1950年上半期 「50年問題発生」、党内分裂す。

 更新日/2022(平成31.5.1日より栄和元/栄和4).2.5日

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第2期、党中央「50年分裂」による(日共単一系)全学連分裂期の学生運動」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2002.10.20日 れんだいこ拝


【戦後党史第二期】.【ミニ第@期】
 1950年、年頭にコミンフォルムのオブザーバー署名の論評が伝えられ、党内に激震が入る。この論評をめぐって党内は二分三裂し、このごたごたが1955年の「六全協」まで続くことになる。この時期より【戦後党史第二期】とする。

 
【戦後党史第二期・ミニ第1期】は「50年問題の発生」から始まる。これより党は未曾有の内部抗争に突入する。51.6.7日、徳球グループが地下に潜り、その名代として椎野悦郎を議長とする「臨時中央指導部」が設置される。このコミンフォルム論文の衝撃から党中央の非公然体制への移行期を経て「四全協」までの期間を【 戦後党史第二期】の 【ミニ1期】とする。

【「1950年、マッカーサーの年頭の辞」】
 マッカーサーは、年頭の辞で次のように述べている。
 概要「日本は今なお交戦状態にあるとはいえ、今日、日本より平和な国はこの地球上に全く数えるほどしかなく、占領軍の管理が大幅に緩和され、国内的には、既に事実上の講和を達成したといってよい。今や急速に民間企業による自由競争体制という経済的な理想に近づきつつあり、やがては政治的に一人前となり、社会正義と経済自立を達成して、自由な国際社会の立派な一員として、深い尊敬を受ける日が遠くない」。
 等々述べ、講和条約の締結の日が近いこと、自由主義陣営の仲間入り、共産主義との闘いについてコメントした。

 なお、憲法9条の規定解釈を廻って、憲法規定に関わらず自衛権を是認し、「日本国憲法は自衛権を否定せず」と語った。このマッカーサー見解は、従来の公式解釈からの明らかな転換であった。こうして、米本国の戦略に合わせて、焦眉の課題として日本の統治主権独立をめぐっての手法形式=講和問題と再軍備が要請されるようになってきた。

【コミンフォルム論評の一撃、「50年問題の発生」について】
 徳球−野坂体制は思わぬところから痛撃を受けた。1.6日、日本の新聞各紙が一面トップで、ブカレスト発UP電のコミンフォルム(欧州共産党労働者党情報局)機関誌「恒久平和と民主主義のために」(1950.第1号)の発表した「日本の情勢について」というオブザーバー署名の論評を伝えた。この論評が党内に大激震を走らせることになった。

 その発表のされ方も異常であった。公党間の友誼的原則に則ったのではなく、このたびの発表はまずは外電で海外から知らされると云う不適切さであった。

 この「論評」で、野坂参三が1946年の第5回党大会で提起決議させた「平和革命コース論」が全面的に批判された。「論評」は、日本がアメリカ帝国主義に従属されつつ新たなブロック化を形成しつつある動きを踏まえて、独立と公正な講和とアメリカ軍の撤退など「平和のための決定的闘争が必要である」ことを指摘しつつ次のように厳しく野坂理論を批判していた。れんだいこが意訳する。

 野坂の理論は次のようなものである。
 「プロレタリア党は、国会内で多数の議席をしめ、自分たちの政府をつくり、官僚機構とその勢力を破壊して政治権力を手中におさめうる可能性ができた。換言すれば、民主的方法により国会を通じて権力を握る可能性ができた」。
 「このような政府ができれば、占領軍は撤退する」
 「党は、人民大多数の支持に依拠し、かつ人民自身の努力によって、平和的且つ民主主義的方法により、資本主義制度よりもさらに高度の社会制度、即ち、-社会主義制度へ発展せしめることを期する」。

 日本の政治、経済はいっさいアメリカの侵略政策と、その侵略政策に基づくアメリカ占領軍の行動によって左右されているにも関わらず、日本共産党の指導者野坂は、『占領軍は日本を植民地化する意図を持っていない』として、『アメリカ占領軍が存在する場合でも、平和的な方法によって日本が直接、社会主義へ移行することが可能である』と主張しているが、これは『ブルジョア的な俗物的な言辞』であり、『帝国主義占領者美化の理論』であり、『マルクス.レーニン主義とは縁もゆかりもない』ものである。


 日本共産党の有名な活動家野坂(岡野)の見地は、日本人民を混乱させるものであり、総てこうしたマルクス.レーニン主義の『適用』は、反動が民主主義に、帝国主義が社会主義に、平和的に成長転化するというこうした野坂の見地は、ずっと以前に暴露され、労働者階級に縁のない、反マルクス主義的、反社会主義的『理論』の日本版に過ぎない。
 「野坂『理論』は、日本の帝国主義的占領者を美化する理論であり、アメリカ帝国主義賛美の理論であり、したがって日本人民をあざむく理論である」
 「野坂『理論』は、マルクス.レーニン主義とは何の共通点もない」
 「その本質上野坂『理論』は、日本の帝国主義的占領者と日本独立の敵にとってのみ、有利である」
 「野坂の見解は、日本の人民を混乱におちいらしめ、外国帝国主義者が日本を外国帝国主義者の植民地的従属物化し、極東における新戦争の策源地にかえようとするのを助けるものである」
 「共産党の諸組織、労働組合及び国の全ての民主主義勢力は、勤労者を結集し、日本における外国帝国主義者の植民者的計画と日本反動の裏切り的反人民的役割を、毎日にわたって暴露しなければならない。日本の独立、民主的平和愛好日本の樹立、公正な講和条約の即時締結、アメリカ軍の日本よりの急速な撤退、異民族間の強固な平和保障の為に、決定的な闘争を行わなければならない」

 この「論評」はどう評されるべきか。「50年問題について」は、「その内容は、右翼日和見主義におちいり、重大な危険にさらされていたわが党にとってきわめて適切な助言であった」と評しているが、これでは何のことか要領を得ない。れんだいこの観るところ、「論評」の政治的意味は、野坂理論の似非革命理論性を指摘した上で、その理論を受け入れてきた徳球−野坂指導部が批判されたことにあった。野坂批判という形をとってはいるが、実質的には徳球−野坂執行部の指導が批判されたのも同然であった。

 「論評」は、以上のように野坂理論を批判しながら、本来の闘争指針を次のように示していた。


 概要「現条件下において、日本の勤労者は明確な行動綱領を持つ必要がある。日本の共産党の諸組織、労働組合及び国の全ての民主主義勢力は勤労者を結集し、日本における外国帝国主義者の植民地的計画と日本反動の裏切り的、反人民的役割を毎日にわたって暴露しなければならない。彼らは日本の独立、民主的平和愛好日本の樹立、公正な講和条約の即時締結、アメリカ軍の日本よりの急速な撤退、異民族間の強固なる平和の保障のために、決定的な闘争を行わなければならない」。

 「論評」は結果的に、徳球−野坂執行部を痛打することになり、以降党内は大混乱に陥っていく。「論評」は短い小論稿に過ぎなかったが、これが党を根底から震撼させ、30年来の党史上最大の大分裂を引き起こし、この後5ヶ年間にわたって同志あい食む惨憺たる地獄図を現出する直接動因となった。
(私論.私観) スターリン「論評」の背景について
 これまでにも国際共産主義運動の観点から時に応じて日本共産党に対する指導が為されてきた。戦前の「上海テーゼ」(25年)、「モスクワテーゼ」(26年)、「27年テーゼ」、「32年テーゼ」と呼ばれるものがそれである。戦後においても非公然的には疎通していたものと思われるが、このたびは公然文書で「論評」が発表されることになった。

 この背景には、コミンフォルムからみて、47年春頃から変わってきた国際情勢の急激な変化に対して党がアメリカ帝国主義との有効な闘いを組織為しえておらず、未だにGHQとの蜜月時代の残像を引きずっている機関運営に対する批判があったものと思われる。恐らく、コミンフォルムから見て、この48−49年の経過で党指導による日本の戦後革命が流産させられたという認識に至ったのではなかろうか。その原因として野坂式の「平和革命コース」論があり、その浸透に対する党内からの自助変革を見極めてきたがもはや期待出来ないという状況へのジレンマがあったものと思われる。こうした見地から直接指導に乗り出そうとした節がある。


 スターリン「論評」は、迫りくる朝鮮戦争を有利に経過させるために地政学的に重要な位置を占めている日本での、在日米軍の後方かく乱の為に日本共産党の武装闘争化による反米闘争が必要であったという事情があったことも、今日判明している。
(私論.私観) 「激動の1950年における日共の分裂」考
 1950年は朝鮮動乱が発生する等、国家の一大事的激動の年となる。興味深いことは、日本共産党はまさにこの歴史的責務を負うこの局面で、この後述べるように激震が走り、混迷と分裂を深めていくこととなった。

福本和夫の復党
 1.7日付けアカハタは福本和夫の復党記事を掲載している。福本は「ふるさとに帰った思いである」との手記を載せている。
(私論.私観) 「福本和夫氏の復党」について
 徳球時代のこの大らかさを見よ、宮顕の遣り方と何と異なることか!

【論評に対する徳球執行部の反応】
 徳球執行部にとって、コミンフォルム批判は寝耳に水であった。国会に大量進出を果たし、例え流産したとはいえ「9月革命による 人民政権近し」という認識の下奮闘していた数ヶ月前からほどない時の「論評」であり、徳球書記長の面子丸つぶれの構図となった。

 1.9日、党中央委員会と統制委員会は、「党かく乱のデマをうち砕け」を早速に発表して対応した。
 概要「同志野坂に関するUPその他の電報は党の結束をかき乱そうとする明らかな敵の挑発行為である。我々がもし外国電報を信ずるなら、同志スターリンは、既に二十たび死んだであろうし、同志毛沢東は、十たび誤りを犯したことになるであろう。こうした挑発行為に対しては、 常に全党員はこの種の党かく乱の陰謀にいささかも惑わされず結束してたちどころにこれを粉砕しなければならない」。

 つまり、当初は「論評」をデマ視していたことが知られる。

【論評に対する中西功の反応と統制委員会の対応】
 「論評」が報道されると同時に中西功は、読売新聞その他に「コミンフォルムの批判はまったく道理に叶ったものであり、昨年来中央に批判を退出してきた自分の見解に合致する」という趣旨の談話を発表し、党中央のこれまでの指導責任に言及した。

 1.10日、統制委員会は、党撹乱者として即座に中西除名の手段を取った。「ブルジョア新聞」を利用して一方的宣伝をし、党の幹部を誹謗し、党内結束を乱したことが「党の規律違反」だとした。統制委員会名で次のように発表した。

 概要「中西功は1946年6月入党以来つねに反幹部活動を継続し、たびたび党規律に違反して明らかに分派活動を行うに至った。ここに我が党は党破壊者となり下がった中西功を党規約に従って除名するものである。最近の外電の報道を機として直ちに反動的情報網と結託して公然党の攻撃を開始し党破壊の挙に出た。党はこれらの反党活動を調査し、彼の反省を求めたるにも何ら反省の色を示さず、ここに統制委員会と政治局の合議に拠り党規約第53,54条に従って中西功の除名を行うものである」

 中西は、記者団にこれへの反撃声明を発表した。

【論評の党内衝撃が更に深化する】
 その後「論評」はスターリン直筆のものであるという仰天すべき事実が明らかになるにつれ、党内に更なる衝撃が見舞うことになった。この時「コミンフォルムの若僧何をぬかすか」と徳球が激怒していたと伝えられているが、当時ソ連共産党は世界の共産党を指導するというプロレタリア国際主義の原則があり、そのソ連共産党を指導するスターリンは、ソ連国内のみならず世界各国の共産党運動にあっても偶像的な英雄でもあり、当時の党員の感覚においては絶対服従の指令に他ならないものであった。

 この時の徳球の胸中はこうであった。戦後党運動はGHQによる解放でもって再開され、この時GHQ施政の枠内での党活動が容認されると云う一札が取られており、その中で懸命に党的発展を得てきた結果、次第にフラストレーションが高まりつつあったことは確かであった。2.1ゼネスト直前中止以降この思いは強まり、公然・非公然の二重組織の必要性を考えていた時期でもあった。こうした経過を理解せぬまま、いきなり頭越しに正規のルートを経ずして干渉的言辞を押し付けてくるとは何事か。


 こうして、一時的にせよ、スターリン指令と徳球指導部が対立関係に陥ることになった。今日的な認識においては「『論評』はその批判の方法において節度と慎重さを欠くものであった」(「50年問題について」)と云えるが、この当時の徳球の意識においてプロレタリア国際主義の原則の方が重かったものと思われ、政治主義的な対応を見せていくことになる。

【論評を廻っての緊急政治局会議】
 1.11日、「論評」の受け入れをめぐってあわただしく政治局会議が開かれることになった。この時の会議が大混乱することになった。この時の模様は次のようであったと伝えられている。徳球書記長は、真っ赤になってテーブルを叩きながら次のように述べている。
 概要「我々は、これまで直接、国際的な指導を受けたことはない。自主独立の立場でやってきた。日本としては、日本の事情がある。今のコミンフォルムは、ユーゴ非難しかやっておらん。そんなものの云うことを、まともに聞けるか!。我々は赤旗に、コミンフォルム論文の攻撃を掲載し、堂々と渡り合うべきだ」。

 これに対し、志賀.宮顕の二人が無条件受け入れを主張した。「共産党は、国際的な組織であることに値打ちがある。コミンフォルムの批判を、友党の批判として無条件に容認すべきだ」と主張し、党中央を揺さぶった。これに徳球.野坂.伊藤.志田.紺野の5名が反対した(長谷川は徳球派であったがこの時大阪に出かけており、欠席していた。当然のことながら徳球の方に付くので5が6になる)。政治局は戦後初めて原則問題で意見が割れることになった。

 三日間にわたる火の出るような討論を経て、徳球派が結局採決を制し、1.12日、中央委員会政治局は急遽、「『日本の情勢について』に関する所感」を、待ちかまえる内外記者団30余名を前に伊藤律が発表するところとなった。ここから党中央は所感派とも云われるようにもなる。「所感」は次のように述べている。
 「同士野坂の諸論文は、不十分であり、克服されなければならない諸欠点を有することは明らかである。それらの諸点については、既に実践において同士野坂らと共に克服されている」
 「日本における客観的並びに主観的条件は、一定の目的を達成するにあたって、ジグザグの言動を取らなければならない状態に置かれている。それ故に、各種の表現が、ドレイの言葉を持って現さねばならないときもあるし、また回りくどい表現を用いなければならないことも存在する。かかる状態を顧慮することなくして、外国の諸同志が、わが党ならびに同志の言動を批判するならば重大なる損害を人民ならびにわが党に及ぼすことは明らかである。この意味において、この論文は、日本におけるもっとも誠実な人民のための愛国者である共産党がいかに行動すべきかについて、充分な考慮をはらっていないことを、きわめて遺憾とする」。
 「論評の野坂批判の結論は、人民大衆の受け入れがたいものである。同志野坂は、もっとも勇敢なる人民の愛国者として大衆の信頼を得ている」。

 つまり、困惑と不快の情を吐露した上で、居直ってしまった。志賀.宮顕2名の政治局員、3名の書記局員が、この 「所感」に対しても反対した。
(私論.私観) 宮顕の立場「共産党労働者党情報局論評の積極的意義」について
 この時の宮顕の立場が、「共産党労働者党情報局論評の積極的意義」(1950.5.1日「前衛」第49号)に端的に述べられている。前衛誌上に掲載された5月頃の立場もこの時点の立場と何ら変わらないと思われる。次のように述べている。
 「我々は特に、同志スターリンに指導され、マルクス、レーニン、スターリン主義で完全に武装されているソ同盟共産党が、共産党情報局の加盟者であることを銘記しておく必要がある。このソ同盟に対する国際共産主義者の態度は、次の同志毛沢東の言葉によく表現されている。『ソ同盟は我々の最良の教師であり、我々は教えを受けなくてはならぬ』。単に共産党情報局は、一つの友党的存在であるという以上に、ソ同盟を先頭とする世界プロレタリアートの、新しい結合であり、世界革命運動の最高の理論と豊富な実践が集約されている」。

 この時の宮顕の立場と党中央簒奪後の「自主独立路線」との間には千里の道のリの齟齬がある。しかして、自己批判無しにいかにして整合し得たのだろう。宮顕の場合、理論は常に政治主義的であるので、過去の言説は容易に口ぬぐい出来るという癖がある。私はその由来を疑惑している。そう考えないと説明し得ないからであるし、この観点に立つことによって整合的に説明が付くからである。
(私論.私観) 「徳球所感」の自立性について
 この時一般のジャーナリズムは、「日共のチト−化か」、「民族主義の露呈」、「自主性の回復」などと捉え、徳球はさすがだという賛辞を呈する新聞もあった。今日「自主独立路線」は宮顕体制の十八番であるが、党が国際共産主義運動に見せた最初の自立的見解が「所感」であったとみなされる。そういう意味で「所感」は注目されるべき重要文書である。つまり、我が国の党運動の中で自主独立を最初に主張したのが徳球であったということであり、この時徳球はその栄誉を担っていたといえる。

 この経過は、徳球が自主独立路線の最初の執行部であったという事実を物語っており、宮顕体制の自主独立路線がこの経過を踏まえない限り党史の真実とはほど遠いものにならざるを得ないことを物語っている。事実、宮顕自身が、この時の国際派の立場について「私も含め、ソ連共産党やコミンテルンに対する事大主義から脱していなかった」(「私の五十年」)と認めている。

 大塚茂樹氏は、所感に対し、次のように手厳しく批判している。
 「この党内闘争の震源を徳田の人間的素質、その家父長的指導のみに求めるのは失当である.党組織がどれほど民主主義を体現してきたのか、占領下での革命運動は可能なのか、新たな冷戦下で組織をいかに維持し運動を発展させるべきか、そのことこそ問われていた。その点で組織が有効に対応できない機能停止状況、個人として、何を問い、何が問われているかについての思考停止状況、それが日本共産党の内実であった。最高幹部の指導責任は立場の相違を理由に免れるものではない」。
(私論.私観) 大塚茂樹氏の「正論」考
 しかし、れんだいこに云わせれば、大塚茂樹氏のこの「正論」は後付け論理でしかないように思える。この時点で問われねばならないことは、真っ向から対立している徳球派の所感派的対応と宮顕派の国際派的対応に対する氏の見解であり、ここを離れての一般的な批判は、それがよしんばいくら左翼的に為されようとも「単なる云い勝ち」的なものでしかないように思える。この種の安上がり批判が多過ぎる。

【党内の大混乱発生】
 こうした執行部の対応は火に油を注いだ形になり、以降「論評」と「所感」に対する対応をめぐって党内は大混乱に陥っていくことになる。徳球執行部の如何なる対応によっても党内の対立は解決されず、ますます混乱を深めていくことになった。コミンフォルムの指摘に従うべしという批判受容派(志賀義雄.宮本顕治)と苦悩する執行部派(徳田球一.野坂参三.伊藤律)とにまず分かれた。

 批判受容派は「国際派」と呼ばれ、執行部派は「所感派」と呼ばれた。国際派の理論的・政治的立場は後で見るように実に様々で、「右」から「左」まで多様であった。徳球党中央のセクト主義に反対すると言う共通項を軸にしての党内反対派の糾合であった。その他中間派、日和見派が百家争鳴する事態となった。

 ここを好機とするかの如く宮顕グループが勢いづき、もはや党の戦略方針の問題にとどまらず、徳球体制の戦後からの党指導全般に対する批判的な見直しへと論争が拡大していくこととなった。

【「志賀意見書」提出される】
 1.15日、最高幹部の一人志賀義雄は、論評と「所感」に対する意見書を提出した。これが「志賀意見書」として党内に波紋を投げかけていくことになった。「志賀意見書」は、前文で次のように述べている。
 概要「事態は重大である。これまでのやり方ではいけないと痛感している同志諸君も多いことと思うが、それ等の諸君の心配するところは、もしもここで党内の意見が分裂しては、党が一層ガタガタになるということである。だが『所感』は明らかに党指導部の右翼日和見主義が党にとって最大の危険になったことを示すものである。レーニンやスターリンは日和見主義の指揮権の下に統一を第一としたことがあったであろうか? 否、調停的立場を取る者を最も鋭く非難したではないか」。
 「同志諸君−恫喝と欺瞞に屈服することなく、我が党を革命的伝統の線に盛り返すために党を直ちにボルシェヴィキ化するために、一層努力すべき時がきた」。

 「志賀意見書」は明らかに徳球排撃の為の檄とみなし得る文言を連ねていた。徳球党中央の「自主独立路線化」に対して、次のように批判していた。
 概要「プロレタリア国際主義に則って闘うべきである。その運動の先頭に立つのはソ連であり、コミンフォルムであり、これらが偉大な役割を果たしている。それを、徳田たちは無視している」。

 徳球式党運営に対しても、次のように抗議していた。
 「党の官僚化を防ぐには、まず政治局が最も自己批判と相互批判とを実行する必要がある」、「党員の間で反対意見があったからとて、直ちにこれを排除するようなセクト主義は慎重に慎むべきである」。

 その他、、概要「コミンフォルム批判は日本共産党の戦後四年半の政治的組織的方針と活動を批判したものであり、自分も政治局の一員として重大な責任を負うべき」として自己批判していた。

 1.16日、中西グループは、党本部に前例のない抗議デモをかけるに至った。
(私論.私観) 「中西派の党本部への抗議デモ」について
 考えようによれば、徳球系執行部のこれを許容する組織論のしなやかさが評価されるべきであろう。党内に警察的治安維持体制を敷く宮顕系組織論では絶対に許されないことであろう。

【中共「人民日報」が、「論評」を支持し、「所感」を批判】
 1.17日、「人民日報」は「日本人民解放の道」という社説を掲げ、「論評」を支持するとともに「所感」を次のように批判していた。
 「日本共産党政治局は1月12日、野坂の犯した誤りは『既に克服されており』、コミンフォルム機関紙の批判は、日本共産党の立場を『十分に考慮』していないとして、この批判的論文の結論に同意しない旨を表明したことは、極めて遺憾である」。
 「(論評に対する)日本共産党政治局の見解ならびに態度は正しくなく、かつ適当でないことは極めて明らかである」。
 「日本の革命的人民の前衛である日本共産党は、人民に革命的精神を教え、これを団結せしめ、一歩一歩革命的たらしめねばならない。こうしてはじめてアメリカの占領と反動の支配とを終了せしめ、民主主義的日本を建設するという目的を実際に達成し得るのだ。これには近道は無い」。
 概要「共産主義者は戦術面において十分に柔軟性を持たなければならないが、しかしこの為に原則上の諸問題について基本的な立場を弛めてはならない。もしこの原則的な立場を失うならば、いわゆる敵をあやませようとする試みは反対に、人民大衆をあやまらせることとなろう」。
 概要「同志的な立場から、勇気を持ってコミンフォルムの批判を受け入れ、野坂の誤謬を訂正すること」。
 「日本の人民と中国の人民は友人である。日華両国人民は日本帝国主義とそれを支持するアメリカ帝国主義者という共同の敵を持っている。又両国人民は共同の友人を持っている。それはソビエト同盟と人民民主主義、又帝国主義に対して闘争を行いつつある全世界のプロレタリアート及び被圧迫人民である。従って、中国の人民は日本の人民の解放に非常な関心を持っている」。
 「日本共産党が敵との闘争に於いて示した勇気は日本人民ばかりでなく中国人民の尊敬をも勝ち得た。我々は同志として日本共産党がコミンフォルムこはんを受け入れ、野坂の誤謬を是正することに同じような勇気を示すことを期待している。我々は信ずる。唯この道によってのみ日本人民及び中国共産党の期待に沿うことが出来るのだ。唯この道によってのみ帝国主義者のかけたわなを避けることができるのだと」。

 つまり批判を受け入れるよう要請した。当時ソ連共産党.中国共産党は既に革命を勝利に導いた実績を持つ国際共産主義運動の二頭立て指導部であり、その君臨度は絶対的なものであった。かくして徳球執行部は内憂外患の苦悩に見舞われることになった。

 れんだいこの見立てるところ、問題は双方が、「論評」及び「人民日報」の提言を「受け入れるのか受け入れないのか」に矮小化してしまい、両忠言が指摘しているところの野坂理論批判に向わない理論的貧困にあった、と思われる。
(私論.私観) ソ.中国共産党の指導干渉に対する今日的評価について
 こうしたソ.中国共産党の指導干渉は今日次のように総括されている。
 「50年1月の コミンテルンフォルム論評を契機に、わが党内の意見対立が表面化しましたが、当時は まだ対立した両方の側に、マルクス.レーニン主義と、プロレタリア国際主義に基づく『自主独立』の立場が弱く、国際機関(注.ソ連共産党)や兄弟党(注.中国共産党)による論評や大国主義的干渉に対し、正しく対処できない弱点がありました」(「日本共産党の45年」)。

 れんだいこに云わせれば、「日本共産党の45年」のこの観点は「気の抜けたビール」のようなものでつまらない。

【新日本文学界の動き】
 1月のこの頃、新日本文学会の中央グループは、政治局の所感に対し、「コミンフォルムの『批判』と党の『所感』についての意見書」を提出している。この時期新日本文学会中央グループは宮顕系の立場を示していた。

 党中央は、新日本文学会グループのこの反党中央的態度に対する対抗策として、この年の秋頃より「人民文学」を創刊し、グループを旗挙げさせていくことになる。

【「第十八回拡大中央委員会」開催】
 1.18−20日、急遽「第十八回拡大中央委員会」が開かれた。政治局員8名、中央委員23名、同候補10名、統制委員9名、国会議員、地方委員会委員、各道府県委員長、各労組中央グループ執行部代表者など総計約200名が党本部に参集した。いかに党中央が重視した会議であったかが分かる。

 会議は、徳球書記長の報告で始まり、これに志賀が反対意見を述べたところから火蓋が切られ、この時の会議は激しく紛糾し討論が爆発した。先の政治局の対立が中央委員会の対立にまで拡大した。両派の間に延々5時間余の激論が戦わされた。戦後党史上初めての本格的な意見対立となった。

 この時徳球書記長は、「志賀意見書」を取り上げ次のように批判している。
 「この一般報告は、さる7日にできたものである。政治局員の全員が賛成した。当然、志賀君もそれを見ていた。承知していたはずである。その後に至って、志賀君が意見書を提出してきたというのは、一体どういうことなんだ!」。
 「志賀君の意見書によれば、党の指導部は、右翼日和見、ブルジョア民族主義と断定している。だが、今日までの党活動は、実際には誰がやったか。志賀か、我々か!」。
 「志賀君は、あさはかな文献主義者だ。書斎の評論家だ。政治局員の資格もなければ、コミュニストとしての良心もない!」。

 以上のように不快感を露わにして、志賀を攻撃している。れんだいこが付言すれば、この罵詈言辞を読み取れば、志賀の後ろで糸を操る宮顕に対する宮顕批判でもあったことが分かる。

 この時のことと思われるが、席上徳球は次のように述べたと伝えられている。
 「この批判を本当に受け入れるとなると、大変なことになるけれど、諸君は承知しているのか? 我々はアメリカの軍事力と直接に対抗する準備をしなければならなくなる。これまでのような甘い考えでは済まないぞ。我々には戦前の経験があるのだ」。

 つまり、コミンフォルム批判の受け入れは、他の者にとっては単なる理論問題としてしか捉えられていなかったが、徳球はそれの実践的問題として非公然体制に向けての対処が要請されていることを掴んでいたことになる。

 「所感」を支持したのは徳球球一、野坂参三、伊藤律、長谷川、志田重男、紺野与次郎、伊藤憲、春日正一らの「主流派」であった。「所感」を非としたのは志賀義雄、宮本顕治、神山茂夫、袴田里美、春日庄次郎、蔵原惟人、中野重治、亀山らの「非主流派」であった。

 両派の主張の違いは、「論評」の受け止め方とそれによる今後の方針にあった。徳球等は、平和革命方式を捨てれば従来の「民族戦線」と「人民政権」のスローガンの推進によってコミンテルンフォルム批判に応えうるとした。志賀等は、これまでの戦略戦術を根本的に一新し、対日本政府闘争に優先させてアメリカ帝国主義との闘争に取り組むことによってのみ批判に耐えうるのだとした。志賀は会議の直前に意見書を政治局に提出していた。そこでは徳球報告草案が反帝闘争をうたわず、内閣打倒運動を不当に重視している点でコミンテルンフォルム批判に違背している、という主張が為されていた。

 「非主流派」の底流には執行部を牛耳る徳球派の官僚主義に対する反発が渦巻いていた。結局、「人民日報」の社説「日本人民解放の道」が決め手となって、「論評」の積極的意義を認める全面承服決議「コミンフォルム機関誌の論評に関する決議」が満場一致で採択された。決議には「国際プロレタリアートの期待に酬いることに努力する」と書き込まれていた。志賀同志の提出した「一般報告草案にたいする意見書」は志賀自ら撤回することになった。

 大会は「単独講和反対、ポツダム宣言に基づく全面講和促進」を中心的な闘争課題として強調した一般報告を採択した。
(私論.私観) 「第十八回拡大中央委員会」の議論内容公開について
 「第十八回拡大中央委員会」の史的意義は、議論内容もさることながら議論内容の歴史的開示にこそ認められるべきではなかろうか。徳球時代の党中央の議論内容はかなり公開されているのに比して、宮顕時代になると全くと云って良いほど伝わらない。少なくとも議事録は作成されていると思われるが、案外それも怪しい。つまり、全く秘密のヴェールに包まれている。

【野坂の自己批判】
 野坂の責任問題が問われたが、依然政治局にとどまる形で実質的には不問とされ、1.21日、伊藤律が「同志野坂について」という声明を発表した。

 野坂は、「占領下平和革命」の誤りを次のように自己批判した。
 「要するに、私の理論は右翼日和見主義的の傾向をもったということができる。しかし私の偏向は、他の同士によって修正されて、党は、不十分と欠陥はあったが、大体において、基本的には正しい方針を持って進んできた」(「私の自己批判」アカハタ2.6)。
(私論.私観) 「野坂自己批判」に対する徳球の対応について
 野坂の自己批判は、「占領下平和革命」の誤りを中央が認めながら、野坂個人の責任に帰して党指導部全体の自己批判についてほおかむりしたことを意味していた。同時に面子も何もかなぐり捨てて党中央に居残ろうとする野坂の遊泳術を表現していた。野坂のかようなヌエ的な自己批判と正当化に対し、党中央は、これ以上問題にしなかった。この弱さが後々致命傷となる。これを徳球側から見れば、既に宮顕グループとの抗争たけなわの最中であり、執行部の責任処理問題と自己批判を曖昧にしてでも党中央の安泰を図ることに重点があったことを意味している。しかし、こうした乗り切り策は却って党内に不満をくすぶらせて行くこととなったと思われる。

【中西の自己批判】
 1.26日、経緯は不明であるが、中西は自己批判し、参議院議員の方も辞任している(「参議院議員辞職に当りて」)。党幹部の誤った方針や官僚主義と闘ってきたことは正しかったが、「国際的批判が出て以後の私の取った行動は誤っていた」として、自分の軽率さを反省、「私の誤りは、国際批判の偉大さを正しく評価し得ず、極端な反幹部派的派閥主義に陥り、反動勢力の反党宣伝に利用された点である」とし、「共産主義者としての政治的進退を明らかにする為」参議院議員を辞職した。

【その後の党運営】
  こうして党内は執行部派と反対派の軋轢が深められて行った。執行部派は、「『所感』に批判的意見をもつ指導的幹部に対する無原則的な監視と排除の活動を強め、主に伊藤律がその任務に当たった。伊藤律は、中央機関紙の編集責任者の地位を徹底的に利用活用した。早速手がけたのは、「志賀意見書」問題であった。党内に配布された経過の解明と責任を摘発していった。

 この時の伊藤律の対応が、国際派系から「その方法は派閥的なやりかたで行われ、党内の不団結を助長した」と総括されている。「長谷川は、徳田と伊藤から志賀をおとせ」と指示された。関西地方委員会で志賀の失脚をはかったが失敗した。志田は、原田長司に中国地方委員会で志賀排撃をするよう画策したが拒否された。山本斉は、伊藤から宮本を敬遠するよう要請された。保坂は、伊藤から春日(庄)を監視するよう命ぜられた。神山らも監視された、と伝えられている。留意すべき点は、一切の分派活動の精神的支柱に「志賀・宮本ライン」があるとして、両名に対する監視態勢が敷かれていったことである。
(私論.私観) この時の徳球執行部の対応について
 もしこのとき、徳球執行部が戦後指導の全般的な見直しについて全党の討議を組織し推進していたならば、その後の党の在り方は決定的に違ったであろう。例え、宮顕系他の執拗な敵対が惹起しようともやり抜くべきであった。結局臭いものに蓋をして安易な乗り切りを選択した感がある。 

 但し、この時の対応で、志賀−宮顕系国際派の対応を是として、徳球指導部のそれを非とするのが今日に至る左派系譜(旧左翼も新左翼も!)のメジャー見解であるが、れんだいこ史観は違う。ちなみに、新左翼の理論的腐敗はこの辺りの観点の変調さに起因しているとみなしたい。仮に、徳球執行部を批判するにも、その観点を志賀−宮顕系国際派批判をも併せて行わねばならないであろう。れんだいこの知る限り、この対立に際しては志賀−宮顕系国際派の対応を支持するという立場に終始している。これは断じて容認できない左派的観点の重要な目線問題であると考える。

 徳球が前衛47号で、「(論評は)党の全政策が決定的誤謬を犯していると論じているのではない。言葉を代えて言えば、党の一切の政策並びにその実行が根本的に誤まっていて、どうにもならないというのではない」とした見解はその通リであるとしたい。志賀−宮顕系の批判は、論評の尻馬に乗ってする執行部簒奪的な挑発であり、同志的な建設的意見の闘わせ方ではない。このことは、後に論評で批判された側の徳球系所感派の方がソ共のスターリン、中共の毛沢東に支持され、論評を支持した志賀−宮顕系国際派の方が底なしの分派活動として断罪された史実経緯で明らかにされる。

【社会党内青年部運動で左右両派が対立】
 1.14日、社会党の青年部全国大会が開かれたが、「独立青年同盟」(独青)問題を廻って非難が巻き起こった。@・同組織に加盟している党員の除名、A・片山委員長の不信任が決議された。これを解説すると次のようになる。社会党青年部は2年前の48年末に社会主義青年同盟(社青同)を結成していた。これに労働組合民同派が大量入党し勢いを得ていた。党側では、加藤宣幸、大柴滋夫、森永栄悦ら、労組側から岩井章、宝樹文彦らが指導し、左派勢力の行動隊として台頭しつつあった。この社青同に対抗する形で右派系の「独青」が結成された。「独青」は、「マルクス主義の上に立つ偏狭な階級政党化に反対」、「勤労大衆の生活と自由の防衛、祖国の復興、民族の独立」を旗印にしていた。これを木下淳義、山崎礼二、伊藤栄治らが指導し、党本部内で社青同派と睨みあうことになった。この対立の延長線上で青年部全国大会が開かれ、先の決議をしたことになる。これが社会党第5回大会の冒頭で問題視されることになる。

【「社会党第五回党大会」開催】
 1.16日、社会党第五回党大会が開かれた。労働運動内での民同左派と民同右派の対立が持ち込まれ、民同右派の組織した愛国主義的な独立青年同盟をめぐって左右両派が対立し、冒頭から大混乱となった。議長席で揉みあいが頻出し、平静な論議ができるような状態でなくなった。こうした動きを見て、片山委員長が会場から姿を消した。「片山声明」が為されたが、右派寄りのものであり、到底左派を納得せしめなかった。右派は大会中止を要求したが、左派が続行を主張し、混乱のうちに議事が進められたが、大会最終日の1.19日、右派が総退場するという事態を招き、社会党は結党以来4年2ヶ月で組織分裂することとなった。

 それぞれが別途に会議を続行して役員を選出した。左派(本部派)は、委員長を空席とし、書記長に鈴木茂三郎、会計に和田博雄、20名の執行委員を選出した。右派(正統派)は、1.19日、「正統派社会党大会」を開いて、概要「党内には社会党をマルクス主義に立つ大衆政党化することをもって、党再建の中心目標と考える傾向が存在する。かくのごときは、凡そ社会党そのものの存在理由を自ら抹殺して、第二の共産党に転落せしめるものである」という非難決議を採決している。社会党を没階級概念的国民政党へ導きつつ政権にありつこうとするのが右派の立場であった。

 これに対し、左派は、中央委員会を開いて、1.20日、概要「社会民主戦線の妨害者は去った。今や我々は再建を完了し、共産党と明確な一線を画して、民主的労農組合と強力に結びつき、社会主義革命の前進を開始する」と声明し、社会党本部派と称することを決めた。右派の没階級概念的国民政党化、政権至上主義を堕落とみなして、左派の旗を堅持するというのが左派の立場であった。この時中間派も生まれ、水谷長三郎がその任についた。

 1.21日、社会主義労働党準備会、すなわち山川新党は左派と合流すると声明した。

【徳球執行部が宮顕を九州へ左遷する】
 1.26日、批判者グループの頭目であった統制委員会議長兼政治局員宮本顕治を九州地方党組織(福岡)に左遷した。宮顕グループの反対にも関わらず政治局の多数決採択により「九州地方議長としての長期派遣」を決定した。この時点では執行部の徳球グループの方が優勢であったと云うことである。宮顕の「私の五十年」は次のように記している。
 「私は政治局員であると同時に統制委員会議長を兼ねていたが、1950年1月末、九州地方の指導に長期に赴け、ということが徳球から提案された。政治局の討議の上、多数決で決定された。私は不同意であったが決定には従った。同時に中央の団結が破壊される危険を一層強く感じた」。

 統制委員会の宮球の後がまには、統制委員会議長代理として椎野が座った。椎野の下で統制委員会は、反対者の行政処分や官僚的な排除工作を加速させていくこととなった。

 徳球.伊藤律らは、宮顕を九州へ飛ばした上でなおかつ宮顕の関与しない党機関を九州につくった。つまり、地方党機関としての九州には宮顕の関与する正式な党機関外に徳球派ルートがつくられたということになる。これは機関運営上問題となるが、後述するように徳球が宮顕のスパイ性を疑っており、時局柄止むを得ず取った変則であった。

 その他志賀は関西に、神山も市民対策部長から退けられた。春日庄次郎を労働組合対策部長のまま休養を命じる。後には亀山幸三を財政部長から罷免した。党内危機の進行に応じて、徳球派はますます自派固めに向かい、党内反対派の駆逐に向かっていったということになる。


 3月頃、徳球は病気で寝ていた。亀山が見舞いに行き、「志賀、宮本と協調してやって欲しい」という意見書を渡したところ、徳球の怒りは凄まじく、起き上がりざま意見書を叩きつけて、「あいつらが何を考えているのか、お前等に分かるもんか」と大声をあげたと伝えられている。 
(私論.私観) 「宮顕の左遷と徳球派直系ルートの創出」について
 当然のことながら宮顕の九州左遷は、徳球と宮顕の熾烈な抗争ぶりを明らかにしており、執行部を掌握する徳球の権限の強さを示すものである。なお、徳球執行部が宮顕を九州左遷したのみならず、この地において徳球派ルートを創って重要案件を処理しようとしていたことの意味は重大である。反徳球派から見れば、徳球派が「分派的指導ルート」をつくったという異常事態であるが、かくも抗争が頂点に達していたということと、宮顕グループを単に方針、路線の違いの域を超えて確定的に「スパイ集団.攪乱者」とみなしていたということでもあったとしか考えられない。

【野坂の自己批判】
 2.6日、アカハタは、野坂の「私の自己批判」を掲載。論文は、次のように結んでいた。
 概要「国会を通じて政権に近づくという考え方は、マルクス.レーニン主義の原則から逸脱しており、革命は権力の問題で、権力は階級的であると共に武力によって裏付けられている」。
 「我々は、国際的革命運動の一翼である日本共産党に課せられた重大な任務を果たさなければならない」。

【米国で、マッカーシー旋風(赤狩り)が始まる】
 2.9日、マッカーシー(共和党)アメリカ上院議員が、「アメリカ国務省に57人の共産党員がいる」、「中国の喪失は、国務省に入り込んだ共産主義者の陰謀である」と演説。これにより、マッカーシー旋風(赤狩り)が始まり、国務省内の赤色分子200余名が追放処分された。その他多くの知識人、科学者、文学者が犠牲なった。反共運動組織として非米活動委員会が創られ、大学のある地域を廻っては共産主義者やその協力者を公にする活動を繰り広げた。委員会に喚問して、偽証があれば重い罪に問う遣り方で該当者を追放していった。
(私論.私見) 「マッカーシー旋風(赤狩り)」について
 「マッカーシー旋風(赤狩り)」を批判的に語る見地が一般的であるが、「マッカーシーの指摘の当否判断」が為されねばならないのに真相は明らかにされていない。れんだいこは、この問題の根は深いと考える。いわゆる国際金融資本帝国主義論を介在させれば、マッカーシー議員の真意は「赤狩り」ではなく「陰謀狩り」だったと思われる。これを「赤狩り」に向かったのがマッカーシー議員の限界だったと思われる。

 ちなみにマッカーシー議員のその後は悲劇だった。上院での不信任とその後に巻き起こった批判はマッカーシーに怒りと落胆をひきおこし、身体を蝕んだ。1957.5.2日、マッカーシーは急性肝炎でベセスダ海軍病院で死去した。上院の議場で告別式が催され、当時はまれな国葬の栄誉をあずかった。聖マタイ大聖堂はカトリック教会として与えられる最高位をマッカッシーに与え、マッカーシーの棺が安置されたワシントンの葬議場の外には、早朝から深夜まで弔問に訪れた市民3万人が列をなした。ウィスコンシン州アップルトンのセントメアリー墓地に葬られた。妻のジーンと養女のチィアニーが後に残された。「マッカーシー旋風」のみでなく「マッカーシーの悲劇」も研究すべきではなかろうか。

 2006.4.13日 れんだいこ拝

【「徳田要請問題」勃発】
 2.12日、抑留引揚者のグループ「日の丸梯団」は日本帰国後のこの日、徳田球一が引揚を妨害したとの主張を行った。その根拠となったのは抑留中、ソ連の政治将校が自分たちに対し「徳田球一がソ連政府に対し共産主義者以外と反動の抑留者は日本に帰国させるなと(書簡で)要請した」という主旨の講話を行ったというものであった。この件は政府やGHQに告発され、当時レッドパージなど共産主義者や左派の運動に対する当局の弾圧が強まるなか、共産主義者攻撃の格好の材料とされ、政治問題化した。

【中ソ友好同盟相互援助条約締結される】
 2.14日、中ソ友好同盟相互援助条約締結。中国側は首相兼外相の周恩来、ソ連側は最高幹部会全権代表アンドレイ.ビシンスキー。その第一条には、「締結国の一方が日本もしくは日本と同盟する何れかの国の攻撃を受けたときは、他方の締結国はその使用しうる一切の手段を以って軍事的その他の援助を与える」と明記していた。中ソの蜜月時代であった。

【GHQ指導による旧軍復活の動き】
 2月頃、GHQのアドバイザー・有末精三と旧日本軍幹部である河辺虎四郎元陸軍中将・終戦時参謀次長が、毒ガス隊、機関銃隊、戦車隊からなる近代装備の警察軍構想を立案した。この動きは強まり、1951年になると、宇垣一成元大将陸相を最高司令官、河辺虎四郎を参謀総長とする旧軍復活の軍組織の設立に向った。この経緯にGHQの参謀2部(G2)が関与しており、「日本の地下政府」と看做して操っていた。(2,006.8.20日、機密指定解除により、米国立公文書館で関係資料が発見された)
(私論.私見) 「GHQ指導による旧軍復活の動き」について
 警察予備隊創設の裏側で、旧軍復活の動きが為されていたことが判明した。結果的に、陽動作戦として利用され、吉田政府に圧力を掛け、警察呼びたい創設に向ったことになる。歴史の裏面であろう。

 2006.8.22日 れんだいこ拝

【自由党結成される】
 3.1日、民主自由党、民主党連立派と合同し、自由党を結成。総裁吉田茂。この時、次の綱領を決定し発表した。

講和会議を促進し、日本民族の平和的独立を期する。
文教を充実し、国民道徳の高揚を期する。
共産主義を排撃し、民主政治の確立を期する。
健全なる自由主義経済を基調とし、労資提携して経済の復興を期する。
産業を振興し、社会政策を実行して、国民生活の安定向上を期する。

【池田蔵相発言が物議を醸す】
 池田蔵相が「中小企業の一部倒産もやむを得ない」と発言、問題化。その詳細は次の通りである。この日池田は、国会内の記者会見で、緊縮予算の影響を聞かれて、こう述べた。
 「中小企業の経営が最近厳しくなったことは認める。しかし、一度は通らなければならない関門だ。信用が無くて銀行から金を借りられないのは経営者の責任で、政府の責任ではない。その為企業がつぶれても仕方がない」。
 「5人や10人倒産し、自殺してみても国民全体の数から見れば、大したことではない。今は企業の整理期で財政事情を変える時ではない」。

 野党の社会党や民主党は一斉に反発し、4日の衆院本会議に池田蔵相兼通産省の不信任案を提出。与党自由党内にも責任を問う声があったが、吉田はこれを抑え、不信任案は否決された。池田はこの後も、衆院予算委で米価に関する質疑の中で「所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に沿ったほうへ持っていきたい」と答弁、これが「貧乏人は麦を食え」との放言第二弾となった。(読売新聞2000.7.31日「20世紀政治の言葉24」)

【全学連中央が「全学連意見書」を提出】
 3月、全学連中央が、「最近の学生運動」という論文を党中央に提出した。これを「全学連意見書」という。この意見書は、宮顕統制委議長の「ボルシェヴィキ的指導」を賛美し、野坂.伊藤律などの所感派の指導を批判していた。全学連中央が国際派の頭目宮本と呼吸を合わせていたということになる。付言すれば、この時国際派宮顕系は、一見「左」的な反米闘争を志向させようとしており、これは徳球系党中央の吉田内閣打倒方針に対する「左」からのすり替えであったが、この当時の全学連中央は、この国際派宮顕系の「左」性を評価し党中央に叛旗を翻すことを良しとしていた。 

【この頃の学生運動、全学連指導部は国際派に与する】
 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動第2期」に記す。

 この間全学連は、何回かの全国的闘争を経て全国主要大学の隅々まで組織化していくことになり、この経過で東大・早大・京大らの学生党員グループがその指導権を確立していったようである。全学連は、次第に青年運動特有の急進化運動を押し進めることになり、徳球執行部への反発と批判を高めていった。ただし、同時に50年以降の党の所感派と国際派への分裂の煽りを受け、全学連指導部もまた所感派と国際派に分裂していくことになった。武井委員長ら全学連中央グループ指導部は、この時国際派の系列についた。つまりこの時点では宮顕グループと親しい関係にあったというこ とを意味する。3月、長文の「意見書」を党中央に提出し、徳球系執行部のこれまでの学生運動に対する指導の誤りを痛撃している。

【中西篤編「中内功意見書」出版される】
 3月に入って、中西功の弟篤は、「この公開によって起る全ての責任は私個人が負うものである」との立場から中西功が前年9月に執筆した意見書を修正、補筆の上、高田書店から出版している(中西篤編「中内功意見書」)。こうして公然と分派闘争を開始することになった。後に機関紙「団結」を発行し始めたことから「団結派」と呼ばれるようになる。

【「志賀意見書問題」で処分が続く】
 この間党内を揺るがした事件として「志賀意見書問題」もあった。これは、第18回拡大中央委員会に中央委員の志賀が提出した意見書が渋谷地区委員会のアカハタ分局長・宇田川恵三によって公然と配布され始め、党内の混乱を加速させていくことになったという事件であった。意見書には「徳田書記長を追放せよ」との前書きが付けられていた。

 統制委員会は、3.14日、宇田川に対して活動停止処分、3.30日、除名処分を行うと共に、志賀を問責した。志賀は厳しい追及を受けるた結果、「アカハタ」紙上で自己批判を余儀なくされた。とはいえ、この後志賀意見書に拠る分派活動が活発となり、全学連その他から意見書が続々提出されることとなった。

 興味深いことに、結局この「志賀意見書」全文が4.26日付けアカハタに掲載されている。このグループは、杉並地区委員で哲学者の野田弥三郎らを中心にして「国際主義者団」を結成していくことになる。正式な結成表明は7月であるが、既にこの頃から公然と分派活動を開始していた。

 紺野が次のように志賀批判を展開した。
 「私は以上によって『志賀意見書』が、その政治的本質において『中西意見書』と同一傾向のものであると断言してはばからない。そして、これをかつぎまわって分派的に行動している者の実践も、全く中西功一派と同一傾向であり、トロツキストの行動である」。
(私論.私観) 「志賀意見書」全文の4.26日付けアカハタ掲載について
 「志賀意見書」全文の4.26日付けアカハタ掲載は、徳球党中央の評価されるべき公正さであるように思われる。宮顕時代になるとこういう作風は見られない。
(私論.私観) 椎野の志賀批判論文におけるトロツキスト呼ばわりについて
 こうして先の中西功批判の際に続いて、志賀に対しても「執行部反対派に対するトロツキスト呼ばわり」が登場していることが注目される。

 宮顕は、「前衛(4月号)」で、「コミンフォルム論評の積極的意義」を発表し、コミンフォルムは偉大な同志スターリンの指導下にあるのであるから、無条件で支持すべきである、と論じている。

【講和の形式論議沸き起こる】
 講和条約締結の方式として、社会主義国のソ連.中国を含むものを「全面講和」、アメリカを中心とする同盟国群の間に締結するものを「単独講和」と称して論議の的になっていった。冷戦下の影響であった。「単独講和」は却って新たな戦争の危機をもたらすことが危惧された。「平和問題懇話会」に錚錚たる学者が結集し、「全面講和」を支持した。「単独講和」論者は、占領下からの自治の回復の利点を説いた。

 
講和会議が予定されているサンフランシスコにおいても、アメリカを代表とする自由主義諸国、ソビエトを代表とする共産圏諸国、第二次世界大戦で被害を受け日本の軍国主義復活を恐れるアジア諸国が、それぞれ対日講和条約の方式をめぐって微妙な駆け引きを始めていた。アメリカは日本の講和問題を、極東委員会構成11カ国の多数決方式によって解決し、早期に西側陣営に取り込もうと目論見、ソ連はこれを、米英中ソ4大国の協議で解決し、4大国はそれぞれ拒否権を持つべきだと主張し、暗礁に乗り上げていた。講和後の日本占領軍撤退及び外国軍隊の日本駐屯禁止条項を廻っても鋭く対立していた。
 

【総評の結成準備大会】
 ワシントンの国務相極東局労働担当官サリバンが急遽来日し、2.22日、国鉄、全逓従組、日教組、総同盟、炭労、全鉱などの組合代表と会見し、2.24日、マッカーサーを交えた「御前会議」で新たな統一組合機関として「総評」の結成を決定した。次のように宣言している。
 「日本の労働組合の統一は、日本の国際的立場を離れて考えられない。しかも情勢は緊迫している。時間が問題である。3年も、4年もたって大衆の成長の上に統一するようなことは待っていられない。‐‐‐日本の労働運動指導者の中に有能な人が多いとは思わない。だから、統一は上から進めなければならない」。

 3.11日、総評結成準備大会開催。その基本綱領で、概要「労働者の生活は、生産力の充実と資本主義社会の繁栄によって確保されるものであるから、『労働組合の経済活動は、全て建設的に行わなければならない』」。他方で、「特定の条件のもとでは、労資協同の行動は存在しうるが、これは労働運動の一般的原則とすべきではない」と玉虫色にしていた。

 この動きに対して、共産党は、メーデー.スローガンの中に「国際帝国主義の手先=国際自由労連反対、その下請け=売国総評粉砕、悪質民同分裂主義者の追放」を叫び、全労連は、「独占資本の手先として、労働者の前にたち現れている総評幹部」と呼び、「労働者をファシズムと戦争に売り渡すもの」と批判している(5.13日「全労連情報」)。

【徳球が「徳田要請問題」で証人喚問される】
 3月、「徳田要請問題」で、徳球が3月から4月にかけて衆議院と参議院の各委員会で証人喚問された。これに関連し抑留時、ソ連将校の講話を通訳していた哲学者の菅季治は、「要請」について否定も肯定もせず、「将校の講話は、徳田の言葉の引用について、『反動分子としてではなくて、よく準備された民主主義者として帰国するように期待している』というものであった」という内容の手記を参議院に提出した。共産党機関紙アカハタはこれをもって「徳田要請は否定された」とした。但し、菅は、この件で共産党に対し抗議した。

 4.5日、菅は、衆議院に証人喚問され、「『要請』というロシア語を(恣意的に)『期待』と訳したのではないか」と厳しい質問を浴びた。菅が共産党のシンパである如く質疑し、証言が信用できないことを印象づけた。翌日、管は、鉄道に飛び込み自殺した。菅の悲劇的な自殺事件は社会的に大きな反響を呼び、木下順二がこの事件をテーマとする戯曲「蛙昇天」(背景も含めすべて蛙の世界の出来事に置き換えたもの)を書いている。

【 「民主民族戦線政府」の樹立アピール】
 3.22日、中央委員会は、「民族の独立のために全人民諸君に訴う 中央委員会アピール(民主民族戦線綱領)」を発表した。次のように記されている。
 「われわれはポツダム宣言にもとづく公正な全面講和が一日も早く締結されることを要求し、完全な主権の回復と、講和締結後すみやかに全占領軍が撤退することを要求し、民主民族戦線政府の樹立をめざす」。
 「真に国の独立と平和をと安全を望むならば、日本を隷属化し、そして世界戦争体制にまきこみつつある帝国主義と、これに奉仕する国内の売国政府の政策に対して、全愛国者は、世界の平和勢力と提携しつつ、全力をあげて反対し、闘争しなければならぬ。これ以外に、わが民族の生きる道はないのである。全国の愛国者諸君! われわれは何よりもまず、ポツダム宣言に基づく祖国日本の民主化と非軍事化と主権の完全な回復と、諸民族間の強固な平和を心から望むものである」。
「それゆえに、労働者を先頭として、農民、漁民、知識人、中小商工業者、民族資本家、その他あらゆる愛国的人々に、その政治的見解や政党所属や信教の差別いかんにかかわらず、日本民族の独立をおかす帝国主義勢力と、これに結合する国内の反動勢力に対して、ともに戦われんことを呼びかけるものである」。

 このアピールに対して、志賀グループは「民族主義者の欺瞞」文書を配布した。明白な分派活動であった。椎野は、「同志志賀提出の『意見書』を中心とする策動について」(「アカハタ」4.15)を発表して、「これらトロツキスト的破壊分子を徹底的に粉砕しなければならぬ」とアピールした。

 4.24日付けアカハタに、紺野与次郎の志賀批判と志賀自身の「全党の同志諸君に『自重』を訴える」を附して「志賀意見書」が掲載された。先行して志賀意見書が読売にスクープされており、党として無視できなくなったという経過があるようであるが、後の党中央の宮顕式ではありえないことを思えば、徳球党中央の公明正大さを見て取ることもできよう。

 紺野の志賀批判は、@.志賀の態度は、傍観者的で不確実である。A.志賀は、非難はするが、現在の具体的条件の中で、如何なる闘争を展開していくかの具体的政策は一つも示していない。B.党と党指導部の不十分と欠陥を誇張して党内に混乱を発生させ、反幹部闘争を激化する危険がある、などの諸点を指摘して、志賀を中西と同一だと断じ、「ブルジョア民族主義」のレッテルを貼っていた。「私は以上によって『志賀意見書』が、その政治的本質において、『中西意見書』と同一傾向のものであると断言してはばからない。そして、これを担ぎまわって分派的に行動している者の実践も、全く中西功一派と同一傾向であり、トロツキストの行動である」。

【徳球執行部党中央派の反撃】
 徳球執行部は、「第十八回拡大中央委員会」で一応の自己批判をしてみせたものの事実上「所感」を弁護する活動をとり続け、逆に人事面では「徳田書記長の家父長的個人中心指導を推進し」、「批判者に対する官僚的抑圧を強め」、「批判者を敵視し、これを排除する態度を強めた」。

 「第十八回拡大中央委員会」会議後、徳球派は、人事攻勢で反撃し予想される「非主流派」との抗争に備えた。「GHQ」の指令で追放された政治局員金天海の穴埋めに白川晴一を起用した。書記局も増員して、徳球派8名(徳田.野坂.志田.紺野.白川.竹中.松本三益)、「非主流派」3名(亀山.袴田.春日庄)の比率に、更に「書記局協力者」として西沢隆二.椎野悦郎の二人の統制委員を指名する等して乗り切りを図った。この結果、中央における徳球派の優勢は更に増した。

【この当時の各グループの主張
 問題を更ににややこしくしたのは、日本革命の展望を@.民主主義革命におくのか、A.民族革命も含めるのか、B.社会主義革命におくのか、C.自主性はあるのか、D.国際主義でいくのかを廻って口論乙論が飛び交うことになった。まさに革命に一番接近した時点で理論的諸問題が噴出し、党内の分裂を促進させていくこととなったのである。

 基本線を要約すると次のようになる。所感派.国際派とも、現段階における党の任務を「社会主義革命への過渡的段階である人民民主主義革命の達成」としており、国内権力関係の分析でも「国際独占資本の支配下に、国内の独占資本、天皇制官僚警察、残存地主というトロイカが従属している」という認識でも一致していた。但し、トロイカ関係の打倒対象の力点が違っている。

 その革命達成方法論において、所感派は大衆の民族意識を盛り上げつつ、「まず国際独占資本に従属している国内の権力機構の打倒」を優先していたのに対して、国際派は、民族の独立を妨げている外国帝国主義の打倒こそ優先されるべしとしていた。もう一つ、ブルジョワ民主主革命達成後の社会主義への転化に対して、所感派は急速論であり、国際派の見解は7者7様々でどちらかというと漸次的に目指す論にシフトしていた。

@・党中央所感派
 党中央グループで、徳球派、伊藤律派、志田派、野坂派等々から構成されていた。
A・「国際派志賀G」
 このグループの大物党員としては、志賀.野田弥三郎.宇田川.高橋秀雄.成冨健一郎(東京都選對部長).姉三郎、関西の下司順吉らが知られている。志賀の対応の様が面白いといってはなんだが徳球−野坂体制に対する反発が底流にあったことは想像するに難くない。野田グループは、「18中総」の諸決議に反対し、本部労対、労働組合グループ、国会秘書団の一部を結集して明白な分派活動に乗り出した。

 「国際派」志賀グループの主張は、「民族主義者の新しい欺瞞について、その民主民族戦線へのアッピールへの批判」と野田弥三郎の「党の統一を単なるお題目に化してはならない」(51.1.28)によれば次のようなものであった。「党の統一を実現するための唯一の正しいマルクス主義道はどのようなものでなければならないか」という見地を確立する必要があり、その答えは、「党がマルクス.レーニン.スターリン主義の国際共産主義戦線の旗の元へつまりプロレタリア国際主義の見地に立たねばならない(要約)」ということである。徳田−野坂執行部の政治理論は、「簡単に改められるような単純あるいは偶然の誤謬ではない」のであって、「ブルジョア民族主義」に依拠する「 右翼日和見主義」であり、「民族主義者のアピールは、あいかわらずの帝国主義占領者の美化の理論である」、「彼らの立場は、奴隷的議会主義であり(要約)」、「彼らは、なお占領軍に民主的側面を期待している (要約)」という間違いを犯している。


 徳球−野坂執行部の組織理論は、「党内に徒党をつくって民族主義の根を張り、指導機関を独占して党内民主主義をふみにじって」きており、徒党的、官僚的組織を形成している。「全党的討論の抑圧、最近死物狂いではじめた細胞グループの解散、機能停止、除名、党活動の制限、人事移動等によって証明される」。党内の分派グループに対する攻撃が為されつつあるものの「外見上強く見えても日々腐敗しつつあり、大衆の支持を失って破滅しつつある」。

 但し、「国際派」志賀グループは、宮顕系の「全国統一委員会コース」を志向する中道派に対しても次のように非を告げていた。「党の統一を無原則的大同団結とすりかえたり、党の規則を日和見主義者への屈服とすりかえることは何ものにもまさる階級的裏切りであり、かかる妥協政策は党内にスパイや民族主義者をはびこらせ、党をますます混迷に導いて、破滅させるのみである」、「いかなる場合にも中道主義は許されない」。
B・「国際派宮顕G」
 このグループは後の経過から見て宮顕系と春日(庄)系から構成されていた。宮顕系は、宮本・蔵原・袴田・遠坂・原田らで、中国地方委員会、新日本文学会、全学連グループ他や純インテリ・グループを擁していた。春日(庄)系は、春日(庄)・亀山・増田らであり、関西地方と労働組合グループに支持者を持っていた。
C・「中西功派」
 この時期「中西功一派」も独自の分派活動を見せており、彼らは、日本の国家権力を「国際独占資本と日本独占資本との二重的結合」であると規定し、社会主義革命を志向していた。今日的観点からすれば大いに評価される視点を有していたものの詳細が判らない。

 労働調査協議会と全自動車労組本部、日産自動車細胞、古在由重、佐藤昇らが参加していた。
D・「神山茂夫派」
 神山茂夫、豊田四郎、浅田光輝、小山弘健、渡部徹、茂木六郎、中村秀一郎らのイデオローグ及び日本経済機構研究所(東京)、社会労働研究所(大阪)が神山グループとして結集していくことになる。他に、寺田貢、内野壮二・神山利夫などの戦前からの古参の者、東京の林久男や新井吉生・栗原幸夫、静岡の森一男、アカハタの発行名義人になっていた原田龍男、早稲田系の大金久展らが集う。

 「50年分裂」期には、「反党中央(徳球−伊藤律執行部)、非宮顕」系としての中間派の立場に立つ。
E・「統一協議会G」
 福本和夫ら。

 こうして日本共産党内の「50年分裂」は、全党的規模で公然化し、抜き差しなら無い抗争へと激化していくことになった。
(私論.私観) コミンフォルム論評の無能性について
 こうしてコミンフォルム論評は日本共産党の大分裂を招いたが、当時の徳球党中央の基盤の危さに対してあまりにも無見識であったことが分かる。野坂理論の誤りを指摘するその観点は確かに指摘通りであるが、徳球党中央が宮顕グループとの非妥協的な抗争下に入っていたことを思えば、野坂運動の総括は秘密協議にせよ何らかの公党間処理が賢明であったのではなかろうか。論評が宮顕グループを一方的に加勢し、為に党中央の分裂→宮顕グループの党中央奪権に帰着したことを思えばその観が深い。つまり、ソ連共産党の情報戦の弱さ=失政として考えられる。

 3.27日、吉田内閣が、特別治安立法として「破壊活動防止法案要鱗」を発表する。

【 徳球病状露見する】
 3月末、徳球書記長は、精密検査の結果あと4年の寿命と診断される。診断は慶応の北沢医師によって行われ、このことは立ち会った極少数の幹部(伊藤律・野坂・志田・西沢)以外守秘措置する。 

【徳球執行部による新方針提示/「第十九回中央委員会総会」】
 4.28−30日、「第十九回中央委員会総会」がひらかれた。この総会の眼目は、党の分裂の危機にどう対処すべきかにあった。党内の混乱と党非合法化の危険をはらむ緊迫した情勢の中、徳球執行部は党の闘争方針の見直しに懸命となった。

 「当面する革命における日本共産党の基本的任務について」が党内に配布された。これが「戦略戦術に関するテーゼ」(50年テーゼ草案又は徳田草案)と称される重要文書となる。この草案は書記長名の論文という形式をとっており、徳球執行部の渾身の力を込めた闘争戦略見直し提案であり、党内問題の様々な分野に言及した長文であった。徳球は、これを基礎に全的討議を呼びかけた。これが踏み絵として党内に配布された。

 この時徳球は病魔に侵されており、最後の気力をりしぼっての戦いとなった徳球は、綱領草案を提出するに当たり、概要「この秋に党大会を開く予定であり、これは秋の大会に提出する草案の、そのまた草案であり、この草案の根本問題に対する中央委員の反対意見がある場合は、どんな少数の反対であっても、これを公表する。各党機関並びに、各党員の意見も、重要と認められる場合は、アカハタ、前衛その他の方法で発表する」と確約していた。

 しかし、反対派は、これは先の「第6回党大会」で決定された綱領起草委員会を経由して提出されることなく、徳球が起草委員会にも政治局にもはからないで提出した書記長私案であるとして、内容以前の形式においてこれを攻撃した。なるほど党及び中央委員会の民主的集団的運営の原則に照らして変則であったが、それほどまでに対立が激化していたということであった。


 志賀.宮顕、神山、蔵原、亀山幸三、袴田、春日庄次郎、遠坂良一等はテーゼ反対を表明して排除された。こうして中央委員会は事実上分裂した。

 総会は、「(アメリカ大国主義の攻撃に直面して)全政治局員をはじめ全党員が一致団結して戦い、分派主義者、党かく乱者に対する闘争によって、党の戦列をかためる」ことを強調した決議を満場一致で採択した。テーゼ草案の方は審議未了として、秋に予定されている党大会まで一般討論の討議に付すことに決められた。以後徳球派は反対派を強行処分する傾向を強めていくこととなった。

 「志賀意見書」の漏洩について志賀が自己批判させられた。
(私論.私観) 「戦略戦術に関するテーゼ」(50年テーゼ草案)を全党討論に付したことについて
 草案を全党討論に付すという措置は、これまでにない事例となった。その背景にどのような事情があったにせよ、このこと自体は党内民主主義の前進であった。戦前では、綱領的なテーゼは全てコミンテルン執行委員会において、日本との党代表も参加した形式で作成されており、戦後になって初めて第5回大会宣言と6回大会提出の綱領草案が党自身の力で打ち出されていた。これらはまだ正式綱領となっていなかった。この意味から、今度のテーゼ草案は、党創立以来初めて党自らの手で作り出し、これをもとに決定的な綱領を打ちだそうとした点、その為に中央での反対意見の提出から全党の自由な討議を許そうとした点で、まさに画期的であった。

(私論.私観) 【「50年テーゼ」について 】
  この草案の政治的意味は、野坂理論の本格的な見直しを経て徳球理論が全面展開されていたこととコミンフォルムに詫びを入れ指導に服することを声明したことにある。にもかかわらず問題は残された。既に戦後の党の歩みが日本的な独自の歩みを為す能力を獲得しつつあった証左ではあるが、依然として批判された野坂理論の「不確定戦略」革命論に基づいておりその影響を引きずっていた。この草案は表面的な詫びの陰に隠れて玉虫色の折衷を随所にちりばめていた。このことは徳田執行部の限界でもあったとみなすことができる。

 その例を見ておこう。草案の眼目は、天皇制と地主、特権官僚の遺制をどう評価するのか、もっとも大事な点は占領権力とどう闘うかにあった。だが、今日的に見て革命戦略に対して旧戦略方針の形式的変更に過ぎぬ欠陥を残していた。草案の権力規定は「トロイカ論」と呼ばれることになった。すなわち、第一は、天皇制については、概要「独自性を保持する特権官僚の存在と共に、弱められながらもいまだに存在している」として主要攻撃対象としていた。第二に、封建的土地所有に対しても、概要「地主的土地所有が農地改革で消滅したと考えているものがいるが、これは間違いであって、地主は富農的性格を濃くし、また官僚との結合によってその地位を維持している」。第三に、独占資本に対して、概要「独占資本はその地位を次第次第に高め、比重は相対的にも高まった。だが戦前と同様にその独自的性格の基礎である重工業、特に冶金工業、機械製作業が弱い欠陥を持っている」。こうして三権力を規定しつつ、概要「それ故に、それを補うものとして、天皇制に代わる外国の力を重大な頼りにしており、国内体制においても、反封建的階級関係の残存を必要としている。これを要するに日本の反動権力の構成は、国際独占資本に御されているトロイカのようなものである。その三頭のうち独占資本が優位であるのが特徴である」としていた。ここから、党の闘争戦略・戦術を、「当来する日本共産党の任務は、国際独占資本の支配から民族を解放し、これと結合して従属的状態のもとに、軍国的帝国主義を復興しようとする日本の反動勢力を一掃して人民の民主政府を樹立し、‐‐‐社会主義の達成に前進することである。それを為し遂げるためには人民民主主義を通らなければならない」としていた。

 以上を革命理論とすると、実践面は次のように接木されていた。「日本の資本主義の発展はすでに帝国主義段階に入り、現在はきわめて独占的形態にあるが故に、革命の発展は必然的に急速に社会主義の達成に向かわねばならない。だから当面する革命は強力な権力を持って、障害物を排除して社会主義に至るまで革命は継続されねばならない。この任務を果しうるものは、プロレタリアートの独裁だけである。ここに人民民主主義革命の階級的性格がある」という「串刺し論」的認識の舌の根もかわかぬうちに「われわれのおかれている条件ははるかに困難である」、「直ちに社会主義に飛躍することはできない。ここに日本における人民民主主義革命の特異的内容がある」と野坂理論を折衷させていた。

 同じことは運動論にも見られる。「わが党はいうまでもなく、労働者階級の精鋭の結集であり、そしてマルクス.レーニン主義によって武装され、厳格な党規律にもとづいて真に人民のために挺身する部隊であるからである。それ故に、民主民族戦線が革命に役立つようになるかならないかは、すべてわが党の責任に帰するものである」と云ったかと思うと「わが党が革命のテンポに遅れないようにしなければならない」、「大衆の革命的成長の程度を無視し、多数の意志を蹂躙してわれわれの綱領をおしつけてはならない」、「大衆の態度がここまで成長しない場合は、日本の現実の条件に即して大衆の中立的要求を支持し、われわれの宣伝と事態の発展に応じて(云々)」と玉虫色にさせていた。

 興味深いことは、この草案において「これを誤るならば、左翼的偏向を犯すものであり結局トロッキー的方向に自らを陥れるものである」という記述が見られることである。どうやらこの時期からトロッキイズムが急進主義の代名詞として使われだしたものと思われる。こういう観点から、社会主義革命を呼号する中西一派に対して、「結局、トロッキー主義的傾向に陥るものである」と規定していた。

 社会党との関係も論じられていた。

 その他「分派の問題」がここではじめて認識されている。「『従来行ったことはすべて誤謬である』という観点から、すべてをご破算にして出発しなおそうという主張がある。それは清算主義であり、非マルクス.レーニン主義的誤謬である。とくにそれが指導的地位を争う利己心と結合する場合は、党内にブルジョア.デモクラシーを引き入れ、分派闘争を激生することになる。わが党内の一部にもいまこの傾向がおこっている」と指摘するものの今日的な狡猾な内部統制の仕組みづくりまでしようとしていない。徳田執行部の楽天的な攻めには強いが守りには弱い性格が反映されているとも云えよう。特に、宮本グループに対する罵倒は党内討議の節度を失っていたとされるほど激しく為されており、党内の混乱をいっそう助長することになった。

 「議会闘争の位置づけ」も討議されていた。当時議会闘争に対置して「議会外の行動、とくに経済的ゼネストやあるいは現在の瞬間においてパルチザン戦争遂行までに妄想をはしらせるものがある」と記述があるところからするとそういう欲求を支持する勢力が存在していたということになる。これに対し、執行部は次のように応えている。「議会闘争が悪いのではない。議会闘争のみが目的となり、それが社会民主主義的改良主義的戦術に陥る場合にわるいのである」と。議会の活用の意義についてエンゲルスの次の言葉「議会闘争はプロレタリアートの議会外闘争を組織するための学校であり、補助手段である」、又レーニンを引用しながら「かってボルシェヴィキ党内でも、時をかまわず大衆の動向もかまわず国会を無視しすべての議員を召還しろという戦術を主張した者に対して、レーニンはこれに反対し、国会における闘争が大衆をして敵を知らしめ、革命的戦術を理解せしめる有用性を教えている」(レーニン主義の基礎)との観点から両方向の闘争を目指していたことが知れる。
(私論.私観) 徳球の宮顕に対する激しい敵意について
 徳球書記長は、この時点で、宮顕グループに対して明確に敵意を露にしている。それが同志的な意見の対立の範疇に留まるものに対する書記長権限を駆使した攻撃であったとすらなら問題があったと云えよう。しかし、その後の経過から今日まで宮顕グループのエセ性が露になっている。としたなら、この時の徳球の攻撃態度はむしろ卓見という評価へ転換するべきことになるであろう。

【50年テーゼについての4つの意見、革命戦略をめぐる様々な見解について】
 徳球執行部は、これまでの民主主義革命から社会主義革命への急速転化という二段階革命の規定をそのままにして、民族解放の課題をこれにくっつけた。志賀.宮本.春日.蔵原.亀山.遠坂らは7者7様の反対意見で一括することは難しいが、漸次二段階革命の規定をそのままにして、反独占の社会主義革命論を折衷しつつ、これに民族解放の課題を結合させるべきだとした。袴田は更に右派的に、反独占を一切出さない民族解放民主主義革命を主張した。神山はなお右派的に、民主主義革命とか社会主義革命とかの型とは違う植民地型の革命を主張した。いずれも抽象的な概念争いの風なきにしもあらずであった。これを整理すると以下のようになる。


所感派
徳球派
徳球等党中央派
民族解放の任務とともにブルジョア民主主義革命の社会主義革命への急速な転化を主張。トロイカ論を主唱し、基本的に32テーゼを支持していた。
国際派志賀派 志賀系
所感派との基本的相違は無いが、「民主主義革命の任務を含む社会主義革命」論
国際派
宮顕派
宮顕・蔵原・亀山・春日・遠坂
「民主主義革命を完遂し、社会主義革命の端緒を切り開く」論。ブルジョア民主主義革命から社会主義革命への転化を性急に向かわないと主張するやや右派系グループ。トロイカ論を批判し、絶対主義天皇制の崩壊、変質を主張していた。
4 国際派
袴田派
袴田
「民族解放、民主主義革命」を主張したグループ。半封建的天皇制と寄生的地主的土地所有の強力な残存を主張し、直接社会主義の綱領に反対し、社会主義革命への若干さえ否認し、ブルジョア民主主義革命の要求への限定を主張した。国際派よりももっと右派系グループ。民族解放闘争の視点では「51年新綱領」と一致していた。
国際派
神山派
神山・遠坂良一
植民地革命を主張したグループ。植民地革命闘争を指針させた。極右グループ。民族解放闘争の視点では「51年新綱領」にかなり近い立場。

 この時期の春日庄次郎の次のような指摘がある。
 「……いわゆるテーゼ草案の大衆討議は、選挙中の党員の努力を散逸させないためとの考慮から選挙後に廻された。ただ一つ、強力におこなわれ始めたのは、いわゆる分派との闘争である.五月の党機関紙アカハタ紙上にほとんど毎日にわたって掲載された分派に対する闘争のために書かれた諸論文、除名、細胞解散等に関する記事等をみてもその状態を知ることができる。特に統制委員会の分派に対する検索はその度をこえてほとんど宗教審判の如き状態を示した」(50年問題資料集2-151)。

【徳球の同志批判メモ】
 徳球は反批判をメモ書きしている。非常に多様な草案批判の特徴を三グループに分類した上で個々にその特徴をあげつらい反撃した。
神山について  同志神山の批判は特徴を持っている。それは彼が知っているであろうと思われる共産主義に関する一切の知識を概念的に配置しておいて、これと異なるものをすべてとらえて論評を加えている。なかなか才人に見える。だが、そういうことが必要であろうか。私は否という、というのは事実上これでは論評になっていないからである。我々は一定の目的に向かって論議しているのである。
志賀について  「彼の根本的な態度だが、それは彼の云うところの『プロレタリア国際主義』である。私は特に『彼の云うところのプロレタリア国際主義』という。なぜなら、それが『ウォール街的国際主義』に傾いているからである。彼は日本の革命を外国の人民勢力に頼って行おうとしているからである」
宮顕について  同志宮本の批判は、全体を通じてみて、いわゆる、ブルジョア学者的である。自分の書いているテーゼが実行されるかどうかは問題ではない。彼の考えていることが全面的に言葉に表現されているかどうかが、同志宮本にとっては一番重大な問題なのである。「ブルジョア学者的であり、自分が権威だと思う文献によってものごとを処理している」。
蔵原について  彼もやはり文献主義者であり実際を知らない。この意見書が何よりもそれを物語っている。‐‐‐この反対論にはこうした子供らしさがみなぎっている。彼の権力や革命の性質等に関する反対論も、こういう態度から出てきていると考える。「子供らしい言い分」
袴田について  「彼の批判は、一般の批判者と異なった特徴を持っている。それは実践についての強い主張である。だが一体、それは誰がやるのか? 彼自身はこれをやる責任を免除されているのか?を聞きたいのだ。‐‐‐同志志賀その他の人々の云うこととはまるで反対になっている。だが行動は一緒だ。これが反幹部活動の特徴である。
遠坂について  「(総括を先に述べ)これはほとんど論評に値しないほど抽象的な論議に陥っている」。
亀山について  「彼はまったく気が狂っているのではないか」。
(れんだいこがこの意味を詮索するのにこう云う意味ではなかったか。亀山の政治理論、行動履歴からすれば、当然徳球系所感派系列と与するべきなのに、この時機こともあろうに自身の政治的立場と明らかに違う宮顕糸と行動を共にしている不自然さを「気が狂っているとしか思えない」と云い為したのではなかろうか。そういう意味から云えば当たっているからである)
春日(庄)について  「彼の批判は、いわゆる左翼的跳ね上がり屋を代表している」、「何か欲するところがある」。

 といった調子のコメントを残している。徳球のこの辛辣な同志批判コメントに対しては、所感派の連中も驚き、その撤回・取り消しが賢明であるとする杞憂意見が為され、「徳田のこの悪罵が、分裂の傷口を広げ、いわゆる国際派の分裂活動を促進し、反対者を多くした」と伝えられている。
(私論.私観) 徳球の「同志批判メモ」について
 中西功についての論及がないのをどう理解すべきだろうか。徳球は、「中西意見書」の提出公然認可といい、その左派性を案外と評価していたのではなかろうか。「徳球の人品人柄考察」に詳述する。






(私論.私見)