利休とバテレンの通底考 |
更新日/2018(平成30).12.26日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「利休とバテレンの通底考」をものしておく。 2013.10.22日 れんだいこ拝 |
【れんだいこの千利休考その1】 |
荒木村重も又松永久秀同様にキリシタン大名、武将だったと推理できるが、この方面からの論がない。しかし、荒木村重の履歴を見ればバテレンと気脈を通じていたことが分かる。何よりも1578(天正6)年の信長叛旗の必然性が、バテレン指令と見なさない限り見えてこない。1579(天正7)年の村重の家族も家臣も捨てての単騎脱出が理解できない。明智光秀との繋がりの線、高山右近との繋がりの線の必然性が見えてこない。晩年、「千利休らと親交をもった」とあるが千利休もバテレンと通じていたと見なすと明智光秀との線の必然性が見えてくる。豊臣秀吉が動かぬ証拠を突きつけ、切腹を命じた事情が透けて見えてくる。しかしこれは表に出てこないので全く推理するしかない。
2013.10.22日 れんだいこ拝 |
【れんだいこの千利休考その2】 |
2013.10.22日 れんだいこ拝 |
【利休とバテレンの通底考】 | ||
「キリスト教信仰と茶道」が、「この文章は、表千家講師で春日部福音自由教会の高橋敏夫牧師が1994年1月の福音自由誌に書いておられたものです」として、「キリスト教信仰と茶道」の関係を明らかにしている。他の関連言及を含めて総合的に確認する。
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【利休茶道とミサの通底考】 |
安部龍太郎氏の著作「信長はなぜ葬られたのか」の「ミサと茶席の不思議な共通点」(p123)を参照する。茶道のお濃茶作法はミサに倣っているのではないのか。茶席の雰囲気はミサのそれとよく似ている。他の人を寄せ付けない茶室は、ミサがそうであるように同じ信仰を持った者たちが同志的な結束を誓い合う空間に相応しい。お菓子を戴くのもミサのパン切れをいただくのに準(なぞら)えられる。皆でお濃茶を回し飲みするのも、ミサの聖杯回し授与に似ている。利休七哲の中にキリシタンやその関係者が多いことは紛れもない事実である。 |
【日比屋了珪(慶)(ひびやりょうけい)考】 |
生没不詳。 堺の貿易商。日本人からは「リョウゴ」と呼ばれ、イエズス会総長に連署状を送った時には「了五了珪」と署名している。茶道関係文書にある「日比谷了慶」、「ヒビヤ了慶」、「比々屋了珪」などと同一人物である。 1550(天文19)年、12月、ザビエルが京都めざし瀬戸内海を堺へ向かっていく途中、寄港した港の有力者がザビエルの貧しい姿に同情して、堺にいる友人が了慶を紹介したらしい。了慶は貿易にたずさわり、当時珍しかった瓦葺き木造三階建ての屋敷に住む大豪商であった。京都へ行ったザビエルであったが、京都は応仁の乱による戦禍で荒れ果て、思うように布教することができず、わずか11日であきらめて堺へ帰った。それから1ヶ月あまり病気で療養したザビエルを了慶は親切に世話をしたという。病気が癒えたザビエルは堺を出て平戸に戻り、再び山口で布教。領主の大内義隆に謁見、珍しい贈り物で歓心を買い布教が許されたらしい。その後ザビエルは、日本布教を確固たるものにするためには、日本文化の源・中国の布教に着手すべきとの判断から、日本滞在2年3ヶ月で中国に向かい、旅の途中、1552年志半ばで中国南部の広東において46歳で昇天した。 1559(永禄2)年、布教のため堺にやってきたのがビレラで、了慶はこのときも布教を応援し、自分の家を教会堂とし、「南蛮寺」といわれた。1563.12月には、我が国初めてのクリスマスが南蛮寺で行われたという。了慶は自ら率先して洗礼を受け、サンチョと名乗った。その後13歳の息子も洗礼を受けてビセンテと名乗り、熱心のあまり九州・豊後へ行って宣教師トルレスの教えを受け、日本人イルマン(布教の助手)の中でももっとも優れた人物であった。娘も洗礼を受けモニカといい、十字架と聖書を四六時中手にして、みずから異教徒であるとして叔父との婚約を捨て、のちキリシタンの男性と結婚した。 日明貿易で繁栄を誇った堺は、自分たちの力で自分たちの町を守ることを考え、周囲に堀を巡らす自治都市へと発展していく。その中心が「会合衆」(えごうしゅう)と呼ばれる36人の大商人であり了慶もその一人であった。同じ会合衆仲間の薬問屋、小西如清(じょせい)の子ペントにその娘を嫁がせて、キリスト教流の結婚式を挙げた。小西行長はペントの弟にあたる。 ビレラの後を受け継いで、1564(永禄7)年に畿内の布教にあたったのがフロイスで、フロイスもはじめは了慶の家を会堂としていた。了慶などの熱心な信者もいたが、堺での布教はかなり困難であった。その理由は、堺の人々はその富のためにかなり傲慢であり、「天国へ行くために自分の利権と名誉を捨てなければならないなら天国など行きたくない」という現実主義者が多かったことや、宣教師が布教のため金持ちに近づき貧者を避けたこと、堺がその富ゆえに、相国寺、東福寺に眼を付けられ、仏教が浸透していた、などであるとされる。 日比屋了慶とルイス・デ・アルメイダとの逸話。 |
「戦国時代、そして大航海時代の当時、日本もヨーロッパの国々の支配への触手が伸びたわけです。その先兵が例によって宣教師達だったわけですね。茶の湯に限らずキリスト教の影響は広範に渡って及んだもののようです。けれど、民度の高さに、簡単には支配の手が及ばないことを悟ったとも聞いています。下々の民衆であっても、渡来の文化に興味を示し、理解し、学習し、習得し、我が物としていく文化に脅威を覚えたのでしょうか 」。 |
【「利休七哲」考】 |
「利休七哲」と称される人々は江岑夏書(こうしんなつがき)に初見し次のように記されている。「一番 蒲生氏郷、二番 高山右近 (南坊)、三番 細川忠興 (三斎)、四番 芝山宗綱、五番 瀬田掃部、 六番 牧村利貞、 七番 古田織部」。江岑夏書は、1663(寛文3)年、千宗旦の三男である表千家四代江岑宗左によって書かれた覚書で、父宗旦の利休茶の湯に関する談話を主に記した書となっている。 |
「一番 蒲生氏郷」 蒲生氏郷(がもううじさと) 1556~1595(弘治2年~文禄4年) 近江蒲生郡の日野城にて誕生。藤原秀郷の子孫と言われるが蒲生郡に居していたため蒲生姓を名乗った。氏郷の父、賢秀は日野城主にして、六角承禎に仕えており、信長が上洛に先立ち近江平定し、承禎を攻めた折、賢秀は降伏し、氏郷は人質として承禎から信長に差し出され岐阜に送られた。永禄12年(1569)、元服して忠三郎。妻は信長の娘の冬姫。同年、初陣により戦功があり、日野城に帰された。元亀元年(1570)には朝倉攻め。同2年(1571)、伊勢長島の合戦。同3年(1572)、長篠合戦。同6年(1575)、摂津伊丹攻め、同9年(1578)、伊賀攻め。同10年(1579)、武田攻め。文武両道に秀れ、ことにその才智は信長によく認められたという。本能寺の変では、信長の妻子を守って日野城に篭城。その後、秀吉に属し滝川一益を攻めた。秀吉にもその才を愛され、天正12年(1584)、小牧の合戦で立てた戦功により伊勢松島に封じられ12万石が与えられた。正四位下、左近衛少将。その後、紀州攻め、九州遠征。天正18年(1590)小田原に出陣後、やはり戦功により陸奥守護となり、42万石。翌19年(1591)会津黒川(若松)城にあって92万石。これは秀吉の奥州方面司令官を任されたことを意味し、伊達政宗や徳川家康の監視役であり、牽制役でもあった。元々会津を所領にしていた伊達政宗には、大崎、葛西などの一揆を煽動されて悩まされている。武勇のみならず茶の湯にも秀れ「利休七哲」に数えられ重んじられたため、利休の自刃ののち細川三斎とともに千家再興に尽力した。また、高山右近との友誼によりキリシタンに帰依しており洗礼名はレオン。朝鮮の役において秀吉とともに名護屋城に居たが、発病を得て会津に戻り、文禄4年(1595)2月7日、京において没。40歳。あまりの才気ゆえに秀吉に妬まれ毒殺されたとも石田三成と直江兼続に謀殺されたとも種説あるが、いずれも確証はない。 |
二番 高山右近 (南坊) 「高山右近(キリシタン武将)考」に記す。 |
三番 細川忠興 (三斎) 細川忠興(ほそかわただおき) 1563~1645(永禄6~正保2) 戦国・江戸初期の武将。 細川幽斎(藤孝)の子で通称を与一郎といった。三斎と号するようになったのは1619年(元和5)に家督を子忠利に譲って隠居してからである。父幽斎とともに織田信長に重んじられ丹後宮津城主となった。妻の細川ガラシアが明智光秀の娘だったという関係で1582年(天正10)の本能寺の変後、明智光秀から招かれたが、これには従わず豊臣秀吉の側に属し、以後、豊臣大名の一人として好遇された。1600年(慶長5)の関ケ原の戦いでは父幽斎とともに東軍徳川家康方に属し、そのときの軍功によって豊前小倉城主となり39万9,000石を領する。父幽斎と同様、単なる武将ではなく文化人大名としても有名で、和歌・絵画はもちろん蹴鞠・乱舞をはじめ有職故実(ゆうそくこじつ)にも通じていた。茶の湯は千利休に学び利休門下七哲の一人に数えられるほどであった。著書に『細川三斎茶書』がある。 |
四番 芝山宗綱 芝山宗綱 監物丞、利休七哲の一人。桃山時代の武人で、織田信長、豊臣秀吉に仕えた。 |
五番 瀬田掃部 瀬田掃部(せたかもん) ?~1595 名は正忠。従五位下掃部頭。 近江の出身とされるが武士として北条氏に仕え、後に豊臣秀吉に仕えた。茶の湯を千利休から学び大成する。高麗茶碗を愛用したことで知られている。豊臣秀次の一連の騒動に巻き込まれ処刑された。掃部形と称される大きな櫂先の茶杓を好んだことで知られる。お皿のように浅い高麗茶碗を持っていたが、水の取り扱いや茶筅をすすぐときなどとても難しいものであった。しかし、あまりにみごとなお茶碗なので、利休に銘をたのみ、ついた名前が『水海』。そして持ち主の瀬田と琵琶湖にかかる瀬田の唐橋とをかけて"勢多"と名付けられた茶杓を添えたと云われる。彼は、普通の人なら使わない大きな平茶碗を茶に使い、さらにさらし茶巾という、客の前で水音さわやかに茶巾を絞る点前をやって見せた。利休もその点前に感心し大いに認めることとなった。 |
六番 牧村利貞 牧村利貞(まきむらとしさだ) ?~1593(文禄2)兵部大輔。名を政治・政吉・高虎・正春ともいう。 稲葉一鉄の庶長子重通の子で、外祖父牧村政倫の名跡を継ぐ。はじめ織田信長に仕え、紀伊雑賀攻めなどに従軍。本能寺の変後は豊臣秀吉に属して小牧・長久手・九州の諸戦に参加した。1584年、高山右近の勧めでキリスト教徒となり、自らも説教を行い蒲生氏郷を改宗させた。また利貞は利休七哲の一人に数えられる高名な茶人でもあり、信長在世中から多くの茶会に名を連ね、ユガミ茶碗と呼ばれる変形茶碗を世に広めたことでも知られる。小田原平定後の1590年、伊勢国多岐・度会2郡内で2万600石を与えられ岩出城主となる。1592年、文禄の役が起こると石田三成とともに舟奉行として渡海するが、1593年7月2日に戦死。嗣子兵丸幼少のため、遺領は弟の稲葉道通が相続した。道通はのち関ヶ原の戦いで東軍に属し、戦後加増され同国田丸4万5700石に移封されたが、15歳になった兵丸が遺領の返還を求めると刺客を放ってこれを暗殺したという。なお道通の稲葉家は、子の紀通が1648年に発狂して自害したため廃絶となっている。 |
七番 古田織部 古田織部(ふるたおりべ)1544~1615(天文13~元和1) 利休なきあと茶の湯名人として織部流の武家茶道を確立した安土・桃山時代の茶人・大名。美濃の古田重定の子。信長・秀吉に仕え1585年(天正13),従五位下織部正に任ぜられ,織部と称されるようになる。小牧の合戦・九州平定などでの働きがあり,京都西岡で3万5,000石を領する。茶道に近づき千利休に学んで利休高弟七哲の一人となる。師の没後、一流をなし古織流・織部流をなのった。2代将軍秀忠を教え、諸大名にも茶の湯を伝授。茶室や庭園にかかわる織部灯籠の創案者でもある。関ケ原合戦では家康方に属したが、元和元年の大坂の合戦では豊臣方に内通したとの嫌疑をうけ自刃させられた。73歳であった。織部流のその後は古田斎宮を称し4世までつづく。織部の教えをうけた織部系の人物としては遠州流の小堀政一、近世を通じ系統を維持した清水道閑、本阿弥光悦がいる。また織部が瀬戸で造らせた茶器を織部焼という。 |
平成24年4月11日、龍興山南宗寺塔頭 天慶院「山上宗二忌」法要セミナーでの前田秀一「キリシタン受容の構図」を転載しておく。
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(私論.私見)