【1946年上半期当時の主なできごと】
天皇人間宣言、野坂帰国、「第5回党大会」で徳球−野坂執行部の確立

更新日/2021(平成31→5.1日より栄和元/栄和3).2.15日
 (れんだいこのショートメッセージ)

 2002.10.20日 れんだいこ拝


1.1 【天皇人間宣言す】昭和天皇が神格化を否定する詔書を発する(天皇の人間宣言)。この詔書が、濁点と句読点が付された日本史上初の詔書となった。
1.4 【GHQ「公職追放」指令】GHQは、軍国主義者・超国家主義者の「公職追放」と「超国家主義団体」の解体を指令。
1.7 米国政府、「SWNCC-228=天皇制廃止」方針をGHQに打電。
1.8 「赤旗」の題字を第10号から「アカハタ=AKAHATA」に変更することを決定した。
1.10 山川均が「人民戦線」の結成を提唱。
1.10 国連第1回総会がロンドンで開催。(〜2月14日・51ヵ国参加)
1.12 【野坂参三、亡命先の中国から帰国】
1.12 「民主主義科学者協会」民科会長小倉金之助設立。民主主義的科学者の統一戦線として当面の民主主義革命に対する科学者の立場からする協力と寄与を目的として設立された。戦前の「プロレタリア科学」系の小椋広勝.風早八十二、「唯物論研究会」系の古在由重、「歴史科学」系の渡辺義道、自然科学者の柘植秀臣らを中心として、その周囲に横田喜三郎.城戸幡太郎ら自由主義者が集まっていた。「戦後革命」の流れに応じて一定の役割を果たし、48年7月の日本学術会議の設立へと導く。但し、50年の共産党の分裂の煽りを受けて衰退することになる。
1.13 政府は公職追放令により総辞職か内閣改造かの選択を迫られたが、内閣改造に踏み切り、「幣原喜重郎改造内閣」発足。 内相三土忠造、文相安部能成、運輸相三土(兼)、農相副島千八、書記官長楢橋渡が就任した。
1.13 高級たばこ「ピース」(10本入で7円)発売。
1.14 野坂参三、共産党中央委員会と共同声明を発し、「愛される共産党」を主張する。
1.15 赤旗で、「反動幹部をけって我が党との共同闘争を」論文発表。
1.16 社会党第一回中央執行委員会で右派が制し、「戦線統一は時期尚早」決議。 
1.17 【「総同盟」の結成の動き】「日本労働組合総同盟」(総同盟)結成のための拡大中央準備委員会が結成された。右派松岡駒吉.西尾末広らと左派島上善五郎.山花秀雄.安平鹿一.高野実らとの合同であった。
1.18 名古屋で南朝(吉野朝)の子孫と称する「熊沢天皇」が名乗り出る。  
1.19 NHKの「のど自慢素人音楽会」放送開始。 
1.21 GHQ、「公娼容認の法規撤廃の覚書」を提示。 
1.21 自由党、憲法改正要綱を発表。
1.26 【「野坂氏歓迎国民大会」開催】東京.日比谷公園で開かれた。3万人余の国民を集めて盛り上がり、これが戦後初の大衆的大集会となった。  
1.30 河上肇、没(68歳)
1月 この月、『中央公論』『改造』復刊。 この月、『世界』『展望』創刊。この月、闇市の露店が6万店に達する。
2.1 第一次農地改革実施。
2.1 松本試案は秘密裏的に作成されていたが、毎日新聞がこれをスクープした。
2.3 【マッカーサー元帥、日本国憲法草案の作成を指示】.マッカーサーは、1.天皇制存続.2.国権の発動たる戦争は廃止.3.封建制廃止を指示した。
2.3 日本青年共産同盟の再建。
2.7 「日本教育家の委員会(委員長:南原繁)」発足。
2.8 松本烝治、「憲法改正要綱(松本私案)」をGHQに提出。
2.9 新聞単一労働組合の結成。中執委員長聴濤克巳(朝日).副委員長鈴木東民(読売).白神昇(放送).書記長牧野純夫という布陣であった。
2.9 日本農民組合(日農)結成。会長須永好、主事に野溝、常任中央委員に大西俊夫.岡田宗司.黒田寿男.平野力三.中村高一が選ばれた。結成時15万人。一年後には125万人に発展する。農民運動担当であった伊藤律はこの先頭で立ち働いていた。
2.13 【マッカーサー元帥、「GHQ憲法草案」を日本政府に手交】
2.14 進歩党が、新憲法草案を発表。
2.15 党の中央機関紙として「前衛」が創刊された。
2.17 金融緊急措置令公布。日銀券預入令公布。「新円」への切替え始まる。
2.19 部落解放全国委員会結成。朝田善之助.上田音市.松本治一郎.北原栄作らが中心となって京都新聞会館で開かれた。委員長松本治一郎。
2.19 【天皇、巡幸開始】天皇、川崎・横浜両市を初めて巡幸。これを皮切りに地方巡幸開始。これを皮切りに年内一杯を、東京都.群馬県.埼玉県.千葉県.静岡県.愛知県と岐阜県.茨城県という具合に巡っていった。
2.21 日本民主主義文化連盟結成。
2.22 政府閣議、「GHQ草案」の受諾を決定。
2.23 社会党が、新憲法新憲法要綱を発表。
2.24 【日本共産党「第5回党大会」開催】この時平和的民主的手段による革命方式を採択。後に、占領軍を解放軍と評価する誤り、平和革命=日和見主義の誤りを犯したと総括されている。「沖縄民族の独立を祝う」メッセージを採択している。
2.26 「極東委員会FEC」がワシントンに設置された。
2.27 在日朝鮮人連盟の第二回臨時全国大会が永田町国民学校で開催された。「朝鮮人人民共和国支持問題」をめぐって激しい討論が展開された。左右両派の乱闘、拳銃発射事件まで発生した。3.6日「朝連」傘下の青年組織として「在日本朝鮮民主青年同盟」(民青)が結成され、「建青」に対抗していくこととなった。「民青」と「建青」は双方武装襲撃事件を繰り返した。
2.28 公職追放令公布。
2.28 アメリカ映画2本(『春の序曲』『キューリー夫人』)が、戦後はじめて封切られる。特にグリア=ガースン主演の『春の序曲』が日本初のキスシーンとして話題となる。
3.3 物価統制令公布。
3.5 【米国教育使節団、来日】アメリカから27名の教育使節団が来日、約一ヶ月にわたって討議、視察旅行を重ねた結果、これからの日本の教育に対する諸問題について、報告書作成提出。報告書は、日本の歴史科と地理科について、「政治的軍国主義的教育に大いなる役割を為した」と批判し、日本歴史の書き直しのために、民間学者を起用するよう勧めていた。
3.5 チャーチル元イギリス首相、アメリカのフルトンで「鉄のカーテン」演説を行う(冷戦のはじまり)。  
3.6 政府、閣議を経て「憲法改正草案要綱」として発表された。マッカーサー、「帝国憲法改正草案要綱」の全面承認声明を出す。
3.16 宮本百合子、羽仁説子、佐多稲子、赤松常子、加藤シズエ、松岡洋子、山室民子、山本杉らの呼びかけで婦人民主クラブ結成。掲げられた綱領は、封建的な思想.制度.慣習との戦い、自主的生活の展開、婦人の全能力の発揮による民主化。
3.18 警視庁、初めて婦人警官63人を採用する。
3.30 枢密院会合で、幣原は次のように述べた。「戦争放棄は、大義に基づく大道で、日本はこの大はいを掲げて国際社会の原野を一人進むのである」。
3.31 5日に来日した米国教育使節団が教育の民主化を勧告。
3月のこの頃、労働組合統一について、荒畑+高野+徳田+野坂会談がもたれている。(寒村自伝)
4.3 山川均ら民主人民連盟準備大会開催。
4.5 【「対日理事会ACJ」開催】米.英.ソ.中からなる「対日理事会」が東京に設置され、第一回連合国対日理事会開かれた。「対日理事会」は、日本の占領と管理に対してマッカーサーに助言を与える権限をもつ諮問機関として発足した。
4.7 米国教育使節団が報告書公表。
4.7 民主主義諸団体共催.民主人民連盟後援により、「幣原内閣打倒と人民大会」が日比谷公園で開かれた。が、鈴木茂三郎の演説に徳田球一が批判するという対立が示されたことは注目される。 
4.10 【戦後初の総選挙】終戦後8ヶ月目の4.10日戦後最初の新選挙法による第22回衆議院議員総選挙が行われた。→自由党第1党、女性代議士39人当選、総選挙時の政党→日本進歩党(幣原)・日本自由党(鳩山)・日本協同党(山本−−いずれも天皇制護持政党)、日本社会党(片山)・日本共産党(徳田−−いずれも天皇制批判政党)、全政党数363政党。
4.17 「日本国憲法草案」発表。
4.19 「幣原内閣 打倒共同委員会」が社会.共産.自由.協同の四党間に結成され、急速に展開される様相を帯びた。
4.20 持株会社整理委員会令公布。
4.20 プロ野球、後楽園球場で再開。
4.22 選挙の結果、幣原政権その基盤を失い、幣原内閣が総辞職を余儀なくされた。結局幣原内閣は7ヶ月の余命となった。幣原内閣瓦解後5.22日第一次吉田内閣が成立するまで、丁度一ヶ月間政府不在事態、政治空白期が現出することになった。
4.22 長谷川町子の「サザエさん」、夕刊フクニチで連載開始。   
4.26 人口調査による失業者数が発表される。完全失業者159万人、潜在失業者を含めると600万人を数える。  
4.28 党中央委員会付属「マルクス.レーニン主義研究所」が設立された。
4.30 経済同友会結成。戦前には無かった経済団体であり、「修正資本主義」と「資本と経営の分離」を説く若手経営者らにより組織された。
4.30 植村環YMCA会長が渡米。これが戦後初の海外渡航となる。
5.1 メーデー復活(第17回メーデー開催)。宮城前広場に50万人が参集する。広島・長崎で白血病患者出はじめる。
5.1 経済同友会結成(代表幹事.諸井貫一) 。
5.3 【極東国際軍事裁判開廷】戦犯追及の極東国際軍事裁判所が開廷された。
5.4 GHQ、鳩山一郎を公職追放。
5.6 5.6−8日、日本共産党、通算第3回中央委員会総会が開かれた。総選挙闘争の総括、労働戦線統一問題、食料問題、宣伝教育問題などについて決定。 「街頭録音」の放送が開始される。
5.7 勅令第263号。「教職員の除去、就職禁止及び復職等の件」として、「職業軍人、著名なる軍国主義者もしくは極端なる国家主義者又は連合国軍の日本占領の目的及び政策に対する著名なる反対者」を教職から追放するよう指示。「民族的優越感を鼓吹する目的で、神道思想を宣伝した者」、「思想検察又は保護観察、予防拘禁に関係のあった官吏」。この流れで、政府は、教育関係者の審査を行うため教職員適格審査委員会を各県ごとに組織し、60万人の審査を発表した。教職員不適格者被決定者少数、全体の1%に満たなかった。マッカーサーは不満の意を表明した。
5.10 アイゼンハワー陸軍参謀長官が来日し、マッカーサー元帥と会談。この頃、二人は有力な大統領候補としてうわさに上っていた。
5.12 「米よこせ」東京世田谷区民大会開催。赤旗が初めて宮城坂下門内へ入る。
5.17 「GHQ」民間情報教育局の教科書関係主任官のトレイナー少佐により4名の民間歴史学者が起用され、新教科書執筆依頼される。古代から平安時代までを家永、中世を森末、近世を岡田、近代を大久保が担当した。執筆基準は、一、特定のイデオロギーを宣伝するものであってはならない、二、軍国主義、超国家主義、神道の教義を説いてはならない、三、天皇の事跡が歴史の全部ではない。これ以外は自由に好きなように書いてほしい。神話ではなく史実に基づいた歴史が編纂。神代の物語から始まる従来のものから石器時代の記述から始まるものへと。文部省の頭越しに「GHQ」と執筆者の直接作業で作成された。新「くにのあゆみ」編纂がこうして進行した。
5.19 食糧危機突破国民大会 =食糧メーデー(飯米獲得人民大会)開催。宮城前広場に25万人が参集。この時「詔書国体はゴジされたぞ チンはタラフク食ってるぞ.ナンジ人民飢えて死ねギョメイギョジ、裏に「働いても働いても、何故私たちは飢えているのか、天皇ヒロヒトよ答えよ」のプラカード事件が発生した。→不敬罪で起訴→東京地裁=名誉棄損罪で懲役8カ月→東京控訴院=不敬罪だが大赦で免訴→大審院=大赦で審理できず
5.20 マッカーサー、「暴民デモ許さず」の声明を出す。この声明で、食糧メーデーは「暴民デモ」として非難される。  
5.22 【第1次吉田茂内閣成立】
5.23 GHQが「皇室から免税を含む経済上のあらゆる特権と義務免除を取り上げる」指令。これにより、天皇より自動的に与えられていた下賜金がなくなり、さらに手持ちの財産に対して税金が課せられるようになった。
5.23 映画「はたちの青春(主演:幾野道子)」が封切られ、日本映画初のキスシーンが話題になる。
5.24 天皇、敗戦時以来の「玉音放送」を行い、食糧危機に家族国家の伝統で対処するよう訴える。    
5.25 協同民主党結成、委員長山本実彦
5.27 宮本政治局員、社会党の「救国民主連盟(案)」について談話発表。参加団体の対等平等の保障、独自性の尊重が必要と主張。
5.27 総同盟は、中央委員会を開催した。4月末時点で、1600余組合、65万人を組織したことが報告された。生産管理戦術に消極的態度を取ること、食糧メーデーについての批判的見解、救国民主連盟の支持、労働組合の政党に対する独自性の確認などが決定された。いずれも、共産党の戦術.労働組合認識に対する批判であった。
5.29 経済団体連合会(経団連)発足。
5.30 上野の露店街に武装警官500人が出動し、禁制品を摘発する。
5月 この月、労働者の「生産管理戦術」が180件余に達する。この頃GHQ.ニューデール派更迭されている。


【天皇人間宣言す】
 1.1日、天皇は「昭和21年年頭の詔書」により、「人間宣言」を行い神格を否定した。その文面は次の通り。 
 『昭和21年年頭の詔書』

 ここに新年を迎う。かえりみれば明治天皇、明治のはじめに、国是として五箇条の御誓文(ごせいもん)を下し給(たま)えり。いわく、
一、 広く会議を興し、万機公論に決すべし。
一、 上下心を一にして、盛んに経綸を行うべし。
一、 官武一途庶民に至るまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。
一、 旧来の陋習ろうしゅう:悪い習慣の事を破り、天地の公道に基づくべし。
一、 知識を世界に求め、おおいに皇基を振起すべし。

 叡旨公明正大、また何をか加えん。朕(ちん:天皇の自称)は個々に警い新たにして、国運を開かんと欲す。すべからくこの御趣旨にのっとり、旧来の陋習を去り、民意を暢達し、官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、もって民生の向上をはかり、新日本を建設すべし。

 大小都市のこうむりたる戦禍、罹災者の艱苦、産業の停頓、食糧の不足、失業者増加の趨勢等は、まことに心をいたましむるものあり。しかりといえども、わが国民が現在の試練に直面し、かつ徹頭徹尾文明を平和に求むるの決意固く、よくその結束をまっとうせば、ひとりわが国のみならず、全人類のために輝かしき前途の展開せらるることを疑わず。それ、家を愛する心と国を愛する心とは、わが国において特に熱烈なるを見る。いまや実に、この心を拡充し、人類愛の完成に向かい、献身的努力をいたすべきの時なり。

 思うに長きにわたれる戦争の敗北に終わりたる結果、わが国民ばややもすれば焦燥に流れ、失意の淵に沈綸(ちんりん)せんとするの傾きあり。詭激(きげき)の風ようやく長じて、道義の念すこぶる衰え、ために思想混乱あるは、まことに深憂にたえず。しかれども、朕は汝(なんじ)ら国民とともにあり。常に利害を同じうし、休戚を分かたんと欲す。朕と汝ら国民との紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とによりて結ばれ、単なる神話と伝説によりて生ぜるものにあらず。天皇をもって現御神(あきつかみ)とし、かつ日本国民をもって他の民族に優越せる民族として、ひいて世界を支配すべき使命を有すとの架空なる観念に基づくものにもあらず。

 朕の政府は、国民の試練と苦難とを緩和せんがため、あらゆる施策と経営とに万全の方途を講ずべし。同時に朕は、わが国民が時難に決起し、当面の困苦克服のために、また産業および文運振典のために、勇往せんことを祈念す。

 わが国民がその公民生活において団結し、あいより助け、寛容あい許すの気風を作典興するにおいては、よくわが至高の伝統に恥じざる真価を発揮するに至らん。かくのごときは、実にわが国民が人類の福祉と向上とのため、絶大なる貢献をなすゆえんなるを疑わざるなり。

 一年の計は年頭にあり。朕は朕の信頼する国民が、朕とその心を一にして、みずから誓い、みずから励まし、もつてこの大業を成就せんことをこいねがう。

 御名御璽   昭和21年1月1日

 この文中、
「朕と爾等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜる ものに非ず。天皇を以て現(アキツ)御(ミ)神(カミ)とし、且つ日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配するべき運命を有すとの架空なる観念に基づくものにも非ず」

 が「天皇の神格否定→人間宣言」と受け止められることになった。

 天皇の「人間宣言」の背景には、軍国主義化への天皇の役割が認識され、戦争責任が国内外から問われていた状況に置いてタイムリーな間接謝罪の意味を持った。敗戦により戦時に強調された現人神思想による神風.天佑神助信仰が破綻したことを象徴させる目的もあり、失墜した天皇の権威の状況に相応しく措置せられたものと思われる。

 1.3日、「信託統治反対・即自独立」を掲げる南朝鮮人民が大会を準備していった。これを指導したのは朴憲永を指導者とする南朝鮮共産党であった。しかし、ソ連の支配下に組み込まれた金日成を中心とする挑戦共産党北朝鮮分局は、「モスクワ三国協定」を支持する声明を発表し、意思一致のために北朝鮮に出向いた朴憲永に逆に圧力をかけこの決定に従わせた。

 田川和夫氏の「戦後日本革命運動史1」は次のように記している。
 「このような共産党の裏切りによってソウルにおける民衆の決起は不発に終わらせられた。日本帝国主義の軍事的敗北と同時に、一挙に力を増大させた左翼の影響力は忽ち崩壊していった」。
 「以降、米占領軍は、李承晩を手先に使い、『南朝鮮代表民主議院』を設置、他方、ソ連は『北朝鮮臨時人民委員会』を成立させ、南北それぞれの傀儡政権樹立を準備しつつ南北分割の固定化を必死になって追及していった」。

 1.3日、富坂署襲撃事件発生。前年の12.26日、29日、小石川区(現文京区内駕籠町)の路上でけん銃強盗事件が連続して発生。警視庁捜査一課と富坂署が合同捜査をし、都下三鷹町の朝鮮人3名を容疑者として逮捕、富坂署に留置していた。この日、トラック三台に分乗した朝辞人約80名が同署に乗りつけ「朝群人を留置するとはけしからん、即時釈放しろ」と要求、署内に乱入し、電話室を占拠して外部との通信連絡を断ったうえ、イス、こん棒などをふるって署員に襲いかかり留置中の朝鮮人を奪取して逃走した。警視庁の捜査は第三国人に対する捜査権の不明確さから不徹底なものになり、捜査員を歯軋りさせただけで終わった。当時、第三国人に対しての日本の裁判権行使が曖昧な時期であり、この富坂署襲撃事件は第三国人に「警察何するものぞ」とする優越感を抱かせ、統制物資のヤミ売買、強・窃盗、土地建物の不法占拠などの不法行為を続発させることになった。このことが戦後の混乱を助長していた。


【公職追放】
 1.4日、「GHQ」は公職追放令を発布した。これにより軍国主義者.超国家主義者の公職追放を指示し、軍人のみならず政界.産業界.言論界.教育界の指導者としての戦争中の戦争犯罪人が追求され「公職追放」されることとなった。超国家主義団体の解散も指令された。

 追放の対象者は、@.軍国主義的国家主義及び侵略の活発なる主唱者、A.一切の極端なる国家主義的団体、暴力主義的団体、又は秘密愛国団体及びその機関、又は関係団体の有力分子、B.大政翼賛会、翼賛政治会又は大日本政治会の活動における有力分子とされていた。この指令の付属書には、「罷免及び排除すべき種類」として概要@.戦争犯罪人、A.職業陸海軍人、B.極端なる国家主義的団体、暴力主義的団体、又は秘密愛国団体の有力分子、C.大政翼賛会、翼賛政治会又は大日本政治会の活動における有力分子、D.日本の膨張に関係せる金融機関並びに開発機関の役員、E.占領地の行政機関、F.その他の軍国主義者及び極端なる国家主義者としていた。

 この結果、進歩党は幹部以下のほとんどの議員(274名中260名)が該当し壊滅させられた。現職閣僚の内相堀切善次郎.文相前田多門.運輸相田中武雄.農相松村謙三.書記官長次田大三郎らも含まれていた。自由党(43名中30名、鳩山.河野ら指導部は残った).社会党(17名中11名)も大半の議員を失った。協同党(23名中21名)も2名を残すのみとなり壊滅させられた。これを見れば、戦前の支配者群像がそのまま戦後社会を領導しようとしていたことがわかる。政界は恐慌状態となり、この結果、共産党だけが免責の栄誉を受け、「戦後革命」へ向けてのフォローの風となった。

 この後の政界の流れから見れば、この「公職追放」が戦後型の新人の参入を促すことになった。田中角栄もこの時初めて立候補している。

 追放の動きは地方の村長.助役にまで広がった。その他経済界.教育界にまで押し寄せることとなった。

 この追放令は、ポツダム宣言の「軍国主義の永久除去」と「戦争犯罪人の厳罰」規定からしていつか必ず為される措置であったが、政界には寝耳に水の「大旋風」となった。ちなみに、ドイツに対しては、20年のヤルタ協定で「ナチ党とナチ法制組織並びに制度を一掃し、公職並びに文化的経済生活からナチ並びに軍国主義の勢力をことごとく掃蕩する」と宣言されていた。

【復員軍人の帰還】
 この頃復員軍人が続々と帰還しつつあった。ここで特記しておきたいことは、敗戦後中国大陸には百数十万の軍民日本人がいたが、一部での混乱はあったもののほぼ平穏に引き揚げが為されたことである。「怨みに報いるに恩を以ってする」という蒋介石の方針の賜物ともされている。

【不穏な世情】
 進駐軍将兵による暴行の恐怖に対するおびえと、「第三国人」による「権利の主張」への恐怖感が、この時期見られた。「第三国人」とは、朝鮮人、中国人、台湾人の総称であった。こういう呼称は進駐軍と同じく新聞が生み出した慣用語となった。戦時中の呼称に替わる新用語であった。朝鮮人や台湾系の華僑がこの当時警察署襲撃事件や闇市場の土地の不法占拠事件を起こし始めていた。各地で無警察状態が作り出されようとしていた。

 神戸市当局は、山口組などヤクザ組織に頼んで第三国人の暴発を鎮圧しようとしていた。その他、強制連行され過酷な労働を強いられていた朝鮮人労働者や中国人労働者が各地で暴動事件を起こしつつあった。有る意味で゛、戦後日本の最初の労働争議的面もあった。この流れが「生産管理」的争議方式を作り出すさきがけとなった。この観点からの研究が為されていない。

 1月中旬、共産党内の組織改変があり、労働組合部と農産部が統合されて組織活動指導部が作られ、徳球書記長が部長についている。

 1.16日、幣原内閣の官房長官に楢橋渡が就任。
【熊沢天皇現れる 】
 1.18日、熊沢寛道(当時56才)なる人物が、菊の紋章を染めぬいた黒羽二重の紋付姿で現れ、自分こそ正統の皇位の継承者たる南朝の後裔であり、新日本は正しい皇族の復へきによってのみ再建することができるとマッカーサー元帥に陳情書を送ったと伝え、翌日新聞紙面にも登場した。

 「北朝小松天皇の皇位継承は正しいものではなく、この間の経緯を物語る文献は現在近衛家が所蔵している。我々一門は代々皇位の正統な継承者であることを要求してきたために迫害を受け、自分は憲兵や特高の追跡を逃れる為に、ある時は百姓に、ある時は行商人に姿を変え、遂に小売り商人となって世を忍んでいる」。

【物価が急上昇 】
 この時期物不足が深刻化して物価が急上昇していた。1945(昭和20)年7月を100とする東京卸売り価格の総平均は215、同小売価格は237、昭和20年9月を100とする同ヤミ物価指数は170となっていた。

【隠匿物資摘発の動き 】
 1.21日、陸軍造幣廠の退職者で組織している生活擁護同盟の吉田稔らは、共産党本部食糧対策委員会の岩田英一らと共に隠匿物資の払い下げに乗り出していた。これには逸話があり、岩田が徳田に相談したところ、「よし、やれ。やる以上、勢いよくやるんだ」と激励したと伝えられている。こうして、岩田は1万人以上の区民を連れて造幣廠へ行き、担当者に迫って隠匿物資を出させ、直ちに「食糧管理委員会」を作るや、集まってきた人たちに分け与えている。いわゆる「人民配給」を行ったが、これに対し政府.警視庁が「勝手な配給許さず」と抑止した。食糧危機を背景とした動きであった。この時、大勢で担当者(小林少将)を取り囲み、吊るし上げたり暴行を加えたため、岩田は40日ほど小菅刑務所入りしている。

【新憲法論議 】
 46.1月以降、各政党の構想案が出尽くし憲法学者の私案も含め憲法論議が活発化していくことになった。漸く松本憲法改正草案が定まり、2.4日幣原内閣はこれを閣議了承、2.7日松本国務相が天皇に奏上した。自由党は1.21日発表、進歩党は2.14日、社会党は2.23日草案が発表された。

【毎日新聞が憲法政府案草案をスクープ】
 松本試案は秘密裏的に作成されていたが、2.1日毎日新聞がこれをスクープした。政府の試案「憲法問題調査委員会案」は骨格が「天皇の統治権には一指も触れさせぬという」旧憲法的であり、替わり映えのしないものであることが判明した。

 草案を見て「GHQ」は大きく失望した。民政局(GS)ホイットニー局長は、この改正案に対し、「極めて保守的な性格のものであり、天皇の地位に対して実質的変更を加えてはいません」と批判した上で、「憲法改正案が正式に提出される前に指針を与える方が、我々の受け容れがたい案を、彼らが決定してしまってそれを提出するまで待った後、新規巻き直しに再出発するよりも、戦術として優れている」との意見をマッカーサー総司令官に述べた。こうして松本試案はデッド.ロックに乗り上げることになった。

【「GHQ草案」作成される 】
 関連サイト「戦後憲法の制定過程について(ニ)GHQ案の検証
 2.3日、マッカーサー元帥は、民政局ホイットニー少将局長に指示を与え、急遽民政局メンバー20人の下書き作成により草案が作成されこれが討議されるという経過となった。弁護士出身の民政局次長・ケーディス陸軍大佐を委員長、同じく弁護士経験を持つロウェル中佐、ハッセイ中佐などを委員としてとする運営委員会がつくられ、分野ごとの小委員会と合同会議を積み重ねることとした。

 この時マッカーサーは、三項目の「必須条件」を指示していた。


一. 天皇制の取り扱い条項 天皇が国家元首の地位として認められ、皇位の継承は世襲される。但し、天皇の義務と権限は立憲的制約の中に置かれ、国民の意思に応じたものであること。
二. 戦争放棄条項 自衛権も含む戦争の放棄。国家の権利としての戦争行為を放棄する。日本は紛争解決、及び自衛のためでさえも、その手段としての戦争を放棄する。国の安全保障のためには、現在世界に生まれつつある高い理念、理想による。陸・海・空軍は、決して認められない。又、いかなる交戦権も与えられない。
三. 封建制度の廃止 封建制度の廃止。皇族以外の爵位は現存のものに限る。今日以降、貴族特権は政府もしくは民間機関において、何らの権力を持たない。国家予算はイギリスの制度を見習う。

 このノートにそって、民生局は2.4日から6日間で、GHQ草案をつくりあげていくことになった。2.26日に開かれる予定の極東委員会発足前にアメリカ主導で事をまとめておきたいというのが腹であった。この時の中心メンバーであったケーディス大佐は次のように回顧している。「当時、対日理事会が発足しそうな周囲の情況から、憲法改正は急がねばなりませんでした。しかし日本側の保守的政治家は、なかなか頭の切り替えが出来ず、私たちは終始、改正を急がせるような刺激を与えねばなりませんでした」。

 つまり、対日理事会(ACJ)にせよ極東委員会(FEC)がいずれ憲法改正問題にも関与してくることが明らかな状況にあり、極東委員会が本格的に活動することになれば、法理論上憲法改正もこの委員会で行われることになるのが筋といえた。極東委員会の第一回会合が2.26日に持たれるという情報が入ってきていた。そうなると、ソ連.オーストラリアの意向が天皇を戦争犯罪人として訴追し、日本の天皇制を廃止するよう要求する構えでもあったので、天皇制を温存して活用する意向を固めつつあったアメリカの対日政策上不都合が予想された。結果的に極東委員会を通じてソ連が影響力を行使してくることが懸念された。こうした事情から、「アメリカ本国におきましては極東委員会が発足する前に、新憲法という既成事実を作ってしまいたいと決意を固め」、SWNCCは、マッカーサーに早急に日本国憲法作成の指示をした。この本国の意向とマッカーサーの意欲が合体して米国リードで新憲法が大急ぎで作られることになった。こうしてアメリカ側が先手を打って新憲法作成をアメリカ主導で急ごうとすることになったようである。

 つまり、新憲法制定の背景には、天皇制温存とソ連の進出への牽制があったということになる。なお、ソ連の進出を根底的に牽制する為には、作成される新憲法がソ連憲法に比して遜色なく人民的諸権利が擁護されたものでなければ通用しないという認識が介在していたと思われる。こうした観点から、「平和的民主的人権保障的新憲法」の作成が急務となった。

 概要「厳秘のうちに事が進められた。第一ホテルの一室で非公式な会議開かれ、新憲法の総括的な輪郭が描き出された。その翌日、ホイットニー准将は、部下全部を会議室に召集し、『これはまさに歴史的な機会である。私は今諸君に憲法制定会議の開会を宣言する』と厳かに云った。日本側によって準備された草案の全ては、全く不満足なものでしかなく、総司令官は今や介入する必要があると感じられるに至った。かくて我が民政局は、新憲法を起草すべき命を受けることになった。元帥が期待する三原則は、一、日本は戦争を永久に放棄し、軍備を廃し、再軍備しないことを誓う。一、主権は国民に帰属せしめられ、天皇は国家の象徴と叙述されること。一、貴族院制度は廃止され、皇室財産は国家に帰属せしめられること」(ゲーン「ニッポン日記」)と指示された。

 この仕事は、2.4日から12日まで夜を日についで二週間ですっかりかたづいた。ジョージ.アチソン、ホイットニー、ケーディス、日本側からは内閣法制局長官入江俊郎、佐藤達夫同局部長らが喧喧諤諤しつつ詰めていったと伝えられている。2.12日マッカーサー司令官の承認を得て確定された。この新憲法作成に関与したケーディス大佐は、「アメリカになくて日本だけが持っているもの、それはあのすぐれた世界に冠たる平和憲法です。私は自由で民主主義の全ての機能を包含している日本の憲法の作成に関与したことを、生涯の誇りにしています」と後日述懐している。つまり、本国アメリカの憲法よりも、恐らくソ連のそれよりももっと最新の「平和的民主的人権保障的新憲法」として誇りを持って作成されたということであろう。

 2.13日、「GHQ」によって纏められた新憲法草案が政府当局者に開陳されることになった。日本側は憲法問題調査委員会委員長松本国務大臣、吉田茂外務大臣、終戦連絡事務局の次長白州次郎の3名に通訳長谷川元吉、「GHQ」側は民政局ホイットニー局長、同次長ケーディス、ダウェルら4名が一同に会した。「最大のヤマは、---そう、2.13日---吉田外相が住んでいた外務省の官邸での会合でした」とケーディス大佐に回顧されている秘密会談が持たれた。お互いの憲法草案を見せ合い議論する場となっていたが、実際には「GHQ」草案が松本.吉田の目の前に置かれ目を通すよう指示された。「総司令部でモデル案をつくった。これを渡すから、その案に基づいた日本案を急いで起草してもらいたい。暫く庭を散歩してくるから、その間に案文を読むように」。草案は今日の憲法にある通りの大変革的な内容になっていた。「天皇象徴制」、「戦争廃止.武力使用の放棄」、「一院制議会」。松本と吉田の目には、あまりにも急進的な国情に合わぬ未だかってみたことのない条項案が連ねられていた。ホイットニー局長は、「マッカーサー元帥はこの程度以下の案はいかなるものも全然考慮に入れない。この草案の精神に反せぬ限りのささいな修正には応ずるであろう」、「この草案の諸規定が受け入れられるならば、天皇は安泰になるだろう」と申し渡した。

 こうした経過を経て、「GHQ」草案が下敷きの新憲法作成が急がれていくことになった。実際には翻訳であったと思われる。この経過で、「GHQ」による「天皇の身柄を人質に取った強制」があったのか、あくまで「日本側の賛同した自発的意思」が伴っていたものなのか今日でも定かではない。はっきりしていることは、新憲法の理想的精神について、幣原首相とマッカーサー元帥との間で白熱共鳴のやり取りが為されている史実があることは確かである。但し、第9条の「武装放棄」については、幣原はマッカーサー元帥に、マッカーサー元帥は幣原の発案としてお互いが譲り合っている。概要「幣原はさらに、世界の信用をなくした日本にとって、二度と戦争は起こさないということをハッキリと世界に声明することが、ただそれだけが敗戦国日本の信用を勝ち得る唯一の堂々の道ではなかろうかというようなことを話して、二人は大いに共鳴した」(羽室メモ)とある。「中途半端な、役にも立たない軍備を持つよりも、むしろ積極的に軍備を全廃し、戦争を放棄してしまうのが、一番確実な方法だと思う」、「旧軍部がいつの日か再び権力を握るような手段を未然に打ち消すことになり、又日本は再び戦争を起こす意思は絶対無いことを世界に納得させるという、ニ重の目的が達せられる」と幣原首相は述べたと伝えられている。憲法前文及び第9条の「武装放棄」について現実乖離の理想主義が刻印されていることは事実であり、こうした理想主義条項が憲法条項に馴染むものかどうか議論の余地がある。とはいえ、新憲法は、白昼夢として現にこれを成分化するという前例のない栄誉を担った。背景にあったのは史上未曾有規模の第二次世界大戦のもたらした荒廃であり、原子爆弾が保有され人類絶滅の危機が現実となったという歴史の歩みである。こうなると、これを非現実的理想主義とみなすか現実的理想主義として受け止めるのかは受け止め側の姿勢かも知れない。
(私論.私見) 新憲法の「特定価値観の成文条項化」について
 今日、新憲法9条の「自衛戦争も兵力保持も禁じた絶対平和主義条項」の成文化について、「立憲主義と矛盾する」との指摘が為されている。「立憲主義」は、多様な価値観を持つ人が共存できる社会作りのルールであるべきだが、絶対平和主義がこれに抵触しているのではないかとの見方が喧伝されつつある。絶対平和主義が、有効性を無視して、攻められても戦わないという生き方の価値観を押しつけるものとすれば、「公共空間を特定の価値観で占拠」するものではないかとの疑義が為されている(長谷部恭男東大教授)。これをどうみなすべきだろうか。

 こうした論を徹底すれば、多様な価値観の折衷こそが相応しい条項であるということになるであろう。しかし、多様な価値観の折衷とは一体如何なる面貌になるのだろう。私には机上の形而上的空論としか思えない。むしろ、歴史のセンテンスで有効な内容が逐一的に条項化されるのが常の世であり、新憲法制定化当時「9条規定」は有効な生きた条項であったのであり、現在護持されるべきか修正されるべきかが問われているのは事実ではあるが、いささかも形而上学的な論理には馴染まないと応戦したい。
(私論.私見) 新憲法の「天皇制存続」について
 アメリカは、占領行政を円滑にする為に天皇制の存続に踏み切ったそれは、日本の天皇制存続が占領軍20ヶ師団の存在に匹敵するとの評価からもたらされたと推定されている。

【大物党員野坂参三の帰国】
 こうした時期の党運動に早くも転機が訪れる。国外で党活動を展開していたもう一方の大物党員野坂参三が鳴り物入りで帰国してくることになった。

 野坂の経歴は次の通りである。
 1917(大正5)年、ロシア2月革命の真っ只中に慶応大学理財科を卒業、鈴木文治氏の友愛会(総同盟の前身)の書記となり、同8年渡英、1920年イギリス共産党に入党。英国追放後にソ連に入り、同10年のイルクーツク極東会議に出席。翌11年帰国して母校慶応の講師となる。22年の日共の創立に参加。1928年の3.15事件の大弾圧で検挙されるまでの野坂は、友愛会書記、総同盟調査部、慶応大学臨時講師、産業労働調査所所長などの道を歩き、合法面での活動に従事していて、党の中枢部にはいなかった。だが、党創立時の指導部たる佐野学、鍋山貞親などの転向、堺利彦、山川均などの脱落、市川正一などの獄死によって、22.7月結党参加者のうち、戦後の再建日共にとどまっていたのは、徳球を除けば野坂一人であった。しかも、3.15で検挙されながら、30.3月眼疾手術と称する一種の偽装転向をもって出獄、翼31(昭和6)年、コミンテルン日本代表として夫人と共に日本を脱出入ソ、以後40年までコミンテルンに常駐し、モスクワ、米国、中国において共産主義運動に活躍。

 1935(昭和10)年の第7回コミンテルン大会に参加。以降アメリカ西海岸に潜伏4年間。1935年のには故片山潜に代わって執行委員に選ばれた。1943年(昭和18)モスクワから中国の延安へと移り、日本工農学校を組織(最終的に250名に達していた)し、日本軍捕虜の思想教育に携わり、日本人反戦同盟、日本人解放連盟を組織し、戦争反対、民主主義日本の建設をスローガンに掲げて活動していた。46.1.12日戦後党運動にあっては徳球と並ぶ日共内の最古参幹部党員の一人であるということと海外活動での国際的権威を被せて凱旋してきた。

 野坂は、1944年(昭和19)に延安で、ジョン・エマーソンにより事情聴取を受けている。この時野坂は、平和革命路線を約束している。 1945年(昭和20)敗戦直前にアメリカ国務省のJ・エマーソンが、大山郁夫と野坂参三に「海外の亡命者と連携して日本の民主主義政権を準備する」案を提示している。大山は反対したが、野坂は賛成したとある(高橋彦博・日本国憲法体制の形成-264)(関連サイト「野坂参三論」)。

 この当時の党一般の風潮として権威拝き主義が顕著であり、徳田ら府中派もそうした権威に基づいて執行部に治まったのであることを考えると、このような名望を得ている国外派の第一人者野坂参三も又執行部を形成するのに十分な資格を有していたことになる。

 1.5日、野坂の凱旋が近づく形勢になり、徳田党中央は次のような声明を発表している。天皇制を廻っての見解として次のように述べている。

 概要「天皇制を全的に否定しないで、傀儡ないし信仰対象としては存在を許し得ようという意見は、彼の終戦前における見解であって、一たん帰国して日本民主変革の現状勢に触れた暁は、必ず我々の主張たる天皇制の徹底的打倒という方針に完全に意見一致することを信じて疑わない」。

 人民戦線の見解として次のように述べている。
 「また真の民主主義勢力との協同に基づく人民戦線の全的展開は同志野坂のいうとおり我々も極力これに当たっているが、現在社会党幹部の拒否に遭い所期の目的を改めていないが、彼の帰国と共にこの闘争も成功するであろうと信じている」。

 その野坂が1.12日、博多港に帰国した。16年ぶりの中国延安からの凱旋であった。満州.朝鮮を経て博多に上陸した野坂は翌日東上し、出迎えに志賀、松本一三、岡田、亀山らが出向いた後、党本部で待ち受ける徳球と直ちに会見した。

 この当時の野坂の評価は大宅壮一の次の一文が見事に語っている。
 「現在、日本共産党の最高幹部、最高指導者の一人であるというばかりでなく、マルクス.レーニン主義に対する理解の深さ、その人間的な幅の広さの点で、日本共産党陣営内で彼の右に出るものはなく、共産主義者ばかりでなく非共産主義者の間にも、彼の支持者が圧倒的に多い。これまでの彼の全生涯は、マルクス.レーニン主義の研究とその実践に捧げられたといっても過言ではない」。

 河上肇氏も、「同志野坂 新たに帰る まさにこれ百万の援兵 我が軍これより 更に大に振ふべし」という書簡を贈った。信夫清三郎氏は、「戦後日本政治史1」の中で次のように記している。

 「社会党と共産党のいがみ合いは、人民戦線の形成に革命の遂行を期待する国民大衆を大きく失望させた。国民大衆のただ一つの期待は、野坂参三の帰国にかけられていた。何よりも彼が身に付けているであろう国際的感覚が日本の革命に新しい道を切り開いてくれるであろうと国民大衆の注目を集めていた」。
(私論.私見) 野坂凱旋歓迎のコメントについて
 当時の限られた情報の中では致し方ないとはいえ、野坂に対するかような賛辞は追従以外の何ものでもない。れんだいこ史観に照らせば、大宅壮一、河上肇、信夫清三郎らの俗物性を賞しているに思われる。太田龍・氏は、「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」の中で次のように述べている。
 「延安から帰国した日本共産党の野坂参三らも、筋金入りのユダヤ・フリーメーソンの工作員であったろう」。

【徳球−志賀党中央と野坂が会談する】
 こうして野坂の帰国は氏の執行部入りをめぐって徳球執行部との折り合いのつけられ方が注目されることとなった。なお、野坂が「天皇制打倒」や「人民戦線綱領」について柔軟な見解をとっているが伝聞されていたことから、徳球−志賀の「天皇制廃止」、「天皇筆頭戦犯論」との擦りあわせがどのように推移するのか注目されるところとなった。こうした事情を背景にして徳球.志賀と野坂の夜を徹して討議が行われた。1.14日朝、野坂は徳球に伴われてマッカーサー司令部を訪問した。

 
この遣り取りに着いて野坂は次のように述べている。
 「日本に帰ってきて少し驚いたことには、私と党の中央委員、特に徳田・志賀と意見の対立があるという噂があつたことだ。これは根拠の無いデマである。例えば、天皇制の問題についても、意見の対立がある、という風に云われていたが、私の云ったことが誤まり伝えられているらしい。しかし、昨今の晩、此処に来て徳田・志賀と討論をした、どの位時間がかかつたかというと、僅かに30秒話したてみたら、違うところは少しも無い。仮に違ったところがあったとしても、私は日本共産党員として、中央委員会の決定に無条件で服従する。勿論そのような必要は無い。この問題については今日、私と中央委員会の名で共同の声明を発した」。野坂一流のオトボケと有害無益な思想を早くも述べていることが分かる。

 野坂一流のオトボケと有害無益な思想を早くも述べていることが分かる。
(私論.私見) この時の共同声明における徳球・志賀の権限及び独走について
 徳球・志賀・野坂の三者会談後直ちに「同志野坂と中央委員会の共同声明」を発表したが、この時徳球・志賀は7名いた他の中央委員間に根回しせずままに中央委員会名で声明を発表している。執行部権限として許されるのか、所定の根回しを経るべきか機関民主主義の観点から考察されるべきことであるように思われる。袴田が「私の戦後史」の中で疑義を表明しているが、一理あるように思われる。特に、天皇制を廻っての重大な態度変更が為されているわけだから、後日の追認にせよ機関決定が必要であったことは確かであろう。

【「同志野坂と中央委員会の共同声明」】
 その後代々木の党本部で、野坂と志賀が記者会見を行い「同志野坂と中央委員会の共同声明」を発表した。徳球理論と野坂理論の摺り合わせの結果は次のようなものであった。声明は、天皇制問題.統一戦線問題.統一戦線の在り方の3項目からなっていた。声明は冒頭で
 「(野坂の帰国は)日本の民衆にとって百万の援兵を得たと云うべきである。その多年にわたる豊富な国際的経験、ことに中国における日本軍国主義の大軍を崩壊させるために演じた偉大な闘争の成果は、今まさに始まった民主主義的変革を日本国民が成就する上に、卓越した教訓をわれわれに与えてくれるであろう」との大賛辞から始められている。

 野坂は天皇制について次のように述べた。
 「天皇制打倒の方針の正しさを認めることに、我々の意見は完全に一致した。天皇制の打倒とは、これを国家の制度として排除することであり、その上で、皇室の存続がいかになるということは、自ずから別個の問題である。それは将来、日本の民主主義化が達成される時、日本国民の意思によって決定されるべきものである」(1.22日付けアカハタ)。

 この時の野坂の天皇制と皇室の存続とを分離して対処しようとする考えは柔軟であった。1.15日朝日新聞は一面トップで、「天皇の政治権力剥奪、皇統存廃は国民の判断にまつ 野坂迎え共産党態度修正」と報道された。
(私論.私観) 野坂の「天皇制と天皇家の認識分離論」について
 「天皇制と天皇家とを区別する方向の打ち出しは、認識の発展ではあったが、これは明らかに『人民に訴う』路線からの大きな軌道修正であった」。

 これについて、神山茂夫は後に「日本共産党戦後重要資料集」の「解説」において、次のように批判している。
 「この会談は何の摩擦も無く、わずか数分(一部の人は30秒とか、十数秒とかいう)で極めて簡単に片付いてしまったという。重大な戦略問題に関する、しかも、これまでの党の方針と明らかに相反する新戦術構想を公表していた野坂を迎えてのこの会議が、このように簡単に『意見の一致』を見たところにこそ問題がある。共同声明に見られるような徳田・志賀的方針の明らかな修正も、それ以前の党の公表してきたものとの対比の上で、これを明瞭に自己批判することを通じて行われたのではなかった。

 また『天皇制打倒』の問題に関しては、『天皇制打倒』を『天皇制廃止』と言葉を和らげたのみであって、この天皇制廃止という戦略目標が、人民戦線ないし民主戦線の統一の問題の展開の見地からどのように扱わねばならないのか、すなわち、天皇制打倒のブルジョア民主主義革命方式と、そのもとに行われるべき民主戦線統一の為の行動との差異と云うことに関しては、何らの意見の表明も為されなかった。

 この会談によって、党のボルシェヴィキ的批判と自己批判を全く欠如した、双方の側からの曖昧な妥協と合理化が行われたのである。ここに、野坂の民主戦線に関する提唱が、より正しかったにも関わらず、問題が全面的に解決されることなく、党内になお未解決の不明瞭なものが残らなければならなかった。しかもそれは第5回大会の諸決定に持ち越された」。

 この神山による批判は『野坂の民主戦線に関する提唱が、より正しかったにも関わらず』とあるように、もっと右派的見地から為された党中央批判であるが、『党のボルシェヴィキ的批判と自己批判を全く欠如した、双方の側からの曖昧な妥協と合理化が行われたのである』という認識は適格であろう。問題は、左派的見地から、野坂の右派的理論を追及すべきであっただろう。
 統一戦線問題では、「いたづらに暴力を弄ぶことはせず」という文句が挿入され、統一戦線の在り方でも「決して一党派の立場のみを固執せず相互に妥協すべきところは妥協すべきである」という文句が挿入されることとなった。この文面を見れば徳田が大幅に野坂に譲歩した内容となっていることが明らかだった。共同声明は、「民主主義的統一戦線」の結成を、志を同じくする全ての民主主義者に訴えた。これを受けて、1.15日山川均氏は、「民主人民戦線」を提唱し、共産党は勿論のこと社会党左派勢力がこれを支持した。

 共同声明後党本部で歓迎会が催された。野坂は、党本部二階の赤旗編集局内で挨拶し、次のように述べている。
 概要「日本共産党は、最近までは宣伝団体であったが、今は政治を動かす政党である。諸君は頭を切り替え、考え方を改めねばならぬ。本当に政党となり、政治を動かすには、人民の党であり、大衆と国民の党であらねばならない。それには人民から愛される党であり、共産党と聞いて国民が逃げ出すような印象を与えてはならない」。

 文中の「人民から愛される党」が新聞見出しで「愛される党」となり、野坂が「『愛される共産党』とならねばならぬ」と説いたと喧伝されることになった。これがたちまちジャーナリズムの話題となり、以後の党の格好のキャッチフレーズとなった。野坂は続いて、統一戦線、人民戦線、民族戦線の違いを説明しながら「我々は日本民族の大多数を含む戦線をつくらなければならない。日本は亡国の運命を辿るか、あるいは復興するか、この危機を救うのは誰か。我々のつくらんとする民主戦線だと思う」と述べた。
(私論.私観) 徳球・志賀執行部の歴史的妥協の是非について
 この時徳球・志賀執行部は、野坂のこうした「右派的な見地からの決意表明を、これを右派的と判断し退ける能力を持ち合わせていなかった。当時の党幹部の面々の力量として踏まえておく必要があると思われる。

 結果的に、徳球−志賀執行部は、理論面を野坂に譲り、党運営の実質上の指揮権については微動だにさせず確保したという取引を為したことになる。コミンテルンの威光を放つ野坂とのギリギリの妥協点であったかも知れぬが、野坂のスパイ性が明白なっている今日から見れば種々問題性も残されている。しかし、歴史の渦中としては無用の混乱を起すことは得策でないとして避けたという致し方ない面もあったであろうかとも思う。
(私論.私観) 野坂理論の役割について
 私が注目するのはこの声明の前と後で党の方針がどう変化したかという点である。野坂は党をより急進的にしたのか穏和化に変質させたのか。答えは後者である。野坂の政治理論を右派系と見なすことに何ら疑問はいらない。は野坂氏の登場以後「愛される共産党」という表現や「天皇制の打倒」が「天皇制の廃止」という表現に切り替えられることになったことで判るように、野坂理論は党の穏和運動化へと機能することとなった。それはそれでそうした傾向を望む党内外の支持を集めていくことになった。「共同声明」はこうした野坂理論の延長上に立つもので、以後野坂氏の影響の及ぶ範囲内においては「」急進主義を排した民主運動を統一戦線理論で押し進めるという穏健派路線が党内に浸透していくところとなった。 この点で、1.15日の朝日新聞は、一面トップに、「天皇の政治権力剥奪、皇統存廃は国民の判断にまつ 野坂氏迎え共産党態度修正」と報道したことは的確であったと思われる。
(私論.私観) 野坂のスパイ的本質について
 今日の史実が明らかにするところにより、この時野坂が演じた立ち回りにつき野坂評価論は大きく変更が迫られるべきであろう。さし当たっては野坂氏がそのように受け取られたと云うことを確認するのみである。今日明らかにされている野坂氏の実際は、ソ連特務機関の情報員であるばかりか米国特務機関員でもあった。露見した米国OSS秘密文書によると、野坂氏は中国の延安に滞在中の1944年米国中央情報局(CIA)の前身の情報機関である戦略事務局(OSS)に40万ドルの工作資金要請をし、当時日本の支配下にあった満州.朝鮮及び日本本土に浸透する工作員を派遣し、対日浸透工作に協力することを提案さえしていた。つまり、この帰国時点で、ソ連のみならず米国との二重スパイ者であったことになる。

 この野坂について次の疑惑が明かされている。
 「3.15事件で逮捕された野坂が、眼病で保釈されて、日本から脱出する。この時、共産党を牛耳っていたのは松村(スパイM)で、時の委員長.風間丈吉は、『彼をソ連へ送ろうと決めたのは自分だけども、国際連絡とか資金とかの秘密活動は全て松村がやった』と書いている。だから、松村の関連なしに、野坂が行くわけないですよ。共産党は、『いや、それは風間と紺野与次郎がやったことだ』などと反論しているが、それに対して袴田が『紺野なんて駆け出しに過ぎなかった。スパイ松村が何も知らなかったなどということは絶対にありえない』と再批判している。そもそも眼病での保釈にしろ保釈中の国外脱出にしろ、当時の客観的状況としては普通ではあり得ないことだ。松村という存在を考えたら、どちらかといえば野坂には既に当局とコネクションがあった可能性があると、僕は思うけどね」(立花隆「闇の男」194P)。
(私論.私観) 野坂の失脚に伴う諸問題について
 党創立70周年の式典が終わってまもない1992.9.17日、党中央委員会は野坂氏の名誉議長解任を決定、12.27日除名処分を決議、こうして野坂氏は失脚したが、氏のこうした過去の指導理論や政治的立場が与えた影響又は役割についての解明は行われていない。この方面に対する総括無しに除名で済ましている現状は大いに問題が有るというべきであろう。

【野坂理論について】
 ここで野坂氏の政治理論を一瞥すれば次のようなものであった。

一、「平和革命コース理論」について

 「平和的に且つ民主主義的方法によって」、「民主主義人民政府の樹立」を目指すが、その政府の権力は「人民の選挙による」、「一院制議会を主幹とする」ものであり、「ブルジョア民主主義革命が完成されたのちは」、「平和的且つ民主主義的方法により」、「社会主義制度へ発展せしむることを期」し、「之が実現にあたっては、党は暴力を用いず、独裁を排し」、「平和的教育手段を以てこれを遂行せんと」欲し、「資本主義を直ちに廃止して、社会主義制度を実現することを主張するものではない」ということにあった。つまり、俗に「平和革命コース理論」と云われるものであり、党の活動を議会主義によりブルジョア民主主義革命の枠内に押しとどめようとする代物であった。


 
野坂理論の本質的特徴は、戦後の余塵まだくすぶる中の46年頃の客観情勢上げ潮時期に大衆運動の整列化を呼びかけるという大衆闘争抑制理論であったが、この理論を徳田執行部が受け入れたことにより、早くもこの時期から党がこのような理論に汚染されていくことになったということが知られねばならない。

二、「三段階革命論」について

 ジョン.エマーソンが延安の洞窟内で野坂参三から聴取した意見を基礎とし、次のような内容の「延安報告」をワシントンに書き送っている。それによると、概要「野坂参三の三段階革命論の第一段階では、軍国主義が破壊せられ、デモクラシーが確立される。この期間は相当長期と考えられる。このブルジョワ民主主義革命は漸進していって、第二段階で確立される。その後第三段階において初めて社会主義革命が確立される。この期間は相当長期であり、野坂の存命中に日本の社会主義革命が実現するとは思えない」。つまり、意見が分かれていたこの当時の革命の運動方向について、とりあえず軍国主義的封建政治の打破を目標にしたブルジョワ民主主義革命かいきなりの社会主義を目標とするプロレタリア革命かに対して、野坂は明快にブルジョワ民主主義革命を指標していたことになる。

(私論.私観) 日本共産党の革命戦略論について
 ここで付言すれば次のように言えることになる。日本共産党は、結党以来、社会主義革命を直接に目指したことはない。正確にいえば、1931年(昭 和6年)1月頃風間丈吉が中央ビューローを再建させた時代にコミンテルンより「31年テーゼ草案」が発表され、後にも先にも 党が直接プロレタリア革命を戦略志向させたのはこの時限りとなる、党史上初めての一段階革命論によるプロレタリア革命を指針させたことがある。但し、この当時「祖国」ソビエトにおいてスターリンの粛清が吹き荒れ、「31年テーゼ草案」の提案者であったサハロフがトロッキストであると して追放されたことにより、「31年テーゼ草案」は露ほどの命脈となった。

 こうした事情から新テーゼの作成が模索されることに なり、出来上がったのが翌32年(昭和7年)5月に「日本共産党の任務に関するテー ゼ」として発表されたいわゆる「32年テーゼ」である。「32年テーゼ」は、日本革命の 性質を「プロレタリア革命から、社会主義革命に強行的に転化する傾向を持つブルジョワ民主主義革命」へと変更し、前年の「31年テーゼ草案」と比較すればかなり穏和化した戦略・戦術を指針させていた。ただし、この新テーゼは、 他方で「天皇制打倒」を第一の任務として課すという強硬方針を掲げており、天皇制に関しては急進主義的な部分も取り込んでいた。徳田も含めたこの頃の党員が金科玉条視していたのはこの「32年テーゼ」の方である


 この「32年テーゼ」に照らしてみて野坂理論がどうなのかを検証することが肝要であるように思われる。「延安報告」に見られる野坂理論は、一見「32年テーゼ」の二段階革命論に照応しているようにも思えるが、仔細に之を勘案すれば、むしろ前段階としての「軍国主義的封建政治の打破」運動をブルジョワ民主主義革命と区分した前提にしており、むしろ「三段階革命論」に近いものとなっている。

三、天皇制に対する態度について
 「延安報告」は、野坂の天皇の処遇に関するこの当時にあっては特異な観点を紹介している。概要「1922年(大正11)以来、すべての日本共産党綱領は専制君主制の否定を主張し続けてきた。1927年コミンテルン.テーゼも天皇制の廃止を要求した。31年テーゼも天皇制の転覆を要求した。さらに32年テーゼは、専制君主制の破壊が日本の革命の第一課題だと主張した。ところが野坂は、天皇制の廃止に関し、戦争終結に際しては何もしてはならないと述べた。日本の人民は天皇制廃止に心の準備ができていないのだから、日本共産党は、いきなり天皇制打倒の古いスローガンなど持ち出したりしてはならない」と主張していた。

 野坂の天皇制観は、次のようなものであった。天皇は二つの作用を持っており、第一は、日本の封建的専制独裁政治機構の首長ないし中心の面である。第二は、現身神として半宗教的役割を演じている面である。この二つの作用は相互に結びついているが、分離することも出来る。前者に対してはただちに撤廃して民主制度を実現せねばならぬ。後者に対しては慎重を期すべきである。過去70年間に人民の心底に植え付けられた天皇又は皇室信仰は相当に根深く、軽視できない。つまり、天皇制打倒論に対する待ったをかけた役割を担った。こうした野坂式天皇制観は天皇制擁護の論調として受け止められ、一定の波紋を呼んでいた。この考えは日本共産党の伝統的天皇観の大胆な転換意見であった。

四、「愛される共産党」について
 「共産党は本当の政党になり、日本の政治を動かすようにならなければならない。日本の大衆、人民から愛され、支持される党でなければならない。共産党の名前を聞いて逃げ出すような党ではだめだ」。この発言は、後にこう述懐されている。「当時、日本では愛情が欠けていた。殺伐な、虚無的な状態だった。愛という言葉は、非常に新鮮な感じを与えた」(71.9.6「赤旗」)。
(私論.私観) 野坂理論と不破「人民的議会主義」理論との酷似性について
 付言すれば、この方針は今日の不破執行部のそれと瓜二つであることに気づかされるであろう。

【「野坂氏歓迎国民大会」】
 1.26日、「野坂氏歓迎国民大会」が東京.日比谷公園で開かれた。3万人余の国民を集めて盛り上がり、これが戦後初の大衆的大集会となった。大会委員長は山川均、司会は荒畑寒村、副司会は島上善五郎.黒木重徳であった。党幹部はもとより社会主義運動草創期のメンバーを始め社会党からは水谷長三郎.島上禅五郎.片山哲.加藤勘十ら社会党幹部、労働組合幹部、室伏高信.細川嘉六.神近市子ら文化人などが参集し、交々演壇に立った。超党派の顔ぶれが出揃った。憲政の神様尾崎行雄も「欣然賛成する」というメッセージを寄せた。野坂が約1時間余熱弁を奮い、民主戦線結成を訴えた。集会後、自然発生的にデモが始まり、首相官邸まで行進した。「これが戦後最初の都心における大衆的示威行進となった。

 この様子は朝日新聞(1.27)で一面トップで大きく報じられた程であった。
「新たな愛国戦線へ 危機打開に大衆の結束」(朝日新聞)、「民主戦線今や成る!」(読売報知)。

 こうして「野坂氏歓迎国民大会」は、戦後左派運動の合流点となった。終戦の日からわずか半年、いわわる「民主人民戦線」への動きが共産党主導の下で生み出されつつあった。

【川上肇について】
 1.30日、河上肇博士が逝去した(67歳)。河上氏の足跡と評価は今日においても十分ではない。河上氏はマルクス主義経済学者の先覚者であり、その業績も嚇々たるものがあったが、弟子の櫛田民蔵から「河上の社会主義は人道主義的」と批判されたり、福本和夫からは「マッハ的経験批判論」だと弾劾される面もあった。その河上は32年に京大教授の職を投げ打ち、「マルクス主義の理論と実践の統一」を求めて入党し、直ちに地下活動に入った。翌33.1月に検挙され、執行猶予無しの5年の判決を受けて下獄した。獄中の河上は夫人宛てに手記「獄中独語」を書き綴り、これが検事により新聞紙上に発表され事実上転向視された。しかし、河上氏の「独語」は、「マルクス主義の正しさを信ずる故に学究に戻る」という意味で、同時的に発表された佐野学や鍋山貞親、三田村四郎らの転向声明とは異質であった。

 ところが、当時の党中央(恐らく宮本派の指導による)は、「実践を放棄する『転向』であり、佐野・鍋山・三田村一派の公然たる裏切りに比して劣ることなき危険有害なる売党行為」であると決め付け、「反党分子」の烙印を押して除名処分に附した。こうして、河上は終戦の日まで、片方で特高の保護観察下に置かれ、蔵書も没収され、糧道も断たれる責め苦を受けながら、他方で党中央からも「恥ずべき転向者」として扱われるという傷心の日々を送る身となった。

 敗戦を迎えた河上は、「いざ我も病の床をはいいでて、晴れ行く空の光仰がむ」と立ち上がる気概を示した。河上を恩師として慕っていた黒木重徳は、徳田に「河上肇に関する一部始終」を聞かせたところ、徳田は直ちに黒木を党代表として京都にいた河上のもとへ走らせ、「除名の誤りを自己批判し、復党を要請する」措置をとった。その行為に応じた河上は、45.12月に行われた党の再建大会で党員として登録され、翌46.1.12日野坂参三の凱旋に対して「同志野坂を迎えて」なる詩を贈っている。が、その半月後の1.30日67歳の生涯を終えた。

 「擬辞世」で、「多少の波瀾、68年。いささか信ずるところに従い、流れに逆らいで船を掉させり。浮沈得失は衆目の憐れむに任す、伏して地に恥じず、仰いで天にはずるなし」と謳っていた。

 1980年.1.30日河上肇の没後百年際が行われたが、奇妙なことになった。「百年記念祭実行委員会」(大阪本拠)と「百年祭推進本部」(京都本拠)の二つの団体が出来て、互いに記念のカンパ二アを競い合った。河上評価を廻って、「実行委員会」側は、「マルクス主義の偉大な先達」としたが、「推進本部」側は、「求道者とも、マルクス主義経済学の開拓者とも云われて‐‐‐」との表現で、「単なるヒューマニスト」的に見ようとしていた。これに対し、両団体と一線を画した共産党は東京で記念講演会を開き、「単なる『求道者』とか『教養人』とみるだけでなく、革命運動に身を投じた人物」として位置付け、概要「同時に我が党は、革命家、共産党員としての河上肇には限界と制約があったが、それにも関わらず、その晩年においても日本共産党こそ『革命の旗』の担い手であるとする立場を失わなかったところに、河上肇の『革命的魂』があったとみている」と公式見解を発表した。

 問題は、この後の次の一文にある。しかし、「独語」については、「むしろ自己の挫折と没落と敗北の宣言」とみなし、党が河上を除名したのは「当然のことであった」と断じ、「『マルクス主義は正しいと思うが実際運動はやらない』というのは、社会の法則的発展はその法則を自覚した人々の主体的、革命的実践によってこそ現実のものとなるのに、その実践をしないのは社会と歴史の発展に対する自己の責任を果たさないことであり、反動勢力との闘争の放棄であり、科学的社会主義の理論にも忠実でない」としていたことにある。つまり、「徳田、黒木らのとった措置を理屈づくめでひっくり返したのであった」。

【「総同盟」の結成の動き】
 1.17日、「日本労働組合総同盟」(総同盟)結成のための拡大中央準備委員会が結成された。右派松岡駒吉.西尾末広らと左派島上善五郎.山花秀雄.安平鹿一.高野実らとの合同であった。日本社会党を中心とする民主主義勢力結集等の政治方針や、府県別連合会方式をとる組織方針等を決定した。つまり、社会党支持色を強め、共産党の主唱していた産業別組織方針を否定する等反日本共産党色を明確にさせたということである。4月末時点で、1600組合、65万人が組織された。6月段階では、12.000組合、368万名が組織された。共産党の指導する生産管理戦術、メーデーの急進化に反対し組合の独自性を確認した。

【三菱美唄炭鉱の生産管理闘争】
 2.8日、三菱美唄炭鉱労働者が生産管理闘争に突入した。背後に、賃上げ、加配米など11項目の要求に所長はじめ経営側が頑強に拒否し続けた経過があった。2.17日約2千名の労働者が臨時大会を開き、所長・副所長を連れ出し、三日間に及ぶ大衆団交を開く等攻勢的な争議を展開している。2.19日遂に会社側が折れ、要求を獲得している。この経験が伝播され、常磐炭鉱に及ぶ。

【闘う共産党員】
 この時期主要都市には餓死者が現れ、一般大衆は食糧の確保に追われていた。食糧難と生活難に直面した都市大衆は、労働者を中心に自発的に立ち上がり始めていた。労働組合が結成され、争議とストライキの波が起こりだしていた。農村でも小作争議と土地闘争が拡大した。こうしたあらゆる大衆闘争の先頭に共産党員が立ち、党の影響力が急速に拡大していった。闘争を通じて戦闘的分子が次々と入党してきた。この時期は党にとって最も有利な社会情勢下にあった。党は、「経営管理又は生産管理運動」を指導していた。この流れでゼネストへと向かい、人民政府樹立を画策するというのが戦術ともなっていた。

【食糧の自主管理闘争】
 労働組合の急速な組織化と生産管理闘争の爆発は、続いて食糧の自主管理闘争へと発展していった。戦時中の隠匿物資の摘発及び自主管理や米よこせ闘争を通じて市民食糧管理委員会の結成へと続いていった。東京の杉並区や世田谷区で先端的闘争が切り開かれていった。46.2.11日関東食糧民主協議会が労組を中心に結成されたが、「労働組合の生産管理、農民組織の供出米管理、市民の配給管理を結合した食糧の人民管理の実現こそ、我々が飢餓を突破する唯一の活路である」との方針を決定していた。

 2.9日、日本新聞通信放送労働組合結成される。
 2.10日、日本新聞通信放送労働組合の呼びかけで、金属、炭鉱など5産業別組合が第1回産業別会議準備会を持つ。この動きは必ずしも共産党の指導によるものではなく、組合幹部が自発的に動いた形跡がある。共産党はこの動きを歓迎し支援したというのが実際のようである。しかし、産別総組合の性格を廻って対立を発生させている。
 2月初旬、幣原内閣の内務、司法、商工、厚生の4相が労働者の生産管理を違法として弾圧を宣言した。しかしGHQは干渉しないと言明した。
 2.21日、マッカーサーは、幣原首相に対して、「極東委員会の論議は日本にとってまことに不利な情勢にある。ソ連やオーストラリアは依然として甚だしく日本を警戒し、特に天皇制に激しく反対している。自分は天皇制を維持したいと思うから、この際、日本政府は我々の憲法草案の原則を、できるだけ早く受け入れることが必要である」と表明した。この言葉の裏には、「グズグズしていると、極東委員が行動を起こし、ソ連とその同調国によって、天皇制は廃止され、日本は共和国にされる恐れがあるぞ」という警鐘があった。幣原が「新憲法の基本原則は何か」と尋ねると、マッカーサーは、「それは二つだ。天皇を象徴にすることと戦争放棄である」と答えている。翌2.22日幣原首相と吉田外相と楢崎書記官長は天皇に拝謁し、新憲法の概要を奏上した。天皇は、「徹底的な改革をするのが良い。たとえ天皇自身から政治的機能の全てを剥奪するほどのものであっても、心配することはない。私は全面的に支持する」と答えられたと云われている。幣原は、概要「意を強くして閣議に臨む決心が出来た」(幣原喜重郎伝)と後日明かしている。 
【山下将軍絞首刑される】
 2.23日午前3時27分、「マレーの虎」の異名で称えられていた山下将軍はマニラ郊外のニュー・ビリビド刑務所の絞首刑台の露と消えた。この経過は次の通り。1945.12.7日、山下の死刑判決が下されている。山下大将の戦争犯罪については容易に確定できなかったが、マッカーサーの後押しもあって一瀉千里に死刑へと向かった。

 刑場に行く途中、山下大将は森田教誨師に次の辞世の句を伝えた。
 「満ちて欠け、晴れて曇りに、変われどもろ、永久(とわ)に冴え澄む、大空の月」
 「待て暫し、勲(いさお)残して逝きしとも、後な慕いて我も行きなん」

 2.26日、「GHQ草案」を基礎として憲法改正を行うことを閣議で決め、3.4日、日本側修正案を示して折衝に入り、3.6日成案を得て閣議決定後、天皇の勅語及び首相談話と共に「憲法改正草案要綱」として発表された。新聞各紙の論調は、「画期的な平和憲法」(3.7日朝日新聞)、「憲法草案と世界平和」(3.8日毎日新聞)、「民主主義平和国家の構想」(3.8日日本経済新聞)とこれを高く評価する姿勢を見せていた。但し、「政府の憲法改正草案要綱なる」(3.8日東京新聞)の客観記述と「人民憲法の制定」(読売放置新聞)として危惧する立場からの報道も為されていた。内閣書記官長の樽橋渡は、「自由党、社会党双方の度肝を抜く草案だ。共産党より右で社会党より左だよ」というコメントを残している。
【 「農地改革」の動き】
 1945.12.9日、マッカーサーは、「日本の農民の奴隷状態からの解放のため農地改革を行うよう日本政府に指令」した。この当時、全農地の約46%に当たる236万haが小作地で、にも関わらず小作.自作農家は約7割を占めていた。幣原内閣の農林大臣には戦前からの自作農創設論者であった松村謙三が就任した。松村は、直ちに、和田博雄を農政局長、東畑四郎を農政課長に起用し、農地改革案の作成を指示した。これらの農林官僚たちは、わずか四日間で農地改革案を作成した。この問題について大正時代以来研究が蓄積されていたということになる。小作料の金納化、農地委員会の公選などを骨子としていた。地主の土地保有限度を松村案は1.5町歩(約1.5ha)、農林省原案は3町歩(約3ha)、閣議を経た結果5町歩(約5ha)となった。

 3.15日、日本政府は第一次のうち改革案を「GHQ」に提出したが、その内容は《時代錯誤もはなはだしいもの》と拒否された。

 2月から第一次農地改革が行われた。しかし、在村地主に5町歩の小作地を持つことや、家族への土地配分も許されたり、小作料に金納のほか物納をも認めて、地主本意の性格が見られた。この不徹底さが対日理事会で指摘され、改革の徹底が勧告されることになった。

 農地改革を逃れようと策動する地主に対して、土地取り上げ反対、小作料減免、村政治刷新.民主化の戦いが全国各地で展開された。強権的供出反対と不当課税反対の闘争が、農民運動史上かってない大規模な大衆闘争として戦われた。2.9日日本農民組合日農が再建された。再建された日農は公称120万に達する組織に発展していくこととなった。農地改革を進める上で大きな力となった。


【戦後党史第一期】.【ミニ第A期】
 46.2月、野坂が帰国し、野坂の右派系政治理論が党に影響を及ぼし始める。党は、【ミニ第@期】の【徳球−志賀執行部】体制から【徳球―野坂―志賀のトロイカ体制】に転じ、「2.1ゼネスト」へ向かう。この期間を、戦後党史【ミニ第A期】とみなすことができる。その出発点は「第五回党大会」(2.25日〜)となる。

【「第5回党大会」開催】
○期日.会場.代議員数他

 2.24−26日にかけて「第5回党大会」が東京の京橋公会堂で開催された。第4回大会から3ヶ月も経ていないにも関わらず、当時の党員数6847人(実際は7500人と推定)と6倍以上に急増していた。細胞数が399、アカハタの発行部数は25万部を超えたとも報告されている。

○大会の眼目

  この大会の眼目は、徳球−志賀執行部の指導下で開かれた「第4回党大会」の諸決議を野坂理論により見直しすることにあった。徳球−志賀執行部の指導の下党は急進主義的な運動を首尾良く進めつつあったが、他方で内部の不協和音も吹き出しつつあった。こうした状況の中、野坂氏は、コミンテルン時代も含め長く海外で活動していたことによる国際的権威を背景にして大会をリードしていくことになった。

 野坂の手により起草された「大会宣言」は、後に「平和革命コース論」として揶揄されることになる概要「占領下での平和革命の方針こそ、マルクス.レーニン主義の日本化である」ことを強調していた。
次のように述べている。
 「日本共産党は現在進行しつつある我が国のブルジョア民主主義革命を平和的に、且つ民主主義的方法によって完成することを当面の基本目標とする。故に党は、資本主義制度全体を直ちに廃止して社会主義制度を実現することを主張するものではない」、概要「ブルジョア民主主義革命が完成された後は、我が党は我が国社会の発展情況に応じ、人民大多数の賛成と支持を得、かつ人民自身の努力によって、平和的、かつ民主主義的方法により、資本主義制度よりも更に高度なる社会制度、すなわち人が人を搾取することなき社会主義制度へ発展せしむることを期する。これが実現に当っては、党は暴力を用いず、独裁を排し、日本における社会の発展に適応せる民主主義的人民共和政府によって、平和的教育的手段を以ってこれを遂行せんとするものである」。

 これに対し、党内から異論は出ず、徳球は、革命の平和主義的方法を「至当である」としつつ、この方法は「我々が闘争力を弱め、たんに議会的方法によって議員をかきあつめて、おしゃべりすることによって革命が達成されるということを意味しない。我々の議会における方法は、もちろん革命的議会主義から一歩もはずれるものではない」と注釈を付けて受け入れていた。つまり、表向きは野坂理論で整風化しつつ実際には徳球指導の急進主義で大衆闘争をやり抜くという二元方針が確立されたというのがこの大会の特徴となった。


 この時徳球書記長は一般報告の中で、「現在我々は何らソ同盟と関係を持っておりません」と述べている。この発言が50年のコミンフォルム論評以降の党内分裂の中で国際派より蒸し返され批判されることになる。但し、今日的自主独立路線的観点からすればむしろ評価点になるかと思われる。

○採択決議について

 「第五回党大会宣言」(平和革命宣言)が満場一致で採択された。「宣言」は、野坂理論を全面開花したものとなり、「現在進行しつつある、我が国のブルジョア民主主義革命を、平和的にかつ民主主義的方法によって完成することを当面の基本目標とする」と世に言う「平和革命コース論」を呼びかけることになった。以後この方針は50年にコミンフォルムから断罪されるまで党の基本的な革命プログラムとして押し通されることになった。その他行動綱領と規約を改定した。
(私論.私観) 「占領下平和革命」論の採択について
 社労党の町田勝氏の「日本社会主義運動史」では次のように指弾している。
 「『解放軍』規定と結びついて現れてきたもう一つの馬鹿げた見解が『占領下平和革命』論であった。45年12月初めに第四回大会を開き、徳田を書記長に選出して再建(党員は千名強)を果たした共産党は、翌46年2月末の第五回大会で当面の綱領的方針を大会宣言の形でを択した。この大会宣言の提案にあたったのが、同年1月末に中国から帰国し、帰国歓迎会で『愛される共産党』のキャッチ・フレーズを打ち出した野坂参三であった。野坂は提案の中で『解放軍』規定をさらに敷衍化し、今や日本では民主主義革命の完成ばかりでなく、それに続く社会主義革命の達成も、占領下で平和的に議会を通じて行うことができると強調、あまつさえそれを「マルクス・レーニン主義の日本化である」と吹聴したのであった。

 こんなものはあえて説明するまでもなく単なるたわごとに過ぎないが、この大会に出席し中央委員に選出された宮本顕治らからも何の異議も唱えられなかった。「占領下平和革命」論は後に「野坂理論」と呼ばれ、野坂一人に責任が負わされているが、宮本らも全く同罪だったのだ。そして、この『「解放軍』規定や『占領下平和革命』論は戦後混乱期の終息する49年まで正式に改められることなく掲げ続けられたのである」。
 アジプロ部長宮顕の「文化政策について」の報告が満場一致で採択されている。専門的知識人、文化人の役割を重視することが主張されていた。

○新執行部について

 中央委員として、1・徳田球一、2・志賀義雄、3・袴田里見、4・宮本顕冶、5・神山茂夫、6・黒木重徳、7・金天海、8・野坂参三の他に、新たに伊藤律.伊藤憲一.春日正一.春日庄次郎.紺野与次郎.西沢隆二.松崎久馬次.内野竹千代.水谷孝.蔵原惟人.岡田文吉.長谷川浩の12名が選ばれて合計20人が、中央委員候補として、石川友左衛門.岩田英一.岩本巌.亀山幸三.岸本茂雄.金とう金容.小西正雄.椎野悦郎.志田重男.関口金造.宗性徹.竹内清.竹中恒三郎.田代文久.多田留治.服部麦生.朴恩哲.保坂浩明.松本一三.宮本百合子の20人が選出されて中央委員会メンバーが構成された。党員6847名(実際は7500人と推定)。統制委員として、袴田・西沢・竹中・岩本・山辺・松本惣一郎・松本一三・金の8名。 

○組織上の重要な変更について

 ソ連共産党の例に倣い政治局.書記局制度が採用されることになり、2.27日の通算第2回拡大中央委員会で、政治局員に徳田.野坂.志賀.袴田.宮本.金の6名が、書記局員には徳田.野坂.志賀.黒木.伊藤律の5名が選ばれた。書記長には徳田球一が再選された。こうして野坂はすんなり執行部入りとなり、「徳田−志賀体制」から「徳田−野坂−志賀体制」のトロイカ体制へとシフト替えされることになった。注目すべきは、書記局から宮本と袴田が外されていることで、代わりに伊藤律が選ばれていることである。戦後党運動はこの「しこり」が地下水脈で続いていくことになる。

 もう一つ、「組織活動指導部」(「組活」)が作られている。これはいわば徳田書記長の直轄組織部のようなもので、党の政策を具体的に指令し実行する執行機関となった。部長・徳田、副部長・長谷川浩となった。袴田によれば、「如才のなさと、てきぱき事務を処理していく能力には長けていて、丁度、不破、上田兄弟が宮本顕治に重宝がられているように、徳田に可愛がられていた。長い獄中生活を送った徳田は、『今浦島』のような感じだったから、余計にこの二人が有能に見えたらしく、よく、『刑務所から出てきたばかりのやつらでは用が足りないよ。何と言ったって、外にいた人間のほうが今は役に立つ』と放言していた」とある。

 袴田によれば、「実際の党の運営は、徳田と伊藤と長谷川、それに、徳田の娘婿の西沢隆二(ぬやまひろし)で決められていた。徳田ファミリーの誕生である」とある。

 各中央委員の職掌は次の通り。
組織指導部長 徳田球一 副部長 長谷川浩
宣伝部長 野坂参三 服部麦生
出版部長 神山茂夫 金トウヨウ
文化部長 宮本顕治 蔵原惟人
調査部長 野坂参三 川上貫一
財政部長 黒木重徳 亀山幸三
機関紙部長 志賀義雄 松本一三
前衛誌部長 宮本顕治 平木恭三郎
事務室 竹中恒三郎 今村英雄

○議会闘争と大衆闘争の結合に対する徳球書記長の報告について

 この時、徳球書記長は、一般報告の中で野坂式平和革命論に対する徳田式注釈を次のように述べていることが注目される。概要「平和的・民主主義的方法によってブルジョア民主主義革命を遂行することは、我々の目標である。これはできる限り、我々の尽力する問題である。社会的情勢はこの平和的・民主主義的方法をもってこれを遂行する可能性を含んでいるのですから、我々がこの方法を取るのは至当であるのであります。しかしながら、このこときは組織的な闘争を否定するものではない。我々の組織力が充実し、我々の組織力の相手方の階級すなわち軍国主義者・ブルジョアジー・独占資本家・大地主階級、これらのものに対して、我々が組織の重みをもって、ぐんぐんと彼等をおしのめしていく、この闘争力を否認するものではない。この闘争力をもってこそ、はじめて平和的・民主主義的方法をもって、革命に成功し得るものであると信じるのであります。平和的・民主主義的方法ということは、我々が闘争力を弱め、我々の闘争力が否定され、単に議会的方法によって議員をかき集めて、おしゃべりすることによって、革命が達せられるということを意味しないのであります。我々の議会における方法は、もちろん革命的議会主義である。この革命的議会主義から一歩もはずれるものではない」。この報告がそのまま「第5回党大会宣言」の中に明文化された。

○沖縄に関して

 この大会では、本土在住沖縄県人の組織である沖縄人連盟大会に対して、次のような「沖縄民族の独立を祝うメッセージ」が採択されていることも注目される。「数世紀にわたり日本の封建的支配のもとに隷属させられ、明治以降は、日本の天皇制帝国主義の搾取と圧迫に苦しめられた沖縄人諸君が、今回、民主主義革命の世界的発展の中に、ついに多年の願望たる独立と自由を獲得する道につかれた事は、諸君にとって大きい喜びを感じている事でしょう」。日本の敗北は、その支配からの沖縄の解放、すなわち「独立」の好機と考えられたということである。この沖縄独立論は、翌年の第6回大会でも行動綱領の中に入れられている。

○理論研究の動き

 2月、党の中央機関紙として「前衛」が創刊された。
 4.28日中央委員会付属「マルクス.レーニン主義研究所」が設立された。党の諸政策の理論的解明、科学的社会主義の理論的研究、文献の翻訳、紹介、宣伝普及、講演企画などを目的とした。

 ○、ソビエトとの関係

 概要「現在、我々はソビエト同盟と何の結びつきもない。我々は将来に於いても同様に我が党は決してソビエト同盟と関係を持たないであろう」。

【「朝鮮人党員の比重の高さ」について】
 注目すべきは朝鮮人党員の比重の高さである。党員数6847名と発表されていたが、そのうち朝鮮人党員は約1000名だったと云われている。新執行部には、中央委員として1名(金天海)、中央委員候補の中に4名(宋性徹、金斗鎔、朴恩鉄、保坂(李)浩明)の朝鮮人が含まれていた。後に遠坂寛(崔斗煥)も加えられた。党中央には、金天海を部長、金斗鎔を副部長とする朝鮮人部が設けられ、朝鮮人党員と在日朝鮮人運動に対する独自の指導が行われた。在日朝鮮人の運動が、日本共産党内に正統の場所を占め、強力な指導部を構築し得ていたということになる。こうして、敗戦後一気に昂揚した在日朝鮮人の運動は、金天海の存在を介して日本共産党との関係を深めながら、さらに勢いを増していった。

 この朝鮮人登用の背景には、それまでの党運動が「朝鮮の同志達を闘争の一番困難なところ、危険なところへ駆り立てていた」ことを「民族排外主義的偏向」として批判し、「民族排外主義の克服」と「朝鮮半島の独立」に向けての英断を為した徳田の指導の賜物であった。

 保坂浩明(日本人医師と恋愛結婚で改名)は戦中に一高、東大を出た秀才で五回大会(四六年一月)で他の三人の朝鮮人とともに中央委員候補(中央委員二十人中に序列第三位の金天海・政治局員、同候補二十人中四人)となった。彼は党中央の労対部員として長谷川浩のレポ役で活動した。この後最初の生産管理を闘った京成電鉄から京浜の東芝や読売争議など労働運動に集中し、49年には東北地方委議長として、平警察署占拠、郡山、若松などの警察署への大衆的抗議闘争を指導して、一時「騒然たる状況」をつくりだした―「九月革命論」にそって6月の東神奈川の人民電車事件に呼応した―など、極左戦術とひきまわし指導でも有名になる。

 六全協後の総括会議で、「自分の闘争指導には極左的傾向」があったと認め、「自分は朝鮮人であるが故に終始差別された」、「その無念さがあのような形で爆発した」と述懐して場内を粛然とさせた、という。

 増山太助氏の「戦後期左翼人士群像」によれば、戦前、戦後を通じて「在日朝鮮人」の運動に凡そ三潮流があったようである。一つは、金天海に代表される「在日同胞の生活権保護」、「天皇制打倒」、「朝鮮独立運動」に連結する闘いの潮流。二つ目は「労働者階級の解放」、「インターナショナリズム」を強調する金斗鎔や宋性激らの潮流。三つ目は日本に帰化して日本共産党の方針に従って行動した保坂(李)浩明や遠坂寛(崔斗煥)らの潮流がそうであった。これらの人たちは、朝鮮戦争の際には「反米抗日」、「戦争反対」、「南北朝鮮の統一」で一致した行動を取り、朴恩鉄らの祖国防衛委員会を支持して「後方戦線撹乱」の闘争を展開した。

(私論.私観) 【徳球−野坂体制について】
 現在の党史においては「徳球−野坂−志賀体制」という見方は為されていないが、この時期そういう執行部の三頭トロイカ体制が確立していたとみなした方がより真実に近い。「徳球−野坂−志賀体制」の特質は、政治理論を野坂が指導し、組織と大衆闘争指導を徳田が束ねるという二元的分担執行部体制をシフトしていることに認められる。志賀はお役目御免的立場に追いやられることになったように思われる。先の「徳球−志賀体制」との違いが興味深い。

 前大会まで重要な役割を果たした神山が政治局からも書記局からもはずされ干される形となった。中西らの批判意見も無視された。徳田は、書記局に黒木と伊藤律という腹心の部下を引き入れて党中央を押さえた。こうして徳田の党内支配権は強められた。
(私論.私観) 【徳球の特徴について】
 ここに徳球の特徴を見ることができる。徳球がなぜ容易に政治理論の指導を野坂に委ねたのか。徳球が没理論家であったということである。正確にいうと、徳球の場合に限って、徳球を没理論家と評する場合理論が低かったという意味ではない。徳球は「獄中声明」以下の諸論文を見ても当時一等秀でた理論家であった。がしかし、徳球が没理論家といわれる所以は、現実の実践的な課題を調整する際には理論に拘泥するよりはプラグマティックな経験主義的な手法にいとも容易に乗り換えることができたという意味においてであった、と解するのが正確かと思われる。

 もう一つの理由として、徳球が野坂の背後に君臨しているものと想像された国際共産主義運動の権威にひれ伏したことも考えられる。徳球はオルガナイザーとして能力を発揮した。「目の前の情勢をすばやくつかみ、大衆心理の一面に訴えつつ、強引に活動を進め組織を運営していく」彼の能力には抜群のものがあった。その優れた扇動力と行動力は異才であり、徳球流の一つの指導者タイプを党内に形成した。

 これを悪しく見れば、徳球は後年批判されるような家父長的な親分肌で専断的であった。加えて派閥的に自己の地位の保全を優先する権力家的タイプであった。良く言えば、機関の運営が一身に集中されてくる重責に堪えつつ執行部の団結を第一義に考える人情家タイプであったということになるであろう。後に自らと彼を慕う党員と一蓮托生で非合法化させたまま没していったことを思えば、彼自身の革命主義的精神に一点の曇りもない。がしかし、これが後々命取りになるとは予見できぬまま野坂氏とその政治理論を受け入れていくことになった。
 

 次の一文も徳球を髣髴とさせて味わい深い。
 「その頃の徳田球一は仁王のようであった。集まってくるフラク、呼び集めた委員達を前に、彼は腹を立てると、禿げ頭からポッポッと湯気を立ててどなりつける。その代わり決断は早く、政策は大胆だった。理論家野坂は、大まかな理論づけはやっても、行動力では徳田にくらべると、ずっと開きがあった。労働組合部は、初め神山茂夫、袴田里見が担当していたが、神山はいち早く、徳球の覚えめでたくなくなり、10月闘争を迎える頃には、長谷川浩が部長となって采配を振るった」(森正蔵「戦後風雲録」)。
 「徳田はこの時期、さかんに「荒ごなし」という言葉を口にしていた。『オレがまず荒ごなしをやっていくから後はお前達がよく耕せ』ということを党本部勤務員や中央、地方のオルグ連中に口癖のように云っていた。彼が政治的にも思想的にもやや粗雑であり、またのちに党史の上でも『家父長的指導』と批判されるような体質を持っていたことも事実だが、食べ物も乏しく交通も不便な中を、右翼テロも盛んな時期に東奔西走して全党の先頭に立ち、それなりに末端党員に至るまでよく接して激励していたことも事実である」(亀山幸三「戦後日本共産党の二重帳簿)。
(私論.私観) 新党中央への組織編成の移行について
 この大会で徳田−志賀体制から徳田−野坂−志賀トロイカ体制へ転換した。ここが重要なポイントとなった。これについて、小山弘健は「戦後日本共産党史」は次のように述べている。「新中央として注目されるのは、徳田・野坂・志賀の『三頭政治』が明らかになったこと、その三頭政治の実質上の支配者は徳田で、彼が書記局に黒木と伊藤の二人を引き入れて、中央をほぼ押さえる形となったこと、前大会まで重要な役割を果たした神山が政治局からも外され、出版部長という名目的な地位に落とされたこと、中央委員としてその後徳田=伊藤の派閥に列なるに至った分子がかなり登用されたこと−などだった」。小山氏は批判的に書いており、れんだいこは肯定的に評価すると言う立場の違いがあるが、書かれている内容には異存ない。
(私論.私観) 伊藤律の登用について
 中央委員メンバーに伊藤律.水谷孝、長谷川浩、西沢隆二が引き上げられていることが注目される。椎名悦郎、保坂浩明らも中央委員候補として登用されている。特に伊藤律は中央委員且つ書記局員に大抜擢され最高幹部の一人に昇進した。33歳の若さであった。これは、徳田書記長による戦後型の新有能幹部の登用方針によってもたらされたものである。当時を知る関係者の話によると、会議をしてもテキパキ処理し、文章にして発表するのも早く、新聞記者やGHQ絡みの情報取りもうまかった。こうした実務能力が徳田に重用されることになったようで、「長く獄中にいた者は使い物にならない」とぼやいていたこととの裏表であった。長谷川浩は次のように説明している。「実際、獄中何年という人だけでは、仕事になりませんからね。徳田としては、伊藤は才走り過ぎる欠点はあるが、人扱いも上手だし、才能もあり、重宝に使えるということになったんだと思う。その結果、伊藤が目立ち、それで党内で多くの反感を買った。でも、彼はあくまでスポークスマンであって、bQではない。50年分裂前後までの実力者は、徳田であり、志賀、野坂だった。その3人の意見を、伊藤は実にうまくまとめていた。彼と言う接着剤がなかったら、『俺が、俺が』という人が多い党だから、バラバラになっていたかも知れない」。

 伊藤律は、こうして古い多くの党歴者を飛び越えての大出世を遂げ、今後徳田書記長の片腕的な役割を果たしていくことになるが、この動きが宮本グループと新たな対立を生んでいくことにもなった。


 宮顕.袴田.神山らは幹部採用に厳重な審査を要求したが、徳球.志賀らは新進気鋭幹部の登用は執行部権限であるとして取り合わなかったと伝えられている。徳田が幹部登用基準に恣意的であったことは事実であろうが、ある意味では執行部権限範囲というのも一理あるであろう。余談であるがナンバー2の地位を野坂に譲った志賀が面白くないのも容易に想像できる。このことは後日現実化し志賀は徳田グループと宮本グループの間を遊泳していくことになる。

 神山は、中央委員には再選されたものの、出版部長という閉職に追われている。

 3ヵ月後の補充人事で、伊藤律は、長谷川浩、春日(庄)らとともに政治局員に加えられている。この時政治局員と書記局員を兼ねたのは、徳田球一、志賀義雄、野坂参三、伊藤律の4名しかおらず、おまけに伊藤は、党スポークスマンと農民部長を兼ねていたので、押しも押されもせぬ実力者となったことになる。

 ちなみに、この頃徳田の家では袴田と西沢が間借りして共同生活していた。
(私論.私観) 宮顕らの「査問事件」についての徳球の態度について
 この大会の前後の頃、徳球書記長と宮顕・袴田里見との間で戦前の「査問事件」についての次のようなやりとりが為されていたと明らかにされている。
 徳田は、小畑達夫を死亡せしめた査問の仕方を激しく非難し、「不測の事態が起こり得るわけだから、あんな査問などやるべきでなかった。第一あの二人がスパイだったかどうかもわからんし、たとえスパイだったとしても、連絡を断てばそれですむことではないか。ああいう形の査問は、良くない。実にけしからんよ」と。宮本と袴田は、このとき徳田に食い下がり、「連絡を断ったくらいですむことか、事情も知らないで何を言うか」と掴み合わんばかりの激論をやっている。(袴田里見「私の戦後史」)

 この様子について、神山茂夫の「日本共産党重要文献集」でも、徳田が、宮本に対して、「あそこまでやってはいかん」と詰問した様子を明らかにしている。

 袴田は、この後伊藤律のゾルゲ事件との関わりを調査していき、伊藤律の胡散臭さを探ろうとしていたが、徳田の逆鱗に触れ、その頃開かれた中央委員会で、いきなり政治局を外され、北陸地方委員長という肩書きで左遷されている。袴田は、以後、1948(昭和23)年末までその地位にとどまることとなった。このあたりが「50年分裂」の伏線となる。

【46年当時の党の方針の特質と要点】
@〈世界情勢に対する認識〉について

 従前と同じく引き続き、進駐軍=「解放軍」であるという見方を採った。「我が党は、連合国政府の平和政策を支持し、日本占領にあたる武装兵力を解放者の軍隊としてこれと全面的に協力していくであろう」。 

 従前と同じく引き続き、「社会主義社会を完成しつつあるソビエト同盟」という見方を採った。

A〈国内情勢に対する認識〉について

 従前と同じく引き続き、ポツダム宣言事項の徹底化を積極的に支持した。但し、社民主義者の運動昂揚もあり、対抗上「GHQ」の期待する民主主義的な改良運動の枠内に治まらざる勢いで急進的な動きを強めつつあった。

B〈党の革命戦略〉について

 【ミニ第@期】では「天皇制打倒」とあったのが、【ミニ第@期】では「愛される共産党」的観点よりか「天皇制廃止」へと言い換えられた。同様に「人民共和政府」とされていたのが「民主人民政府」と書き換えられている。【ミニ第@期】では「天皇制打倒」と「人民共和政府」の樹立はワンセットで捉えられていたが、「天皇制」と「人民政権の樹立」とが別個の課題として認識し直されることとなった。「工場委員会、農民委員会、市民委員会を基礎とする人民協議会」を通して人民共和政府を創造していくという「下からの統一戦線」が、既成の民主的な政党、労働組合、民主団体を全体的に包括する「上からの統一戦線」に転換されていくことになった。

 野坂理論の影響が認められ、字句上からも穏健な意味合いがもたらされることとなったということであろう。「天皇制」について触れた「大会宣言について」での野坂発言では、「この制度(天皇制)を消滅して、日本を完全な民主主義国にする」と言いまわしされた。消滅という自動詞を敢えて使ったのは、語感上においてもやや穏健な立場へ移行させられていった気配がある。但し、曲がりなりにも民主民主義革命を貫徹して後社会主義革命に向かうという二段階革命的展望は維持されていた。とはいえ、徳田式理論は急進主義的にこれを取り組もうとしており、野坂式理論は穏和主義的に取り組もうとしていたという違いがあった。既述したが、野坂式理論は三段階革命論的でもあった。

C〈党の革命戦術〉について

 従前と同じく引き続き人民戦線理論の元に統一戦線運動に従って闘争が組織されていった。【ミニ第@期】との違いとしては野坂理論の影響により急進的運動に対してブレーキがかけられ始めたという特徴が見られる。

D〈党の当面の具体的な運動方向〉について

 党は、戦前の非合法状態から合法政党として活動することができるようになった。党は、経済的闘争のみならず、戦争犯罪人の追及その他の政治的行動、日本政治の民主主義化の為の闘争の先頭に立って指導した。労働組合.農民委員会.食糧管理委員会.人民解放連盟.青年共産同盟の組織と行動指針が決定され綱領として掲げられた


 (議会闘争)について

 新憲法の公布により開設される議会を重視していく闘争つまり議会主義への傾斜を強めていくことになった。これを野坂理論の影響と見るかどうかは微妙である。アカハタ8号は次のように述べている。概要「現在、闘争は自然発生的に分散して行われている。革命的議会闘争は、大衆の政治的昂揚をとらえ、その日常闘争を激発し、これを総選挙戦並びにこれにつぐ議会闘争による革命的宣伝扇動によって、政治的に高めていくことを任務とする」。

 とはいえ、当時の意気軒昂な党員の活動は先頭に立って労働運動.農民運動.部落解放運動等の大衆闘争から文化.学術戦線.婦人運動というあらゆる分野に拡張していくこととなった。つまり、この時期の党は結果的に議会闘争と大衆闘争を二元的に取り組んでいくことになったのであり、そういう意味においては非有機的ではあったが党の運動総体としてははからずも力強い成長を見せていくことになった。

 党は、再建されたこれらの民主的大衆組織と協力しつつ、戦犯追及、米よこせ闘争、隠匿物資の摘発闘争、生産管理闘争、農民の土地解放闘争などをその先頭で戦った。

E(党の大衆闘争指導理論)について

 「労働者.農民.勤労市民」の生活闘争の支援と指導を明確に掲げている。労働者に対しては、労働者の労働組合の組織化、賃金の大幅値上げ、労働時間の短縮、労働組合結成と団体交渉権の確立、共同闘争の為の共同闘争委員会の結成と産別組合運動化、生産管理と経営参加。農民に対しては、強制的供出に対する民主的供出の要求、農業会の農民主導、小作料の減免、有給土地の分配。都市市民に対する配給組織の監視と管理。これらを併せての人民協議会の結成指導。これらの闘争の先頭に立って党と進歩的諸団体が闘うという観点が確立されている。

F(党の機関運営について)

G〈左翼陣営内における本流意識〉について

 従前と同じく引き続き党の前衛意識.左翼運動の正統の担い手意識で社民主義者等に睨みを効かせていった。この時期の党の社民主義者に対する対応は次のように考えられた。「軍事的警察的天皇制の多年にわたる欺瞞恐怖政策の為に、今日尚これらの諸綱領こそ、人民解放闘争のための重要且つ不可欠の目標であることを理解するに至っていない人民層は相当存在している」ことを考慮し、「民主主義的目標を掲げる一切の諸勢力、諸団体に対しては、反民主主義勢力との闘争の為統一戦線の結成のために働きかけてゆかねばならぬ」(「人民戦線綱領の提示に際して」)。

 なお、この時期徳田書記長の「労働組合の統一について」の報告の中で述べられた次の言葉も社民に対する態度が良く現れている。「総同盟は事実上飯場頭の為の利己組合であり、松岡.西尾はその全国的飯場頭長である」、「現在の総同盟右翼幹部は、組合をネタにして金儲けに熱中している利己的分子であるが為に、いかなる方法においても、革命的労働組合との合併を肯ずるものではない」、「荒畑.高野実その他の一派も、決して、この右翼幹部と選を異にするものではない。その組合の組織においても、又彼らの口頭と実践との二心的であることから見て、かく断定してよろしい。ことに口頭において革命的色彩を有するだけに、労働者大衆のみならず革命的活動分子さへも、これに惑わされる点においては、かへって有害なる存在である」(46.3.15「前衛」第3号)

H〈この時期の青年戦線.学生運動について〉

 1月に日本青年共産同盟(青共同)の再建を指導し結成に導いている。青共同は、戦後の動乱期に積極的に活動し急速に発展した。ただし、この時期の運動は、全体として行動隊としての性格と市民的権利意識の段階にとどまり、青年の自主的行動を通じて階級意識を高めることに積極的ではなく、イデオロギー的にも左右にゆれていたようである。

I〈大会後の動き〉

  凡そ以上の要点がこの時期の党の方針の特徴であった。

 3.1日、東大.青共東大班が公然化、同盟員40数名。4月頃? 早大の共産党細胞が結成されている。

【「新日本文学」が創刊される】
 1945.12.30日、「新日本文学界」が結成されたが、翌1946.3月に「新日本文学」が創刊された。この頃のメンバーは、創立時の秋多雨雀(うじゃく)、江口換、蔵原惟人(これひと)、窪川鶴次郎、壷井繁治(しげじ)、徳永直(すなお)、中野重治、藤森成吉、宮本百合子ら9名の発起人の他に、壺井榮、佐多稲子、畔柳、佐々木基一、埴谷雄高、芝木好子、大田洋子、西野辰吉、霜多正次、窪田精、金子総一ら。花用溝輝は、10月に入会。

 徳永の「妻よねむれ」、宮本の「播州平野」の連載が始まる。この時「文学者の戦争責任追及」が提案され、採決されている。これを受け中央委員に選ばれた小田切秀雄が『新日本文学』の6月号で、25名を、戦争責任を負う文学者として指名している。「戦犯文学者」の認定基準は、「特に文学及び文学者の反動的組織化に直接の責任を有する者、また組織上そうでなくとも従来のその人物の文壇的地位の重さの故にその人物が侵略賛美のメガフォンと化して恥じなかったことが広範な文学者及び人民に深刻にして強力な影響を及ぼした者」とされていた。該当者の中に河上徹太郎、小林秀雄、亀井勝一郎、佐藤春夫、武者小路実篤、尾崎士郎らが挙げられていた。

 とはいえ、「戦犯文学者」の追求は功を挙げ得なかった。その理由として、この時の追求側も多かれ少なかれ戦時中転向しており、発起人に名を連ねていた徳永直や壷井繁治、窪川鶴次郎らもまた戦争協力・戦争賛美の作品を書いていた。そうした過去を振り返ることなく、追及側に立つことには忸怩たるものがあった故と思われる。「彼等の責任は問わないで、新日本文学会に属さない文学者の責任追及を行おうとした。仲間をかばい合う、そのような一種の身内意識を、彼等は、旧作家同盟家族主義
(ドメスチシズム)ではないか」。こういう問いかけに対して、『新日本文学会』の創刊号に載った蔵原惟人の「新日本文学の社会的基礎」は、「戦後の反動勢力に流し目を送るような、人間的に卑しい行為だ」という非難を浴びせているが、それはあまりにも「旧態依然たる公式論」でしかなかった。

 むしろ転向論へと関心が向い、その後間もなく、荒正人.平野謙と中野重治との間で「政治と文学」論争が始まる。「戦争責任の追及は、同時に、転向した事実への反省、転向を引き起こしてしまったプロレタリア文学運動の創作理論や組織体質への根本的な批判」(「亀井秀雄の発言日本の戦後文学」)へと向かっていった。

民主主義日本学生協議会が結成される
 4月、民主主義日本学生協議会が結成された。5.26日東京と京都で学生社会科学研究会連合会の主催で、滝川事件記念学生祭が開かれ、東京集会では、1.学生自治組織の確立、学園民主化の徹底、2.学生民主戦線の即時結成、3.学生に職を与えよ、4.学生の参加による教職員適確審査の厳正実施、5.反動政府打倒、人民政権樹立が決議されている。5.31日早大で学生大会が開かれ、初めて全員加入の学生自治会を結成することが提案され、決議され、こうしてまず早大で全員加盟の学生自治会が結成された。

 6.2日、東大で社会主義学生同盟(社会党系)が結成されている。東大、早大等24校、200名参加。
 6.12日、慶大三田.早大中心に学生自治委員会連絡会第1回準備会が開催されている。
 7.19日、 日比谷で、早大学生自治会の提唱による「全国大学高専自治委員会連合」主催の学生大会が開催されている。議長=白土吾夫(のりお)で、学園民主化、官僚的文部行政の排除、官私学の差別撤回等を決議している。
 7月には関東学生自治会連盟が結成されている。
 8.10日、教育刷新委員会(教刷委)が設置されている。総理大臣所轄で委員長・安倍能成→南原繁となった。
 9月、学生団体統一協議会が結成されている。
 10.10日、学生自治委員会連絡会が「全国学生自治会連合(全国自治連)」として改組発足した。早大は書記長校となり委員長に無党派系の蜷川譲が就任した。但し、これに参加したのは私学系自治会だけで、数もわずかであった。
 10月、京大で、同学会を学生自治会に改組した。12.13日早大で、学生約6千名が学園復興要求で国会デモ、これが戦後初の学生デモとなった。白土の主導で首相官邸へデモ.共産党議員・志賀義男の紹介により田中耕太郎文相、石橋湛山蔵相に会見し、石橋蔵相に預金封鎖解除などの決議文を手交した。「先頭が飯田橋を渡っているとき、うしろはまだ大隈講堂前で足踏み」(松尾隆)していたと伝えられている。

 党のフラクションとして「全国社会主義学生同盟」(「全社学同」)等も結成された。

【民主戦線結成の動きについて】
 野坂の歓迎集会が社共両党及び労働組合を含めて行われたことは「左翼統一戦線」結成の好機であった。翌日の新聞も「新たな愛国戦線へ」(朝日新聞)、「民主戦線の機熟す」(毎日新聞)、「民主戦線今や成る!」(読売報知新聞)と伝えていたことがこれを証左している。しかし、社会党は、その直後の会議で、共産党との共闘に応じない態度を決めた。2月頃荒畑.高野らが共産党と総同盟右派の提携斡旋に乗り出す等の動きが為された。しかし容易には妥協点が見いだされなかった。一方で、共産党の天皇制打倒論(中央委員宮本顕治の「天皇制批判について」(前衛1号)、「三つの問題」(前衛2号)、「民主戦線−その前進のために」での「天皇制撤廃」基準の堅持強調)が社民主義者との統一戦線を引き離すことになった。
(私論.私観) この時の宮顕のオカシナ動きについて
 ここにも宮顕の特殊な動きが見て取れる。戦後最初の統一戦線の動きが日程化しつつあったこの時に強硬な天皇制撤廃を統一戦線のスローガンに持ち込むことにより冷や水を浴びせ続けた行状が認められる。この時戸田慎一郎、中西功らは「天皇制完廃以前に民主連合政府の樹立は可能」とする観点からとにもかくにも統一戦線の結成を意欲させていた。こうした声が宮顕の強硬論調に掻き消されたという史実がある。
 山川均、荒畑寒村、小堀甚二らオールド.ソシアリストの呼び掛けで「民主人民連盟」が3月に活動を本格的に開始した。民主人民戦線の世話人に名を連ねた人士は、石橋湛山・長谷川如是閑・細川嘉六・大内兵衛・河崎なつ・横田喜三郎・高野岩三郎・辰野隆・野坂参三・藤田たき・阿部磯雄・荒幡寒村・聴涛克巳・三浦鉄太郎・森戸辰男・末川博・末広厳太郎らであった。共産党は党としての参加は保留していたが、野坂、細川らが個人で加わっていた。

 「幣原反動内閣打倒のために人民の力を結集すべし」という主張の下に、あらゆる分野の民主的.自由主義的勢力の一大結集運動を提唱した。「この運動は世間に非常な反響を呼んで、各地方にも支部が設けられた」と荒畑は回顧している。が、社会党内は見解が分かれた。加藤勘十、鈴木茂三郎らは参加に賛成したが、右派を中心に、「客観情勢は成熟しているが、未だ主体的条件が整っていない。総選挙後に社会党が主唱して人民戦線を結成する」とする西尾提案の立場から統一戦線に足踏みを強めた。3.9日社会党中央執行委員会は、山川提唱の「民主人民戦線」不参加の態度を正式に決定した。どちらも4.10日に予定されている総選挙が優先となった。こうして、目の前の選挙が各党の競合を招き、統一戦線は選挙後に持ち越されることとなった。

【GHQの「焚書」】
 GHQは、「War Guilt Informasion Program」と呼ばれる「大東亜戦争戦争罪悪視プロパガンダ戦略」(大東亜戦争前の日本に大東亜戦争の総ての責任があると日本国民に思わせるプロパガンダ戦略のこと)の一環として、私信にまで及ぶ検閲をしていたが、 数千冊の書物の焚書措置にも着手した。

 3月、GHQは、一通の覚え書きを出して、戦時中の日本の「特定の書物」を書物の存在すべきあらゆる場所から没収し、廃棄することを日本政府に指示した。この措置は時間とともに次第に大がかりとなり、昭和23年、文部省の所管に移って、各都道府県に担当者が置かれ、大規模且つ秘密裏に行われた。没収対象の図書は7千7百余種に及んだ。(この時の「チェックリスト」は、昭和57年に文部省社会教育局編として復刻された)
(私論.私観) GHQの数千冊の書物の焚書措置について
 この時焚書された「特定の書物」とは何か。れんだいこは、この時の「チェックリスト」を目にしていないが凡その見当が付く。恐らく、「シオンの議定書」派のネオ・シオニズム戦略から見て不都合な記述をしている文献一切ではなかろうか。

 2006.6.26日 れんだいこ拝

 3.5日、チャーチルが、フルトンに於いていわゆる「鉄のカーテン」演説をぶつ。
【米国教育使節団、来日】
 3.5日、スタッダード博士を団長とするアメリカ教育使節団(27名)が来日。約1ヶ月にわたって討議、視察旅行を重ねた結果、これからの日本の教育に対する諸問題についての報告書が作成され、4.7日、「アメリカ教育使節団報告書」が発表された。

 「アメリカ教育使節団報告書」は、GHQの要請を踏まえて「民主主義は人間の解放された力を多様性の中で発揮する有効な手段」と称揚し、「個人の価値と尊厳を基本とする教育」への改造提言を為していた。

 報告書は、日本の歴史科と地理科について、「政治的軍国主義的教育に大いなる役割を為した」と批判し、日本歴史の書き直しのために、民間学者を起用するよう勧めていた。我が国の教育制度の中央集権的改悪弊としての文部省の絶対的支配(カリキュラムや教科書検定など)を取り除く為の教育権の地方委譲、6.3制の実施、教科書の民主化、ローマ字の採用、などが勧告された。但し、最終判断は日本側に委ねられ、文部省内に勧告に基づく「教育刷新委員会」、「大学設置審議会」などを設置した。

 この指針が教育基本法や六三制に繋がって行くことになる。。但し、学校教科書のローマ字表記の採用、文部省権限の地方委譲などは事実上ホゴされた。

 5.6日には、前年10.22日及び10.31日のマッカーサー司令部の教育に関する指令に基づく勅令が発布され、全国40万の教育関係者は全て適否の審査を受け、不適格者はその地位から追放され、逆に自由主義的、反軍国主義的思想の持ち主という理由で教職から追われていた人々に復職の道が開かれることになった。

 かくして、追放教授と入れ替わりに、東大では大内兵衛、矢内原忠雄、山田盛太郎、有沢広巳、脇村義太郎、東京商大(一橋大)では大塚金之助、九大では向坂逸郎、今中次麿、石浜知行、高橋正雄らが元の大学に復帰した。

【党の対外政策に関する声明】
 党の対外政策に関する声明。

 概要「他の一派は我が党がいまだにコミンテルン、即ち第3インターと何らかの連絡を持っているという印象を与える悪意の宣伝を広げている。この組織が1943.6月解散したことは周知の事実だ。それ故我が党が今日如何なる国際組織にも関係していないことは明らかである。我々はここで我が党は日本人民の党でありこの国労働階級の解放に献身する党であることを声明する」。

国際通貨基金(International Monetary Fund、IMF)、国際復興開発銀行創設
 3月、既に1944.7月にアメリカ合衆国ニューハンプシャー州のブレトンウッズで開かれた国際連合の「金融・財政会議」のブレトン・ウッズ協定によって確認されていたが、戦後復興策の一環として国際復興開発銀行と共に29ヶ国で創設された。1年後の1947.3月、加盟国が経常収支が著しく悪化した場合などに融資などを実施することで、国際貿易の促進、加盟国の高水準の雇用と国民所得の増大、為替の安定、などに寄与する事を目的とするIMF協定が発効し実際の業務を開始し、国際連合と協定を結び国連の専門機関となった。為替相場の安定のために、経常収支が悪化した国への融資や、為替相場と各国の為替政策の監視などを行い、各国の中央銀行の取りまとめ役のような役割を負う。毎年秋に年次総会( World Bank IMF General Assembly)と呼ばれる世界銀行と合同の総務会を開催する。また年2度の国際通貨金融委員会の開催も行う。世界銀行と共に、国際金融秩序の根幹を成す。

【「幣原内閣打倒と人民大会」】
 4.7日、民主主義諸団体共催.民主人民連盟後援により、「幣原内閣打倒と人民大会」が日比谷公園で開かれ、約7万余の労働者人民が集まった。が、鈴木茂三郎の演説に徳球が批判するという対立が示されたことは注目される。

 この時のデモ隊の一部が数万規模で首相官邸に向かった。警官隊が阻止線を張るが為す術もなかった。「それは、8.15の敗戦以来、労働者人民が街頭に踊り出始め権力とぶつかった最初の闘いであった。首相官邸は占拠されたに等しかった」(田川和夫「戦後日本革命運動史1」)。

 が、体制の危機を直感したGHQは米軍のMPを出動させ暴動化を食い止めた。共産党の徳球、社会党の荒畑、読売新聞の鈴木東民ら13名の代表が首相面会を迫った。押し問答の末結局、翌日会見することになった。「求められていたのは革命政党の階級的指導だけであった。だが、このことを見抜いた政党は一つもなかった」(田川和夫「戦後日本革命運動史1」)。

 4.8日、幣原首相は会見したが、「代表は次々に起ちあがって、幣原の退陣を求め、配給機構の改善を要求し、ヤミの絶滅を図れと叫んだ」。徳田は、護衛が拳銃を持っているのを見つけ、「総理は拳銃に守られなければ、国民と話ができないのか。それがおまえ達のデモクラシイーか」と扇動した。最後には乱闘となって流会した。

【戦後初の総選挙】
 4.10日、終戦後8ヶ月目、戦後最初の総選挙(第22回)が行われた。「GHQ」の要請により促された選挙であり、旧選挙法によって行われた。投票は大選挙区制・2名連記制、3名連記制であった。みんな面白がって猫も杓子も立候補する按配で候補者が乱立し、466名の定員に対して2770名、5.9倍に達した。

 次のように解説されている。
 「(大選挙区制とは、)各都道府県を一つの選挙区とする。11.1日現在の人口7249万1277人を衆議院議員定数466で割り、商の15万5560人を基礎数とする。基礎数で選挙区の人口を割り、その商の整数を定数とする。後は、小数部分の大きい選挙区から順に、定数を満たすまで一ずつを加える。これをニューマイヤー方式といった。この計算の結果、定数が15人以上になれば、選挙区は二分割された。定数10人以下の選挙区では二名連記、11人以上の区では三名を連記した」(三浦康之「頂きに立て!田中角栄とR・ニクソン」)。
 この時の選挙で、三木武吉の有名演説が記録されている。「自民党を創った男の「殺し文句」」その他を参照する。

 香川選挙区の立会演説会で、先に演説を行った福家俊一氏が、じっと三木氏を見つめて、「ある有力候補者のごときは、なんと妾を4人も連れている」と批判した。福家氏の後に続いて演題に上った三木氏が、「妾を4人も連れている」批判に対して次のように当意即妙の切り返しで爆笑をさらっている。
「私の前に立った吹けば飛ぶような(福家を吹けに言い掛けている)候補者が『ある有力候補』と申したのは、不肖この三木武吉であります。なるべくなら、皆さんの貴重な一票は、先の無力候補に投ぜられるより、有力候補たる私に、と三木は考えます。なお、正確を期さねばならんので、先の無力候補の数字的間違いを、この席で訂正しておきます。私には妾が4人あると申されたが事実は5人であります。5を4と数えるごときは、小学校1年生といえども『恥』とすべきであります。1つ数え損なったとみえます。5人の女性たちは今日ではいずれも老來廃馬となって役に立ちませんが、これを捨て去るごとき不人情は三木武吉にはできませんから、みな今日も養っております」。
 この言葉に嘘はなかった。三木氏は妻のカネ子と結婚した翌年、神楽坂の料亭「松ヶ枝」の女将を務めていた加藤たけと出会う。ほかにも、赤坂の芸者出身の布川ツル、元日活女優の小杉絹子、カネ子夫人を10年以上にわたって看病し続けた蓮井トヨにまで手を出す自由ぶり。カネ子夫人の胸中や如何に。戦争末期の1944年、三木氏はカネ子夫人も含めて、縁のできた女性全員とともに、郷里である高松へと疎開のために呼び寄せる。その噂は周囲にあっと言う間に広がり、戦後、立会演説会での攻撃の的となった。他にも三木氏は「およそ大政治家たらんものはだ。いっぺんに数人の女を、喧嘩もさせず嫉妬もさせずに、操っていくぐらい腕がなくてはならん」と発言したり、その一方で「本当に愛情を持ち続けているのは、やはり女房のかね子だ。ほかの女は好きになったというだけだ」と、カネ子夫人を持ち上げたりもしている。立会演説会のやり取りがこの場で収まっていることを考えると、この時代において今日騒がれているほどの問題発言ではなかったことになる。
 玉木雄一郎のラブホ騒動の不燃焼燻りの原因が分かった。たまたま同じ香川の1946年4月戦後初の衆議院議員総選挙の際の、「自由民主党を創った男」として知られる三木武吉の当意即妙の応答を聞いて留飲を下げたい。

 立会演説会で、先に演説を行った福家俊一が、三木を見つめて、「ある有力候補者のごときはなんと妾を4人も連れている」と批判した。福家の後に続いて演題に上った三木が次のように当意即妙の切り返しで爆笑をさらっている。

 「私の前に立った吹けば飛ぶような(福家を吹けに言い掛けている)候補者が『ある有力候補』と申したのは不肖この三木武吉であります。なるべくなら、皆さんの貴重な一票は、先の無力候補に投ぜられるより、有力候補たる私にと三木は考えます。なお、正確を期さねばならんので、先の無力候補の数字的間違いをこの席で訂正しておきます。私には妾が4人あると申されたが事実は5人であります。5を4と数えるごときは、小学校1年生といえども『恥』とすべきであります。1つ数え損なったとみえます。5人の女性たちは今日ではいずれも老來廃馬となって役に立ちませんが、これを捨て去るごとき不人情は三木武吉にはできませんから、みな今日も養っております」。

 メカケ騒動がこの場で収まっていることを考えると、この時代には今日騒がれているような物差しがなかったように思われる。政治にも性事にも同様の責任を取る三木の政治家としての身の処し方が天晴れ痛快として受け入れられたのかもしれん。
 選挙の結果、鳩山一郎総裁率いる自由党が第一党(140名)、首相幣原喜重郎率いる進歩党は第二党(94名)となり自由党に大敗した。社会党が第三党 (93名、後に追放により1名減)に大躍進した。続いて協同党(14名)、共産党(5名、後に繰上げ当選で1名増)、諸派(38名)、無所属(81名)になった。公職追放の打撃にも関わらず、全体として保守政党の優位が示されることになった。政権与党である進歩党は第二党に転落し、自由党.社会党の進出が目立った。マッカーサーは、「日本人民は左右両極端に走る政治思想に支配されなかった」とコメントしている。

 社会党の当選者の顔ぶれは多士済済であった。荒畑寒村、辻井民之助ら長老、森戸辰男、島田晋作ら学者.評論家、山口シズエ、加藤シズエ、松尾トシ子、沢田ひさ、山崎道子ら女性。松谷天光光も。この選挙は、婦人参政権が認められた最初の選挙でもあった。全国で79人の女性が立候補、39名が当選した。

【この時の党の選挙戦】
 党は、創立以来初めて公然と議会闘争を戦うことになった。野坂参三(東京1区).徳田球一(東京2区).志賀義雄(大阪1区).柄沢とし子(北海道1区).高倉テル(長野県) の五名が当選した。(繰り上げで中西伊之助(神奈川県)の六名となる)党は、213万5757票を獲得した。この選挙で野坂は「愛される共産党」というキャッチフレーズで闘った。この頃の党に寄せられていた大衆的な支持の熱烈さに比べれば思いの外振るわずという感じであった。日本の政治風土の保守性、ラディカルな天皇制批判による拒否反応がこのような 予想外の不振を招いたとされる。

 この選挙の折に、東京一区から立候補していた黒木が演説の最中脳溢血で倒れて死亡した。黒木重徳の履歴は次の通り。鹿児島県出水町出身で、七高在学中から運動に参加し、京大卒業後、西日本学生運動指導部会議議長として活動。3.15事件で検挙され、起訴猶予になる。昭和6年に日本共産党に入党し、京阪地方で党再建運動に従事し、昭和8.11月の検挙で関西地方委員会が破壊された後、検挙を免れた黒木は昭和9.1月上旬に川西正美達と会合し、再建活動を始める。しかし、1月下旬検挙され、非転向のまま服役する。昭和15年に満期になるが、予防拘禁所に移される。戦後、第4回大会で中央委員になり、敗戦直後の衆議院選挙に立候補し、立会演説中に急死する。

 この選挙の途中、党の財政部長で徳田と志賀の間の取り持ち役に徹していた黒木重徳が急逝している。財政部長は亀山幸三に引き継がれ、取り持ち役として、徳球はその後袴田に期待した時期もあったが、まもなく失望し、やがて伊藤律を登用し寵愛していくことになった。

【選挙後の動き】
 幣原内閣は「新憲法成立までの政治的責任」を理由に、引き続き政権を維持しようとしたが、4.7日「幣原内閣打倒人民大会」が開かれ、約20万人の労働者等が結集した。4.12日生産管理弾圧反対労働者大会が開催された。反政府闘争の色彩を強めていた。4.19日「幣原内閣 打倒共同委員会」が社会.共産.自由.協同の四党間に結成され、「幣原内閣 打倒」が急速に展開される様相を帯びるに及び三日後の4.22日総辞職を余儀なくされた。結局幣原内閣は7ヶ月の余命となった。

 幣原内閣瓦解後5.22日第一次吉田内閣が成立するまで、丁度一ヶ月間政府不在事態が現出することになった。政治的危機が現出していたことになる。ちなみに、この時「議会内外の一切の民主主義諸団体と協力して一大国民運動を起こす」と声明されていた。

 こうして後継内閣の組閣が始まったが、140名を擁するものの自由党単独では政権維持の見通しがたたなかった。こうして、次の内閣を結成するまでの間、自由党の三木武吉.河野一郎らが社会党に連立内閣構想を持ち込んで奔走することとなった。他方、社会党は、共産党より民主戦線内閣を提唱されていた。これらの要請への対応をめぐって左右両派が対立することになった。

 政治史的に見て、「幣原内閣打倒共同委員会」に右は自由党から左は共産党までの自由.協同.社会.共産の4党が共同闘争組織を結成したことは特異なことであった。後にも先にもたった一度しか出現したことのないドラマであることが注目される。事実、徳球共産党は、4党協力で幣原内閣を倒したのだから、挙国一致内閣には共産党からも閣僚を送り込みたい、入閣させろと執拗に食い下がった。当時は毎日のように4党代表者の会合があったが、そのたびに徳球は三木武吉総務会長に入閣を迫ったと伝えられている。

 この時のエピソードが次のように伝えられている。「二人とも鉈豆煙管(なたまめきせる)でたばこを吸いながら、一服吸い終わると、お互いカチリ、カチリとたたき、応酬が延々と続く。三木が、『徳田君、若いよ』と言うと、徳田は、『若いとは何事だ。おれは共産党を代表しているんだ』と怒声をあげる。『まあ、そんなに興奮するな。大声を出さんでも、おれの耳にはちゃんと聞こえているんだ』、『それじゃぁ、うんと言え』、『まあ、聞けよ・・・・・』といった調子だ。そばで一部始終を聞いていた自由党の河野一郎幹事長は、約20年後に著した『河野一郎自伝』の中で、<奇妙な煙管問答を私は今でも記憶している。それは天下の奇観としか言いようがなかった>とやや感動を込めて記している。三木も老獪だったが、徳田の迫力と粘り腰は並ではなかった」(2002.6.15日付け毎日新聞、岩見隆夫「近聞達見」)。

【社会党内激論発生】
 社会党は、議会において92名の勢力を握ることから始まった。この勢力は無視し得ないもの議員数であったことにより、直接政権取りに向かうのか、自由党との連立政権により漸次改革を目指すのかをめぐって党内左右両派が激しく対立することとなった。中央委員会内の内訳は、「社会・自由・協同の三党連立を主張する」西尾、平野らが右派を代表し7名、「社共を中心とする民主戦線内閣を主張する」加藤、鈴木らが左派を代表し4名、「社会党単独政権を主張する」中間派4名となった。激論の末採決になり、中間派が左派に同調した結果、8対7の僅差で左派が勝利した。

 社会党は、この「首班か、しからずんば野党」という党議決定により、自由党側より為されていた連立内閣強力要請を拒否することとなった。これより、社会党内は右派、左派、中間の対立が付きまとうことになった。

 片山哲が初代委員長、書記長西尾末広。片山哲が政治運動を始めたのは大正時代である。穏健な社会民主主義を唱える安部磯雄に心酔し、自らもその路線を終始守り通した。東京大学ドイツ法学科卒の理想主義者。酒もタバコもたしなまず、「真面目、温厚、敬虔なクリスチャン」。毎夜寝る前に必ず愛用の聖書を読むほどの敬虔なクリスチャンだった。長老教会派に属していた。偶然にもマッカーサーも同じ。西尾末広は、職工のたたき上げの組合運動家であり、「妥協居士」とまでいわれた現実主義と強引さ。

【幻の鳩山内閣】
 自由党は社会党に連立内閣への協力を断られた結果、単独内閣の組閣を目指すこととなった。5.3日、自由党総裁鳩山一郎が後継首相として選出され、閣僚名簿も出来、天皇に奏請されるとともに、「GHQ」にその承認を求める公文書が提出された。

 ところが、「GHQ」は歓迎せず、逆に翌5.4日モーニング姿に威儀を正して宮中からのお召しを待ち受ける鳩山にもたらされたものは「追放令状」であった。こうして鳩山は公職追放された。
この背景は憶測を呼んでいるが今日においても杳としてはっきりしていない。直後、辻嘉六、松野鶴平、河野一郎(幹事長)の3名が鳩山邸で誰に政権を預けるのかを相談している。この時三木武吉が総務会長。この後、鳩山のみならず、幹部の河野一郎、三木武吉も追放を受けることになる。

【徳球書記長結婚する】
 戦後第一回目の選挙に、東京2区から立候補して当選した徳田はこの頃、代々木の党本部で結婚式を挙げている。徳田は3.15事件で逮捕される前、よしと夫婦関係にあり1子も為していたが、入獄中婚姻関係は解消し、下獄後この時まで独身で過ごしてきていた。新婦は、前年夏死去した従兄弟の耕作の未亡人たつであった。耕作とたつは、徳田が入獄中差し入れにしばしば訪れており、面識があった。当日は野坂が新郎の介添え、新婦は宮本百合子に付き添われての入場となった。党本部の幹部室で、政治局員、統制委員など主だった幹部の参列の下に簡素に式が執り行われた。たつには二人の娘摩耶子と夏樹がいたが、よく徳田になついた様子が伝えられている。ちなみに、摩耶子は後に西沢隆二と結婚することになる。 

【食糧メーデー】
 5.1日、戦後初のメーデー(第17回)が開かれ、東京メーデーには史上初めて50万人が参加した(「メーデー復活」)

 シカゴ・サン紙の特派員マーク・ゲインは「ニッホン日記」の中で次のように記している。
 「歓声が大波のように巻き起こっていた。空は曇っていたが、日本で初めて見る熱狂と確信に満ちた喜びの大会だった」、「一番大きなそして一番長い歓呼がおこったのは、徳田が両手を高く上げて『天皇を打倒しろ!』をどなったときだった。徳田の背後には、皇居が厚い灰色の石垣の上にそびえ、米軍の歩哨が立っているのが見えた」。

 この頃大衆は餓死寸前の気配に有り、米は必要量の半分しかとれず、このままでは一千万人が餓死するであろうと言われていた。猛烈なインフレで、サラリーマン月給は金融緊急措置により500円に押さえられていたことに対してヤミ米は一升67円、一月の給料では八升しか買えなかった。人々は、衣服、家財道具を売り払って食いつなぐいわゆる「タケノコ生活」でやっと飢えをしのいでいた。

 こういう背景から戦後初のメーデーは、「食糧危機突破人民大会」と位置づけられていた。保守反動政権反対、民主人民政府の即時樹立、民主人民戦線即時結成等々を要求する23項目の決議を採択した。こうした大衆的戦いの圧力のもとで、社会党は、自由党の連立工作を拒否することになり、事態は「自由党中心の保守内閣か、社.共の民主戦線内閣か」の選択が迫られる所まで進展した。
(私論.私観) この時の徳球のエピソードについて
 この時のことと思われるが、増山太助氏の「戦後期左翼人士群像」は、「北京機関と自由日本放送」の著者藤井冠次氏の次のような逸話を紹介している。
 概要「46.5月の食糧メーデーのとき、労働者の肩車にのって阿修羅のように大声叱咤しながら官邸に乗りこんできたドン・キホーテさながらの徳田の姿を見て、『戦後の萎縮した小型紳士の政治家の中では型破りに古代中国の三軍の師を思わせる野性的な大きさ』に感動して共産党に入党した」。

【「社共両党の連携による民主人民政府」の樹立への動き】
 5.6日、労働戦線統一世話人会が、「社共両党の連携による民主人民政府」の樹立などの決議を社会党に申し入れた。海員組合.全日本炭鉱.東交.日炭.三菱製鋼などの組合も同様趣旨の申し入れを行った。同日共産党も、「社会党、共産党を中心とし、全ての民主的大衆団体を糾合した民主戦線政府を即時樹立する」ことを申し入れた。社会党は、自由党の働きかけにも応じず、この申し入れにも応じないという窮余の一策として片山哲単独内閣を目指した。幣原元首相にこれを伝え天皇への奏薦を求めたが拒否された。

米よこせ区民大会
 5.12日、世田谷区下馬で、1,000余名による「米よこせ区民大会」が開かれた。挨拶に立った野坂参三は、「我々に残された道がある。これは天皇のところへゆくより他はない。---今こそ直接、天皇のところへゆかなければならない」と扇動した。集会後、デモ隊は岩田英一(翌年の地方選挙で都議会議員、後に中央委員候補となる)を先頭として宮内省に押しかけた。こうして赤旗が坂下門から宮城内に初めて入ることとなった。デモ隊は座り込みを続け、とうとう皇居の中で一晩を明かした。
(私論.私観)この時の野坂指導の変調性について
 この当時共産党は天皇制の打倒をスローガンにしていた筈であるのに、その当の天皇に上奏していくという変調な指導をしていることになる。この後も天皇に対する上奏文運動へと流し込んでいくことになるが、このことに党内からの異論が為されていた風もないようである。

【経済界、経済団体の動き】
 4.30日、経済同友会結成。戦前には無かった経済団体であり、「修正資本主義」と「資本と経営の分離」を説く若手経営者らにより組織された。

 5.1日、経済同友会結成(代表幹事.諸井貫一) 。
 5.29日、経済団体連合会(経団連)発足。

 11.20日、日本商工会議所結成。「GHQ」の鼻息を伺いながらの発足だった。「GHQ」の見解として、労働者がまだ十分な発言の機会をあたえられておらぬ間に、経営者の強力な中央組織ができると、ようやく発足した労働組合を圧迫して、その発達を妨げるのみならず、いったん解体された財閥が再現する恐れすら有ることなどを理由に、(経済団体の早期復活に)反対の意向が表明され」ていた。(日本工業倶楽部50年史)

【戦後新興企業の動き】
 5月、ソニーの前身、東京通信工業が品川の町工場で産声を上げている。井深大、森田昭夫コンビにより創業された。

 5.7日、勅令第263号。「教職員の除去、就職禁止及び復職等の件」として、「職業軍人、著名なる軍国主義者もしくは極端なる国家主義者又は連合国軍の日本占領の目的及び政策に対する著名なる反対者」を教職から追放するよう指示。「民族的優越感を鼓吹する目的で、神道思想を宣伝した者」、「思想検察又は保護観察、予防拘禁に関係のあった官吏」。この流れで、政府は、教育関係者の審査を行うため教職員適格審査委員会を各県ごとに組織し、60万人の審査を発表した。教職員不適格者被決定者少数、全体の1%に満たなかった。マッカーサーは不満の意を表明した。
 5.15日、対日理事会で、アメリカ代表アチソンが、メーデー宣言を非難して「アメリカは日本たると何処たるとを問わず共産主義は歓迎しない」と発言した。この日社会党は、救国民主連盟を逆提唱して、大衆の左翼化を何とか「議会主義的民主戦線」の枠内に止めようとしている。アチソン声明後、社会党は急速に右旋回し、戦線統一機運を阻喪させていくことになった。民主人民戦線結成の動きはここにピリオドが打たれた。
 5.17日、「GHQ」民間情報教育局の教科書関係主任官のトレイナー少佐により4名の民間歴史学者が起用され、新教科書執筆依頼される。古代から平安時代までを家永、中世を森末、近世を岡田、近代を大久保が担当した。執筆基準は、一、特定のイデオロギーを宣伝するものであってはならない、二、軍国主義、超国家主義、神道の教義を説いてはならない、三、天皇の事跡が歴史の全部ではない。これ以外は自由に好きなように書いてほしい。神話ではなく史実に基づいた歴史が編纂。神代の物語から始まる従来のものから石器時代の記述から始まるものへと。文部省の頭越しに「GHQ」と執筆者の直接作業で作成された。新「くにのあゆみ」編纂がこうして進行した。
【「食料メーデー」】
 5.19日、吉田内閣の成立四日前、食糧難の解決を要求する全国的な大衆闘争(「食料メーデー」)が全国各地で沸き起こった。共産党の指導で、宮城前広場にメーデーデモに続いて再び25万の大衆が参集した。大会は、「人民政府の樹立と民主戦線即時結成」を決議し、食糧問題については、「最高権力者たる陛下において適切御処置をお願い」する上奏文を可決した。何ともちぐはぐな上奏文形式で主張していたことになる。

 この時「国体は護持された。朕はたらふく食ってるぞ。ナンジ臣民飢えて死ね、ギョメイギョジ」のプラッカードを持った共産党員松島松太郎が不敬罪で逮捕された(翌年10月、マッカーサーは、不敬罪は既に存在しないと声明を発し、松島はただの名誉毀損罪となった)。

 これらの経済的な要求闘争は次第に民主戦線とその政府を目指す政治闘争へと転化していく気配が濃くなりつつあった。デモの代表は宮内省.首相官邸.警視庁.検事局等へ決議文を提出しに出向く等ラディカルな動きを見せ始めていた。国民の経済闘争は次第に労働者政府を目指す闘争へと発展していった。労働戦線統一世話人会が頻りに「社共両党の連携による民主人民政府樹立」に向けて働きかけを行った。自由党内閣の組閣にあたっていた吉田茂は、こうした国民の闘争の前に、一時組閣を断念するところまで追い込まれた。

【マッカーサーが、デモ禁止命令を発令】
 こうした様子を見て5.20日、マッカーサーは、これらの闘争を「集団的暴行と暴力」と非難し、デモ禁止命令を発令した。

 「組織された指導のもとに集団的暴行と暴力による脅迫への傾向を増しつつある事実が日本の将来の発展に重大な脅威をもたらすことにつき、日本国民の注意を喚起する」、「こうした行為は、連合国の日本占領の基本的目標をおびゆかすものである。かかる事態が続くならば、余はその状況を統御し、かつ救治するに必要なる手段をとらざるを得なくなるであろう」、「民主的な方法によるあらゆる可能な国民的自由が認められ、これからも認められるのに、無規律な分子が今や開始しようとしている暴力の行使はこれ以上許されない」。

 という「暴力デモ許さず」という声明が為された。これは「GHQ」による党に対する最初の警告であり、保守政府を助ける公然とした反動的介入の始まりであった。このことは「GHQ」の社会の民主化諸施策の限界と本質を物語っているであろう。逆に言えば、大衆闘争が「GHQ」の制限枠内からはみ出ようとしている段階に至ったことを告げていた。

 この声明に力を得て5.22日吉田は組閣を完了した。5.21日内務省警保局は、生産管理弾圧を全国の警察に指令した。以降、食糧デモは急速にその姿を消し、5月の生産管理は56件、3万8847名が参加していたが、6月に入ると44件、1万8056名、7月には25件、2487名へと激減していくことになる。

【極東国際軍事裁判をめぐる状況】(「極東国際軍事裁判」参照)
 アメリカ本国では、終戦直後から国務省、陸軍省、海軍省の三省からなる政策調整委員会の極東小委員会、通称SFEにおいて、対日占領政策の基本問題としての天皇戦犯論が闘わされていた。つまり、戦争裁判にかけるべきかどうかという議論が為されたということである。

 問題は、天皇を裁判にかけた時の政治的効果にあった。既に上院には「天皇を戦争裁判にかけることをアメリカの方針とせよ」という94号決議案が出ていた。SFEの上部機関政策調整委員会SWNCCは、マッカーサーに対して、「天皇ヒロヒトが、自らの意志に基づいて、戦争を始めたかどうか」についての証拠を極秘裏に収集するよう指令した。これに対してマッカーサーは、陸軍参謀長アイゼンハワーに次のように打電している。

 「過去10年間、日本の政治決定に天皇が参加したという特別且つ明白な証拠は、発見されなかった」、「もし連合国が天皇を裁けば、日本人はこの行為を史上最大の裏切りと受け取り、長期間、連合国に対して、怒りと憎悪を抱きつづけるだろう」。

 このマッカーサー勧告が影響を及ぼし、4.13日SWNCCは、天皇制を存続すべきだとする覚書を、国務長官に提出した。 

 続いて4.5日米.英.ソ.中からなる「対日理事会ACJ」が東京に設置され、第一回連合国対日理事会開かれた。「対日理事会」は、日本の占領と管理に対してマッカーサーに助言を与える権限をもつ諮問機関として発足した。これらの機関が超法規的権力となり、戦後の日本の再建を指導していくことになった。戦後の日本統治は、この「GHQ」と「極東委員会」(ワシントンに設置.議長米.他)と「対日理事会」(東京に設置.議長米.英.ソ.中の4カ国代表によって構成)によって運営されていくことになった。

【極東国際軍事裁判開廷】
 5.3日、戦犯追及の極東国際軍事裁判所が開廷された。元陸軍士官学校跡地で戦時中の大本営や陸軍省のあった市ヶ谷台地に設置された。起訴されたA級戦犯被告は東条英機ら18名、元首相が平沼騎一郎.広田弘毅、外交官が松岡洋右ら4名、その他政府高官が賀屋興宣ら2名、内大臣の木戸幸一、右翼思想家大川周明の28名だった。首席検察官にはジョセフ.キーナン首席検察官、 オーストラリア、クィーンズランド州最高裁判所長官であったサー.ウィリアム.ウエップが裁判長(主任判事)にマッカーサーによって抜擢された。

 この時被告大川は、彼に対する告訴状の写しを丸め、一列前にいた登場の禿げ頭をピシャリと叩いた。その様子は精神異常を明らかにしていた。法廷は、大川を「梅毒性進行麻痺に伴う精神病」を患っていると判断し、「正邪の弁別」が出来ず、「彼に対する訴訟手続きの性格を理解する能力」を欠いているとして、療養所へ収容した。大川は、ここで、「宗教のための序説」を執筆しながら極東国際軍事裁判が終わるまで留まった。裁判後釈放され余生を過ごした。1957.12月に71歳で死亡するという風変わりな経過を見せている。

 「極東国際軍事裁判所条令は、捕虜虐待など従来の戦時国際法に規定された『通常の戦争犯罪』に加え、侵略戦争の計画.準備.遂行などの『平和に対する罪』、民間人の殺害や人種的迫害などの『人道に対する罪』という新たな戦争犯罪の概念を適用した」裁判となった。「平和に対する罪」に関わる戦犯はA級戦犯と呼ばれ、その他の戦犯(B.C級戦犯)と区別され、東条元首相等28名が起訴された。そして、張作霖爆発事件が起きた1928年(昭和3年)から45年の無条件降伏に至る17年8ヶ月の我が国の「戦争の歴史」が裁かれることになった。この裁判は、48年4月まで約2年間にわたって審理が続けられることになる。原爆投下については審議が却下されたる等、連合国側の戦争犯罪は不問にされるという「勝てば官軍」の一方的なものとなった。

 日本側弁護人清瀬一郎弁護士。清瀬は、裁判の正義と公正の見地から裁判長の適格性を問うた。裁判開始直後の裁判長忌避動議。物議をかもした。結局却下された。首席検察官キーナンは、被告たちを前にして、「平和に対する犯罪、殺人、人道に対する犯罪、このゆえに被告らは断罪されなければならない 」と主張した。5.13日清瀬弁護士は、「平和に対する罪」、「人道に対する罪」を裁く権限はない、と主張した。これを後日から見れば、「東京裁判は公正な裁判ではなかった」ということが判明する。裁判管轄権、裁判官の適任性、法の不遡及、共同謀議の法理等々明白な法的不備が確認でき、裁判の形式的な手続きを踏んだだけ狡猾にされた勝者側の敗者に対する裁判であった。

 6.18日、ジョセフ.キーナン首席検察官は、ワシントンで、「我々、極東国際軍事裁判検事団は、天皇ヒロヒトを訴追しないことに決定した。我々は、天皇に関するあらゆる証拠を検討したが、天皇を戦犯として起訴する明白なる証拠は、一つとして発見し得なかった」と記者会見の席上述べた。天皇戦犯問題が、不起訴という形で、初めて公にされた。10.10日ジョセフ.キーナン首席検察官は、天皇訴追免除を決定した。
 
 この法廷で満州事変以来の歴史的史実が明るみに出されていくこととなった。なお、法廷陳述では、それぞれが次のように自己弁護している。平沼元首相「戦いを欲しなかった」、小磯陸軍大将「私は対米戦回避論者だ」、関敬純海軍中将「東条内閣の出現を憂えた」。東郷外相と海相嶋田繁太郎は責任のなすりあいで罵倒しあった。
(私論.私観) 「極東国際軍事裁判」について
 この裁判の公正性を論理的に見ると整合しないように思われる。戦勝国側のイデオロギーの押し付けの臭い裁判であり、その方向で徹底的に利用されたという観点からみなさないとあちこちに齟齬を生ずる。つまり、「極東国際軍事裁判」の正邪論は不毛であり、戦後日本社会がこの裁判を通じて何を遮断され何を移入されたかということの実態解明こそが学究的であると思われる。 

【BC級戦犯裁判】
 45.10月から51年4月まで、中国や東南アジア諸国など49の地域でBC級戦犯裁判が行われた。現地指揮官や下級兵士ら5700人が裁かれた。有名なのは、「マレーの虎」と異名をとっていた山下奉文.元陸軍大将の処刑である。法務省の推計によると、BC級戦犯裁判では934人が死刑判決を受け、執行920人、有罪判決3413人であった。泰めん鉄道(タイ−ビルマ間鉄道)の建設で捕虜を虐待した戦犯容疑者らは英国軍によるシンガポール裁判にかけられた。「まさかと思う人が私刑になった。身に覚えのない者、上官の命令を拒否できなかった者が大勢、処罰された」、「あの裁判の本質は報復だった」と伝えられている。

【アイゼンハワー陸軍参謀長官とマッカーサー元帥が会談】
 5.10日、アイゼンハワー陸軍参謀長官が来日し、マッカーサー元帥と会談。この頃、二人は有力な大統領候補としてうわさに上っていた。会談ではもっぱらマッカーサーがしゃべりまくり、アイゼンハワーの発言は、「いかなる軍人でもアメリカの大統領になろうなどという野心を起こしてはならない」という言葉だった。

【国共内戦始まる】
 中国で、蒋介石率いる国民党と毛沢東の共産党とが内戦に突入した。

【党の天皇会見要求】
 この頃、徳球書記長.志賀政治局員が天皇に会見要求し拒否された。

【吉田内閣創出の動き】
 5.10日頃から鳩山と吉田会談が設けられ、幣原内閣の外務大臣であった吉田茂が自由党総裁を引き継ぐことになった。この時吉田は総裁引き受けに当たって、次の三つの条件を出したと云われている。一.党の資金作りはいやだ。鳩山で引き受けて欲しい。二.閣僚の選考には誰にも口出しさせない。人事に干渉してほしくない。三、いやになったらいつでも内閣を投げ出す。実際にはもう一つ、「吉田内閣は暫定的なもので、鳩山が追放解除されたら総裁を君に返す」があったようであるが、その後の流れはこの約束を反故にしていくことになった。

 鳩山回顧録によれば、政党の人事は鳩山に任すという約束が為されたともある。この時を回顧して吉田は、「鳩山にしてみれば、暫く吉田に自由党を預けておいて、やがて立ち帰る機会を待とうと言う気持ちであったろうし、私にしてみても長くやろうという気は無かった」と述べている。しかし、史実は、傲慢ともいえる三条件を飲ませて長くやるつもりでなく自由党総裁に就任したこの男吉田が、この後内閣総理大臣の任につくこと5度、8年の長きにわたって日本の戦後を指導支配し、戦後型保守本流の源を作ることとなった。盟友鳩山と吉田は憎みあう仇敵となっていくことになる。

 吉田は、進歩党と協力して組閣に向かいGHQの後押しを得ることに成功する。吉田は、公式だけでも都合76回マッカーサーと会うことになる。

【吉田内閣誕生】
 5.22日、第一次吉田茂内閣が(46.5.22〜47 .5)が組閣された。こうして一ヶ月にわたる政府空白期が漸く終わった。この時の吉田は、官房長官・林譲治を側近に抱え、官僚出身の幣原喜重郎、石黒武重を参謀に起用し、鳩山系の三木武吉、河野一郎らの党人派を退けている。なお、組閣にも官僚エキスパートを登用し、党人派は4名(星島次郎、斎藤隆夫、平塚常次郎など)に押さえられていた。特に、農相に農林省農政局長の和田博雄を起用したことが騒動になった。和田はその後の経歴を見ても分かるがいわば容共派官僚であり、そうした人士を登用する吉田人事に鳩山が噛み付いている。「農政は保守党の生命だ。そこにアカを据えるとは、正気の沙汰ではない」。吉田は、「閣僚人事にはくちばしを入れないという約束じゃあなかったのか」とにべもなくあしらった。その他、大内兵衛や有沢広巳らの学者を入閣させようとして党内から反撃を受けている。「ひさしを貸して母屋を取られるとはこのことだ」と激昂した様子が伝えられている。こうした党人派軽視の人事がこの後の党内に尾を引いていくことになった。

 後継内閣の誕生が一ヶ月以上難航した例も珍しい。自由.進歩両党の連立で組閣された。これが戦後初の政党内閣となった。この経過を見れば、「GHQ」はドイツのような直接軍政ではなく 間接統治を目指したことが伺える。「GHQ」の後押しによる吉田内閣の成立は、アメリカ大国主義が、その対日支配を日本独占資本を中心とする勢力を重視してこれを押し進めるという重大な契機となった。

 この内閣は、上からは「GHQ」の指令、下には国民の飢餓と窮乏、内からは党人派の突き上げ、外からは徳田共産党の指導するデモとストライキの渦に晒されることになった。「何よりも食料、何よりもメシの時代」であった。

 
 付言すれば、この吉田は晩年随筆「大磯の松」で、共産党指導者徳田球一をこう評している。
 「共産党の徳田球一君は、議会で私を攻撃する時はまことに激しい口調であるが、非常にカラッとした人で、個人的には好きな型の人であった。敵ながら、愉快な人物であった」。

【続農地改革の動きについて
 農林大臣には松村謙三にかわって和田博雄が就任した。第一次改革案が「GHQ」の拒否に会って足踏み状態を続けている間に、事態は国際的になっていった。4.30日、東京で開かれた対日理事会の席上、ソ連代表が農地改革を議題とするよう要求した。5.29日、第五回対日理事会でソ連代表デレビヤンコ中将は、第一次改革案の不徹底さを批判し、不在地主の土地全部を没収することなどを骨子とした農地改革案を提案した。ついで、イギリス案が出され、そのイギリス案を元にしてアメリカ案が出された。このアメリカ案が土台となって第二次改革案への流れとなる。問題は、地主の土地保有制限の幅と不在地主の土地保有の認否、小作人への農地払い下げを有償で行うのか無償化するのか、有償の場合その適正対価、農地の売買を第三者機関を通じて行うのか、地主小作間の直接取引きで行うのか、小作が自作農化したとして維持し得るか等々にあった。

【「民主戦線」運動流産する】
 吉田内閣成立後も、民主戦線結成への努力は続けられたが、社会党内では右派勢力の発言権が強まり、5.11日、社会党の森戸辰男は、民主人民連盟に対抗して、救国民主連盟を提唱した。5.26日、社会党は党として正式に自党の指導権を前提とする「救国民主連盟案」を発表した。5.31日、民主人民連盟は救国民主連盟へ吸収されることとなった。共産党も参加の意思を表明したが、社会党が「共産党との交渉は条件未成熟」とみなし、社共共闘の動きを排除した。
 
 5.27日、宮本政治局員、社会党の「救国民主連盟(案)」について談話発表。参加団体の対等平等の保障、独自性の尊重が必要と主張。6.6日社会党の指導権の保障を前提とした「救国民主戦線」構想が正式に決定された(「6.6決定」)。

 7月になると社会党は、共産党がこれを受け入れないことを理由に統一戦線交渉の打ち切りを決定した。こうして、民主戦線は、遂に日の目を見ることなく流産した。こうして総選挙後も共闘は成立せず、野坂の帰国によって燃え上がった民主人民戦線運動は、ムードだけで終わりを告げていくことになった。

 5.27−28日、総同盟は、中央委員会を開催した。4月末時点で、1600余組合、65万人を組織したことが報告された。生産管理戦術に消極的態度を取ること、食糧メーデーについての批判的見解、救国民主連盟の支持、労働組合の政党に対する独自性の確認などが決定された。いずれも、共産党の戦術.労働組合認識に対する批判であった。
【食糧の緊急輸入と闇買いの横行】

【吉田首相の憲法9条答弁】
 6.22日、第90回帝国議会衆院本会議において、吉田首相は、次のように述べている。

 「憲法九条二項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したのであります。従来近年の戦争は多く自衛権の名において行われたのであります。満州事変然り、大東亜戦争また然りであります。故にわが国においては、いかなる名義を以てしても交戦権はまず第一自ら進んで放棄する。放棄することによって全世界の平和の確立の基礎をなす」。

 6.29日、吉田首相は、衆院本会議で、共産党の野坂参三の「自衛戦争は正当である。自衛のためには軍備を持つべき」との質問に対して次のように答弁している。

 「国家正当防衛権による戦争は正常なりとせられるようであるが、私はかくのごときを認むることが有害であろうと思うのであります(拍手)。近年の戦争は多くは国家防衛権の名において行われることは顕著な事実であります。故に正当防衛権を認むることがたまたま戦争を誘発する所以であると思うのであります。…正当防衛権による戦争がもしありとするならば、その前提において侵略を目的とする戦争を目的とした国があることを前提としなければならぬのであります。故に正当防衛、国家の防衛権による戦争を認むるということは、たまたま戦争を誘発する有害な考えで…ご意見のごときは有害無益」。

【この頃の昭和天皇の機密的政治発言】
 この頃の昭和天皇の貴重な政治発言である言行録が開示された。「阿修羅戦争板71」の2005.6.21日付け「松浦」氏の「ホイットニー文書 昭和天皇の日本国民に対する見解全文」(「ホイットニー文書」)を転載する。
 昭和天皇の人物と、敗戦後象徴天皇制を理解する上で欠かすことのできないホイットニー・ノートについて、ここの戦争板でも知らない人が多く、確認のために投稿します。なお、文責は全て松浦に帰すものです。

 【1】
 ここに言及するホイットニー・ノートとは、昭和天皇が占領軍司令部(SCAP)に対し表明した見解の要約が記された、「極秘」扱いの英文三頁以上にわたるメモランダムのことで、1946年4月から6月の間に東京駐在の国務省員によって作成され、マッカーサー元帥の腹心であったコートニー・ホイットニー将軍の私物として保管された後、1970年代前半にヴァージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館に寄贈され、1978年に機密解除され公開されている。

 以下にこの文書における天皇見解の全訳を記す。なお、原文は間接話法の報告文形式となっているため、天皇の見解箇所をまとめる必要から直接話法とし、その際、節関係には変更が生じないよう原文そのままを踏襲した。
 ホイットニー文書

 この文書は、昭和天皇ヒロヒトが占領軍司令部に対し表明した見解の要約が全編にわたり記された、「極秘」扱いの、英文三頁以上にわたるメモランダムである。1946年4月から6月の間に、東京駐在の国務省員によって作成され、マッカーサーの腹心であったコートニー・ホイットニーの私物として保管された後、1970年代前半にヴァージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館に寄贈され、1978年に機密解除されている。
 A Secret Message from the Showa Emperor Whitney's papers

 The document poses some unusual problems for scholars. Typed in English, classified "Top Secret," and covering a little more than three double-spaced pages, it is devoted entirely to summarizing the emperor's opinions as conveyed through an intermediary. Until the early 1970s, it was in the personal possession of MacArthur's former aide and personal confidant, General Courtney Whitney, although it is not mentioned in either Whitney's or MacArthur's memoirs. Whitney's papers were turned over to the MacArthur Memorial in Norfolk, Virginia, and declassified in 1978.
 「二、三週間前に占領が長く続くべきであるとの希望を述べた根拠を説明したい。日本人の心には未だ封建制の残滓が多く残っており、それを眼こそぎにするには長い時間がかかるだろうと感じている。日本人は全体として、自己の民主化に必要な教育に欠けており、さらに真の宗教心にも欠けており、そのため一方の極端から他方の極端へと揺れやすい。日本人の封建的特徴の一つは、進んで人に従おうとする性格にあり、日本人はアメリカ人のように自分で考える訓練を受けていない。徳川政権は、民は指導者に従うべきであり、そのため忠誠心以外はいかなる道理も与えられてはならない、という論理のうえに築かれていた。かくして、平均的な日本人は、自分で考えることにおいて昔からの障害に直面している。かなり闇雲に従うという本能によって、現在、日本人はアメリカ的な考えを受け容れようと熱心に努力しているが、例えば労働者の状況を見れば、彼らは自分本位に権利ばかりに注意を集中し、本分と義務について考えていない。
 この理由は、ある程度、長年の日本人の思考と態度における氏族性に求められる。日本人が藩に分割されていた時代は、完全には終っていない。平均的日本人は、自分の親戚はその利益を追求すべき友人とみなし、他の人間はその利益を考慮するに値しない敵と考えている。日本人の間には宗教心が欠如している。私は神道を宗教とは考えていない。それは儀式に過ぎず、合衆国では甚だ過大評価されてきたと考えている。しかし、たいていの神道信者は超保守的で、彼らと神道と超国家主義を同一視していた復員兵とその他の者は、しっかりと結びつく傾向を持っているので依然として危険な面がある。政府は、信教の自由に関する命令を厳守する立場にあり、現在彼らを取り締まる手段を持っていないために、こうした状況は危険だ。神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要すると考えている。以上のようなことから、私は今は日本人のもつ美点を述べている場合ではなく、むしろその欠点を考える時だと感じている。

 私は、マッカーサー元帥と元帥の行っていることにたいへん大きな感銘を受けている。また、対日理事会におけるアメリカの態度にとても感謝し、それが安定効果を持つと感じている。しかし、私は今、この国の労働状況をかなり憂慮している。日本の労働者は、物事を真似る事において、義務を疎かにして自分の権利を利己的に追求しやすく、米国のストライキから有害な影響を受けるので、米国の炭坑ストが速やかに解決するよう希望している。自分の治世に与えられた名前 ―昭和、啓発された平和― も今となっては皮肉なように思えるが、自分はその名称を保持することを望み、真に『輝く平和』の治世となるのを確実にするまでは、生き長らえたいと切に願っている。

 私は鈴木(貫太郎)提督の被った損失に心を痛めている。鈴木は、降伏準備のための内閣を率いるよう私が命じたのであり、海軍の恩給ばかりでなく、それは理解できるにしても、文官としての恩給までも失った。彼は侍従長を長く勤め、そして降伏準備の任務をよくこなした。彼の提督という階級と戦時の首相という地位が追放に該当するのは当然としても、彼は、皇室に仕えていた地位の恩給の受け取りも現在停止されている。私は、鈴木提督個人のためだけでなく、このような価値剥奪が日本人に理解されず、占領軍の利益にも日本自身の利益にもならない反米感情をつくり出すという理由から、不安を募らせている」。
 The Text of the Memorandum [Verbatim reproduction of the original English typescript]

He said that the Emperor wanted him to explain the basis for the latter's remark of a couple of weeks ago that he hoped the Occupation would not be too short. The Emperor felt that there were still many remnants of feudalism in the Japanese mind and that it would take a long time to eradicate them. He said the Japanese people as a whole were lacking in education which was necessary for their democratization and also that they were lacking in real religious feeling and were accordingly easy to sway from one extreme to the other. He said that one of the feudalistic traits was their willingness to be led and that they were not trained like Americans to think for themselves. He said the Tokugawa regime had been built on the theory that people should follow their leaders and should not be given any reason therefor except loyalty. Thus the average Japanese faced a traditional handicap in trying to think for himself. With his instinct to follow rather blindly, the Japanese were now eagerly endeavoring to adopt American ideas but, as witness the labor situation, they were selfishly concentrating their attention on their rights and not thinking about their duties and obligations. Part of the reason for this stems from the long-standing habit of clannishness in their thinking and attitudes. The days when the Japanese people were divided into clans are not really over. The average Japanese considers his relatives as friends whose interests he would pursue, and other people as enemies whose interests do not merit consideration.

He said the Emperor had talked a great deal lately about the lack of religious feeling among the Japanese. The Emperor did not consider Shinto a religion. It was merely a ceremony and he thought that it had been greatly over-rated in the United States. It still had some dangerous aspects, however, because most Shintoists were ultra-conservative and they and ex-soldiers and others who had identified Shintoism with ultra-nationalism had a tendency to cling together. This was dangerous now the Government was without any means of supervusing [sic] them because of its strict observance under orders of the freedom of religion. The Emperor thought that the Shinto elements and their fellow travelers would bear watching because they were anti-American.

The Emperor felt that this was no time to talk about whatever virtues the Japanese people possessed but rather to consider their faults. Some of theirfaults were indicated in the foregoing general outline of the Emperor's thoughts which had brought him to the conclusion that the Occupation should last for a long time.

He said that the Emperor was very greatly impressed with General MacArthur and what he was doing. I said that General MacArthur was one of our greatest Americans who in his devotion to American and Allied interests at the same time, as the Emperor knew, had the best interests of the Japanese people at heart. I said that we Americans believed that Allied objectives for Japan were in the best interests of the Japanese as well as the world at large and we looked forward to the development of a democratic and economically sound Japan which would respect the rights of other nations and become a cooperative member of the commonwealth of nations.

In response to an inquiry in regard to reparations, I said that General MacArthur is extremely anxious to have this question settled as soon as possible so that the Japanese industrialists could get down to work and produce goods needed for the purpose of paying for imports of food and for consumption in this country. I said that the General and his staff were doing everything they could to hasten the achievement of economic stability in Japan and I added some remarks in regard to the industry and thrift of the Japanese people and the need that they exert their best efforts for improvement of the economic situation.

He said the Emperor appreciated very much the American attitude taken in the Allied Council, and felt that it had a stabilizing effect. But he was nowconsiderably worried over the labor situation in this country and hoped that the coal strike in the United States would be settled soon because the Japanese laborers, in their imitative way and in their selfish seeking of their rights without regard to their obligations, were being adversely affected by the American coal strike.

He said the Emperor had remarked to him several times that the name given his reign--Showa or Enlightened Peace--now seemed to be a cynical one but that he wished to retain that designation and hoped that he would live long enough to insure that it would indeed be a reign of "Splendid Peace".

He said that the Emperor was distressed over the loss by Admiral Suzuki, whom he had named to head the Cabinet to prepare for the surrender, of not only his Naval pension, which was understandable, but also his pension as a civil official. He had been Lord Chamberlain to the Emperor for a number of years, had done his job well in laying preparations for the surrender and, while his rank as Admiral and wartime status as Prime Minister naturally subjected him to purge, he was not prevented from receiving his pension due him from his position in the Imperial Household. The Emperor was perturbed not only for the sake of Admiral Suzuki personally but also because such deprivations, which were not understood by the Japanese, created anti-American feelings which were not in the interests of the Occupation or of Japan itself.

JOHN W. DOWER is Elting E. Morison Professor of History at the Massachusetts Institute of Technology and author of Embracing Defeat: Japan in the Wake of World War II
資料名    General Whitney to C-in-C, dated 24 April 1946
年月日  24 April 1946
資料番号 GHQ/SCA 民政局文書 GHQ/SCAP Records Government Section;Box No. 2225
所蔵   国立国会図書館
原所蔵  米国国立公文書館
 The Text of the Memorandum [Verbatim reproduction of the original English typescript]
 以下確認するが、「He said 」で始まっている。このHeは天皇の話を聞いた人物で、Emperorは昭和天皇である。「The Emperor felt 」以下は昭和天皇の話を聞いた人物による要約であり、天皇陛下がthat以下を一字一句言ったという意味ではない。ダワー氏も指摘している、このメモランダムの作者も日時も不明である。故に、資料としての価値がかなり落ちるものとして確認する必要がある。但し、内容吟味的には値打ちの或る歴史証言足り得ているのではなかろうかとも思う。
 「メモテキスト」(*)
 He said that the Emperor wanted him to explain the basis for the latter's remark of a couple of weeks ago that he hoped the Occupation would not be too short.
 彼はこう云った。皇帝が、二、三週間前に占領が短すぎないようにして欲しいと述べたことに関係しての最近の言及について根拠を説明したがっている。
 The Emperor felt that there were still many remnants of feudalism in the Japanese mind and that it would take a long time to eradicate them.
 皇帝は感じている。日本人の心には未だ封建制の残滓が多く残っており、それを眼こそぎにするには長い時間がかかるだろうと。
 He said the Japanese people as a whole were lacking in education which was necessary for their democratization and also that they were lacking in real religious feeling and were accordingly easy to sway from one extreme to the other.
 彼は云う。日本人は全体として、自己の民主化に必要な教育に欠けており、さらに真の宗教心にも欠けており、そのため一方の極端から他方の極端へと揺れやすい。
 He said that one of the feudalistic traits was their willingness to be led and that they were not trained like Americans to think for themselves.
 彼は云う。日本人の封建的特徴の一つは、進んで人に従おうとする性格にあり、日本人はアメリカ人のように自分で考える訓練を受けていない。
 He said the Tokugawa regime had been built on the theory that people should follow their leaders and should not be given any reason therefor except loyalty.
 彼は云う。徳川政権は、民は指導者に従うべきであり、そのため忠誠心以外はいかなる道理も与えられてはならない、という論理のうえに築かれていた。
 Thus the average Japanese faced a traditional handicap in trying to think for himself.
 かくして、平均的な日本人は、自分で考えることにおいて昔からの障害に直面している。
 With his instinct to follow rather blindly, the Japanese were now eagerly endeavoring to adopt American ideas but, as witness the labor situation, they were selfishly concentrating their attention on their rights and not thinking about their duties and obligations.
 かなり闇雲に従うという本能によって、現在、日本人はアメリカ的な考えを受け容れようと熱心に努力しているが、例えば労働者の状況を見れば、彼らは自分本位に権利ばかりに注意を集中し、本分と義務について考えていない。
 Part of the reason for this stems from the long-standing habit of clannishness in their thinking and attitudes.
 この理由の或る面は、日本人の思考と態度における氏族性の長年の習慣に求められる。
 The days when the Japanese people were divided into clans are not really over.
 日本人が藩に分割されていた時代は、完全には終っていない。
 The average Japanese considers his relatives as friends whose interests he would pursue, and other people as enemies whose interests do not merit consideration.
 平均的日本人は、自分の親戚はその利益を追求すべき友人(味方)とみなし、他の人間はその利益を考慮するに値しない敵と考えている。
 He said the Emperor had talked a great deal lately about the lack of religious feeling among the Japanese.
 彼は云う。皇帝が、日本人の間には宗教心が大きく欠如していると語ったと。
 The Emperor did not consider Shinto a religion.
 皇帝は、神道を宗教とは考えていない。
 It was merely a ceremony and he thought that it had been greatly over-rated in the United States.
 それは単なる儀式に過ぎず、合衆国では甚だ過大評価されてきたと考えている。
 It still had some dangerous aspects, however, because most Shintoists were ultra-conservative and they and ex-soldiers and others who had identified Shintoism with ultra-nationalism had a tendency to cling together.
 しかしながら、たいていの神道信者は超保守的なので、彼らと、神道を超国家主義を一体化させている復員兵とその他の者が結びつく傾向を持っているので、依然として危険な面がある。
 This was dangerous now the Government was without any means of supervusing [sic] them because of its strict observance under orders of the freedom of religion.
 これは危険な情況である。即ち、政府は信教の自由に関する命令を厳守する立場にあり、現在彼らを取り締まる手段を持っていない。
 The Emperor thought that the Shinto elements and their fellow travelers would bear watching because they were anti-American.
 皇帝は、神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要すると考えている。
 The Emperor felt that this was no time to talk about whatever virtues the Japanese people possessed but rather to consider their faults.
 皇帝は、以上のようなことから、今は日本人のもつあれこれの美徳を述べている場合ではなく、むしろその欠点を考える時だと感じている。
 Some of theirfaults were indicated in the foregoing general outline of the Emperor's thoughts which had brought him to the conclusion that the Occupation should last for a long time.
 (***この下りの訳が飛んでいる) 幾つかの欠点は、占領は長期に亘って為されるべきだとする結論を持つ皇帝の考えの先述している一般的見地に示されている。
 He said that the Emperor was very greatly impressed with General MacArthur and what he was doing.
 彼は云う。皇帝は、マッカーサー元帥と元帥の行っていることにたいへん大きな感銘を受けている。
 I said that General MacArthur was one of our greatest Americans who in his devotion to American and Allied interests at the same time, as the Emperor knew, had the best interests of the Japanese people at heart.
 (***この下りの訳が飛んでいる) 私は云う。マッカーサー元帥は、アメリカに対する献身と同盟的な利益を同時に体現している最も偉大なアメリカ人の一人である。このことにつき、皇帝が御承知のように、彼は日本人に心からの最高の利益をもたらしている。
 I said that we Americans believed that Allied objectives for Japan were in the best interests of the Japanese as well as the world at large and we looked forward to the development of a democratic and economically sound Japan which would respect the rights of other nations and become a cooperative member of the commonwealth of nations.
 (***この下りの訳が飛んでいる) 私は云う。我々アメリカ人は、日本に対する同盟的な目的が日本の最高の利益になるように、丁度それは世界に広げても同じであり、我々は、民主的且つ経済的発展が、日本をして、他の諸国の権利を尊敬させ、且つ諸国家の共通利益を持つ協調的なメンバーの一員になることに向かって前進していると信じている。
 In response to an inquiry in regard to reparations, I said that General MacArthur is extremely anxious to have this question settled as soon as possible so that the Japanese industrialists could get down to work and produce goods needed for the purpose of paying for imports of food and for consumption in this country.
 (***この下りの訳が飛んでいる) 賠償金に関しての質問に答えて、私は云う。マッカーサー元帥は、この質問が解決されることを非常に気にしている。これは、日本の産業家が労働を能くし、この国の食料輸入物に支払いをする目的と消費目的の為に必要な商品を生み出すことができるかどうかにかかっている。
 I said that the General and his staff were doing everything they could to hasten the achievement of economic stability in Japan and I added some remarks in regard to the industry and thrift of the Japanese people and the need that they exert their best efforts for improvement of the economic situation.
 (***この下りの訳が飛んでいる) 私は云う。元帥と彼のスタッフは、日本の経済的安定の達成を急がせることができた。そして、私は、日本人の産業と倹約、そして経済的状況の改良に関する最高の努力に傾注する必要に関する意見を付け加えました。
 He said the Emperor appreciated very much the American attitude taken in the Allied Council, and felt that it had a stabilizing effect.
 彼は云う。皇帝は、対日理事会におけるアメリカの態度にとても感謝している。且つそれが安定効果を持つと感じている。
 But he was nowconsiderably worried over the labor situation in this country and hoped that the coal strike in the United States would be settled soon because the Japanese laborers, in their imitative way and in their selfish seeking of their rights without regard to their obligations, were being adversely affected by the American coal strike.
 しかし、彼は今、この国の労働状況をかなり憂慮している。そして、米国の炭坑ストが速やかに解決するよう希望している。なぜなら、日本の労働者は物事を真似る事に長けており、米国の炭鉱ストライキから有害な影響を受け、義務を疎かにして自分の権利を利己的に追求し易くなるからである。
 He said the Emperor had remarked to him several times that the name given his reign--Showa or Enlightened Peace--now seemed to be a cynical one but that he wished to retain that designation and hoped that he would live long enough to insure that it would indeed be a reign of "Splendid Peace".
 彼は云う。皇帝は、自分の治世に与えられた名前 ―昭和、啓発された平和― も今となっては皮肉なように思えるが、自分はその名称を保持することを望み、真に『輝く平和』の治世となるのを確実にするまでは、生き長らえたいと切に願っている。
 He said that the Emperor was distressed over the loss by Admiral Suzuki, whom he had named to head the Cabinet to prepare for the surrender, of not only his Naval pension, which was understandable, but also his pension as a civil official.
 彼は云う。皇帝は、鈴木(貫太郎)提督の被った損失に心を痛めている。鈴木は、降伏準備のための内閣を率いるよう私が命じたのであり、海軍の恩給ばかりでなく、それは理解できるにしても、文官としての恩給までも失った。
 He had been Lord Chamberlain to the Emperor for a number of years, had done his job well in laying preparations for the surrender and, while his rank as Admiral and wartime status as Prime Minister naturally subjected him to purge, he was not prevented from receiving his pension due him from his position in the Imperial Household.
 彼は侍従長を長年に亘って勤め、そして降伏準備の任務をよくこなした。彼の提督という階級と戦時の首相という地位が追放に該当するのは当然としても、彼は、皇室に仕えていた地位の恩給の受け取りも現在停止されている。
 The Emperor was perturbed not only for the sake of Admiral Suzuki personally but also because such deprivations, which were not understood by the Japanese, created anti-American feelings which were not in the interests of the Occupation or of Japan itself.
 皇帝は、鈴木提督個人のためだけでなく、このような価値剥奪が日本人に理解されず、占領軍の利益にも日本自身の利益にもならない反米感情をつくり出すという理由から、不安を募らせている」。
 JOHN W. DOWER is Elting E. Morison Professor of History at the Massachusetts Institute of Technology and author of Embracing Defeat: Japan in the Wake of World War II
 以上がホイットニー・ノートにおける昭和天皇が占領軍司令部に伝えた見解の全体である。 上記の通りホイットニー文書の内容は、昭和天皇裕仁がSCAPに対して、占領を長引かせるようにと要請したことの根拠を、自身の見解として説明したものである。 内容が余りに占領軍寄りなために、一見してGHQの対日占領指針のようだが、事実、この文書に触れた米国の対日研究者の多くが一様に驚きを表明する。あまりの機会主義、自己省察の欠如に不快感を表す米国人研究者も少なくない。裕仁の倫理性を別にすれば、内容自体は洞察を感じさせる実相を衝いたものだとも判断できるが、むしろ米国人の方が、日本国民が不当に歪められて表現されていると感じることが多いようだ。 ここには天皇の日本人全般に対する強い不信感が表明されている。国家神道を儀式に過ぎないと断じた上で、その超国家主義的性格の危険性までを言及する。(確認すれば、これは、マッカーシー反動による軍国主義勢力の公職復帰以前に述べられたものであり、当時は戦中戦後を通しての天皇制利権の例外的な空白期に当たり、右派勢力からも退位を要求する声が一般的であった。) その上で、労働者の権利要求を自分本位、利己的で義務を疎かにするものと断じ、米国の炭坑ストの波及まで憂慮してみせる。問題は事の当否ではない。そもそも日本人の闇雲に従う性質の上に君臨してきたのは誰であったのか。敗戦一年後の国民の状況は、まさに闇市で糊口をしのぐが精一杯で、住居も衣服もろくになく、街路には戦災孤児と飢えが満ち溢れている有様であった。国体護持のために降伏を徒に長引かせ、甚大な犠牲を強いた直後に、労働者が義務と本分を考えていないと断じる。その上で、元侍従長の年金については腐心する。それが国民の反米感情にまで繋がるとの名分を示しながら。身内以外は敵だと看做していると日本人の体質について触れるが、それがそのまま自身の鏡であることに気付くことはなかった。寺崎英成によって記録されたマッカーサーと裕仁との第三回会談(1946年10月15日)の公式要録の完全版とも整合する内容ということもあり、意外性はないのだが、それは専門家や研究者の常識であって、必ずしも一般国民の認識とは一致しない。いずれにしても、責任を等閑にした形振り構わぬ保身主義と従米が、戦後象徴天皇制の出発点であったことは疑い得ない。前述のようにホイットニー文書は合衆国の公文書で、既に全文が公開されており、90年代以降米人研究者の論考も多く、近年注目を集めてきた日米史関係資料のひとつである。





(私論.私見)