筒井順慶(在地土着派武将)考 |
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ここで、筒井順慶を確認する。 2013.10.22日 れんだいこ拝 |
【筒井順慶の履歴】 |
「ウィキペディア筒井順慶」その他を参照する。 1549(天文18)年−1584(天正12)年。筒井 順慶(つつい じゅんけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。得度して順慶と称する前は、室町幕府13代将軍足利義藤(後の義輝)の偏諱により藤勝(ふじかつ)、藤政(ふじまさ)と名乗っていた。大和筒井城主、後に大和郡山城主。事績については『多聞院日記』に詳らかに記述されている。 1549(天文18)年、大和の國添下郡筒井村に生まれた。父は、大和国の戦国大名・筒井順昭、母は大仏再興に功績のあった山田道安の娘(妹?)・大方殿。幼名は藤勝、藤政、のちに得度して陽舜坊順慶と称した。
1549(天文18).4月、父・順昭が4、5人の家来を連れて比叡山に隠れた。病苦の上の出奔であった。1551(天文20).6.20日、南都林小路の外館(円証寺)で死去した。享年27歳。順慶がわずか2歳で家督を継ぐ。順慶が幼少の間、叔父、順政、一族の福住宗職、それに生母が後見役となって筒井一党の力を守った。当時の大和は松永久秀が隆盛していく時代であり、筒井家と協力関係にあった十市遠勝が久秀の軍門に下るなど厳しい情勢にあった。叔父の筒井順政が後見人として補佐を努めた。
1559(永禄2)年、8月、松永久秀が信貴山城を築き、その翌年、筒井党の所領を奪った。筒井一党は国外に亡命を余儀なくされた。この年、松永久秀は多聞山城を築き大和席巻に乗り出した。1564(永禄7)年、順慶の後見人・順政が死去する。後ろ盾をなくした順慶の基盤が揺らいでいるところに久秀が迅速な奇襲を仕掛け、順慶は居城・筒井城を追われた(筒井城の戦い)。この時、箸尾高春、高田当次郎といった家臣達が順慶を見限り出奔している。居城を追われた順慶は一族の布施左京進のいる布施城に逃れ、しばらく雌伏の時を過ごした。一部の史料は河内へ逃れたと伝えている。後に順慶は布施氏の下で力を蓄え、離反した高田氏の居城である高田城を攻撃している。 1566(永禄9)年、順慶が三好三人衆と結託し筒井城の奪還を企図し松永軍に対する反撃を敢行する。4.11日から21日にかけて両軍の間で小競り合いが行われ、美濃庄城を孤立させて降伏させている。順慶と三人衆は勢いに乗り筒井城へ肉薄する。対して久秀は大和を抜け河内に赴いて同盟関係であった畠山氏、遊佐氏と合流、堺で三好義継と久秀が激突する。順慶はこの間隙を突いて筒井城の奪還を画策、筒井城周囲に設置された松永の陣所を焼き払うなどした。久秀は能登屋の斡旋により和睦を結ぶ。周囲の陣を焼き払い、外堀を埋めた順慶は本格的に城の奪還に着手、6.8日、ついに城の奪還を果たした。進んで南都に陣を張った。筒井城を奪還した順慶は春日大社に参詣し興福寺一乗院に属する衆徒の一員となる。この時18歳、宗慶大僧都を戒師として僧籍に入り藤政から陽舜房順慶と改名した。正式に順慶を名乗るのはこの時からである。 1567(永禄10)年、多聞山城に拠る松永勢が、東大寺・興福寺に布陣する順慶、三好三人衆連合軍と対峙し、久秀軍が東大寺を焼き討ちした。10.10日、大仏の首が焼け落ちている。 1568(永禄11)年、この頃、織田信長の台頭が著しくなり15代将軍足利義昭を擁立して上洛する。三好三人衆を駆逐して影響力が畿内一円に及ぶようになる。久秀は信長と誼を通じ、援軍2万を得て順慶討伐戦に乗り出す。この時、菅田備前守などの家臣が順慶から離反している。久秀軍が郡山辰巳衆を統率して筒井城に迫る。順慶は奮戦したが衆寡敵せず叔父の福住順弘の下へ落ちのび、福住城に潜伏して雌伏の時を過ごす。 1570(元亀元年)年、順慶が十市遠勝の死によって内訌を生じた十市城を攻め落とす。さらに松永方の城となっていた窪之庄城を奪回し、椿尾上城を築城するなど、久秀と渡り合う為に着々と布石を打っていった。
1571(翌元亀2)年、順慶−久秀の関係は一層緊迫を強める。5月、久秀が政敵3人衆と和して筒井党を一挙に討ち取ろうと迫る。順慶は井戸良弘に命令して辰市城築城に着手し、7.3日に完成する。城築城が松永攻略の橋頭堡となった。城の着工が迅速に行われた背景には、順慶を支持する地元の人々の経済的な支援があったと考えられる。8.4日、順慶軍が、辰市城周辺で、久秀・久通父子、三好義継らの連合軍と大規模な合戦に及び松永軍に甚大な被害を与えた。敗戦した久秀は筒井城を放棄し、順慶は再び筒井城を奪還することに成功した。筒井城の奪還によって、信貴山城と多聞山城を繋ぐ経路が分断され、久秀は劣勢に立たされることとなった。
同年11.1日、順慶は明智光秀と佐久間信盛の斡旋により信長に臣従し、その支援を得ることで大和における所領を守った。12月、多聞山城を陥れた。久秀は信長と反目して将軍足利義昭、三好義継、武田信玄などと結託し信長包囲網を形成する。順慶は久秀と和議を結び、北小路城に久秀、久通父子を招待して猿楽を催すなど表面上はしばらく円滑な関係が続いた。 1572(元亀3年)、久秀は反信長の態度をますます顕在化させ束の間の和睦が破綻した。 1573(天正元)年、信玄が病死する。義昭、義継が信長に討伐される(若江城の戦い)。これにより信長包囲網が瓦解する。久秀は降伏し信長の元へ戻る。この間、順慶と久秀の小競り合いが続く。1574(天正2)年、順慶は信長との盟約を堅くするために自分の母と重臣の向井、井戸の2名を人質に差し出した。翌年、信長の養女秀子(12歳)が順慶の養嗣定次に嫁している。 臣従後、順慶は信長傘下として主に一向一揆討伐などに参戦して活躍した。義継討伐では先陣を務め、1575(天正3)年の長篠の戦いにおいては信長に鉄砲隊50人を供出、同年8月の越前一向一揆攻略にも5千の兵を率いて参戦した。 1576(天正4).5.10日、信長により大和守護に任ぜられた。5.22日、人質として差し出していた順慶の母が帰国した。母の帰国を許可されたことの返礼も兼ねて、順慶は築城中であった安土城を訪問、信長に拝謁し、太刀二振に柿、布などを献上し、信長からは縮緬や馬を賜っている。 1577(天正5)年、順慶は他の諸将と共に反乱を起こした雑賀一揆を鎮圧した(紀州征伐)。同年、上杉謙信が西上して信長に決戦を挑もうとする時、久秀が信長に対して信貴山城に拠って再度謀反を起こす。10月、順慶は織田信長の援助を受けて織田信忠とともに出兵、信貴山城攻めの先鋒を務めている(信貴山城の戦い)。手始めに片岡城を陥落させ、続いて信貴山城へ総攻撃が行われた。10.10日、遂に城は陥落、久秀、久通父子は自害して果てた。信貴山城陥落については、順慶が本願寺の援軍と称して潜入させた手勢が内部から切り崩しを行い、落城に貢献したと大和軍記は伝えている。また、大和志科は、久秀の遺骸を順慶が回収し、達磨寺に手厚く葬ったと記述している。和洲諸将軍伝にも、久秀の遺骸が達磨寺に葬られた旨の記述があるが、ここでは久秀の遺骸を回収し葬った人物は「入江大五良」と書かれている。 1578(天正6)年、久秀父子の滅亡もあって順慶が大和を平定した。その後、順慶は東奔西走の日々を送る。同年、信長の命令により龍王山城を破却している。同年4月、秀吉の上月城攻めの援軍として播磨攻めに参戦し滝川一益、明智光秀、丹羽長秀、武藤舜秀らの総勢二万の兵で播州高倉山へ向かっている(「多聞院日記」)。6月、神吉頼定が籠城する神吉城を攻撃している。帰国後の10月、石山本願寺に呼応した吉野の一向衆徒を鎮圧する。1579(天正7)7年、信長に反旗を翻した荒木村重が篭る有岡城攻めに参加する(有岡城の戦い)。この時、城中に当時播磨小寺氏の臣であった黒田官兵衛孝高が土牢に監禁されており、後に救出されるがそれ以後足が不自由になっている。 1580(天正8)年、居城を筒井城から大和郡山城へ移転する計画を立てていたところ、信長が、石山合戦が終わった機に一国一城の方針を立て、本城とする城以外の城の破却を促す通達が寄せられる。順慶は筒井城、多聞山城はじめ支城を破却し、築城した大和郡山城に移転した。筒井城から大和郡山城へ拠点を移した根拠としては、筒井城が低地にあり、水害の影響を被りやすかったという問題があった。同年、信長の命令により大和一帯に差出検地を実施している。これに伴い、岡弥二郎・高田当次郎・戒重ら、かって松永久秀に追従していた筒井家配下の人物達が信長に一度離反した咎で明智光秀らの主導で処断された。 1581(天正9)年、かねてより確執があった吐田遠秀を闇討ちにして葬っている。同年の天正伊賀の乱では他の武将と共に織田信雄に属し、大和から伊賀へと進攻、3700の手勢を指揮し、蒲生氏郷と共に比自山の裾野に布陣する。この時、伊賀衆の夜襲を受け、半数の兵士を失う苦戦を強いられる。伊賀の地理に精通していた菊川清九郎という家臣が順慶の窮地を救ったと言われる。その経緯については「伊乱記」が詳述している。 1582(天正10)年、6.2.日、明智光秀が信長を討ち取った本能寺の変が起こった。光秀は山城の国境にあった山崎八幡洞が峠(現京都府八幡市)に着陣し、光秀の子を養子に迎えていた大和の順慶加担、娘の玉(細川ガラシャ)が忠興の妻ということもあり丹後の細川藤孝・忠興父子の加担の報せを待った。順慶は福住順弘、布施左京進、慈明寺順国、箸尾高春、島清興(左近)、松倉重信ら一族、重臣を召集して評定を行った。順慶は辰市近隣まで派兵して陣を敷いたが動かなかった。その後も評定を重ね、一度河内へ軍を差し向ける方針を立てたが、結局は食料を備蓄させて篭城する動きを見せた。秀吉と光秀の合戦の趨勢を見定め、明智光秀の敗色濃厚と見た6.10日、誓紙を書かせて羽柴秀吉への恭順を決意した。同日、光秀の家臣・藤田伝五郎が順慶に光秀への加勢を促すよう郡山城を訪れたが、順慶はこれを追い返している。6.11日、順慶が大和郡山で切腹したという風聞を始め流言蜚語が飛び交った。6.13日、光秀が山崎で秀吉と刃を交えて敗死した(山崎の戦い)。光秀にとって、18万石(大和の与力を合わせると45万石)の順慶と12万石の細川幽斎に背かれたことが致命傷となった。6.14日、順慶は大和を出立して京都醍醐に向い羽柴秀吉に拝謁した。秀吉は順慶の遅い参陣を「曲事である」と厳しく叱責したが、秀吉の家臣となることで大和の所領が安堵された。多聞院日記は、秀吉の叱責によって順慶が体調を崩し、その話が奈良一円に伝播して人々を焦燥させたという話を伝えている。これより「洞が峠を決め込む」、「順慶流」の故事が生まれ、後世「両者を比べて自分に有利な方につこうとして形勢を見守る」日和見主義の代名詞として用いられるようになった。この語源は順慶に由来することになる。 6.27日、織田家の後継者を選別する清洲会議が実施され、順慶は他の武将達と共に列席している。7.11日、秀吉への臣従の証として、養子(従弟、甥でもあった)定次を人質として差し出している。その後、織田家の家督相続を巡って秀吉と柴田勝家の間に対立が深まり、やがて両者は北近江賤ヶ岳一帯で対峙する。順慶は、1583(天正11).3月以降、秀吉に従い伊勢方面(対滝川一益)と近江(対柴田勝家)に向け出兵する。4.3日、帰国。同月25日、再び近江へと出陣する。賤ヶ岳の戦いで敗れた柴田勝家が居城の越前北ノ庄城に籠もり自刃する。5.2日、勝家に加担していた織田信孝が兄信雄に尾張知多郡へ追われ、内海の野間大御堂寺で自刃する。5.6日、順慶帰国。翌日早朝、今度は滝川一益勢との戦いに向け伊賀へと出陣する。 1584(天正12)年、3−4月、織田信雄が秀吉と対立、家康に助けを求めたことから小牧・長久手の役が起こる。順慶はこの頃、胃痛を訴え床に臥していたが、小牧・長久手の戦いに際して出陣を促され、病気をおして伊勢・美濃へ転戦する。8月、大和に帰還して程なく郡山城にて病死した。享年36歳。遺骸は一度は奈良の円証寺に葬られたがその年10.15日、母尊栄の願により改めて葬儀が行われ、郡山長安寺に廟所が建てられた。今日残る五輪塔とその覆屋は重要文化財となっている。 筒井家は順慶に実子がなかったため、叔父の慈明寺順国の子・定次が養子となって20万石を継いだ。相続については元々順慶は筒井家の名跡は番条五郎に嗣がせたかったようで、これには秀吉も同意していたが、五郎にその気は全くなかったという(『多聞院日記』同年八月十三日条)。 順慶の重臣だった島清興は順慶の死後、跡を継いだ定次と上手くいかず筒井家を離れたが、後に石田三成の腹心となり関ヶ原の戦いに参加して勇名を馳せた。 1608(慶長13)年、6月、順慶亡き後31年目、定次が、家中に揉め事が多い事を咎められ岩城平に流刑される。その後さらに、豊臣家への内通の疑いにより改易・自害させられたことで筒井家は消滅した。 筒井家は大名家としては滅亡したが、現在も真偽は別として順慶の子孫と伝えられている家は少なくない。作家の筒井康隆も、奔放な幻影で構成した小説「筒井順慶」の中でその1人と名乗り、歴史小説とはいえないものの丹念な取材を重ねて、戦国時代を高みから見おろす虚無的な知識人としての順慶像を示している(但し、ここに登場する作者自身もフィクションであって、現実の筒井康隆の家にそのような伝承はないという)。この虚無的な順慶像は永井路子の短編「青苔記」にも共通している。 |
順慶は茶湯、謡曲、歌道など文化面に秀でた教養人であり、自身が僧でもあった関係で(筒井家は元々興福寺の衆徒が大名化した家である)、仏教への信仰も厚く大和の寺院を手厚く保護したとも言われている。 家臣は、島清興、松倉重信、森好之。 |
筒井城の外堀がめぐる北の端の地に真宗興正寺派の幽西山光専寺がある。1514(永正11)年、筒井総道場として創立されている。ここに木造で、座高約70pの筒井順慶座像(市指定文化財)が保管されている。
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【れんだいこの筒井順慶考】 |
松永久秀の対抗馬として筒井順慶が登場している。両者は茶湯に秀でた教養人であったことで共通している。この両者が奇しきな縁で同時代を生き、反目し和睦し又反目すると云う合戦絵図を描きながら時代に翻弄されている。松永久秀と筒井順慶の重なり合いの歴史が実に面白い。これが、れんだいこの筒井順慶論の総論となる。以下、それぞれが背負ったものの差異と同一について検証する。
2013.10.22日 れんだいこ拝 |