文禄の役、慶長の役考



 更新日/2023(平成31.5.1日より栄和改元/栄和5).1.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「文禄の役、慶長の役考」をものしておく。

 2017.2.23日 れんだいこ拝


【秀吉とバテレンの盟約】
 1586.5.4日、聖モニカの祝日、ガスパル・コエリョが大阪城を訪れ、秀吉と面会した。秀吉が次のように語っている。
 「日本国内を無事安穏に統治したく、それが実現した上は、この日本国を弟の美濃殿(羽柴秀長)に渡し、予自らは専心して朝鮮とシナを征服することに従事したい。(中略)予はシナ人を支配する以外には彼らに何も求めず、予自身はシナには居住せず、彼らの領土を奪うつもりはない。シナを征服した暁には、その地の至る所にキリシタンの教会を建てさせ、シナ人はことごとくキリシタンになるように命ずるであろう」。(「完訳フロイス日本史4」、中公文庫)
(私論.私見)
 この一文が何ゆえ貴重なのかというと、文禄の役、慶長の役の裏舞台に「秀吉とガスパル・コエリョの面会」があり、秀吉が相当に入れ知恵されている様子が分かるからである。但し、もっと直接的な情報があれば欲しい。恐らく秘されていると思う。

【天正遣欧使節団が帰国し秀吉に面会】
 1586.4、リスボンを出発、帰路につく。マカオに着いたところで、日本から豊臣秀吉が伴天連追放令(1587)を発したとの報に接し、一行はインド副王の使節という資格で日本入国を許可され、1590(天正18).7.21日(6月)、一行は長崎に帰着した。日本とヨーロッパを結ぶ役割を果たしたことは重要である。厳しい現実が待ち受けていたが、1591(天正19).3月(閏1.8日)、ヴァリ二ャーノに伴われて上洛し、聚楽第において豊臣秀吉に報告した。この時、西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏している。
 
 使節団は、西洋の様々な利器を持ち帰っていた。中でも、西洋式活版印のグーテンベルグ印刷機は日本のそれまでの印刷技術を超えており日本における印刷文化に大きく貢献した。ローマ字や和文で綴られた「ドチリーナ・キリシタン」(1592)、「日葡辞書」、「伊曽保物語」など「キリシタン版」と呼ばれる多くの印刷物が刊行された。

 天正遣欧使節団がヴァリ二ャーノに伴われて秀吉に面会したことは、バテレン追放令下であることを考えると、追放令の規制緩和である。これが明国出兵の伏線となって行ったと考えられる。

【北野天満宮大茶会考】
 1587.10.1日、秀吉が北野天満宮で大茶会を催した。この大茶会は、神社の境内で行うことにしたところに意味があった。つまり、この茶会出席が一種の踏み絵となっていた。「朝鮮出兵触れ書き」は次の通り。
 「右のごとく仰せ出でられ候儀は、侘び者を不便に思し召す儀候ところ、このたび罷り出で候わず者は、向後においてこがし(麦、米の焦げ粉)でも立て候事、無用との御意見に候、罷り出でざる者の所へ参り候族(やから)までも、同然のぬる者たるべき事」。

 北野大茶会に参加してキリシタンと手を切ったことを証明しない者は、今後茶の湯に関わってはならぬ。その者と付き合っている者も同じだと、お触れしている。

【「秀吉の朝鮮出兵の動機」考】
 秀吉は急遽朝鮮出兵を打ち出す。肥前の名護屋に本陣を構え、1592年ー96年、文禄の役、1597ー98年、慶長の役に出兵する。文禄の役では、第一軍を小西行長、第二軍を加藤清正を大将とする15万8700名が派兵された。慶長の役は全軍14万余の兵力が投入された。二度の戦争で日本軍は完敗し、結局のところ朝鮮出兵が豊臣政権の命取りになった。

 秀吉の朝鮮出兵の動機については諸説あり、通説は「朝鮮、明の入貢と貿易復活を求めたところ拒絶された故の外征であった」としている。が、スペインやポルトガルの宣教師の入れ智恵であったという説もある。コエリは、スペインに船を出させ、共同で明を征服しよう、と考えた。しかし、コエリョが秀吉を恫喝するような態度に出たので、独力での大陸征服に乗り出したという説がある。その際、シナ海を一気に渡る大船がないので、朝鮮半島経由で行かざるをえなかったということになる。

 1593年(文禄3)年、朝鮮出兵中の秀吉は、マニラ総督府あてに 手紙を送り、日本軍が「シナに至ればルソンはすぐ近く予の指下にある」と脅している。いずれにせよ、秀吉の朝鮮出兵政策の陰に宣教師達の巧言があったことが推定でき、秀吉は甘言もしくは挑発にまんまと乗せられたことになる。
 1592年、朝鮮に出兵した(文禄の役)。初期は朝鮮軍を撃破し漢城を占領したものの、しだいに朝鮮各地での義勇軍の抵抗や李舜臣率いる朝鮮水軍の活躍、また明から援軍が送られてきたことで、戦況は悪化して休戦した。しかし、講和が決裂したため、1597年、再び朝鮮に出兵した(慶長の役)。

【文禄の役、慶長の役考】
 「伝説の学習参考書」が全面改訂を経て「いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編」、「いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編」として生まれ変わり、現在、累計17万部のベストセラーになっている。同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が「文禄・慶長の役」を解説している。「なぜ豊臣秀吉は朝鮮出兵を決意したのか」その他を参照する。
 織田信長が「本能寺の変」によって非業の死を遂げ、豊臣秀吉が後を引き継ぎ天下統一を果たす。長い戦乱の世がようやく終わったと誰もが思っていたところ、天下統一を果たし天下人となった秀吉は「海の向こうの朝鮮半島へ新たな戦い」を挑む。「秀吉がなぜこのような構想を抱くに至ったのか」についてはいまだ謎に包まれている。

 秀吉は、1592年から1598年にかけて2度にわたって「文禄・慶長の役」と呼ばれる外征いわゆる「朝鮮出兵」を指令している。「文禄の役」が1592~1593年、「慶長の役」が1597~1598年。目的は「明国(現在の中国)の征服」だった。出兵に際して経由地となる朝鮮に日本への「服属」と「明への先導」を命じ、従わなければ討つと伝達したことで朝鮮側の反発が起き、「明国までの道を貸すように」という要求も拒まれ、朝鮮との戦いになった。戦場となった朝鮮半島では多くの被害が生じた。「文禄の役」では、序盤は戦力や装備に勝る日本軍が快進撃を続けた。朝鮮軍の抵抗もあったが、わずか1カ月足らずで首都「漢城」(現在のソウル)を落とした。さらに2カ月後、小西行長が「平壌」(ピョンヤン)まで進撃、加藤清正は現在の北朝鮮の最北部まで侵入して日本側が朝鮮全域を席巻した。その後、朝鮮と深い関係にあった明からの援軍が押し寄せ、朝鮮側が義兵(義勇軍)を組織し、ゲリラ戦を展開して抵抗した等により戦線が膠着した。勝負はつかず漢城の日本軍が窮地に追い込まれたのを機に「和議」を結ぶこととなり日本は撤退した。しかし、いったんは成立した講和は行き違いが生じたことで決裂し再び遠征が始まる。これが「慶長の役」である。戦いの最中に秀吉が死去し、これを機に遠征は急きょ中止となり戦いは終わった。

 加藤清正の家臣が虎に惨殺されたことから虎退治が始まり、 「退治した虎」は塩漬けにされ秀吉に献上された。虎の肉は「滋養強壮」に抜群の効果があるとされ非常に珍重されていた。秀吉は虎の肉を非常に気に入り、その後は朝鮮在陣の各大名にもっと虎を送るよう「猛烈にリクエスト」している。その結果、加藤清正のほかに、島津義弘、鍋島直茂、亀井茲矩、松浦鎮信、伊東祐兵ら多くの大名が続々と虎を献上した。吉川広家は「生け捕り」にも成功している。この頃、秀頼が誕生している。

 これを推進した歴史モーターが研究されることが少ない。僅かの研究の通説は、「秀吉の錯乱や妄想による突拍子もない思いつき」、「恩賞として家臣に与える土地が不足していたため版図を広げようとした」、「日明貿易の再開を主眼とする東アジア交易の独占支配」等々と理由づけしている。実際は周到な準備のうえで実行された、壮大かつ本気の構想だった、のではないのか。「残念ながら決定的な動機はわかっていない」。辛うじて見えて来た線は次のようなものである。

 「明国侵攻を最初に発案した人物は秀吉の主君だった織田信長」で、信長は「貿易の重要性」を早くから認識しており、対明貿易の復活に向け、朝鮮にその仲介を依頼する交渉を続けていた。しかし、思うような反応を得られず、信長は安土城を築城しているころ、酒宴で「将来は明国に侵攻する」と口にしたともいわれている。それを暗示したのがキリスト教宣教師たちであった。信長は彼らから話を聞き、世界の事情、特にアジア地域の情勢にかなり精通していた。その信長が非業の死を遂げ、天下統一を受け継ぐ形になった秀吉に又もや「明国征服を唆した」者がいる。阪城には、秀吉が愛用した「三国地図扇面」が残されている。そこには朝鮮と明の国割りが地図で示されていて、これが秀吉の「大陸制服プラン」だったと考えられている。

 朝鮮での戦いが終わったあと、日本では戦いの最中に生じた、加藤清正らの前線で死闘を演じた「武士団」のグループ(いわゆる「武断派」)と、石田三成ら後方で軍政を担当していた「兵站(へいたん)官僚」のグループ(いわゆる「文治派」)との軋轢が鮮明となり、豊臣家は家臣分裂する。これに「文禄・慶長の役」が大きな陰を落としていた。
(私論.私見)
 豊臣家滅亡の主因こそ「文禄・慶長の役」であろう。「なぜ豊臣秀吉は朝鮮出兵を決意したのか」が、これを誘導したのが織田信長以来の「キリスト教宣教師たち」であったと暗喩している。この観点が実に興味深い。

 2017.2.23日 れんだいこ拝

【朝鮮出兵意図考】
 「なぜ豊臣秀吉は『朝鮮出兵』を決意したのか なんと『あの武将』が発案者だった?」。
 朝鮮出兵は「明国が狙い」だった?

 Q1. 「文禄・慶長の役」って何ですか?

 国内統一を果たし天下人となった豊臣秀吉が、全国の大名を大量動員し、1592年から1598年にかけて2度にわたって朝鮮国(現在の韓国、北朝鮮)に攻め込んだ戦争です。目的は「明国(現在の中国)を征服する」ことで、最初の1回目の戦いを「文禄の役」(1592~1593)、2回目の戦いを「慶長の役」(1597~1598)と呼びます。

 Q2.「朝鮮征服」ではなく「明国が狙い」だった?

 そうです。秀吉の目的はあくまで「明の征服」でした。しかし、出兵に際して経由地となる朝鮮に日本への「服属」と「明への先導」を命じ、従わなければ討つと伝達したことで朝鮮側の反発が起き、「明国までの道を貸すように」という要求も拒まれ、朝鮮との戦いになりました。戦場となった朝鮮半島では、多くの被害が生じました。

 Q3. どんな戦いが繰り広げられたのですか?

 「文禄の役」では、序盤は戦力や装備に勝る日本軍が快進撃を続けました。朝鮮軍の抵抗もありましたが、わずか1カ月足らずで首都「漢城」(現在のソウル)を落とします。さらに2カ月後には小西行長が「平壌」(ピョンヤン)まで進撃、加藤清正は現在の北朝鮮の最北部まで侵入して、日本側が朝鮮全域を席巻しました。

 Q4. その勢いのまま明に攻め込んだのですか?

 いいえ、途中で停滞しました。当時、朝鮮と深い関係にあった明からの援軍が押し寄せたからです。朝鮮側が義兵(義勇軍)を組織し、ゲリラ戦を展開して抵抗したことや、朝鮮半島の南部は山岳地帯で、玄界灘から続く長い補給路を維持するのに苦労したことも日本側の勢いが続かなかった大きな要因でした。

 Q5. では、日本は負けたのですか?

 勝ち負けはつかず、漢城の日本軍が窮地に追い込まれたのを機に「和議」を結ぶこととなり、日本は撤退しました。しかし、いったんは成立した講和は行き違いが生じたことで決裂し、再び遠征が始まります。これが2回目の「慶長の役」です。

 Q6. 「慶長の役」も途中で中止されたのですよね?

 はい。戦いの最中に秀吉が死去します。これを機に遠征は急きょ中止となり、戦いは終わりました。

 Q7. 朝鮮出兵では、「加藤清正の虎退治」が有名ですね。

 そうですね。発端は、加藤清正の家臣が何者かに惨殺されたことです。「犯人が虎だ」と判明するや、彼は自慢の槍でその虎を追い込み、一騎打ちでこれを仕留めたと伝わっています。ただ、実際に使った武器は槍でなく、鉄砲を用いた集団での巻き狩りだったようです。

 Q8. 「退治した虎」はどうしたのですか?

 塩漬けにされ、秀吉に献上されました。秀吉は虎の肉を非常に気に入ったらしく、その後は朝鮮在陣の各大名にもっと虎を送るよう「猛烈にリクエスト」しています。その結果、加藤清正のほかに、島津義弘、鍋島直茂、亀井茲矩、松浦鎮信、伊東祐兵ら、多くの大名が続々と虎を献上しました。吉川広家は「生け捕り」にも成功しています。

 Q9. まさに「虎退治ブーム」ですね

 各大名とも点数稼ぎに必死でした。明国征服はおろか、朝鮮半島で苦戦を強いられる戦況下で、何とか恩賞にありつこうと、各大名はこうした「秀吉のご機嫌取り」に走ったのです。虎の肉は「滋養強壮」に抜群の効果があるとされ、非常に珍重されていました。くしくも彼の息子、秀頼が誕生したのはちょうどこの時期と重なっています。

 秀吉の意図は「貿易の独占支配」?

 Q10.秀吉が明に攻め込もうとした動機は何だったのですか?

 残念ながら、決定的な動機はわかっていません。「恩賞として家臣に与える土地が不足していたため」ともいわれますが、秀吉の具体的な理由を示す当時の記録はまだ見つかっておらず、現在でも諸説が挙げられ、議論が続いています。ただし、「文禄の役」後の和平交渉に着目してみると、その中の一文から秀吉の「秘められた意図」をうかがい知ることができます。

 Q11.秘められた「秀吉の意図」とは?

 それは「東アジア交易の独占支配」です。秀吉が提示した要件に、「日明貿易の再開」がありました。彼の視野には、高価な明の特産品の交易で莫大な富が生み出される光景が映し出されていたのでしょう。室町幕府の衰退により、日明間の貿易は長く途絶えていましたが、この貿易は利潤が大きく、1回の往復で元手の数倍~数十倍もの利益を得られたといわれます。ただ、こうした「貿易のうまみ」にいち早く気づいたのは、秀吉が最初ではありません。実はもっと以前から「明の征服」を思い描いていた「ある人物」がいたのです。その、「明国侵攻を最初に発案した人物」とはズバリ、秀吉の主君だった「織田信長」です。

 Q11.「明征服の最初の発案者」は織田信長だった、と?

 はい。信長は「貿易の重要性」を早くから認識しており、対明貿易の復活に向け、朝鮮にその仲介を依頼する交渉を続けていました。しかし、思うような反応を得られず、しだいに「武力侵攻」を意識するようになります。信長は安土城を築城しているころ、酒宴で「将来は明国に侵攻する」と口にしたともいわれています。信長は周囲のキリスト教宣教師たちから話を聞き、世界の事情、特にアジア地域の情勢にかなり精通していました。事の細かな真偽はともかくとしても、家臣たちに「明国征服」の話をしていたことはあったのでしょう。もちろん、まだ日本国内でさえ平定していなかった頃の話。家臣たちも、当時は「話半分」で聞いていたものと思われます。ところが、信長から天下統一を受け継ぐ形になった秀吉がその夢を実現させたとき、秀吉は「かつて信長が語っていた明国征服の話」を思い出したのではないでしょうか。現在、大阪城には、秀吉が愛用した「三国地図扇面」が残されています。そこには朝鮮と明の国割りが地図で示されていて、これが秀吉の「大陸制服プラン」だったと考えられています。

 豊臣も明も滅亡し、「新しい時代」へ

 朝鮮での戦いが終わったあと、日本では戦いの最中に生じた、加藤清正らの前線で死闘を演じた「武士団」のグループ(いわゆる「武断派」)と、石田三成ら後方で軍政を担当していた「兵站(へいたん)官僚」のグループ(いわゆる「文治派」)との軋轢が鮮明となり、豊臣家は家臣の分裂を止められないまま「関ヶ原の戦い」に突入します。一方、荒廃した朝鮮半島では復興に膨大な時間を費やし、明は戦いで多くの将兵を失ったためかその後急速に国力を失って、やがて北方の異民族により滅ぼされ「清(しん)」の時代へと移ります。豊臣家、そして明国の滅亡――。どちらも歴史の流れの中では止められない出来事であったのかもしれませんが、対外戦争によってその不幸に輪がかけられたことも、また否めない事実でしょう。「私欲による無益な戦い」が、戦った両者それぞれに「多くの不幸」をもたらすことになる──。豊臣秀吉の朝鮮出兵に学ぶ「最大の教訓」は、そのことではないでしょうか。

(私論.私見)
 本稿の手柄は、豊臣秀吉の朝鮮出兵決意の先駆けとして織田信長を持ち出しているところにある。痴呆症説、恩賞として家臣に与える土地不足説、その他様々な推理がされているが、織田信長説が興味深い。但し、本稿がそこで推理を打ち切っているところが凡庸過ぎる。織田信長をして朝鮮出兵を構想せしめた裏方教唆人こそ真犯人であろうに。本稿は少しだけ次のように臭わせている。「信長は周囲のキリスト教宣教師たちから話を聞き、世界の事情、特にアジア地域の情勢にかなり精通していました。事の細かな真偽はともかくとしても、家臣たちに「明国征服」の話をしていたことはあったのでしょう。もちろん、まだ日本国内でさえ平定していなかった頃の話。家臣たちも、当時は『話半分』で聞いていたものと思われます」。しかしここで止めてはいけない。「キリスト教宣教師の話」がどのようなものであったのか、ここを詮索せねばなるまい。

 2017.5.16日 れんだいこ拝

【豊臣秀吉の東アジア征服構想考】
 2023.10.11日、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役/渡邊大門実は明や朝鮮だけではなかった。あまりに壮大な豊臣秀吉の東アジア征服構想」。
 大河ドラマ「どうする家康」では、文禄の役の模様が描かれていた。私たちのイメージでは、豊臣秀吉のターゲットは明や朝鮮だけに思えるが、実際には東アジア征服構想を抱いていた。その点について、詳しく触れることにしよう。天正20年(1592)5月18日、秀吉は関白の豊臣秀次に対して、驚くべき構想を打ち明けた。それは、全部で25ヵ条の覚書となっており、なかでも次の4項目は重要だった(「尊経閣文庫所蔵文書」)。
関白秀次を中国の関白にする。そして、北京の周囲100ヵ国を与え、来年早々に出陣するように準備を整えること。
翌々年の1594年に後陽成天皇を北京に移し、周囲の10ヵ国を進上する。その範囲で公家衆にも知行を宛がい、後陽成が北京に移動する際には、行幸の形式を取る。
なお、この行幸計画は秀吉から前田玄以に命じられ、真剣に検討された(「徳富猪一郎氏所蔵文書」など)。

後陽成の行幸後の後継者と日本の関白秀次の後任問題について、後陽成の後には皇太子良仁親王か皇弟智仁親王のどちらかを天皇にする。

そして、日本の関白は、豊臣秀長の養子の秀保か宇喜多秀家にする。
朝鮮には、織田秀信(信忠の嫡子)か秀家を置く。肥前名護屋には、羽柴秀俊(後の小早川秀俊)を置く。

 この計画は実行に移されなかったが、玄以は後陽成に北京行幸のことを伝えたのだから、秀吉が真剣に検討していたのは疑いないだろう。さらに、秀吉は朝鮮の諸将らに対して、次のとおり朝鮮全域に配置を命じた(『土佐国蠧簡集』)。

①毛利輝元:慶尚道(288万7790石)

②小早川隆景:全羅道(226万9379石)

③四国衆(福島正則等):忠清道(98万7514石)

④毛利吉成:江原道(40万2289石)

⑤宇喜多秀家:京畿道(77万5113石)

⑥黒田長政:黄海道(72万8867石)

⑦加藤清正:咸鏡道(179万4186石)

⑧小西行長:平安道(179万4186石)

 朝鮮に出兵した大名も決してボランティアではない。秀吉は朝鮮全土を支配することを前提として、諸将に配置を命じた。とはいえ、朝鮮の人々の抵抗は激しく、結果として秀吉が提示した案も幻に終わったのである。

 天正20年(1592)の時点で、すでに秀吉の東アジア征服構想は披露されていた。秀吉は日明貿易の拠点だった寧波に移り、さらに天竺(インド)を侵略しようと考えていた(「組屋文書」)。

 天正18年(1590)には、琉球(沖縄)、高山国(台湾)、ルソン(フィリピン)にも服属と入貢を要求していたことが知られている(「尊経閣文庫所蔵文書」)。

 秀吉が明や朝鮮を侵略しようとした理由は諸説あるが、際限なき領土拡大欲があったのも事実だろう。しかし、他国に攻め込み、安定した支配を行うのは困難であり、秀吉の構想は実現しなかったのである。

 渡邊大門  株式会社歴史と文化の研究所代表取締役 1

 967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校講師。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社、『戦国大名の戦さ事情』柏書房など多数。

 2023.9.30日、「秀吉の無謀な朝鮮出兵に正室"ねね"は全力で反対した…夫婦の溝が広がっても貫き通した信念」。
 武家社会において妻は夫に黙って従ったと思われがちだが、夫に忖度しなかった女性もいた。歴史学者の北川智子さんは「秀吉の正室ねねは、秀吉の無謀な朝鮮出兵に強く反対し、義理の息子に当たる天皇に勅旨を出してもらうということまでした。側室の茶々が秀頼を産み、秀吉晩年の夫婦関係には溝ができたが、それでも、ねねの地位は不変だった」という――。
 ※本稿は、北川智子『日本史を動かした女性たち』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。
 ■社会的地位や収入を得たねねにも苦難の時が訪れる
 「人生山あり谷あり」という諺がありますが、ねねの人生にも、苦難が重なる時期があります。最高の官位を持っていても、北政所という立場があっても、それでも人生全てがうまくいくわけではありませんでした。長期戦になった小田原攻めのあいだ、ねねは茶々の産んだ鶴松の世話をしていました。城には他にも同居していた養子がおり、この時期まで、ねねは妻としてだけではなく母としても多忙な暮らしをしていました。本拠地を大坂としながらも、京都の別邸である聚楽第にも足しげく通い、行動範囲を広げます。ねねが京都に滞在中の1590(天正18)年8月、秀吉は手紙を送りました。
 お姫の具合が少しよいと聞き、嬉しく思います。きっと良くなっているに違いないと思います。丁寧に看病してあげてください。また、若君は機嫌良くしていますか。手紙で返事をください。ここの状況が安定したら、すぐに京都に戻る予定にしています。 追伸 お姫は随分よくなっていますか。何度でも手紙で報告をください。油断はしていないとは思いますが、どうぞよく指示をだしてください。鶴松にも伝言を頼みます。 (原典は里見文書、『太閤書信』#74)
 ■織田信雄からもらった養女と待望の男子を続けて亡くす
 養女の1人、「お姫」が病気だったようです。回復に向かっていることを、喜ばしいと言いながらも、もっと手紙を送るよう催促しています。 彼女は、織田信雄の長女で1585年くらいに生まれています。すぐにねねと秀吉の養女になり、ねねのもとで他の養女とともに育てられていました。お姫はその後、徳川家康の後継ぎとなる秀忠と1590年に数え6歳で婚約しています。 織田の血を引き、豊臣の娘として育てられたお姫ですが、徳川に嫁ぐ頃になっても病気から回復せず、1591年、7歳で天折してしまいます。お姫は織田、豊臣、徳川の連立の要になるはずでした。お姫が生きていれば、歴史は確実に変わっていたでしょう。 さらに、お姫が亡くなってから1カ月も経たない8月2日、ねねが育てていたもう一人の子供で若君と呼ばれていた、秀吉と茶々の息子の鶴松が、病に冒されます。神社仏閣には病気からの回復を祈る祈祷のための寄進が送られ、即座に大規模な祈祷がなされました。しかし、その甲斐なく、3日後の8月5日に鶴松は息を引き取ります。数えで3つでした。ねねはどうやって立ち直ったのでしょうか。大きな悲しみの中、跡取りと縁組を駆使した政治的な計らいも狂い、ねね、秀吉、ともに想定外のシナリオを進むことになります。
 ■夫の朝鮮出兵に反対して天皇にも働きかけたねね  
 娘と息子を失った後、ねねと秀吉の夫婦の距離はだんだん広がっていきます。秀吉が、朝鮮半島、中国大陸へ進出する野望を抱くのですが、ねねはその計画に反対でした。しかし、秀吉はねねの諫言も聞き入れません。九州の博多は、大唐(当時の中国の明朝)と、そのさらに西にある南蛮国(ヨーロッパ)の船が着くところでした。秀吉はその博多に城を建設する必要があると判断し、築城を始め、さらに、高麗国(当時の朝鮮)に軍を送ります。しかし、ねねは、断固として他国への侵入に反対でした。ねねは義理の息子に当たる後陽成天皇にかけ合い、勅旨を出してもらいました。義理の息子というのも、秀吉は関白になる前に、近衛前久の養子になり、「名家の公卿の息子」として関白になった経緯があります。その後、近衛前久の娘の前子がねねと秀吉の養女となっており、前子は即位が確定した後陽成天皇と結婚しました。この縁組と結婚により、ねねは、天皇の義理母にもなっていたのです。時の天皇、後陽成天皇は、秀吉に宸翰(しんかん)(天皇の筆跡)を送ります。「高麗国へ向かうには、玄界灘の大波を越えていかなくてはならず、恐れ知らずです。どれくらい大勢の人間を派遣しても成功するとは思えないうえ、朝廷のためにも、天下のためにも、もう1度、考え直すべきではないか」と諭しています。「思いとどまって、案を考えるほうが、自分には喜ばしい」と、その思いを伝えるために勅使も派遣しました。
■ねねと秀吉の距離のさらなる広がり
 朝鮮に渡ろうというのは、どう考えても無謀なのです。それでも、秀吉は、諦めませんでした。秀吉は拠点として城を築いていた九州の名護屋(現・佐賀県唐津市)に茶々を呼びよせました。ねねは大坂に残って手紙を出し、返信を待つ日々が続きます。その中で、1592(文禄元)年6月20日、秀吉からの返信が届きました。朝鮮半島への航行を翌年の3月に控え、海の波が落ち着く春まで待つので名護屋にて年越しをするという報告です。小田原の時も長丁場でしたが、今回は、6月の時点で次の春まで待つというのですから、相当長い期間ねねのもとを離れることになります。この時期、もはや一緒に暮らすことは、ねねと秀吉の生活の基本ではなくなっていました。ねねと秀吉は離れたまま春が訪れ、朝鮮へ進軍した後、1593(文禄2)年5月20日にねね宛に手紙が来ました。いつものとおり、戦況の報告から入ります。
 ■茶々の妊娠は喜ばしいが次はねねに育てさせないと書いた秀吉  

 明朝より謝りに勅使が名護屋へきたので、箇条書きにして渡しました。その事項に従い、存分に条件をのめば、そのまま許すことにし、明国、朝鮮、他国を任せ、凱陣する予定です。ただし、高麗に城の普請を指示しているので、今しばらく、時間がいります。7月か8月には必ずお目にかかる予定ですので、ご安心ください。最近は、少し風邪気味でしたので手紙を書きませんでした。これが風邪から回復してから初の手紙です。また、二の丸殿が妊娠したと聞きました。喜ばしいことです。自分は子供が欲しくなかったので、ご了承ください。太閣の子には鶴松がいましたが、死んでしまいましたので、二の丸殿の子とだけしておけばよいのではないでしょうか。 (原典は『豊大閤真蹟集』#36)

 追伸では、最近、手紙を送っていなかった理由を説明して許してもらいたいという雰囲気です。咳風邪で、その間は筆をとらなかったと。第2点は、二の丸、つまり、茶々が妊娠したことを聞き、めでたいと思うという内容なのですが、原文では「われわれは、子ほしく候はず候まゝ、その心得候べく候」という部分があり、自分は子供が欲しくなかったのだから、その点、了承してほしいというのです(ここにある古語の「われわれ」とは、我々ではなく、秀吉自身のことを指しています)。また、鶴松が他界したことを持ち出し、第1子の若君を亡くした悲しみを引きずっている様子も見せています。中国の明朝より謝罪があったので、朝鮮も一緒に許し、10月頃には必ず帰ると伝えています。しかし、この「詫び事」があったというのは、秀吉の誤解でした。朝鮮で大名たちが苦戦している中、秀吉には本当の戦況が伝えられていなかったのです。しかし、ねねには明朝より謝罪があったと報告されたので、明にも朝鮮にも勝ったように伝えられたのです。
■秀吉の「ゆるゆる抱き合って話をしよう」と甘い言葉
 1593(文禄2)年8月3日。九州の名護屋で戦況を眺めている秀吉から朝鮮出兵の状況が記された手紙がねねに届きました。
高麗の城の普請も出来つつあることを聞きました。兵糧も送るよう、さっそくしっかりと指示をしました。今月中には平定が整う予定ですので、9月10日頃に名護屋を発ちます。あなたのもとへは、25日か26日ごろには参ります。(26日には)早々と凱陣の準備をするので、安心していてください。あなたからの使いの者たちも8月10日頃に返します。また、二の丸殿(茶々)の妊娠もめでたいことです。やがて凱陣した時には、積もる話をしましょう。必ず9月中には凱陣します。 追伸 9月25日か26日には大坂へ参ります。どうぞお待ちください。ゆるゆる抱き合って、お話をしましょう。 (原典は『豊大閤真蹟集』#38)
 ■茶々が産んだ二人目の男子・秀頼が豊臣家の運命を変える
 「二の丸殿の妊娠もめでたいことです」とありますが、実は、この手紙が書かれた日に、茶々は男児を大坂城で産んでいます。その日のうちに、九州の名護屋まで情報が伝わるとは考えづらいので、茶々の出産はまだ知らされていないのでしょう。秀吉は、凱陣して9月25日か26日には、ねねと「ゆるゆるだきやい候て、物がたり申すべく候」と、甘い言葉を書き残しています。しかし、男児が生まれたことを聞いた秀吉は、この手紙でねねに伝えている9月の凱陣の予定を早めることになります。  1593(文禄2)年8月9日、松浦重政が使者を送り、茶々が男児を出産したことを報告しています。伝達が速かったので、ねねから重政にお礼を言うようにと伝えています。男児の名前は「拾(ひろい)」となりました。棄子、拾い子はよく育っという諺から縁起をかついでいます。産んだのは茶々でも、その子供の命名はねねがするように伝えているのです。正妻としてのねねの立場は不変でした。  1597(慶長2)年、戦い続ける日本軍を朝鮮に残し、秀吉は朝鮮に渡航しないまま京都に隠居のための城を造り、9月に秀頼という名を得た息子ひろいとともに転居しました。この城は京都新城と呼ばれ、内裏の仙洞御所内に造られたものです。
 ■秀吉の遺言によって一番多い遺産をもらったのは?  
 その翌年、1598年。ひろいは、数えで6歳になりますが、秀吉は病床に伏してしまいます。ねねは病床の夫に伏見で付き添い、早期回復のために、神社仏閣に祈祷を依頼します。ねねの相談役の1人、孝蔵主が書いた手紙に、秀吉の病の回復を願うねねからの伝言があります。この依頼を受け、本腰を入れて祈祷を行った醍醐寺の座主の義演には、その翌日、秀吉の具合が少しよいことが伝えられました。それでもまた数日後、秀吉の病状は悪化します。秀吉は遺言で、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家(八郎)、徳川家康を5大老として、まだ幼い秀頼が成長するまで、大坂城の天守閣を本拠地として5大老が協力して政権を維持するように、誓約書をしたためました。死が近いことは秀吉自身にも、誰の目にも明らかなことでした。そこで1598年、秀吉の死の直前、次の分配で、ねね、茶々、豪が遺産を取るように指示しました。
 ■ねねへの遺産は茶々や養女の豪より多かった
 ー万貫文 政所(ねね)に与える これは前もって渡す 七千貫文 茶々に与える 七千貫文 豪へ与える 合計二万四千貫文 (原典は『豊大閤真蹟集』井)

 ねねへの分配が一番多く、茶々、豪と続きます。公用のお金が、3人の女性に分配されていくのです。この後、公家や門跡にも形見分けの金銀が送られています。また、諸大名には総計で黄金300枚を配っています(『義演准后日記』第1273頁)。 秀吉、人生最後の大盤振る舞いです。(編集部註:一万貫文=現在の約12億円)  これまで、日本での通説では、ねねは豊臣側の人間であり、豊臣家の存続に加担するのが当然、あるいは、豊臣を裏切って徳川の肩を持ったとされてきました。しかし、豊臣家の一員である以上に名だたる武将たちの「母」として、財力のある「個人」として、「家」に属さない独立した唯一無二の存在として生きていました。ねねは1624(寛永元)年に病死します。彼女が死去したという報を受けると、徳川秀忠はねねの甥に宛てて、江戸から京都にお悔やみの手紙を書き送っています。ねねは生涯、人との繋がりを切ることがありませんでした。現実から目をそらさず自分で筆をとって手紙を書いて、離れて住む人たちとの交流を絶やさなかったのです。天下統一という波乱の時代を、ねねはしっかりと生き抜きました。
 北川 智子(きたがわ・ともこ)

 歴史学者 米国プリンストン大学で博士号を取得。ハーバード大学でLady Samuraiの歴史のクラスを教え、その内容は欧米や中東、アフリカを含む世界各地での講演活動へと広がっている。著書に『ハーバード白熱日本史教室』(新潮新書)、『異国のヴィジョン』(新潮社)などがある。






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