天正十四年(一五八六)から翌年にかけて九州征伐が行われ、秀吉は島津氏に圧勝した。戦場となった豊後では百姓らが捕縛され、九州各地の大名の領国へ連れ去られた。捕縛された人々は労働に使役させられるか奴隷として売買された。秀吉は人の移動によって耕作地が荒れ果て、戦後復興が困難になることを危惧し、諸大名に対して人の連れ去りや売買を禁止した。そこでは、奴隷商人が関与していたのは疑いなく、日本人の奴隷商人だけでなく、ポルトガル商人の姿もあった。

 天正十五年(一五八七)四月、島津氏を降参に追い込んだ秀吉は、意気揚々と博多に
凱旋(がいせん)した。そこで、秀吉が目の当たりにしたのは、日本人奴隷が次々とポルトガルの商船に乗せられ、運搬される風景だった。そのような事態を受けて、秀吉は強い決意を持って、人身売買の問題に取り組んだ。天正十五年(一五八七)六月、秀吉は日本人奴隷の扱いをめぐって、コエリョ(イエズス会日本支部副管区長)と口論している。(「イエズス会日本報告集」))。まず、秀吉がコエリョに問うたのは、「なぜポルトガル人が多数の日本人を買い、本国に連行するのか」ということだった。秀吉の問いに対してコエリョは、最大の理由として「日本人が売るから、ポルトガル人が買うのだ」と答えた。そして、「パードレ(司祭職にある者)たちは日本人が売買されることを大いに悲しみ、これを防止するために尽力したが、力が及ばなかった」と述べた。さらに、「もし秀吉が日本人の売買の禁止を望むならば、諸大名らに命じるべきだ」とし、「秀吉の命に背く者を重刑に処すならば、容易に人身売買を停止することができる」と発言をしている。コエリョは日本人奴隷の売買については、日本人が売るから悪いとし、どうしても止めたいのならば、秀吉が禁止すればよいと突き放した。つまり、宣教師たちでは人身売買が解決できない問題であること、そして無関係であることを主張したことになる。秀吉は日本人が奴隷として海外に連れ去られることを許さなかった。秀吉の詰問によって、イエズス会は苦境に立たされた。

 1555年の時点で、マカオ発のパードレ・カルネイロの手紙は、多くの日本人が、大きな利潤と女奴隷を目当てにする、ポルトガル商人の手でマカオに輸入されている、と報じている。ポルトガル人の種子島への渡来が1543年なので、日本からの奴隷輸出が対ポルトガル貿易の初期から行われていたことが伺える。そうだとすると、16世紀末までの50年近い間、奴隷輸出が行われていたということになる。50万という数字の根拠は分からないが、秀吉の朝鮮出兵に関する以下の出来事も知ってほしい。
 1598年のイエズス会による奴隷売買者破門令の決議は、こう告発していた。日本人が無数の朝鮮人を捕虜として日本に連行し、ひどい安値で売り払っている、特に長崎一帯の多くの日本人は、ポルトガル人に転売し巨利をあげるために、日本各地を廻って朝鮮人を買い集め、また朝鮮の戦場にも渡って、自ら朝鮮人を略奪した、と。