高山右近(キリシタン武将)考



 更新日/2023(平成31.5.1日より栄和改元/栄和5).1.20日

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 2013.10.22日 れんだいこ拝


【高山右近】(1552ー1615.2.5)
 「ウィキペディア高山右近」、「秀吉により追放、そして金沢へ」、「地図で見る右近の旅」、「キリシタン大名・山右近研究室」。その他を参照する。
 高山右近(たかやまうこん、高山長房)ともいう。摂津高槻城主(7万石)。茶人としても有名。1554〜1615(?〜元和1)。代表的なキリシタン大名。霊名はユスト。ユストは正義(の人)を意味する。千利休の弟子で茶人。
 1552(天文21)年、高山友照・飛騨守厨書の長男として摂津高山に生まれる。高山家の出自は秩父氏の一派の高山党の庶流とも甲賀五十三家の一つとも云われる。父の友照(飛騨守を自称)が当主のころには当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、長慶の重臣松永久秀にしたがって大和国宇陀郡の沢城(現在の奈良県宇陀市榛原区)を居城とした。
 1564(永禄7)年、12歳の時、父友照が半盲の琵琶法師だったイエズス会員ロレンソ了斎からキリスト教の教義を聞き感銘を受け、父の勧めにより大和国沢においてロレンソより受洗をうけ「ドン・ジュウスト」の洗礼名をもつ。同時に家族と家臣をも信徒にしている。その後、和田惟政(これまさ)に従い摂津芥川城にいた。
 1569(永禄12)年、和田惟政が高槻城主になる。1571(元亀2)年、和田惟政が白井河原の合戦で戦死し、惟政の子の惟長が城主となった。1573(元亀4、天正元).4月、和田惟政の家臣であった高山飛騨守、右近父子が摂津の荒木村重と通じて和田惟長を滅ぼし、右近が高槻城主になった。この時、荒木村重の家臣となる。右近は、1573年(21歳)から1585年 (33歳)までの12年間を摂津の国・高槻城主で過ごすことになる。既に50歳をすぎた父の友照は、高槻城主の地位を息子の右近に譲り、自らは教会建築やキリスト教の布教に仕事の重点を移した。

 1578(天正6)年、仕えていた摂津守護の荒木村重が毛利、石山本願寺につき信長へ謀叛した為、信長の大軍勢に包囲された。この時、右近は村重の謀反を阻止しようとしたが成功せず、村重と信長の間で悩みながら高槻城に籠城する。織田信長は安満山に本陣を置き、子息や越前衆に命じ天神馬場と天神山に陣地と砦を築き威圧した。信長はパアデレを使いに出し、加増とキリシタン保護を右近に約束している。村重に息子を人質に取られる一方、信長からは降伏しなければ畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにして教会を壊滅させると脅迫された。ダリヨは荒木側につくことを主張。城内は2つに分かれた。

 信長は怒り、キリシタン皆殺しと教会焼き討ちを宣告、パアデレを監禁した。周囲を焼き討ちしながら荒木村重の有岡城(現在の兵庫県伊丹市)へ迫る。ダリヨは信長の書状を握り潰した。進退窮った右近はイエズス会員・オルガンティノ神父、ロレンソを密かに高槻城に呼び助言を求めた。織田側につくことを決め信長の前に出頭する。信長は、「再びわしに仕えよ」 と命じている。右近の家臣がダリヨらを押さえ、無血開城となった。右近は明智光秀の配下に入る。結果的に右近の離脱は荒木勢の敗北の大きな要因となった(後に清秀も織田軍に寝返った)。

 ダリヨらは有岡城に逃げたが、村重は彼を監禁した。しかし村重らは尼崎へ逃げ、有岡城は無傷で落ちた。人質は無事であった。ダリヨも殺されて当然であったが右近に免じて、柴田勝家預けとなり北荘(福井県)に 軟禁。実際は自由に活動できた。後にダリヨ婦人も送られ、ここでも伝道に励んだ。 この功績を認めた信長によって、右近は再び高槻城主としての地位を安堵された上に2万石から4万石に加増される異例の措置を受けた。

 信長のキリシタン保護政策は継続され、安土に教会を建てることを許可した。 右近は家臣1500人を動員して1カ月で3階建てのセミナリオを建てた。右近は築城の 名人とも言われ、教会建築にもその才能を発揮した。多くの武家の師弟たちがこのセミナリオで学んだ。

 1581(天正9)年、イタリアから有名な巡察師ヴァリニァーノを招いて天正4年をしのぐ盛大な復活祭を催した。グレゴリオ聖歌が流れ、日本で最初に輸入された小型の移動式パイプオルガンが演奏された という。ヴァリニャーノ、フロイスも驚嘆した。 信長もヴァリニャーノらをいたれりつくせりで歓迎した。その後の右近は仲間の武将にキリスト教を広め「高山の宗門」と呼ばれる隠然勢力を形成し始める。この間、高槻領内の神社仏閣を破壊し神官や僧侶に迫害を加えたため、旧高槻領内には古い神社仏閣の建物はほとんど残っていない。旧領内の多くの寺社の記録には、「高山右近の軍勢により破壊され、一時衰退した」などの記述がある。
  フロイス日本史などのキリスト教徒側の記述では、この地に教会を建て、京都南蛮寺建立にも貢献し、領民の改宗に尽力した。天正9年には高槻の領民2万5000のうち1万8000人がキリシタンとなった(約72%)。教会は領内に20程あったという。領内の住民のほとんどがキリスト教徒となってしまったので、寺社が必然的に減り、廃寺となったものが多かったので、これを打ち壊して教会建設の材料としたと記されている。立場によって見方が分かれている。細川忠興、前田利家は右近に影響を受けてキリシタンに対して好意的であった。 
 1582(天正10).6月、明智光秀が謀反を起こし、京都・本能寺に宿泊していた主君の織田信長を襲い自刃させるクーデター事件が発生した。この時、右近は毛利戦に合流するため高松へ進軍中だった。パアデレ、セミナリオの学生は沖の島へ避難した。明智光秀の配下に位置していた右近は応ぜず秀吉の幕下にかけつけた。本能寺の変後の山崎の合戦では右近軍は先陣を切り、明智軍一万五千に対して二千の兵で打ち破り武勲を上げた。清洲会議でその功を認められて加増され摂津高槻城主(7万石)となる。以後、秀吉の武将として従軍する。安土にあったセミナリヨを高槻に迎えた。信長の死によりダリヨは高槻に帰ることを赦された。


 1583(天正11)年、秀吉はオルガンチノを歓待、大阪に教会用の土地を提供を願い、与えられる。右近も自費で大坂に教会を建設した。天正13年には3000名の受洗、60人あまりの仏僧が改宗するなど宣教は拡大していった。秀吉の側近の多くが右近の影響で入信した。馬廻り牧村政治は4人の妻を持っていたが1人に改め、驚くほど純潔な生活に変わった。牧村正春、蒲生氏郷、黒田孝高などの大名が彼の影響から洗礼を受け、細川忠興、前田利家などは、洗礼は受けなかったもののキリシタンに好意を持つようになる。

 同年5月、賎ケ岳の戦いで岩崎山を守るものの柴田勝家の甥・佐久間盛政の猛襲をうけ、羽柴秀長の隊へ逃げ込む。その後、小牧・長久手の戦いや紀伊浜城攻撃、四国征伐の阿波−宮城攻撃などにも参戦している。 
 1585(天正13).10月、8月、20数名の大名が転封された。右近も秀吉によって播磨明石郡に移封され、明石城主(六万石)となり船上城を居城とした。高槻の教会は保証され、高槻領の一部はキリシタン安威了佐にまかされた。高槻城は秀次に与えられた。この後の高槻のキリシタン の信仰は右近色一掃政策により弱まってゆく。右近はセミナリオを大阪に移す。そして明石での教会建設に燃えていた。

 この頃、秀吉側近の施薬院全宗(せやくいんぜんそう)が「右近らが一味徒党を結び陰謀を図っている」と秀吉に言うぞと脅かたところ、右近は「堂々と弁証しよう。それでも禄、命を奪うならそれに従おう」と退かなかった。秀吉の右近への信頼は絶対的であり、毎日のように右近を賛辞し、多くのキリシタンを登用した云々とある。
 1587(天正15)年、九州の役に従軍する。この時、大友吉統、小西行長、黒田如水(にょすい)らを洗礼している。同年、宣教師に日本征服の意図を疑った秀吉が突然、宣教師追放令を発し右近に棄教を迫ってきた。秀吉は右近の才能を惜しみ、茶道の師匠である千利休を遣わせてキリスト教の棄教を促したが、主君の命令に背いても志を変えないのが真の武士であると答え、利休に説得を諦めさせた。黒田孝高が真っ先に棄教するなどキリシタン大名には苦しい状況となったが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てる道を選んだ。7.24日、右近は領地を没収され、明石城を捨て放浪の旅へ出る。小豆島に隠れ住むことになる。安住の地を得た右近に、フィリピンへの国外追放令が出される。肥後の小西行長を頼り、剃髪して南之坊等伯と号した。
 1588(天正16)年、加賀国金沢城主の前田利家に客将として迎えられ、その家臣となり1万5千石の扶持を受けて暮らした。利家は、同じ利休の弟子であり親友であった。右近は教会1つ建ててくれればそれで十分と答えたという。その後25年間を金沢で過ごすことになる。小田原城征伐に利家麾下として参加している。
 1590(天正18)年、小田原城征伐に利家麾下として参加する。天正18年、小田原征伐に前田家家臣として参加。松井田城(群馬県)、武蔵鉢形城 (埼玉県大里郡)八王子城を攻略。クルスの旗をかざして参戦した。実質的に前田家 家臣として秀吉に赦されている。利家の嫡男・利長にも引き続き庇護を受け、前田家に寄食する。関ケ原の戦いで利長軍に参加。  

 同年6月20日、少年遣欧使節が帰国。密かに京都へ上った。そのとき会ったフロイスにこう語っている。 「関白どのから離されて、何の支障も無く自由に暮らせるのは恵みだ」。右近は加賀、能登、越中での布教に尽くした。慶長8年、内藤如安が加賀へ招かれる。関ヶ原で負け流浪の身であった。金沢の教会は活気付き、利家の有力な家臣80名を受洗させている。

 1592(文禄元)年、名護屋で秀吉にお目通りがかなう。翌日茶に招かれる。右近もパアデレも公然と自由に活動できるようになった。この後日本においてキリシタン南蛮文化が開花した。 右近は「南坊(みなみのぼう)」と名乗り、茶道と宣教に没頭した。また右近は築城においても 才能を発揮し、高岡城を築いたことでも有名である。文禄3年には京都で500名受洗、大部分が高級武士であった。 しかし、決して安心できる状況ではなかった。文禄4年、父ダリヨ死去。遺言によって長崎キリシタン墓地に葬られた。長崎始まって以来の最大の葬儀であった。その後、スペイン系のフランシスコ会の宣教師が来日、秀吉への配慮もなく活発な布教活動を行うようになった。

 1596(文禄5)年、土佐浦戸にイスパニア船サン・ヘリーペ号が漂着した。 これが日本征服を企てて、フランシスコ会士をスパイとして送り込もうとしたのだということにされ乗組員が捕らえられた。秀吉は京都のキリシタン名簿を作らせた。これより日本キリシタンの殉教が始まる。その名簿の筆頭が右近であった。右近は利家に別れを告げた。細川ガラシャは晴れ着を縫って侍女とその時を待った。 石田三成はこれに抗議、フランシスコ会だけに限るよう要求した。側近の全宗はなんとか右近を処刑しようと働きかけたが、三成と利家の執り成しにより右近は助けられた。最終的に26人に絞られた。耳を削がれ、洛中引き回し、大阪から徒歩で長崎まで引いていかれた。慶長元年(1596)2月5日、 長崎にて張付けの刑に処せられた。

 スペイン国王は怒り、日本に戦争をしかけるつもりであったらしい。しかし、神の摂理か、国王フェリペ2世は死去、その5日後、1598(慶長3)年、8.18日、秀吉も病で死去 した。病に伏せる秀吉に謁見を許されていた宣教師ロドリゲスは、最後まで秀吉にキリシタンになることを勧めたが秀吉は拒んだという。

 1607(慶長12)年、宇喜多家も金沢へ。やはり関ヶ原で敗戦後没落した。宇喜多秀家の妻だったが、北政所に仕えていて洗礼受けた利長の妹、豪姫も共に金沢に来た。1614年度イエズス会日本年報では金沢が日本でもっとも栄えた教会の1つとして書かれている。

 1609(慶長14)年、利長の隠居城・富山城の炎上により、越中射水郡関野(現富山県高岡市)に築かれた新城(高岡城)の縄張を担当したといわれる。 

 1612(慶長17)年、有馬晴信と岡本大八の内紛をきっかけとして取り調べを開始。棄教しなかった旗本14名を追放。利長でさえ右近、如安に棄教を求めた。

 1613(慶長18)年、各地で迫害が荒れ狂う。しかしますます信仰を燃やすキリシタンに、家康は怒り「伴天連追放令」を発布。伴天連の国外追放とともにキリシタン宗門の全面的禁圧を命じた。家康は右近、如安一族を京都所司代板倉勝重に引き渡すよう利長に命令している。
 1614(慶長19)年、家康のキリスト教禁令により追放され加賀を去る。雪の中を徒歩で京都へ。見かねて籠を提供されたが右近は断った。多くの人が町の外まで泣きつつ見送った。10日後に坂本へ到着。京都のキリシタンが勇気を得て立ち上がることを恐れて、30日間そこで足止めされた。その間に右近は「たとえ親が転んだと聞いてもそれは策略だからこころを動かすな」と励ましあった。女こどもは京都にとどまってよいと言われたが、婦人たちも勇敢に長崎行きを希望した。大阪から船20日間かかって長崎に到着した。この間、大坂方はキリシタンを味方に付けようとした。秀頼からの使者も右近のもとにきた。これが為、家康は右近追放を急いだ。

 9.24日、急遽国外追放の命令が出た。ジャンク船(注)が駆り集められ、10.6、7日、長崎から家族とともに追放された内藤如安らと共に分乗してフィリピンのマニラへ向かう。小さな船に100名以上が乗船し、通路や甲板にごろ寝の状態であった。老朽船で絶えず水を掻き出さねばならなかった。海賊や暴風に会いながらの長い過酷な船旅で4人の死者がでた。右近らは祈りと読書と霊的談話で過ごした。10.1日、大坂征伐の命を発している。

 43日後の陰暦11.21日、マニラに到着した。イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペイン人のフィリピン総督、フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けた。船が入港したとき岸は市民が埋め尽くし、礼砲を撃ち、国賓並みの歓迎であった。総督はスペイン国王の名において手厚くもてなすと宣言。しかし右近は、主のために命を捧げようとしたが、それもお許しにならなかったほどの拙い自分は、そのような名誉に値しない、と辞退した。茶人としても名声を博し、キリシタンの布教に努めた。  

 1615(慶長20).1.8(2.4)日、病に罹り息を引き取った(享年64歳)。葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖(サンタ)アンナ教会で盛大に行われた。右近の死後、その家族は日本に帰国し、現在石川県羽咋郡志賀町代田、福井県福井市、大分県大分市に直系子孫の3つの「高山家」がある。共に追放された内藤如安は、1626年死去。妹ジュリアは修道女会を組織。一生を神に捧げた。高槻市とマニラ市は高山右近が縁となって姉妹都市になっている。マニラの日比友好公園には、高槻市と同じ右近像が立っている。

 右近の遺言を最後の指導司祭ペデュロ・モレホン神父が「日本殉教録」の中に記している。モレホン神父は日本管区の副代表としてローマに行くため右近と一緒にマニラに渡り、右近の臨終に立ち会った。
 「立派なキリシタンになるよう努力し、教会やイエズス会のパーデレに従順であること、もしこれに背く者あれば勘当し、孫とも親族とも思わぬ」。
 「なぜ泣くのか。私が死んだらおまえたちは困るとでも考えているのか。おまえたちは間違っている。神はおまえたちを保護することを考え給うし、神がおまえたちの父である」。
 「パーデレ、私はもう死ぬと思いますが、神がそれを希望し給うのですから、私は喜び慰められています。今より幸せなときが今まであったでしょうか。私は妻や娘、孫について何も心配していません。彼らと私はキリストのために追放されてここに来ましたが、彼らが私についてこの土地まで来てくれた愛情に深く感謝しています。神のためにこのような境遇になったのですから、神は彼らにとって真実の父となり給うでしょう。だから私がいなくなってもよいのです」。
 1619(元和5)年、当時の高槻城主松平紀伊守によって神社は復興され、更に1649(慶安2)年、永井直清が城主になり、神社の例祭も盛大に行われるようになった。
 「〜慶長のクリスマス 〜金沢城下で聖夜祝う キリシタンにつかの間の春」は次のように記している。
 右近の一族だけでひそやかに守られていた信仰の灯は、関ケ原の合戦以降、急速に加賀藩内に広まった。イエズス会年報によれば、1601年に171人が洗礼を受け、3年後には信者数は1500人に達した。金沢には南蛮寺(教会)が建てられ、司祭と修道士が常駐するようになり、内藤如安や宇喜多休閑ら名のあるキリシタン武将が続々と加賀藩に迎えられた。

 1603年には、右近の娘ルチアが加賀藩の重臣横山長知の長男康玄(やすはる)に嫁いでいる。ルチアはもとより、康玄もキリシタンであった。この事実は、加賀藩では、キリシタン信者の藩士がもはや珍しくなくなっていたことをうかがわせる。
 実際、藩主利長は右近を深く尊敬し、キリシタンに好意的であった。イエズス会年報には、利長が金沢へやって来た司祭を丁重にもてなし、「自分たちの家臣がかくも立派で聖なる教えを奉ずることを喜ばしく思う」と言ったとある。

 また、自分の母(芳春院)と姉妹に対し、「予は若いので洗礼はしないが、キリシタンの教えが説くこと以外に確かな救済の道はない」言って、説教を聞いて、洗礼を受けるように勧めた。芳春院は都から13里離れた大坂へ自らの意志で説教を聞きに行ったという。

 1608(慶長13)年、金沢の南蛮寺で大掛かりなクリスマスが催された。この日のために、右近は自筆の書を招待客に送り、当日夜には異国の荘厳な儀式を一目見ようと多数の見物人が押し寄せた。聖歌が夜空にこだまし、厳粛な雰囲気の聖祭が終わると、右近は心をこめて招待客をもてなした。一同には結構なごちそうが出されたという。加賀藩におけるキリシタン信仰が頂点に達したのは、このころであろう。想像をたくましくすれば、ここで治部煮など南蛮風の料理が振る舞われたかもしれない。

 関ケ原以降10年間は、キリシタンの春が続いた。天下を手中にした家康は事実上布教を黙認していた。南蛮貿易の利と銀の採掘・造船技術をポルトガルやスペイン商人から得ようとしていたからである。だが、家康はいつまでたっても秀吉のキリシタン禁制を廃止しようとはしなかった。容易に腹の内を見せぬ家康のしたたかさを、右近は不気味に感じ取っていたに違いない。

【高山右近がバチカン(ローマ法王庁)に「福者」に認定される】
  2016.1月22日、時事通信「高山右近、「福者」認定=国外追放のキリシタン大名―バチカン」参照。
 2016.22日、バチカン(ローマ法王庁)は、江戸幕府のキリスト教の禁教令で国外追放されたキリシタン大名、高山右近(1552−1615年)を最高の崇敬対象となる「聖人」に次ぐ「福者」に認定したと発表した。フランシスコ・ローマ法王が21日に承認した。福者に加える儀式「列福式」は日本で行われる見通し。右近は現在の大阪府で生まれ、父の影響で12歳で洗礼を受けた。豊臣秀吉のバテレン追放令で領地や地位を失っても信仰を守り、16144年にマニラに追放され、翌年病死した。昨年は没後400年の節目で、日本のカトリック教会が右近を殉教者として福者に認定するようバチカンに働き掛けていた。日本カトリック司教協議会は声明を出し、右近は物質的な豊かさや権力ではなく、信仰が人を幸せにすると確信していたと指摘。「右近の生き方は現代に生きる人々を照らす光になる」と訴えた。福者になるには殉教か、難病の治癒など「奇跡」が一つ認定されることが必要。2007年には江戸幕府の弾圧で殉教したペトロ岐部ら日本人カトリック教徒188人が福者に決まり、2008年に長崎市で列福式が行われた。 








(私論.私見)

戦国武将でキリシタンの高山右近はなぜマニラに没した?63年の生涯

1615年2月3日(慶長20年1月6日)は戦国武将の高山右近が、フィリピンの首都・マニラで亡くなった日。

日本からフィリピンへ……というと、昨今は強盗事件の容疑者ルフィを思い浮かべてしまうかもしれませんが、右近が旅立った理由はもちろんそんなことではありません。

彼は武将であると同時に敬虔なキリシタンでもあり、洗礼名は「ジュスト」となります。

漢字で表記すると「寿子」らしく、なぜ二文字目、それにしたし……。

ともかく、右近は何のため海を越え、異国に没したのか?

ご想像通り、それには彼の信仰が関わっておりました。

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高山右近の高山家は三好に仕えていた

右近は摂津国(現・大阪府)の国人の家に生まれました。

国人とは正式な国主として認められてはいないものの、地元の有力者として勢力を持っていた人々のことです。国衆という言い方もします。

彼等一人一人の影響力は国を動かすほどではないけれど、かといって大名はこうした国人たちと上手く付き合わなければ国の運営は成り立たず、逆に国人の中には戦国大名へと発展するケースもいました。

有名な例では毛利元就とか、あるいは真田昌幸・真田信之・真田信繁親子あたりも大名化した国人に含まれるでしょう。

そんなわけで右近のトーチャン・高山友照も地元ではそれなりに名が知れており、近畿の有力な大名だった三好長慶に仕えていました。

さらにその重臣・松永久秀からは大和国(現・奈良県)に城をもらっています。

本来の領地は摂津のままなので、飛び地のような感じですね。

しかし、右近が12歳の頃に長慶が亡くなると、三好家では内紛やら裏切りやらのゴタゴタで急速に衰えていきました。

このころ両親と共にキリスト教の洗礼を受けており、もしかすると教えに感銘を受けただけでなく、こうした時勢の変化も影響していたのかもしれません。

 

惟政に反発して台頭してきた村重

一方、高山家の地元でも他の家が力をつけつつあり、緊迫した状況が続きました。

そんな時期の京都に織田信長が足利義昭を連れてきます。

義昭は十五代将軍になると、まずは地固めということで摂津に自分の直臣である和田惟政(これまさ)を置きました。

”将軍様”の意向には従わないといけないので、高山家も惟政に仕えることになったのですが……血筋的に正しいとはいえ、ついこの前まで逃げ回ってた人の家臣にそうそう人心がなびくわけもなく、余計に混乱を招いてしまいます。

そしてついに惟政へ反感を持つ人々が挙兵。

右近にとっても大きく関係することになる荒木村重です。

村重は池田家というこれまた摂津の大名の家臣でしたが、主家を乗っ取った上で信長と連絡を取り、「摂津は私のものにしていいですよね!?」「おk」(超訳)というお墨付きをもらいました。

当然のことながら村重は大喜びし、いろいろ頑張った結果、摂津のうち石山本願寺領(だいたい現大阪市)以外を手に入れました。

 

首の半分を斬られて重傷って……

当然ながら、和田家がこれをよく思うはずもありません。

しかしこの間に代替わりがあり、跡を継いだ惟長がまだ若年ということで叔父さんが口を出してきます。

と、もうこの時点でイヤな予感がしますね。

案の定トラブルが起き、この叔父さん、殺されてしまいます。

惟長は次に信用できそうな人物として高山家を頼りましたが、和田家のお偉いさんはまたしてもこれが気に入らず、よからぬことを企み始めます。

そしてついに暗殺騒ぎとなり、右近は首の半分を斬られるという重傷を負ってしまうのです。

奇跡的に助かった右近はこの後、より一層信仰を深めていくことになります。

でもこの傷、暗いところでドタバタ騒ぎになったせいで起きた同士討ち(未遂)だった可能性もあるようで……。

事前に村重へ「何かウチら命狙われてるっぽいんですけど」と相談していたおかげで、この騒動の後、高山家はお咎めなしとなり、和田家がいた高槻城をもらうことができました。

ちなみに惟長は、和田家の地元である甲賀(現・三重県)まで逃げたそうで、そのままそこで亡くなったそうです。

高山家の当主になったら村重が謀反

その後、トーチャンの友照が「キリスト教最高!」(超訳)という政策を掲げ、領内の寺社が破壊されたりキリスト教以外の聖職者が迫害されたり、あまり穏やかでないことも始めてしまいます。

一神教の全てが悪いわけではありませんが、この極端さがいただけませんよね。

このころ右近は高山家の当主になります。

そして間もなく大事件が……。

荒木村重が突如、信長に反乱を起こしたのです。

村重は、一度は信長からの使者に従って謀反を取りやめようとしました。

が、安土城に向かう途中で家臣から「信長がそんなことで許すはずないじゃないですか」とそそのかされて引き返していますので、決意は固かったようです。

これには右近も驚き、新たに人質を差し出してまで村重に説得を試みましたが聞き入れてもらえません。

もはや話は通じまい――。

そう判断した信長は、ついに攻撃を決断。

高山家がいた高槻城は戦略上重要な地点だったため、まずここへやってきました。

 

信長の怒りを増さず人質を助ける方法

信長は、直ちに高山右近への攻撃には取り掛かりませんでした。

旧知のイタリア人宣教師オルガンティノたち、つまりキリスト教関係者を使って右近の説得を試みているのです。

摂津どころか京都にいた宣教師達を全員集めたといいますから、できるだけ殺さずに事を収めたいと思っていたのではないでしょうか。

とはいえ「できなかったらどうなるかわかってんだろうな☆」(超訳)なことも言っています。

以前から右近を見知っていたオルガンティノは、右近が「名誉のためにも人情としても人質を見捨てられないだろう」と理解していました。

それも含めてよく考えるよう伝えるのが精一杯で、結局彼の力だけでは事の解決に至りません。

高山家の中でも、徹底抗戦派と降伏派で真っ二つに割れていたからです。

そこで右近は、信長の怒りを増さずに人質を助ける方法を考え出します。

たった一人、紙衣(和紙の着物・下着によく使われていた)に丸腰で信長の下へ向かったのです。

これなら城と兵ごと信長の元へ行ったわけではないので村重を裏切ったことにはならず、信長へは反抗する意思がないことを示せるということになります。頭いいなあ。

信長は右近の意思を汲み取り喜ぶと、そのとき着ていた服や馬、そして改めて高槻城主の地位をやっています。

手こずらせた割には人的被害がなかったのがよかったのでしょう。

「お古の服なんて嬉しくないんでは?」と思われた方もいらっしゃるでしょうが、当時エライ人が着ていた服をもらうというのは名誉なことでした。

旧暦11月=だいたい新暦12月のことですから、「それだけじゃ寒いだろ、とりあえずこれでも着とけ(´・ω・`)つ」というちょっとした優しさもあったかもしれませんね。

高槻周辺の寺社は衰退との記録残る

村重も、右近の予測通り人質を殺すことはせず、高山家は穏便に済ませてもらうことができました。

その後、黒田官兵衛を有岡城内に幽閉し、籠城で粘った挙げ句、ついに諦めた村重が一人で城から逃亡。

村重の一族や妻子は、信長の指示によってかなり残酷な殺され方をしてしまいます。

この一件から豊臣秀吉が台頭してくるまで、右近が大きな動きをした記録はあまりありません。

ただ、トーチャンと同じようにキリスト教以外には厳しかったらしく、高槻周辺では「高山右近の時代に衰退しました」とする寺社の記録も多いそうです。

右近は多くの大名がキリシタンになるきっかけになるくらい影響力を持っていたので、民衆がそれにならった結果、寺社が廃れたのかもしれませんが。

九州のキリシタン大名として有名な大友宗麟については「寺社を徹底的に破壊しました」という記録が一致しているので、右近のほうがまだ優しかった可能性は高そうです。