【1956年の主なできごと】
徳球系次々と排斥される。
 (最新見直し2009.8.12日)

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第4期、全学連の再建期、新左翼(トロツキズム)の潮流発生、ブント系全学連の誕生」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2002.10.20日 れんだいこ拝


1.6 【志田重男,突然失踪】中央常任幹部会員で書記局員でもある志田重男が突然失踪した。この時期志田はスキャンダル騒動の渦中にあり党の調査を受けるはめにあった。志田はこの調査を拒否し逃亡した。志田は、後日反旗を挙げることになる。党本部,機密資料を回収。
1.13 党員が最盛時の3分の1になったと発表される。
1.14 〜15日、.全学連.法政.中執委員会.停滞した活動を分析。 早大ではこの頃、全学協は開店休業、部室は隣の協組食堂の倉庫となる。
1.25 元ソ連代表部の首席代理ドムニツキーが秘密裏に鳩山宅を訪れ、一通の手紙を手渡した。文面には、「ソ連側は、日ソ関係の正常化を目指して意見交換を行うことは時宜に適するものと信じる」と書かれていた。鳩山は誘いに乗り、日ソ交渉の幕開けとなる。
2.14 【スターリン批判】「ソ連共産党第20回大会」が開催され、フルシチョフとミコヤンによる「スターリン批判」が為された(2.24日)。スターリンが指導していた時期の内外政策の誤り、特に社会主義的民主主義と法秩序を無視した恣意的独断的指導についての詳しい報告が行われた。両体制の平和共存、戦争の宿命的不可避性の否定、「革命の平和的移行の可能性」が提起された。コミンフォルムの解散が宣言された。
2.19 週刊新潮発刊。
3.6 「第5中総」でソ連党大会決議支持表明。原水禁運動について決議。
3.15 党中央委員会、アメリカの南太平洋での水爆実験中止の呼びかけ発表。
3.19 鳩山内閣が小選挙区制法案を国会に提出。
3.19 住宅公団が初の入居者募集開始。
3.24 「ソ同盟共産党第20回大会について」をアカハタに発表。
4.5 自民党臨時大会、初代総裁に鳩山を選出。
4.16 「第六回中総」。6全協以後の内外情勢を検討。「大衆運動や大衆の中での活動と党内問題の解決は統一して行うべきこと」を強調して、党の任務と各分野の活動方針を具体化。  志田問題を正式に審議し、1.6日以降の失踪の事実を確認して審議し、彼を「常任幹部会と書記局の一員たる任務から解任する」という処置を決議した。公表は6.6日付けの常任幹部会の「志田重男君同志についての発表」なる文書で公にされた。
4.17 コミンフォルム解散宣言。運動における各民族の独自性を強調して解散することとなった。
4.24 中央委員会声明、「小選挙区制法案を永久に葬りさるために」をアカハタに発表。 
4.26 東京教育大学細胞は、機関紙「夜明け」の中で、「六全協」後の党指導による穏和化路線に対し、「これら一連の誤った傾向は、革命的前衛党の本旨とするところではなく、マルクス.レーニン主義とは無縁である」と指摘した。
5.9 【日ソ漁業協定妥結】日ソ復交への道が開かれた。河野一郎が24名の全権団を率いて交渉した。相手はイシコフ漁業相。ブルガーリン首相との直談判に漕ぎ着けた。この時、「北方領土問題」が話し合われており、「日露戦争で日本が勝ったときには、ソ連から樺太も取ったし、漁業権益も取った。今度は日本が負けた。こっちの言うことを聞くのは当然であろう。もし、国後、択捉島を返還したら、ソ連は戦争に勝ったのかどうか判らないではないか。そんな馬鹿なことは、ソ連首相として出来る筈がない」との反論が為された。 
5.15 干されていた「神山問題」が解決した。神山グループの処分に対する不当性が確認され、その取り消しが行われた。(「若干の同志たちの除名及び処置の取り消しに関する決定」)
6月 早大細胞の高野全学連書記長が砂川闘争を指揮。
6.2 教育二法・小選挙区制法案を巡って国会は大荒れ、警官隊導入。
6.3 小選挙区法案、審議未了で廃案。
6.6 党中央常任幹部会が、志田重男を「常任幹部会及び書記局の一員」からの解任を発表した。「(志田は)1.6日、自ら常任幹部会との連絡を断った。その結果常任幹部会で手を尽くしたが、今日にいたるまで、彼の所在は不明で任務に復帰していない」、「志田同士の上記のような行動は、あきらかに重大な責任ある任務の放棄であり、党の規律に反するものである。この点については、中央委員会はさらに慎重に調査をすすめる」。
6.15 【「門松理論」の登場】東大学生運動研究会が「日本の学生運動」()を上宰した。第1部「きたるべき日本革命の戦略と学生運動の位置」を書いた門松暁鐘は、当時の諸見解との混交ながら注目すべき内容を具申していた。民族独立を伴う社会主義革命という戦略目標に辿り着き、その観点から、党の新綱領への批判を放っていた。ここに、左派社会党綱領の民族独立社会主義平和革命方式論、共産党の民族解放民主革命平和革命否定論、民族解放社会主義革命平和革命否定論という三論点がでてきたことになる。
6.28 「独立.民主主義のための解放闘争途上の若干の問題について」を採択
7.8 第4回参議院選挙。党は、全国区60万票、1名岩間正男当選。地方区115万票、1名野坂参三当選の2名当選。自民61(19.42)、社会49(21.28)、緑風5(5.0)、諸派1(1.0)、無所属9(5.4)。創価学会が国会に初進出。
7.17 経済企画庁「経済白書」で、「もはや戦後ではない」と新た経済目標提示(「日本経済の成長と近代化」)→高度経済成長の出発を宣言。
7.24 『毎日新聞』が「暴力団新地図」の連載開始→「暴力団と政治家の癒着」を報道する(8月30日まで)。
7.25 世界政治資料発刊。
7.28 産別会議第6回大会で、春日(正)が党の誤りを自己批判し陳謝する。
8.2 千島問題など日ソ間の領土問題について常任幹部会声明。
9.8 中立労働組合連絡会議中立労連結成
9.10 「第8回中総」開催。参議院選挙の総括「参議院選挙の総括とわが党の任務」採択、平和運動の方針、党大会の開催、「農業.農民問題の解決の為に」を採択。 第七回党大会の開催が決定された。  
【椎野罷免処分される】志田が放逐されて以降のこの頃かっての「臨中」議長で追放後地下に入って志田の最大の協力者となった椎野に対しても、地下時代の婦人同志への不道徳行為により党の調査が及ぶようになった。椎野もこれを拒否し、敵対的態度をとったため「規約第38条に基づき中央委員の地位から罷免する」処分が行われ除名された。こうして志田重男と椎野悦郎が相次いで失脚させられた。志田の離党も確認された。 
9月 全学連7回中央委員会が名古屋で開かれた。自治会サービス論が満展開された。
9月 神山の『スターリンの業績と害悪、個人崇拝の一般特殊的条件とその克服方法などの問題についてはもうだいたい知られている=率直な意見-トリアッティ提案を読んで←「世界」)』。党も神山もこの程度であった。
10.11月ポーランド.ハンガリー動乱。ソ連軍介入。党はソ連の武力介入を支持した。
10.7 鳩山全権団が羽田を出発。鳩山の引退花道となった。モスクワ空港にはブルガーリン首相が出迎えた。10.15日鳩山首相がモスクワに行き、クレムリン宮殿で交渉始まる。
10.12 立川基地拡張の第二次強制測量。反対闘争強まる。
10.13 砂川の激突.→測量中止.(安東・続-50)武装警官隊に襲われ、学生1000名重軽傷。砂川闘争では都委員会も全組織をあげてよく戦ったが,中央部のスターリン的干渉に悩まされた。
10.19 【日ソ国交回復共同宣言、通商航海に関する議定書調印】概要「歯舞諸島、色丹島を日本に引き渡すことに同意する。但し、現実には日ソ間の平和条約締結後に歯舞諸島、色丹島を日本に引き渡すものとする」と明記された。北方領土問題取り残される。
10.23 【ハンガリー暴動】。首都ブダベストから始まって全土に広がった。戦車隊と空軍まで動員したソ連軍の弾圧によって約2週間後に鎮圧された。ソ連軍が鎮圧。
10.29 スエズ動乱。
11.1 愛媛県教育委員会、全国に先駆けて教員の昇給・昇格の勤務評定実施を決定=「教師たちの通信簿=勤評」→以後全国で「勤評」反対斗争の嵐、全国に吹き荒れる。
11.2 鳩山首相、日ソ共同宣言調印を機に引退を表明→自民党内に「7個師団3連隊」と称された派閥が割拠する。
11.5 〜7日全国書記会議開催。「中央及び下級組織の強化と地方委の任務の明確化について」を決定。
11.7 【「第9回中総」開催】第7回党大会準備のための「綱領」.「規約」の各委員会とともに「50年以後の党内問題の調査」の委員会設立を決定した。春日(正)を責任者とし、50年以来の経過を詳しく調査していくことになった。「規約改正委員会」は責任者を紺野与次郎とし、伊井弥四郎.戌谷春松ら8人の委員が草案を練った。「綱領委員会」は、宮本顕治を責任者として、以降57.3月下旬までに、綱領原案の骨子ともいうべき文書が、委員会の責任者であった宮本により準備され、この宮本メモが討議の出発点となった。
11.20 「常任幹部会」の「椎野問題に対する経過」という文書で椎野の罷免が発表された。ここに、50年分裂後の徳田主流派の最高指導部にあった三人の幹部伊藤.志田.椎野の指導者が揃いも揃って失脚させられたことになる。
11月 大沢等スターリン批判の深化を強調する  
11月 ハンガリー事件で、早大.一政委員会が抗議声明、ソ連大使館に抗議文手交。早大細胞は沈黙した。高野秀夫「ハンガリー出兵に対して、断固たる抗議行動が行えなかったのは、日本学生運動の恥辱である」。全学連内で主流・反主流論争表面化。高野秀夫は、反主流「構造改良派」の雄として50年代後半の学生運動を指導。
11.25 「 日本民主青年団」が「日本民主青年同盟」として発足。全学連は一本にまとまった。
【日本トロッキスト運動開始される】 ハンガリーに対するソ連の武力介入を党が公然と支持したことが、学生たちを離反させた。スターリン批判と「六全協」での自己批判により、一転して従来の軍事方針は間違いであったと発表したことが、党の無謬性神話が崩れ、全学連の幹部党員の間には、新しいマルクス主義本来の立場に却って共産党に見切りをつけて新しい組織を模索していくことになった。スターリン以前の国際共産主義運動の再評価から急速にトロッキズムに傾いていくことになった。
11.22 第3次鳩山内閣が成立した。鳩山内閣の手で日ソ国交回復が為された。
12.5 冷害地帯で娘の身売りが激増。
12.14 自民党大会で総裁選出選挙→上位2人の決戦投票、石橋堪山7票差で岸を破り、自民党第2代総裁に当選。
12.18 国連総会、日本の国連加盟可決。従来国連への加盟はソ連の反対にあって退けられてきた。日ソ共同宣言の実現により可能となった。
12.20 第三次鳩山内閣総辞職で退陣。
12.23 【石橋湛山内閣(56.12.23〜)成立】鳩山内閣退陣の後を受けて自民党総裁選が戦われた。石橋が7票の僅差で岸を破り、12.23日石橋湛山内閣(56.12.23〜)成立 。三木(49歳)幹事長、池田(58歳)蔵相、石田(42歳)官房長官。みんな若かった。この時池田は「私はウソを申しません」。 →翌年2.23日総辞職。
12月 トラック部隊事件の報道広がり、常任幹部会は当局の中傷と声明する。
12.25 人民党書記長瀬長亀次郎が那覇市長に当選。
この年、イタリア共産党は、スターリン批判、社会主義へのイタリアの道=構造改革路線を打ち出した。全学連〃学生運動では、1956年というのは、国際派ルネッサンスとでもいうべき年で、運動の形成の方法も、50年のレッドパージ反対闘争の復興の季節となった。


【 戦後党史第三期】/ 【ミニ第A期】= 宮顕派が党内急進派の弾圧に乗り出す
 以降、宮顕は党内反対派の粛清に血眼になる。第二弾は党内急進派の掃討戦となった。主に学生運動グループが狙われ、その他戦闘的大衆団体も標的にされる。やがて58年第7回党大会に至るが、ミニ第@期から第7回党大会に至るこの期間を【戦後党史第三期のミニ第A期】とみなすことができる。

【志田重男が突然失踪】
 1.6日、中央常任幹部会員で書記局員でもある志田重男が突然失踪した。この時期志田はスキャンダル騒動の渦中にあり党の調査を受けるはめにあった。神明町における志田の芸者遊び=お竹事件、トラック部隊についての責任が問われた。志田はこの調査を拒否し逃亡した。志田は、後日反旗を挙げることになる。「逃亡の理由が政治的意見の相違にあるかのようにいつわって反党分派を組織し、党のかく乱を企てた」ことにより「党中央は、志田を除名し、その策動を粉砕した」と総括されている。共産党本部は機密資料を回収。
(私見・私論) 「志田失踪の背景」について
 この時期に志田が逃亡した背景には、六全協後の志田−宮顕行脚による宮顕党中央化がほぼ完了して、志田が用済みになったということであろう。それにしても、真っ当な政策論争、過去の党運動に対する政治責任追及によってではなく、スキャンダル暴露による追い詰めと言う手法に拠った卑劣さが見えてくる。

 1.13日、党員が最盛時の3分の1になったと発表される。

 1.25日、元ソ連代表部の首席代理ドムニツキーが秘密裏に鳩山宅を訪れ、一通の手紙を手渡した。文面には、「ソ連側は、日ソ関係の正常化を目指して意見交換を行うことは時宜に適するものと信じる」と書かれていた。鳩山は誘いに乗り、日ソ交渉の幕開けとなる。しかし、国後(くなしり).択捉(えとろふ).色丹(しこたん).歯舞(はぽまい)の北方領土の帰属を巡ってソ連との話し合いがつかず難航を極めることとなった。この時の外務省条約局長は下田武三、交渉の全過程に参画した。氏の「戦後日本外交の証言」では、「鳩山派と重光外相との対立に加えて、鳩山派と吉田派との対立が同一政党(自由民主党)内に持ち込まれた為、却って党内の意見対立が激化する結果を招き、それがさらに交渉に暗影を落とした」とある。最終的に、鳩山は、領土問題を先送りしてでも国交回復を優先すべきだと決断した。「領土は何年たってもなくなることはないが、人の命には限りがある。国連に加盟できれば、択捉、国後についても話し合いの出来る機会が生まれるに違いない。これが当時私の胸に深く刻み込まれていた信念であった」(「回想録」)。
【緒方竹虎急死】
 1.28日、鳩山の後継首相候補の地位にあった緒方竹虎が総裁公選を前に心臓病で急死した(69歳)。昨19555年の党合同の際には、首脳部の間では、総裁の座は「鳩山→緒方→岸」と譲られていくというのが暗黙の了解とされていた。この了解が緒方の急逝で崩れた。党首選挙は延期され、総裁代行委員の後任には石井光次郎が充てられた。自民党の総裁問題は自然に鳩山総裁に向かうことになった。

 CIAは「日本及び米国政府の双方にとって実に不運だ」と報告している。ダレスが遺族に弔電を打った記録もある。結局、鳩山が初代自由民主党総裁に就任。CIAは緒方の後の政治工作対象を、賀屋興宣や岸信介に切り替えていく。


 1.28−29日、「第4回中総」。日ソ国交回復運動、「党の統一と団結のための歴史上の教訓として」 採択。「(50年問題を)事実問題として、また理論問題として正しく詳細に分析するには、なお十分な研究と相当の時間が必要である」としながらも、戦後再建された党の弱点、50年問題の経過の中の問題点、党の統一と団結の重要性とそのための若干の教訓など、のちの50年問題総括の一定の出発点となる諸事項を指摘した。

 2月、中野好夫氏が文芸春秋紙上で「もはや戦後ではない」と記し、実感をもって認知された。 
【「ソ連共産党第20回大会」その1・「フルシチョフ・テーゼ」の打ち出し】
 2.14−25日、「ソ連共産党第20回大会」が開催された。この大会で、その1・「フルシチョフ・テーゼ」の打ち出しと、その2・「衝撃のスターリン批判」、その3・コミンフォルムの解散、4・第6次五カ年計画(1956―60年)が宣言された。これらにおいて「ソ連共産党第20回大会」は極めて歴史的な深い意味を持っている。

 その1・「フルシチョフ・テーゼ」の打ち出しとは、@・社会体制の異なる諸国家間の平和共存、A・戦争の宿命的不可避性の否定=世界大戦防止の可能性、B・社会主義革命の多様性、社会主義への平和的移行の可能性、C・ソ連共産党と各国共産党との新規定等々を発表した。これらはいずれも従来のレーニン、スターリンの理論に大胆な修正を加えたものだった。

 このフルシチョフ・テーゼは概ね歓迎された。
特に、「現代では世界大戦を防止する現実的可能性がある」という主張は、大戦不可避論を否定して平和維持への展望を切り開いており、賛否両論を招いたが大胆な指摘であった。社会主義革命の多様性では、議会制民主主義による可能性にも肯定的に言及していた。「議会をブルジョア民主主義の機関から、真に人民の意思を代表する道具に変える可能性がある。このような場合、多くの高度に発達した資本主義国で伝統となっているこの機関は、真の民主主義、勤労人民の為の民主主義の機関となることができる」。
(私見・私論) 「フルシチョフ・テーゼ」について
 この時の「フルシチョフ・テーゼ」の理論創造的な意義ないしは批判についての論及を、その後の左翼運動全体が歴史の彼方に葬ったまま今日に至っている気がしないでもない。この作業は、フルシチョフの失脚によりなおさら闇に隠れてしまって今日に至っている。それでいて、ソ共も各国の共産党も「フルシチョフ・テーゼ」に色濃いマルクス主義運動の穏和化、その象徴的な現われとしての「平和共存政策」、「構造改革路線」を継承し二度と手放さず歩み始めたという経過を見せている。意義を高く評価しようが否定的批判に向かおうが、こういう「フルシチョフ・テーゼ」の未考察情況はマルクス主義運動を担う者の腐敗であり、有り得て良い事ではないように思われる。

【「ソ連共産党第20回大会」その2・「衝撃のスターリン批判」
 2.24日、大会最終日、全日程が済み、宿舎にもどった代議員を夜半午後10時に再招集するという「非常手段」を講じて、秘密報告「個人崇拝とその結果について」が発表され、フルシチョフとミコヤンによる「スターリン批判」が為された。スターリンが指導していた時期の内外政策の誤り、特に社会主義的民主主義と法秩序を無視した恣意的独断的指導、党、軍の多数の幹部の粛正の実態についての詳しい報告が行われた。

 フルシチョフは、独裁者スターリンの「旧悪」を世界中に知れ渡るように暴露した。スターリンがナチスと結んだ独ソ不可侵条約を批判し、モスクワ裁判を通じた大粛清により党幹部、政敵、反対派、無実の人々に対する抹殺を事実と認めた。それによると、1934年の「勝利者の大会」と呼ばれた第17回共産党大会で選任された139名の中央委員、同候補のうち実に98名が37〜38年にかけて敵の手先として銃殺され、この時期に殺された農民まで含めると数百万人にのぼるという。1953.3.15日のスターリン死後3年目のことであった。


 宮地氏は不破哲三の宮本顕治批判で次のように評している。
 「その内容レベルは、ソ連共産党・国家の誤りと責任を、スターリン個人の資質・独裁に転化・矮小化し、フルシチョフら側近の責任を棚上げした、まったく不十分なものでした。なぜ〔秘密報告〕が行なわれたかは、その内容・形式にしろ、スターリン死後、一定の誤りを“公的”に認めないかぎり、ソ連国民、2000万人から5000万人の被粛清犠牲者との関係で、ソ連型社会主義システムをそれ以上維持できないという危機意識によって、ソ連共産党政治局が一致したからです」。

 大会の直後のイタリア共産党トリアッチの指摘。
 「全ての悪を、スターリンの個人的欠陥として告発することだけに事実上終わっているから、個人崇拝という枠内にとどまっているのである。以前は、あらゆる正しさは一人の男の超人的な才能に負っていた。そして今は、あらゆる誤りは、その同じ男の、他に類を見ない恐るべき欠陥のせいなのである。どちらの場合をとっても、マルクス主義の本来の基準からはずれているのではないか」。

 党は、「スターリン批判」の諸問題を「家父長的指導、個人崇拝の弊害」に限定して捉え、集団指導制の強化をもってするならば弊害を正すことが出来ると安易に乗り切ろうとした。米原は、「スターリン批判と我々の態度−六全協一周年にあたって」(前衛.9月号)で、その様な観点から概要「個人中心的な指導、家父長的な指導の問題は、六全協で解決済み」と述べていた。これに対し神山は、「まだまだ不徹底である」と表明していた。「問題はそこまでであって、スターリン統治下の誤謬や犯罪、そしてそれらを支えた制度、組織の究明という問題意識はなかった」(安東「戦後日本共産党私記」)。

 上田耕一郎は、次のように述べている。
 「すべてのマルクス主義者が例外なく信じている見解でさえ、まったくちがっていることがありうるということを、苦渋とともに悟らされた以上、私たちの進路をさぐるためにも、すでに歴史的判定のくだったものと思われるもろもろの過去の足跡の、いくつかの曲がり角について、捨て去った方向について、見えなかった道について、その隅々まで新しく自分の目で見直すことを、フルシチョフ報告は強いているともいえよう」。

 「スターリン批判」の問題を様々な理論的諸問題まで押し広げて解明せねばならないと主張したのが黒田貫一であった。次のように述べている。
 概要「マルクスやエンゲルスの世界革命論が、レーニンの死とスターリンによる一国社会主義論へと歪曲され、世界革命論を主張していたトロツキー派の粛清、ソ連邦の自由工業政策、『ノルマ制労働』などが強行された結果、ナチズム.ドイツによるソ連侵略からの『大祖国戦争』と合体した結果、ある種の変質が不可避となり、結果的にいわゆるスターリン社会が現出した。この経過を理論的且つ実践的に克服してゆかねばならない」と述べていた。
(私論.私見)
 この時点の反応としては高い水準のそれであったと評価されよう。

【伊藤律の「スターリン批判」観】
 このスターリン批判に対して、獄中にあった伊藤律は次のように自問自答している。

 「フルシチョフの秘密報告『スターリン批判』には、深い衝撃と共に数々の疑問を抱いた。レーニン逝去後、ソ連及び国際共産主義運動の中心人物として絶大な威信を誇り、神格化されたスターリンの誤りを、勇敢に大胆率直に公然と批判したソ連共産党は、プロレタリア革命に対する忠誠と責任感を示した。深い感銘があり、教訓でもあったが、それと共に、このスターリン批判はいささか行き過ぎではないかという疑問が湧いた。もちろん具体的な根拠があるわけではない。だが、レーニン亡き後ソ連の社会主義建設と、二千万人もの犠牲にも屈せず人類を救う反ナチ祖国防衛戦争を指導したソ連共産党の中心人物はまぎれもなくスターリンだった。百十の誤りがあろうと、この業績を無視し、一切を否定してしまってよいものであろうか? 偶像を神の座から引き下ろすためには、多少の行き過ぎも有り得ようけれども。次の疑問は、この秘密報告が完全に事実だったとしても、かくも恐ろしい犯罪的な誤りをスターリン個人の粗暴で独断的な性格と彼への個人崇拝だけに帰し得るだろうか? 彼が個人崇拝を利用し、路線闘争において相手に『帝国主義の手先』や『裏切り者』というレッテルを貼って片付ける傾向があったことは確かだが、この欠陥は決して彼特有のものではなく、程度の差こそあれ、日本共産党の歴史にも見られる決して珍しくない現象である。まして神格化されたスターリンにとって、かくも多数の忠実な革命戦士、それに外国友党の幹部までを陥れて葬り去らねばならない個人的理由は、どう考えても存在しない。彼が誤って同志を殺したり獄死させたとあるが、何ゆえそのような誤った判断をしたのか全く説明がない。この批判は誰の、どのような報告又は告発に基づくものなのか? 犠牲者たちの名誉は回復されても、彼らが陥れられた具体的経過の発表がない。

 私の場合も『節操のない人間。即時処理せよ』とソ共中央、つまりスターリンが勧告してきたと野坂は宣告したが、ソ共中央が誰からの、どのような報告に基づいてこう勧告したのか、野坂は一言も説明しなかった。問題の一切の責任をスターリン個人に帰し、その粗暴性と個人崇拝に減員を求めることは明らかに不可能である。この驚くべき重大な誤りは、党の構造と気質、一言で言えば党の体質に起因しているのではないか? 今になって殺人鬼みたいにスターリンを非難するが、その同じ人間が、これまで彼を神様扱いしてきたのではないのか? それは何ゆえか? さらに第三の疑問点あるいは意見を述べて見る。昨日までスターリンを神の如く崇拝していたソビエト及び各国共産党員が、今日はその偶像を足で踏み砕く。昨日は天まで持ち上げていたのに、今日は地獄の底に突き落とす。これでは共産主義者の見識と道徳観がまず問われるのではないか? これは人事ではなく、自分自身の問題である。前には良く分かりもせずスターリンを崇拝し、いったん重大な誤りが暴露されるや、その具体的内容を検討もせず、寄ってたかって叩き潰す。これは共産主義とは無縁の野次馬根性だ。その本質は付和雷同的なプチブル思想である。この野次馬根性は日本共産党にも創立以来色濃く流れ、世界各国友党にも存在する『宿あ』ではないのか? 最後に、どうしても理解できないのは、ソ共20回大会での『秘密報告』が即座に、ことによると公表以前に全文アメリカ帝国主義の手に入っていた点である」。
 毛沢東は、次のように語っている。
 「一人の人物を正しく評価するには、その全面を見るべきであり、一面のみから、特に自分との関係のみから判断してはならない。スターリンは中国革命に大損害を与えたが、彼の活動全般からすれば、やはり功績が主要部分である。公正に評価して『功績7分、誤り3分』」。

  3.6−8日、「第5中総」でソ連党大会決議支持表明。原水禁運動について決議。

 トリアッチは、とはいうもののソ連共産党第20回党大会後よりフルシチョフの平和共存体制論に依拠しつつ構造改革論(「トリアッチの構造改革論」)を展開していくことになった。「社会主義へのイタリアの道」を唱え、イタリア憲法の枠内で社会主義の移行を見出そうとし始めることになる。トリアッチのこの提起が日本の左派運動に影響を与えることになる。「社会主義へのイタリアの道」とは、「イタリア憲法に綱領的正確を与え、憲法そのものに描き出されている民主主義的方法によって行われるべき社会改造の大改良の計画を憲法によって確立する」(1956年のイタリア共産党第8回大会への報告)というものであった。

 3.19日、1955.5.26日に鳩山内閣の仕事始めとして、第5次選挙制度調査会を発足させたが、その答申を受けてこの日閣議決定の上公職選挙法改正案を国会に提出した。この案は定数を30増やして497とし、一任区455と二人区21を設けた単純小選挙区制であった。選挙区の区割りが旧民主党系に都合よく線引きされていたり、労働組合の選挙活動禁止や立会演説会の廃止がうたわれていたことから反対運動が活発化した。社会党のみならず与党の中でも旧自由党系が反対に回った。世論も「ハトマンダー」と呼んで非難した。すったもんだの末、6.3日廃案となる。
 3.21日、ソ連が閣僚会議で「サケ・マス保護のために日本の北洋漁業の禁止」決定をし、モスクワ放送がこれを伝えた。ロンドン交渉が進展しないことに対するソ連側の制裁措置であった。日本政府はすぐさま抗議したが、「ソ連としては、日ソ漁業協定が締結されない限り、北洋におけるサケ、マスの制限措置の緩和は考慮しない」と回答されてきた。
【「自民党の総裁公選で、鳩山が初代自民党総裁に選出される】
 4.5日、自民党の総裁公選で、鳩山が信任投票の形で394票、その他19、無効票76の白票95で、初代自民党総裁に選出された。鳩山一郎394、岸信介4、林譲治3、石橋湛山、石井光次郎、益谷秀次、大野伴睦各2、河野一郎、重光葵、松野鶴平、池田隼人各1.

【「第6回中総」開催】
 4.16日〜27日まで12日間を費やして「第6回中総」が開かれた。6全協以後の内外情勢を検討。「大衆運動や大衆の中での活動と党内問題の解決は統一して行うべきこと」を強調して、党の任務と各分野の活動方針を具体化。

 志田問題を正式に審議し、1.6日以降の失踪の事実を確認して審議し、彼を「常任幹部会と書記局の一員たる任務から解任する」という処置を決議した。公表は6.6日付けの常任幹部会の「志田重男君同志についての発表」なる文書で公にされた。
(私見・私論) 田川和夫氏の「第6回中総」批判
 田川和夫氏は「日本共産党史」の中で次のように批判している。
 「凡そかかる物情騒然たる最中に、革命家と云われる者が別のことに熱中していたとしたら、それは世界の革命史を飾るほどの悪質な犯罪であろう。だが日本共産党指導部は、あえてこの歴史的犯罪をおかすことによって、彼らが全く革命家でないことを証明したのである。この時開かれた中央委員総会は、何ら当面の闘争の討議のためのものではなかった。中央委員の面々は、窓の外の大衆闘争をよそに、アカハタ数頁に及ぶ膨大な一般方針と、各分野の方針を、長い時間を借りて丹念に審議していたのである」。
 「官僚主義的形式拘泥主義と保守主義は、常に問題を大胆率直に提起することを不可能にする。かかる様々の事情によってこづきまわされつつ、とにもかくにもデッチあげられたのが、この曖昧な、折衷的な、毒にも薬にもならない、混乱した、あらゆることを述べたてようとして実は何一つ語っていない、その癖右翼的路線だけは明確な一本の糸として貫かれた、『六中総方針』だったのである」、「いずれにしてもこの指導部は、プロレタリアートを革命にまで導いてゆく、資格も能力も持ち合わせていないのである」。

【コミンフォルム解散】
 4.17日、コミンフォルムが運動における各民族の独自性を強調して解散。山辺健太郎氏らはスターリン礼賛。イタリア共産党は、スターリン批判を通じて社会主義へのイタリアの道=構造改革路線を打ち出す。

【全学連のこの頃の闘争、「層としての学生運動論」創造する】
 この頃の学生運動につき、「第4期・全学連の再建期、新左翼(トロツキズム)の潮流発生、ブント系全学連の誕生」に記す。

 この時期の全学連は、「学生運動では、1956年というのは、国際派ルネッサンスとでもいうべき年で、運動の形成の方法も、50年のレッドパージ反対闘争の復興の季節でした」とある。

 4月、全学連第8回中委が開かれた。この「8中委」は、先の「7中委イズム」を「学生の力量を過小評価した日常要求主義が学生運動を沈滞に陥れた」と批判する立場から、全学連の革命的伝統を回復し、当面する重要政治課題、平和擁護闘争を第一義的に掲げ全国一斉に行動を展開するという方針を採択した。こうしてこの「8中委」が全学連再建の基礎をつくることとなった。いわゆる 「8中委.9大会路線」と言う。「8中委」を契機として全学連と反戦学同は、政治闘争を志向する戦術再転換を行ない、急速に組織を立て直していくことになった。

【河野全権団の対ソ外交】
 4月下旬、外相・河野一郎が24名の全権団を率いて対ソ連交渉に出かけた。交渉の相手はイシコフ漁業相が団長、副団長はモイセーエフ、ソルダテンコ。ブルガーリン首相との直談判に漕ぎ着けた。党第一書記フルシチョフもいたと伝えられている。この時、「北方領土問題」が話し合われており、「日露戦争で日本が勝ったときには、ソ連から樺太も取ったし、漁業権益も取った。今度は日本が負けた。こっちの言うことを聞くのは当然であろう。もし、国後、択捉島を返還したら、ソ連は戦争に勝ったのかどうか判らないではないか。そんな馬鹿なことは、ソ連首相として出来る筈がない」との反論が為された。

 5.9日、日ソ漁業協定妥結、調印は5.15日。日ソ復交への道が開かれた。5.26日河野一行は帰国した。

 自民党内の主流派(鳩山.石橋.河野派)は、日ソ国交促進論、岸派と石井派は慎重論、反主流派は二つに分かれていて、旧改進党系(松村.三木武夫.北村徳太郎)は即時復交論、吉田系池田派は絶対反対論。

 「自民党の結党は、鳩山政権の運営をかえって難しいものにした。国会運営という面では有利に働いたものの、鳩山に敵意を抱く吉田直系グループを政権内部に取り込む形になったからである。吉田直系の旧自由党系だけでなく、もともと民主党自体が多様な党派の寄せ集めから成り立っていたため、『保守』という大筋でひとつにまとまってはいたが、ことあるごとに異論が噴出することになる。特に異論が激しかったのは、鳩山が政権の最大の課題としていた日ソ国交回復であった。異論は閣内からも飛び出した。その震源地は副総理級の外務大臣で、もと改進党総裁の重光葵である。重光は、鳩山の次を狙うという思惑もあって、日ソ国交回復には慎重な立場をとった。しかし、鳩山は慎重論を崩さない重光の頭ごしに国交回復交渉の開始を決めてしまう。重光は対抗上、日米安保条約の改定を申し入れるが、米側に時期尚早として拒絶された。外務大臣の重光は立場を利用して日ソ交渉に横槍を入れ、ついに交渉を中断に追い込んでしまう。

 重光は日ソ交渉に批判的な勢力を味方につけて、鳩山の後釜を狙おうとしていたのである。しかし、この思惑が思わぬソ連の反撃を呼ぶことになった。ソ連は北洋漁業の全面禁漁を発表したのである。このままでは日本の漁業は大打撃をうけてしまう。農林大臣の河野一郎はみずから漁業交渉のためにモスクワに飛んだ。河野は早くから鳩山を支えてきた一人であるから、鳩山が掲げた日ソ国交回復を全面的に支援する立場にあった。河野はフルシチョフ、ブルガーニンとの交渉の末、国交回復交渉の早期再開を条件のひとつにした上で漁業協定の締結に成功した。河野にとっては願ったりかなったりである。一方で、重光の影響力は大きく減退した。重光は、退勢を挽回するためにこれまで気乗り薄だった日ソ交渉に自ら乗りだすことを試みる。再開された日ソ交渉に重光は自ら全権として乗り込むが、妥結を急ぐあまりまずい交渉を重ね、ついに交渉中断に追い込まれて自ら総理総裁の目を潰してしまった」(「自民党派閥の歴史」)。

【日共が志田を解任】
 6.6日、党中央常任幹部会が、志田重男を「常任幹部会及び書記局の一員」からの解任を発表した。「(志田は)1.6日、自ら常任幹部会との連絡を断った。その結果常任幹部会で手を尽くしたが、今日にいたるまで、彼の所在は不明で任務に復帰していない」、「志田同士の上記のような行動は、あきらかに重大な責任ある任務の放棄であり、党の規律に反するものである。この点については、中央委員会はさらに慎重に調査をすすめる」。

【全学連第9回大会】
 6.9−12日、全国的規模の闘争に取り組む過程で全学連第9回大会を開催した。「8中委路線」による運動の成功が承認され、当面する政治課題を掲げて全国一斉のゼネストをもって戦う方針が採択された。同時に、「7中委イズム」的方針による身の回り的日常的闘争をも取り込まれており、なかなか内容の濃い大会となった。

 大会は、 香山委員長、星宮・牧副委員長、高野書記長らの四役を選出した。北大から 小野が中執となった。こうして、全学連は、急進主義的学生党員活動家の手により、党中央の指導を排して自力で再建されていくことになった。この時全学連中執委メンバーは19名中12名が党員であった。
(ところで、こうしてこの全学連大会で全学連が再建されたようにも思うが、次の10回大会で再建されたという記述がなされているのもありこの関係がよくはわからない)

 この大会では、この間の闘争を通じて「国会及び国民各層との連帯促進」、「総評・日教組・文化人らとの強力強化」、「自治会の蘇生」等がなされたと評価し、この方向での運動強化が確認された。教育三法反対闘争、56年秋の砂川闘争、 57年夏の第三次砂川闘争、57年後半の原水禁運動などに党の指導を離れた全学連運動として独自に取り組んでいくことになった。6月早大細胞の高野、全学連書記長が砂川闘争を指揮とある。

【「政府法案次々に廃案される」】
 5.16、5.26の全国闘争によって7中委以来の沈滞が打ち破られ、学生運動が再び攻勢運動に転じる転換点になった。6.3日、ハトマンダー」と呼ばれた小選挙区制、教育三法のうち教科書法、臨時教育制度審議会法が審議未了で廃案に追い込まれた。但し、地教行法は可決された。当時、左派運動圏では、3勝1敗と浮かれた。

 しかし、一敗の 「地方教育行政の組織及び運営に関する法律(=地教行法)」が曲者であるので概括しておく。戦後憲法の公布後・施行前の1947.3.31日、教育基本法が制定施行され、1948.7.15日、教育基本法に1年遅れて実践の手引きとして教育委員会法が制定された。その第一条には次のように記されていた。

 第1条 
 この法律は、教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきであるという自覚のもとに、公正な民意により、地方の実情に即した教育行政を行うために、教育委員会を設け、教育本来の目的を達成することを目的とする。

 そして、教育委員は都道府県7人、市町村5人でそのうち一人を議会が議員から選び、残りは直接選挙で選ばれるという行政機関から独立した存在機関となっていた。

1950.12月、地方公務員法が公布されたが、第40条の地方公務員の勤務について定期的に成績評価(いわゆる勤務評定)を義務づけ規定は、教育職の公務員(教員)については教育という職務の特殊性から客観的な勤務評価(勤評)は極めて困難という理由で、教員に対する勤務評定は全国の自治体で実施されることはなかった。

 1954(昭和29).6月、政府は、教員の政治活動を封じるために、「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する法律」と「教育公務員特例法の一部を改正する法律」の、いわゆる「教育二法」を公布した。その第2弾として、第3次鳩山内閣の下で教育委員会法の改正を意図した「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(地方教育行政法)の成立を図った。

地方教育行政法は、住民の意思を反映させた民主的な教育委員会を廃止し、教育委員の選出を公選制から知事による任命制に変えるもので、教育の権力による統制強化を意味した。当然社会党をはじめとする革新陣営はこれに激しく反発、日教組は全国一斉早退戦術の反対集会を全国1475ヵ所で開催して抵抗した。

 6.2日、政府・自民党による参議院での警官隊を導入した強行採決で成立する。6.30日、「地教行法案」が法案となった。これにより、教育委員の公選制が廃止され、教育予算の権限が教育委員会から首長に移された。教育委員会法では、事務局の責任者である教育長の仕事は「教育委員会の行うすべての教育事務につき、助言し、推薦することができる(52条の3の2項)」であったのが、地教行法では「教育長は、教育委員会 のすべての会議に出席し、議事について助言する(17条の2項)」ことになった。教育事務助言が議事助言に化けた。更に、教育委員の数が2名減員され、議会からの委員はいなくなった。行政権限の拡張・立法権の後退であった。これは、教育界での戦後ルネサンス的民主制から官僚統制化への反動的動きであった。左派運動は「3勝1敗」で名を取ったが、権力側は1勝の実を取ったことになる。

 ちなみに、1999年、地教行法は改悪され、 教育長は助言する権限を持ったままで、委員会の正式メンバーに加わることになった。条文上は、教育委員が議員や公安委員を兼ねられない、公務員であってはいけないことなど(6条兼職禁止規定)を残しつつ、例外として公務員が教育長として委員になる道が開かれた。これにより、兼職禁止で選んだ委員の互選で常勤公務員である教育長が選ばれるというわけのわからないことになった。「行政委員会としての教育委員会は瀕死の状態に陥った」ことになる。

 「実体としては、民間から5人の教育委員を選び、役人から選んだ教育長のリーダーシップのもとで委員会を構成するということになる。民間からの委員は、諸官庁の審議会委員とまったく同じ地位になってしまったことになる。実権を持った首長直結の教育長とお飾りの教育委員長という構図である」( 「教育委員会と教育庁の怪」)。

【「第7回中総」開催】
 6.28−30日、「第7中総」の決議「独立.民主主義のための解放闘争途上の若干の問題について」を採択し、参院選挙投票の直前に発表された。この決議は、主に革命の移行形態の問題について論じ、徳球綱領の「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」という部分を「他の若干の不適切な点」とともに改定する必要があるとはっきり断定し、概要「サンフランシスコ講和会議以後の情勢の変化によって、議会を通じて民主主義的民族政府を樹立する可能性ならびに社会主義への平和的移行の可能性が生まれてきた」と改訂した(1956.7.2日付けアカハタ)。

 これにより、1・「独立.民主主義のための政府」の平和的樹立を中心的な政治目標とし、2・同政府は、民主主義の確立と諸条約の改廃を通して独立を平和的に勝ち取りうる、3・それが社会主義への平和的移行の出発点になる論法が生み出されることになった。

 党は、これによって「51年綱領」が指摘して いた「平和的移行の可能性」の否定の再否定で復活させることになった。つまり、「51年綱領」の暴力革命唯一論の克服を提起し、「革命の平和的移行の可能性」の追及を党の路線とすることにしたことになり、51年綱領の換骨奪胎的な右翼的改訂を行ったということになる。
(私見・私論) この当時の革命理論について
 こうして、このたびの共産党中央により「革命の平和的移行の可能性」を追及する運動に先祖回帰した。「50年問題」の発端となった「野坂方式『平和革命論』」の公然復活であり、この程度での論証では、何のために党が分裂してズタズタになってまで争いあったのか無益であり過ぎよう。

 この当時の革命理論は次のような見解が出揃うことになったことになる。1・左派社会党綱領の民族独立・社会主義・平和革命方式論、2・徳球系党中央の民族解放民主革命・平和革命否定論、3・宮顕系党中央の民族解放民主革命・平和革命方式論、4・民族解放・社会主義革命・平和革命否定論という四論点がでてきたことになる。
 その他沖縄問題についての声明を採択。

 この時、「民主集中制」の宮顕的適用が路線化されている。特に、反対派駆逐の便法として「党内問題の党外持ち出し禁止規定」が振り回されていくことになった。こう云う意味でも、見過ごすことの出来ないターニング・ポイントの「第7回中総」となった。以下、その部分を掲げる。

 概要「六全協の決議の実践過程でいくつかの正しくない傾向が党内にあらわれた。‐‐‐党内民主主義と集中制とを正しく確立する全党の努力のなかで党内の一部に無原則な自由主義・分散主義の傾向があらわれている。中央決定軽視の傾向,決定にたいし納得するまで実践しないという傾向,何事も自分の考えで決めなければならないとして上級の指導を軽視する傾向。・・・また,党内で解決すべき問題を党外にもち出し、党外から党を批判、攻撃する無原則な自由主義も現れた。・・・民主集中制と鉄の規律は、アメリカ帝国主義と日本独占資本とたたかうわが党と労働者階級の闘争を勝利にみちびく組織的な保証であり、国際共産主義運動の実践によって確立された共産党の組織原則である」。

 7.2日、ソ同盟共産党中央委員会は、「個人崇拝とその諸結果の克服について」と題する決議をプラウダ紙上に掲載した、7.4−5日号のアカハタに掲載された。要旨は次のようなものであった。(「夢・共産主義第一部」参照)

 1、個人崇拝は、全帝国主義世界の反ソ侵略の危険の増大、とくに1933年以後のドイツ・ファシズムの勝利後の複雑な内外情勢のなかで社会主義への闘争をおこなううえに「もっとも厳重な指導の中央集権化」と「民主主義にたいする若干の制限」が必要となった歴史的情勢のなかで、スターリンの個人的欠陥やベリヤの犯罪的集団の活動の結果生まれたものである。

 2、中央委員会内には個人崇拝に反対するレーニン的指導中核がきずきあげられており、戦時中のある時期にはスターリンの個人的行動と専制支配に大幅な制限を加えた。しかし、この中核が、スターリンに公然と反対することができなかったのは、第一に、社会主義の成功がすべてスターリンに帰せられていた状況のもとではスターリンに反対するいかなる行動も国民の支持をうけられなかったこと、第二に、多くの犯罪の事実が当時はまだ知られていなかったことによるものである。

 3、 したがって、「個人崇拝の根源をソビエト社会制度の本質に求めようとしたりするのは大変なまちがい」であり、トリアッティのように「ソビエト社会が『一種の改革』に面しているかどうか」という問題を提起する根拠はない。ソビエト民主主義は偉大な発展をとげてきたし、個人崇拝一掃の大たんな問題提起は、「ソビエト社会主義制度の力と生命力の最善の証明である。」

 この決議による回答は、約一カ月にわたる論争をひとまず終結させる役割を果たした。11.11日、ユーゴのチトーは、「プーラ演説」の中で再びこの問題を提起し、個人崇拝は制度の所産であるのにこれをスターリン個人に帰するのはごまかしであるとして、制度そのものにある個人崇拝の根源として「官僚的な機構指導の方法、いわゆる『画一主義』、勤労大衆の役割と願望の無視」などをあげた。(「世界政治資料」10号)

【三木武吉逝去】
 7.4日、三木武吉が逝去した(享年70歳)。保守合同の鬼としてこれを実現し、やるだけのことをやり尽くし心身ともに燃焼し尽くした形の死となった。三木の死は鳩山主流派にとって打撃となった。

【第4回参議院選挙】
 7.8日、第4回参議院選挙。党は、全国区60万票、1名・岩間正男当選。地方区115万票、1名・野坂参三当選。自民19.42、社会21.28、緑風5.0、諸派1.0、無所属5.4。

 社会党は全国区21名を当選させて自民党の19名を上回り、地方区でも6名増の28議席を獲得した。こうして49議席となり、前回の当選者数と併せると80名に達した。これに2名の共産党議席を合わせると、参議員においても3分の1を越える「護憲議席の確保」が実現した。

【経済白書「もはや戦後ではない」】
 7.17日、経済企画庁「経済白書」(後藤誉之助調査課長)で、「もはや戦後ではない」と新た経済目標提示(「日本経済の成長と近代化」)→高度経済成長の出発を宣言。
 「もはや戦後てはない。我々は今や、異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる」。
 「平和共存とは、経済成長の闘いであり、生産性向上の競り合いである。戦後10年、我々が主として生産量の回復に努めていたあいだに、先進国の復興の目的は生産性の向上にあった」、「幸運のめぐり合わせによる数量景気の成果に酔うことなく、世界技術革新の波に乗って、日本の新しい国造りに出発することが当面喫急の必要事ではないだろうか」。

【国労新潟闘争】
 3.23日、国鉄当局が約束していた年度末手当ての支給を突然に中止したことに対して国労組合員が抜き打ちストライキで立ち上がった。当局は直ちに春闘を含む違法ストに対する処分を行うとの強硬態度を表明した。国労はこれに対抗して処分反対闘争を固めていった。「処分が出たら自動的に春闘以上の実力行使に突入する」と声明した。

 6月、広島地本が二日間山陽線のダイヤを混乱させた。

 7.9日、当局が2名の新潟地本執行委員の解雇を発表。地本は、即日遵法闘争を指令し、7.10.11両日職場大会を開き、管内の貨物列車をストップさせた。

 7.15日、遂に無期限ストを指令した。この時新潟管理局は組合の反撃の強さに圧倒されて妥協と後退を約さざるを得ないところに追い詰められた。

 ところが、7.16日、国労本部が地本の反対を押し切って闘争中止指令を出し、総評指導部もこれを支持した。地本は涙を呑んで闘争を打ち切り、立ち直った当局が一挙に処分攻勢に出た。地本と支部の指導的活動家(その殆どは共産党員と革同派幹部)の首切りを発表し、次いで第二組合が作られるという結果となった。新潟闘争を境に大田・岩井の総評指導部は「長期低姿勢論」を打ち出していくことになった。何と!宮顕党中央もまたこの「長期低姿勢論」に同調し、闘争の支援と拡大を拱手傍観する態度を取った。「階級的、政治的」という用語を飾っていたものの「敵は優勢、味方は劣勢論」を頻りに説き始めた。

 ここに我が国の労働運動の変調な特質が凝縮している。地方で闘いが起った場合これを中央が支援するのが自然であるが、押さえ込みにかかるという癖がある。

 7.29日、重光外相が主席全権、松本俊一全権、下田武三条約局長ら一行団が訪ソ。シェピーロフ外相、フェドレンコ外務次官、クルジュコフ極東部長らを相手に8.1日より交渉が始められた。交渉は難航し、日本側は重光外相と松本全権の足並みが揃わぬ醜態を演じることになった。結局この時の交渉は何一つ進展させず、8.15日失意の帰国となった。
【総評第7回大会】
 8.25日、総評の第7回大会開催。

【「第8回中総」】
 9.10−12日、「第8中総」。「志田問題について」の決定を行った。「しかし、この処置は極めて奇怪なやり方で為された。規約第38条に基づき、志田を中央委員の地位から罷免すると同時に、『志田君が自ら党員としての権利と義務を放棄し、党員としての一切の資格を失ったことを確認する』というものであった。つまり、除名処分ではなく、『離党の確認』であった」(しまねきよし「もう一つの日本共産党」P121)。
 
 参議院選挙の総括「参議院選挙の総括とわが党の任務」採択、平和運動の方針を採択。「農業.農民問題の解決の為に」で、「51年綱領」の農業.農民問題の規定の再検討を提案し、農地改革とその後の農業実態に対する評価を根本的に改めることを決議した。 第七回党大会の開催が決定された。  

【「スターリン批判総括」の動き】
 9月、神山は、「スターリン批判の衝撃」について、次のように述べている。「スターリンの業績と害悪、個人崇拝の一般特殊的条件とその克服方法などの問題についてはもうだいたい知られている=率直な意見-トリアッティ提案を読んで←「世界」)」。党も神山もこの程度だった。

 中委候補にして宮顕のお茶坊主に転じていた米原昶が、「スターリン批判とわれわれの態度−六全協一周年にあたって」(前衛、1956.9号)が発表された。米原は、スターリン批判の問題を、もっぱらソ連におけるスターリン個人にかんする問題、即ち日本の党と運動にとっての外在的問題として捉えていた。

 これにより、日本共産党の連帯責任的立場からの内省が放擲されることになった。党の内部での討議は低調になり、従来の共産主義運動史の総点検に向かおうとする党内の自主的試みは党中央により掣肘され、「自由主義」、「清算主義」、「規律違反」などの名でもって抑えられていくことになった。

【「中国共産党第8回党大会」】
 bPの毛沢東(党主席兼国家主席)とbQの劉少奇(同副主席)間に微妙な対立が発生していた。

【椎野罷免処分される】
 志田が放逐されて以降のこの頃かっての「臨中」議長で追放後地下に入って志田の最大の協力者となった椎野に対しても、地下時代の婦人同志への不道徳行為により党の調査が及ぶようになった。椎野もこれを拒否し、敵対的態度をとったため「規約第38条に基づき中央委員の地位から罷免する」処分が行われ除名された。こうして志田重男と椎野悦郎が相次いで失脚させられた。志田の離党も確認された。

 この時の椎野の除名は奇妙奇天烈な経過を見せている。強姦事件がデッチ挙げられている。椎野に犯されたと駆け込みした女性があり、この問題は一度は済んでいたのに蒸し返され、助産婦の資格をもつという春日(正)の細君がその女性を内診し強姦事件が立証されたらしい。下半身スキャンダルを政敵追放の常套手段として弄ぶ宮本式のなせる技をここでも見せ付けられる。同時に徳田系として位置してきた春日(正)の宮本系化の動きが垣間見られる。付言すれば、春日(正)も胡散臭い。

 この椎野の反省の弁が伝えられている。どの時点でのそれかは分からないが、次のように戦後党運動を述懐している。

 「戦後の中央委員というのは、いわば司令官ばかりいて、参謀が一人も居なかった。みんな書記長になることを狙い、書記長になれなくても、独立集団の司令官になりたがった。もっとみんなが参謀になって、一人の司令官を盛り立てていれば、もっと違った運動ができた筈だ」。

 これを追認する形で9.15日、党員の経営する雑誌真相特集号で、「共産党はどこへゆく」で、「志田重男はなぜ消えたか」の特別記事が掲載された。この特集は党の内外の反響を呼んだ。地下時代の志田が女や酒に数年間に数千万円を費消した腐敗生活が暴露されていた。

【トラック部隊依然暗躍】
 56.9月、大江らが東芝産業をデッチあげ、村上順一に北海鋼業乗っ取りをやらせようとして失敗したのがこの頃である。合併問屋三社の主導権掌握騒動の失敗が絡んでいる。結局、党の特殊財政部のトラック部隊の暗躍は、当時の数億の収奪をもたらし幾多の中小企業者と下請け零細業者を倒産させた。

 党は、「党と無関係であり、日本共産党を陥れるための謀略である」との見解を発表している。武井昭夫が蔵原統制委員に尋ねたところ、「党はトラック部隊を関知しないから、致し方ない。君もそんな話は聞くな、手を引くのだね」と回答されたと伝えられている。「我が党が調査した結果、六全協前でも党中央が中小企業から詐欺横領で一銭の党資金も獲得したことはない」が公式回答であった。わざわざ「党中央が」との文句を挿入して切り抜けようとする詭弁が為された。未解明であるが、「トラック部隊」と宮顕の絡みが噂されている。  

【砂川闘争】
 この頃の学生運動につき、「第4期・全学連の再建期、新左翼(トロツキズム)の潮流発生、ブント系全学連の誕生」に記す。

 9.13日、全学連は砂川基地反対の闘争宣言を発して、強制測量が行われた10.12日には、反対同盟員、学生、労働者らが警官隊と衝突、多数の負傷者、逮捕者を出した。武装警官隊2千名に襲われ、学生1000名が重軽傷となった。10.13日、砂川の激突で測量中止となり、10.14日、鳩山内閣は遂に測量中止声明をせざるを得ないところとなった。全学連にとって、50年秋の反レッド.パージ闘争以来の勝利であり、学生運動史上歴史に残る輝かしい戦いとなった
 
 ところが、全学連中執の内部で、現地指導部と留守指導部の間に、砂川闘争の評価をめぐって意見の対立が生じた。現地指導部(森田・島)の「現地動員主義の成功」評価に対して、留守指導部(高野・牧)がその他の運動との結合との絡みでしか評価しないという対立であった。森田実の背後に安東仁兵衛の動きがあった。この意見の対立は、「層としての学生運動論」に依拠しつつも、一方(多数派)は「現地動員主義」を高く評価し、他方(少数派)は「広範な学生の参加運動の志向」という二つの潮流を生み出していくことになった。この二つの潮流は激しく論争をしながらその後の学生運動の分岐点となった。

 こうしてこの時期の56年秋の砂川闘争後、全学連内に主流急進派と反主流穏健派の内部対立を生じさせることになった。砂川闘争を指導した東大出身の森田と学連書記長で早大出身の高野が対立した。もともと党の意向とも絡んだ組織運営をめぐっての対立であったようであるが、私立の雄早大と旧帝大の雄東大勢とのイニシアチブ的な反目も関連していたようでもある。高野派が党の意向を汲んでいたようで、この争いは闘いの戦術から政治路線、革命理論にまで及び果ては大衆的規模の対立までなった。

 原水禁運動では、ソ連の核実験の賛否をめぐって混乱が生じ、党がソ連の核実験を擁護していたことにより、原爆にもきれいなものとそうでないものがあるとか妙な弁明をせねばならないという事にもなったようである。その他授業料値上げ反対闘争にも取り組んだ。

 「東大学生新聞第274号」(1956.10.8日所収)は次のような「日本共産党告発詩」を掲載している。
 風声波声

 日本共産党よ 使者の数を調査せよ。そして共同墓地に手厚く葬れ。

 政治のことは、しばらくオアズケでもよい。死者の数を調査せよ。共同墓地に手厚く葬れ。

 中央委員よ 地区委員よ 自らクワをもって土を耕せ。穴を掘れ。墓標を立てよ。

 −もしそれができないならば−

 非共産党よ 私たちよ 死者のために 私たちの為に 沈黙していいのであろうか。

 彼らがオロカであることを 私達のオロカサとしていいのであろうか

【日ソ国交回復交渉】
 日ソ交渉は、5月の河野農相のモスクワ入りで本格化し、8月には重光外相を主席とする全権団を派遣していたが、領土問題で行き詰まっていた。この経過を踏まえて、鳩山は、領土問題を棚上げして、平和条約でなく戦争終結宣言で日ソ間の国交回復を期するという「鳩山方式」の意向を固めていった。

 10.7日、鳩山全権団(鳩山夫妻、河野農相、松本滝蔵官房副長官ら)が羽田を出発、鳩山は空港で「至誠天に通ず」と述べた。鳩山の引退花道となった。10.12日モスクワ空港にはブルガーリン首相が出迎えた。この時のフルシチョフの宴会発言が鳩山によって次のように明かされている。「日露戦争では我々が日本に負けた。しかし、あの時は革命前の腐りきった軍隊だから負けるのが当たり前だった。ところが今度はどうだ。ノモンハンでも張鼓峰でも、君達の兵隊は、そこに座っているジューコフの軍隊に全滅にされたではないか」。つまり、戦争に勝ったのだから、千島を取るのは当たり前だという強い認識であった。10.13日から交渉が開始されたが、ソ連側はブルガ−リン首相、ミコヤン副首相以下最高の顔ぶれが登場し、並々ならぬ待遇を見せている。実際の交渉はフルシチョフ党第一書記がしきった。

 10.19日、結局、領土問題はまとまらず棚上げしたまま、@・戦争状態の終結、A・大使交換、B・抑留者の送還、C・漁業条約の発動、D・日本の国連加盟への支援という5項目を盛り込んだ10項目からなる日ソ国交回復の共同宣言を、クレムリン宮殿でブルガーニン首相との間に締結した。領土問題については、概要「歯舞諸島、色丹島を日本に引き渡すことに同意する。但し、現実には日ソ間の平和条約締結後に歯舞諸島、色丹島を日本に引き渡すものとする」と明記されていた。

 帰途ワシントンを経由するが、アメリカ政府の態度は冷淡で首脳会談はセットされなかった。

 10月、教育委員を、公選制から首長による任命制に変更する。
【ポーランド・ハンガリー事件】
 56.10−11月、ポーランド・ハンガリー事件が起こった。6月にポーランドのポズナニで反政府暴動が起った。民族派のゴムルカの復活で収拾されることになった。

 
10.23日からハンガリーの首都ブダベストでは、「スターリンの死後、東欧を襲った非スターリン化の波の中で」政府の政策に不満を持つ学生・労働者たちが集会やデモを始めた。次第にデモの参加者が増えていき、当初の平和的牧歌的なそれから暴動化へ転化していった。1・ナジ=イムレの首相復帰、2・ソ連から独立した政策、3・言論と集会の自由、4・労働者の参加の下での工場の運営、5・自由な選挙などを要求していた。

 
ソ連派のラーコシ政権は苦境に立たされ、ゲレ第一書記は、非スターリン派のナジ=イムレ(1895〜1958、任1953〜55、56)を首相に復帰させるとともに、デモを鎮圧するために遂にソ連軍の出動を求め鎮圧を要請した。翌10.24日、ナジ=イムレが首相に就任したが、ソ連軍が出動し、市街戦が展開され、多くの死傷者が出た。

 
デモは首都ブダベストから始まって全土に広がった。労働者や民衆は、武器工場から武器を調達して武装した。政府は無力になり、各地で結成された労働者評議会が、社会の実験を握った。この時、企業単位に結成された労働者評議会とその連合によって、政治と経済の全ての活動を大衆自身の管理下におこうとする、壮大な展望が歴史に刻印された。西側から相当数の撹乱分子が送り込まれ、扇動.挑発による共産党員への襲撃、殺害まで発生していった。

 
ナジは事態の収拾に努め、自由化を約束し、ソ連軍と交渉してソ連軍をブダペスト郊外に撤退させた。さらに自由化を求める急進派の声に押されて、ソ連軍の即時撤退を要求してソ連と交渉したが、交渉は決裂した。11.1日、ナジは、ワルシャワ条約機構からの脱退と中立を宣言した。これを見たソ連軍は再び介入にふみきった。ソ連軍は戦車を引き返してブダペストに向かい、11.4日、ソ連軍がブダペストに対する総攻撃を開始した。戦車と共に軍事介入(機甲15個師団、戦車6千両)して市民を弾圧する映像が流された。

 同日、ナジ政権の閣僚全員が逮捕され、カダル(1912〜89、任1956〜88)を首相とする新政権が成立した。ブダペスト市民はソ連軍に激しく抵抗し、市街戦を展開したが、多くの死傷者を出して約2週間後に鎮圧された。そしてナジは、1958年に処刑された。

 
ハンガリー反ソ暴動は、共産圏からの離脱は絶対に許さない、離脱しようとするものに対しては武力による厳しい制裁も辞さないというソ連の大国主義が、スターリン批判後も変わらないことを示した出来事で、世界中に大きな衝撃を与えた。

【スターリン批判からポーランド・ハンガリー事件の流れに対する党中央の態度】
 党は、このソ連軍の行動を、「帝国主義勢力からの危険な干渉と闘う」としてハンガリーに対するソ連の武力介入を公然と支持した。但し、党員の中には、マルクス主義理論及び実践の根源的再検討を要する事象として受け止めようとする者も輩出した。党中央はこの動きに対して、「自由主義的分散主義」、「清算主義」などのレッテルを貼り、官僚主義的統制で対応していった。

 このことが、学生たちの憤激を呼び党から離反させる強い契機となった。
早大.一政委員会は抗議声明を出し、ソ連大使館に抗議文を手交している。この時早大細胞は沈黙している。但し、高野秀夫は、「ハンガリー出兵に対して、断固たる抗議行動が行えなかったのは、日本学生運動の恥辱である」とも述べている。

 こうした「衝撃、動揺、懐疑、憤激」を経て、全学連の幹部党員の間には、もはや共産党に見切りをつけて既成の権威の否定から新しいマルクス主義本来の立場に立った新しい運動組織を模索せしめていくことになった。この時既に先進的学生党員は一定の運動経験と理論能力を獲得していたということでもあろう。
(私見・私論) 「ハンガリー事件」評価を廻る日本共産党党史の変遷について
 当初宮顕は、「ハンガリー事件」を概要「東欧社会主義国を転覆する目的でアメリカなどの不当な内政干渉が行われていた。それがハンガリー事件を招いた。内外の反動精力が反共カンパニアを新たに活発化する機会となった。従って、反革命的暴動とみなすべきである。ソ連軍の出動はハンガリー政府の要請によるものでプロレタリア国際主義の試金石である。ハンガリーが反革命のそうした攻撃から防衛されたことに意義がある」としていた。

 それが、「65年党史」になると、「ハンガリーでは、56年10月半ばから、スターリン以来のソ連共産党指導部のハンガリーに対する覇権主義とそれに追随してきたラーコン、ゲレらの指導部に対する党内外の不満が急速に高まった」、「こうした事態のもとで10.24日未明、ソ連は首都に軍隊を進めて介入した。ソ連の軍事介入は、ハンガリー人民の怒りと反抗を一層強め、武力衝突という事態を招いた。ハンガリー人民の要求と運動は、ソ連の覇権主義からの民族的自由、複数政党制などを求めるものであり、一部反動分子の策動はあっても、全体として外国からの反革命の策動とは云えないものであった」、「ハンガリー事件でのソ連の軍事介入は、社会主義の大義、民族自決権に反する干渉行為であった」と書き換えられた。

 問題は、かくも正反対に評価替えされたにも関わらず、一片の自己批判も無くこっそりと為されていることにある。「赤き心」があれば、何ら恥じることないにも関わらず姑息に差し替えられている。

 10.30日、スエズ運河で、英仏軍が軍事行動。
 11.1日、知事任命の5人の教育委員によって再編成された愛媛県教育委員会は、後の県知事白石春樹を幹事長に頂く自民党県連の強力な後押しを受けて、同年4月からの教職員の昇給.昇格は勤務成績の評定によることを決定し、不退転の決意をもって、市町村教育委員会に対して小中学校教職員の勤務評定書の提出を命じた。計画性・規律・指導力など多数の項目を5段階で評価する手法で実施されたそれは、本質的には、「教員は校長が勤務評定し、校長は市町村の教育委員会が勤務評定する。市町村の教育委員の勤務評定は都道府県の教育委員会が行う。都道府県の教育委員の勤務評定は任命した知事がこれを行い、知事は政権政党の自民党が勤務評定する」という図式であった。

全国に先駆けて愛媛県でこの決定が行われたことには、公選制教育委員選挙をはじめ、1950年の参議院議員選挙、1951年の知事選挙、1953年の参議院議員選挙において、保守的風潮が比較的強い地でありながら県教組の強い組織力に前に自民党陣営が苦戦を強いられていたという政治的背景があった。そうした保守層の危機意識は、県教組による「教育懇談会」「母と女教師の会」「PTA」などを通じた地域住民の組織化が、従来からの保守層の地域支配を掘り崩しているという分析から発したものであるが、それゆえに、県教組の弱体化こそが最大の課題だと考えられた。県教組の壊滅なくして保守勢力の回復はないものとの認識である。

赤字財政が、格好の口実となった。1952年度以来財政状況の極度の悪化を来たしていた愛媛県が、 赤字解消のため、1956年度に地方財政再建促進特別措置法に基づいて1956年度から1960年度にかけて財政再建に乗り出したという側面である。勤務評定を行う側の校長らで組織する愛媛県小中校長会と、全校長が組合員でもあった愛媛県教組は、勤評は差別昇給として反対、完全昇給を勝ち取ることために勤評阻止闘争を展開するところとなった。

11.2日、県教組は、勤評反対の闘争宣言を発した。教育現場を巻き込んだ勤評闘争の始まりである。教育委員会と県教組との間で、校長による教員の勤務評定書提出をめぐり攻防が展開された。日教組もオルグを愛媛県に派遣するとともに、革新陣営は国会で問題を提起して県教組を応援し、騒然とした状況が生まれた。愛媛地評・県職組と共闘態勢を確立した県教組は、知事に対して反対決議文を手渡すとともに、連日組合員を動員して教育長室前で坐り込むとともに、県教組委員長以下5人が県庁前でハンガーストライキにはいり、全県下の組合員を鼓舞した。

11月18日には、中小学校長の校長会が700人を集めて開かれ、「(勤評)制度が教育の混乱と職場の民主的秩序を破壊することを確認し、総意をもって、勤務評定は到底おこない得ない」ことを宣言し県教委に申し入れを行った。

強硬方針の県教委は、12月に入るや県下各地に校長を招集して勤評の説明会を開催するが、出席者は松山地区の数人だけで、松山以外の校長全員欠席した。県教委は、評定書提出期限を12月27日と決め、県下全市町村教委に対してあくまでも評定書提出の方針にはいささかの変更もないことを発令した。以後、校長に対する県教委や市町村教委の校長に対する圧力や締め付け、懐柔が強められていくこととなる。

激しい闘争にはつきものではあるが、やがて脱落が始まる。校長の組合脱退である。12月11日、松山市の校長46人中20人が脱退屈を集団で市教組に提出したのがその皮切りであった。

県教組は、残留校長をふくめた闘争を展開する方針を確認するが、校長脱退による組織の動揺は押し留めようがなかった。県教組は、「評定は抜本的に検討する」ことを前提に、周桑郡において評定書の提出に踏みきり、和解への方向を模索することとなる。そして1957年5月、県教委の要求通りの評定書が周桑郡内の各校から提出された。翌6月、愛媛県議会三派(自民党、社会党、中正クラブ)の仲介により、最終的に白石春樹県議会議長、議会三派、県教委、県教組間で話し合いがもたれ、「勤務評定要領は、中小学校長会、高等学校長会、地方教育委員会連絡協議会の意見及び文部省基準案を参考として、改正の必要を認めた場合は、県教委が立案する」との内容の、いわゆる「6月協定」が成立、ここに一時的解決をみるのであった。これが愛媛の第1次勤評闘争である。(「勤務評定(勤評)闘争」参照)

【鳩山首相が辞意表明】
 11.2日、鳩山首相が辞意表明。この時後継を指名せず、歴史の流れに任せた。

 「自民党派閥の歴史」は次のように記している。

 「1本化が難しい」局面にあったということでもある。「河野の帰国直後、三木武吉が亡くなっていた。三木の死は鳩山にとってなによりの痛手だった。三木がいなくなり、党内をまとめていた実力者が消えると、旧自由党系などの日ソ交渉に反対する勢力を押え込むことが難しくなる。日ソ交渉が失敗に終われば、鳩山政権の存在意義すら危ぶまれる事態に追い込まれるのだ。鳩山は一時自棄になりかけたが、かろうじて思いとどまり、岸を抱き込んだ。鳩山は党幹部を召集して早い時期の退陣を表明した。しかし、その前に日ソ交渉を妥結させ、これを花道として引退したいという意向を示した。そのために党内をまとめてほしいというのである。鳩山退陣後の最大の後継候補は岸である。三木武吉は、鳩山の後に岸を推すことを確約していたが、その三木は死んでしまった。岸は鳩山に恩を売って支持を得るとともに、対抗馬が台頭してくる前に後継者の座を確実にしておこうと望んだのだろう。岸の支持のもと、鳩山は自らモスクワを訪問し、日ソ共同宣言に調印、念願の国交回復を成し遂げた。帰国からまもなく、鳩山は退陣を正式に表明した」。

 11.12日、臨時国会を召集し、11.27日、日ソ復交関連の法案が賛成365票の満場一致で解決される。但し、池田ら旧吉田派の75名は欠席している。
 11.5〜7日、全国書記会議開催。「中央及び下級組織の強化と地方委の任務の明確化について」を決定。

【「第9回中総」】
 11.7日、「第9回中総」。第7回党大会準備のための「綱領」.「規約改正」の各委員会とともに「50年以後の党内問題の調査」の委員会設立を決定した。春日(正)を責任者とし、野坂参三.宮本顕治.蔵原惟人.紺野与四郎.志賀義雄.西沢隆二他に岩林虎之助.多田留治.竹中恒三郎.原田長治も委員となって、50年以来の経過を詳しく調査していくことになった。「規約改正委員会」は責任者を紺野与次郎とし、伊井弥四郎.戌谷春松ら8人の委員が草案を練った。「『50年問題』の教訓から民主集中制の原則とその保障についての具体的規定に努力がはらわれた」とあるが、どのように改正されたのか検討されていない。

 「綱領委員会」は、宮本顕治を責任者として、蔵原惟人.米原.野坂参三.春日(庄).紺野与四郎.春日(正).志賀義雄.鈴木市蔵.西沢隆二ら12人から構成された。岡正芳.西沢富夫.川崎巳三郎を事務局員に任命した。「綱領討議にさいしての注意事項」を採択した。以降57.3月下旬までに、綱領原案の骨子ともいうべき文書が、委員会の責任者であった宮本により準備され、この宮本メモが討議の出発点となった。

 11.14日、社会党右派の重鎮・三輪寿壮が逝去。享年61歳。
 11.20日付け「常任幹部会」の「椎野問題に対する経過」という文書で椎野の罷免が発表された。ここに、50年分裂後の徳田主流派の最高指導部にあった三人の幹部伊藤.志田.椎野という全党に威力をふるった指導分子が揃いも揃って失脚させられたことになる。

【日本トロツキスト運動開始される】
 この頃の学生運動につき、「第4期・全学連の再建期、新左翼(トロツキズム)の潮流発生、ブント系全学連の誕生」に記す。

 ハンガリーに対するソ連の武力介入を党が公然と支持したことが、学生たちを離反させた。スターリン批判と「六全協」での自己批判により、一転して従来の軍事方針は間違いであったと発表したことが、党の無謬性神話が崩れ、全学連の幹部党員の間には、新しいマルクス主義本来の立場に却って共産党に見切りをつけて新しい組織を模索していくことになった。スターリン以前の国際共産主義運動の再評価から急速にトロツキズムに傾いていくことになった。新左翼の系譜始まる。日本共産主義労働者党→第4インター日本支部準備会発足。第4インターは、日本トロツキスト連盟→日本革命的共産主義者同盟へ。

 この背景には、党がソ連20回大会以後の国際共産主義運動の転換とその発展を洞察する能力に欠け、スターリン批判に対しても共産主義者として責任ある自主的な態度で受け止めることが出来なかったことと関わっている。当時既に党に批判的立場にあった学生運動の活動家は、スターリン批判とハンガリー事件から受けた衝撃から動揺、懐疑、憤激を呼び起こし、それが既成の権威の否定へと発展していき、トロツキズムの発生の契機となった。その根底には、日本における革命的学生の政治的ラジカリズムと、プチブル的観念主義が極限化して発現した、とみなされている。

【「民青同」結成】
 この時期の党の青年運動組織への指導ぶりは次のようなものであった。こうした時期の56.11月に日本民主青年同盟(民青同)が発足している。民青同は、「マルクス・レーニン主義の原則に基づく階級的青年同盟」の建設の方向を明らかにしていたが、進行しつつある反党的全学連再建派の流れと一線を画し、あくまで宮本式指導の下で青年運動を担おうとしたいわば穏健派傾向の党員学生活動家が組織されて行ったと見ることができる。いわば、愚鈍直なまでに戦前・戦後の党の歴史に信頼を寄せる立場から党の旗を護ろうと し、この時の党の指導にも従おうとした党員学生活動家が民青同に結集していくことになった、と思われる。

 12.1日、社会党左派の政策通・伊藤好道が逝去。享年55歳。
 12.9日、早大.松尾隆、自宅で心筋梗塞のため死亡、49歳。

 12.17日、「日共の資金収奪組織明るみに、詐欺、横領、乗っ取り、中小企業荒らすトラック部隊」なる記事が日本経済新聞に掲載される。それによると、「」

 12.8日号「エコノミスト」に「財界と新党首問題」という毎日新聞記者の座談会記事が掲載されている。「社会党に対しては同友会を通じていけばよいし、共産党に云いたい時は日経連を使う。こんなぐあいに刀の使い分けをするわけだ」。賃金についても、最低賃金制についても、全銀連6行提案についても、日経連と同じことばかり云いつづける共産党との奇妙な思想的な繋がりを、新聞記者でさえ見抜いていた。
 12.18日、国連総会でソ連の賛成も得て日本の加盟が可決された。従来国連への加盟はソ連の反対にあって退けられてきた。日ソ共同宣言の実現により可能となった。
【第三次鳩山内閣退陣】
 12.14日、自民党臨時大会を開き、鳩山首相が正式に辞任した。
 12.18日、日本の国連加盟が可決された。
 12.20日、第三次鳩山内閣退陣。「明鏡止水」

【後継争い激化】
 後継争いの激化について、「自民党派閥の歴史」は次のように記している。

 「鳩山は退陣に当たって後継者を指名しなかった。調停の労をとることもしなかった。かくて、鳩山退陣後の自民党内は、幹事長の岸信介、通産相の石橋湛山、総務会長の石井光次郎が総裁ポストを争うことになった。岸を擁立したのは、岸派、佐藤派、河野派、大麻派。川島正次郎を筆頭に、赤城宗徳、椎名悦三郎、南条徳男、福田赳夫らが参謀となった。石橋を擁立したのは、改進系革新派の石橋派、三木武夫派、松村謙三派。石田博英が指揮をとった。石井を擁立したのは、旧緒方派、石井派、池田派。この政争過程で吉田派は池田派と佐藤派に分裂したことになる。しかし事情は複雑であった。岸は反吉田運動を展開していたが、岸は佐藤の実兄であったこともあって佐藤派は岸を支持した。石井は緒方派であり、この石井は「反吉田」運動の急先鋒に立っていたが、池田派は石井を支持し、池田勇人自ら応援に駆けつけた。吉田学校の日本柱の池田と佐藤が、はじめて対立する動きを見せたことになる。

 この時、億単位の金が乱れ飛んだ。総裁選挙資格のある国会議員、地方議員に対し、買収戦が行われたと伝えられている。「公選は国会議員と地方代議員の投票で行なわれ、過半数を獲得したものがいなかった場合には上位二名で決選投票が行なわれる。石橋派の石田はまず岸の第一回投票での過半数阻止を目指し、決選投票での逆転を狙って石井派に決選投票での二・三位連合を申し入れた。石井派はこれを了承する。ポストの約束手形と実弾が飛び交い、自民党総裁選最初の公選は、まれにみる派閥選挙となった。これが以後の総裁選の前例となった。石田は、五人に通産大臣のポストを、八人に農林大臣のポストを約束したと伝えられる」。

【熾烈極めた自民党総裁選】
 1956.1月、緒方急逝。4月の総裁選挙では無風で鳩山が初代の自民党総裁に選ばれた。そして日ソ交渉が妥結したのを受けて、鳩山総裁は辞任し、事実上初の自民党総裁選が戦われた。12月の自民党総裁選で当時の岸信介幹事長、石橋湛山通産相、石井光次郎総務会長がポスト鳩山一郎を争った。この総裁選で初めて実弾(カネ)が飛び交った(註/当時の総裁選は公職選挙法が適用されなかった)。選挙戦では岸信介幹事長は豊富な資金力で買収を行い、ジャーナリスト出身の石橋湛山通産相は閣僚ポストなどを乱発して対抗した。これに緒方の派閥を継承した石井光次郎が挑んだ。有力視された岸は弱小派閥を擁した大野伴睦に平身低頭して支持を懇願するが、自らの心境は「白さも白し冨士の白雪」(「全く白紙」の意味)と遇(あしら)わている。その意趣返しで、4年後の60.7月総裁選で大野が岸の意趣返しに泣くことになる。
 12.14日、第一回公選結果は、岸223票、石橋151票、石井137票。岸は圧倒的多数で一位となりながら過半数には達せず、二位の石橋との決選投票に持ち込まれた。誰もが岸総裁実現と思いきや、石井グループが石橋支持に回りいわゆる2、3位連合が形成された。のみならず密かに石橋に通じていた大野率いる大野派が決戦投票で「白雪が溶けて流れて」石橋支持に回つた。結果、石橋258票、岸251票、無効1、棄権1となり、石橋が7票差という歴史的僅差で岸を破った。

 北門政二氏の「田中角栄大軍団101人」は次のように記している。
 概要「石橋派の謀将・石田博英が、この時実弾が枯渇したので、最後に放った秘策が、閣僚ポストを示しての買収だ。いや、石田ばかりではない。岸も石井の両派も閣僚ポストを黄金にかえて示した。ところが、岸、石井両派の参謀が示したのはポストはきっかり閣僚数と同じ19。これに対し、石井が約束したポストは6、70。岸、石井両派参謀のバカ正直さと石田のイイカゲンさの差が当・落の明暗を分けたのである」。

 岸は選挙後にポストを自派にも配分することを条件に党内融和に協力するとし、自らは副総理格の外相となった。これが幸甚を呼ぶ。石橋がわずか2ヶ月で病気退陣し、総理臨時代理だった岸がそのまま自民党総裁、首相となる。選挙が終わったらノーサイド、短期で交代の場合は善戦して二位だった候補者が後継になるという習慣になっていく。

【石橋内閣が成立】
 12.23日、石橋湛山が2代目自民党総裁に選出され、湛山内閣(56.12.23〜翌年 2.23日、総辞職)が成立した。但し、総裁公選のしこりで組閣や党人事が難航した。官房長官・石田博英(42歳)、幹事長・三木武夫(49歳)。

 外相・岸、蔵相・池田(58歳)、みんな若かった。法相・中村梅吉、文相・灘尾弘吉、厚相・神田博、農相・井出一太郎、通産相・水田三喜男、運輸相・宮沢胤勇、郵政相・平井太郎、労相・松浦周太郎、建設相・南条徳男、経済企画庁・科学技術庁長官・宇田耕一、国家公安委員長・行政管理庁長官・大久保留次郎、自治庁長官・田中伊三次、北海道開発庁長官・川村松助らの面々の布陣となった。この時池田は「私はウソを申しません」。岸外相。外務省畑出身以外の『素人大臣』外相任命は岸が最初の慣例破りとなる。

 岸外相の背景は次の通り。石橋首相が密約に拘り石井を副総理に任命するなら協力できない。挙党一致態勢を取るというなら、入閣に応ずる。こうして石井副総理案が潰れ、岸は副総理格の外相として入閣することになった。「自民党派閥の歴史」は次のように記している。
 「石井光次郎は入閣しなかった。本来ならば石橋は石井と連合して組閣し、岸は非主流化するはずであったが、岸は第一回投票の一位であったことを盾にして入閣を果たし、石井を閣外にはじき出した。これがのちに思わぬ結果を生むことになる」。
 「この総裁選によって派閥の形が大きく変わり、それまでの同志的関係から親分子分の固定的関係になり、党運営自体が派閥を考慮に入れずには行なえなくなってきた。当時の派閥は「八個師団」、「八頭立ての馬車」と呼ばれる通り、大きく8つが挙げられる。旧自由党系の4つ、旧民主党系の4つであり、自由党系の中にも吉田系と反吉田系があった。自由党吉田系は、池田勇人派と佐藤栄作派である。いずれも官僚の出身、吉田子飼いの池田と佐藤は早くから吉田政権内で重きをなし、ふたりで旧吉田派を分け合った。自由党反吉田系には、緒方竹虎の死後派閥を引き継いだ石井光次郎派と、吉田時代から自由党内で党人派を代表していた大野伴睦派があった。

 旧民主党は複数の政党の寄り合い世帯であるだけにもとから派閥色が強かった。その中でも有力だったのはもと自由党から民主党に鞍替えした岸信介派である。さらに鳩山系は主流の河野一郎派と、傍流の石橋湛山派に分裂していた。旧民主党系の中でも傍流の旧改進党系は三木武夫・松村謙三を中心に一派を立てていた。以上、池田、佐藤、石井、大野、岸、河野、石橋、三木・松村派の8派閥を母体に自民党の派閥が栄枯盛衰することとなる」。

 推定党員数36.000名。
【「戦後革命論争史・上下2巻」発売される】
 この頃、上田耕一郎名義で「戦後革命論争史上下2巻」が大月書店から刊行された。同書は当時の左派運動圏からの反応がよく、上田・不破兄弟登竜の足掛かりとなった点で大きな意味を持つ。ところが、上田・不破両氏はその後絶版を指示して今日に至っている。これにつき、安東氏は、「上田は惜しむらくはこの名著を現在まで絶版にしたままである。公認の党史と矛盾、撞着する論述もさることながら、おそらく巻末の日本革命論が現綱領と相容れないためであろう」と指摘している。

 ところが、最近判明したことは、上田と不破がこの労作を書き上げたとされてきたが、実際は違うようである。「上田・不破『戦後革命論争史』出版経緯の裏話し(真相)について、宮地氏のホームページの爆弾内容」を紹介する。石堂清倫氏と宮地氏の間に交わされた手紙3通と書評によれば、『戦後革命論争史』出版の経緯について次のように明らかにされている。 石堂氏は、上田・不破共著『戦後革命論争史』の出版と廃刊の経緯を知らない人が多いようですから一筆しておきますとして、以下のように述べている。れんだいこが意訳して概要を整理した。詳しくは宮地健一サイト「共産党問題、社会主義問題を考える」で確認ください。
  「運動史研究」14巻(48〜49頁)にも触れていますが、あれは、内野壮児、勝部元、山崎春成、小野義彦、私とで「戦後日本の分析」研究会を開き、数ヶ月十数回にわたる討論の成果を世に送り出したものです。一同が五〇年以来の資料をもちよって、ちょっと面白い討論が続きました。その頃はまだ無名時代の上田耕一郎が筆録しましたが、内野以下五名は50年段階の国際派の学生対策委員で、上田君は学生側の委員の一名でした。討論の成果を内野君がまとめ、内野の名義で出版するはずのものでした。

 ところが、内野が超遅筆で一向に進捗しないので、待ちきれない大月書店がやかましく言い始めました。代わってまとめようにもそれぞれの者も時間がなく、窮余の一策として上田にやらせ、彼の名義で出版しようということになったのです。大月書店の小林直衛は、上田なんて無名の人物では困るといって反対しましたが、上田は大よろこびです。そして、金属か何かの組合の書記をしていた弟を引き立てるよい機会ゆえ、不破の名を加えてほしいと申し出、一同それもよかろうと承諾したのが実際の経過です。

 こうして、討論を筆記してきた上田君が内野君に代わって執筆することになったのでした。『戦後革命論争史』の出版事情はこの通りです。あの本の材料に使用した原資料は、まだ学生あがりの上田君が持っているわけはなく、内野以下五名が持っていたものを提供しています。もちろん彼とその弟不破哲三の個人的貢献も大きいから、両名の名義にしても苦しくはない。しかし内容的には当時の左翼論壇の一つの水準を示すものとして、けっして「私的」のものではない。

 こうして『戦後革命論争史』が1956
年12月と翌年1月に出版されました。これは、じつによく売れ、おかげで上田と不破はいっぺんに有名になったのです。「現代の理論」とほぼ同時期のことです。そんな関係で上田の結婚パーティも、内野はじめ全員が出ています。この経過について、宮本は敵意を抱いていたかもしれませんが、蔵原は理解を示していました。私が「現代の理論」に参加しなかったのは、とくに宮本に嫌われていて、私の名が出ると、干渉してくるだろうと判断したからです。

 
ところが、その後の経緯は不明ですが、上田はその後内野グループから離脱し、宮本派に鞍がえをしてしまいます。その後宮本レジムの政治局員にまで昇進しました。宮本君は『戦後革命論争史』に対して最初から不満だったでしょうが、がまんしてきたところ、ついにしびれをきらして、兄弟を自己批判させ『戦後革命論争史』絶版を迫りました。そのとき2人は、事の次第をありのままに告白すべきだったのですが、まるで自己の著作であるかのように絶版措置をとりました。著作家としての名声に未練があったからでないかと想像します。絶版するについては、上田兄弟は道義上私たちの了解をとりつけるべきでしょう。まるで自分たち兄弟の著作のように振舞ったのです。おかしな男だという人もありましたが、そのままになってしまった、という小さな歴史があります。

 付言すれば、党の丸山真男批判の意味は、丸山理論によって党の「神話」が吹っとぶことを、宮本君は直感したし、そのことによって批判キャンペーンが為されている気がします。


  最近刊の不破の『日本共産党の歴史と綱領を語る』を求めましたが、そのゴマカシと政治的無責任はあきれるばかりです。かれも70歳になりましたが、その理論の浅薄なことは、救い難いものです。マルクス、とくにレーニンの誤りなどと、彼の言うのは、見当違いです。最近、ロシアで、1891年〜1922年のレーニンの“知られざる著作”が刊行されました。“知られざる”というよりは、公表をはばかってきた著作というべきで、しかもその全部とは到底言えないものですが、今回公表された420点の文献を、成心なく読んだ方がよかろうと思います。レーニンは、いろいろ間違いもやり、ヘマも犯していますが、何も後来の宮本や不破を免罪するために行動した人物でないことを知るべきです。

 
2人は、党史のうち、自分らに都合のよい部分だけを相続したつもりです。こんな“虫のいい”限定相続をやっているようでは、“何一つ学ばず、何一つ忘れなかった”人間の標本にされそうです。現共産党には、党史は宮本レジムの確立を起点とするという立場があります。宮本以前の党運動のうち、その積極面は相続するが、消極面には責任を負わないのは一種の限定相続論でありますが、限定相続論にしたがう場合、戦後の党運動の成果はどのように区分されるのでしょうか。 
(私見・私論) 「『戦後革命論争史』の出版と絶版経過に見られる上田の人間的資質」について
 石堂氏は左派インテリという格調からであろうが、淡々と事実だけをメッセージしている。これをれんだいこ流に分かりやすく翻訳するとこうなる。上田は、石堂氏ら5名の先輩党員の業績を剽窃して弟不破との共著として「戦後革命論争史」を世に喧伝してきた。本来であれば、後書きで出版経過を報告すべきところを意図的にはしょっている。つまり、トンビの油揚げないしは手柄の横取りをしていることになる。この本の評価は高く、各界から上田・不破の声名を高めることになった。最高指導者宮顕が特に好むタイプであるということであろうか、その後両名は宮顕の懐に入り込み出世階段を上り詰めていき今日の地位にある。

 だがしかし、こういう手合いの出世主義人士が党中央に君臨しているということ自体恥ずべきことである。やはりこのラインは入る党を間違えている気がしてならない。
『戦後革命論争史』にまつわる裏話。 投稿者:れんだいこ 5.26日 鹿児島事件掲示板
 上田・不破『戦後革命論争史』出版経緯の裏話し(真相)について、宮地氏の「共産党問題、社会主義問題を考える」の爆弾内容をまとめてみました。宮地さんには事後報告でご了承願うつもりです。

 石堂氏は、上田・不破共著『戦後革命論争史』の出版と廃刊の経緯を知らない人が多いようですから一筆しておきますとして、本書の出版の経緯について次のように明らかにしています。れんだいこが意訳して概要を整理しました。

 「運動史研究」にも触れていますが、あれは、内野壮児、勝部元、山崎春成、小野義彦、私とで「戦後日本の分析」研究会を開き、数ヶ月十数回にわたる討論の成果を元にしています。一同が50年以来の資料をもちよって、ちょっと面白い討論が続きました。その頃はまだ無名時代の上田耕一郎が筆録しましたが、内野以下五名は50年段階の国際派の学生対策委員で、上田君は学生側の委員の一名でした。討論の成果を内野君がまとめ、内野の名義で出版するはずのものでした。

 ところが、内野が超遅筆で一向に進捗しないので、待ちきれない大月書店がやかましく言い始めました。代わってまとめようにもそれぞれの者も時間がなく、窮余の一策として上田にやらせ、彼の名義で出版しようということになったのです。大月書店の小林直衛は、上田なんて無名の人物では困るといって反対しましたが、上田は大よろこびです。そして、金属か何かの組合の書記をしていた弟を引き立てるよい機会ゆえ、不破の名を加えてほしいと申し出、一同それもよかろうと承諾したのが実際の経過です。

 こうして、討論を筆記してきた上田君が内野君に代わって執筆することになったのでした。『戦後革命論争史』の出版事情はこの通りです。あの本の材料に使用した原資料は、まだ学生あがりの上田君が持っているわけはなく、内野以下五名が持っていたものを提供しています。もちろん彼とその弟不破哲三の個人的貢献も大きいから、両名の名義にしても苦しくはない。しかし内容的には当時の左翼論壇の一つの水準を示すものとして、けっして「私的」のものではない。

 こうして『戦後革命論争史』は1956年12月と翌年1月に出版されました。これは、じつによく売れ、おかげで上田と不破はいっぺんに有名になったのです。「現代の理論」とほぼ同時期のことです。私が「現代の理論」に参加しなかったのは、とくに宮本に嫌われていて、私の名が出ると、干渉してくるだろうと判断したからです。

 ところが、その後の経緯は不明ですが、上田はその後内野グループから離脱し、宮本派に鞍がえをしてしまいます。その後宮本レジムの政治局員にまで昇進しました。宮本君は『戦後革命論争史』に対して最初から不満だったでしょうが、がまんしてきたところ、ついにしびれをきらして、上田兄弟を自己批判させ、『戦後革命論争史』絶版を迫りました。そのとき2人は、事の次第をありのままに告白すべきだったのですが、まるで自己の著作であるかのように絶版措置をとりました。絶版するについては、上田兄弟は道義上私たちの了解をとりつけるべきでしょう。まるで自分たち兄弟の著作のように振舞ったのです。おかしな男だという人もありましたが、そのままになってしまった、という小さな歴史があります。

 最近刊の不破の『日本共産党の歴史と綱領を語る』を求めましたが、そのゴマカシと政治的無責任はあきれるばかりです。かれも70歳になりましたが、その理論の浅薄なことは、救い難いものです。2人は、党史のうち、自分らに都合のよい部分だけを相続したつもりです。現共産党には、党史は宮本レジムの確立を起点とするという立場があります。宮本以前の党運動のうち、その積極面は相続するが、消極面には責任を負わないのは一種の限定相続論でありますが、限定相続論にしたがう場合、戦後の党運動の成果はどのように区分されるのでしょうか。 

 以下、れんだいこ私見を添えておきます。石堂氏はインテリという格調からであろうが、淡々と事実だけをメッセージしている。これをれんだいこ流に分かりやすく翻訳するとこうなる。上田は、本来であれば、後書きで共著的出版経過を報告すべきところを意図的にはしょっている。つまり、トンビの油揚げないしは手柄の横取りをしていることになる。最高指導者宮本が特に好むタイプであるということであろうか、その後両名は宮顕の懐に入り込み出世階段を上り詰めていき今日の地位にある。だがしかし、こういう手合いの出世主義人士が党中央に君臨しているということ自体恥ずべきことではなかろうか。やはりこのラインは入る党を間違えている気がしてならない。

 沖縄で、米軍による強引な土地収用が始まり、これに対する「島ぐるみ闘争」が展開された。






(私論.私見)