1945年5、終戦直後から9月末までの動き | 政治犯の釈放、戦後党運動の開始 |
(れんだいこのショートメッセージ) | ||
敗戦国日本は、米ソ両国から狙われていた。ソ連は露骨に次のように述べている。「アメリカとロシアの間に戦争の勃発する以前ソビエト同盟は日本共産党を通じて激烈な反米運動を起し日本に赤色政権を樹立すべく努力するであろう」。米国は、ソ連のハード路線に対してGHQを通じてソフト路線で対応した。GHQの「合衆国対日戦後政策」にはこう記されていた。「日本人民は個人的自由、基本的人権の尊重、特に宗教、集会、言論、新聞の自由に対する欲望を発達させるように激励されるであろう。彼らはまた民主的にして代表的なる組織を作るように激励されるであろう」。 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」は次のように述べている。
れんだいこは、この観点は一理も二理もあるように思う。共に、その経過を見ていくことにしよう。町田氏の一節は次の通りである。
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田川和夫氏の「日本共産党史」は次のように述べている。
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【幹部出獄直前の党の状況】 | ||
党は、終戦時点で中央委員会を始めとする正式の党組織全てが壊滅させられていた。1935年の弾圧により党中央が検挙されて以来既に10年間空白にさせられていた。唯一非転向党員が獄中にのみ存在するという有様であり、受刑中.裁判中.予防拘禁中.捜査中等々の者を合わせて約3百名、転向後に保護観察下に置かれていた者が2千数百名、その他海外の活動家が僅かに余命を保っていたという状況であった。 徳球、志賀らは、終戦前に刑期満了を迎えたが、非転向で出獄することをおそれた当局が、彼らを拘禁したままでおくことを目的として予防拘禁法を特別に制定して、府中刑務所内の拘禁所に収監していた。 徳球は、獄中下の党員の様子として次のように回顧している。
その他「天皇制特高警察の支配下、戦争中の獄舎の中でさえ正しく情勢を分析したと伝えられている」。 志賀義雄は、「日本共産党史覚書」の中で次のように記している。
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徳球は11.7日付け赤旗第二号で「党拡大強化の経過と党の公認化に就いて」文中で、「党は厳として存在していた」と次のように述べている。
これに対して、高知聡氏は「日本共産党粛清史」において、次のように述べている。
他の箇所では、獄中獄外の生き残りに対して「ケチな実体」とも云い為している。 |
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れんだいこは思う。この両対比の観点こそ我が日本左翼の根本的なご都合主義精神を表してはいないだろうか。徳球が「党は厳として存在していた」と肯定的に述べるのは当人の自負としては構わないが、党運動としては高知氏の云うように客観的な評価で「敗北・解体」という史実的認識から出発させねばならないだろう。但し、その高知氏が「党中央が、その担い手が生きてさえいれば、党は何の思想内容も、何の運動実体も持たなくても、健在だったのであり、党がありさえすれば、敗北ではないとしたのである」と云うのは愛情がなさ過ぎようし史実に適合しないだろう。 党としては解体状況にあった。但し、苛烈な弾圧下にあっても不屈の信念で党活動の再建を意欲する小グループが生き延びており、であるが故に日帝の敗北後雨後のたけのこの如く全国各地から党本部詣でが始まった。その頂点に立ったのが府中獄中組の徳球・志賀ラインであった。それはこの当時一等秀でた頭脳であったからである。獄中声明以降の活動振りはそれを如実に証左しており、全面的な礼賛には値しないが評価に耐え得るものであった。こう評価するのが公正というものではなかろうか。 |
【獄中闘士解放前の動き】 | ||
終戦直後の様子が次のように伝えられている。松本一三は、「“出獄前後”十月十日の思いで」で次のように記している。
志賀義雄氏の「日本革命運動の群像」には次のように記されている。
日本軍国主義の報を聞いた政治犯達は早速、待遇改善及び無条件即時釈放の戦いを開始した。それまでの不自由さも厳しさもなくなり、外部との連絡も少しづつつくようになった。所長に釈放要求を行ったがらちがあかなかったので、9.12日、全細胞員は各自釈放要求書を書き、一冊に綴じて、岩田宙造法相あてに提出した。このような待遇改善、釈放の戦いは他の刑務所でも見られたようであるが、徳球の指導する府中刑務所内の動きが最も活発であったようである。 獄中闘士達は、その後も日中は平常通りに作業を行い、夜は理論学習に励んだ。徳球は、出獄後の当面の闘争の方針を起草し、骨子を細胞員に示して大衆討議にかけ「人民に訴ふ」、「闘争の新しい方針について」を推敲した。思いは既に勤労人民大衆の解放の為の活動に馳せており、欣然躍如として活動し始めた徳球らが髣髴とさせられる。 |
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府中刑務所内での即座に対応した徳球らの様子とは対照的に宮城刑務所における袴田らの様子は静かなものであったことが、袴田自身の著作「獄中日記1945年」で明かされている。それによると、「幾億の民を虐げし戦争は 今日止みにけり、我れ生き残りたり」の感慨が記されているだけで、房仲間として竹中恒三郎.春日(庄)らがいた筈であるが特段の動きが為されていない。これをみれば、府中刑務所における徳球らの政治意識と指導力の高さが逆に知れるであろう。 |
【西欧ジャーナリストが府中刑務所を訪れ、徳球等と会見】 | ||
10.1日、「フランス通信AFP」特派員(ル・モンド紙の特派員ともある)ロベール.ギラン、その友人であったAFP極東支配人J.マルキュース、「ニューズウイーク」特派員ハロルド.R.アイザックら三人のジャーナリストが、占領軍人を装って米軍将校服をまとって府中刑務所を訪れ、徳球等と会見した。 ロベール・ギランは、戦前・戦中の7年間日本に滞在していた。彼の助手をしていたユーゴスラビア人のブーケリッチが、ゾルゲ事件に連座して処刑された関係もあり、日本人の共産主義者の運命に強い関心を持っていた。彼は、日本が降伏した直後から、ひそかに共産党員たちと連絡をとり、徳球や志賀を探し出す作業にとりかかった。やがて、二人がどうやら府中刑務所にいるらしいという通報をうけた。これが、アメリカ将校の軍服をきて、大型ジープを運転して、府中刑務所に乗りつける劇の背景である。 この時の経過が「アイザックの府中刑務所訪問記」他として残されている。各資料によれば、刑務所長は仰天して、「ここには泥棒と人殺ししかいない」といいはったけれども、米軍将校になりすましたギランらは、所長に有無を言わさず看守の尻を叩いて政治犯を収容している扉を開けさせ、刑務所の陰惨な長い廊下を歩きまわり監房をあちこち探した。看守がすれちがった同僚にささやいた。「急いで事務所に伝えてくれ、この連中はオレを見せてはいけないところへ引っ張っていこうとしている」。ギランには、その日本語が筒抜けだった。廊下のつきあたりに、途方もなく大きな扉があった。ギランはどなった。「ここをあけろ!」。看守は震えながら鍵穴に鍵を差し込み、錠前を開けた。 ギランはこの時の様子を次のように書いている。
この時初めて市川の獄中死が明らかにされたようである。志賀の「日本革命運動の群像」は次のように記している。
この会見がきっかけになり、10.2日、AP、同盟通信などの連合軍従軍記者3名が訪問してきた。シカゴ.トリビューンの記者が、豊多摩刑務所で中西功に面会した。10.3日以降も報道関係の聞き取りが為された。 |
【西欧ジャーナリスト第二陣が府中刑務所を訪れ、徳球等と会見】 | ||||
10.4日、米政府SCAPの政治顧問部要員にして極東問題担当官且つ進歩派として活動していたジョン.K.エマーソンがハーバート.ノーマン(カナダ外務省の代表且つ左翼作家で、GHQの対敵諜報部に勤務していた)を連れ立って府中刑務所にインタビュー目的で早朝よりやってきた。二人ともOSS要員であったことが判明している。エマーソンは、既に延安で野坂とも会見し、野坂の意見を聴取していた。 会見は仏教儀式に使われる会堂で行われた。会見記によれば次のように当時の政治犯の様子が記されている。
エマーソンは、この時の直後か後述する後日かどうか判明しないが徳球.志賀.金天海3名を「GHQ」に連れ出し、日本共産党の闘争経歴と今後の活動方針について更に詳しく聴取した。金天海とは、政治犯として獄中15年非転向のまま過ごしていた朝鮮人活動家であり、「在日の星」と云われた人物であった。こうした手続きを経て後エマーソンは獄中闘士の釈放に力を貸しているようである。 この会見直後、徳球と志賀が所長に会って、徳球は次のように宣告した。
10.5日より予防拘禁所の政治犯は外出自由となった。 |
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「太田龍の時事寸評」の2006.10.2日付けbP821「ハーバート・ノーマンについての中西輝政、と言うひとの浅薄皮相な説」が、「ハーバート・ノーマン」について次のように記している。(れんだいこ責編集)
ハーバート・ノーマンは、マッカーサーが対日政策上最も信頼していたブレーンであった。1945.9月の天皇とマッカーサーの会見をセットしたのもノーマンであったと云われる。ノーマンの主著「日本に於ける近代国家の建設」は、総司令部の幹部の日本理解に於いてバイブル的権威を持っていたとも云われる。田中英道「日本国憲法は共産革命の第一段階としてつくられた」(2006.11月号正論所収論文)は次のように記している。
「薩長因縁の昭和平成史(2)/園田義明 [萬晩報]」は、ハーバート・ノーマンについて次のように記している。
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【伊藤律の釈放過程】 | |||
伊藤律の釈放経過は次のようであった。敗戦後、全国の刑務所の中で一番早く、ポツダム宣言に基づいての政治犯の釈放を本省に請願している。いろいろな遣り取りの後、8.26日、出所に成功している。「大泉兼蔵らと一緒に出た」とある。これについて神山茂夫は次のように書いている。
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【獄中闘士解放要求の動き】 |
9.26日、哲学者・三木清は出所されないままこの日、独房で病死している。 |
【獄中闘士解放要求の動き】 |
獄外では、少なくとも二つのグループが政治犯の釈放を要求して活動した。一つは、金斗鎔.金成功.排録らを中心とする朝鮮人らの動きであり、一つは、服部麦生.高橋勝之.藤原春雄らを中心とした党員グループの動きであった。この両者は解放運動犠牲者救援会を作り、事務所を三菱ビル21号館の梨木事務所に置いていた。
政治犯釈放運動における朝鮮人の役割は大きかった。このことは案外と軽視されている史実であり、戦後党史の見直しの中で高く評価されねばならないように思われる。 これより先の9月初め、椎野悦郎は府中刑務所を訪れ、徳球に面会した。椎野は、9月中旬にも訪れ、志賀が書いた英文のマッカーサー元帥宛政治犯釈放請願書と、金天海から金トウヨウへの連絡の2件を、徳球から託された。云われたとおり、まず請願書を横浜にあったソ連代表部デンビヤンコ中将に持っていったが、宛先がマッカーサー元帥になっていたので「GHQ」の方に持っていくよう差し戻された。金斗鎔への連絡書は朝鮮人政治犯釈放委員会経由で何とか手渡すことが出来た。その後椎野は、「GHQ」の対敵諜報部の情報担当官に請願書を渡すことに成功した。「GHQ」の担当官は、「よし分かった。安心して帰ってくれ」と述べたと伝えられている。この経過は、ソ連代表部の能力の低さと逆に「GHQ」要員の適宜な手際の良さが伝えられるエピソードでもある。 この頃松本一三は外出の自由を獲得していたようである。松本一三は、10.6日赤旗再刊の使命を帯び、印刷所探しに外出していた途中で伊藤憲一と偶然出会い、栗林宅に一緒に行き、旧同士と連絡をつけた。その足で二人は府中刑務所に行き、徳球から出獄声明書「人民に訴う」や「闘争の新しい方針について」の原稿を受け取った。 10.8日、自由法曹団の上村進、神道寛次、布施辰治、山崎今朝弥らを中心に大森山王ホテルで党再建打合せ会を開き、「自由戦士出獄歓迎人民大会」の準備を進めた。 |
【在日朝鮮人の決起】 | |||
こうした日本人の動きに比べれば、朝鮮人の行動は素早く且つ大胆だった。「最初にきたのは朝鮮人です。政治犯の釈放運動をやったのは、朝鮮人です。日本人は治安維持法でやられた連中でさえこわがってなかなか来ないのです」と山辺が後に語っている。志賀も「日本革命運動の群像」で、「最初の連絡がついたのは、金さんという一人の朝鮮人の党員だった」と記している。金天海の指示を貰った金**ら在日朝鮮人が呼びかけて、「政治犯釈放促進連盟」を結成して、運動が展開された。日本の共産党員が獄中の指導者が出てくるまでは特段の運動もつくれなかったのに比して、朝鮮人は直ちに運動を開始している。 9.10日、在日朝鮮人連盟(「朝連」)中央準備委員会が結成された。新宿角筈の朝鮮奨学会に事務所が開かれた。「政治犯釈放促進連盟」の事務所もここに置かれた。 田川和夫氏は、「戦後日本革命運動史1」で次のように記している。
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【炭鉱労働運動へと発展】 | |
この流れが、日本人労働者を奮い立たせ労働組合結成を刺激した面もあった。それぞれ炭鉱ごとに従業員組合が結成され、11月末までに北海道の炭鉱労働者の75%が組織されるに至った。北海道の炭鉱労働者の戦いは九州その他各地に飛び火し、ストライキの火の手をあげて行った。
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【徳球.志賀ら「GHQ」で尋問を受ける】 | ||
10.7日、徳球.志賀.山辺健太郎ら数名の政治犯が「GHQ」で尋問を受けた。ジョン.K.エマーソンが担当した徳球の陳述が残されている。「日本共産党指導者徳田球一尋問に関する報告」(45.10.19日第22号同封文書)がそれである。とりわけ興味深い箇所は次の記述である。
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【「GHQ」の徳球.志賀評】 | |||||||||||||
エマーソンは、次のように徳球をコメントしている。
この徳球の人柄について補足すれば、戦後の労働行政に深く関与した末広厳太郎氏が、意見聴取の過程で徳球と関わり、次のように回顧している。
吉田茂首相の徳球評は次の通りである。
他方、徳球の次のような「山師」的性格も伝えられている。
10.7、9日、両日にわたってソープ准将が担当した志賀義雄の陳述が残されている。「志賀義雄の尋問書対敵諜報部作戦部陸軍軍事郵便500号」がそれである。ソープ准将は志賀をコメントして、
と述べている。このソープ准将のコメントを見れば、エマーソンとほぼ同じ観点で「GHQ」が戦後共産党の指導者として徳球と野坂を想定しており、この二人の政治理論がかなり落差を見せていることを興味深く注視している様が見えてくる。 エマーソンの徳球.志賀の二人を見比べた人物評価が次のように述べられている。後にエマーソンが回顧したところによると、
その他徳球の特徴についてここで記す。
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【10.10日政治犯釈放される】 | |||||||||||||||||||
戦後の党の歩みは、「GHQ」の10.4日の指令「政治犯を10月10日までに釈放せよ」から始まる。45.10.22付け日本政府から「GHQ」に提出された報告によると、この日までに、拘禁中の者439名、保護観察中の者2026名、合計2465名の政治犯が釈放された。 以下、戦前の指導的幹部の事例を日付.収容所.氏名順で列挙する。なお、この時の政治犯の種別は、予防拘禁者(徳球・志賀ら18名)、服役中の者(宮顕・春日ら約150名)、保護観察中の者として転向組(佐野学・鍋山貞親・田中清玄・風間丈吉・福本和夫ら約2000名、捜査中の者(羽仁五郎、高倉テルなど43名)、その他裁判所で審理中の者(神山茂夫・中西功ら52名)、大審院上告中の者(山川均・荒畑寒村・加藤勘十・鈴木茂三郎・向坂逸郎・黒田寿男ら人民戦線事件グループ)、外国亡命中の者(野坂参三ら5名)。 10.10日、釈放前獄死者は次のとおりである。昭和9年2月、中央委員長野呂栄太郎、18.3月、国領伍一郎(堺刑務所)、20.3月、中央委員長市川正一(宮城刑務所)、20.9月、神道久三(横浜刑務所)、20.10月、三木清(豊多摩拘置所)、その他戸坂潤(45.9.26日、全身をカイセンに冒されその中毒症状で死亡した、中野の豊多摩刑務所)、イシカワ.セイイチ(茨城刑務所)らは、この10.10日を待たず獄死していた。 10.10日釈放前出獄者は次のとおりである。伊藤律(豊多摩刑務所)は8.26日、豊多摩刑務所を柏木らと共に釈放されている。椎野悦朗(府中刑務所)。伊藤憲一、岩田英一、内野武千代、寺尾五郎、長谷川浩(10.6日)。彼らは偽装転向者と考えられるが、この「偽装転向」をどう考えるべきか今日においても理論的総括が為されていない。
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注意すべきは、共産党獄中闘士、朝鮮人独立運動家と並んで天理教異端派の面々も見受けられることである。この「天理ほんみち」派が注目されていないが、獄中闘争の様子については共産主義者に比して一歩もひけをとっていなかった様が伝えられている。「予防拘禁所で、偉いと思ったのは、まず天理教の人です。死刑を求刑されたのだと思うけど、どこ吹く風で悠々としていました。それから、在日朝鮮人運動の中心だった金天海です云々」(山辺健太郎回想記「社会主義運動半生記」)。 もう一つ注目すべきは、これまでの政治史で殆ど取り上げられていないが、この時ゾルゲ事件の生き残り被告達も釈放されている。1944.11.7日ゾルゲと尾崎は、巣鴨拘置所で絞首刑され、宮城与徳、船越寿雄、河村好雄は巣鴨拘置所で獄死。ヴーケリッチと水野(仙台刑務所)と船越は終戦の年に獄死し、北林は病気後仮出獄して、終戦直前に死亡。浜津良勝は終戦と同時に出獄したが、牢後の疲れでまもなく死亡しているが、10.6日田口右源太(懲役13年実刑)、10.7日山名正美(懲役12年実刑)、10.8日小代好信(懲役15年実刑)、同久津見房子(懲役8年実刑)、10.10日川合貞吉(懲役10年実刑)、同秋山幸治(懲役7実刑)、その他アンナ・クラウゼン(懲役3年実刑)も10月に釈放されている。 |
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ここから戦後の党史が始まることになるが、非獄中党員を含めた日本人民によって獄中同志の解放が勝ち取られたのではなく、GHQ指令によって可能となったという事実が微妙に陰を落としていくことになる。「獄外にいた共産主義者たちが、政治犯釈放要求の大衆運動を展開することなど全く考えられず、徳球・志賀らも、日本プロレタリアートの政治勢力を背景として自力で出獄する方向を歩むことができなかった」(しまね・きよし「もう一つの日本共産党」P84)の指摘はもっともなところであろう。 |
【戦後党史呱々の声、「獄中声明」為される】 | ||||||||
10.10日、府中刑務所に収監されていた戦前の党中央委員会メンバー徳田球一.志賀義雄らは出獄を前にして「獄中声明」を発表した。声明は「人民に訴ふ」という見出しパンフにて発表された。この声明こそが戦後党史の第一ページに相応しい。その内容は次のようなものであった。
と簡明簡潔に闘争方針を明らかにした上で、「我々は何ら酬いらるることを期待することなき献身を以ってこの責任を果たすことに邁進するであろう」と共産主義者としての自負を誇って結ばれていた。 「人民に訴ふ」の主たる起草者は徳球であり、概要「こういう原稿を書いたがチェックしてくれ、出そうと思う」と志賀義雄の同意を得つつ最終案に纏められた。志賀が「連合国軍の解放軍規定はどうか」と意見を述べると、「いや、ソ連も入っているし、第一次世界大戦の勝利者のような、イギリスやフランスのような帝国主義者でなくて、社会主義国も入っている。全体をそういう風に評価してよろしい」と述べたと云われている。 「天皇制の打倒」は、これを公然と掲げることによって、共産党こそ戦前以来真の革命的伝統を継承している唯一の革命政党であることを誇示したという意味を持っている。 草稿は伊藤憲一の手に渡され、伊藤によって東京上野の桂山印刷所で約5000部刷り上げられた。この時点では党が存在しなかったので正式機関の決議を経た声明ではなかったが、実質的な意味でこれが戦後最初の党の見解であり、この声明から戦後の党運動が開始されたと云う意味において歴史的な文書としての価値を持っている。他に「当面の政策について」も発表されている。 なお、「人民に訴ふ」は、いわゆる「府中派」が党指導部を構成するという「府中グループ」の執行部宣言ともなった。これは当時徳球の経歴からして異論を挟む者もなく受け入れられた。徳球の経歴とは、
というものであった。補足すれば、徳球は26年の第3回党大会で中央委員に選出されている。翌年27年に渡辺政之輔らと共にモスクワのコミンテルン本部の指導会議に参加し、「福本イズム」をめぐっての討論を行っている。徳球はその際の態度があいまいであるとして、コミンテルンから批判を受け中央委員を罷免された。当時の日本共産党はコミンテルンの日本支部として位置づけられていることからしてコミンテルンの権威は絶対的なものであった。その後、徳球は帰国して一般党員として活動しているうちに、昭和3年3.15事件で逮捕され終戦まで獄中生活を送るようになった。活動歴6年。網走、千葉、小菅の刑務所を転々とさせられた後、東京中野の豊多摩刑務所に移され(昭和16年12月21日〜昭和20年6月29日までの3年6ヶ月)、最後は府中刑務所に移された。世界でも類例の少ない獄中生活18年となった。 志賀の経歴とは、
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「人民に訴ふ」が「32年テーゼ」を下敷きにしていたことは文面より明らかである。その理由として、長期獄中下にあって、この間コミンテルンが戦術転換させていた「人民戦線戦術」についての知識を持ち合わせていなかったことが考えられる。あるいは、知っていて顧慮しなかったとも考えられる。が、このこと(能力)が戦後党運動に影を落としていくことになる。 |
【転向組共産党結成の動きと流産】 | |||
田中清玄氏は、自著「田中清玄自伝」(文芸春秋)文中で、次のような史実を明らかにしている。
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【戦後党史第一期】.【ミニ第@期】 |
戦後の党の歩みを決定した基本闘争指針は「人民に訴ふ」短文に凝縮されていた。そういう意味で「人民に訴ふ」は大いに注目されるべき重要文書である。この基本方針が如何なる揺り戻しを経ながら5年後の1950年初頭の「コミンフォルム論評」で党内分裂していくまでの期間を戦後党史の【第一期】の流れと区別することが出来る。戦後党史の【第一期】は更に細分化され、その【ミニ第@期】がこの「獄中声明」の発表から同年末にかけての時期の徳球−志賀執行部の確立期とみなされる。 この時期は日本共産党の史上例を見ない疾風怒濤時代となる。徳球書記長とその系列がこれを指導したが、これに立ち塞がったのは正面の敵は当然のこととして、党内部の反対派どもであった。しかも、その野合性は目に余り、イデオロギー的に「右」から「左」の共同戦線であった。その中心勢力は宮顕派であった。この連中の野合共同戦線ぶりを見れば、如何に革命を欲していないのか、口先の左派系知識紳士として存在することのみ心がけているかが判明するであろう。この連中によって徳球派が掃蕩され、この過程で宮顕派が党中央を占拠し今日に至っている。 |
【「自由戦士出獄歓迎人民大会」が開催】 |
10.10日、秋雨が降る中午前9時、徳球.志賀によって獄内細胞集会が拘禁所屋上で開かれ、徳球が出獄後の注意事項を伝達した。10時鉄門が開かれた。獄中から解放されたのは徳田球一.志賀義雄.金天海らの面面であった。これを迎えるべく「自由戦士出獄歓迎人民大会」が開催された。出迎えの者3千名を越え、「歓迎 出獄革命戦士 万歳」、「人民共和政府樹立」のプラカードや赤旗を持って人垣をつくっていた。その9割が朝鮮人だったとの証言があり、このことも銘記に値する。 この時の様子を、志賀は次のように回想している。「10月10日午前十時、雨の降る中を我々は出た。鉄の大扉をあけて、同志互いに腕を組んで監獄の外へ、自由の世界へ、18年ぶりに出た。雨の中を、赤旗をふりながら待ってくれている人たちの姿を見て、みな感慨の深い顔をしていた。前の日から泊り込みで待っていたという同志もあった」(「獄中18年」徳球.志賀共著)。 黒木.徳田.志賀.山辺.金らがその間を通り抜け、急遽拵えられた演壇前に並んだ。同士金斗鎔の歓迎の辞に応えて、同士徳球が演壇へ登った。瞬間怒濤のような拍手と歓声が爆発した。徳球は力強く出獄第一声を放った。次に志賀が演壇に立った。二人とも「我々の目標は、天皇制を打倒し、人民の総意に基づく人民居和国を樹立することにある」と宣言した。徳球の演説は、「今度は我々が天皇をひっくくって裁く番だ。天皇のカカアなんぞは、誰かがいって姦ってしまえ」といった卑俗にして激越なものだったとも云われている。最後に金天海が雄弁をふるった。「日本帝国主義と軍閥の撲滅、天皇制の廃止、労働者農民の政府樹立、朝鮮の完全独立と民主政府の樹立」を、徳田とは違って激情を努めて抑えた口調で訴えた。朝鮮語の歓声の嵐が巻き起こった。この後直ちにデモに移った。興奮と感動がそのまま解散することを許さなかったのである。ぐるぐると広場を回るデモはいつ止まるともわからなかった。戦後日本の党運動は、この歴史的デモを合図に開始された。 「自由戦士出獄歓迎人民大会」はその後、雨のため日比谷公園予定を芝.田村町の飛行館5階講堂に会場が移された。狭い講堂は超満員、立錐の余地もなく階段にも館外にも人があふれていた。2時半主催者(椎野悦郎、伊藤憲一、岩田英一)挨拶の後、出獄したばかりの酒井定吉、神山茂夫が壇上に立った。神山からは獄内の拷問の状況が話され、日.朝プロレタリアート解放の必要性が訴えられた。神山ハナも挨拶している。大会は午後4時50分閉会し、赤旗を先頭に雨の中を「GHQ」までデモ行進した。代表団は、サザーランド参謀長に面会し、政治犯釈放に対して感謝の意を表明し、デモは解散した。 |
【伊藤律と長谷川浩の入党】 | |||
この時伊藤律と長谷川浩が再会し、その後の方針を語り合った、と伝えられている。二人はこの後国分寺の自立会に徳田.志賀を訪ね、その場で入党手続きを済ませている。入党推薦者は、志賀と神山がなっている。ちなみに、妻のキミも長谷川と伊藤律の推薦で、同じ10月のうちに入党している。 入党後、長谷川は労働運動、伊藤は農民運動の組織活動に取り組むことになった。伊藤は農民運動の闘争現場を飛び回り、その状況を徳球書記長に報告していった。 この時の様子について、志賀の「日本共産党史覚え書」は次のように記している。
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【徳球.志賀.金天海ら主要幹部が「GHQ」に訊問留置される】 | |
徳球.志賀.金天海は、午後2時半から日比谷公園での「自由戦士出獄歓迎人民大会」に出席する予定であったが、米第八第一騎兵旅団司令部(旧中野憲兵跡地)における情報将校からの尋問の為連行された。この時豊多摩刑務所から出た神山茂夫ゆ中西功、姉柿三郎らも同じように集められていた。英語を話せる志賀が一同を代表して答弁した。
と述べたことが注目される。 一夜(志賀に拠れば二日抑留されたとある)泊められ事情聴取を受けた後解放された。ここからが本格的な戦後の党活動の始まりとなる。 |
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【徳球と中西が白熱の議論】 |
10.10日夜、「32年テーゼ」派の徳球と、人民戦線派の中西功が、情勢分析と闘争方針について白熱の議論をしたことが伝えられている。10.10日は一夜留め置かれたはずであるので、アメリカの兵隊の銃剣付きの監視の中での論争であったことになる(真偽は不明)。論争のテーマは当面の情勢分析、共産党の戦略・戦術、天皇制に対する態度を廻ってであった。詳細は不明であるが、中西の天皇制論は打倒反対論であったようである。この時、行司役を買って出たのが三田村四郎で、「この討論は実に重要だと思う。徳田さんは何と言っても日本の運動については大先輩だし、一番よく知っている。同時に中西君は新知識だ。この討論を感情に走らず、みのりあるものにさせたいので、私に交通整理をさせてくれないか」(中西功「死の壁の中から」)と仲裁役を申し出たとのことである。 結局は、徳球が中西を圧倒し、「32年テーゼ」路線で党運動が開始されていくことになった。人民戦線派は暫くなりを潜め、山川均、荒畑寒村らの民主人民戦線派と地下提携しつつ、「ある期待を込めて」野坂の凱旋を待つことになったようである。野坂が天皇制問題などに柔軟性を持つ新知識派であることが漏れ伝わっていたからであった。当然ながら野坂のスパイ性について顧慮されることは微塵もなかった。中西はこの一晩の論争で徳球に疎んぜられることになり、復党は翌1946.5月になって細川嘉六の紹介で入党するまで、約10ヶ月近く棚上げされることになった。 |
【党の再建】 |
かくて党の再建は、自ずからこれら非転向のまま出獄してきた「釈放幹部」キャリア党員たちとそれを向かえる党員によって担われることになり、これらの党員及び支持者を中心にして戦後の党活動が公然と直ちに開始された。この元に新旧の党員が続々と結集し始めた。当初は国分寺の自立会に居を構えた。自立会とは、府中刑務所の付属施設として釈放者の為の一時救護宿泊施設を目的として新築されていた。6畳、8畳などの部屋が数室あり、出獄して帰る所の無い共産主義たちにとって恰好の棲みやとなった。徳球が出獄に際して、府中刑務所の中村義郎所長を脅して建物を占拠したと云われている(志賀の「日本共産党史覚書」では根田兼治の斡旋によるとある)。こうしてここが日本共産党の再建臨時本部となった。 この二階の奥の間に徳球が鎮座して、党再建の采配をふるった。獄中18年の徳球には、ゴッドファーザーの堂々たる貫禄とエネルギッシュさが漲っていた。この当時転向組は非転向組に対する強いコンプレックスが働いており、再建共産党のスタートは、当然の如くに徳球.志賀.金.神山.宮顕.袴田.黒木らの非転向組7名を軸として党拡大強化委員会が組織された。この時の状況として、右翼のテロが充分に予想される情勢にあった為、棍棒で゛武装した朝鮮人の一団が自立会周辺を警護してくれたと伝えられている。警察的統制力が瓦解しており朝鮮人警護団の方が頼りになる無秩序状態であったということである。ちなみに付言すれば、この時期の党活動費用の過半が「朝連」負担で賄われていたというのが史実のようである。 袴田が自立会を訪ねたのは10.20日、その時は主だった幹部は留守番役の志賀が一人いるだけで、徳球は大阪の「10.19出獄同志歓迎人民大会」へ出かけており、他の同志も皆四方八方に出向いており出払っていたとある。 |
【自立会時代の様子】 | |
「月刊『正論』2002.11月号」の兵本達吉氏の 「日本共産党の戦後秘史」より引用。自立会時代の息吹が次のように明かされている。出典は不明であるが、志賀の「日本共産党史覚書」辺りからではないかと思われる。
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【党本部の移転】 |
なお、自立会は党再建の仮事務所的であったので、10月下旬渋谷区千駄ヶ谷の電気溶接学校(現在の党本部所在地)の約500坪、建物250坪の地に移転し、ここに党本部とあかつき印刷所が置かれることになった。この経過は次のとおりである。もともと岩田英一の所有地であり、岩田はこれを徳球個人に寄贈し入党した。こういうこともあって岩田は中央委員候補として待遇された。が、「6全協」後宮顕が党中央に君臨し徳球系が排除されていくに随い岩田も干されるようになり、結局党外の人となってその生を終えている。岩田はさぞや敷地を無償提供しながらの無念の思いであったものと推測される。 |
【戦後党活動の最初の指導部】 | |
彼らが最初に為さねばならなかったことは執行部と党の綱領の確立であった。党拡大強化促進委員会が設立され、1・徳田球一、2・志賀義雄、3・袴田里見、4・金天海、5・宮本顕冶、6・黒木重徳、7・神山茂夫(順位調査要す)の7名が最初の執行部を形成した。 府中グループが主導権を制したのは、「優秀な獄中細胞をつくっていたとからかか、徳田というすこぶるボルテージの高い指導者を擁していたからとかいうだけでなく、活動開始の面での他のグループや個人より一歩も二歩も先んじていたために主導権を握ったとみるのが、公平なところといえるようである」(亀山幸三「戦後日本共産党の二重帳簿」)。 中西功は基本方針において徳球−志賀ラインと対立する主張をしていた為党に正式参加せず「人民社」を舞台に独自の活動をすることとなった(翌年野坂の帰国に伴い合流することになる)。 |
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現在の党史では、概要「戦争中、党活動に参加した党員のうち党中央委員は、宮本顕冶、袴田里見の二人しかいなかったという状況のもとで徳田以下7名による党拡大強化促進委員会が設立され云々」の記述が為されているが、為にする宮顕迎合の贔屓の引き倒し記述でしかなかろう。 宮顕、袴田らの党員歴及び指導能力は徳球−志賀ラインのそれに比して問題にならなかったというのが実際であったのではないのか、と思われる。むしろ、本来なら宮顕−袴田ラインの胡散臭さが問われ、党拡大強化促進委員会から除外されるべきであったであろう。但し、徳球はそういう後ろ向きの政争を好まぬ達であったということと、宮顕−袴田ラインに対する胡散臭さに対しての認識が甘かったという理由によって混交させたものと思われる。しかし、このことが後日大きなしこりとなって党内闘争へと発展していくことになる様をおいおい見ていくことになる。 この当時の宮顕の党的位置を自身が次のように語っている。
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この時、徳球.志賀らが党中央に自然と治まった背景に「非転向長期獄中闘士」に対する尊崇が心情として決定的な意味を持っていたと思われる。この非転向派の昂然さと転向派の負い目がどのように絡んでいたのかの省察も興味ある課題である。ところで、「転向」をそういう公式論的に見なしていくことは危険であるように思われる。「転向」の要因と様子と事情についての解明が為されねばならない。 その一つの理由は、宮顕の次のような記述に出くわすからである。宮顕の恣意的な「非転向」規定によれば、概要「自身がもっとも非転向であり、実際には三人も居なかった」とある。宮顕「私の五十年史」は次のように自尊している。
この謂いが如何にペテン的なものであるかは、私の「宮本顕治論」における「宮顕の獄中闘争の様子」で明らかにしている。「少なくとも今度の出獄者の中に非転向の中央委員が何人いるだろうと考えていた」を考えるより、「果たしてこの中で党員を査問して死に至らしめ、一切の免責を主張しぬいた」ような者が当人以外にいるだろうか、と考えるべきであろうが。 |
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この時期の党拡大強化委員会メンバー7名のうち、神山と宮顕を除く5名が、「府中組」ないし徳球と党生活の全てを共にしていた。徳球の家には袴田、西沢隆二(ぬやまひろし)が住み込み、道一つ隔てた向側に志賀が居を構え、日常生活を共にしていた。これに対して、「文字通り『家父長体制』をつくり上げていたことが、党の政治的・組織活動的の上にも、大きな損失を与えた」(神山「日本共産党戦後重要資料集」)と指摘する向きがあるが、れんだいこはナンセンス極まりない「為にする批判」であると思う。党活動上、起居を共にするあるいは近辺に集中することは自主的であるならば有益でありこそすれ逆ではなかろう。我が左派論者の中にはこういう無益な批判が多すぎるのも特徴である。
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【当時の党活動の様子】 |
この当時の活動の様子は次のようであった。10.18日「赤旗1号」が再刊され、「人民に訴ふ」と「闘争の新しい方針について−新情勢は我々に何を要求しているか」が発表された。幅15センチ、縦21センチの粗末なザラ紙に印刷された19頁のパンフレット版が約1万部刷られ配布された。編集発行人は志賀義雄、印刷所は桂山印刷所(責任者桂山光太郎)。赤旗発刊は、昭和8年12月に宮本顕治が逮捕されたのに続き、最後の中央委員だった袴田里見が逮捕される直前の2.20日付け赤旗第187号の停刊以来、10年8ヶ月ぶりの再刊であった。 「闘争の新しい方針について−新情勢は我々に何を要求しているか」には冒頭で、「続出する新政党とこれに対する我々の闘争。第一に問題となるのは日本社会党である」と指摘し、「それは、社会天皇党であり、将来において社会ファシストにさらに純粋ファッショに展開すべき萌芽であることに注目せねばならぬ」と述べてあった。その真意は当時の情況に則して測らねばならないが、「社会ファシズム論」を露骨にしていたことになる。 10.21日、大阪・中之島の中央公会堂で共産党主催の解放大会「解放運動犠牲者救護会」が開催されている。会場には労働者、在日朝鮮人ら約2千名が詰め掛け、超満員となっている。徳球、黒木ら獄中組が登壇し、喝采とすすり泣きを誘っている。徳球は、「日本に於ける民主主義の発展」の為の綱領の概略を述べ、現存制度の即時打倒と人民政府の樹立こそ「幸福への唯一の道」であるとアジった。 |
【「人民戦線綱領決定す」が発表される】 |
11.6日、「人民戦線綱領決定す」が発表された。11.7日「赤旗2号」が発行された。徳球は、巻頭論文で天皇を明確に戦犯扱いしていた。紙面には天皇と軍部と財閥を槍玉に挙げた熱気がほとばしっていた。 志賀は、アメリカ占領軍の評価をアメリカの政治形態にまで及ぼし、「天皇なき日本人民共和政府とはその形態において、むしろアメリカ・デモクラシーと本質的に同じところが多いといいうる」と、日本の人民共和政府をソビエト共和国のそれよりはむしろ「アメリカ.デモクラシー」的に近いところで構想していた。これに対する党内からの特段の異論は生まれなかったことが注目される。 |
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こうした現在の宮顕指導部の見方からは、概要「『人民に訴ふ』と赤旗1号.2号については正規のものではなく、再刊された赤旗の1号、2号の内容は、党の集団的方針ではなく、徳田らの個人的グループ的見解を表明したものであった。3号にいたってはじめて、党指導部としての集団的な立場を反映したものとなった」と記述されている。宮顕.袴田が参加した3号以後が正規の党文献になるとこじつけている訳であるが、こういうのを自家中心的形式的論理というのであって、宮顕.袴田が参加していようがいまいが既成事実を事実として認識していく態度が望ましい。まことにもって恣意的な評価記述であり、党史の中で徳球や志賀の存在をどうにかして軽くしようと云う観点から宮顕が書記長になった第7回党大会以後為された党史捏造と云えるであろう。 |
【「第1回全国協議会」開催】 |
11.8日、党大会準備の為の「第1回全国協議会」が開かれた。この大会の意義は、戦後日本共産党が合法政党として公然と大会を開くことが出来、大衆の眼前に姿を現わしたという事にある。このことは当時の労働者・農民にはかり知れない勇気を与えた。 徳球が、「この全国代表大会に於いて諸君を歓迎する若干の言葉を述べさせて貰いたい」と挨拶し、続いて全国各地域機関での細胞活動の展開を訴え、同時に党の規律と安全について怠慢なきよう指示した。概要「党内民主主義ー即ち、党活動の民主化ーは我々が党のことを公開的に討論してよいということではない。スターリンは繰り返し党内民主主義の目的は党規約の厳格な励行と党政策の強力な適用の達成であるといっている」とも述べている。 この全国協議会において、徳田球一、志賀義雄、神山茂夫、金天海、宮本顕治、袴田里見、黒木重徳の7名を党幹部に選任し、この7名を準備委員として遅くも12.1日までに第4同全国大会(第1回は大正11.7月東京、第2回は同12.3月市川、第3回は同15.12月五色においていずれも非合法に開催)を挙行することに決定するとともに党規約、行動綱領、人民戦線綱領、日本共産党当面の政策等を決定した。 |
【日本共産党行動綱領、人民戦線綱領が発表される】 | ||||
この時、日本共産党行動綱領、人民戦線綱領が発表されている。日本共産党行動綱領は次の通りである(「日本共産党の再建」より転載)。
人民戦線綱領は次の通りである(「日本共産党の再建」より転載)。
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【「赤旗3号」で、連合軍を「世界解放の軍隊」規定する】 |
11.22日、「赤旗3号」で、連合軍は「世界解放の軍隊」であり、その進駐のおかげで「日本における民主主義的変革の端緒がひらかれるに至った」という見方が引き続き確認された。12項目からなる「人民戦線綱領」が発表され、「天皇制打倒による人民共和政府の樹立」、その組織形態として「人民解放連盟」の結成が提唱された。合わせて「人民戦線綱領の提示に際して」が発表された。その他規約の審議が為された。 |
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この時の総方針の基本性格として、@・アメリカ占領軍の解放軍規定、A・天皇制の打倒、B・社会党その他社民勢力に対する絶対的優位性の主張、C・労働組合に対する赤色労働組合主義の押し付けを見て取ることが出来る。今日からいろいろに批判しえようが、れんだいこ史観によれば、当時の時代のニューマがそうであったということであろうと受け止める。 |
【「第4回党大会」開催】 | |||||||||||||||||||||
○期日.会場.代議員数他 12.1−3日にかけて「第4回党大会」が党本部で開催された。当時の党員数1083名。 ○大会の眼目 この大会の眼目は、戦後の党の再建にあった。「第4回党大会」は戦後最初の記念すべき党大会であり、日本共産党が合法性を与えられた最初の大会であった。党大会は1926(大正15).12.4日の「第3回党大会」以来実に19年目であった。10.10日幹部党員の釈放からこの「第4回党大会」までのわずか2ヶ月あまりで党大会を可能にしたという迅速さは、当時の指導幹部党員が何を為さねばならないかを的確に踏まえていたと云うことであり、当時の党の迸る勢いが感じさせられるものであった。 この日本における最初の公然大会では第二日目に徳球の「一般報告」が行われ、第三日目には、「行動綱領」、「規約」、「総選挙対策」、「労働組合及び農民組織」、「朝鮮人間における活動」についてそれぞれ報告された後、中央委員、中央委員候補、統制委員を選出して大会を終了した。 かくて第四回党大会は共産党の当面の政策的組織的任務を決定し、且つ民主々義的中央集権の原則に立脚して党中央部を選挙し、来るべき闘争における統一的な行動態勢を強化した。 |
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獄中闘士の釈放からわずか2ヶ月足らずのこの時点での「第4回党大会」であり、この時の党の行動綱領.諸見解としては極めて精緻であり、その能力の高さを知る事ができる。これを記せばかなりの字数になるので【45年当時の党の方針の特質と要点】 で要約するが、このことをまずは確認しておきたい。 | |||||||||||||||||||||
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「第4回党大会」を今日から見れば、こうした迅速な動きの評価とは別に大きな問題も残された大会であった。党は、既述したように1930年代の徹底的な弾圧によりほぼ10年間党としての活動が機能しなかったことや党の通史としてみて本当の大衆的基盤を一度として持つことができなかったという「負の遺産」や、更に非転向出獄党員幹部間にもそれぞれが時期を隔てた活動であったことの影響もあり、それぞれに理論的な差異が認められたにも関わらず、活動に当たってこうした重大な先決問題=戦前の運動が負うべき「歴史的責任」と今後の運動が担うべき「歴史的責任」について集団的な討議や総括をしなかった。 というのも、大会をリードした獄中組幹部には長期の拘留による運動的な経験の空白及び党運動自体の理論的な研鑽や国際共産主義運動の流れについての知識が乏しい恨みがあった。有ったのは自分たちだけが侵略戦争に唯一抵抗し抜いたという「正の遺産」であり、そういう自覚からくる満々たる自信と優越感であった。ここにはいかにもリーダー徳球の良し悪しがにじんでいるように思われる。この経過は、党創立以来初めての大衆的な発展の可能性のあった時期に迅速な動きを見せたことの評価と、早くも指導の弱点を抱え込んだという負の部分との両面の観点から捉えねばならないように思われる。 この時、徳田球一は、「『ソビエト・ロシアとなんらの関係も持ってはならない.もし提携すると、ロシアの共産党はあまりにも大きいため、日本共産党はそのアイデンティテーを失うであろう」、「ソビエト同盟との直接連絡は我々の運動を助けるよりもむしろ害を与えるであろう」と述べたと伝えられている。 しまね・きよしの「もう一つの日本共産党」P86によれば、 「旧軍人や右翼による大会襲撃の情報が入ったため、徳田ら幹部は出席せず、黒木重徳一人がこの大会を運営した。このように、合法性を与えられながらも、党幹部の心情の中には戦前の非合法的活動スタイルがなおも根強く残っていたのである」とある。真偽は分からない。 |
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○採択決議について 「第4回大会行動綱領」と規約が採択された。行動綱領の第一項は、「天皇制の打倒、人民共和政府の樹立」が掲げられていた。 具体的には次のように書かれていた。「我が日本共産党が掲げる左記の実践的要求こそ日本民衆を苦しめる鞭と搾取と牢獄の天皇制支配を終滅せしめ、労働者、農民その他一切の勤労大衆を自由の新野に解放する為の指標となるものである」と前書きして、
徳球は、「一般報告」において「ポツダム宣言に基く日本占領方式は日本解放の諸標識として自主的に運用することが重要である。われわれはあくまで自主的であり、能動的でなくてはならぬ。頼らず恐れずわれわれはわれわれの解放運動を遂行せねばならぬ」と運動の基本方針を指示し、更に「天皇主義者の一掃」、「各党の批判」、「食糧、土地、失業問題」、「組織問題」に言及し、それを次のように要約している。
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○朝鮮人部の設置 この時、在日朝鮮人共産主義者と日共の密接な関係が構築され、朝鮮人部が設置されている。なお、「朝連」を日本民主民族戦線の一翼として位置づけ、日共党員朝鮮人を通じて朝連組織の改組、宣言、綱領・規約改正を行い、以降共同闘争を担っていくことになる。 |
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○新執行部について 中央委員として1・徳田球一、2・志賀義雄、3・袴田里見、4・金天海、5・宮本顕冶、6・黒木重徳、7・神山茂夫(順位調査要す)の7人が、中央委員候補として岩本巌.春日正一.蔵原惟人.紺野与次郎.志田重男.宗性徹.松崎久馬次の7人が選出されて中央委員会メンバーが構成された。 その後の拡大中央委員会において、政治局員に徳球.志賀.金.春日.宮顕が、書記局員に徳球.黒木.紺野.竹中恒三郎.山辺健太郎が選ばれた。書記長には徳球が選ばれた。こうして党は正式に再建された。同時に、この再建は徳球−志賀党中央体制として確立された。宮顕は中央委員の地位を得たが書記局入りは外され、アジプロ部長と機関誌「前衛」主幹を担当した。徳球主流派が組織.財政の実権を握ったための苦肉の人事であった。 各中央委員の職掌は次の通り。
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袴田のこの序列は翌46(昭和21)年2月の第5回党大会でも維持され、政治局員、統制委員会議長になっている。47(昭和22)年12月の第6回党大会で宮顕より下位の7番目に下がり、政治局、統制委員会議長もはずされることになる。袴田は徳球とそりが合わず、疎んじられたからであると伝えられている。 | |||||||||||||||||||||
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注目されるべきことは次のことにある。徳球.志賀両名は党創立初期の中央委員であり、獄中闘争での経過からしてみても当然の如く党指導者としてのトップに立つことになったが、これに宮顕−袴田ラインは異を唱えている節がある。この両名は、「戦前共産党の旧中央委員で指導部を構成すべし」と主張している。この論によると、宮顕・袴田は逮捕されたとき中央委員の肩書きにあったが、徳球の場合は五色大会で中央委員に選ばれているが、逮捕時にはモスクワ行きの際コミンテルンで不信を買い、辞任していた。つまり、宮顕の弁によると徳球は失脚中で中央委員でなかったからして不適切ということになり、公認される最後の旧中央委員にして且つ非転向の宮顕.袴田に白羽の矢があたることになる。これは、「戦後の党の再建は、組織形式上宮顕・袴田の二人が中心になるべし」論であり、徳球の指導部外し論であった。が、徳球・志賀による「闘争経歴の長さと、転向、非転向の純潔さによって軽重がつけられるべし」論によって斥けられている。 もう一つ、後になって宮顕−袴田ラインは、「戦前の党最後の中央委員としての重み」を主張し始めることになる。宮顕は、「宮本・袴田が戦前最後の中央委員会のメンバーであり、非転向を続けているのだから、この中央委員会は生きており、まず暫定的にでもこの中央委員会を拡充する形で党中央を構成すべきだ」と主張したようである。この論は、当時の誰からも相手にされない論であるが、論理的には可能な言い分であるので、これを思えば、「第4回党大会」において、「戦前最後の党の中央委員コンビ宮顕と袴田」の評価と処遇について論議すべきであったかも知れない。 なぜなら、この後徳球グループと宮顕グループとの間に確執が非和解的に進行していく際にこの「戦前最後の党の中央委員」という肩書きが宮顕グループの錦の御旗となっていくからである。本来、戦前の党運動初期と末期の指導部間においてのこうした指導部構成をめぐる徹底した討議が為されるべきであった。が、その論議が為されないままに当然の如くに徳球が威圧した。これが後々党のしこりとなっていくことになる。 ところで、先の徳球の活動歴に対して宮顕の活動歴は次のようなものであった。
付言しておけば、この新旧指導部の確執が尾を引いていくことになる。この後の党の歩みにおいて徳球グループと宮顕グループはこの当時の陰から次第に陽へとあからさまに対立を見せていくことになり、緊迫する社会情勢と党の歴史的任務達成課題そっちのけで最終的に非妥協的な抗争へと発展していくことになる。結果的に徳球グループが解体され、宮顕グループが党内を制圧していくことになった。これが現執行部の系譜である点も踏まえておく必要がある。 このことは現在の宮顕体制における党史においては次のように総括されている。
云っていることは的を射ているが、宮顕グループがこれを言うのは白々しい。 |
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こうした状況からして当初より執行部内に闘争理論と方針をめぐって確執が発生したこと、次第に執行部の足並みが食い違うようになったとしても致し方なかったであろう。足並みの乱れの一つの背景は進駐軍司令部GHQとの絡みであり、GHQの手綱の範囲に運動を制限するのか、勢いその制限をもうち破って押し進めるのか、一気呵成に社会主義的運動まで取り組むのかという方針上の対立が内包されていた。世の常に存在する穏健派と急進派と過激派の対立であった。 もう一つの背景はソ連邦を本部とする国際共産主義運動との絡みであり、プロレタリア国際主義と自主独立路線のどちらに比重を傾けて進むのかをめぐって陰に陽に影を落としていた。俗に言う国際主義と民族主義の対立である。とはいえ、この時期の戦後混乱期は党活動にとっては有利な状況下であり、徳球−志賀体制はその上げ潮の運動昂揚気運に乗って結束が保たれたていたとみなすことができる。これが敗戦直後から45年一杯の動きである。こうした執行部の足並みの乱れが微妙に振幅を大きくしていくのが戦後日本共産党の歴史となっていく。 |
【徳球−志賀体制について】 |
こうして戦後【ミニ第@期】の党執行部は徳田−志賀体制から出発した。 |
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現在の党史においてはこのような見方が為されていないが後述の理由による。「人民に訴ふ」が徳田球一.志賀義雄両名を代表者として併記していること、この両名が中央委員として選出されていること、後々の党の歩みの中で両名が果たした役割を考えると、この時期「徳球−志賀体制」が確立されていたことを想定する方がより真実に近いのではないかと思われる。但し、「徳球−志賀体制」の特質は、政治理論も組織指導も徳球が主でありこれを志賀が補佐する体制であったことに認められるので、単に徳球体制と言い換えることもできるであろう。 |
【当時の在日朝鮮人、中国人の動き】 |
10.15日、日比谷公会堂で在日朝鮮人連盟(「朝連」)が結成された。全国各地の代表4000名が集まった。「1.在留同胞の権益の擁護とその生活向上を期す。日本帝国主義と封建的残滓を清算し、新朝鮮建設に貢献す」などの基本綱領が掲げられた。 「朝連」の戦闘的翼は日本共産党に参加していった。 「朝連」は在日朝鮮人全体の大同団結組織で、この結成時当初においては左翼的色彩はさほどではなかったが、次第に共産主義者のイニシアティブが増していった。こうした流れに不満の者達が11.16日、朝鮮建国促進青年同盟(「建青」)を結成した。無政府主義者を含む非共産主義者の青年を中心としていた。この「建青」が「朝連」内右派の実力行動部隊の役割を果たすようになっていく。 |
【45年当時の党の方針の特質と要点】 | |||
最近偶然古本屋で手に入れた「日本共産党は何を要求するか」(日本共産党.平沢三郎.日本共産党出版部.46.3)を参照する。実際の執筆は46.1.5日とあるので、「第5回党大会」の野坂理論の影響以前の党の指針であり貴重な資料であるように思われる。小冊子ではあるが、かなり長大であるので要点のみ転写することにする。気づくことは、内容の吟味以前のこととして字義どおりの意味で理論政党としての自覚の元に諸方針が「熱く」語られていることである。獄中から解放されて半年ばかりしか経過していない徳田党中央の面目が躍如としている。宮本−不破党中央の饒舌無内容と比較すれば自ずと違いが浮き彫りとなる。 | |||
@〈世界情勢に対する認識〉について 先の第二次世界大戦は民主主義連合国とファシズム陣営の戦いであり、こういう観点から反ファシズム解放戦争こそが優先されるべき最重要課題であるとみなしたことから、連合国軍と党の間には共同の敵=天皇制軍国主義国家を打倒するという利害の一致が見られた。拠ってこれを打倒した進駐軍は日本人民の「解放軍」であるという見方となり、党は、「人民に訴ふ」において、「専制主義と軍国主義からの世界解放の軍隊としての連合国軍の日本進駐」であるとして「深甚の意を表す」ところとなった。「我が党は官憲によってあらゆる迫害を受けてきたが、それに屈せず我が党はこの軍事行動を強奪と搾取の為の侵略となし、太平洋戦争を強盗戦争と規定し、連合国を自由と正義の担い手としてその戦争努力を積極的に支持し、現在もまた占領軍を解放者の軍隊としてこれと積極的に協力している」。 ソビエト同盟に対して「社会主義社会を完成しつつあるソビエト同盟」という見方を採った。
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A〈国内情勢に対する認識〉について ポツダム宣言事項の徹底化を積極的に支持した。「天皇制の打倒と人民共和政府の樹立」、戦争犯罪人の厳重処罰を目指した。「GHQ」が天皇制軍国主義国家を解体するために押し進める諸政策つまり戦犯の追及その裏腹な関係にあった獄中政治犯の釈放を含めた平和主義的民主主義的な諸施策=「ポツダム宣言事項の徹底」につき、党は、「人民に訴ふ」において「積極的に之を支持」する旨表明した。この動きに併せて党は、「GHQ」の期待する民主主義的な改良運動の枠内に止まる限りにおいて一番手の旗振り役として活動することが公認された。しかし、この「GHQ」の公認は逆に党の活動を「占領政策への協力という大枠」に閉じこめることもなった。しかし、「如何なる場合でも、マ司令部にすがる気持ちではいけない。日本の民主主義革命の遂行者は日本人民であることを忘れるな」(赤旗.45.10.20)とも留意されていた。 |
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第4回大会の一般報告の中で、徳球は進駐軍について次のように述べている。
上記@.A及び前記の徳球観点につき、後になって「党は、当時戦後日本のおかれた新しい情勢に対して明確な認識をもちえず、日本を占領しているアメリカ帝国主義の軍隊を解放軍と見るような誤りを犯した。」(「50年問題について」)と総括している。あるいは又「日本人民の解放闘争の複雑な展望を正しく見ることが出来ず、占領軍の統治下でも、平和的、民主的手段による民主主義革命の達成が保証され、さらには社会主義革命への発展さえ可能であるとする日和見主義見地に陥っており、ここにそのもっとも重大な誤りがあった」(日本共産党の50年.昭和47年初版)と批判している。 1950年1月コミンフォルムによる「占領下平和革命論」が批判されて以来、今日では日本左派運動の新旧左翼にあってこの当時の「進駐軍=解放軍」規定を非難しないものがいない。が、れんだいこには、当時の党の見解を今日的レベルで評論することは為にする批判であり愚かしいことのように思える。当時の社会状況とこれに規定される党員の心情を汲み取れば、連合国軍によってはじめて最大の反動的政体である天皇制軍国主義国家が打倒されたのであり、その喜び、戦前.戦中にかけて党の徹底弾圧を行った政策責任者らが戦犯として追及され始めた喜び、獄中からキャリア党員が解放された喜びの意義が他の評価を圧倒したのであり、加えて「GHQ」の当初の治世方針が人民民主主義の観点から見て好ましいものであった云々ということを考慮すれば、時代の気分として許されるべき認識であったし、この時点で「GHQ」の諸般の動きは文字通り解放軍であったものと思われる。大日本帝国の敗戦は、「天皇制の専制支配と侵略戦争に苦しんできた我が国の人民が立ち上がる道を開いた」(「日本共産党の65年」P98)のであり、この当時の「GHQ」の諸施策は反動的政体の解体に懸命な時期であったことからして、この時期の「GHQ」=解放軍規定そのものに咎があるようには思えない。むしろ、その変質を探ることのほうが弁証法的なのではなかろうか。 11.7日付け赤旗再刊2号には、「連合国軍が軍国主義、専制主義から我々人民を解放し、民主主義革命の端緒を開きつつあることは我々が今眼前に見るところである。我々自身が獄から解放されたのも、天皇とその政府によってではない。連合国と最高司令部からの命令によってである。我々は天皇制を打倒し、人民共和国を樹立する為に、この連合国解放軍と協力することができる」、概要「民主主義革命によって樹立されるべき人民共和政府は、ソビエト共和国より『むしろアメリカ・デモクラシーと本質的には同じところが多い』」とある。 真に反省されるべきは、天皇制軍国主義国家の打倒も政治犯の釈放も民主主義的な諸政策の推進も「GHQ」を通してしか為されなかったという「外からの上からの改革」であったということであり、この後の党の革命戦略を「外からの上からの改革」に依存する形にシフトしたことにこそ求められるべきであろう。この危惧は現実のものとなり、「進駐軍=解放軍規定」は翌年に立ち現れた「占領下でも平和革命の達成が可能である」という野坂理論の据え付けに道を開くことになった。そして、この規定が、「GHQ」変質後も維持され続けられることになった。 特に天皇制については、「天皇制こそ全勤労人民の抑圧体制を集約するものであり、近代社会に特有な政治的自由も独立した人格も、ともにこの反動と野蛮の支配体制の下では、完全に窒息せしめられている。全人民は、天皇制の打倒のみが、社会の発達と政治的闘争の自由な展開による全ての問題の解決を保証する事を知らねばならぬ。天皇制を打倒し、人民の代表者からなる共和政府を樹立し労働者.勤労農民.都市の勤労市民の政治的権利の確立と生活の安定と向上とを計らねばならぬ。人民の権利と利益とを基礎とする人民共和政府の樹立こそ、政治の分野における民主主義的革命なのであり、天皇の大権の縮小というような、天皇の権力の将来における復活を予想し得る、部分的な政治的改革でなく、真に徹底した民主主義の権利の為に絶対に必要な条件なのである」としていた。 これについて、社労党・町田勝氏は「日本社会主義運動史」の中で次のように述べている。
れんだいこ観点は繰り返さないが、後付けで云えばかように云えることは確かであるが、時々刻々の動きを弁証法的に捉える観点からはこのように決め付ける必要は無かろうと思われる。 |
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B〈党の革命戦略〉について この時期の党執行部は、「32年テーゼ」の基本戦略に沿って「天皇制打倒による人民共和政府の樹立」を中心任務とする立場を執った。「戦争犯罪の元凶たる天皇制打倒による軍事的警察的帝国主義の根本的掃蕩と世界平和の確立こそ、日本民衆の解放と民主主義的自由獲得の基本的前提である」と述べて、明確に天皇の戦争責任を厳しく追及した。注意すべきは、声明者のこの当時の認識としては、行動綱領の第一項に「天皇制打倒」と「人民共和政府」の樹立を掲げている気運からして「天皇制打倒」と「人民共和政府」は一体不離の同時遂行的な方針として把握されていたものと推測される。この方針は、「GHQ」の期待する資本主義的な民主主義政府と社会主義的な政府の違いについて玉虫色にさせており、急進化されればされるほど早晩軋轢を招くことになる類のものであり実際そのように推移していくことになる。 |
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この時点での「天皇制打倒」とは、昭和天皇裕仁の退位と天皇制の廃止であったものと思われる。この時期に明確に「天皇制打倒」を掲げる党は日本共産党だけであったことも注目される。但し、「天皇制打倒」を「人民戦線綱領」に掲げることには党内の統一ができず、中西功.戸田慎太郎らはこれに反対し、志賀.宮本らは堅持すべしとした。 | |||
C〈党の革命戦術〉について この時期の党執行部は、「人民共和政府の樹立」を掲げたとはいえ一瀉千里にこれに向けて邁進する意志はなかったようで当初より人民戦線理論の元に統一戦線運動に従って漸次的に押し進めようとしていたことが注目される。この観点が翌年に野坂理論と融合していくことになった。こうして統一戦線理論を導入する他方で、後述の「E〈左翼陣営内における本流意識〉について」で述べるように社会民主主義者にはありとあらゆる非難のレッテルを張り付け痛罵した。そうした批判は主に社会党幹部や労組幹部に向けられたが、統一戦線理論の実践上の矛盾でもあったといえる。ちなみに、社会党に対しては、天皇制を擁護しようとしているから、共同戦線を張る訳にはいかないとしていた。「現在我々の人民戦線の中心題目は、『天皇制の打倒、人民共和政府の樹立』でなければならぬ。然るにこの社会党は天皇制の擁護が主題目となっているのだから、これと直ちに共同戦線をやる訳にはいかない」(「闘争の新しい方針について」赤旗45.10.20)としていた。最左派の山川均らについても、徳田は第4回党大会で「山川、荒畑のごときはいわゆる講壇社会主義者に過ぎない」と決め付けていた。 |
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D〈党の当面の具体的な運動方針と方向〉について 党は、戦前の非合法状態から合法政党として活動することができるようになった。党は、1.天皇制の打倒と人民共和政府の樹立、2.寄生的土地の無償没収と農民への無償分配、3.労働者階級の状態の根本的改善を、現段階における三つの基本的任務とした。党は、経済的闘争のみならず、戦争犯罪人の追及その他の政治的行動、日本政治の民主主義化の為の闘争の先頭に立って指導した。労働組合+工場委員会、農民・漁民委員会、食糧管理委員会を基礎とする人民協議会という形態での統一戦線組織を目指すこととなった。人民解放連盟.青年共産同盟の組織と行動指針が決定され、これらが綱領に掲げられた。 この時期の党の活動とは、党組織の再建であり、議会の開設が為されていない時期のことでもあり専ら街頭演説による党のプロパガンダ活動が主であった。戦時中唯一非妥協的に軍部と闘った党への信頼は絶大であり、敗戦直後の徳田球一の街頭演説には黒山の人だかりが為されたと伝えられている。労働組合運動の高まりに応じて党員は常にその先頭に立って戦いをリードした。こうしたプロパガンダと大衆闘争の取り組みを通じて新規党員が続々と獲得されていった。徳田−志賀体制時期の活動を今日的観点から見れば次のように云える。当時の党員の能力は、執行部を形成した古参幹部にせよ長期の投獄により永らく実践活動から遠ざかっていたマイナス面を持っており、この時期入党した新規党員は活動履歴と闘争経験の乏しいままの俗に言う西も東も判らない時期のそれであり、徳田−志賀体制とはそういうごった煮の寄せ集めの党員たちが只革命的情熱に導かれるままの船出であった。 この時期党の具体的な運動方針は、様々な角度から日本の平和的民主的な再建策を具体的に明示していた。
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E〈党の大衆闘争指導理論〉について 「労働者.農民.勤労市民」の生活闘争の支援と指導を明確に掲げている。労働者に対しては、労働者の労働組合の組織化、賃金の大幅値上げ、労働時間の短縮、労働組合結成と団体交渉権の確立、共同闘争の為の共同闘争委員会の結成と産別組合運動化、生産管理と経営参加。農民に対しては、強制的供出に対する民主的供出の要求、農業会の農民主導、小作料の減免、有給土地の分配。都市市民に対する配給組織の監視と管理。これらを併せての人民協議会の結成指導。これらの闘争の先頭に立って党と進歩的諸団体が闘うという観点が確立されている。 労働運動に対しては、「労働者階級は資本主義を廃絶し、人間による人間の搾取の無い共産主義社会を建設する歴史的使命を有する。けれども労働者階級がこのための闘争を自由に闘うためには、まづ第一に労働者の無権利状態と植民地的生活状態を脱して、階級闘争の自由な公然の発展と労働力の正常な維持と発達とを保障する政治.経済的地位を獲得しなければならない。それ故労働者階級の状態の根本的改善と政治的権利の為ノ闘争が、資本主義に対する日本の労働者階級の当面する基本的任務となる」として、大会は、「労働組合運動に関する決議」を採択し、「労働組合運動の統一的再建」、「 全国的単一的産業別組合の結成」などを指針させた。徳球の方針は、
というものであった。有能な党員の獲得と組織の確立を優先的な指針とするものであったが、今日評価が分かれている。この方針は、徳田の運動急進主義的特徴を物語っている。あわせて既存の社民的な組織との軋轢を招くものである。その是非は難しく、このような労働組合やその他の大衆団体に対する「党指導下の独立組織」構想に対し、労働者出身で長く組合運動に従事した経歴のある神山茂夫は反対した。「赤色労働組合主義」であり、全国統一的な大衆団体結成の方針こそ有効、社会党との統一戦線を模索すべきであると主張した。 徳球書記長は、労働組合の統一についての報告の中で、
と罵倒した。総同盟左派について次のように攻撃した。
農民運動に対しては、労農同盟の見地を掲げ、「日本共産党は労働者階級の政党として、労働者階級の指導による土地革命の徹底的遂行が、労働者の盟友としての農民を労働者と離れがたく結びつけること、土地革命の遂行を基礎とする民主主義の勝利は、労働者階級に政治的自由を与え、労働者の資本主義に対する闘争を容易ならしめるが故に、労働者階級の当面する基本的任務として遂行されねばならない」としていた。 労農部長に就任した神山は、第一次農地改革に関連して報告を行い、「真に農民大衆の農業革命に進むか、あるいは官僚的改良に終わるか。農民の無条件的土地没収によるか、有償の買い上げでこれを保証するか」と、「革命と改良の二つの進化の方向の間での闘争」を提起している。 |
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このB.C.D.Eにつき、今日的視点からこれらの方針を評価すれば、戦後運動の当初より「社会主義的な労働者政府」の樹立(これを「一段階革命論」と云うらしい)が目指されていないことが注目される。ディミトロフの人民戦線理論の影響であったものと思われる。今日から判断すれば社会主義革命に向かう社会的諸情勢の機が熟していなかったかどうかは疑問である。つまり以後現象的な行動面におけるラジカルさが見られることがある場合においても本質的には穏健派志向であったということである。「人民共和政府」の樹立戦略(これを「二段階革命論」と云うらしい)は、「民主主義革命を貫徹して後社会主義革命に向かうという革命的展望」を掲げながらも社会主義革命には向かわないと云う玉虫色戦略であるとみなすことができる。但し、この時期の指導部には、「保守政府を打倒して天下を取る」という自信をみなぎらせていたことは事実であり、その後「社会主義革命に向かうという革命的展望」については確信的な強い決意があったことを否定するものではない。とはいえ、「戦前からの日本共産主義運動が、国内製の方針の時は、直接の社会主義革命を志向するのにたいして、コミンテルン製のテーゼは、つねに民主革命にひきもどした(石堂清倫)」は根拠のある言いである。 | |||
この時期の12.2日、かって32年テーゼの作成の際にモスクワに在ってこれに参加した経歴を持つ湯本正夫(山本正美元党中央委員長)が社会主義革命論を唱えていたのが注目される。当時、山本は党の指導機関に居らず、この論文は東京新聞紙上に発表された。但し、当時の革命的熱気のほてりの中でかき消されたようである。同氏は、戦前の天皇制が絶対主義であり、この打倒を優先課題にしていた「32年テーゼ」の意義については認識を一致させていたが、敗戦後の変化に拠り天皇制はブルジョア化したという評価から、次は社会主義革命を打ち出すべきではないかと主張した。 概要「天皇制も今や後述する如くブルジョア的変質を遂げつつある。かくて今や舞台は一変して日本の国家権力は最新的民主主義的資本主義国たるアメリカの支配下に置かれ、その執行権は半封建的な夾雑物を奪去されつつ近代的な金融資本として自己の改変を余儀なくされた日本の大ブルジョア及びそれと抱合しつつある官僚の手に移っている。この限りにおいて―即ち国家権力のブルジョア的要素への移行という限りにおいて―日本の民主主義的変革の重要なモメントは一応達成せられたと見るべきであろう」(「現段階と労働者階級」東京新聞.45.12.2)。 続いて、12.5日同じく東京新聞に「変革の二重発展、対資本闘争の重大特徴」で次のように述べている。「今日の段階の日本の変革運動の当面している基本的課題は、既に我々が従来規定したところの『民主主義革命』のそれよりも一歩進んだところのものを包含してきている」、「変革の進展と階級勢力の力学的関係の中心移動は、変革の主要打撃力の方向が次第にこの階級(大ブルジョアジー)に向けられつつあることを示しているのである」、「今日、労働者階級の打撃の方向を半封建的残滓に対してのみならず、大ブルジョアとその協力者に向けることは変革の正しい発展と飛躍のために絶対必要なのである」、「かくて来るべき大ブルジョアとの最終的闘争において労働者階級は今から最も有利な地歩を堅めておくべきである」。後述する中西功の社会主義革命論と共に考証の余地があると思われる。 |
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F(党の機関運営について) | |||
G〈左翼陣営内における本流意識〉について この時期の党執行部は強烈な前衛意識を漲らせており、党こそが民主主義的社会変革運動の正統な担い手であるという権限を持って社民主義者等に睨みを効かせていくことになった。徳球はこのことを次のように表現している。
その根拠は、自由主義者や社会民主主義者らが日和見主義的にふるまった中、唯一党だけが屈せず戦前.戦中を獄中闘争で貫いたという実績にあった。確かに宗教界の一部を除けば共産党だけであったことを思えば自他共に認められる根拠があったということになる。この優越意識は党のかっての転向者に対しても向けられており、その分余計に一点の曇りもない自負を与えることになった。 当時の赤旗第1号紙上で、賀川豊彦を「キリスト坊主」、戦前の労働総同盟会長松岡駒吉.西尾末広らを「組合又は政治ゴロの親分、ダラ幹の元締め」等々と誰はばかることなく罵倒していることはその証左である。長く獄中につながれ、非転向に耐えてきた者の怨念がほとばしるものであった。 この正統意識は党史上の赤い糸として以後も継承されていくことになるが、これを受け止める社民主義者の心情には大きな変化が現れていくことになる。この時期は明らかな負い目.引け目を負いながら党に対することになるが、次第に鼻持ちならないものへと転化していくことになる。これが戦後左翼運動の流れの一つの特徴と云える。この正統意識は、徳田→宮本体制においても色濃く継承されており、統一戦線理論との矛盾として立ち現れてくることになる。なんとなれば、事あるごとに社会党を「右転落」と誹謗していくことになり、この言い回しが結果的に社会党をより右へ右へと追いやっていくことにもなった。 |
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H〈この時期の青年戦線.学生運動について〉 この時期早くも学生青年運動が立ち上げられることになった。10.12日、最若年党員として入党して本部勤務員となった寺尾氏の回想によると、「志賀と宮本に『学生のことは君たちに任せる』といった徳田の言葉を覚えている」とあるので、志賀と宮本がこの方面を担当したことになる。 1945年(昭和20年)敗戦とほぼ同時にこの時期早くも党は青年共産運動の建設の課題を提起し、党の指導下で学生青年運動を立ち上げていくことになっ た。戦前1922.4月に日本共産青年同盟(共青同)が創設されていたが、その革命的伝統を継承して「青年共産同盟」(「青共同」)の再建を指導し結成に導いた。 8月に民主主義青年会議を組織した。これは国際共産主義青年インターナショナル第6回大会で決定された青年単一戦線結成の方針を日本に適用しようと意図したものであった。しかし、党は、 国際的経験を正しく摂取した青年同盟の路線を提起しえず、人民戦線以前の 「社会ファシズム論」的なセクト的思想のままに社民的改良運動=社会民主主義運動排撃を指導したようである。 10.15日、東大.共産党東大細胞が結成されている。メンバーは18名であった。 |
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I〈大会後の動き〉 12.5日、「赤旗」5号が発行されたが、これより現在の新聞型になった。 徳球は次のように述べている。
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【共産党が「戦争犯罪人追求人民大会」開催】 |
12.8日、「戦争犯罪人追求人民大会」を開く(神田共立講堂)。天皇を筆頭として平沼騏一郎(大逆事件時の担当検事)ら千名以上の戦争犯罪人名簿を発表。戦犯追及人民大会を開いたのは共産党だけであったことが注目される。 |
12.12日、第1回拡大中央委員会(以下、「拡中」と記す)が開かれた。当面の具体的方針を決定。中央機構の拡充。 |
12.23日、第一回東京地方党会議が開かれ、9名の暫定東京都委員が選出され、この時伊藤律が序列第4位に入っている。長谷川浩、岩田英一、伊藤憲一、伊藤律、酒井定吉、服部麦生、寺田貢、金とうよう、中野某。 |
12.末頃、来るべき憲法制定国会の為の第一回総選挙にどう関わるのか、闘うのかを廻って、中央委員会書記局・黒木重徳が中心となり意見を聴取している。席上、伊藤憲一が「今のような時機に議会選挙など問題にならない」とボイコットを主張し、長谷川浩が「選挙をボイコットするような革命的情勢では無い。選挙を政治的暴露と大衆的行動で闘い、大衆の要求を国会に反映すべきだ」と述べた。結局結論が出ず、そのまま政治局に報告した。数日して政治局見解として志賀から「選挙を闘う」方針が打ち出された。(長谷川浩「2.1スト前後と日本共産党」) |
12.30日、新日本文学会創立。新日本文学創刊準備号、宮本百合子「歌声よ、おこれ」を発表。文学の分野を越えたひろい共鳴を呼び起こした。 |
12.31日、朝日新聞が次のような野坂待望論解説記事を掲載している。「天皇制の問題のごときも彼(野坂)は天皇制打倒を唱える内地の出獄派に反対し、天皇制打倒を叫ぶは戦術的にも客観情勢を無視しているものと判断している。岡野(野坂)進氏が帰国すれば、現在の日本共産党は---あるいは分裂を余儀なくされるのではないか」。 |
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戦後当初の党運動は、GHQの公認の下に、野に放たれた虎の勢いで暴れまわっていくことができたことに注意が必要であるように思われる。隠匿物資の摘発、戦争犯罪人の処罰、天皇制打倒、人民民主主義居和国政府の樹立等々に向けて怖いものなしの活躍であった。GHQはこれに何らの制約も加えず、なりゆきをじっと見守っている観があった。この関係が次第に対立関係に向かい、50年のレッド・パージで完遂されるというのが党とGHQとの戦後史であるように思われる。 |
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神山は、徳球の「気概と抱擁力の大きさ」について次のように述べている。「現代の理論」編集部との対談の際に述べられたもののようである。「ええ。従って、やる気のある人を、入党の決意を持ち、一定の推薦者があればどんどん入れてくる。だから一方から言えば、スパイの容疑を持たれるような人も入ってきたし、戦前社会党系だった人も入って来た、天理教の人も入って来た。そういう条件も可能性も一杯あった。それを全部抱えて、次第にスパイだということが分かってくる人を段々に除いていく傾向で、解放直後は、転向、非転向に拘らずに早く一緒にやろうとした。特に徳田君はその点では、過去のことはあまり問わないという態度を取っていた」(高知聡「日本共産党粛清史」)。 以上、神山によるこの徳球式党運営に対するコメントであるが、これに対して高知氏が更に為したコメントは、「宮顕型とは異なる徳球型の粗雑な便宜主義が現れている」である。次は、れんだいこコメントである。「高知氏は何が云いたいのだろう。宮顕型と徳球型の鮮やかな対比として述べられているのだから、その功罪について軍配を挙げるのが批評というものだろう。『宮顕型とは異なる徳球型の粗雑な便宜主義が現れている』の意味するところは、宮顕型を否定し徳球型を否定しての高知氏なりの云い回しなのだろうが、れんだいこには結局何をも云っておらず、単に『徳球型の粗雑な便宜主義』のみが批判されているように見える。高知氏には、一見鋭い急進的批判にも関わらず、廻りまわって実践的に志向させるところのものが反急進主義に帰着するという癖があり、その好例の箇所でもある」。 |
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社労党の町田勝氏は、この経過を「決定的な時期を無為に過す」との見出しで次のように批評している。
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