1951年上半期
1951年上半期当時の主なできごと.事件年表
四全協開催。



 更新日/2017(平成29).4.25日

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第2期、党中央「50年分裂」による(日共単一系)全学連分裂期の学生運動」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 51年になると日本の独立問題が浮上する。国内では単独講和又は全面講和をめぐって大騒動になっていった。吉田政府は、単独講和によるアメリカを盟主とする資本主義陣営との単独講和を目指すと同時に米軍の進駐を認める方針を取った。

 2002.10.20日 れんだいこ拝


【朝鮮動乱その後の推移】
 年が明けても、中国人民解放軍の反撃は続き、アメリカ軍は38度線の南に追いやられた。再び朝鮮半島から追い出される危機が迫った。

【講和問題の浮上】
 1.1日、トルーマン大統領は、ダレスを対日講和交渉大統領特別代表に任命した。

【民戦結成大会】
 1.9日、朝連解散後1年4カ月目、解散した朝連に代わる民戦が結成された。東京都江戸川区小岩の個人の家で代表者80名によって、非合法に民戦結成大会が開催された。そこでは、民戦結成準備委員会長金薫の情勢報告がなされ、大会宣言、綱領、規約、活動方針が決定された。「在日朝鮮人運動の統一的な戦線体である」と規定し、祖防委、祖防隊は、軍事武装闘争の非公然活動部面を担当するとの方針を掲げた。この構成人員は53.9月時点で13万1524名である。朝連解散時の勢力36万5792名にくらべると約三分の一に減少している。

 情勢報告では、朝鮮戦争を「祖国解放戦争」であると規定し、「祖国解放戦争は新しい段階に入り、完全解放の日はもう遠くはない。米帝の敗退は最早時間の問題である。……諸君は勇気をもって日本人民を奮い立たせ、その先鋒に立って祖国解放戦争に続かねばならない」とした。

 基本方針は次のとおり。

 第一に祖国の解放戦線に参加する。また祖国の完全な統一と独立をはかるために、一切の外国軍隊を即時朝鮮から撤退させ、かつ祖国侵略のための日本の再軍備に絶対反対する。

 第二に米国と日本政府による基本的人権の侵害と、民族的差別、弾圧と生活権の剥奪の民族的課題に対して闘う対権力闘争を組織する。

 第三に米占反動から朝鮮人民に対して加えられる弾圧は日本自身の問題であり、すなわち日本の独立と平和を破り、日本を戦場にして日本人民を奴隷と悲惨な戦争に駆り立てるものである点を、日本人民に理解させ、共同闘争を組織する。

【「全面講和愛国運動協議会」が結成される】
 1.15日、共産党、労農等や産別会議、私鉄総連、全造船など40労組、その他民主団体によって「全面講和愛国運動協議会」が結成された。南原繁ら多くの学者.知識人もまきこんだ。署名運動。戦時中に乱発された愛国の文字が、戦後の反体制運動組織に登場した最初の例となった。

【宮顕系分派機関紙「理論戦線」の論調】
 (鹿児島事件と私 議論系掲示板・投稿者:羽派・投稿日: 5月22日より)

 宮本は,1951年1月18日付の分派機関紙「理論戦線」の中で,次のように述べている。(50年問題資料集2,p227)「・・・外国帝国主義及び日本反動が我が党を誤った方向に導くためにスパイ,挑発者を最大限に活用しようと努めていることは容易に推察できる.・・・所感分派の形成の過程と党中央の弾圧の時期と弾圧後の一連の動向を全体として見る場合,われわれは・・・こうした解党主義と分裂主義のコースを特に何人が煽り激化させているかを敵の弾圧政策,スパイ,挑発政策への闘争の一環として深甚な注意で見守らざるを得ない.・・・昔の特高がスパイ大泉兼蔵をコミンテルンに送ろうとしてたくらんだ事を考えるならば,国際プロレタリアートを欺瞞するために各種の悪質な手段をとることさえ想像される」。

「解放戦線」1号(51年1月)(50年問題資料集2:p207)では次のように述べている。「かれらの基本方針は・・・所感派の分派活動に対して明確な批判を持つものを一律に悪質分派として孤立化し、いわゆる『上を浮かして下を取る』という方針を強行することを『党統一』の道としているのである.これが最悪の分裂主義であることはあきらかだ」。
(私論・私観)宮顕の切り返し論理について
 この論調を見れば、徳球系党中央が宮顕グループをスパイだと批判しているのみならず、宮顕の側からも徳球系党中央こそスパイ、挑発化していると非難していることが判明する。宮顕の行くところ向かうところ必ず相手がスパイないし挑発者呼ばわりされていることの例証になる。

 後段の文章に対して、サイト仲間の羽派氏は云う。
 「所感派と『お互い様』というところはあっても,ほとんど何の節度なく,分派闘争に邁進していった様子が伺えます.自分が『浮かされる』ことを警戒していたわけです.また,浮かされる対象は自分(とその限られた側近)だけなのに,『一律に』などと強弁する.こうして文字として残るところでは少しでも自分が正しい,普遍的な立場にあることを印象付けようとしている.なお,『分裂主義』とは,自分が中央幹部になれない状態のことを指すのかも知れません.宮本は,強いリーダータイプだったけど,スターリン・チャウチェスクとならんで,(やったことのスケールは何桁も小さいが)「トップにしてはならない人」だったですね。当時の党員達もそれはある程度わかっていて,増山さんの本を見ても,『宮本を擁立するのだが,あいつはほっとくと何をするか分からないので,グループを作って見張っていないと駄目だ』と言われていたそうです」。

【社会党第7回党大会】
 朝鮮戦争の勃発と講和への動きが強まる中で、1.19日、社会党第7回党大会が開催された。大会は、左派の決議案と右派の修正案を廻って激しい対立が続いたが、最終日の21日採決が行われ、右派修正案は342票対82票の大差で否決され、左派の決議案が可決された。これ以降、再軍備反対、中立堅持、軍事基地提供反対、全面講和実現の「平和4原則」が社会党の旗印になり、これが以降の社会党の基本方針となった。

 空席の委員長ポストには左派の鈴木茂三郎が選出され、浅沼書記長とのコンビが生まれた。左派の主導権が確立したとみなされている。この背景には前年7月に結成され、社会党の支持母体となった総評で民同左派が勢力を伸張、高野実事務局長下で「ニワトリからアヒルへ」の急速な左旋回を遂げるという事情があった。会計には下条恭平、統制委員長には猪俣浩三が選出された。

 委員長に就任した鈴木は、「青年よ、銃をとるな!婦人よ、平和のために!」と演説し、日教組も1.24日の中央委員会会場に「教え子を再び戦場に送るな」のスローガンを掲げることとなった。

 この当時の社会党の院内勢力を見るに、右派は衆議院29名、参議員31名。左派は衆議院16名、参議員30名で、左派のほうが劣勢であった。しかし、総評の左旋回の全面的なバックアップの元に、選挙のたびごとに党勢を伸ばしていくことになる。

 社会党大会直後に開かれた第二回総評大会でも、この「平和四原則」が採択された。

【芦田前首相が各界に再軍備の必要を主張】
 芦田前首相は、朝鮮動乱以来俄かに国防の重要性を強調し始めた。GHQに求められるままに「芦田意見書」を提出し、「‐‐‐こんな危険な状態にある時、兵力を持たないという手はない。スイスでも兵隊を持っている。自ら守ろうとする気持ちのない国民に一体誰が援助してくれよう。日本は2万の軍隊を今すぐにでも持たなければならない」と再軍備の必要を述べていた。

 これに対し、吉田首相は、第10国会答弁で、「国民の要望は自由に発表するがよい。しかし私は憲法を改正する意思もなければ、再軍備する気もない。軍事基地提供も憲法の精神に反する、外国の要求があっても断固として憲法の精神を守る」と述べている。

【宮本百合子死去】
  1.21日、宮本百合子死去(51才)。宮顕曰く、「風邪と過労に加えて『急性敗血症』を併発させた『自然の不意打ち』であった」。「彼女の突然の死を前にして私が痛感したことは多い。しかし、その一つのごく原始的なしかも痛切な思いは、我々は社会科学とその実践に熱心ではあったが、肉体について、自然科学の生活への不断の適用についてまだまだとかく軽視に陥って、熱心さが足りないということである---『自然の不意打ち』に対する日常の科学的用意の不足を反省するのは、単に愛するものを失った者の嘆きの繰り言とはなるまい」(「百合子追想」雑誌「展望」3月号)。

 ところで、百合子の死因に不自然さと疑惑が伝えられている。1.19日は夜更けまで書斎で平常に仕事をしていたそうである。それが20日午前1時ごろから、急に寒気がするといいだし、午前11時には39度8分の高熱、午後4時になると肝臓部に痛みを訴え、胸部.下肢にも紫斑が現れたという。百合子が苦しみだした時、宮本家にいたのは百合子の他に宮顕と百合子の秘書大森寿恵子(当時30才、百合子の内弟子として秘書兼お手伝いとして同居)の二人だけだった(この二人はその後結婚し大森は宮本夫人となる)。それから苦しみのため転々とする場面があって、21日午前1時55分に息が絶えたことになっている。宮本家からの急報で、主治医の佐藤俊次医師が駆けつけたのが20日午後7時過ぎであった。その直前知人の小西先生、近所の林順圭先生、さらに林先生の息子の医師、泉橋病院の外科部長藤森正雄先生と医師が4人も枕辺に揃ったという。それらの医師によって書かれた死亡診断書が急性紫斑病である。これらの経過は主知医佐藤俊次医師がある雑誌(50.3)「終焉の記録−宮本百合子さん臨終に付添って」によるもので、その証言は確かとされている。

 ところがその後、1.22日の午後になって、百合子の遺体は東大伝染病研究所で病理解剖に付された。執刀に当たったのは草野信男教授という党員教授である。この解剖の結果、「最急性脳脊髄膜炎菌敗血症」であることが「ほぼ確実となった」ということで、先の4名の非党員医師が臨終に立ち会ってつけた病名を変更している。「『最急性脳脊髄膜炎菌敗血症』のため急逝した。51才であった」(「日本共産党の60年」)と党史には書かれている。肝心かつ重要なこういういきさつは書かれていない。草野教授は後に原水協の内紛時に党に反抗している。

 この時「人民文学」が3月号で「宮本百合子について」特集を組んでいる。新人の宍戸弥生、玉城素、大場進の寄稿を採用したが、三編とも「追悼ではなく強い批判」であったため、宮本顕治と新日本文学会中央グループから激しい怒りを買った。江馬は責任を取らされ、次第に閉職に追いやられていくことになった。

【全学連内に所感派が台頭】
 1月、全学連内に所感派系の運動が盛り上がってきた。東大再建細胞の増田、早大政経細胞の藤井が、都学連大会を目指して活動を表面化させてきた。1.24日の都学連の自治会代表者会議で、新制東大自治会の増田委員長が執行部の提案に反対し、「この方針は日本共産党に対する誹謗であり、青年祖国戦線を分裂させるものだ」と主張し退場、採決は賛成13.反対4.保留2となった。 

【 ダレス来日】
 1.25日、ダレス来日。対日単独講和の打ち合わせにやってきた。2.21日に離日するまで吉田・ダレス会談5回、事務レベル会議を十数回重ね、講和に向けての下交渉をした。この時期、朝鮮戦争は泥沼化しており、米国務省は、「アジアはアジア人で戦わせよ」の思惑もあり日本の再軍備を急ごせようとしていた。もう一つの理由として、占領状態は、日本での民族解放闘争を誘発し、得策でないという判断も為されていたと思われる。この一挙両得発想から、それまでの一方的な対日占領支配体制から脱却し、あらためてアメリカ陣営の下で強固な絆を固めるべく講和による日本の独立へと誘導していくことになった。この当時の「ル・モンド」紙特派員は、ダレス来日について、「アメリカの三つの目的は基地の確保、再軍備、軍事同盟であり、これを抽象的に繋ぐものが、日米安全保障条約である」と書いている(斉藤一郎「総評史」)。

 この時のダレスと吉田の交渉のひとコマが次のように伝えられている。ダレスの激しい再軍備要求に対し、吉田は次のように述べて抵抗した。
 概要「さような再軍備は、事実上不可能だ。再軍備は日本の自主経済を不能にする。体外的にも、日本の再軍備に対する危惧がある。国内的にも軍閥再生の可能性が残っている。再軍備は問題である」。
、「日本は敗戦経済再建に、国家財政の大部分を投入しなければならない。それを再軍備に傾注すれば、ドッジ・ラインのいう経済自立は困難なものになる」。

 吉田が、これまでのGHQ政策を逆手に取って対応しているさまが窺える。これに対し、ダレスは次のように詰問している。
 「独立を回復し、自由世界の一員になる以上、日本は自由世界の強化にどういう貢献をしようといわれるのか。米国は今日、世界の自由の為に闘っている。自由世界の一員としてこの戦いにどう貢献しようと言われるのか」。

 吉田首相は、こうしてダレスに抵抗する一方で、「全面講和」ではなく「多数講和+日米安全保障条約」という政治決断を下した。これを「吉田ドクトリン」と云う。

【徳球執行部、「武力革命}を提起する】
 1.24日、「内外評論」第6号に無署名論文「なぜ武力革命が問題にならなかったか」が発表された。
 概要「権力闘争は武力闘争に他ならない。すなわち、力には力をもって闘うという武装闘争が新しい任務である。決戦の時期はわりあいに早いことを、世界情勢は告げている」。

 ここでは、「武力の問題は原則上の題目ではなくて当面の実践問題」 だと強調されていた。この論文では、永らく党内を支配した野坂式「平和革命コース論」が見る影もなく断罪されており、返す刀で、主流派を右翼日和見主義と罵倒する国際派が、武力革命の問題に触れない事実を嘲笑していた。このような逆転が中国共産党の組織的指導のもとにおこってきたということである。

 こうして武力革命の問題が主流派から提起されたことによっ て、従来の主流派と国際派の立場が逆転することとなった。これまで国際派は、概ね主流派に対し反帝闘争を回避している「右翼日和見主義」であると非難してきており、帝国主義との直接的闘争を主張していた。これに対し主流派は、国際派の主張を「極左主義」.「跳ね上がり屋」と応酬してきた経緯があった。ところが、ここに至って主流派が帝国主義との武力闘争を指針とするといい始めた訳であるから、これで党内がまとまりを得るかと思えばそうはならなかった。宮顕は今度は、武装闘争を行動スローガンにするのは決定的な誤りだと云い、神山や中西は、武力革命の原則そのものは認めても、これを当面の実践課題とすることは時期尚早であり、挑発的であるとして「極左冒険主義反対」という対応に移行した。
(私論・私観) 反党中央派の姿勢について
 つまり、この経過から見えてくるものは、反主流派=国際派は党中央が右を指針すれば左を云い、左を指針させれば右を云うという反対のための反対派でしかなかったということになる。つまり、徳球指導に対する反対派は、「ああ云えばこう云う論」者でしかなかったということになるであろう。異論は有るであろうが、あえてこうみなす方が実際に近いであろう。

【国際派東大細胞内の査問・リンチ事件】
 2.14日、国際派東大細胞内で査問・リンチ事件が発生している。。「国際派東大細胞内査問・リンチ事件」とは、2.14日頃、指導的メンバーの一員であった戸塚秀夫・不破哲三・高沢寅男(都学連委員長)の3名が「スパイ容疑」で監禁され、以降2ヶ月間という長期の査問が続けられ、概要「とくに戸塚、不破には酷烈、残忍なるテロが加えられた」と云われている事件のことを云う。安東氏の「戦後日本共産党私記」その他を参照する。これについては、不破の素性を廻るよほど重要な事件なのでれんだいこサイト「別章【不破哲三考】」の「国際派東大細胞内の戸塚、不破査問事件考」で概述する。
(私論・私観) 『不破のスパイ容疑査問』について
 安東氏の「戦後日本共産党私記」により、不破らに為された査問の様子は分かるが、その容疑の確度については依然分からない。宮顕直伝手法で為されたが、当の宮顕が乗り出し、直々の関与で玉虫色決着を指示している。それを受けて、査問側の力石と安東が不破救済に乗り出し、武井が最後まで容疑の濃厚さと査問の正義性を確信し、武井を採るか不破を取るか迫るところまで進展したことが読み取れる。この史実は、以降伏せに伏せられ今日に至っている胡散臭い党史部分である。

【「練馬事件}発生する】
 2月、「練馬事件」が発生し、全国の非合法アドレス名簿が警察に奪われ、4百数十ヶ所が襲われた。機関紙の発送・配布・防衛の担当は保坂浩明であったので、その責任が問われることになった。保坂は伊藤律の配下にあったので、機関紙担当政治局員としての伊藤律の管理責任が志田派から追及されることになった。


【 戦後党史第二期】/ 【ミニ第A期】=党中央「四全協」後の新方針で極左路線志向
 1951(昭和26)年2.23日の第4回全国協議会(「四全協」)で武装闘争路線が採用されてから党は未経験の内乱的死闘路線へと向かう。この道中は、更に武闘化するのか議会闘争を軽視しても良いのか暗中模索となった。徳球書記長の信任の下に伊藤律が主に活躍したが、51.10.16日からの「五全協」で志田派に主導権を奪われる。この期間を【 戦後党史第二期/ミニ第A期=党中央「四全協」後の新方針で極左路線志向】とみなすことができる。

【「第四回全国協議会」(「四全協」)開催、新方針決議】
○、2.23日−27日にかけて徳球は、大会に準ずるものとして秘密裡に「第四回全国協議会」(「四全協」)を召集した。この会議の眼目は、新方針を全党の決定に持ち込むことにあった。

○、大会は、「日本共産党の当面の基本的闘争方針」(「51年綱領」).「分派主義者に関する決議」と「新規約草案」を決定した。

 「当面の基本的闘争方針」(「51年綱領」)は、武装闘争方針を決議した。党結党以来初めての軍事方針の打ち出しであった。「51年綱領」は野坂式平和革命路線を全否定し、次のように指針せしめている。
「現在、日本人民を支配しているのものは、米帝国主義とその手先たる日本の金融資本、地主、官僚反動勢力であって、人民の武装闘争が必要である」。
「労働者階級は、米帝国主義者と売国奴に対して頑強・不屈の自衛闘争を行い、そのなかから遊撃隊と根拠地をもたなければならぬ」。
 「新しい民族解放民主政府が、妨害なしに、平和的な方法で、自然に生まれると考えたり、あるいは、反動的な吉田政府が、新しい民主政府に自分の地位を譲るために、抵抗しないで、自ら進んで政権を投げ出すと考えるのは、重大な誤りである。このような予想は根本的に誤りである」。
 「日本の解放と民主的変革を、平和な手段によって達成し得ると考えるのは、間違いである。労働者と農民の生活を根本的に改善し、また日本を奴隷の状態から解放し、国民を窮乏の状態から救うためには、反動勢力に対し、国民の真剣な革命的闘争を組織しなければならない」。

 こうして新方針が打ち出されることになったが、長期にわたる武装闘争によって勝利を獲得した中国共産党の経験を学び、中国革命方式による人民革命軍とその根拠地づくりを我が国に適用した戦略・戦術として武装闘争方針を掲げていた。その狙いは、朝鮮戦争の後方兵站基地として機能している日本での後方撹乱により、朝鮮戦争を優位に進めようとする当時の国際共産主義運動の方針があったようにも思われる。 

 中共的武装闘争方針の具体化の第一歩として都市における労働者の武装蜂起と農村遊撃戦争を組織し、その過程で結集された大衆の抵抗組織としての「中核自衛隊」(「中自隊」)を組織し、これを発展的に人民解放軍に導くことにより、全国的な武装闘争を勝利的に展開するというものであった。こうして、労働者の抵抗党争の中から「遊撃隊」を編成し、大経営と山岳山村地帯に「根拠地」を持たねばならないとされ「山村工作隊」の組織化が指針された。

 この闘争形態に沿って全組織に「オモテ」と「ウラ」が作られ、前者が後者を地下から指導するという態勢をとることになった。地域闘争を強化し、自衛闘争を行い、遊撃隊をつくりだし、自衛隊との緊密な連絡の下に遊撃根拠地をつくり云々とされ、各地で火炎ビン闘争を発生させることになった。中核自衛隊の組織、戦術等が指示された武装闘争支援文書「栄養分析法」・「球根栽培法」等が配布された。同書にはゲリラ戦・爆弾製造の方法も書かれていた。この共産党の方針が学生党員に押し付けられ、全学連の方針もそれに影響を受ける事になった。

 こうした「四全協」の方針は、従来の行動方針の大転換であり、国際派の全グループを一挙に左へ飛び越すものであった。但し、今日においては「極左冒険主義」であったと総括されている。

 「分派主義者に関する決議」は、「スパイ分派の粉砕」を強調した。国際派らの反対派をスパイ.挑発者.売国奴.民族の敵として規定し、取り扱うこととした「臨中」.統制委員会の新方針を確認し、「スパイ分子の粉砕」、「全統委」的統一を主張していた党組織や党員への闘争を強調した。「なお党内に残る一切の分派主義者、及び彼らに通じる中道派分子に対する最後の勧告を行う」との決議を採択した。この全文を手に入れていないので詳細は不明であるが、ここに明確に宮顕グループらの国際派を明確に「スパイ」呼ばわりしていることが注目される。この時の「悪質分子は明白にスパイの正体をあらわすに至った」が単に反対派に対する罵詈雑言であるのか、一定の根拠を持っていたのかが詮索を要するところと思われる。

 ちなみに、この決議は8.10日コミンフォルム機関紙「恒久平和と人民民主主義のために」に掲載され、コミンフォルムは支持を声明している。その中で、国際派を分派と呼び、「正直な人々が多数いるが、国内を支配する複雑な政治情勢を理解できないで、敵の諜報機関によって党内に送りこまれ、意識敵に党を破壊している挑発者、スパイ、ずるがしこい冒険主義者の犠牲になっている」という見解を示している。

○、新しい中央指導部を選出した。同時に党組織の編成替えをも決定した。組織の重心を非公然体制に移すこととし、単一組織としてのビューロー組織を確立することにした。従来の合法面=公然機関の指導部、非合法面=ビューローという二重組織から、地下指導部がつくる非公然の中央ビューローの下に、地方.府県.地区.細胞群.細胞にも非公然のビューローをつくり、この各級ビューローが公然面の各級機関の指導を行うということになった。

 選出された中央委員は、1.徳田球一ト、2.野坂参三、3.志田重男、4.伊藤律、5・長谷川浩、6.椎野悦朗、7.紺野与次郎、8.松本一三、9.河田賢治、10.春日正一、以下丸山一郎、佐貫徳治、前田啓太、松本三益、遠坂寛、杉本文雄、水野進、田中松次郎、梶田茂穂、白川晴一らの面々であった。中央委員候補は、宮本太郎、小沢要、吉田四郎、西舘仁、桝井トメ、吉田資治。統制委員は、杉本文雄、岩本巌、田子一郎、竹中恒三郎。

 次第に志田系が伊藤律系を駆逐しつつあった。

○、大会は、党規約を改正して、中央委員会の権限を強化し、指導機関の選挙制の制限、統制委員会の中央委員会による任命等、従来の党内民主主義に更に制限を加える方向の措置を決定した。

○、この大会で伊藤律の機関誌活動を一切に優先させるやり方が強く批判された。独善的指導への反発が生まれつつあった。
(私論・私観) 武装闘争に至る経過の分析について
 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」では、この間の党中央の動きを次のように分析している。「一方、49年の総選挙で35名に躍進した共産党は『民主人民政権の問題は今や現実の問題』(野坂)と浮かれ、『九月革命』説などを振りまいて、たわいもない革命幻想に浸っていた。しかし、それも束の間、翌50年1月、コミンフォルムから衝撃的な批判が飛び込んできた。それは、『占領軍=解放軍』規定や『占領下平和革命』論の野坂理論は『日本の帝国主義占領者の美化の理論であり、アメリカ帝国主義称讃の理論であり』、『マルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもないものである』という激しいものであった。

 このコミンフォルム批判の一撃で、党内は批判の無条件受け入れを主張する宮本、志賀らの国際派と徳田、野坂らの所感派(中国共産党の追撃で彼らもすぐに批判を受け入れるのだが、当初『その問題はすでに実践的に克服している』との『政治局所感』を発表したことから、この名称で呼ばれる)とに分裂して、その後5年間にわたる激しい分派闘争に突入していった。

 同年6月のレッド・パージ後、所感派は臨時中央指導部を作り、地下から、あるいは亡命先の中国からこれを操ったが、51年10月には第五回全国協議会を開き、悪名高い『五一年綱領』を採択した。スターリンに乞うて作成したといわれるこの新綱領は、日本をアメリカの『植民地・従属国』と規定、戦後の『民主化』や『農地改革』はすべて『いつわり』であり、戦前と大差のない体制が温存されているとして、中国革命方式にならって武力闘争による『民族解放民主』革命を提起した。そして、この荒唐無稽でアナクロニズムの新綱領に基づいて、中核自衛隊、山村工作隊などが組織され、火炎ビンなどによる極左冒険主義の馬鹿げた『武装闘争』が繰り広げられていった」。

 れんだいこはこの分析に満足しない。その一つの理由として、この当時の宮顕の動きを国際派的観点からのみ捉えている点について問題ありとしたい。既に何度も繰り返しているように、宮顕グループの動きは徳球党中央からの党中央簒奪を視野に入れてのあらゆる手段を通じての党内分裂策動であった。その後の動きないしは理論から見ても国際派的観点はマヌーバーでしかなかったことが判明しているにも関わらず、十年一日のようなこのような把握を良しとは思わない。

 二つ目の理由として、この当時の武装闘争路線は、結果の不出来は別として共産党が只の一度限りの暴力革命路線をまともに志向したことに関して「荒唐無稽でアナクロニズム」と批判している点について問題ありとしたい。敢えて言えば、社労党の左派的党是の根幹に関わる面であり、果たしてマルクス主義運動から暴力革命的要素を抜き去ることが可能であろうかということについてその見解を糾してみたい。

 この当時いわば敵階級は、そのブルジョア民主主義さえ公然と踏みにじり、党中央の追放から始まるレッドパージへと公然と暴力支配に踏み出していたことについてまさか認識の相違はあるまい。とすれば、支配階級が暴力路線に拠って来た時、プロレタリア運動はどのように対峙ないし応戦すべきかという課題が突きつけられていた訳であり、今日的に貴重な演題となっているとみなすべきではなかろうか。

 なるほど結果は無惨にも結末し、この時の経験一切が闇に葬られてしまって今日に至っている。非常事態として、少なくとも党中央が一致結束して事に当たらねばならないこの時に、宮顕−志賀ラインを頭目とする国際派が党内分裂策動に終始したことも含め、この貴重な経験を「アナクロニズム」呼ばわりする反動性について断固異論を提起したい。それは、武装闘争的暴力革命路線を称揚するという意味ではない。我が国の革命闘争において最も相応しき運動の創造という観点から、この総路線がなぜ成功しなかったのか多角的に研究する一級課題であるという点を強調したいということである。
(私論・私観) 伊藤律と志田の対立について
 伊藤律と志田の対立・抗争について、長谷川浩は次のように述べている。「私は九州にいましたが、潜行活動の4年間に3回上京しています。志田、律、椎野らは東京周辺にいたわけです。志田と律では肌合いも違うし、意見の食い違いもありました。一口で言えば、律は柔軟路線、志田はラジカルで硬直路線でした。当時、軍事方針をめぐっていくつかの問題点、対立点がありまして、意見の食い違いが出てくることは避けられなかった」。概要「軍事方針では、少数精鋭でやるのか大衆の武装闘争として取り組むのか、武力闘争は労働者が主力なのか、農民が主力なのか、農村でゲリラ闘争をやるのか、労働者階級のゼネスト武装蜂起で行くのか等々について、こうした問題で、志田と律が対立していました」。

【四全協における朝鮮問題の位置づけ】
 「日本共産党の当面の基本的闘争方針」の中に「在日少数民族との連携の強化」の一項目が設けられていた。そこでは「在日朝鮮人は日本の中の少数民族」と規定されていた。それは、「在日朝鮮人は外国人と位置づけるものではない。日本の中の少数民族で、日本革命の同盟軍である」というものであり、「日本革命を成し遂げることなしには、在日朝鮮人の問題は何一つ解決できない。在日朝鮮人の活動は、日本共産党の指導に従うのが国際的任務である、日本革命なしに自分の問題は解決しないことを理解して、祖国防衛運動をも日本への米軍支配との闘争、基地反対、再軍備反対、全面講和運動に結合すべきだ」という論理に立っていることを意味している。

 これに対し、「敗戦前の朝鮮は日本の植民地で日本の権力の支配下にあったが、敗戦後はたとえ南北に分断されても、朝鮮には自分たちの政府ができている。解放後は海外公民として、在日朝鮮人の地位が根本的に変わらなければならなかった」とする批判が為されている。

 民戦中央委員会は、この指導方針「在日少数民族」規定を廻って議論が展開されることになった。在日朝鮮人の側も民族問題の認識が不十分であったことを認めている。「われわれが朝鮮人の立場で民族問題を掘り下げる暇がなかったんです。総連の路線転換後(一九五五年以降)、朝鮮人はどのようにしていつから日本に来たのか、そういう初歩的なこともわからない」、「そのように基礎的な理論・調査活動がぜんぜんなかったといってもいいくらいです。だから、解放によって、朝鮮人の日本の中での民族的地位がどう変わったかということも、今でこそ言えますが、当時は考えたこともなかったのです」という反省がある(姜在彦「民戦時代の私」『体験で語る解放後の在日朝鮮人運動』神戸学生青年センター出版部、1989、143〜144P頁)。

 最終的に「在日同胞の当面する民族問題の焦点は、祖国防衛にあることを再確認し意思統一した」。
(私論・私観) 「四全協における朝鮮問題の位置づけ」について
 「『日本共産党の当面の基本的闘争方針』の中の『在日朝鮮人は日本の中の少数民族』規定」につき原文を読んでないので判断しにくいが、当時の時代的認識の枠の中での評価と後付の評価とに方面から考察をせねばならないように思われる。戦後の革命闘争において、日朝共産主義者は緊密な兄弟党として相互に位置づけ運動を担ってきた。それは、日本革命と朝鮮革命が緊密に連動していることを受けての融合でもあったし、国際的共産主義運動司令部・ソ共の指示でもあった。この観点が常識的であった、という当時の流れを無視する訳にはいかない。この枠組みの中で、日共は日共的に朝鮮人活動は「祖防」と「民戦」で独自に運動を組織していたのではなかったか。

 これを今日的にみれば、そもそも朝鮮人は朝鮮人の自主・自律的な取り組むを為すべきであったのであり、日共とは共同戦線理論で交叉すべきであった、という反省を要するところではあるが、史実はそうはならなかったということを教えている。

【51年当時の党の方針の特質と要点 】
@、〈世界情勢に対する認識〉について

 この時期「冷戦時代」が朝鮮半島で熱戦に転化しようとする気配にあった。党にとっても、国際共産主義運動の連帯課題としてアメリカ帝国主義との戦いが緊急になりつつあった。こうして「日本の完全な独立、中立の確保」がスローガンにされていくことになったが、今ひとつ党に緊張感がかけたものがあったように思われる。

A、〈国内情勢に対する認識〉について

 既に 「GHQ」は「逆行指令化」に転じていた。党は、「民主主義的諸権利の擁護と人民大衆の生活安定」をスローガンとしたが、〈世界情勢に対する認識〉と同様今ひとつ党に緊張感がかけたものがあったように思われる。
(私論・私観) 「51年綱領」による「植民地又は従属国規定論」への転換について
 @.Aにつき 激化する国内外の諸情勢に対して明確さを欠いた対応が目立っている。徳球は、概要「日本共産党30周年に際して」で次のように述べている。「党の方針が不明確であった基本的な点は、党指導部が、敗戦後の日本が帝国主義国であるのか、それとも植民地又は従属国であるのかを明確にしなかったことである。植民地・従属国の革命と規定して、同志スターリンが明らかにしたその原則によらなかったために、基本的に問題を解決することができなかった」。つまり、現状分析による日本の国家権力規定において、「植民地又は従属国」論にシフト替えさせられたことになる。

 この「植民地又は従属国」論が一人歩きして、六全協後の宮顕党中央時代にも概要「敗戦によって日本は、高度に発達した資本主義国でありながらアメリカ帝国主義の支配に陥り、革命の戦略的展望が急速に変わりましたが、こうした過渡期の情勢の複雑さとも結びついて正しい綱領的方針を確立することができませんでした」(「日本共産党の45年」へと結びつく。これにつき田川和夫氏は、著書「戦後日本革命運動史1」で「だが、徳田球一のように植民地・従属国の革命といおうと、宮本顕治のように高度に発達した資本主義国の従属といおうと、そこから出てくるものは、社会主義革命の否定である」とズバリ指摘している。
B、〈党の革命戦略〉について

 天皇制を打倒するという主張がますます後退しスローガンから無くなりつつあった。政体についても不明瞭となった。

C、〈党の革命戦術〉について

 この時期先の総選挙での躍進に自信を深め人民政権の樹立を目指す闘争が呼びかけられ始めた。野坂の「平和革命コース理論」のもと急進的な運動を排斥する穏健路線が公式の見解ではあったもののにも関わらず急進化し始めた証左である。

D、〈党の当面の具体的な運動方向〉について

 議会主義への傾斜グループと大衆闘争グループへと党の運動が二極化しつつあった運動が、この時期「9月革命.人民政権樹立」に向けて歯車がかみあい始めていた。但し、宮顕グループは「民族の独立」が優先課題であると主張し、「GHQ」の占領下にも関わらず人民政権の樹立が可能であるかの見地は日和見的との批判を為し続けた。執行部内部の混乱が見え始めたということと、何かにつけて反対する宮顕グループの姿が浮き彫りになるつつあった。

E、〈党の大衆的指導理論〉について

(私論・私観)

 B.C.Dにつき但し、

E、(党の機関運営について)

 こうして、徳球と宮顕の対立は飽和点に近づき始め、徳球の「党指導における粗暴で節度にかける態度」がいっそう激しくなり、党機関の民主的運営は保障されず、指導体制内部の対立も深められる結果となった。この頃の徳球グループの実務は伊藤律が担当していた。伊藤律は、徳球書記長の秘蔵っ子的な期待を受けて党指導の矢面に立った。この経過は今日では次のように総括されている。「伊藤律は、こうした党の条件を出世主義者特有の敏感さでとらえ、徳田同志に取り入った。彼は自己の地位をかためるために、幹部間の不和を拡大することを意識的におこなった」、「こうして、徳田同志を中心とする家父長的個人指導の体制は派閥的傾向を強め、党中央の団結に重大な危険となっていた」。

 この頃の党機関(徳球主流派)の構成は次のようになっていた。
地下組織 @・海外組織・北京機関 徳田・野坂・西沢
A・国内地下組織 伊藤律、志田重男絵、紺野与次郎、春日正一、長谷川浩ら。
公然組織 B・国内公然組織 椎野悦郎、鈴木市蔵、聴涛克巳、河田賢治、輪田一造、杉本文雄ら。

F、(党の機関運営について)  

G、〈左翼陣営内における本流意識〉について  

H、〈青年戦線.学生運動〉について  

 5.5日日本青年共産同盟の運動を受け継いで「日本民主青年団」が発足。「民青団」は、党主流派所感派を絶対視することを強制され、軍事方針の下で工作隊となり、学生党員もこれに積極的に参加した。東京周辺の学生たちは三多摩の山奥にもぐり込んだ。民族解放革命を目標として、街頭的冒険主義に陥り、セクト化を強め一面サークル主義になった。

I、〈大会後の動き〉  


【宮顕派による「全国統一会議」結成される】 
 前述の経過で「全統委」派は解消されたものの、今度は宮顕の直接の音頭取りで「全国統一会議」(「統一会議」)を組織した。「統一委員会」より本格的な動きとなる。宮顕の云う党の原則的統一とは、徳球系党中央の軍事方針を批判し、その為の大衆闘争を指導するという意味での党統一運動であったから、名前は「統一会議」であっても実際には「分裂の促進会議」的役割を担った。 かってのように党の統一を「臨中」との交渉に求めることを止め、「臨中」と徹底して張り合う形で大衆闘争を指導していくことを目指した。その意味では分裂の固定化であった。

 1.1日付けで機関紙「解放戦線」第1号が発行され、1.20日付けで「党活動」第1号が発刊された。それぞれ党中央側の「内外評論」、「党活動指針」に対応していた。宮顕の手になるものと思われる綱領的文書「新しい情勢と日本共産党の任務」が「解放戦線」第1号に掲載された。ここに独自の指導機関.機関誌.綱領的方針をもつれっきとした分派組織が生まれた。宮顕が頭目であることがはっきりし、非和解的な動きを強めることとなった。徳球執行部の新方針を極左冒険主義と断罪し、「民主民族戦線の発展の為に」などの方針を打ち出して対抗した。3.1日理論機関誌「理論戦線」が発刊された。

 「四全協」に対する対応をめぐって、「統一会議」派内は一枚岩ではなかった。春日(庄)は動揺した。宮顕は四全協を正式の党会議とみなさず、「党内闘争の新段階」を呼号しつつ一層精力的に活動を強めた。こうして主流派と宮顕グループを核とする「統一会議」派との全国的な党内闘争が激化していくこととなった。

【民戦の精力的活動】
 2.1日〜3.1日、「祖国防衛・日本再軍備反対闘争月間」が組織され、30余万の全面講和投票と17万余の強制送還反対署名を集め、日本人民の全面講和投票運動を大きく推進し、全面講和、再軍備反対闘争を政治的に発展させることに寄与した。この月間闘争では、府県としては京都府が、地域別では、川崎、松阪、滋賀県八幡、大阪東北、兵庫伊丹、下関、宮崎地区などが、広汎な大衆を基盤として成果をあげた。

 8.10日、民戦は引き続き8.10日〜9.10日を「祖国統一戦取月間闘争」を展開し、平和署名13万名、全国講和署名58万名、基金カンパ2773万円を集めた。

 8.15日、祖防全国委員会では「この歴史的な民族解放記念日にあたって、在日男女を民主統一戦線のもとに結集し、侵略者の排撃運動に参加する祖国防衛の行動を組織する」と宣言し、その祖防隊の規約、宣言、綱領を発表した。

【松本治一郎がスターリン密命を帯びて帰国する】
 社会党左派にして水平社の委員長にして当時の参院副議長・松本治一郎がスターリン密命を帯びて帰国している。概要「スターリン直々に、ソ連は日本の共産党を引っ込めて、社会党 をバックアップする。だから日本に革命を起こせ。共産党引っ込めて、お前に全力を上げて、応援する。今後ソ連の主導の下で、日本に革命を起こす。我々の時代を    つくると。これからはお前たちの働きしだいだ。そういう命 令をもらって、俺は夕べ帰ってきた」との証言が残されている。(「スターリン命令と松本治一郎」参照)

【マッカーサー元帥とトルーマン大統領の対立】
 3月、国連軍最高司令官マッカーサー元帥は、「中国本土爆撃も辞さず」と声明し、中共政権そのものを崩壊させようとする戦略を用意し始めた。

【港湾労働者のスト】
 3.4日、大阪港で南朝鮮向けの米を積み込み中の軍船ヴィクトリア号の作業中に、アメリカ兵と労働者の間に争議が発生した。これがきっかけとなって、大阪の港湾労働者がストに突入。4.6日全港湾大阪地本の闘争宣言には、「我々は輝かしい闘争の伝統をもっている世界の港湾労働者に、決して遅れをとらず、全日本の労働者の先頭にたって闘う」とある。4.13日48時間スト、15日から無期限ストに入った。このために神戸港が完全に機能麻痺している。名古屋でも4.15日24時間スト、16日から無期限ストに突入した。この港湾労働者の闘いは、「戦争反対、平和の要求」という政治的闘争を帯びており、これが後の労働運動に影響を与えていった点で重要である。

【総評第2回大会開催】 
 3.10日、総評の第2回大会。高野派(総同盟・表見左派)と新産別派(総同盟・主流派)、総同盟刷新派(総同盟・右派)が激突し、ことごとく対立した。講話問題と平和運動に対する左右両派の態度が食い違い、規約改正問題、運動方針、行動綱領、組織問題、自由労連加入問題などで三案が持ち出され、紛糾を重ねた。

 議長に武藤を再選し、事務局長に高野実(全国金属)を選出した。
 概要「総評は発足に当たって、確かに反共という形で結束したものであったけれども、この第2回大会で方向転換を行い、いわゆる『ニワトリからアヒルへ』と変身した」(岩井章)。「大会の翌日、私は呼び出された。『総評大会が自由労連加盟の手続きをとらなかったことは遺憾である。平和4原則を決めたことは、政党支配に侵された証拠である。この決定は占領政策に反する』というのだった」(高野実「労働組合実践論」)。

【世界平和評議会日本委員会の動き】
 2.21日、ベルリンで開かれた世界平和評議会第1回会議。「日本問題の平和的解決についての決議」を採択。「対日単独講和を結ぼうとする一切の企図を非難する。世界平和評議会は、講和条約は、中.米.ソ.英の間で、まず交渉され、その後、全関係諸国により採択されねばならないと考える。講和条約締結後、占領軍は即時、日本から撤退、日本人民に対する民主的平和的生活の保障、公然、非公然の一切の軍事組織と軍事機関の禁止、全工業の平時態勢への転換」を要望していた。

 3.27日、日本委員会は、平和擁護全国活動者会議を開いたが、常任委員会に対して激しい批判が出始め、執行部側は一方的に閉会宣言している。

【日本協賛非合法化を廻るマッカーサーと吉田政権の議論考】
 2019年2月20日掲載「吉田茂が“大恩人”? なぜ日本共産党は非合法化されなかったか」。
 日本は稀有な国

 国会では共産党委員長と総理が論戦、街中には共産党候補者のポスターが溢れる。そんな日本の状況は、じつは世界的にみると珍しい。フランスを除いて、いまや先進各国では共産党は国会議席を持っておらず、それどころか活動を禁じられている国すらあることを前記事「日本は共産党にとって天国だった 意外と知られていない世界の共産党事情」でお伝えした。もはや“壊滅状態”となっている理由は、共産主義そのものへの忌避感に加えて、法律的な制約があるからという面もある。例えば第二次大戦後アメリカは反共立法として、スミス法(1940年)、タフト・ハーレー法(1947年)、マッカラン法(1950年)、共産党取締法(1954年)など、いくつもの法律を定めている。また冷戦初期の「赤狩り」の厳しさは、今でもよく知られているだろう。ここで一つの疑問が浮かぶ。アメリカに占領されて強い影響下にあった終戦後の日本で、共産党が合法のままだったのはなぜなのだろうか。実際には非合法化への動きもあったが、それに踏み切らなかったのは当時の首相・吉田茂だったという。福冨健一氏の新刊『日本共産党の正体』から、この部分を紹介しよう(以下の引用部分は同書より)

 「占領の初期、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は必ずしも共産党に対して厳しい姿勢ではありませんでした。また当時の日本は、日本の弱体化を目指す占領政策と食糧難、インフレなどが重なり、社会不安が高まってもいました。多くの国民は無謀な戦争を反省し、共産主義に対して民主主義と同義語のように期待したのです。1949年1月、衆議院総選挙が実施され、吉田茂の民主自由党が議席を112増やして単独過半数の264議席を獲得します。日本共産党は35議席を獲得、その勢いに共産主義革命も囁かれました。この頃までに共産勢力への方針を転換していたGHQのダグラス・マッカーサーは、団体等規制令を公布しました。翌1950年の新憲法発効3周年記念日、マッカーサーは、共産党は『法の保護に値するか』疑問であるとの声明を出し、再び共産党非合法化を示唆します。吉田は、共産党員による米軍将兵に対する暴行事件をきっかけに『共産党の非合法化を検討せざるを得ない』と、非合法化法案を検討することを決心します。続いてマッカーサーもレッドパージを実施し、日本共産党中央委員24名全員を公職追放、アカハタ編集委員など17名を追放しました」。

 「煮え切らなかった」指導者

 これを受けて、日本政府は共産党非合法化法の論議を始めるが、翌年、マッカーサー自身が「日本での共産党非合法化案を承認しない」ことを決める。自ら非合法化を促しながら、なぜ方針転換に至ったのか。

 「ホイットニー少将の『マッカーサー伝』によると、『元帥は一方で共産党に警告するとともに、他方では日本政府が自発的に行動すべきことを強調した』、しかし『日本の指導者たちは結局煮え切らなかった』とあります。つまりマッカーサーは共産党非合法化法案を作るように示唆していますが、作るかどうかは日本政府が自発的に決めるべきだと判断したのです。(中略)1951年3月、国会で法務総裁が『共産党非合法化は政府として研究中であり、直ちに実現したいという考えを持つに至っていません』と答弁しました。これで非合法化法案は消え去ります」。

 要するにマッカーサーの本音は「非合法化」だったが、日本政府は忖度しなかったことになる。吉田茂はなぜ非合法化を通さなかったのか。著書『回想十年』に記述が残されていた。

 「マッカーサーの声明は、……明らさまに(共産党)非合法化の示唆である。……私の心中にもそうした考えが動かないでもなかった。しかし、結局のところ、国民の良識の処理にまつが健全なやり方であるという考え方から、実行せずに終った(中略)後になって考えるに、やはり実行して置けばよかったような気もする」。

 こうして日本は共産主義、共産党に対して極めて寛容な国になった。福冨氏はこう語る。

 「この『失敗の本質』は、共産主義思想の危険性を理解できなったことにあります。(中略)このことが、共産主義に対する日本と欧米の違いの源流になってしまったのです」。

 共産党の国会議員は現在26人、地方議員は約2800人にものぼる。過去の流れを踏まえれば、彼らは吉田茂に足を向けて寝ることはできない。すると度々、その発言に共産党幹部が噛みついている麻生太郎財務大臣は、皮肉にも大恩人の孫ということになるのである。


【第11回目の昭和天皇とマッカーサーの会見】
 ●朝鮮の戦況質問

 マッカーサー元帥が米大統領に罷免された後の51年4月の最後の会見で、天皇は、極東国際軍事裁判(東京裁判)に触れ「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度につき、この機会に謝意を表したい」と語った。これに対し元帥は「私は戦争裁判の構想に当初から疑問を持っておりました」と語り、「ワシントンから天皇裁判について意見を求められましたが、もちろん反対致しました」などと述べ、裁判を求めた英国やソ連を「間違い」だと主張した結果、天皇が不訴追になった経過を明らかにした。

 朝鮮戦争さなかの51年5月に始まるリッジウェー会見で天皇は「(国連軍の)士気は」「制空権は」など一貫して戦況について質問。「仮に(共産側が)大攻勢に転じた場合、米軍は原子兵器を使用されるお考えはあるか?」とも尋ねていた。リッジウェー司令官は「原子兵器の使用の権限は米国大統領にしかない。野戦軍司令官としては何も申し上げられない」と答えながらも、地図を前に詳細に戦況を説明した。

 講和条約調印直前の51年8月の会見で同司令官は、日本が主権を回復したら国防上の責任を果たす必要がある、と指摘。天皇は「もちろん国が独立した以上、その防衛を考えるのは当然の責務。問題はいつの時点でいかなる形で実行するかということ」と述べた。続けて「日本の旧来の軍国主義の復活を阻止しなければならない」とし、「それにはまず軍人の訓練と優秀な幹部の養成だ」との考えを示していた。

 ■会見は計18回

 昭和天皇・マッカーサー会見は45年9月〜51年4月、リッジウェー中将(のち大将)との会見は翌年5月まで行われた。いずれも内容は秘密にされたが、マッカーサー会見第1回全文と第4回の前段については、作家の児島襄氏(故人)が通訳の記録を雑誌や著書に公表。第3回記録も国会図書館に保管されているのが見つかった。松井氏は死去の直前、会見内容のごく一部を産経新聞94年1月6日付朝刊で語っていたが、全容を示す手記は今回初めて明らかになった。(2002.8.1日朝日新聞記事「昭和天皇とマッカーサー元帥 占領期の会見詳細判明」

【マッカーサー元帥とトルーマン大統領の対立】
 4.11日、トルーマンはマッカーサーを解任した。大統領はその声明で、「非常に遺憾なことであるが、私はマッカーサー元帥をその公的任務に関する事項に付き、米政府及び国連の諸政策に全幅の支持を与えることができない、との結論に達した。米国憲法が私に課した明確な責任と、さらに国連が私に与えた責任とに鑑み、私は極東における司令官の更迭をはからねばならないとの決定に達した。極東軍司令官が大統領の命令に従わないのは合衆国憲法の精神に反する」と述べている。日本人にとっては「寝耳に水」の「シビリアン.コントロール」を目の当たりに見せ付けられたことになった。 

 この時マッカーサー71歳、二千日(5年8ヶ月)にわたって日本の戦後を支配した元帥は、連合国最高司令官、国連軍最高司令官、米国極東軍ならびに極東陸軍総司令官という総ての任務を解かれた。後任にはリッジウェゥイ陸軍中将が任命された。急遽ソウルから東京へ赴任し、マッカーサーと入れ替わった。離日に当たってのマッカーサーの言葉は「老兵は死なず、ただ消え行くのみ」。

【マッカーサー元帥帰国後の議会発言】
 4.19日、上下両院合同会議の席上演説で次のように語った。
 「私は日本ほど安定し、秩序を保ち、勤勉である国、日本ほど人類の前進のため将来建設的な役割を果たしてくれるという希望の持てる国を他に知らない」。
 「老兵は死なず、ただ消え行くのみ。あの歌の老兵のように、私は今軍歴を閉じて、ただ消え行く。神の示すところに従った自分の任務を果たそうと努めてきた一人の老兵として。さようなら」。
 
There is practically nothing indigenous to Japan except the silk worm.  They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber,they lack a great many other things, all of which was in the Asiatic basin. They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan.  Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.
 「日本には綿、羊毛、石油製品、スズ、ゴム、その他多くのものがなく、アジアにはその全てがあった。彼らは(経済制裁で)供給が断ち切られた場合、多くの失業者が生じることを恐れた。戦争に突入した目的は、security上のものだった」。
 The raw materials -- those countries which furnished raw materials for their manufacture -- such countries as Malaya, Indonesia, the Philippines, and so on -- they, with the advantage of preparedness and surprise,  seized all those bases, and their general strategic concept was to hold those outlying bastions, the islands of the Pacific, so that we would bleed ourselves white in trying to reconquer them, and that the losses would be so tremendous that we would ultimately acquiesce in a treaty which would allow them to control the basic products of the places they had captured.
 「マレー、インドネシア、フィリピンなど日本での製造に必要な原料を提供する国を、日本は事前準備と奇襲の利点により占領しました。日本の一般的な戦略構想は、太平洋上の島を外郭陣地として確保し、我々がそれらを全て奪い返すには多大の損失が生じると思わせることによって、我々に日本が占領地からの原料確保することを黙認させる、というものです」。
 
 ※原文中の「security」を「自衛のための戦争」と訳すのは誤訳である。「自衛」ならば「self-defence」という国際法上の明確な区分が存在する。「security」は保安、防犯、担保の意味であろう。

 マッカーサーは、1951.5.5日、米議会上院軍事.外交合同委員会聴聞会で次のように述べている。
 「仮に、アングロサクソン族が科学、芸術、神学、文化の点で45歳だとすれば、ドイツ人はそれと全く同じくらいに成熟している(ほぼ同年輩である)。しかしながら、日本人は、時計で計った場合には古いが、まだまだ教えを受けなければならない状態にある。現代文明の基準で計った場合、彼らは、我々が45歳であるのに対して、12歳の少年のようなものでしょう(日本人はまだ生徒の時代で、まず12歳の少年である)」。

 マッカーサーは、国家的成熟度として「我々アングロ.サクソンが45歳なら、日本人はまだ12歳の少年である」と認識していたようである。この12歳の少年を何とか成人に導かんとして5年8ヶ月(65歳から71歳までの間)にわたって最高権力者として君臨した、というのは紛れようの無い史実である。

 マッカーサーはその後1964年84歳で死去。バージニア州ノーフォークにマッカーサー記念館。吉田は、次のように追想している。
 「もちろん元帥も人間である以上、評者によっては気取り屋であるとか、お高くとまっているとか、色々というものもないではないが、日本人を相当高く評価していた元帥を、占領軍の最高責任者として迎えたことは、何と言っても、日本の幸福だったと思う」。

【「二つの共産党」による選挙戦 】
 4.23.30日、全国にわたって第2回一斉地方選挙が行われた。党は、都道府県議6名当選。市区町村議489名当選。この選挙戦で党の分裂が深刻な様相を見せた。大衆の面前で主流「臨中」派と統一会議派との抗争が展開されたのである。主流派は社会党の受け入れ為しに一方的に社共の「統一候補」として社会党候補者を推薦するという選挙方針をとった。東京都知事に加藤勘十を、大阪府知事に杉山元治郎を推した。

 統一会議派は、反帝の態度が曖昧な候補の推薦を無原則的と批判し、独自候補の擁立を促した。主流派がこれを入れないとみるや東京都知事に哲学者の出隆、大阪府知事に関西地方統一委員会議長の山田六左衛門を出馬させた。こうして両派による泥試合が展開された。戦前戦後通じて初めて「二つの共産党」が別々の選挙戦を戦うという珍事態が現出した。特に宮顕系の統一会議派は、主流「臨中」派の地方選挙方針を激しく批判しつつ、独自候補運動の正当化を喧伝した(「党活動」3.10日付け「革命的議会主義と当面の地方選挙闘争」他)。

 だが、統一会議系の独自候補擁立方針に対しては、同じ反対派の中から異論も出た。中西派は、機関誌「団結」紙上で、党内が別々の候補で争うことに反対し、選挙候補の統一を呼びかけた(「団結」第23号「地方選挙闘争の基本問題」他)。福本グループの「統一協議会」は、国会選挙以外の地方選挙は一切ボイコットせよと主張した。野田ら「国際主義者団」は、「平和綱領」を承認する候補者だけを支持せよと呼びかけた(「火花」3月第5号「地方選挙と日本プロレタリアートの任務」他)。こうして事態はますます混乱するばかりとなった。

 選挙戦を通じて、主流.国際派両派の争いは激化し、相互悪罵戦の泥仕合となった。党外大衆の困惑は不信と失望へと向かった。投票結果はそれぞれ惨敗となった。得票数等の詳細は公報したものを入手していないので分からない。

【主流派内に「自己批判書」騒動起こる 】
 「二つの共産党」による選挙戦が行われたこの頃の3月から5月にかけて奇妙な現象が主流派内に起こった。主要な地下指導者と椎野「臨中」議長たちの相次ぐ自己批判声明が発生した。3.25日付けで志賀義雄の「自己批判書」が口火を切った。「1−2月頃に旧全国統一委員会が解放戦線を発刊してはっきりと分派行動の再開に乗り出したのを知って、これと闘う気持ちになった」と、告白していた。

 次に3.29日付けで内山春雄名義の「自己批判」が発表された(内外評論4.5日付)。そこでは「軍事問題の従来の指導を誤りとして反省、今後は四全協軍事方針に従って闘う」としていた。党の非合法機関紙の責任者伊藤律の自己批判であった。伊藤律の党内基盤はこの辺りから下り坂に入り、反対に志田が浮上していくことになる。ゆくゆく徳球の跡目相続争いが必死となる。

 5.20日付けで森浩一郎名義の「自己批判」が発表された(内外評論5.31日付)。これは従来の機関誌活動の誤りを全党の責任者という立場から自己批判していた。伊藤律の「自己批判」と信じられたが、機関紙責任者の枠を越えて全党の最高責任者として党活動の全面的な反省を記した自己批判内容が含まれていたので徳球書記長のそれと推測された。

【民対全国代表者会議が四全協決定を確認】
 5.10日、民対全国代表者会議が開かれ、四全協決定を確認し、2月〜3月の「祖国防衛・日本再軍備反対闘争月間」運動の成果と欠陥を検討し、「在日朝鮮人運動の当面の任務」を決定した。

 行動としては、5.25日〜6.25日には「6.25一周年記念闘争月間」を設置し、そこでは五大国平和条約締結の署名運動が展開され、多くの署名を獲得した。とくに在日朝鮮青年たちは、国際青年学生平和祭をめざして平和署名運動を積極的にとりくみ、6.26日までに全国152万名の署名を獲得している。大阪では6.1日、全大阪朝鮮体育祭を真田山公園で開催したが、1万5千名の大衆を結集し、盛大な体育祭を挙行して民族的団結を示威した。

 5月、青年共産同盟の運動を受け継いで、日本民主青年団として発足。

【「宮本百合子葬」が盛大に執り行われる 】
 5.23日、「宮本百合子葬」が東京の共立講堂で開かれた。その葬儀には党から花環が送られたが、宮本百合子祭には、臨中からボイコット指令が出ていた。「『宮本百合子祭』を大衆的にボイコットせよ!」(51.4.18日「党活動指針」。ねじれであった。その論拠は、「百合子祭を平和擁護のカンパにアであるかのように言っているが、筋金の入った集会が、たとえ文学であろうと、平和のためのものであろうと、地域的な小集会に至るまで禁圧されているとき、百合子祭が許可されているということは、その性格が危険ではないという当局の認識があるのではなかろうか」(伊豆「真実と文学と人間性」)。「この催しの前後に平和のための集会を同じ共立講堂で行おうとして、二度とも不許可になったという話を聞いていた私は、それが許可されたばかりでなく、約3千人に近いその大会合に、一人の警官の姿も見えなかったということをきいて、驚きと怪しみの念にたえなかった」(岩上「蔵原の文化理論について」)。 

【社会主義協会が設立される 】
 6月、社会主義協会が設立され、雑誌「社会主義」が創刊された。社会主義協会の主要メンバーは、山川均、大内兵衛、大田薫、岩井章、高野実、清水慎三、岡崎三郎、高橋正雄、向坂逸郎らであった。このうち、高野実、清水慎三、高橋正雄、大田薫は分離していくことになる。次のように自賛している。
 「社会主義協会は、創立以来、つねに、極左翼とたたかい、社会党の右傾化、改良主義化に抵抗して、成果をおさめてきた。総評の健全なる発展に貢献するところも少なくない」。

 社会主義協会は他にも「理論戦線」、「唯物史観」を発刊する。その主張は、「マルクス・レーニン主義を、日本の歴史に具体的に適用し、日本における社会主義革命を達成することを、その使命」とし、次の諸点に特徴が認められる。1.社会主義革命を目指す。2・社会主義革命は武装蜂起路線を否定し、平和的移行により達成する。3・国家権力を奪取して生産手段を原則として国有にし、その土台のうえに勤労大衆の精神的、物質的福祉を増進してやむことのない計画的な社会をつくる。








(私論.私見)