秀吉の晩年と往生考

 更新日/2023(平成31.5.1日より栄和改元/栄和5).1.20日



【豊臣秀吉の晩年】
 1598.8.18日、秀吉はその最中に五大老筆頭の徳川家康や秀頼の護り役の前田利家に後事を託して伏見城で没した(享年62歳)。

 秀吉の辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」。

 秀吉の死を契機に、慶長の役は終了した。この戦争で朝鮮の軍民と国土は大きな被害を受け、また日本側でも多くの武士が戦死し豊臣家と家臣の間に亀裂が走った。次の徳川時代では戦争によって悪化した日朝関係の改善が外交の課題の一つとなった。 

 1600(慶長5)年、日本伝道はイエズス会に限るとした回勅は撤回されフランシスコ会、ドミニコ会、アゴスチノ会などが宣教師を派遣し、日本におけるキリスト教伝道が活発化した。これに対する弾圧も激しくなった。1600年の関が原の戦いでクリスチャン大名の小西行長が破れ、その領土が加藤清正の手に渡るとキリスト教弾圧が激しくなった。



 その後の経緯は、「」に記す。





(私論.私見)