れんだいこの秀吉論


 更新日/2019(平成31→5.1日より栄和元).5.10日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2013.08.11日 れんだいこ拝


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 「天下統一には心理学を駆使していた? ビジネスに使える「豊臣秀吉の心理学」」。

 「鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス」という句で知られる豊臣秀吉は智将と呼ぶに相応しい。そのリーダーシップとマネジメント、「人たらし術」は模範とするに足りる。秀吉は、関わった人をファンにする器量があった。真田正幸、真田信繁(幸村)親子もファンにしている。真田信繁は、「真田丸」で知られる大坂城の戦いにおいて、豊臣への忠誠を最後まで示す。人間は、好意には好意で返すという心理を持っている。これを心理学では「返報性のルール」と呼ぶが、秀吉はこの心理使いの名人だった。例えば、小田原城攻めの時に、初対面の伊達政宗に対して、秀吉は自分が差している刀(佩刀)を預け、二人きりになる。野心あふれる武将に対し背中を見せて命を預けている。政宗は秀吉を倒すチャンス到来であったが、秀吉の器の大きさを見せつけられて信服させられた。九州の役でも、秀吉は同じ手法を使つている。降伏し丸腰で平伏する島津義久に対し、またも佩刀を与えている。義久とすれば敵の総大将を倒すチャンスであるが、秀吉の器の大きさを見せつけられて信服させられた。礼には礼で応じなければ名誉が失われる。伊達政宗にも島津義久にも返報性のルールが働いて、秀吉を殺すどころか、その心遣いに心服することになった。

 「ハード・トゥ・ゲット・テクニック」とは、特別扱いをされると相手を好きになるという心理を利用した販売テクニックです。実は秀吉は、このテクニックも得意にしていた。それを物語るのが毛利輝元に対する接待である。秀吉は中国地方の盟主と言われる毛利輝元に上洛を促し、輝元が上洛すると前代未聞の接待を展開し。輝元の滞在は2カ月にわたり、秀吉は、輝元のために公家や武家、文化人・商人など著名な人物が出席する宴会や茶会を開く。また、秀吉自ら奈良の大仏、大坂城の天守など近畿地方の観光案内している。これは、「ハード・トゥ・ゲット・テクニック」そのもの。輝元は秀吉に傾倒するようになり、五大老の一人となる。その忠誠は長く続き、天下分け目の大決戦・関ヶ原の戦いでは西軍、すなわち豊臣方の総大将を引き受け、戦うに至つた。他にも秀吉は、有力人物を接待する大茶会や花見などを度々催していることは歴史が示すとおりです。秀吉には、このような「特別感」を演出する能力に長けていたことが判明する。

 秀吉は、臣下の礼(コミットメント)を取らせることで、相手をコントロールするテクニックを使用していた。人間には自分の発言したことには逆らえない心理がある。これを心理学では「一貫性の原理」と呼ぶ。「武士に二言なし」という心理です。秀吉はこの心理の強さも証明している。秀吉は、相手に臣下の礼を取らせることにこだわった。豊臣秀吉軍と徳川家康・織田信雄連合軍が戦った小牧・長久手の合戦では、連合軍が圧倒して戦いが終結した。和解の結果、連合軍に求心力がなくなり、織田信雄という後ろ盾を失った家康は秀吉に対抗する大義名分も力も失い、臣従せざるを得なくなった。結局家康は、並みいる諸将の前で、秀吉にひれ伏して忠誠をコミットした。家康自身も「一貫性の原理」によって秀吉に反発することができなくなった。このように、数多くの戦国大名が、秀吉に対して臣下の礼でコミットすることで、反逆心を捨て臣下として立場を受け入れることになった。

 また秀吉は、敵を味方にする能力にも長けていた。相手の立場や存在価値を認め、時に共感することで、ファンを増やしていった。「小牧・長久手の戦い」のとき、秀吉の水軍を指揮し徳川方と対峙した九鬼嘉隆はミスを犯して敗退した。戦のあと、嘉隆が秀吉のもとに謝罪に行くと、秀吉は責めるどころか逆に嘉隆を称賛した。嘉隆は責任の追及を覚悟していたが、秀吉の暖かい対応に感激して生涯忠義を尽くすことになった。秀吉はこのように、相手の立場に立ち、相手を受け入れ、共感することで、忠誠を強固なものにしてきた。ちなみに、受容と共感は相手の信頼を得るカウンセリングスキルです。

 しかし秀吉の晩年は、朝鮮出兵を強行し、武闘派と官僚派との確執を招くなど、往年の面影は徐々に失われていった。また他者を思いやる心も薄れてしまい、秀頼に対する過保護が前面に出た。そうなると、秀吉の恩義を感じていた諸将も秀吉の死を契機に気持ちが離れ、豊臣家は求心力を失っていった。そして、豊臣家は組織を束ねる有力大名を失い、最終的に徳川家康に天下を譲ってしまうことになる。皮肉なことに、秀吉流の心理学を引き継いだのは徳川家康だった。そして豊臣恩顧の大名たちを次々に調略していった。

 秀吉流の心理学は実践的で効果も絶大で、非常な成果を上げ続けた。秀吉は、様々な問題点を嘆くこともせず、できない理由を愚痴ることなく、リフレーミングで問題点をカバーした。秀吉の常識に囚われないリーダーシップは、現代でもその輝きを全く失っていない。心理学のテクニックを駆使し、天下を統一したことは改めて特筆するべき大偉業であったと言える。天下を統一した戦国武将、豊臣秀吉の問題解決プロセス、類まれなリーダーシップは現代のビジネスマンにも大いに参考になる。

 添い寝を楽しみにしておれよ!「人たらし」豊臣秀吉が愛する女性に送った手紙」。
 
 豊臣秀吉の才能のひとつに「人たらし」と呼ばれる対人交渉術がある。相手の心情を理解してその懐に飛び込み、最終的には自らの意にしたがうように籠絡(ろうらく)することだ。秀吉の人たらしの手法をひと言でいえば、「気づかい」といえるだろう。低い身分出身の秀吉が這い上がっていくには、上からも下からも慕われることが必要だったのだ。秀吉の気づかいは女性関係にも見ることができる。秀吉には正室の「北政所(きたのまんどころ)」(おね)のほか、「淀殿(よどどの)」(茶々〈ちゃちゃ〉)をはじめとした多くの側室がいたが、秀吉が彼女らへ送った手紙からは秀吉の人間味あふれる素顔をうかがうことができる。ここでは秀吉が愛する女性たちに送った手紙のいくつかを紹介しよう(手紙は部分。現代かなづかいに変えている字句もあり)。

 ■「どうして手紙をくれないのだ?」〈北政所宛て 〉

「そなたより久しく御おとつれなく候(そうろう)まま、御心もとなくおもひまいらせ候て、わざと筆をそめ申し候(中略)ねんごろに返事まち申し候」
「あなたから長らく手紙がこないので不安になって書いている。心から返事をお待ちしています」

 天正18年(1590)の小田原攻めの最中、陣中から正室・北政所に送ったもの。返信を懇願している文面だ。このとき秀吉は54歳、北政所は43歳(諸説あり)で、秀吉の愛妻家ぶりがうかがえる。北政所は秀吉が織田信長の足軽組頭だった頃に結婚し、以後、秀吉の天下取りを支えた。秀吉没後は剃髪して高台院と称し、政治の表舞台から身を引いた。

 ■「添い寝を楽しみにしておれよ」〈淀殿宛て〉

「廿日(はつか=天正18年9月20日)頃に必ず参り候て、若ぎみ抱き申すべく、その夜さに、そもじをも側に寝させ申し候べく候。折角(せっかく)御まち候べく候」

「20日には必ずそちらに行って、若君を抱っこしよう。その夜にはお前さまも側に寝かせるから楽しみに待っておれよ」

 小田原北条氏を滅ぼしたのち、秀吉は奥州(東北)を平定。天正18年9月1日に京都にめでたく凱旋した。淀城(京都市伏見区)に住む側室の淀殿と愛児の鶴松(つるまつ=淀殿が生んだ男子)に一日も早く会いたくて送った手紙。愛情とユーモアにあふれた内容だ。淀殿は近江の大名・浅井長政と織田信長の妹・お市の長女で、幼名は茶々といった。秀吉より32歳年下で、秀吉の没後は豊臣家家中を支配する。大坂夏の陣では真田信繁(幸村)ら諸国の浪人を集めて籠城し、大坂城と命運をともにした。

 ■「子供はほしくない」〈北政所宛て〉

「又にのまるとの(二の丸殿)、ミもち(身持=懐妊)のよし、うけ給(たまわり)候、めてたく候、われわれは小(子)ほしく候はす候まま、其心へ候へく候、大かう(太閤)こ(子)ハ、つるまつ(鶴松)にて候つるか、よそへこ(越)し候まま、にのまる(二の丸)殿はかりのこ(子)にてよく候はんや」

「二の丸殿(淀殿)が懐妊したという知らせを受けた。めでたいことだ。自分は殊更に子は欲しくない。この太閤の子には鶴松がいたが、もうこの世にはいない。今回の腹の子は二の丸殿(淀殿)だけの子である」

 淀殿が生んだ鶴松は天正19年8月に3歳(満2歳)で夭折し、秀吉は大いに嘆き悲しんだ。そののち秀吉は中国・朝鮮征服の野望を実行に移し、朝鮮へ出兵。この手紙は文禄2年(1593)5月22日に、朝鮮出兵の本営である名護屋(佐賀県唐津市)から送った手紙だ。内容はこうだ。秀吉は淀殿の懐妊の知らせを受けて跳び上がりたいほど嬉しかったに違いない。しかし子を産んでいない北政所の心情に配慮して、わざと悪びれている。淀殿は男子を出生、「拾い」と名付けられた子がのちの豊臣秀頼である。

 北政所宛豊臣秀吉自筆書状(縦28.0㎝×横90.5㎝。佐賀県重要文化財。佐賀県立名護屋城博物館蔵)/明の勅使が謝罪のために名護屋に来て講和条件を示したこと、その一方で秀吉が朝鮮半島に城の建設を命じていることを北政所(おね)に報告している。書状の右側が追伸部分で、「この間はすこしかいき(咳気)いたし候」と、風邪をひいたことや淀殿の懐妊について書いている。

 ■「逢いたくないなら来る必要はない」〈加賀殿宛て〉

「あすの晩に御こし候べく候。久しくあい申さず候まま、さてさて申し候。そなたへ参りたく候へども、聚楽屋敷まわりへ行き候事なり申さず(中略)我ら我らに逢いたく候はずば、無用にて候」

「明日の晩に(自分の宿所)にお越しくだされ。そなたのところへ参りたいのだが(加賀殿が住む)聚楽第には行けないのだ。(中略)もしわしに逢いたくないというなら来なくてもよいぞ」

 第一次朝鮮出兵(文禄の役)が和議によって一段落した頃、側室のひとり加賀殿(まあ)に宛てた手紙。加賀殿は加賀の大名・前田利家の三女で、秀吉ははじめ人質として預かっていた姫をいつのまにか側室にしていた。加賀殿は秀吉よりも35歳下で、この手紙の頃、秀吉は58歳、加賀殿は23歳である。若い恋人にわざとすねてみせる初老の男というところだろうか。以前も秀吉は、加賀殿宛てに、「義理の文(ふみ)給はり候(中略)恨みとも存じ申さず候」(愛情のない義理いっぺんの手紙を受け取ったよ、でも別に恨んではいないからね)という手紙を書いている。

 これらの秀吉の手紙からは、若い側室に愛情を振りまきながらも、正室の北政所にはつねに気をつかっていたことがわかる。実際に、北政所宛の手紙は多く、秀吉が心から打ち解けることができたのは「糟糠の妻」だけだったのかもしれない。

 取材・文/内田和浩
1962年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経てフリーランスの編集者・ライターとして独立。日本史や仏教美術関連を中心に執筆。著書に『坂東三十三カ所めぐり』『ふるさとの仏像を見る』など。


 2020.5.12日、京都市埋蔵文化財研究所が、豊臣秀吉(1537~98年)が死去する前年の慶長2(1597)年に築いた「京都新城(しんじょう)」の石垣と堀の跡と思われる遺構が京都御苑(京都市上京区)の一角内にある「京都仙洞(せんとう)御所」で見つかったと発表した。堀の跡からは、豊臣家の家紋「五七桐」の金箔(きんぱく)瓦も出土した。文献などから存在は明らかになっていたが、新城に関する資料はほとんどなく、どのような建物だったかを示す物証もなかったため実態不明の「幻の城」だった。専門家は「日本の城の発掘で今世紀最大の発見」と言う。

 新城は、大坂城(大阪市)や聚楽第(じゅらくだい)(京都市)などの城を作った秀吉が最後に作ったとされる。当時の公家の日記などによると正式名称はなく、「太閤御屋敷」などと呼ばれていた。京都御所の南東にあり、屋敷の範囲に触れた公家の山科家の日記「言経卿記(ときつねきょうき)」に「太閤御屋敷」と記載があるなど新城の存在は知られていたが、史料は少なく遺構は見つかっていなかった。日記の記述によると、敷地面積は東西約400m、南北約800mの甲子園球場約8個分にあたる約32ヘクタール。息子の秀頼が官位を授けられる際に滞在したほか、秀吉が1598年に死去した後は正室の北政所(きたのまんどころ)(高台院(こうだいいん))が利用した。敷地は徐々に縮小し、1624年に北政所が死去した後に完全に壊されたとされる。
 秀吉は95年、おいの秀次を謀反の疑いで追放し、京都御所の西側にあり、秀次に譲った邸宅「聚楽第(じゅらくだい)」を取り壊していた。97年に息子の秀頼を伴い新城に入り、秀頼は御所で元服したとされる。翌98年に秀吉が伏見城で亡くなると、秀頼は遺言に従い大坂城に移り、新城には秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ)が住んでいた。1600年に関ケ原の戦いが起きた直前に新城の石垣や門などが壊され、27年には跡地に譲位後の後水尾天皇が住む仙洞御所が造られた。





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