ.デモはしない方針をたてた。ところが、全学連はこれをけってジグザグ.デモをしたが、‐‐‐高野派(早稲田大学グループ)は『大衆と共に闘うために』というので、パレード方式をとり、高野君はオープンから指揮をとって、のどかに風船デモをやった」(57.11.14日「読売新聞解説」)。

【「党大会議案書」が出揃う 】
 11.5日、「第7回大会のための中央委員会政治報告」と「50年問題について」の総括文書を発表。安東「戦後日本共産党私記」は次のように評している。
 概要「こうして党大会の議案書が全て出揃うことになった。この時を待ちわびていたかのようにして討論が堰を切ったように為されていくことになった。それは討論というよりも論争と呼ぶのがふさわしく、賛否両論が活発に争われるに至る。前衛誌上では盛りきれなくなったこの論争のために別冊の討論誌『団結と前進』が隔月に刊行されることになった。その他にも各級機関が発行する『党報』、細胞の機関紙がそれぞれに大会討論を掲載するといった具合である。その盛んな有様と表現の自由さは、日本の党の歴史上はもちろんのこと、諸外国の党の事例に照らしてもかってなかったものであったと云えよう」。 

【「社会主義12カ国モスクワ宣言」 】
 11.16−19日、モスクワで社会主義革命40周年祝典。志賀,蔵原.初の国際会議出席。「64カ国共産党.労働者党会議」に訪ソ中の党代表団が参加し、「社会主義12カ国モスクワ宣言」発表された。これが1960年のモスクワ声明に至ることになる。12カ国とは、ソ連、中国、アルバニア、ブルガリア、ハンガリー、ベトナム、東ドイツ、朝鮮、モンゴル、ポーランド、ルーマニア、チョコスロバキア。「64カ国共産党.労働者党会議」の「平和の呼びかけ」が採択された。

 この時、ソ共はスターリン批判と共に、国際的な平和共存を強調し、新しい国際情勢の下で資本主義国の社会主義への平和的移行の可能性を提起した。だが、中共はこの方針に反対し意見の食い違いが表面化した。


 11.29日、常任幹部会は、「12カ国モスクワ宣言」と「64カ国の平和の呼びかけ」の二つの文書を支持する決議を発表、「宣言を無条件に支持する」とした。

 推定党員数38500名。
【反日共系左翼「日本トロツキスト連盟」→「革共同」の誕生】
 この頃の学生運動につき、「第4期・全学連の再建期、新左翼(トロツキズム)の潮流発生、ブント系全学連の誕生」に記す。

 10月頃、黒田寛一を中心に学生.労働者.インテリ層で「弁証法研究会」がつくられその機関誌「探求」が発行された。この黒田や西京司とトロッキー主義によるレーニン主義の継承と発展をめざす太田竜(栗原登一)らで「日本トロツキスト連盟」とその機関紙「第4インターナショナル」が発足した。この流れが後に「日本革命的共産主義者同盟」となっていった。「純トロツキスト系」とも呼ばれ、後に誕生する共産同を「準トロツキスト系」として区別されることになる。

 12月、日本トロツキスト連盟は、日本革命的共産主義者同盟(革共同) と改称した。この流れには西京司(京大)氏の合流が関係している。日本トロツキスト連盟の「加入戦術」が巧を奏してか、かなりの影響力を持っていた日本共産党京都府委員の西京司氏が57.4月頃に「連盟」に加入してくること になり、その勢いを得てあらためて黒田寛一、太田竜、西京司、岡谷らを中心にした革共同の結成へと向かうことになった訳である。この時点から日本トロッキスト運動の本格的開始がなされたと考えられる。この流れで58年前後、 全学連の急進主義的活動家に対してフラク活動がかなり強力に進められていくことになった。
ただし、革共同内は、同盟結成後も引き続きゴタゴタが続いていくことになった。善意で見れば、それほど理論闘争が重視されていたという ことかも知れぬ。

【全学連内に新党フラクションが結成される】
  この頃の学生運動につき、「第4期・全学連の再建期、新左翼(トロツキズム)の潮流発生、ブント系全学連の誕生」に記す。

 自主的に再建された全学連はこの頃党派性を強めていくことになった。57.12月島・生田・佐伯の三名は、横浜の佐伯の家で新党旗揚げのためのフラクション結成を決意している。党内分派禁止規律に対する自覚した違反を敢えてなそうとしていたことになる。この僅か3名のスタートが翌年のブント結成の萌芽となった。


 彼らは、日本トロツキスト連盟派のオルグに応じなかったグループということにもなるが、この頃トロツキー及びトロツキズムとは何ものであるのかについて懸命に調査を開始していったようである。ご多分に漏れず、彼らもまたこの時まで党のスターリン主義的な思想教育の影響を受けてトロツキズムについては封印状態であった。この時、対馬忠行・太田竜らの著作の助けを借りながら禁断の書トロツキー著作本が貪るように読まれて いくことになった。「一枚一枚眼のうろこが落ちる思いであった。決して過去になったものではない。現代の世界に迫りうる思想とも感じた」(戦後史の証言ブント、島)とある。東大細胞の生田浩二・佐伯秀光・冨岡倍雄・青木昌彦、早大の片山○夫、小泉修一ら、関西の星宮らがレーニン・トロツキー路線による国際共産主義運動の見直しに取りかかり、理論展開し始めた。

【山口一理の論文の衝撃】
 山口一理の論文 「10月革命の道とわれわれの道−国際共産主義運動の歴史的教訓」(後に結成されるブントの原典となったと言われている)と「プロレタリア世界革命万才!」を掲載した日本共産党東大細胞機関紙「マルクス・レーニン主義」第9号が刷り上がったのが57.12月の大晦日の夜であった。この「山口一理論文」は、かなり長大な文面で、国際共産主義運動と日本共産党の運動を系統的に批判的総括しており、全学連急進主義者たちに衝撃的な影響を与えていくことになった。特に当時の日本共産党に対する「『敵は優勢、味方は劣勢』という空虚なスローガンによってズブズブの大衆追随主義に革命部隊を封じ込め、抽象的な『平和と民主主義』のスローガンによって、プロレタリアートの前衛的部隊を武装解除させてしまったのであった」という認識は、宮顕主導の右翼的党運動に対する鋭角的なアンチの観点となった。

 この「山口一理論文」論文が理論的な武器になり、主に日本共産党東大細胞たちを中心として、その影響下にあった学生達が中心となって後述するブント結成へむかうことになる。

 1957年、童謡詩人サトウハチロー氏が、同人誌「木曜手帳」創刊。1973年に亡くなるまで主催し、その後は宮中雲子ら弟子の手で続刊した。2006.6月下旬発行の600号でひとまず終刊した。サトウハチローが重視したのは「心は優しく、言葉は美しく」。





(私論.私見)