鳥居元忠考

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).6.22日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「宇喜多直家-秀家考」をものしておく。

 2019(平成31→5.1栄和改元).6.22日 れんだいこ拝


 2013.10.13日、「【関ヶ原の合戦】死を覚悟した鳥居元忠(音尾琢真)が息子たちに送った遺言がコチラ【どうする家康】
 人間、遅かれ早かれ必ず死にます。だから日ごろからそれなりに覚悟してはいるつもりでも、自分自身はいざ知らず、遺された者たちが心配でならないのは人情というもの。そこで「自分が死んだら、あれをあぁしてこうして……」などと、家族や親しい者たちに遺言するのですが、想いの丈をすべて伝えるのはなかなか大変です。今回は幼少期から徳川家康に仕え、生涯にわたって忠義を貫き、後世「三河武士の鑑」と讃えられた鳥居元忠の遺言を紹介。果たして彼は、息子たちに何を言い残したのでしょうか。
 伏見城で石田三成らの大軍に包囲された元忠たち
 まずは遺言の原文から。出典は「『名将言行録』巻之五十一 鳥居元忠」、戦国武将を中心に虚実入り混じった武士たちの逸話集です。なので史実性については低いものの、今日多くの戦国ファンから愛されている武将たちのイメージはこうした伝承を基に形づくられてきました。また往時の人々にしても「彼ならばやりかねない」という一定の評価があったからこそ信じたはずですし、ある程度は個々の実像に近いものと考えられるでしょう。御託はこのくらいにして、さっそく原文を読んでみたいと思います。
 ……此時元忠家臣濱島無手右衛門をして関東へ、上方蜂起の由を注進す。時に子息忠政に遺誡を申贈る、……
【意訳】時は慶長5年(1600年)7月。伏見城に立て籠もっていた元忠は、石田三成ら上方勢が挙兵したことを家康に伝えるため、家臣の濱島無手右衛門(はましま むてゑもん)を関東へ派遣しました。それと同時に、息子の鳥居忠政に遺言を申し送ります。

 ちょっと(いや結構かなり)長いので、原文を分割で意訳していきましょう。
 敵が何十万で包囲しようと、突破するのは容易いが……
 ……其辞に、今度上方の大小名数多石田が奸計に陥て尽く蜂起し、先づ當城を攻落さんとの聞えあり、我等に於ては城を枕に討死すべき覚悟なり、大阪(※原文ママ)勢何十萬騎にて攻寄せ、千重に圍むと雖も一方を打破て退んに手間取るべからず、夫は武士の本意にあらず、忠節とは言難し、我爰にて天下の勢を引受け、百分一にも対し難き人数を以て防ぎ戦ひ、目覚敷討死して、徳川の御家風を守る所の城を明け、難を遁れ命を惜み、敵に弱みを見せぬ者ぞと、御家人衆にも覚悟させ、天下の士に義を進むる手始とならんと存ずるなり、……
 【意訳】こたび上方の者たちが石田治部めにそそのかされて兵を興し、真っ先にこの伏見城を攻め落とそうとしておる。わしらは城を枕に討死する覚悟じゃ。大坂の連中が何十万という大軍でどれほど厳重に包囲したところで、その気になれば突破脱出するなどたやすいこと。しかしそれは武士の本意ではなく、主君へ忠節を尽くしたとは言えぬ。わしらはここで天下の大軍を食い止めるため、百分の一にも満たぬ人数で死ぬまで戦うまで。目覚ましき武勇をもって徳川の御家風を示すのじゃ。間違っても数で脅されて敵に城を明け渡すような腰抜けは一人もおらぬと、徳川家中は元より天下の心ある者たちに率先垂範せんと思っておる。
 ……左なき所にてすら、恥を知る士の死を遁るゝ道は之なし、況や君の為めに命を歿すること常の法なり、平生待儲たる所にて、箇様の時節に出合ふこと心ある日とは羨ましかるべし、其元能く心得べきは、我等が先祖代々御譜第と云、取分亡父伊賀守殿清康公に御奉公申され、其後廣忠公へ忠勤を勵まる、又兄源七郎殿は渡里に於て討死して忠を盡されたり、當君御幼少にて駿河に渡らせ給ふにも、守立申ん為め、伊賀守殿駿府は御供なり、其後當君十五の御歳岡崎へ帰らせ給ふにも、無二の忠義怠ることなく、八十歳に余るまで一生別心せず、當君にも又となき者に思召されたり、……
 【意訳】およそ武士たる者、恥を知るならば死を逃れようとしてはならぬ。いわんや主君のために命を投げ打つことは常識であり、平素から心待ちにしておくべきですらあろう。こたびこのような時節にめぐり会えた父を羨ましいと思うべきだ。 そもそも心得ておくべきは、我らが鳥居家は御譜代すなわち先祖代々徳川家に奉公してきた名門である事実。その中でもわしの父上・鳥居忠吉は松平清康公(家康祖父)・松平広忠公(家康父)そして殿と三代にわたり忠義を尽くされた。我が兄の源七郎(鳥居忠宗)も命を投げ打って忠義を尽くされたのじゃ。殿が今川への人質として駿河へ贈られた時も父上はこれに従い、後に殿が15歳で岡崎城へ戻られた際も、軍資金を蓄えるなど忠義を尽くされた。そして80余歳の生涯で忠義をまっとうし、殿も父上をかけがえなく思し召されたのであろう。
 忠義に生きた49年・その最期を飾る最高の晴れ舞台
 ……又我等も十三歳にて當君十歳の御時初めて御前へ出しより、今に至て召使はれ、御恩を蒙り忝きこと生々世々忘るべからず、今度関東御進発の時、我々が貞心を能く知召が故に残し置かると仰出され、左しも大切なる上方の押、伏見の御城代を承はること武運の冥理に叶ひたる所なり、天下の士に先立て君恩の為めに命を没す、當家の面目多年の本懐なり、……
 【意訳】かく言うわしも、13歳の時から殿にお仕えした。殿は10歳にあらせられた。それから今まで49年間、殿から受けた御恩は生涯いや生まれ変わっても忘れはすまい。こたびの関東遠征(会津の上杉景勝討伐)に際して、殿はわしらの忠義と武勇をよくご存じなればこそ、この伏見城に残されたことを仰せられた。かくも重大なるお役目を与えて下さったこと、実に武運の冥理(冥利)に尽きるというもの。天下の武士に先だって主君のために命を投げ打つ手本を示す、鳥居家にとってこれ以上の名誉はあるまい。
 兄弟互いに助け合い、主君への忠義をまっとうすべし
 ……我討死の後は、其元我等に代り、久五郎を初め幼稚の弟共を能く痛はり介抱すべし、弟共は新太郎を我らが如く、偏に親と思ひ、何事も背くべからず、各生長して上の御目に掛り、夫々が天性に応じ、何分にも召使はれば面々中善く親み、先祖代々御恩を以て家を立、子孫をも助けたる有り難きことを、常に胸に絶さず、徳川の御家と盛衰安危を共にし外に又と主は取らぬ筋目、寝ても覚ても忘るべからず、……
 【意訳】わしが討死した後は、そなた(忠政)はわしの代わりに久五郎(鳥居成次)や幼い弟たちの面倒を見てやって欲しい。弟たちには「新太郎(忠政)を父代わりと思ってよく言うことを聞き、成長したら主君のお役に立つようそれぞれの能力を存分に活かすよう、兄弟力を合わせること。ご主君あってのご譜代であることを決して忘れず、たとい徳川の御家がどんな窮地であろうと、決して他家へ仕えようなどと考えてはならぬぞ。
 欲望に目が眩んで主君を裏切るヤツなど、人間ではない
 ……国所領に目が昧(くら)み、又は一旦の不足に舊恩を忘れ、仮初にも別心すること人の道にあらず、仮令日本国中が悉く敵に組して背くと雖も、我らが子々孫々盡未来他家に足を入るべからず、唯何事に付ても、一家兄弟心を一致にして忠功を盡し、互に助けられつ義を守り、勇を励み、先祖代々、中にも伊賀守殿より高名の武功世に隠れなき家の譽を穢さじと心掛け、兎に角に一命は御為めに奉げ置きたると心腹に能々思ひ詰たらんには、千変万化の急難が差来るとも、少しも周章(あわつ)ることあるまじ、……
 【意訳】やれ「国を与える、所領を授ける」などと言われて欲望に目が眩み、また少しくらい不満があったからと御恩を忘れるような輩は人間ではない。たとい日本国じゅう悉く敵に回そうと、我が鳥居家の者は子々孫々にいたるまで他家へ寝返るようなことがあってはならぬ。ただひたすら一家兄弟が助け合って主君に忠義を尽くし、義を守って武勇に励み、先祖代々特に伊賀守(鳥居忠吉)殿の名誉を汚さぬよう心がけよ。とにかくそなたらの命は主君のために奉げるものであって、今はただお預かりしているに過ぎぬ。そのことが解ってさえおれば、どんな事態に陥ろうと、少しも慌てるようなことはないのじゃ。
 老臣らの諫言をよく聞き入れよ
 ……我今年六十二歳になりぬ、三河よりして以来、万死一生のこと其数を知らず、然れども一度も後れは取らず、人間の生死禍福は時の運に在り、求め得べきにあらず、老功の家士の言を尋ね、馴心得たる者の申事を聞き、我意の若気を致さず、諫を納るゝこと肝要なり、……
 【意訳】わしも今年で62歳じゃ。三河で殿が兵を挙げられてこのかた、死にかけたことは数え切れぬ。それでも一度として後れをとったことはない。人間の生死や幸不幸は時の運に過ぎねば、一喜一憂すべきではなかろう。 年寄りや熟練者の教訓をよく聞いて学び、我がままや若気に走らず、周囲の意見をきちんと聞き入れることを肝に銘じよ。(これからも、父として色々教えてやりたかったが……)
 目先の欲望に引きずられるな
 ……天下は幾程なくして當君の御手に入るべし、左あらば必ず御取立を受け、大名にも成らなんと思て、御奉公する者もありなん、必ずや此心抔出来らば武士の冥理の盡る端ぞと知るべし、官禄を賜はらん大名に成らんと、欲心に牽かれて貪らんに命の惜からぬことあるべきや、命が惜まれては何の武功を為すべき、武家に生れて忠を心に掛けず、只身上の富を思ふ者は外に諂ひ、内に奸謀を工み義を捨、恥を顧みず、後々末代武名を汚す、誠に口惜しきことなり、……
 【意訳】秀吉亡き今、天下は間もなく殿の掌中に納まることとなろう。だからと言って今の内に取り入って出世したいなどと思ってはおるまいな?それは武運の尽きる兆しであると心得よ。やれ官職や俸禄が欲しい、大名になりたいなど欲望に引きずられてしまえば、必ず命を惜しむようになる。ならぬ筈がない。命を惜しんで何が武士じゃ。 武門に生まれておきながら忠義を忘れ、我が身の損得ばかりを考えて偉い者に媚びへつらって内心ではよからぬ事をたくらみ、義を捨てて恥を顧みねば末代まで名誉を汚すことになろう。 もしそのようなことになれば、誠に口惜しき限りである。
 最後に
 ……是等のこと申に及ばざれども、先祖の名を二度挙げらるべし、且つ家の仕置等のことは、兼ねて申談ぜし通なれば、今更申に及ばず、累年定め来る所見も聞もせられたり。第一行跡のこと、嗜み礼儀正しく、主従能く和し、下に憐愍を加へ、賞罰の軽重を正して親疎の依怙あるべからず、人の人たる道を以て本と為すべし、と言遣はせり。……
 【意訳】これらの事は申すまでもないが、先祖の名誉にあぐらをかくことなく、二度挙げるよう奉公すべし。その他の細かいことについては以前から伝えておいた通りであるから、今さら申すには及ばぬ。 何はなくとも礼儀正しく主君に忠義を尽くし、領民たちを深くいたわり、賞罰は依怙贔屓のないよう公正にせよ。何事につけ、人が人として生きる道を基本とするべし。……と、ことづてしたのであった。

 ……お疲れ様でした。実に長い遺言でしたね。読んでいると同じようなことが重複する部分もありましたが、大事なことだから二度も三度も言いたかったのでしょう。 なにぶんこれが最後ですから、思いの丈を込めたのが伝わります。 果たして伏見城の戦いで鳥居元忠は討死。永年の忠臣であり友を喪った家康は、復讐に燃えながら天下分け目の関ヶ原に臨むこととなりました。 NHK大河ドラマ「どうする家康」では、この名場面がどのように演じられるのか、今から注目しています!

 ※参考文献:
 岡谷繁実『名将言行録 6』岩波文庫、国立国会図書館デジタルコレクション






(私論.私見)