1951年年表 |
1.1 | 宮顕派の「解放戦線」第1号が発行され、1.20日付けで「党活動」第1号が発刊された。それぞれ党中央側の「内外評論」、「党活動指針」に対応していた。宮本の手になるものと思われる綱領的文書「新しい情勢と日本共産党の任務」が「解放戦線」第1号に掲載された。 |
1.3 | NHK、第1回紅白歌合戦を放送。 復興した歌舞伎座の開場式が行なわれる。 |
1.15 | 全面講和愛国運動全国協議会結成。 |
1.19 | 【社会党第7回大会開催】〜21日。右派の反対を排除、左派が主導権を握る。平和4原則(中立.全面講和.再軍備反対.基地反対)を採択。鈴木茂三郎委員長選出。 |
1.21 | 【宮本百合子死去】宮本百合子死去51才。急死であった。 |
1.24 | 「内外評論」第6号に無署名論文「なぜ武力革命が問題にならなかったか」が発表された。 |
1.24 | 日教組、「教え子を戦場に送るな」の運動方針を決定。 |
1.24 | 山口県麻郷村八海で老夫婦が惨殺される。(八海事件) |
1.25 | アメリカ講和特使ダレス、来日。1.29.31.2.7日吉田首相と会談。 |
1.27 | 川上貫一議員が、衆議院本会議の代表質問で、日本の平和と独立は、全面講和と占領軍の即時且つ完全な撤退によってのみ実現されると主張。発言取り消し要求を拒否。(3.29日国会を除名される) |
1.29 | 吉田茂・ダレス会談始まる。この会談で、講和・安保の骨子が固まる。 |
2.10 | 社会民主党(委員長:平野力三、佐竹晴記書記長))結成。 |
2.11 | ダレス離日。 |
2.13 | 東大.スパイ・査問事件。早大細胞.スパイ=オマタを摘発、早大(文学部)細胞キャップ・松下清雄が東大に連絡。 |
2.14 | 東京、猛吹雪で積雪が30センチに達する。 |
2.15 | 前日からの大雪で、首都の交通網が寸断され、機能麻痺。このため、国会は流会。証券取引所立会も停止となる。 |
2.21 | 世界平和評議第一回会総会がベルリンで開催される。米・英・仏・ソ連・中国の5大国による「平和協定」締結を要求する。(ベルリン・アピール) |
2.23 | 【「第四回全国協議会」(四全協)開催、新方針決議】徳田書記長は、大会に準ずるものとして秘密裡に「四全協」を召集した。この会議で、「当面の基本的闘争方針」(「51年綱領」).「分派主義者に関する決議」と「新規約草案」を決定した。武装闘争方針が提起された。周恩来からの意見として、武装闘争の準備についてのソ連、中国両党の指示が伝えられ……。軍事方針がきまり,国際派はその直後に空中分解。所感派による非合法会議。内容はいまも不明。徳田派の混乱と無能力.極左冒険主義の採択と国際派非難。これ以降,国際派、所感派の逆転現象。宮本らは4全協の結果を見て全国統一会議を再建。 |
3月 | ストックホルムで行われた世界平和委員会総会が呼びかけた原子兵器の無条件禁止などを要求するアピールの署名運動。 |
3.4 | 第1回アジア競技大会がインドのニューデリーで開催される。 |
3.5 | 無着成恭編『やまびこ学校』が刊行される。 戦後の「生活綴方(つづりかた)」の復興に影響を与える。 |
3.9 | 三原山、大爆発。 |
3.10 | −12日総評第二回大会が開催された。左派のヘゲモニーが強化され、再軍備反対.全面講和.基地反対の「平和4原則」が決議された。高野実が第二代事務局長となった。 |
3.14 | 国連軍ソウルを奪回し、再び38度線に達した。38度線を境に一押し一引きの様相となった。 |
3.21日 | ダレスが対日講和条約草案を発表。 |
3.29 | メーデー会場に皇居前広場の使用が禁止となった。 |
3.29 | 共産党川上貫一議員、全面講和と再軍備反対を主張し、議会から除名される。 |
3.31 | 改正結核予防法公布。これにより、BCGが強制接種となり、その是非が問題となる。 |
3月 | 伊藤,紺野,椎野らの自己批判続く。 |
4.1 | 琉球臨時中央政府(行政主席:比嘉秀平)設立。東横・大泉・東京映画配給の3社合併による「東映(株)」が発足する。 |
4.1 | 銀座に106本の街灯が復活する。 |
4.11 | 【マッカーサー、米大統領により連合軍最高司令官を罷免される】トルーマン、マッカーサー元帥、国連軍最高司令官解任(後任にリッジウェイ中将)。→マッカーサーの2000日終わる→16日離日=20万人が羽田までの沿道を埋める。 |
4.12 | ナイロン・ストレプトマイシンなどの製造技術導入が認可される。ナイロンは、米デュポン社から東洋ーヨンへ導入決定。ストレプトマイシンは、米メルク社から協和発酵・明治製菓へ導入決定。 |
4.16 | マッカーサー、離日。ダレス来日。 |
4.16 | 三原山、再爆発。 |
4.19 | 田中茂樹、日本初参加のボストン・マラソンで優勝。 |
4.23 | 【第2回統一地方選挙実施、「二つの共産党」による選挙戦 】自由党が圧倒的優位となる。4.23.30日全国にわたって第2回一斉地方選挙が行われた。党は、都道府県議6名当選。市区町村議489名当選。この選挙戦で党の分裂が深刻な様相を見せた。大衆の面前で主流「臨中」派と統一会議派との抗争が展開されたのである。 |
4.24 | 横浜の桜木町駅で、京浜東北線の電車が発火。2両が焼失。106人が死亡。(桜木町事件) |
4.27 | 政府が第22回中央メーデーの皇居前広場使用を禁止(中央メーデー中止)。リッジウエイ、政府のメーデー皇居前広場の使用禁止を支持。 |
4.28 | 総評、中央メーデーは中止と決定。(岩波年表) |
4.30 | 都知事選挙、安井誠一郎当選、出隆惨敗。 |
5.1 | 第22回メーデー開催。東京では皇居前広場の使用が禁止され、芝公園などての分散メーデーとなる。 |
5.1 | リッジウェイ中将、日本政府へ占領下法規再検討の権限を委譲すると声明する。 |
5.3 | リッジウエイ、公職追放解除。政府主催憲法施行4周年記念式典が皇居前で行われ、都民2万人が参加=天皇・皇后も出席。 |
5.5 | 児童憲章の制定が宣言される。 |
5.14 | 政令諮問委員会第1回会合、占領諸法令の再検討のため開催。 |
5.22 | 原爆禁止・ストックホルムアピール署名運動開始。 |
5〜6月 | 所感派幹部の自己批判の評価めぐり、国際派内部において宮本=自己批判について否定的、春日=肯定的、の対立深まり,決別。 |
6.1 | 大阪市でワンマン・バスが初めて運転される。 |
6.3 | NHK、テレビ初の実況中継を行なう。(後楽園球場から日本橋三越へ、プロ野球の実験放送) |
6.8 | 住民登録法公布。 |
6.9 | 新土地収用法公布。 |
6.12 | 警察法改正(自治体警察の縮小を規定)公布。 |
6.20 | 第1次公職追放解除(石橋湛山・三木武吉・河野一郎、菊池寛ら2958人)を発表。 |
6.21 | ユネスコと国際労働機構(ILO)が、日本の加盟を承認。 |
6月 | 多喜二・百合子研究会結成.(94年党史年表) |
6月 | 関東夜間社研連絡協議会発足。 |
6月 | 下旬、イールズ帰国。置き土産の「高等教育の改善に関する勧告」。 |
7.1 | 日文部省、「学習指導要領一般編(試案)」の改訂を発表。 |
7.4 | 吉田茂内閣、第2次内閣改造を実施。 |
7.6 | 敗戦を信じず、7年間もアナタハン島ですごした日本人20人が帰国する。 |
7.10 | 開城で朝鮮休戦会談開始、朝鮮戦争休戦。 |
7.31 | 日本航空(会長:藤山愛一郎)設立。(戦後初の国内民間航空会社) |
8月上旬 | 共産党、モスクワ会議。スターリン.徳田.野坂.西沢.袴田らで51年綱領の押しつけ。モスクワに派遣された袴田(=宮本派)は、スターリン御前会議において自己批判した。国際派からみればこれを変節となる。 |
8.3 | 全国商工団体連合会結成 。 |
池田蔵相、佐藤政調会長。 | |
8.4 | 奄美大島の住民8000人が、日本への復帰を要求し24時間の断食を行う。 |
8.6 | 第2次公職追放解除(鳩山一郎・岸信介・正力松太郎ら1万3904人)を発表。 |
8.10 | コミンフォルム機関紙「恒久平和」が、4全協の「分派主義者にたいする闘争にかんする決議」を支持的に報道。党の内部問題に関する二度目の干渉ともなったとされている。これにより、最左派の 国際主義者団が降伏、団結派の解散大会、統一協議会の解散と自己批判、統一派=春日のゴマスリ的自己批判、宮本の抵抗と復党となった。宮本の自己批判書は二度書き直しを要求されているが、それはついに公表されなかった。恐らくは志田が保管したまま……と推測されている。寺尾五郎「宮本顕治の自己批判書はたしかにあった。そのころ本部にいた宮直治が誰かにたのまれて、それを筆記したと聞いたことがある。いまどこにあるかは分からない」という証言がある。こうしてスターリンとコミンフォルムの権威によって、反徳田派の圧倒的多数の人々は徳田派に屈服することを余儀なくされた。全学連内部も苦悩した。不破の反省と復党の意見と武井,力石の反論、安東.土本の中間意見に分かれた。 |
8.19 | 【徳田派が「武装闘争路線」宣言する】「第20回中央委員会」が秘密裡に開かれた。第19回中央委員会総会以来1年4ヶ月ぶりであった。講和会議が開かれる直前の時期であった。この会議の眼目は、反対派受け入れに当たっての無条件屈服要求方式を採用すること、後述する新綱領の下での全党の理論的統一を獲得することにあった。会議では、新綱領草案、「党の統一に関する決議」など5つの決議が採択された。「4全協」で採択された改正「党規約草案」も承認された。 |
この月、生活難から人身売買が横行し、児童福祉法違反事件が続出。山形・東京・福岡・奈良などで約5000人を数える。 | |
9.1 | 初の民間放送である、中部日本放送(名古屋)と新日本放送(大阪)が開局する。 |
9.4 | 共産党臨時中央指導部らに団体等規正令違反容疑で逮捕状。 |
9.8 | 対日講和条約(サンフランシスコ平和条約又は対日平和条約)が単独講和方式で、サンフランシスコで調印された。この条約の締結によって日本は占領統治体制から脱却し主権を回復することになった。日米安全保障条約も調印された。 |
9.10 | 第12回ベネチア国際映画祭で、黒沢明監督の「羅生門」がグランプリを獲得。 |
10.1 | 毎日新聞・読売新聞などが夕刊の発行を再開する。 |
10.4 | 出入国管理令公布。 |
10.14 | 日ルース台風、上陸。交通・通信網が寸断され、本州各地で大被害。死者・行方不明者1200人にのぼる。 |
10.16 |
【「五全協」開催】徳田系党中央派は、秘密裡に「第五回全国協議会」(「五全協」)を開き。「新綱領」を採択し、武装闘争方針を具体化した。この大会で明確にアメリカ占領軍に対する「解放軍規定」の残滓と決別し、革命の目標を民族解放民主革命であると規定した。その実現の為に暴力革命を盛り込んだ「新綱領」を採択した。 徳田,志田体制を確立したもみなされている。新綱領=51年テーゼ=暴力革命唯一論=極左冒険主義=山村工作隊=スターリンと中国共産党の指導。戦前の「社会ファシズム論」の復活により社民勢力を反革命と規定、社会党に打撃を集中するセクト主義の誤り、重光首班論の誤り等々が見られたと総括されている。 この方針のもとに火炎瓶時代の極左冒険主義がひろまる。解放の名に隠れた民族主義の危険性。植民地的従属状態の強調、民族解放民主革命=武力革命論。大塚茂樹『当面の課題を民族独立を第一義とし、反封建の課題を結合した民族解放民主革命の路線が定式化された.その分析は中国共産党の民族革命論に倣うもので、日本の現状に本来適合するものではなかった.しかし、国際的権威に無批判的だった人々はこの新綱領を日本で具体化するために、以前から模索していた軍事方針を本格的に展開しはじめる』と見なしている。 |
10.24 | 社会党第8回臨時大会、講和・安保条約に対する態度をめぐり左右両派に分裂。 左派は全面講和を主張し、右派は多数講和を支持した。こうして、社会党は、昭和30年の再統一までの約4年間を右派社会党、左派社会党の分裂対立時代を迎えた。 |
10.25 | 日本航空、東京〜大阪〜福岡間で運航開始。 |
10.26 | 衆議院、講和(承認307票対反対47票)・安保(承認289票対反対71票)両条約を承認。 |
11.10 | 日教組、第1回全国教育研究大会(教研集会)を日光で開催。 |
11.18 | 参議院、講和(承認174票対反対45票)・安保(承認147票対反対76票)両条約を承認。 |
11月 | 共産党は、このころ「球根栽培法」.「栄養分析表」など武装準備のための非合法出版物ぞくぞくと刊行。薄紙で、丸めてのみこめるレポが物かげで渡されたり、「球根栽培法」や「組織者」が危険物のように回覧されたのもそのころである。再建細胞の党員たちの多くは、50年以降に入党し、分派活動の中で育ち、非合法活動の手足として危ない思いをしてきた新人たちで、学生運動の高揚期にみられたのびやかさは見られなかった。暗く、いつも緊張していた。 |
12.10 | ダレス来日。 |
12.24 | 吉田茂首相、ダレス宛書簡で国府(台湾政府)との講和を確約。 |
10.24 | 社会党第8回大会、講和条約の承認賛否を巡り左右両派に分裂(「左派社会党」鈴木茂三郎委員長、「右派社会党」浅沼稲次郎書記長)。 |
12.25 | ラジオ東京(現TBS)、開局。 |
12.26 | 吉田茂内閣、第3次内閣改造を実施。 |
この年、パチンコ大流行。 この年、赤痢の流行で1万4000人以上が死亡。 この年、脳溢血が結核を抜いて、死亡原因の第1位になる。 この年、浅香光代・大江美智子などによる「女剣劇」がブームとなる。 | |