宇喜多直家-秀家考

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).6.22日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2019(平成31→5.1栄和改元).6.22日 れんだいこ拝


宇喜多直家-秀家考
【岡山と八丈島と宇喜多秀家】
■「烏城」と呼ばれる漆黒の岡山城。
築城したのは宇喜多秀家。
数奇な運命を辿った戦国大名です。
◆父の直家は『麒麟』でブレークした斎藤道三・松永久秀と並ぶ「戦国三大梟雄」。裏切りや権謀術数に明け暮れた人物でした。
◆直家の死後に9歳で家督を継いだ秀家は、豊臣秀吉の庇護と寵愛を受け、裏表なくスクスク育ったようです。 (その分、部下マネジメントが苦手で重臣が大量離職しています)
◆豊臣政権下で抜擢を重ね、20代で徳川家康と並ぶ五大老となり政治・軍事の中枢へ。
■秀吉の死後、秀家の運命は一変します。
◆関ヶ原の合戦では西軍最大の部隊を率いて奮闘しますが、小早川秀秋(秀家の次の岡山城主)の裏切りもあり敗戦。
◆その後、逃亡を重ね鹿児島県まで落ち延び、1606年に八丈島へ流罪となります。
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【岡山(五大老/中納言)→岐阜(関ヶ原・敗戦)→滋賀・京都(逃走)→鹿児島(島津家庇護)→静岡(身柄幽閉)→八丈島(流罪)】 身分も身柄もここまで短期間で流転を続けた人物は、日本史上でも稀だと思います。 ◆1655年に84歳で亡くなるまで約50年、八丈島を出ることはありませんでした。
※関ヶ原を戦った大名としては、真田信之(幸村の兄/享年93歳)と並ぶ長寿でした。
◆八丈島の荒波を見つめる、宇喜多秀家と豪姫(正妻/前田利家の娘)の像を見ながら、
【宇喜多秀家は、自分の人生をどう受け止めていたのだろうか?】
と考えていたことを思い出しました。
◆後悔や怒りだけで84歳まで長生きできなかったと思いますし、家康の死後に本土への帰還を許されても八丈島に留まったそうです。 (一説では、妻の実家前田家が大名復帰を持ち掛けても断ったそうです)






(私論.私見)