利休とバテレンの通底考


 更新日/2018(平成30).12.26日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「利休とバテレンの通底考」をものしておく。

 2013.10.22日 れんだいこ拝


【れんだいこの千利休考その1】
 荒木村重も又松永久秀同様にキリシタン大名、武将だったと推理できるが、この方面からの論がない。しかし、荒木村重の履歴を見ればバテレンと気脈を通じていたことが分かる。何よりも1578(天正6)年の信長叛旗の必然性が、バテレン指令と見なさない限り見えてこない。1579(天正7)年の村重の家族も家臣も捨てての単騎脱出が理解できない。明智光秀との繋がりの線、高山右近との繋がりの線の必然性が見えてこない。晩年、「千利休らと親交をもった」とあるが千利休もバテレンと通じていたと見なすと明智光秀との線の必然性が見えてくる。豊臣秀吉が動かぬ証拠を突きつけ、切腹を命じた事情が透けて見えてくる。しかしこれは表に出てこないので全く推理するしかない。

 2013.10.22日 れんだいこ拝

【れんだいこの千利休考その2】
 
 2013.10.22日 れんだいこ拝

【利休とバテレンの通底考】
 「キリスト教信仰と茶道」が、「この文章は、表千家講師で春日部福音自由教会の高橋敏夫牧師が1994年1月の福音自由誌に書いておられたものです」として、「キリスト教信仰と茶道」の関係を明らかにしている。他の関連言及を含めて総合的に確認する。
 千利休がキリシタンだったという証拠ははどこにもない。が、利休の後妻おりきの娘の一人もキリシタンであるし、「利休七哲」の多くがキリシタンか、もしくはそのよき理解者であった。千利休のキリスト教との接点について、三浦綾子氏の「千利休とその妻たち」(新潮文庫)によれば、後妻おりきの影響が大であるとしている。「泉への招待」(光文社文庫)の「狭き門より入れ」の項で、風呂敷大であった帛紗を今の寸法にしたのはおりきであると伝えられていることを紹介され、宣教師の説教を伝え話すおりきの話から利休が躙り口を創案した小説のくだりを書いている。千宗室氏が、「利休が(秀吉に)切腹させられたのは、キリシタンであったためであり、茶室の躙り口も『狭き門より入れ』という聖書の言葉の具体化であった」と述べたことを明らかにしている。

 キリシタンらは茶室の小窓から見える庭の「キリシタン灯篭」(普通の灯篭のように見せかけて、下部に草に隠れたキリスト像等がある)に向かって、礼拝していたという。

 千利休は、当時来日していた宣教師たちと数多く会い、直接、キリスト教信仰に触れる機会を持っていた。七高弟のうち5人までがキリシタン大名なのだから、彼自身もキリシタンであったのではないか、という風説が流布しているのも、こんなところからであろう。ともあれ、私の調べるところにおいては、千利休と七高弟の一人で戦国時代の熱心なキリシタン大名高山右近との接触は、特別親密なものであったことは確かである。

 秀吉のキリシタン禁制令によって、右近が明石城を追放された後も、利休は茶の湯の師匠として何回も彼のために茶をもてなし、慰めている。利休は、有名なキリシタン大名の高山右近の親しい友人であり、利休の妻もクリスチャンだった。

 また時代は遡るが、いわゆる天王山の戦いのあと、天下を取った秀吉は、山崎に茶室を造ることを利休に命じた。そして利休は、何と、その茶室の杉丸太5本を右近に請願し、送られてきた丸太を非常に喜び、直ちに用いるという、利休直筆の書状が今日残されている。この一点だけでも、利休とキリシタン高山右近との密接な関係を証明するものである。

 その一つを例証しよう。京都南禅寺の庭園に入るならば、そこに「当庭から発掘されたキリシタン灯籠」と説明されて、いわゆる本物のキリシタン灯籠が立っている。一時期、キリスト教信仰は、日本の文化に大きな影響を与え、その造形美を生んだ。にもかかわらず、キリシタン弾圧により、それに関するものを所持しているだけでも処罰される恐れがあり、捨て場に困った人々が寺に持ち込み、埋蔵したのである。こういう例は、あちこちで聞かれることである。
 
 キリスト教と茶道との関わり、歴史的な事実を、痕跡さえも意図的に抹殺しようとする力が働いたので、その事実関係を明らかにすることは、まことに困難を極めている。思想においても、造形においても、キリスト教とは全く無縁のものとして、茶道はその拡がりを見せていったのである。

 以下は、まことに一般的なことであるが、キリスト教と茶道との関わりについて申し述べよう。
 先ず第一に庭である。庭園の思想は、そもそもパラダイスの思想である。勿論、仏教の理想を描いた庭園の方が一般には知られている。が、しかし、茶庭におけるいわゆる坪庭、露地は、天国に旅する求道の道である。蹲踞(つくばい)があしらわれ、その傍らに灯籠が置かれ、一人しか歩くことの出来ない飛び石が打たれる。この庭を考案したのは、キリシタン大名 古田織部である。その飛び石は、一人でしか歩めず、自らを赤裸々にして歩み、蹲って命の水によって清められ、世の光なるキリストに照らされて歩む歩みでなければならない。まさにそれは、天路歴程の姿なのだ。

 そして、である。茶室に入る折りは、躙り口を通らなければならない。入り口をたいへん低くし、へりくだってその場に入るようにした。にじり口という小さな入口を設けた。その狭い入口から入るためには、武士は刀を外さなければ長い刀が引っ掛かってしまい、中に入ることができなかった。これは千利休が考案した茶室特有の出入り口である。何とその利休考案の躙り口は、前述した山崎の妙喜庵に国宝待庵の茶室として、400年の月日を経て現存している。それはまさに、主の御言葉、「狭き門より入れ」の御教えでなくて、何であろうか。不信仰者は、利休が船頭の出入りする船の出入り口からヒントを得たと宣うが断じて否である。これは「狭い門から入りなさい」という新約聖書のことばをを思い起こさせる。『狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。』(新約聖書マタイの福音書 7:13~14)

 高山右近の高潔な品格と交わりが、秀吉に接近しつつも、真の交わりは、世にあるものをすべて捨て去らなければならないことを、利休に気付かせたのではないか。その茶室の入り口において、彼はそれを表現したのである。しかも、利休は述べている。花は野にあるごとく。なんと、主の山上の説教を彷彿とさせる言葉ではないか。そして、一椀の茶をみんなですするは、わが主の命じ給いし聖餐を暗示しているではないか。しかも、である。利休は、客をもてなす折りに、帛紗を腰につけたのである。これこそ、あの最後の晩餐の席で手ぬぐいを腰に巻いた主イエスの、しもべとなった姿を現わしている。などなど、キリスト教と茶道の関わりについて、申し述べたらキリがありませんが、紙面の都合で、ここまでと致します。

 「利休とキリスト教」参照。茶杓(ちゃしゃく=抹茶を茶碗に入れる時に使うスプーン)の研究家として茶道界でも有名な東京教育大学名誉教授の西山松之助氏は、なぜ千利休が白竹の中でも実竹を使って、それまでのものとは違う節と樋のある茶杓をつくったのか不思議に思っていた。或るとき、利休の茶杓の模造品を作り、眺め、節の横線と、それを縦に貫通しておる樋の陰が交わり、それが十字架に見えた。氏はその時、利休が茶杓に十字架を削り込むために実竹を使ったと確信したと云う。茶の湯の袱紗さばきは、教会のミサにおける聖餐式で神父がぶどう酒の器を拭く動作と非常に似ておる。回し飲みの風習も、実際に当時の宣教師たちが行なっいた。これらを利休が取り入れたことになる。 

 御三家の一人の武者小路千家第十四代家元・千宗守は、キリスト教と茶の湯の関係を講演して回ったり、カトリックの大学等の講師も勤めている。バチカンのローマ教皇とも謁見し、キリスト教と茶の湯の関係を説明したこともある。ちなみに裏千家の千宗室氏は同志社大学出身で、武者小路千家の千宗守氏は洛星中学・高等学校というミッションスクール出身である。裏千家第十六代家元・千宗室氏自身がロータリークラブの機関誌に次のように記している。
 「茶道はキリスト教と日本的なものの出会いである」、「茶室の入口近くにある「つくばい」(手と口を洗う手水鉢=ちょうずばち)は、これは禊(みそぎ)、清めのためで、キリスト教会にある聖水と同じです。さらに茶室の入口=にじり口は小さい。どんな人でも深くかがまなければ、決して入れない。武士も刀をさしたままでは中には入れない。これは武器を捨て、また頭を深くかがめる、へりくだった態度を教えるためであり、すべての人が平等であるというイエスの教えを表している」。

【利休茶道とミサの通底考】
 安部龍太郎氏の著作「信長はなぜ葬られたのか」の「ミサと茶席の不思議な共通点」(p123)を参照する。茶道のお濃茶作法はミサに倣っているのではないのか。茶席の雰囲気はミサのそれとよく似ている。他の人を寄せ付けない茶室は、ミサがそうであるように同じ信仰を持った者たちが同志的な結束を誓い合う空間に相応しい。お菓子を戴くのもミサのパン切れをいただくのに準(なぞら)えられる。皆でお濃茶を回し飲みするのも、ミサの聖杯回し授与に似ている。利休七哲の中にキリシタンやその関係者が多いことは紛れもない事実である。

【日比屋了珪(慶)(ひびやりょうけい)考】
 生没不詳。 堺の貿易商。日本人からは「リョウゴ」と呼ばれ、イエズス会総長に連署状を送った時には「了五了珪」と署名している。茶道関係文書にある「日比谷了慶」、「ヒビヤ了慶」、「比々屋了珪」などと同一人物である。

 1550(天文19)年、12月、ザビエルが京都めざし瀬戸内海を堺へ向かっていく途中、寄港した港の有力者がザビエルの貧しい姿に同情して、堺にいる友人が了慶を紹介したらしい。了慶は貿易にたずさわり、当時珍しかった瓦葺き木造三階建ての屋敷に住む大豪商であった。京都へ行ったザビエルであったが、京都は応仁の乱による戦禍で荒れ果て、思うように布教することができず、わずか11日であきらめて堺へ帰った。それから1ヶ月あまり病気で療養したザビエルを了慶は親切に世話をしたという。病気が癒えたザビエルは堺を出て平戸に戻り、再び山口で布教。領主の大内義隆に謁見、珍しい贈り物で歓心を買い布教が許されたらしい。その後ザビエルは、日本布教を確固たるものにするためには、日本文化の源・中国の布教に着手すべきとの判断から、日本滞在2年3ヶ月で中国に向かい、旅の途中、1552年志半ばで中国南部の広東において46歳で昇天した。

 1559(永禄2)年、布教のため堺にやってきたのがビレラで、了慶はこのときも布教を応援し、自分の家を教会堂とし、「南蛮寺」といわれた。1563.12月には、我が国初めてのクリスマスが南蛮寺で行われたという。了慶は自ら率先して洗礼を受け、サンチョと名乗った。その後13歳の息子も洗礼を受けてビセンテと名乗り、熱心のあまり九州・豊後へ行って宣教師トルレスの教えを受け、日本人イルマン(布教の助手)の中でももっとも優れた人物であった。娘も洗礼を受けモニカといい、十字架と聖書を四六時中手にして、みずから異教徒であるとして叔父との婚約を捨て、のちキリシタンの男性と結婚した。

 日明貿易で繁栄を誇った堺は、自分たちの力で自分たちの町を守ることを考え、周囲に堀を巡らす自治都市へと発展していく。その中心が「会合衆」(えごうしゅう)と呼ばれる36人の大商人であり了慶もその一人であった。同じ会合衆仲間の薬問屋、小西如清(じょせい)の子ペントにその娘を嫁がせて、キリスト教流の結婚式を挙げた。小西行長はペントの弟にあたる。

 ビレラの後を受け継いで、1564(永禄7)年に畿内の布教にあたったのがフロイスで、フロイスもはじめは了慶の家を会堂としていた。了慶などの熱心な信者もいたが、堺での布教はかなり困難であった。その理由は、堺の人々はその富のためにかなり傲慢であり、「天国へ行くために自分の利権と名誉を捨てなければならないなら天国など行きたくない」という現実主義者が多かったことや、宣教師が布教のため金持ちに近づき貧者を避けたこと、堺がその富ゆえに、相国寺、東福寺に眼を付けられ、仏教が浸透していた、などであるとされる。 日比屋了慶とルイス・デ・アルメイダとの逸話。
 「戦国時代、そして大航海時代の当時、日本もヨーロッパの国々の支配への触手が伸びたわけです。その先兵が例によって宣教師達だったわけですね。茶の湯に限らずキリスト教の影響は広範に渡って及んだもののようです。けれど、民度の高さに、簡単には支配の手が及ばないことを悟ったとも聞いています。下々の民衆であっても、渡来の文化に興味を示し、理解し、学習し、習得し、我が物としていく文化に脅威を覚えたのでしょうか 」。

【「利休七哲」考】
 「利休七哲」と称される人々は江岑夏書(こうしんなつがき)に初見し次のように記されている。「一番 蒲生氏郷、二番 高山右近 (南坊)、三番 細川忠興 (三斎)、四番 芝山宗綱、五番 瀬田掃部、 六番 牧村利貞、 七番 古田織部」。江岑夏書は、1663(寛文3)年、千宗旦の三男である表千家四代江岑宗左によって書かれた覚書で、父宗旦の利休茶の湯に関する談話を主に記した書となっている。
 「一番 蒲生氏郷」 蒲生氏郷(がもううじさと) 1556~1595(弘治2年~文禄4年)

  近江蒲生郡の日野城にて誕生。藤原秀郷の子孫と言われるが蒲生郡に居していたため蒲生姓を名乗った。氏郷の父、賢秀は日野城主にして、六角承禎に仕えており、信長が上洛に先立ち近江平定し、承禎を攻めた折、賢秀は降伏し、氏郷は人質として承禎から信長に差し出され岐阜に送られた。永禄12年(1569)、元服して忠三郎。妻は信長の娘の冬姫。同年、初陣により戦功があり、日野城に帰された。元亀元年(1570)には朝倉攻め。同2年(1571)、伊勢長島の合戦。同3年(1572)、長篠合戦。同6年(1575)、摂津伊丹攻め、同9年(1578)、伊賀攻め。同10年(1579)、武田攻め。文武両道に秀れ、ことにその才智は信長によく認められたという。本能寺の変では、信長の妻子を守って日野城に篭城。その後、秀吉に属し滝川一益を攻めた。秀吉にもその才を愛され、天正12年(1584)、小牧の合戦で立てた戦功により伊勢松島に封じられ12万石が与えられた。正四位下、左近衛少将。その後、紀州攻め、九州遠征。天正18年(1590)小田原に出陣後、やはり戦功により陸奥守護となり、42万石。翌19年(1591)会津黒川(若松)城にあって92万石。これは秀吉の奥州方面司令官を任されたことを意味し、伊達政宗や徳川家康の監視役であり、牽制役でもあった。元々会津を所領にしていた伊達政宗には、大崎、葛西などの一揆を煽動されて悩まされている。武勇のみならず茶の湯にも秀れ「利休七哲」に数えられ重んじられたため、利休の自刃ののち細川三斎とともに千家再興に尽力した。また、高山右近との友誼によりキリシタンに帰依しており洗礼名はレオン。朝鮮の役において秀吉とともに名護屋城に居たが、発病を得て会津に戻り、文禄4年(1595)2月7日、京において没。40歳。あまりの才気ゆえに秀吉に妬まれ毒殺されたとも石田三成と直江兼続に謀殺されたとも種説あるが、いずれも確証はない。
 二番 高山右近 (南坊)

 「高山右近(キリシタン武将)考」に記す。
 三番 細川忠興 (三斎) 細川忠興(ほそかわただおき) 1563~1645(永禄6~正保2) 戦国・江戸初期の武将。

  細川幽斎(藤孝)の子で通称を与一郎といった。三斎と号するようになったのは1619年(元和5)に家督を子忠利に譲って隠居してからである。父幽斎とともに織田信長に重んじられ丹後宮津城主となった。妻の細川ガラシアが明智光秀の娘だったという関係で1582年(天正10)の本能寺の変後、明智光秀から招かれたが、これには従わず豊臣秀吉の側に属し、以後、豊臣大名の一人として好遇された。1600年(慶長5)の関ケ原の戦いでは父幽斎とともに東軍徳川家康方に属し、そのときの軍功によって豊前小倉城主となり39万9,000石を領する。父幽斎と同様、単なる武将ではなく文化人大名としても有名で、和歌・絵画はもちろん蹴鞠・乱舞をはじめ有職故実(ゆうそくこじつ)にも通じていた。茶の湯は千利休に学び利休門下七哲の一人に数えられるほどであった。著書に『細川三斎茶書』がある。
 四番 芝山宗綱

 芝山宗綱 監物丞、利休七哲の一人。桃山時代の武人で、織田信長、豊臣秀吉に仕えた。
 五番 瀬田掃部 瀬田掃部(せたかもん) ?~1595 名は正忠。従五位下掃部頭。

 近江の出身とされるが武士として北条氏に仕え、後に豊臣秀吉に仕えた。茶の湯を千利休から学び大成する。高麗茶碗を愛用したことで知られている。豊臣秀次の一連の騒動に巻き込まれ処刑された。掃部形と称される大きな櫂先の茶杓を好んだことで知られる。お皿のように浅い高麗茶碗を持っていたが、水の取り扱いや茶筅をすすぐときなどとても難しいものであった。しかし、あまりにみごとなお茶碗なので、利休に銘をたのみ、ついた名前が『水海』。そして持ち主の瀬田と琵琶湖にかかる瀬田の唐橋とをかけて"勢多"と名付けられた茶杓を添えたと云われる。彼は、普通の人なら使わない大きな平茶碗を茶に使い、さらにさらし茶巾という、客の前で水音さわやかに茶巾を絞る点前をやって見せた。利休もその点前に感心し大いに認めることとなった。
 六番 牧村利貞 牧村利貞(まきむらとしさだ) ?~1593(文禄2)兵部大輔。名を政治・政吉・高虎・正春ともいう。

 稲葉一鉄の庶長子重通の子で、外祖父牧村政倫の名跡を継ぐ。はじめ織田信長に仕え、紀伊雑賀攻めなどに従軍。本能寺の変後は豊臣秀吉に属して小牧・長久手・九州の諸戦に参加した。1584年、高山右近の勧めでキリスト教徒となり、自らも説教を行い蒲生氏郷を改宗させた。また利貞は利休七哲の一人に数えられる高名な茶人でもあり、信長在世中から多くの茶会に名を連ね、ユガミ茶碗と呼ばれる変形茶碗を世に広めたことでも知られる。小田原平定後の1590年、伊勢国多岐・度会2郡内で2万600石を与えられ岩出城主となる。1592年、文禄の役が起こると石田三成とともに舟奉行として渡海するが、1593年7月2日に戦死。嗣子兵丸幼少のため、遺領は弟の稲葉道通が相続した。道通はのち関ヶ原の戦いで東軍に属し、戦後加増され同国田丸4万5700石に移封されたが、15歳になった兵丸が遺領の返還を求めると刺客を放ってこれを暗殺したという。なお道通の稲葉家は、子の紀通が1648年に発狂して自害したため廃絶となっている。
 七番 古田織部 古田織部(ふるたおりべ)1544~1615(天文13~元和1)

 利休なきあと茶の湯名人として織部流の武家茶道を確立した安土・桃山時代の茶人・大名。美濃の古田重定の子。信長・秀吉に仕え1585年(天正13),従五位下織部正に任ぜられ,織部と称されるようになる。小牧の合戦・九州平定などでの働きがあり,京都西岡で3万5,000石を領する。茶道に近づき千利休に学んで利休高弟七哲の一人となる。師の没後、一流をなし古織流・織部流をなのった。2代将軍秀忠を教え、諸大名にも茶の湯を伝授。茶室や庭園にかかわる織部灯籠の創案者でもある。関ケ原合戦では家康方に属したが、元和元年の大坂の合戦では豊臣方に内通したとの嫌疑をうけ自刃させられた。73歳であった。織部流のその後は古田斎宮を称し4世までつづく。織部の教えをうけた織部系の人物としては遠州流の小堀政一、近世を通じ系統を維持した清水道閑、本阿弥光悦がいる。また織部が瀬戸で造らせた茶器を織部焼という。

 平成24年4月11日、龍興山南宗寺塔頭 天慶院「山上宗二忌」法要セミナーでの前田秀一「キリシタン受容の構図」を転載しておく。
 はじめに

 「その比(ころ)、天下に御茶湯仕らざる者は人非仁に等し。諸大名は申すに及ばず、下々洛中洛外、南都、堺、悉く町人以下まで、御茶湯を望む。その中に御茶湯の上手ならびに名物所持の者は、京、堺の町人等も大和大名に等しく御下知を下され、ならびに御茶湯座敷へ召され、御咄(はな)しの人数に加えらる。この儀によって、町人等、なお、名物を所持す」。

 天正16年(1588)、山上宗二(1544~1590)は師と仰ぐ千利休(1522~1591)の秘伝を書き留めた『山上宗二記』の中で、16世紀の茶の湯の流行の様子をこのように記した。「数寄の覚悟は禅宗を全と用うべきなり」、「惣別、茶湯風体、禅宗よりなるにより出で、悉く学ぶ」と書き、大徳寺の伝統を伝える南宗寺に集う茶人たちの規範となっていた。
 十六世紀という時代の背景は、応仁・文明の乱(1467~1477年)後の世相を引きずって、まだ、戦乱の絶えない激しい群雄割拠の世相にあり、そのような中、天文19年(1550)12月イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエル(日本滞在:1549~1551)によりキリスト教という異文明が衝撃的に堺の港に上陸した。

 イエズス会宣教師ジョアン・ロドリ-ゲス(日本滞在:1577~1610)は「数寄と呼ばれるこの新しい茶の湯の様式は、有名で富裕な堺の都市にはじまった。その都市は日本最大の市場で、最も商取引の盛んな土地であり、きわめて強力なので、以前には、信長および太閤までの時代には、日本の宮都と同じように、長年の間、外部からの支配を認めない国家のように統治されていて、そこはすこぶる富裕で生活に不自由しない市民やきわめて高貴な人たちが住んでいる。彼らは相次ぐ戦乱のために各地からそこに避難して来ていた。その都市で資産を有している者は、大がかりに茶の湯に傾倒していた。また日本国中はもとより、さらに国外にまで及んでいた商取引によって、東山殿のものは別として、その都市には茶の湯の最高の道具があった。」と、日本の茶の湯の文化をヨーロッパに詳細に紹介した。
 日本人キリシタンの柱石で、有能な戦国大名でもあった高山右近は、禅宗の一様式と言われた茶の湯をたしなみ、千利休の高弟七人のうち2番目に数えられるほど茶の湯の世界に受け入れられた。その後、牧村長兵衛、蒲生氏郷および織田有楽など利休七哲に数えられた茶人で大名でもある3人が洗礼を受けキリシタンになった。

 十六世紀、世界的な大航海時代の潮流の中で、日本文化の規範である茶の湯が戦国時代の混乱期に異質なキリスト教文明とどのように向き合い受け止めていったのか、茶の湯文化の側面から茶の湯に関する史料として評価の高い『天王寺屋會記』とイエズス会宣教師報告書にキリシタン受容の構図を追ってみた。

 『天王寺屋會記』の書き出しは天文17年(1548年)12月に始まり、その翌天文18年(1549)6月24日、三好長慶が「江口の戦い」(現の大阪市東淀川区)で仇敵・三好政長を倒し三好政権を樹立した。さらに、ほぼ時を同じくして天文19年(1550)12月上旬、キリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルが都を目指して堺に上陸した。

 五畿内におけるキリシタン受容の背景

 『天王寺屋會記』は、元亀年間(1570~1573年8月)以前の三好政権時代に続き、天正年間(1573~1593年)の織田・豊臣政権時代に大別され、キリスト教の到来による茶の湯におけるキリシタンの軌跡を記録していた。

 三好長慶に始まった三好政権は、管領を前提としない武家政権として成立し(1549年)、流通経路の要所を押さえる地域型の政治を行い、堺商人を茶の湯を活かし西国大名に対する外交政策の担い手と位置付けた。堺に三好一族の宗廟として大徳寺派の伝統を受け継ぐ南宗寺を建立し、茶の湯大成の拠点となった。

 都を目指したキリシタン宣教師の上陸地となった堺の港近くに住む堺商人・日比屋了珪は、キリシタン宣教師の活動拠点として自宅を提供し(1561年)、献身的な支援の一方、自宅にもつていた茶室を通して茶の湯の文化が堺で大成し、日本の武将や商人など富裕層の多くの交流の場として活かされていることを伝えた。

 宣教師が堺に滞在中、多くの人が聴聞に訪れたが、「その人たちはいずれも他郷の人たちで、堺の住民ではなかった。(堺の住民は)思いのままに悪習に(耽っており)倣慢不遜であって、主なるデウスが(恩寵という)宝を授け給うにまったく値せず、また(彼らはそれに与れるだけの)能力もなかった」と宣教師の間では堺の住民に対する評価は悪かった。

 三好政権の政治戦略で摂津国および河内国が栄え、河内国では最高の権力者の一人松永弾正久秀(霜台)の有能な家臣・結城山城守進斎忠正と外記(太政官)・清原枝賢がヴィレラの説教を聴き洗礼を受けてキリシタンになったのが大きな反響を与え、飯盛山、岡山、三箇、砂、若江など河内国の武将や住民の多くが洗礼を受けキリシタンになった。この時、松永弾正久秀の命により沢城主になっていた高山厨書も当時12歳であった高山右近を含め家族ともども洗礼を受けキリシタンとなった(1564年)。最盛期には、河内国および摂津国のキリシタンは4万人に達した。

 織田政権も同じく、交易拠点の支配に重点を置き、安土や摂津を重要拠点として国づくりを行った。織田信長は、茶の湯を政道と位置付け武将に対して許可制にした。茶道具狩りをおこなって名物を一個一城の知行同等と価値づけ権力に結び付けた。

 1573年、織田政権下で政治的に重要拠点である高槻城主となった高山右近は、主従関係にあった摂津国主・荒木村重から茶の湯の手ほどきをうけ千利休を紹介され師事した(1577年)。織田信長からは荒木村重に続いて茶の湯を許された。

 高山右近は、荒木村重が織田信長に対して謀反を計画した時、家族を人質に出してまで引きとめにかかったが失敗に終わった。意を決し自ら高槻城主を辞して信長の勧告を受け入れ、単独で織田信長のもとに下りキリシタン宣教師や信者を救済する道を選択した。神仏を否定し、キリシタンに関心を持って布教に理解を示していた織田信長は高山右近の行動を高く評価し、荒木村重討伐後、再び高山右近を高槻城主に安堵した。

 豊臣秀吉は、織田政権時代の茶湯政道を引き継ぎ、特に千利休を重用して茶の湯を大成させた。日本は神仏の国であるとの考えからキリシタンは悪魔の教えを説くと危険視し伴天連追放令(1587年)を発して迫害した。
 茶の湯におけるキリシタンの受容

 キリシタンが、茶の湯の見聞録をイエズス会に報告したのは1565年10月25日付ルイス・デ・アルメイダ発信書簡が初見で、厳冬期の長旅による病気療養で25日間世話になった日比屋了珪の茶室における体験についてであった。フロイスは、永禄12年(1569)3月11日、上洛した織田信長に拝謁するために都へ赴く途中、ソーイ・アンタンという最初に都で改宗した名望あるキリシタンの家で賓客として茶室に泊められ体験した。

 アルメイダとフロイスは、茶の湯に出会った機会は異なったが共に茶室を清浄で地上の安らぎを与える場であることを認めた。とりわけ司祭の資格を有するフロイスにとっては、茶室はキリシタンを集めミサ聖祭を捧げるに足る神聖な場所であった。

 ヴァリニャーノは、五畿内巡察の後、安土滞在中に「日本の風習と形儀に関する注意と助言」を著し、その中で日比屋了珪から得た情報をもとに茶の湯について触れ、日本では茶の湯が身分の高い領主たちに最も尊敬され、客に対する愛情と歓待を示す作法であることおよび領主たちが自ら茶を点てるために茶の湯を習っていることに注目した。

 さらに、ヨーロッパ人と日本人イエズス会員の融和、ならびに聖職者と世俗の人々との円滑な交流のための心得を説き、日本でイエズス会員が修道院や教会を建築する際には、「日本の大工により日本風に建築されるべきであること、階下には縁側がついた二室からなる座敷を設け、そのうち一室は茶室にあてるがよい」と記した。その成果は、織田信長自らが安土城のおひざ元に土地を手当し、高山右近の献身的な尽力もあって茶室を有する立派なセミナリヨ(神学校)として実現した。

 高山右近は、天正2年(1574)日本布教長フランシスコ・カブラルから教理の再教育を受けてキリシタンに目覚め、自ら卓抜な説教者となり多くの人々を改宗しキリシタンに導いた。

 高山右近は、茶の湯を禅宗の一様式としてではなく芸道としてとらえ、この道に身を投じてその目的を真実に貫く者には数寄が道徳と隠遁のために大きな助けとかると悟り、日ごろ付き合いのあった利休の高弟7人衆(利休七哲)に機会あるごとにキリシタンの教えを聞かせ、牧村長兵衛をはじめ蒲生氏郷、織田有楽など多くの茶人をキリシタンに導いた。

 しばしば、隠遁の境遇を求めたいと願ったが、領主の身分を維持してキリシタンの支柱となり五畿内のキリシタン宗団を守り通してゆく責任感を強くし、信仰がより堅くなるよう教育し、激励する立場が必要と考え率先した。高山右近が本格的に茶の湯に没頭したのは、関白秀吉が伴天連追放令を発し改易(所領、地位没収)された後、天正16年(1588)、豊臣秀長など多くの貴人からの嘆願により五畿内以外の地での行動の自由を許され、加賀藩・前田利家に茶匠・南坊(南之坊)として迎えられてからであった。それは慶長19年(1614)、徳川家康が発した伴天連国外追放令によりフィリピンへ亡命するまでの約26年間であった。
 まとめ -「芸道」としての茶の湯、キリシタンの受容について

 キリスト教宣教師は、日本の社会支配の重要な位置づけにある有力者が茶の湯を尊敬し、生活文化の規範としていることを発見した。日比屋了珪は、都を目指して堺の港に上陸したキリシタン宣教師に帰依し、自らも洗礼を受けてキリスト教信者となり献身的に布教活動を支え、生活文化としての茶の湯を伝える役目を果たした。

 一方、高槻城主となった高山右近は、1573年、主従関係にあった摂津国主・荒木村重から茶の湯の手ほどきを受け、千利休を紹介され師事した。1574年、日本布教長カブラルからキリスト教教理を再教育され、あらためてキリスト教に目覚め、自ら卓抜な説教者となり五畿内キリシタンの柱石となった。

 キリシタンとして偶像崇拝を認めない高山右近は、禅宗の一様式としてではなく茶の湯を「精神を浄化し、救霊を成就する芸道」と受け止めた。つまり、仏教に通じる「禅」(座禅)の精神としてではなく、デウスの導きを深め、すがるための体験的な「道」としての時空間(市中の山居)と位置付けた。

 従って、高山右近は、ときおりキリシタン宣教師に「この道(キリスト教信仰)に身を投じてその目的を真実に貫く者には、数寄が道徳と隠遁のために大きな助けとなるとわかった」と言い、また、「デウスにすがるために一つの肖像をかの小屋(茶室)に置いてデウスにすがるために落ち着いて隠退することができた」(ジョアン・ロドリ-ゲス『日本教会史』、p.638)と語り、茶の湯がキリシタンにとっても相入れ合う様式(文化)であることを伝え、日本巡察師ヴァリニャーノに「礼法指針」への茶室の折り込みを促した。

 キリシタンは、茶の湯を『山上宗二記』に述べられた「禅宗」の一様式としてではなく、心をかたちにする「禅」の一様式として、すなわち「数寄の覚悟は“禅”を全と用うべきなり」、「惣別、茶湯風体、“禅”よりなるにより出で、悉く学ぶ」と受け止めていたと考察する。
詳論目次
  1.『天王寺屋會記』に見る茶湯政道 
    1)三好政権下、『天王寺屋會記』に見る武将の記録 (表‐1)
    2)織田・豊臣政権下、『天王寺屋會記』に見る武将の記録 (表-2)
  2.五畿内におけるキリシタンの受容(表-3)
    1)五畿内におけるキリスト教布教の足掛かり 
      (1)フランシスコ・ザビエルの野望と挫折 
      (2)ガスパル・ヴィレラの再挑戦 
      (3)商都・堺での捲土重来-日比屋了珪の献身 
    2)三好政権下、河内国の武将たちのキリシタン受容 
      (1)三好政権の国づくり 
      (2)飯盛山、岡山、三箇、砂、多聞山、沢地域の受容
    3)織田信長のキリシタン受容 
      (1)織田信長の宗教観 
      (2)織田信長のキリシタンへの関心 
      (3)安土セミナリオ(神学校)建設 
  3.キリシタンの「茶の湯」文化の発見
    1)ルイス・デ・アルメイダの見聞報告
    2)ルイス・フロイスの見聞報告
    3)巡察師 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ「礼法指針」
  4.利休七哲 キリシタン大名・高山右近の生きざま
    1)高槻城主・高山右近へのキリスト教理再教育
    2)高山右近の茶の湯 
    3)伴天連追放令 高山右近の改易(領地・地位没収)
  5.茶の湯とキリシタンの受容
  6.註(引用文献)および参考文献







(私論.私見)