二条城会見での秀頼の対応考

 更新日/2023(平成31.5.1日より栄和改元/栄和5).1.20日



【京都の豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)の伏見港(京都市伏見区)整備考】
 文禄3(1594)年、伏見城の築城にあわせ、伏見区内を流れる宇治川沿いに伏見港(京都市伏見区)が整備された。慶長19(1614)年には、京都の豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)らによって京都中心部と同区とを結ぶ高瀬川が掘削され、京都と大坂をつなぐ水運として飛躍的に発展。明治期も蒸気船の就航で活気にあふれたが、戦後の陸上交通の発達で廃れていった。伏見区内の宇治川河川敷にある欧州の城のような、かわいらしい塔。昭和4年に建設された「三栖閘門(みすこうもん)」だ。宇治川とその支流の水位差を調節する重要な役割を果たしてきた水門で、水運が途絶えた現在でも、当時を語るシンボルとしてたたずむ。

【家康の孫である千姫(当時7歳)が秀頼(当時11歳)に輿入考】
 1603(慶長8)年7月、家康の孫である千姫(当時7歳)が秀頼(当時11歳)に輿入れする。家康は秀頼の大舅(しゅうと)の立場になり、秀頼の「後見人」かつ「大舅」という地位を手にした。

 慶長10(1605)年4月、将軍職を秀忠に譲り、徳川家の世襲制を宣言した。

 慶長10(1605)年4月、家康が秀忠に将軍職を譲るタイミングのときのこと、秀忠は将軍宣下(せんげ)を受けるために上洛。この将軍就任の祝賀という名目で、家康は秀頼に上洛を要望した。徳川家に臣従せよというワケである。交渉役は、秀吉の正室/高台院(北政所、おね)。これに激怒したのが秀頼の母、淀殿。『当代記』には、怒りの様子が、次のように記録されている。「秀頼公母台、是非ともその儀これあるまじく、もしたってその儀に於ては、秀頼を生害せしめ、その身にも自害あるべき由」。家康と秀頼の会見は流れた。秀忠が将軍職に就任する4日前、13歳の秀頼は右大臣に昇ることが決定していた。秀忠の将軍就任の上洛には譜代・外様の大名40名強が付き従った。この時点で徳川家の勢いを止めることなど不可能。とうに潮目は変わっていた。

【二条城会見での秀頼の対応考】

 慶長16(1611)年3月、後陽成(ごようぜい)天皇の譲位に関連して上洛した家康は、秀頼の参上を要求。場所は京都の二条城。秀頼に対して臣従を突き付けた。これを説得したのは豊臣恩顧の諸大名の加藤清正、浅野幸長、片桐且元(かたぎりかつもと)など。『名将言行録』では、秀吉の子飼衆で忠臣、加藤清正の言葉で、秀頼は心を決めたと記録されている。「このたび秀頼公がご上京なさらなければ、世の中では心の弱い君と申して、ご威光を失ってしまうでありましょう。-(中略)-拙者は終始御輿につき添い、また二条城においても、万一の謀計などがあれば、幾万人の兵がいようとも、片端から蹴殺して、ふたたびこの城にお連れ申します」(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)。この言葉で秀頼は二条城会見を承諾。家康は、秀頼の上洛に際して諸大名らに出迎えを禁じた。そのため京都の入口で出迎えた大名は4名(加藤清正、浅野幸長、藤堂高虎、池田輝政)のみとなった。行列がスタートし加藤清正、浅野幸長は伏見から徒歩で付き従う。『名将言行録』によれば、万一のために300の兵を隠して伏見に留め、残り200の兵は京都の中を徘徊させていた。予め急変の合図を決めておき、その場合には一気に加勢する算段だった。慶長16(1611)年3月28日、徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見。秀頼が二条城へ入る際も、御輿の両脇には加藤清正、浅野幸長が変わらず警護。また、付き従った足軽たちもただの兵卒ではない。普段はひとかどの武士が足軽として二条城へ入った。家康は秀頼を丁寧に庭先まで出迎えた。その場にいた30名ほどの大名たちも、玄関脇の白洲で平伏した。家康は慶長8(1603)年の新年の賀を最後に秀頼と会っていなかった。当時は11歳。二条城会見の際には秀頼19歳。8年の月日が過ぎていた。御輿から降り立った秀頼は予想を裏切る偉丈夫だった。一説には身長は六尺(180㎝)超えていた。淀殿は当時のというか現代の女性にしてもだが高い部類の167㎝。息子が190㎝になってもおかしくはない。淀殿は美形と名高い織田家出身。淀殿の母、お市の方は絶世の美女。息子が見目麗しいのも突然変異ではない。秀頼は落ち着いていた。威風堂々と、太刀を木村重成(しげなり)に持たせて、歩を進める。木村重成という武将は超イケメン。ここで、家康の感想は、「秀頼は愚魯(ぐろ)なる人と聞きしに、一向に然(さ)なく賢き人なり。なかなか、人の下知など受くべき様子にあらず」(前川和彦著『秀頼脱出』より一部抜粋)。「天下人だけが自然に身にまとった悠揚迫らぬ雰囲気と、二言三言会話してみてわかった、その賢さにも舌を巻き、さすがの家康も気圧されたという」(歴史の謎研究会編『誰も知らなかった顛末 その後の日本史』より一部抜粋)。家康は庭先で出迎えたのち館へは先に入る。その後を秀頼が続いた。家康は二条城の中でも最高の座敷となる「御成の間(おなりのま)」へ秀頼を通し、対等な挨拶を促す。秀頼はこれを固辞。相手は年長で、官位も上。そして大舅。こうして、家康が「御成の間」に入ることに。結果、家康が上席になっての挨拶となった。二条城会見の宴席は吸い物のみ。これは、秀頼に色々気遣いがないようにと、配慮されたものだった。宴席には高台院の姿も。秀頼の傍で相伴したという。「御成の間」での突発的なことにも動じず、立ち居振る舞いも見事。立派に成長した秀頼を前に、家康は一体、何を思ったのか。この二条城会見の直後、家康は西国大名に江戸幕府に対する起請文を出させている。なお、翌年には東国大名にも。成長した秀頼を目の当たりにし、その才を感じ取った家康。二条城会見は、まさに豊臣一族の運命を決めるものとなった。こうして、歴史は「方広寺鐘名事件」そして「大坂の陣」へ。豊臣一族滅亡に向けて動き出す。その頃、京の町にはある落書きがなされて、有名になって
いた。「御所柿は ひとり熟して 落ちにけり 木の下にゐて 拾ふ秀頼」。二条城会見の時点で徳川家康は70歳を超えていた。一方の秀頼は19歳。『名将言行録』には二条城会見の後日談が記録されている。二条城会見の日、家康は付き従っていた加藤清正に刀を与える。このとき、清正は虚空に目を向けて頂戴したというのだ。これに気付いた家康は、その方向に「愛宕山(あたごやま)」があることに思い至り、板倉勝重にその理由を調べさせる。すると、清正は密かに、「二条城で秀頼に災害がないように」と、17日間護摩を焚いて祈願していたというのだ。その忠儀に家康は感心した。と、同時に、危機感を募らせた。秀頼にはその気がなくても、周囲がそれを許さない。祀り上げられる存在は、徳川家にとっては不要。秀頼は立派に成長し、民衆は喜んだ。豊臣恩顧の大名は忠義に厚く、その恩を忘れなかった。そうして、秀頼には柔軟性があった。淀殿のように周囲が見えないこともなく。カリスマ性を備えていた。ただ、時代の流れに噛み合わなかった。人は、それを「運命」と呼ぶ。

 Dyson 尚子
 日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。


 その後の経緯は、「」に記す。





(私論.私見)