突如の鳩山一郎公職追放考 |
更新日/2021(平成31→5.1日より栄和元/栄和3).2.15日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「突如の鳩山一郎公職追放考」をものしておく。田中角栄政界追放の前哨となる事件のように思えてきたからである。見逃されてきたが、案外重要な事件だったと今にして思う。 2002.10.20日 れんだいこ拝 |
【突如の鳩山一郎公職追放考】 | |||
2021.3.15日、斉藤 勝久「占領期最大の恐怖「公職追放」:次期首相が確実の鳩山一郎が潰された(9)」。
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鳩山は新生日本のリーダーにふさわしいか ここから、GHQが鳩山をどう追放に追い込んでいったかを見ていく。公職追放研究の第一人者、増田弘・立正大学名誉教授によると、GHQ側が鳩山を注視するようになったのは、終戦から3カ月後の45年11月、鳩山が自由党総裁に就任した段階からだ。GHQは鳩山を呼んで、インタビューを行っている。日本を民主国家に再生させようと、占領政策を担当する民政局(GS)はインタビューの前後から、鳩山の戦前の政治経歴調査を進め、同12月中旬までに詳細なデータを集めた。それには、鳩山が(1)内閣書記官長時代に治安維持法成立に関与した(2)文相時代に学問弾圧の「滝川事件」(刑法学者だった京都大学の滝川幸辰教授が危険思想だと批判され、文部省から休職処分を受けた)の責任者だった(3)1937年の訪欧時にヒトラーと中国侵略に関連して交渉を行った――などが列記されていた。 GHQは翌46年1月、近く予想される戦後初の総選挙立候補者に標準を定め、追放指令を発出する。 GHQ内部では、鳩山が新生日本のリーダーにふさわしいかの検討が始まっていた。 一方の鳩山本人は、東条政権と闘ったことや、国会で1940年に反軍演説した斎藤隆夫に対し衆院議員除名の可否を問う投票で、棄権をして抵抗したことなどから、軍国主義者ではなく、数少ない議会主義者・自由主義者であると自負していた。だから、自分の追放については終始、楽観的だった。日本側の「公職資格審査委員会」が鳩山を「追放非該当」と決定したことで、さらに自信を強め、不用意な言動が問題になる。 鳩山は総選挙を前にした46年2月、勢力を拡大していた共産党を批判して、保守勢力の結集を呼びかける「反共宣言」を行ったのである。当時、戦後に合法政党となった共産党への露骨な攻撃は、各党とも控えていた。まだ冷戦前で、ソ連は米国の同盟国の立場だっただけに、ソ連を怒らせたことに連合国最高司令官のマッカーサーは憂慮した。 「連合国側からすれば、鳩山の反共宣言は敗戦国という立場を忘れ、戦前に見られた日本人の傲慢さの現れと思われてしまった」と増田名誉教授は解説する。鳩山は、国際認識を欠いていることを内外に示してしまったのだ。 |
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総選挙の直前に鳩山をつるし上げた外国人記者団 総選挙の数日前に、在京外国人記者団が鳩山をつるし上げるという出来事があった。鳩山が戦前に訪欧を終えて書いた『世界の顔』の翻訳をGHQの将校からもらった記者たちが、ヒットラーや、イタリアのムッソリーニに好意的な記述を次々と指摘して襲いかかった。鳩山は「おびえきった一老人」と化した。 鳩山を忌避した民政局は、自由党が総選挙で第1党となった後も、鳩山を次期首相だけにはしないよう模索していた。第2党の進歩党(保守系)と第3党の社会党との連立などに期待をかけたが、うまく行かず、自由党が単独で組閣することになった。 「ここに至って、ホィットニーやケーディスらGS首脳は、消去法的に鳩山追放に踏み切らざるを得なくなった。日本政府に鳩山の資格を再審査するよう要請したが、日本側が応じなかったので、強権発動のほかに残された方法はなかった」と増田名誉教授は述べる。 |
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鳩山の不用意な言動が追放の根本原因 だが、公職追放令を鳩山に適用するには、前述した鳩山の戦前の“政治的罪状”ではまだ論拠が薄弱だと、GHQは判断していた。最終的にGHQが鳩山追放を決断する根本原因となったのは、鳩山が「GHQは自分を重要視している」、「総理になればパージにならない」と財界にうそぶいたことや、鳩山が総選挙前に提出した公職追放審査に関する調査票に、外国人記者団の追及があった問題の著書を記載しなかったこと、さらに反共発言など、終戦後、鳩山が権力に近付いてからの度重なる不用意な言動だった。 「鳩山の自己過信と、敗戦国のリーダーとは思えない傲慢な態度は、GHQを侮辱したと解釈された。もし鳩山を見逃せば、第二第三の鳩山が現れると、GHQが危惧した」と増田名誉教授。 |
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吉田茂の忠告に耳を貸さず GHQが鳩山追放の動きがあることを察知した吉田茂外相(当時)は、忠告するため側近の使者を鳩山邸に送った。『鳩山一郎回顧録』にはこう記されている。
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【Profile】 斉藤 勝久 SAITO Katsuhis ジャーナリスト。 1951年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。読売新聞社の社会部で司法を担当したほか、86年から89年まで宮内庁担当として「昭和の最後の日」や平成への代替わりを取材。医療部にも在籍。2016年夏からフリーに。ニッポンドットコムで18年5月から「スパイ・ゾルゲ」の連載6回。同年9月から皇室の「2回のお代替わりを見つめて」を長期連載。主に近現代史の取材・執筆を続けている。 |
(私論.私見)