1951年下半期
1951年下半期当時の主なできごと.事件年表
徳球派党中央極左路線採用す。講和条約締結。



 更新日/2017(平成29).4.25日
 (れんだいこのショートメッセージ)

 2002.10.20日 れんだいこ拝


【椎野臨中議長統一を呼びかける 】  
 こうした自己批判運動は、地下指導部からやがて合法公然指導部に及んで行った。7.6日椎野臨中議長は、「党の理論的武装のために、私の自己批判」を発表した(前衛.51.8月第61号、党活動指針7.30日付)。それは、これまでの理論軽視の自己批判であった。自己の理論水準の低さを反省し、これまでの理論軽視の傾向や経験主義助長の傾向を自己批判していた。こうして突如予想もされない 自己批判の連続的発表となった。一方で、分裂問題については、「統一会議」の動きに対して「分派」.「空論主義者」と呼び徹底批判を強めた。

【自己批判運動をめぐる国際派各派の対応】
 反主流派各グループは、こうした主流派の自己批判の姿勢に様々に対応することとなった。この経過を見ておく。
 7.15日、まず宮顕が「欺瞞と歪曲の書」見解を発表した。
 7.16日、宮顕派が、都統一会議指導部名で、椎野文書への批判を声明。
 7.18日、宮顕派の関東統一会議が、椎野文書否定の上、統一申し入れ。
 これに対し、7.18日、春日(庄)らの関西統一委員会が、椎野文書の肯定的評価と統一の申し入れをした。7.19日、この文書を公表。
 7.20日、春日派の東北統一委員会が椎野文書肯定の上、統一申し入れ。
 7.25日、春日(庄)が「党統一闘争の発展のために」を発表。
 7.31日、春日派が東北統一委員会「全国ビューローの通達」に対する我々の見解を発表。
 8.1日、亀山が、「統一と解放」紙に、「椎野自己批判をめぐって」を発表。
 8.10日、宮顕派が、全国ビューロー機関紙「建設者」に「欺瞞と歪曲の書」の要旨掲載。
 8.13日、春日派の関西統一委員会が、復帰・統一を決議、8.16日それを公表。
 
 統一問題に対する態度を次のように整理することができる。相次ぐ党中央の自己批判の動きをどう受け止めるかの評価を廻って、宮顕派は、「徳田党中央の責任追及による『上からの統一』」、春日派は一応党中央への合流、中西.福本派は下からの統一、国際主義者団は主流派粉砕の新党コース、神山派は上から下までの組織的統一というふうに見解が分かれた。こうして党中央の自己批判は反対派内部に決定的な意見の対立を発生させていくことになった。

 これを図式化すれば次のようになる。
【統一支持派】
春日派 下からの統一 「統一会議」の指導部にいた春日(庄).亀山.山田六左衛門らは、この椎野文書を評価して4全協指導部の下での「一応中央への合流」という立場から党の統一に乗り出す動きへ転換した。「同志椎野の自己批判と我々の態度」を声明した。亀山は、7.30日付け「党の統一と大衆闘争の前進のために、同志椎野の自己批判に対する我々の態度」を発表した。
 春日(庄).亀山らの「団結派」は、まず反対派の各グループを統一して、次に主流派との統一を下から働きかける「下からの統一」方式を主張し、宮顕派の「上からの統一」方式論と対立した。
中西団結派
統一協議会派 福本等の「統一協議会派」は、始めは「国際主義者団」の見解に近かったが、徳球の自己批判を評価して統一の道を模索するようになった。
神山グループ 神山グループは、独自の立場をとり続けていたが、主流.国際派が代表をあげて会議を持ち、一定の協定をした後「上から下までの組織統一」により統一機運を促そうとした。
【統一拒否派】
宮顕派 全面否定
上からの統一
「統一会議」派の実権を握っていた宮顕.遠坂らの宮顕派は、あくまで全国ビューローこそ正統の革命的中央部とみなし、6.6追放以前すなわち「第6回党大会」決定の中央委員会の復活以外に全党統一の道は無いと主張した。7.15日「欺瞞と歪曲の書、同志椎野の自己批判について」声明を出した。「上からの統一」方式と云われるものであったが、最も現実的でない提案であった。つまり、宮顕グループは分党の徹底化を志向したということになる。
国際主義者団派 新党コース 「国際主義者団」は、統一はあり得ず「主流派粉砕の新党コース」による真の革命党の自前づくりを主張した。

【宮顕派と春日(庄)派との対立、訣別】
 この過程で、同じ「統一会議」派内の宮顕系と春日系が最も鋭く対立し、この対立は深刻な様相を見せていくことになった。宮顕は自己批判について欺瞞的として否定的態度をとり、春日は肯定的に受止めようとした。この対立が深まり両者は決別していくことになった。関東と関西の間に違いが生じ、関東系は主として宮顕を支持し、関西系は春日を支持した。

 4月頃、春日は宮顕と訣別した。春日にすれば、全国統一会議の指導部があまりにも宮顕派に独占され、官僚化されたので、宮顕に見切りをつけて大阪へ移動し、主として関西を中心に活動することとなった。亀山も宮顕と決裂していた。5~6月の時期に国際派の内部で潜行していた分岐と対立が顕在化し、下部組織まで含めて遂に袂を分かつまでに至った。

 宮顕派内の中でも、宮顕.遠坂派とその影響の強い東京都統一会議指導部は、「欺瞞と歪曲の自己批判-同志椎野の自己批判について-」を発表し、自派の主張と立場の正当性を主張し続け、次のように述べた。

 「党の輝かしい統一を回復するには、これらの部分的自己批判によって果たされるのではない。要は党中央を分裂させ、解体に導いたことについての率直大胆な自己批判の上に立って、その責任の所在を明らかにし、そして率先して党中央の団結のために献身の努力を払うこと」と、切り返した。概要「四全協を前提とした自己批判なるものはマヌーヴァーに過ぎず、統一を求めるのなら6.6追放=解体以前の中央委員会の復元という眼目を抜きにしては有り得ない」。

 これに対し、春日の反宮顕の非難が注目された。宮顕派の関東と関西の間に発生した食い違いに対して、関西派の態度が正しいとした。党の統一の好機であるとして、「上からの統一」方式と宮顕派の「第6回党大会の中央委員会回復せよ」の態度を「形式的正統主義」と激しく非難した。宮顕派に対し次のように批判した。

 概要「人民大衆の現実の闘争も全国同志のさんたんたる統一への努力をかえりみようとせずに、ただ形式的に正規の中央回復と正統主義を口先でとなえる『サロン的グループ』に堕落している」。
、「統一委員会を解体すると称しながら、実は裏でケルンと称する全国的組織を持つ腹背的態度こそ、人もおのれも欺くものだ」。

 前年来の宮顕のセクト的策謀ぶりを暴露し攻撃した。

 これを補足すれば次のようにも云っている。(鹿児島事件と私 議論系掲示板・投稿者:羽派・投稿日: 6月4日より、これにれんだいこが補足)
 「我々は『相手』(徳田派のこと)を官僚主義,セクト主義,右翼日和見主義,無原則主義と攻撃しているが、目を一転して、自らの足下をみれば我々の側にもこれと同様のものがあり、更に、それよりも一層仕末の悪い空論主義、小ブルジョア的分派根性、その上に形式的正統主義という、余計な雑草がはびこっている。一部の指導的幹部の間には、人民大衆の現実の闘争に対する救いがたい無関心、実践的政治感覚のマヒが見られる。これらの同志は,かって正しい態度をとったということそれだけで今日においても彼らを正しいものとしていると錯覚している」。

 「形式的に言えば、我々はいわゆる正統派である。このような、自己批判を欠き、実践的土台を欠いた正統主義は必然に実質上、もっとも、性の悪い分派的セクト主義に陥らざるを得ない。なぜならば常に発展のない同じ立場にたって相手を批判・攻撃するだけであって、しかもその批判も自己の実践的土台を欠いているために、次第に抽象的・一面的たらざるを得ない。従って、その批判は、全党的観点から見た建設的なものとはなり得ない。このような形式的正統主義がもっともはびこっているところにおいては、我々の党組織は、大衆闘争から遊離し、しかも観念的気分的に革命的な、サロン的グループとなり、地下主義と結合してあらゆる種類の日和見主義が発生している」。

 「このような形式的正統主義は更に、我々のうちにおける官僚主義の根源となっている。それは、指令したり、任命したりすることによって、第6回大会の指導体制が維持できるように思っており、今日の党統一の運動が全国の同志の苦心惨憺たる努力によって維持され、発展されていることを知らない者である。何よりもこの形式的正統主義の致命的欠陥は、対所感派との対立において己の正しさを示すことに関心の中心が置かれていて、我々にとって無条件に且つ義務的に必要な大衆の闘争は勿論全党の統一を実践的に打ち出してゆくことに積極的な努力を払おうとしないことである。従って、このために、形式的に唱えられる一切のもっともらしきことは、それはそれだけのことであって、実際上においては逆の現象を生み出す」

 となって、例の「ケルン」の暴露へ続いて行きます。私はこれを読んで、宮本の「党活動」の特徴が非常によく捉えられていると感心しました。戦前も、60年代以降も、この人によってどれほど「もっともらしいこと」に聞こえるが実際は「実践的政治感覚のマヒ」した「空論」が唱えられ、党員達は苦労させられ組織は破壊されたことでしょうか。(「党統一闘争の発展の為に」(榊原宗一郎名義,1951年7月25日).日本共産党五0年問題資料集3(新日本出版))より。

【春日(庄)派の党合同の動き】
 こうして、春日は、「彼らの自己批判に見合って我々の側もこの際自己批判を示し、統一のための条件を成熟させなければならない」として、榊宗一郎名で「党統一闘争の発展のために」を発表した。春日に続いて春日(小)の影響力の強い関西地方統一委員会グループは、椎野の自己批判の積極的意義を認めようとする立場から7.18日、関西地方委員会議長・山田六左衛門も同様趣旨の文書「同志椎野の自己批判と我々の態度」を発表し、椎野自己批判の積極的意義を認めようとする態度を示した。「(椎野の)自己批判はすでに貴重な芽を含んでいる。それ故に我々はこれを歓迎し、これを正しく発展さすよう全力をあげて援助し協力しなければならぬ」と説いた。

 このあたりのことに関して、亀山氏の「戦後日本共産党の二重帳簿」)には次のように書かれている。
 「椎野自己批判によって所感派中央が、分裂の基本点について多少でも誤りを認めている以上、それは党統一の契機になりうるし、また『我々にも若干の反省すべき点はある』という考え方で一致した。そこで、我々はまず臨中側と話し合い、復帰・統一の方向をとることに決まった」。「椎野自己批判を『欺瞞と歪曲の書』と見るのは、見た人自体が、欺瞞と歪曲をいつも行っているからである」。

 8.14日、モスクワ放送が、8.10日付けコミンフォルム機関紙に「四全協、分派に関する決議」が載ったことを放送。国際派を批判した。
 8.16日、宮顕派の全国統一会議系の全国代表者会議(埼玉会議)が開かれる。
 8.18日、宮顕派の関東統一会議指導部が、モスクワ放送を受け入れ、組織解消を声明。
 8.19日、党中央が第20回中央委員会を開き、「新綱領」の提示と「党統一の決議」を行う。

【宮顕派分党の解体】 
 こうしていよいよ宮顕系国際派は追い詰められ、分派組織の解体を呑まざるを得ないことになった。この時の対応は四コースに分かれた。これを図式化する。どのコースを取るかによって、各人各様の人間模様が生まれた。

全面的自己批判による復帰コース派 ①-① 徹底的全面的な自己批判による復帰コース派 不破哲三ら。
①-② 敗北したので仕方ないとして形式的にも全面自己批判しつつの復帰コース派 力石定一ら。
部分的自己批判による復帰コース派
・自己批判を拒否し党への復帰もなりゆきに任そうとする派 武井昭ら。
本音は全面的に自己批判拒否であるが再再度党中央奪権目指して復帰する派 宮顕、蔵原ら。

 6月、第一次追放解除。石橋湛山、三木武吉ら政財界要人2985名の追放解除が行われた。更に8月、鳩山一郎、大麻唯男、緒方竹虎、前田米蔵、松野鶴平、松村謙三、河上丈太郎(社会党)、河野密(社会党)らが追放解除された。
【吉田内閣、第2次内閣改造を実施 】
 7.4日、吉田茂内閣、第2次内閣改造を実施。引き続き自由党単独内閣を形成し、増田甲子七幹事長、広川弘禅総務会長、吉武恵市政調会長の布陣で政局運営にあたることになった。佐藤栄作は、郵政相兼電気通信相として入閣。

【スターリン裁定為される】
 日本共産党問題がモスクワで討議された。8.12日前後、日本共産党の分裂問題についてスターリンも参加してモスクワで会議が開かれた。ソ共側は、首相兼ソ共党書記長・スターリン、第一副首相・マレンコフ、副首相兼内務省要人・ベリヤ、党政治局員・書記局員・モロトフ。中共側は、対外連絡部部長の王稼祥。日共北京機関からは徳球.野坂.袴田.西沢。反主流派からは袴田が幹部として呼ばれた(袴田の場合は国際派の代表として中国、ソ連に派遣されていたが、王稼祥に説得されて、「五一年綱領」原案を認めてこの会談に出席している。加えて、スターリンから自己批判書まで書かされた)。つまり、ソ共・中共・日共主流派・日共反主流派代表の一同が会したことになる。

 スターリンは、「統一会議」派を分派と裁定した。その理由として、概要「労働者は団結しなければ勝利できない。それなのに反対派をつくって、果たして勝利できるだろうか。このテーゼ(51年綱領)は我々も協力して仕上げたものである。この方針に基づいて、日本の党は前進して欲しい。袴田同志、日本の同志たちから聞いたところでは、日本の国内で分派闘争が激しく行われているという。良くない。すぐやめさせなければいけない。今度決まった方針(51年綱領)で党を統一して欲しい」と発言為されたことが伝えられている(袴田「私の戦後史」)。つまり、「何があろうとも分派は駄目だ」という最高判決が下されたことになる。

 こうして、スターリンは、「51年綱領」をよしとして採択させた。「原案は51.4月、北京機関の徳田、野坂、西沢らがモスクワに呼ばれ、スターリンの直接の指示と監督のもとに作成された。最後はスターリンが直接手をいれた。付帯文書の軍事方針も、スターリンが、朝鮮戦争の勝利を展望してつくられた」(不破哲三「日本共産党にたいする干渉と内通の記録―ソ連共産党秘密文書から(下)」(新日本出版社、1993年、99P)とある。

 かくて中国に渡った徳球指導部は、「51年綱領」で、従来の平和革命式議会主義から一転して武装闘争路線へと転換せしめることになった。モスクワでのスターリン裁定により、「主流派」が是とされ「国際派」が分派として断罪されたということであった。後日明らかにされたところでは、スターリンの前で徳球と袴田が是非を争って論争し、スターリンの一喝で袴田が自己批判書を書かされるはめになったということであった。

 こうして袴田は自己批判を発表した。その内容は、概要「昨年1月コミンフォルム」批判後、党内に起こった論争の経過の中で、当初は分派主義と闘いながら、後にはそれら分派主義者の一部の者と行動をともにし、且つその指導に参加するに至ったことは、この原則を破り、鉄の規律を破壊したことになる。(中略)私は明らかに全国的規模の分派をつくることに参加し、その指導にも参加したのである。」(地下機関誌「内外評論」)、「私は今後一切の分派と関係を断ち、分派根絶の為闘争する」というものであった。この時の袴田の自己批判書は、徳球系執行部の正当性を国際派が認めた貴重文書として意味をもってくることになる。「六全協」での宮顕式徳球系総括と齟齬をきたすこととなった。

 もっとも、徳球はこの「51年綱領」に満足していた訳ではない様である。「あの綱領は、スターリンの意見に基づいて、マレンコフが主としてまとめた。その意見をロシア語のできる野坂が翻訳し、更にその文章に西沢が手を入れた。おかげで、弱々しい、へんちくりんなものが出来上がったよ」と伊藤律にこぼしていたと伝えられている。但し、野坂がそれほどロシア語に堪能であった訳ではないのでやや真偽不明である。

 8.10日、「恒久平和」紙上で「四全協」の「分派主義者に対する闘争に関する決議」を支持的に報道し、「統一会議」派を「日米反動を利益するに過ぎない」分派活動として非難した。所感派を全面的に支持し、国際派を断罪するところとなった。


 8・14日には、共産党中央の第4回全国協議会の決議を掲載した。「所感派が勝利を呼号し、国際派に対して全面的な屈服を威丈高に要求してきたのと対照的に、国際派は一挙に打ち砕かれ、見るも無残に打ちひしがれることになった」(安東「戦後日本共産党私記」)とある。

 「統一会議」派は、この「論評」と決議を契機として総崩れとなり、「党の団結のために」声明を発表して組織を解体した。この論評を契機に中国地方委員会は解散し、党中央がわに復帰の態度を明確にした。足掛け9ヶ月で党内二党並立時代に終止符が打たれた。宮顕の「私の五十年史」は次のように記している。「私達は活動を中止し、結局組織を解散した。当時、まだ私達は、コミンフォルムの批判-ソ連共産党や中国共産党の批判を不可抗力視する傾向を免れていなかった。私は不本意だが、この状態で活動を続けても道理は通らないだろうと考えざるを得なかった」。つまり、党の内部問題に関する二度目の重大な干渉であったとされている。

 こうして国際派は主流派に復帰することになった。最左派= 国際主義者団は降伏し、団結派は解散大会を開いた。統一協議会も解散と自己批判をした。統一派の春日はゴマスリ的自己批判をし、宮顕は最後まで抵抗しつつ復党したとされている。

 亀山幸三氏によれば、この時宮顕の自己批判書は三度書き直しを要求されていると伝えられている。この際、蔵原、中野重治が同一歩調であったようである。この宮顕自己批判書は杉本文雄の手を経て志田のところに届けられたようである。が、公表されぬまま経緯し、その現物も闇に消えている。宮顕に限りこうした不自然な形跡が多すぎる。
 8月、第20回中央委員会開催。「戦術と組織の問題」の第四項目で、「武力闘争と農民のパルチザン闘争」と題して、農民のパルチザン闘争の重要性を強調した。

【 党中央徳球派の党内整風運動と反発】
 こうしてスターリンとコミンフォルムの権威によって、反徳球派の圧倒的多数の人々は党中央徳球派に屈服することを余儀なくされる。が、この時主流派は、国際派に対して分派活動としての自己批判と「51年綱領」の承認と「四全協」の規約の承認を前提としたことから復帰自体も円滑に進まなかった。「その後も、幾度かの『分派狩り』が、総点検運動の名において行われた。右手に除名処分の剣を持ち、左手に慈悲の免罪符をかざしながら、手荒い説得と教育の三ヵ年が引き続いた」ようである。

 これにつき、宮顕は次のように云い為している。「党の統一回復を主張していた人々は、党中央委員会を解体した側がつくった不正規の指導機関のもとに復帰することにされたが、分派活動としての自己批判と51年綱領の承認が前提とされ、復帰自体も円滑に進まず、分裂による不正常な状態が長く続き、統一回復への一歩を踏み出すには、1955年7月の『六全協』をまたなければならなかった」。分派ではなく分裂時代として言い換えて論旨を整序している。「勝てば官軍」、何とでも云えるの好例であろう。

【 全学連中央=国際派の動揺】 
 コミンフォルムが所感派の方を正しいと裁定したことに拠り、全学連中執派のメンバーは非常に衝撃を受け、これを契機に再び多くの学生活動家は党中央の指導に服していくようになった。全学連内部の苦悩が頂点に達した。しかし、全学連委員長武井ら20数名は国際派の首領格であった宮本顕治グループと行動を共にする途を択ぶ事になる。宮顕復党後は更に混迷を深めていくことになった。

 安東氏の「戦後日本共産党私記」によれば、三つの意見に分かれたようである。一つは、自己批判と復党を急ごうとした流れであり、不破が急先鋒であった。力石は負けたのだから仕方がないとして復党に向かった。これが多数の流れとなった。宮本と軌を一にしていることが知られる。一つは、我々は基本的には間違っていなかったと反発する流れであり、武井と福田らが主張した。復党を拒否することになったが、これは少数派であった。さらに、三つ目の流れは、双方共に分派であったこと、所感派は悪い分派で、我々は良い分派であったことは譲れないむ。復党は流れに任せるという主張であり、安東らが主張した。復党拒否派は次第に孤立していくことになったようである。

【 「第20回中央委員会」開催、徳球派が「武装闘争路線」宣言する 】
 8.19-21日にかけて「第20回中央委員会」が秘密裡に開かれた。第19回中央委員会総会以来1年4ヶ月ぶりであった。講和会議が開かれる直前の時期であった。この会議の眼目は、反対派受け入れに当たっての無条件屈服要求方式を採用すること、後述する新綱領の下での全党の理論的統一を獲得することにあった。会議では、新綱領草案、「党の統一に関する決議」など5つの決議が採択された。「4全協」で採択された改正「党規約草案」も承認された。「党の統一に関する決議」では、反対派復帰に当たり徹底的な自己批判が要求される無条件降伏の道を採択した。

 会議では、「50年テーゼ草案」の処理に一言も触れることなく、突如として「日本共産党の当面の要求 新しい綱領(51年綱領草案)」が発表された。先の「当面する革命における日本共産党の基本的任務について」(徳田テーゼ)と様相をがらりと変えていることが注目される。これが「51年綱領」、「新綱領」と呼ばれていくことになった。政治史的意味は、中国共産党の革命成功観点からの綱領色が強められたことにある。後に明らかになったところでは、地下に潜行した年年綱領徳田.野坂ら主流派が、スターリンの指導と中国共産党の支持の下にモスクワで起草されたものと云われている。

 この当時の社会情勢を反映して進駐軍=解放軍規定はすっかり陰を潜める。「戦争後、日本は、アメリカ帝国主義者の隷属のもとにおかれ、自由と独立を失い、基本的な人権をさえ失ってしまった」、「アメリカ帝国主義者は、日本を新しい侵略戦争に引き入れようと努力し、そして、我が国を完全に破滅させ、無力にしようとしている」、「彼らは、日本を、自分の目下の同盟者として、これを新しい戦争に引き入れようとしている」、「吉田政府は、アメリカ帝国主義者による日本の民族的奴隷化のための政府である」、「吉田自由党反動政府を打倒し、そのかわりに、新しい国民政府を樹立しなければならない。これは、日本の民族解放の政府となるであろう」、「天皇制の廃止と民族解放民主政府の樹立」、「新しい民族解放民主政府が、妨害なしに、平和的な方法で、自然に生まれると考えたり、あるいは、反動的な吉田政府が、新しい民主政府にじぶんの地位を護るために、抵抗しないで、みずから進んで政権を投げ出すと考えるのは、重大な誤りである」、「吉田政府はこのような日本国民に対する闘争をすでに行い、共産党を地下に押し込めようと、労働者と農民の指導者を逮捕し、労働組合と農民組合を内部から破壊している」、「吉田政府に対し、国民の真剣な革命的闘争を組織しなければならない。すなわち、反動的吉田政府を打倒し、新しい民族解放民主政府のために道を開き、そして占領制度をなくする条件を作らなければならない。これ以外に行く道はない」、「この解放闘争の主力は、日本人口の圧倒的多数を占める労働者と農民であり、それは、労働者と農民の同盟である」。

 つまり、日本革命の展望として日本の解放と民主的変革を、平和の手段にやって達成しうると考えるのは間違いであると規定し、「暴力革命唯一論」の見地からの革命闘争への決起を呼びかけたのである。野坂の「平和革命論」との対極にあった。またこうも書かれていた。

 概要「この『新綱領』によって、現在の段階において内外の情勢と、国民の諸要求に合致して、出過ぎた社会主義への過渡的段階を闘い取る諸要求を引き下げ、まず民族の解放を全国民の力によって勝ち取るための民族解放民主統一戦線の発展と強化にこそ、すべての努力の集中点があることを理解しなければならない」。  

(私論.私観) 「51年綱領草案」の中ソ共産党の指導性如何について
 宮地氏の「北京機関と自由日本放送(藤井冠次)」で次のように明かされている。一方、徳田が律を必要としたのは、その年の夏、モスクワでスターリン指導下に新綱領を決定したが、同時に党の分裂をきびしく批判され、北京に帰ってからも、毛沢東から同様のきびしい批判をうけた。徳田は毛沢東にたいして、はじめ反対派の非を主張して抗弁し容易に聞き入れなかったが、それでも毛沢東から現下の時局(朝鮮戦争と抗米援朝の立場)では党の統一をすみやかに実現することが必要であると強く説得されて、まるで彼自身の自己批判を迫られたみたいに、書記長としての重大な責任を痛感した。

 スターリンと毛沢東とは、日共の武装闘争についても多少の意見の相違はあったが、戦略的には一致してその必要を認めていた。その限りでは、中・ソはまだ中ソ友好同盟条約にもとづいて蜜月であった時代である。そのことを立証するものとして、後にフルシチョフが事実を暴露して日共中央委員会にあてた公開書簡がある(タス通信・一九六四年七月二十日付第七八三号、「日本共産党中央委員会あて一九六四年四月十八日付ソ連共産党中央委員会書簡」)。

 これは、この前年(六三年)三月、日ソ両党代表間で会談がおこなわれた際、日共代表団が、朝鮮戦争当時、ソ共が五一年綱領と〈極左的冒険主義戦術〉とを日共に押しつけたのは〈内政干渉〉であるとして抗議したのにたいして、ソ連側でそのような事実はないと反駁したものである。書簡によれば、一九五〇年一月のいわゆるコミンフォルム批判の論文は「スターリン個人の発意で発表されたもの」であり、五一年綱領については、「その草案が日共指導者(徳田・野坂両同志その他)の諸君と、その直接参加のもとに、スターリン自身の手で仕上げられたものであること」を言明している。

 が、さらに書簡はつづけて、「この綱領草案とは別に、日本の同志たちは日共の戦術にかんする文番を作成したが、この作成には、ソ連共産党のうちだれ一人関係しなかった」としている。またこれに先立って、書簡は「(ソ共は)朝鮮戦争当時の日共の〈極左的冒険主義〉戦術とは何ら関係がないことを示した」と述べ、「このような戦術は、その大部分が中国共産党の経験(山岳地帯におけるゲリラ戦態勢、〈支援基地〉の設置など)の教条主義的なひきうつしであって、これには実際、ソ連共産党もなやまされた」などと述べている。

 フルシチョフの中ソ離間策と中共への責任転嫁の意図は明らかであるにしても、当時のスターリンと毛沢東とが、朝鮮戦争と〈抗米援朝〉の立場から、〈後方基地〉日本内地での武装闘争に日共の一定の役割を認めていたことは事実であろう。

【山村工作隊による「山村根拠地建設」、各地での火炎ビン闘争が発生】
 こうした方針から「山村根拠地建設」、「自衛組織づくり」に向かうことになった。山村工作隊が組織され「山村根拠地建設」に向かった。他方、各地での火炎ビン闘争が発生した。 志田重男がリーダーとして指揮をとった。「栄養分析法」 .「球根栽培法」等で中核自衛隊の組織、戦術等が指示された。

 この方針は、当時中国革命の勝利を背景にして、人民革命軍とその根拠地づくり、長期にわたる武装闘争によって勝利を獲得した中国共産党の経験を学び我が国に適用しようとしたものであったが、「中国の人民戦争の経験の機械的適用であった」と総括されている。

 ところで、奥吉野・奥有田に「独立遊撃隊」を作らせながら、数カ月で補給さえ放棄した。この無責任は各地の山村工作隊に共通しているようである。これに参加した者の回想として、柴田翔の小説「されどわれらが日々――」(1964年)、由井誓の死後刊行された「由井誓遺稿・回想」(由井誓追悼集刊行会、1987.11月)、脇田憲一「朝鮮戦争と吹田・枚方事件-戦後史の空白を埋める」(明石書店、2004.3月)等がある。

【全学連中央委員会総会、この当時の学生運動】
 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動第2期党中央「50年分裂」による(日共単一系)全学連分裂期の学生運動」に記す。

 8.26日、全学連は中央委員会総会を開き、50年以来の闘争の総括をした。分裂主義者にたいする決議と闘争宣言、「全日本学生へのアピール」を採択した。武井委員長が再選されている。

 この年共産党は、51年秋から、トロツキスト追放キャンペーンの激しさをました。

【講和条約締結前の弾圧】
 8.14日、共産党機関紙20紙の発行停止。8.15日、全国一斉平和集会の禁止。8.16日、旧軍人を含む13000名の追放解除。8.26日、正規軍人20100名の追放解除。9.3日、GHQと政府は、講和会議を目前にして、占領政策違反の名目で党の合法指導部と残された「臨中」委員、国会議員その他に弾圧を加えた。まずは18名(椎野.河田.鈴木.杉本.輪田.保坂浩明.福本和夫.岩田英一.山辺健太郎.西沢隆二.岡田文吉.岩本巌.上村進.砂間一良.細川嘉六.堀江邑一.川上貫一.木村三郎)、9.6日にはさらに西館仁を加えたので合わせて19名の公職追放が命ぜられた。1年前の中央委員追放に続く党中央への弾圧であった。GHQの指示を受けた警察は、全国300ヶ所にわたって党の機関を捜査した。椎野等は既に事態を察知して地下に入っていたので、公然面に残された8名(岩田英一.堀江邑一.細川嘉六.山辺健太郎.福本和夫.砂間一良.上村進.川上貫一)が逮捕された。

 9.8日、特高関係者の追放解除。 
【講和条約締結】
 朝鮮戦争、マッカーサーの解任等々対日講和を阻害すると思われた事件の出来にもかかわらず、講和への動きは着実に進んでいった。この頃朝鮮戦争は既に膠着状態に陥っていた。8.16日、講和条約草案の全文発表。8.22日、全権、全権代理及び随員が発表された。全権は、吉田茂首相、池田隼人大蔵大臣、苫米地義三民主党最高委員長、星島二郎自由党常任総務、徳川宗敬(むねよし)緑風会議長、一万田尚登日本銀行総裁。全権代理は、吉武恵市自由党政調会長、大野木秀次郎自由党参議員議員会長、松本六太郎農民協同党委員長、鬼丸義斎民主党最高委員。一応超党派の体裁を整えていたが、社会党.共産党抜きの「超党派」であった。随員として、宮沢喜一、白州次郎、麻生和子(吉田首相の娘)らが選ばれた。8.31日、日本全権団が羽田を出発した。

 9.4日より講和会議がサンフランシスコのオペラ.ハウスで開かれた。アチソン米国務長官が議長席につき、トルーマン大統領が開会挨拶した。参加国は52カ国。冒頭から波乱含み。ソ連代表グロムイコが発言し、概要「この米英草案は、平和の条約というよりは極東における新しい戦争準備のための条約である。これは日本軍国主義再建を防止する保障を含んでいないのみならず、逆に侵略国家としての日本復活の為の条件をつくっている」。こうして米ソの対立が露骨化した。吉田.トルーマン会議が持たれた。

 9.8日、単独講和平和条約が締結された。48(46)カ国が調印した。ソ連.ポーランド、チェコスロバキア、中国.インド.ビルマが調印しなかった。この条約の締結によって日本は占領統治体制から脱却し主権を回復することになった。

【日米安全保障条約締結】
 この条約の調印の5時間後、日米安全保障条約が締結された。「平和条約の効力発生と同時にアメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内に配備する権利を日本国は許与し、アメリカ合衆国はこれを受諾する」。両条約は52.4.28日に発効されることにされていた。

 吉田首相は、「この条約は評判が良くないから、後の政治活動に影響があってはならない」として、彼一人が署名した。アメリカ側は、アチソン国務長官、ダレス顧問ら4名が署名した。署名前吉田は次のように声明している。

 「日本は独立と自由を回復した後、自分の力でこの独立と自由を保持する責任をとらねばならない。しかし不幸にして、未だ自衛の用意ができていない。で、米国が日本の安全は太平洋及び世界の安全を意味することを理解されて、平和条約後も暫く軍隊を日本に留めて共産主義者の侵略を阻止してくれることを欣幸とする。新たに独立した日本は、極東の集団安全保障に対する応分の責任を負うであろう」。

 10.26日、衆議院通過。自由党、民主党、社会党右派その他の307名が賛成し、社会党左派、共産党、労農党、その他の47名が反対した。11.18日参議院通過という経過で戦後日本の主権が回復された。「講和は占領の終焉であると同時に、独立国家としての戦後処理の新たな出発となった」。
(私論・私観) 「日米安全保障条約締結考」
 安保条約により日本の国際的立場はアメリカを盟主とする資本主義国家の仲間入りに向かうことが明確にされた。日米共同当局者によるアメリカ陣営組み込み、真実は、第二次世界大戦後の国際金融資本即ち国際ユダヤ裏政府の国際戦略に戦後日本を委ねることを意味していた。「日本共産党の65年」P141は、次のように述べている。
 「この二つの条約は、日本を形の上で主権国家としただけで、実際にはアメリカ帝国主義の半占領下におき、日米軍事同盟によって日本を無期限にアメリカの戦争計画にしばりつけた」 。

 この規定だけでは真実に迫れないが、おざなりなかような規定で納得するのが戦後左派運動の貧困と云える。

 ここで付言しておけば、吉田には自由主義陣営への確固とした信頼と共産主義陣営に対する不信が牢としてあったようである。「例のマルクス主義的世界観というか、米国を資本主義、帝国主義の権化と考え、その対外的働きかけをことごとく何らかの邪心ある行動の如く思いなす思想風潮」の鼓吹者としての共産主義者的見方の観点を否認しており、「共産政権誕生以来、ソ連は5千万人、中共は2百万の国民を殺したといわれる。人民を多数殺戮するような国に、何の進歩、何の発達、何の自由があり得るのか」と批判している。

 吉田首相のもう一つの意図は、日本の軍事費を節約して、経済再建に集中することにあった。2006.4.9日付日経新聞の「私の履歴書」の宮沢喜一氏の№9「安保、日本から瀬踏み」は次のように記している。
 「独立後も米国に安全保障を頼ったことには様々な批判があるだろう。しかしあの時の日本にそれ以外の選択肢は無かった。最小限の軍備にとどめ、余力を日本経済の再建に傾ける政策を貫く。それが吉田さんが選んだ路線であり、私は正しい判断だったと信じている」。

 これにつき、「天木直人のブログ」の2008.9.13日付「講和条約締結を前にしてなぜ吉田茂は不機嫌だったのか」が貴重な指摘をしている。それによると、豊下楢彦著「安保条約の成立ー吉田外交と天皇外交」(岩波新書)が、「いわゆるサンフランシスコ講和条約は日本にとって極めて寛大な条約だった。その条約を吉田茂は高く評価していたはずだ。それなのになぜ吉田茂は首席全権代表を強く拒んだのか」と問い、「講和条約に署名したくなかったのではない。その直後に控えていた日米安保条約に署名する事が嫌だったのだ」と心理分析し、その理由として次のように推定している。
 概要「少しでも対等な条約をと、粘り強い交渉を重ねた吉田茂に対し、天皇の戦争責任をせまるロシアの影響を恐れた昭和天皇が、日米安保条約の早期締結を命じ、出席を渋る吉田茂に、はやく出席し、署名するように、と迫ったからだ。だからこそ吉田茂は、日本国民や国会はもとより、全権代表団にさえ安保条約の実態を知らせることなく、責任をみずから一人に負わせる形で、サンフランシスコ郊外の米軍兵舎に一人赴いて署名したのである。今日に至る戦後63年の日本を規定してきた日米安全保障体制は、昭和天皇と米国の利害が見事に一致して作られたのだ」。

 2006.4.9日、2008.9.14日再編集 れんだいこ拝

【台湾の国民政府を、中国の正統政権として認める】
 この時、吉田首相はダレス国務長官の勧告を受け入れ、台湾の国民政府を、中国の正統政権として選んでいる。そうする以外、早期講和が難しい情勢によったと伝えられている。

 後日、吉田はこの時の気持ちについて、日本経済新聞社刊「日本を決定した百年」で次のように述懐している。「対日講和会議が成立した頃、既に、朝鮮戦線においては中共軍の介入から、戦況は極度に苛烈な状態に至っており、アメリカ国民の北京政権に対する感情は悪化の極致に達していた。従って、講和独立後の日本が、北京と台湾とのいずれを選択するのかの問題は、アメリカにとって特に重大な関心事となっていた。万が一にも日本が貿易その他の経済的利益に動かされて、北京政権との間に何らかの修好関係を持ち始めるような事態ともなれば、アメリカの対共産国政策は大きく動揺せざるをえない」、「台湾との間に修好関係が生じ、経済関係も深まることはもとより望むところであったが、それ以上に深入りして、北京政府を否認する立場に立つことも避けたかった。中共政権は現在こそ、ソ連と握手しているように見えるけれど、中国民衆は本質的にソ連人と相容れざるものがある。文明を異にし、国民性を異にし、政情も又異にしている中ソ関係は、遂には相容れないようになるに違いない。従って、中共政権との間柄を決定的に悪化させることを欲しなかった」。

【講和条約による独立如何問題考】
(私論.私観) 「主権の取り戻し」について
 歴史の流れを正当に見れば、講和条約によって日本は主権を回復したことになる。が、日本の最大左翼である日本共産党執行部はそのように見なかった。このミスリードが今日もなお続いている。「第5回全国協議会における一般報告」は次のように規定している。
 「アメリカの仕組んだサンフランシスコでの単独講和によって、我が国の状態は再び大きく変化し、その条約によって我が国はむきだしにアメリカに占領されることになった」()。
(私論.私観) 「サ条約・安保条約体制」をどう見るかについて
 サンフランシスコ講和条約と日米安保条約は、日本資本主義の日帝化の方向を明示したものであった。その方向とは、アメリカ帝国主義の傘下で運命共同体となり、そういう日米同盟下での再建・発展を目指すという意思表示であり、「ヤルタ協定を機軸とする戦後帝国主義世界体制の一翼として自己を延命させた」(田川和夫「戦後日本革命運動史1」)とみなすことが正確であると思われる。この路線を敷設した吉田茂を敢えて歴史客観主義で評価するならば、「支配階級にとっての戦後史の最大の貢献者であり、『国葬』に附されるに相応しい業績を挙げた人物だということができよう」(田川和夫「戦後日本革命運動史1」)。
(私論.私観) 「サ条約・安保条約体制」をどう見るかについて
 吉田首相には次のような認識があった。

 「占領6年有余にして、日本は一日も早く独立を獲得せねばならぬ、とする私の考えはいよいよ強くなった。全面講和は理想としてはいいかも知れぬが、当時の国際情勢、殊に米ソの冷戦のもとにおいては、それは一場の夢に過ぎない。平和条約で独立は一応回復した。しかしこれは主権回復という意味での政治的独立であって、経済的独立には未だ前途尚遠しである。しかも、経済的独立に専念するためには、国の内外における安全が保障されねばならぬ。しかし、当時の我が国の経済状態は再軍備の負担に耐えるべくもない。況や、我が国の新憲法は厳として再軍備を禁じているにおいておやである」。

【山陰線鉄橋爆破計画】
 田中宇氏のマンガンぱらだいす」(風媒社、95年刊)情報によると概容次の通り。

 この頃、京都府下で日共武闘派(主として朝鮮人鉱山労働者ら)によるが「山陰線鉄橋爆破計画」、京都府精華町の「米軍弾薬庫爆破計画」、京都府日吉町の「天若ダム(八木町の発電所)爆破計画」ががあった、とされている。これに後の自民党幹事長・野中氏が関係していたと云う。50~52年頃、日本共産党を上部組織とする組織、在日朝鮮人連盟(朝連)や在日朝鮮統一民主戦線(民戦)に参加していた在日朝鮮人らの証言で裏付けられる。マンガン鉱山労働者のイ・ジョンホ(李貞鎬)は、概容「(95年現在)自民党国会議員の野中も、当時はバリバリの共産主義者で、京都府S町の細胞(暴力革命の行動単位)のキャップだった。野中と一緒に細胞会議をしたこともある」と証言している。

 この背景には、朝鮮戦争の動きが絡んでいた。「京都府北部には戦時中日本海に面した重要な軍港だった舞鶴港があり、朝鮮戦争が始まると、そこから軍需物資が搬出され、朝鮮半島に上陸した米軍に補給された。そこで、当時京都府内にいた在日朝鮮人の共産主義者らは、米軍と戦う北朝鮮軍の支援には、米軍用の物資搬出を阻止するのが最善と考え、舞鶴港に物資を運ぶ山陰線の、鉄橋爆破を計画した」(田中前掲書、P.234)。
(私論・私観) 「朝鮮動乱時の野中氏の左翼性」について
 上記の史実を、野中氏の政治的致命傷とする観点から暴いているようであるが、れんだいこは逆に受け取る。この頃の野中氏をして左翼闘士として懸想させていた「時代の革命性」こそが真実だったのであり、それは野中氏のむしろ「誉れ」であると考える。真に考察すべきは、その後の野中氏の政治的変節過程であり、それを促した「時代の趨勢」ではなかろうか。野中氏は、1952.4月に京青連大会で最初の「反共宣言」を行い、左派決別の道へ歩みだすことになる。この種の政治的変節は野中氏に限らず多くの者に認められる。

 興味深い事は、彼らの多くは自民党ハト派系それも限りなく田中角栄グループないしその周辺に結集していくように見えることである。もっとも野中の権力掌握過程は、後にロッキード事件で解体の危機に瀕していた田中派瓦解の糸引き役を請け負った竹下派への食い込みであり、この限りでの「変節性」は問われねばならないと考える。

 2004.4.28日 れんだいこ拝

【労働者同志会結成される】
 9月末、労組内のオール左派を結集しようとして「労働者同志会」が結成された。メンバーは、岩井・国労共闘部長、宝樹・全逓企画部長、平垣・日教組組織部長、大田・合化委員長、岡本・駐労委員長、市川・金属委員長、平林・全日通委員長等々であった。大田以外はいずれも30歳前後の若手俊英で、左派社会党を支える実戦部隊となった。

【警察予備隊の進化】
 10月、吉田政府とマッカーサーとの協議で、正規の将校不在のまま創設されていた警察予備隊に、旧軍の中佐、少佐クラスの軍人を400名ほど入隊させている。 52.6月にも元大佐クラスの軍人10余名を採用している。こうして次第次第に指揮官を増やしていくことになった。この間の流れは「泥縄式の編成であった」と云われている。しかし、師団の編成は米国式になり装備も米軍提供のものであり、大枠を米軍との強調に向かうことしか出来ない仕組みにされていた。

【反対派各グループ解体される】
 8月下旬から9.10月にかけて、反対派各グループはなだれをうって解体していった。国際権威の異威力の前にスターリン裁定に一言の異存もなくその指導に従うことになった。徳田派の粉砕を叫んでいた国際主義者団がいち早く復帰の方針を定めた。8.23日「臨中」への「申入書」で、「自己の分派を一切の痕跡を断つまで解消させる」決意を述べた。スターリン裁定の効果であった。9月には団結派が解散大会を開いた。「論評に指示されたリン注の基本的正しさと反対派の間違いを無条件に認め、4全協とリン注を承認し、自らのグループ解体と無条件復帰申し入れとを確認した」(「党統一の勝利的発展と我々の態度」)。

【新「臨中」が任命される】
 9.22日、小松雄一郎を議長に、塚田大願、梶田茂穂が新「臨中」に任命された。もっとも、このメンバーに実質的な権限は持たされなかった。

【統一会議が解散決議発表】
 10月、統一会議指導部は「党の団結のために」を発表した。「自分らの主観的意図にも関わらず、日米反動に利する結果になったことを認め、ここに我々の組織を解散するものである」と宣言した。こうして、春日は、宮顕は、関西や中国その他の統一会議系地方組織、国際主義者団、団結派、神山グループなど、いずれも組織の間解散を行った。中央指導部は、彼らの復帰に対して、新綱領と4全協規約の承認、分派活動の自己批判を容赦なく要求した。  こうした屈服を拒否したのは一部の新日本文学会、武井昭夫.安東仁兵衛らの全学連グループらであった。

(私論・私観) コミンフォルム裁定について
 こうしてコミンフォルム論評に始まった分裂はコミンフォルム裁定により解決した。国際プロレタリア主義の影響下にあったこの時期に置いては今日的な意味での自主独立路線は存在しなかったという歴史性があり、コミンフォルム裁定を単純に是非論でみる事は出来ない。しかし、今日から見て、党に与えたスターリン騒動とも云うべき一連の経過は、国際共産主義運動の見地からコミンフォルム論評の様な指導が許されるとした場合に置いても、スターリンの指示が極めて不適切であったと思われるきらいがある。このような観点からも捉え返されねばならない。党内問題に介入した不適切さと下した判断の不適切さという二重の誤りの観点から総括されねばならない。

 党内闘争に全エネルギーが奪われていたこの時期、党は、当面していた課題に対応することが出来なかった。朝鮮戦争の勃発から講和会議の準備に至る重大な転換期に、党は、内争にエネルギーを消耗し、大衆闘争を組織することも指導することも出来なかった。前年のレッドパージをはじめ、支配層の反動的諸施策が講じられているこの時に、かって 170万を越える強大な組織を擁していた産別会議が51年末3万数千名に落ちこんでいた。党外郭の多くの大衆団体がその基盤を失った。

【「武装闘争路線」の推進】
 こうして主流派の下で一本化した党は、極左冒険主義に突入していくこととなった。とはいえ、9.3日の弾圧に対して党として反撃することはなかった。

 旧反対派の復帰は、下部機関の無茶な罪状告白式自己批判強要の為遅々として進まずといった按配で闘う素振りさえ見せることが出来なかった。 

【伊藤律に代わって志田が党中央を牛耳始める】
 この頃伊藤律は、地下の日本国内最高指導部の一員として宣伝面を受け持ち、機関紙発行を担当、当局のアカハタ発禁に抗して名称を変えたアカハタ継続紙を相次いで刊行していたが、五全協を前にしたこの頃機関紙印刷局で当局側に機関紙の発送先の全国住所簿を押さえられる打撃を受けた。五全協開催に当り、この問題が下部から集中的な批判を受け、伊藤律は窮地に立たされた。これが伏線となって、五全協で伊藤律が最高指導者の地位を志田に譲ることになる。

 この辺りの事情について、宮地氏の北京機関と自由日本放送(藤井冠次)が次のように記している。
 「律は前年(五一年)十月、第五回全国協議会で国内指導部(政治局)から解任され、その直後中国へ渡航を命じられた。失脚の理由は、主に彼が専任していた非合法の機関紙誌(「平和と独立」「内外評論」)における指導の独断専行、特に五〇年十月に、〈武装闘争〉をよびかける論文を独断で発表したためと見られているが、主流派が正面切って武装闘争を呼びかけたのはこの時がはじめてであり、これが新綱領の基本方針に照らして誤りではないにしても、朝鮮戦争のさ中でもあり慎重を要する発表に、集団主義を無視して発表したのが、志田とその周辺から〈挑発的〉と見られた。加えて、その後の五全協では、国際派分派グループの党(主流派)への復帰状況が審議されたが、主流派と分派との間には、分裂当時の悪名高い〈分派狩り〉(分派と見られる機関要員に除名から党活動停止にいたるさまざまの苛酷な追放処分がおこなわれた)が主流派への不信を招くしこりとなって残っていた。

 その責任が、主流派幹部であり書記局残留者である伊藤律に擬せられたのが重なって、律のスパイ容疑を強めたからと見られる。そのため、律とそのグループの失脚は殆ど一方的に志田派のイニシアティブでおこなわれ、これを察知した律は、志田の渡航命令にたいしても、はじめ頑強に抵抗したといわれている。律の真意はわからないが、彼としては、反面では徳田・野坂ら分裂以来行動を共にして来た首脳部から見放されて、内地に残された時からの残留の劣等感があり、〈分派狩り〉を理由に志田から追い落しをかけられる危険を感じたことは疑いを容れない。ついでに、形式的なことにこだわれば、この時の政治局は第六回大会で任命されたもので、分裂後も主流派の観念で踏襲されていたものであるが、志田重男と伊藤律は徳田・野坂と共に政治局・書記局を兼任していたが、志田重男は政治局員は律より先任であり書記局は後任であった。だから、形式的には、律は政治局を解任されても書記局員の資格は残るので、北京に着任して徳田に再会した時、忽ち息を吹き返して、書記局の存在と権威とを内外に誇示したくなったのであろう」。

【民戦中央常任委員会が、「在日全体同胞におくるアピール」を発表】
 10.3日、民戦中央常任委員会が、「朝鮮人強制追放陰謀に対して在日全体同胞におくるアピール」をだし、全国各地で人民大会がもたれ、兵庫県下里村、福岡市、神奈川県大和町、大阪市東成あたりでデモをともなう暴力的闘争が展開された。


【 戦後党史第二期】/ 【ミニ第③期】=党中央「四全協」後の新方針で極左路線志向
 分裂した党中央の旧執行部であった徳球―伊藤律系は1951.2.23日の「四全協」で武装闘争路線を採用する。この間伊藤律が党を指導したが、51.10.16日からの「五全協」で志田派に主導権を奪われる。以降、党中央は軍事路線に突っ走りことになるが組織された軍事戦にならずことごとく失敗する。やがて53.10.14日徳球書記長が亡命先北京で客死する。後ろ盾を失った伊藤律は失脚させられ、志田派のワンサイド天下になる。この期間を【 戦後党史第二期/ミニ第③期=志田派の軍事路線】とみなすことができる。

【「五全協」開催】
 10.16-17日にかけて徳球派は秘密裡に「第五回全国協議会」(「五全協」)を開いた。ともかく分派闘争の終結後の19中総以来初めての一本化された指導部の下での大会となった。会議の眼目は、新綱領(「51年綱領」)の採択や軍事方針の具体化、党規約の改正など党の前途を決定する重要な問題を討議することにあった。だが会議は主流派の強引な手法でリードされ、反対意見は全て分派主義者のレッテルを貼られて圧殺されると云う非党内民主主義的方法で進行した。

 この大会で、アメリカ占領軍に対する「解放軍規定」の残滓と明確に決別し、当面目指すべき革命目標を、社会主義革命でも人民民主主義革命でもなく民族の独立を第一義とし反封建の課題を結びつけた「民族解放民主革命」であると規定し、四全協の軍事方針「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成し得ると考えるのは間違いである」という武装闘争戦術の下、「武装した権力を相手に闘っているのだから武装の準備と行動を開始しなければならない」とする新綱領「日本共産党の当面の要求」(「51年綱領」)とこれに基づく軍事・武装闘争方針「われわれは、武装の準備と行動を開始しなければならない」を採択した。「51年綱領」は、北京にいた徳田書記長が中国共産党の指導の下で纏め上げたものを、モスクワに飛び、スターリンの眼前でこの党綱領を決定したとのいきさつが伝えられており、「スターリン綱領」とも呼ばれている。「51年綱領」採択後、軍事闘争路線に基づく各組織を着々と整備してゆくことになった。


 綱領は、中核自衛隊の組織、任務、指揮系統、行動要領、パルチザンの組織につき、次のように説いている。
第一項
「われわれは何故軍事組織が必要か」
「武装した権力とたたかっているからである。したがって平和的な方法だけでは、戦争に反対し、平和と自由と生活をまもるたたかいをおし進めることはできないし、占領制度を除くために、吉田政府を倒して、新しい国民の政府をつくることもできない。軍事組織は、この武装行動のための組織である」
第二項
「労働者や農民の軍事組織をつくるには、どうすればよいか」
「軍事組織の最も初歩的なまた基本的なものは、現在では中核自衛隊である。中核自衛隊は、工場や農村で国民が武器をとって自らを守り、敵を攻撃する一切の準備と行動を組織する戦闘的分子の軍事組織であり、日本における民兵である。したがって、中核自衛隊は、工場や農村で武装するための武器の制作や、獲得、あるいは保存や分配の責任を負い、また軍事技術を研究し、これを現在の条件にあわせ、闘争の発展のために運用する」

 その結語は、「第4回全国協議会で基本的方針の決定を見た軍事方針について、今回さらにその具体的実践の方向を指示した武装闘争の方針もまた、全員の賛成を得た」。「中国のパルチザンには解放区という大きな根拠地があった。---しかし、現在の日本にはこのような地域がない」という批判に対して、「我々は国民の信頼を基礎とし、たとえ竹槍を持つても、敵より有利な条件を作り出し、敵に打撃を与える作戦を生み出さなければならない」と反論していた。
  
 「五全協」は、「新綱領草案の討議を終結するに当って」、「一般報告」、「規約の改正」、「結語」等々を採択し、他に「沖縄.奄美大島.小笠原諸島の同胞に訴える」などのアピールを採択した。決定は、11.1日付け「内外評論」に発表された。新綱領は、11.23日付けコミンテルンフォルム機関誌「恒久平和と人民民主主義」と11.24日付プラウダに掲載された。12.1日には北京放送からも放送された。国際的な支持と確認を受けた。


 「五全協」は、臨中議長に小松雄一郎、軍事委員長に志田重男を据えた。小松雄一郎の抜擢は、椎野以下19名がGHQの第三次弾圧で公職追放された対応策であった。 志田重男はこの大会で伊藤律に替わる軍事責任者として台頭した。

 新綱領は、中国革命の機械的適用で、当面の革命を人民民主主義革命でもなく社会主義革命でもなく、民族独立を第一義とし、それに反封建の課題を結びつけた「民族解放民主革命」と規定した。闘争形態としては、平和的方法ではなくて国民の「真剣な革命的闘争」が必要であると主張した。中国共産党の武力闘争方式を具体化していくこととなった。
(私論・私観) 新綱領の評価について
 新綱領が、民族解放の重要性を掲げたのは軍事占領体制下のこの時点では正しかった。しかし、講和会議で日本の独立が認められていく過渡的な移行期の流れの中で、旧植民地特有の武装闘争の方針が適切であったかどうか。
(私論・私観) 「四全協」.「五全協」の党史抹殺について
 ところで、宮顕は、自分の時代になってから、党史を書くとき、この「四全協」.「五全協」の存在そのものを認めようとしない態度を取った。現在の党史では、「徳田らは(四全協につづいて)10月には五全協を開いた。この会議も四全協と同じく党の分裂状態のもとでの会議であり、統一した党の正規の会議ではなかった」と総括されている。これを正史として認めると、自分の分派的行動が判明させられるからである。そこで宮本が作り出した苦心の論法が「党の分裂」という言葉であった。

 これについて神山茂夫は次のように云っている。
 「この「四全協」.「五全協」について、宮本君などは、それがあったことさえも認めない。その理由は、「六全協」で従来の文書は破棄するという決定をしたから、『四全協』.『五全協』も認めないと云うのだ。これでは極端ないい方をすれば、文書によって、党の歴史上から過去の文書を消し去り、実際にあったことさえ消してしまうことになる。それは出来ない相談である」(神山茂夫「日本共産党とは何であるか」)。

【志田体制確立される】
 この大会で、伊藤律は宣伝担当からも外され、権限を奪われた。後釜に座ったのが志田重男である。 

【武装闘争教本出回る】
 「五全協」後、秘密裏に開かれた軍事委員会の全国会議の決定や結語が、偽装されたパンフとして配布された。いろんな偽装の表題をつけた軍事文書、例えば「球根栽培法」、「さくら貝」、「栄養分析表」、「新しいビタミン療法」、「理化学辞典」などが発行された。それらには、火炎手榴弾(キューリー爆弾)、時限爆弾、ラムネ弾、タイヤパンク器、速橪紙など、武装行動に必要とされる武器の製造法と保管の仕方を解説したものが含まれている。この様な秘密軍事論文で、中核自衛隊が「武器は敵から奪い取る」として直接行動を開始したのは昭和26年の暮頃からである。(「栄養分析表」、「新しいビタミン療法」は、1970年代に連続企業爆破事件を起こした極左暴力集団「東アジア反日武装戦線“狼”」が作った爆弾教本「腹腹時計」でも「参考にした」と紹介されている)

 「内外評論」の「球根栽培法」に、新綱領に基づく具体的指針として「我々は武装の準備と行動を開始しなければならない」という論文が発表され軍事方針を明確にした。「われわれは直ちに軍事組織をつくり、武器の政策や、敵を攻撃する技術や作戦などを一般化する初歩的な軍事行動から着手し、さらに軍事行動に必要な無数の仕事を解決しなければならない」とのべられていた。ここでは、問答形式によって、労働者農民が軍事組織をつくる方法、抵抗自衛闘争が軍事問題発展の環である理由、パルチザンを組織することの可能性、軍事組織の活動の方法と内容、敵の武装力に対する内部工作の必要などを平易に解説していた。「栄養分析表」では、時限爆弾、ラムネ弾、火焔手榴弾、速燃紙などの製法、使用法の解説書などが、まかれた。

 10.3日付け「球根栽培法」はガリ版刷りで、本文21ページになっている。一見すると家庭園芸書のような表題になっている。目次は、「われわれに、何故軍事組織が必要か」、「敵の武装勢力と対抗できる軍事組織をつくることができるか」、「労働者や農民の軍事組織をつくるには、どうすればよいか」、「われわれの軍事科学とは何か」、「われわれは敵の武装勢力に対して内部工作をする必要はないか」、「結論としてわれわれは直ちに軍事組織をつくって、行動を開始すべきか」。

 「新しいビタミン療法」はガリ版刷り、本文20ページ。これは「軍事路線学習シリーズ・No2」である。発行者が「栄養科学研究所」となっている。ドイツ軍が第一次世界大戦で初めて使用した毒ガス・臭化キシロールの製法を述べている。目次は、前書き、必要とする薬品・器具、操作法、取り扱い法。各種薬品の入手の仕方、取り扱いの注意事項が書かれている。


 10月、「栄養分析表」。「新しいビタミン療法」のなかにある一部分である。筆者は厚生省衛生試験所とある。勿論偽名である。内容は、時限爆弾、ラムネ弾、火炎びん(手榴弾)、タイヤパンク器、速橪紙(硝化紙、秘密文書などを一瞬にして焼却するための用紙)などの ①製造の目的、用途、威力 ②構造と製作法 ③使用法 ④材料の値段、材料が入手できない場合の代替品 ⑤その他の注意事項 - となっている。

 「理化学辞典」の発行日、発行元は不明。催涙弾、火炎弾、黒色火薬、塩素酸加里爆薬、ピクリンサン爆薬、雷(雷酸水銀のこと。起爆剤として使われる)の製造法や製造過程での注意・留意点を述べている。

【「五全協」後の武装闘争】
 「五全協」後、まず党中央に、一般党組織と別個の「中央軍事委員会」が設けられ、関東、北海道、東北、中部、西日本、九州の6ブロックに、それぞれ地方軍事委員会が置かれた。その直接軍事行動の中心は「中核自衛隊」で、レッド・パージで職場を追われた若い労働者、尖鋭な学生党員、在日朝鮮人党員等で編成され、一般細胞の党員とは別個に厳秘に付されて組織された。

 更に、ゲリラ戦の根拠地設定の任務を指令された「山村工作隊」.「農村工作隊」が、職業党員や学生党員で組織されて奥多摩や富士山麓等の山岳地帯、或いは農村に展開していった。中核自衛隊は昭和27初め頃、約8千名といわれた。
(私論・私観) 歴史の皮肉について
 こうして日本共産党が初めて武闘路線による政権奪取を志向させた時、歴史の皮肉ということになるが、肝心の朝鮮戦線においては膠着状態に陥り、休戦会議が始まっていた。国内の状況も、サンフランシスコ条約が締結されて、GHQもいなくなり、占領権力は表面上姿を消していた。つまり、党の極左武装闘争が宙に浮く運命にあった。が、暫くの間この戦術を転換させることができないまま突き進むことになった。

【全学連執行部内の所感派と国際派の指導権争い】
 10.6日、都学連において国際派執行部は辞任し、反対派に指導権を渡した。しかし、この時点では、全学連中執は国際派が掌握していた。

【祖防全国委員会指示】
 10.21日、祖防全国委員会は次のように指示している。
 「在日朝鮮人当面の闘争方針」で「敵の企図を粉砕する闘争は、単にわれわれの生命財産を守るだけの闘争ではなく、わが祖国の侵略を失敗させ、祖国と日本とアジアから米帝国主義を追放する祖国防衛闘争と、平和擁護の闘争であり、また、日本民族の解放を支援する闘争である。……この闘争を闘いとるためには、中核自衛隊の性格をもつ祖防隊の編成をすすめなければならない」。

 11月、祖防委全国会議では「祖防委の性格と責務および当面の方針」がだされ、本格的武装闘争を展開するようになった(朴慶植「在日民戦の活動と運動方針問題」『在日朝鮮人史研究』第7号、1980.12月号)。

【「五全協」後の歩み】
 10.22日、中央への攻撃がそれ以上為されない様子を見て、臨中指導部議長に小松雄一郎を、指導部員に塚田大願と梶田茂穂の二人を届け出、一応合法中央機関の形だけを整える動きもみられる。 一方で、党に対する弾圧が次第に激しくなり、地下組織はもとより、公然面の各機関も、容赦のない捜索や検挙、取り調べを受けた。

 11.8日、「軍事問題の論文を発表するにあたって」という前書きを付けて、「我々は武装の準備と行動を開始しなければならない」論文が発表された。「これを単なる論文として終わらせるのではなく、実践のための武器にされんことを希望する」としていた(内外評論「球根栽培法」)。この論文の本文は一問一答式で述べられており、全部で十問から成っていた。中核自衛隊が構想され、軍事委員会を組織し、「民族解放・民主統一戦線」との結合を呼びかけていた。

 11.12日、京大で、京大学友会が天皇への公開質問状を突きつけ、約一千の学生が天皇裕仁の車を取り囲み、一個大隊の警官隊が学生を襲撃するという事件が発生した。これは京大細胞=所感派の準備と指導で取り組まれた。この事件に対する二つの見解が発生し、全学連中執は、概要「京大事件の本質は、最大の目標を再軍備におきその一切の政治的、経済的イデオロギー的手段を動員した、戦争放火者に対する日本学生の真情と良心を代表した闘いである」とした。日共主流は、概要「天皇事件を天皇制との闘いとし、戦後権力構成の一つとして戦略的打撃論に結びつけるべし」とした。

 11月、共産党.このころ「球根栽培法」「栄養分析表」など武装準備のための非合法出版物ぞくぞくと刊行し、このころより山村工作隊を組織し始めた。

 12.2日、都学連.新執行部による大会.全学連中執不信任案、可決。11月から12月にかけて、北海道学連、関西学連、東京都学連が相次いで全学連中執の不信任を決議し、この流れが翌年へと続いていくことになる。

 11.22日、「予備隊工作の当面の重点」、「警察工作の立ち後れを克服するために」などの論文が発表された(内外評論「球根栽培法」)。

 11.23日、ビラ「全学連中央執行委員会不信任決議(案)」=東京都学生自治会連合執行委員会.〃反帝闘争偏重、出隆かつぎだし、青年祖国戦線へのヒボーなど全学連中執の独善的指導にたいする非難、絶縁宣言〃。

 12月中旬、全国組織会議を開き、「五全協」以後の新しい情勢に対処すると同時に、新綱領の具体的な行動方針を討議した。この会議の眼目は、「当面の戦術と組織問題」を決定、意思統一して、実際に諸問題を規定することにあった。軍事方針の具体化に向かうこととなった。

【志田の画策による伊藤律の中国行き要請】
 10月中旬の頃、志田と伊藤律の二人だけの会談の席で、北京からの徳球書記長の伝言なるものを伝えた。概要「伊藤律に北京に来て欲しい。来る来ないはキミ(伊藤律)自身で決定していい」とのことであった。伊藤律が「行くことにする」と答えると、志田は、「キミが北京に行く以上、党の政治局にいる必要は無い。だから政治局を降りろ」、「政治局の他の者(長谷川浩、椎野)には自分の口から云うから、云わないで欲しい。律さんのことは俺に任せてくれ、といっておくから」と云った。伊藤律が去れば「3人委員会」が崩壊し、国内指導部は志田の独裁になるのは目に見えていた。椎野はお人よしで、既に志田の言いなりに動いていた。「志田の陰謀」とまで伊藤律は言っている。

 こうして伊藤律は秋口の頃中国へ向けて密航している。伊藤律が去った後の国内指導部は、志田・椎野・紺野与次郎らが掌握するところとなった。

【伊藤律の北京機関へ登場の際の逸話】
 北京機関に登場した際の様子が伝えられている。徳球書記長、野坂、西沢が歓迎してくれたが、野坂があれこれ日本の様子を聞き始めると、徳球が突如怒り出した。「正式な会議も開いていないのに。余計なことをしやべるな」と叱ったとのことである。その後徳球と伊藤律の二人きりになった時、徳球は次のように云った。

 「野坂は先輩ぶって君を抱き込もうとしている。政治路線の上でも、ちっとも改まっていない。個人的な話はしない方がいい」。
 「西沢とはもう縁を切った。俺は過去を振り返ってみると、西沢の為に随分毒されている。彼は俺の義理の娘と結婚し、孫が出来た。俺は長い間孤独な生活をしてきたから孫が可愛い。その情につけ込んで党内をかき回した。その為に今にして思えば、俺はもう少しで、誤まるところだった。彼を日本に返してしまおうか」。

 伊藤が「返したら危ない。何を言うか分からない」と答えると、「それじゃ、ここに缶詰にして仕事をさせないでおこう」と云ったと伊藤自身の口から伝えられている。

 徳球は更に次のようにも伝えた。
 「ソ連ではスターリン、中国では毛沢東、劉少奇が私を支持してくれている。しかし、北京機関を世話し、中共中央とを結ぶパイプ役の中共対外連絡部の人たちの殆ど(部長・王稼祥、副部長・李初梨、趙安博、張香山、王尭雲ら)は、野坂派だ。彼らは、延安以来の野坂との縁もあって、野坂を崇拝している」。

【社会党左右両派へ分裂】
 10.23日、社会党第8回臨時大会が浅草公会堂で開催された。既に7月に対日講和草案が発表され、9月に講和会議がサンフランシスコで開かれたが、この間の平和(講和).安保両条約問題をめぐっての運動方針をめぐって左右対立を激化させた。左派は両条約反対の全面講和を主張し、右派は両条約賛成で多数講和を支持した。更に、中間派として「講和賛成、安保反対」論も飛び交った。

 この時の大会運営委員長は佐々木更三。大会は冒頭から荒れて議事に入れず、翌朝に閉会宣言が出されると同時に、左右両派は別々の会場で大会を続行、かくして両派は左派社会党と右派社会党へと分裂を遂げてしまった。こうして又もや左右に分裂した。国会勢力は、右派が衆議院29名、参議院31名。左派は衆議院16名、参議院30名。こうして、社会党は、昭和30年の再統一までの約4年間を右派社会党、左派社会党の分裂対立時代を迎えた。

【この頃の江田三郎の動き】
 2003.2.22日付け毎日新聞の岩見隆夫コラム「近聞遠見」にこの頃の江田三郎の動きが次のように明らかにされている。
 「江田は当時、当選ほやほやの参院議員で、左派社会党の総務部長に就く。すぐに手がけたのが日刊新聞の発行だった。共産党が赤旗を持っているのに、社会党にないのは絶対にまずい、と一念発起した。周囲は、『無理だ、やめろ』と止めたが、江田は強引に進める。株式会社・社会タイムズ社を設立、文芸家協会会長の青野季吉に社長を頼み、江田が専務、取締役に清水幾太郎(社会学者)、高野実(総評事務局長)ら、監査役には左派委員長の鈴木茂三郎が座った。資本金1000万円を調達するため、江田は労組や高利貸しに借り歩き、自分の歳費まで前借した。第一号の社会タイムズ発行にこぎつけたのが52.3.1日、2ヵ月後に血のメーデーが起き、世上は騒然としていた」。

 当時の同紙記者・飯島博はのちに江田の回想録に次のように書いている。
 「編集局があった田村町のビルには、風早章、宇都宮徳馬、中村哲、安倍公房、太田薫、平塚らいてう、荒正人、松岡洋子、船山馨といった人たちが次々に現れ、談論風発していた。青二才の私などは目を輝かして聞いていたのを思い出す。そんな中で、江田さんはなりふり構わず飛び歩いた。便所の掃除もやる。工場にも行って職工の肩を叩く。広告も取りに行く。たたきあげの町工場のおっさんといった感じで、国会議員、農民運動の指導者、一橋出身のインテリとは凡そ無縁の人だった。朝早くから黙々と働いていた」。「だが、米国から高い印刷機械を購入したのが足かせになり、党員は党費を取られているのだからと購読料を払ってくれない。江田は倉敷市の自宅も抵当に入れたが、経営が行き詰まり、2年半でついに廃刊になった。『愚痴ひとつ言わずに後始末してましたね』と江田の死後のインタビューで、光子夫人が語っている」。

【サンフランシスコ講和条約の議会承認】
 10.26日、衆議院、講和(307対47票).安保(289対71票)で両条約を承認。

 11.18日、参議院、講和(174対45票).安保(147対76票)で両条約を承認。吉田内閣は批准書を作成し、11.19日、天皇の認証を得て、11.28日、アメリカに寄託、翌52.4.28日、発効となった。

【反戦学生同盟(反戦学同)の結成】
 11月、全学連国際派の系流が反戦学生同盟(反戦学同)を結成した。この時の武井委員長の意見書に「層としての学生運動論」が展開されているとのことである。それまでの党の指導理論は、「学生は階級的浮動分子であり、プロレタリアに指導されてはじめて階級闘争に寄与するものに過ぎない」と学生の闘争エネルギーを過小評価しているのが公式見解であった。武井委員長は、意見書の中で、「学生は層として労働者階級の同盟軍となって闘う部隊である」という学生運動を「層」としてみなすことにより、社会的影響力を持つ一勢力として独自的に認識するよう働きかけていったようである。その後の全学連運動は、この「層としての学生運動論」を継承していくことになり、武井委員長の理論的功績であったと評価されている。

 11.25日、鹿地旦事件。
 12.7日、都学連大会において「全学連中執不信任決議」が為された。

 12.18日、警視庁練馬警察署印藤巡査殺害事件。
【吉田茂内閣、第3次内閣改造を実施】
 12.26日、第3次吉田内閣が第3次内閣改造を実施。首相・外相吉田茂、官房長官・保利茂、幹事長・増田甲子七(留任)、法務総裁・木村篤太郎、蔵相・池田隼人(留任)、文相・天野貞祐(留任)、厚相・橋本竜伍(留任)、農相・広川弘禅、通産相・高橋竜太郎(留任)、運輸相・村上義一、郵政・電通相・佐藤栄作(留任)、労相・吉武恵市、建設相・野田卯一(留任)、経本長官・周東秀雄(留任)、国務相地方自治・岡野清豪、国務相防衛問題担当・岡崎勝男、国務相警察予備隊担当・大橋武夫、国務相・山崎猛の顔ぶれとなった。

 この改造の意味するところは、講和条約という退任を果たした後も吉田続投で行くという長期政権担当宣言であった。ということは、追放が解除され政界に復帰した鳩山に禅譲しないという決意でもあった。「吉田の野郎、大変なクリスマス・プレゼントをよこしゃあがった」が、鳩山擁立派の思いであった。

 12.26日、練馬署旭町駐在所勤務伊(印)藤巡査(当時32歳)殺害事件。製紙労組員を暴行傷害事件で逮捕後、ビラ貼り、駐在所押し掛けなどの嫌がらせが続いていた。ビラには「伊藤今に引導を渡すぞ O労組」など書かれていた。26日深夜「O製紙先の路上に人が倒れている」との通報で出かけたまま行方不明。翌朝、撲殺死体で発見された。拳銃も奪われている。夫人と3歳と1歳の幼児が残された。(「日本共産党裏秘史」)


【この頃の宮顕】
 この頃の宮顕について、宮顕自身が「経過の概要」の中で次のように記している。
 概要「8.14放送(中共からの統一要請)後、別項の声明を発し、中央委員の指導体制を解体す。この間(期限付きで自己批判書の提出を求められこれに応ず。また)経過措置として、臨中側との交渉、地方組織の統合その他に他の諸同志ともにあたる。51年秋、地下活動に入ることを求められ、これに応じ、宣伝教育関係の部門に入れられることになったが、仕事を始めるに至らず、一、二週間して不適格者として解除される。以後、選挙応援その他で、時おり連絡はあったが、特定の組織的任務につくことなく、『こうして、私は、一党員として過ごすことになった』。『当時、党籍はあったが、党のどの組織にも属していないという、普通ならば有り得ない状態に置かれていた』」。
 「私は、二重の意味で、事実上政治活動を封じられていた。一つは、アメリカ帝国主義の公職追放令によって。同時に、1951.8月のコミンフォルム論評以後の事態の中で」。

 この時期に宮顕が為したことは、宮本百合子全集等の刊行とその解説書きであった。
 「この間文芸評論多数書く」。
 「このような新しい事情のもとで、結局、私は、1953年1月の百合子全集完結まで、毎巻欠かすことなく全集の解説を書いた。全集の評説は、私自身にとって、必要上、半世紀にわたる日本の社会思想、文化、文学の歴史の勉強になった」(引用元不明)。

 1975年4月号「文芸春秋」の「離反者たちの共産党論議」において、宮顕は次のように回顧している。
 「コミンフォルムが、1951年8月、この運動を批判する態度を取り、ソ連や中国の共産党も同様の態度を表明した。私たちの多くは、これに疑問と批判を禁じえなかったが、まだコミンフォルムなどを事大主義的にみる傾向にあったこともあり、結局この組織を解散し、活動を停止することにした。党の原則的統一を主張した運動は、このようにして挫折した。私はそれ以後、どの党機関にも属することなく、主に、1951年1月に死亡した宮本百合子の全集の解説、『人民文学』批判の書き下ろし論文、ジャーナリズムへの執筆などで暮らした」。
(私論・私観) この時期の宮顕の様子について
 この頃の宮顕の様子としてもう一つ重要なことが次のように伝えられている。元統制委員増田格之助氏は、「宮本はボクシング方式の減点法をとっていて、活動している同輩がミスを犯すのを採点していた」(高知聡「日本共産党粛清史257P」)と伝えている。その失点を握って、相手を押さえつけていくのが「六全協」後の宮顕の政治技術となる。果たしてこれは当人の性格とか技術の問題だろうか、何の意図があってかと思料すれば、私には胡散臭さばかりが見えてくる。






(私論.私見)