穴山梅雪考



 (最新見直し2013.10.22日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、松永久秀を確認する。

 2013.10.22日 れんだいこ拝


【穴山梅雪の履歴その1】
 ここで「穴山梅雪考」しておく。「ウィキペディア穴山梅雪」その他を参照する。
 穴山 信君 / 梅雪(あなやま のぶただ(のぶきみ) / ばいせつ)は戦国時代の武将。甲斐国武田氏の家臣で、「武田」姓を免許される御一門衆のひとり。武田二十四将の一人に含まれており南松院所蔵本では信玄の傍らに配置されている。信友・信君二代にわたり武田宗家と婚姻関係を結び親族意識が高かった。
 1541(天文10)年、父は穴山信友、母は南松院(武田信虎の娘で武田信玄の姉)の嫡男として生まれる。

 穴山氏は、甲斐(山梨県)南部の穴山と河内(大阪府)の一部を領地に持つ一族で、もとをただせば武田信玄の武田家と祖先が同じと云われている。信友の頃には下山館を本拠に河内地方を領し、河内支配において武田氏による支配とは異なる独自の家臣団組織や行政組織を持っていた。

 兄弟は信君、弟:信嘉(信邦)、彦九郎。幼名は勝千代。玄蕃頭、陸奥守、彦六郎(通称)。壮年期に出家し梅雪斎不白と号した。武田左衛門信君とも称する。

 1553(天文22)年、1.15日、高白斎記によれば甲府館に移っている。

 1558()年、20歳の時、11月、河内領支配に関する文書が見られ、父の信友は同年6月から11月頃には出家隠居しており、この頃、家督交代がなされたと考えられている。

 1561(永禄4)年、23歳の時、第四次川中島の戦に従軍する。甲陽軍鑑によれば信玄本陣を守ったという。武田氏は信玄後期に駿河・遠江の今川領国への侵攻を行い織田・徳川勢力と対峙するが、信君は武田氏の駿河・遠江侵攻において活動が見られる。

 1568(永禄11)年、30歳の時、武田晴信(信玄)の駿河攻め(駿府 攻め)の後、落城させた興津城の城代になっている。信君は侵攻に際して内通を試みた今川家臣や徳川氏との取次を務めている。

 1569(永禄12)年、31歳の時、富士氏が籠城する大宮城を葛山氏元と共に攻めている。その後駿府を占領した武田氏に対し相模の北条氏・三河の徳川氏が今川救援のために出兵すると、同年4月、武田方は一時甲斐へ撤兵する。この際に信君は興津横山城において籠城し、万沢氏や臣従した望月氏に対して知行を与え在地支配を試みている。
 1572()年、34歳の時、信玄の上洛戦、三方ヶ原の戦に従軍する。

 1573()年、35歳の時、信玄病死により、子の武田勝頼に仕える。

 1575()年、37歳の時、長篠の戦で、武田勝頼に退却を進言するが受け入れられず、戦の直前に戦場から離脱する。甲陽軍鑑によれば、信玄の死後は従兄弟で義弟の武田勝頼とは対立が絶えなかったと記されている。怒った高坂昌信が勝頼に信君を切腹させるべきだと意見したが、親族衆の筆頭である信君を処断することで家中が分裂することを恐れ、勝頼はその意見を退けたという。戦況をいち早く読んだ梅雪は、鳶ヶ巣山砦が陥落したと見るや本格的な戦いを開始する前にいち早く撤退し、江尻城へと戻る。戦死した山県昌景に替わって江尻城代になる。駿河は第二次侵攻を経て武田領国化されるが、信君は山県昌景の後任として江尻城代となり、支城領としての「江尻領」を形成したという。

 1582()年、44歳の時、織田信長の侵攻(天目山の戦)を受け、2.25日(3.1日)、駿河江尻城主・穴山梅雪は、河内領、江尻領の安堵、武田宗家の継承、勝頼亡き後は梅雪の息子の勝千代が武田家宗家を継ぐことを条件に徳川家康を通じて信長に内応した。その後、徳川家康を通して織田家に臣従、徳川軍の甲斐国侵攻の案内役を務める。3.11日、勝頼は妻子、残ったわずかな家臣とともに天目山にて自刃を遂げ、ここに武田家は滅亡する。戦後は本領を安堵される。
 「英文・穴山梅雪」を確認する。 

 穴山信君/穴山梅雪(あなやまのぶきみ/あなやまばいせつ)は、戦国時代(日本)の武将である。

 Nobukimi ANAYAMA/Baisetsu ANAYAMA was a military commander during the period of warring states.
 妻・見性院(穴山梅雪正室)は武田信玄の娘。

 His wife, Kenshoin (the legal wife of Baisetsu ANAYAMA), was the daughter of Shingen TAKEDA.
 3月11日、徳川家康と穴山梅雪は織田信忠に面会し、今後についての相談を行った。

 On March 11, 1582, Ieyasu TOKUGAWA and Baisetsu ANAYAMA met with Nobutada ODA, and discussed the future.
 河尻秀隆:穴山梅雪本貫地を除く甲斐一国、諏訪郡(穴山替地)

 Hidetaka KAWAJIRI: Kai Province excluding Honganchi (birthplace of clan) of Baisetsu ANAYAMA, Suwa-gun (Anayama kaechi)
 当時、穴山梅雪を伴い領国加増の御礼で安土城を訪問した後堺市にいた徳川家康は伊賀国越えにより難を逃れているが、遅れて出発した梅雪は木津川(京都府)畔京田辺市で落命した。

 While Ieyasu TOKUGAWA--who was in Sakai City after a visit to Azuchi-jo Castle accompanied by Baisetsu ANAYAMA in order to show his appreciation for the increase of his own territory--escaped the hardship by traveling beyond Iga Province, Baisetsu, who departed later, was killed in Kyotanabe City on the Kizu-gawa riverfront (Kyoto Prefecture).
 子には武田義信、黄梅院(人名)(北条氏政夫人)、海野信親(龍宝)、武田信之、見性院(穴山梅雪正室)(穴山信君夫人)がいる。

 Her children included the following: Yoshinobu TAKEDA, Obaiin (or Kobaiin) (wife of Ujimasa HOJO), Nobuchika UNNO (also known as Ryuho), Nobuyuki TAKEDA, and Kenshoin (legitimate wife of Baisetsu ANAYAMA) (wife of Nobukimi ANAYAMA).

 フロイス「日本史」によれば、変の直前の天正10年5月15日家康が戦勝祝賀のために武田の降将の穴山信君(梅雪)の随伴で信長を安土城に訪ねた際、当初、光秀が饗応役となった。

 According to 'Historia de Iapan' by Frois, when Ieyasu visited Nobunaga on June 15, 1582, immediately before the Incident in Azuchi-jo Castle accompanied by Nobukimi (Baisetsu) ANAYAMA, who was a surrendered warlord from the Takeda clan to celebrate the victory in the battle Mitsuhide was at first appointed to the position of marshal.

【穴山梅雪の履歴その2】
 1582()年、44歳の時、同年5.15日、信長への御礼言上のため家康に随行して上洛し、近江国安土(滋賀県近江八幡市安土町)において信長に謁見する。信長に謁見した梅雪は金貨を献上した。反対に、信長からは旧領の安堵と新領地を与えられ、この日の酒宴は大いに盛り上がったと云う。その後、能や舞の見物などして数日間安土に滞在した。5.21日、梅雪と家康は京都へ行き、京都見物をした。5.29日、堺(大阪府堺市)へ移動して堺見物する。堺を遊覧していた際の6.2日、京において信長が横死する本能寺の変が起こったため、家康と別行動で急ぎ甲斐に戻ろうとしたが、三河物語によると、金品を多く持っていた信君一行は、家康従者に強奪されることを恐れて別行動をとった。

 東大阪の飯盛山から枚方を抜けた家康に対して、梅雪は、少し北のルート=木津川河畔を通るという別行動をとった結果、山城国綴喜郡の現在の木津川河畔(現在の京都府京田辺市の山城大橋近く)で落ち武者狩りの土民に襲撃されて殺害されたとされる(田原にて明智光秀の家臣の警戒線に引っかかり家康と間違えられて殺されたという説もあり)。 享年42歳。次のように記されている。

 「穴山梅雪もこれまで從ひ來りしかば。御かへさにも伴ひ給はんと仰ありしを。梅雪疑ひ思ふ所やありけん。しゐて辭退し引分れ。宇治田原邊にいたり一揆のために主從みな討たれぬ。(これ光秀は君を途中に於て討奉らんとの 謀にて土人に命じ置しを。土人あやまりて梅雪をうちしなり。よて後に光秀も。討ずしてかなはざる德川殿をば討もらし。捨置ても害なき梅雪をば伐とる事も。吾命の拙さよとて後悔せしといへり)」。

 イエズス会日本年報は次のように記している。
 「三河の王(徳川家康)と穴山殿(梅雪)と称する人はこの報に接し…三河の王は多数の兵と賄賂とすべき黄金をもってゐたため、困難はあったが通行ができて国へ帰った。穴山殿は少しく遅れ、兵も少かったため、途中で掠奪に遭ひ、…殺された」。

 但し、三河深渦城主の松平家忠が残した家忠日記は次のように記している。
 「六月四日 家康は堺にいたが岡崎へ帰ってきた。家康以下、伊勢を発って大浜に上陸した。町まで出迎えに行った。穴山は切腹した」(同上書p.168)。


 飯岡墓地(京都府京田辺市飯岡)、満福寺(山梨県韮崎市中田町)、霊泉寺(静岡県静岡市清水区興津井上町)。妻は武田信玄の次女・見性院。子は勝千代。

 同年8月、穴山信君の嫡子:勝千代(武田信治)は家康から河内領と江戸尻領のほか駿河山西や河東須津(ともに静岡県富士宮市)を安堵される。江尻城番には本多重次、松平家忠、天野康景らが、河内領は菅沼定政が守備しており、政務は徳川家臣団により行われていたと考えられている。勝千代期の文書は23通(有年号19、無年号4)あるが、信君期の支配を確認する継目安堵文書が大半で、信君期の安定的支配の継続を望んだ家康の意向が指摘されている。1587(天正15)年、疱瘡によりに死去、享年16歳。嗣子が無かったため穴山家は断絶した。家康はその後、自らの5男である武田信吉に武田(穴山)家の名跡を継がせ家名も本領も安堵している。夫にも息子にも先立たれた梅雪の妻・見性院が、後に2代将軍・徳川秀忠の隠し子・保科正之を、どんなに正室の江から反対されようとも、しっかりと守り育てる気丈さを持ち続けた。 .

【れんだいこの穴山梅雪考その1、】












(私論.私見)